ピラカンサ の山 9 月 4 週
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○自由な題名
★清書(せいしょ)
○本当のことを言えば
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本当のことを言えば、客観が主観と独立だなんてことはない。もちろん、自然は我々人間の存在を抜きにしても存在することは間違いあるまい。だから、自然そのものを客観であると考えれば、客観は我々の存在と独立に存在する。しかし、そんな客観では、いかなる公共性も持ち得ない。なぜならば、公共性を持つためには他人に伝達する必要があり、伝達するためにはとりあえず記述する必要があるからだ。記述するのは、個々の主観である。だから、公共性を持った客観が主観から独立しているということはあり得ないのだ。
科学論文にはありのままの事実が書いてあると思っている人が多いけれども、実はここにあるのは事実ではなく記述である。たとえば、科学者がある実験をしたとする。ありのままの事実であるならば、実験をビデオに撮ってみんなに見せればよい。しかし、そんなものは科学者仲間から決して業績とは認められないだろう。科学論文と認められるためには、実験から有意味であると科学者仲間が認めるものを選びとって記述しなければならないのである。だから科学における客観的記述と称するものは事実そのものではない。
客観というのは、ゆえに、事実から記述をなす時の、科学者仲間の約束ごとに支えられて成立しているのであり、この約束ごとは後にパラダイムという名で呼ばれるようになるのだが、そういうこととは無関係に、今でも、ほとんどの科学者は、記述は約束ごとではなく、事実であるゆえに客観的だと信じているらしいのだ。
先に、科学が歴史上初めて、客観というやり方で公共性を担保した制度だと書いたけれども、この公共性も、実は法律と同じような単なる約束ごとであったわけだ。(中略)
さて、このようにして記述する自分を棚あげしてしまえば、自然の中にはだれが記述しても同一のものがある、とのデカルト的信念は確固たるものとなる。たとえば、目の前の物体が、きれいであるか気持ち悪いか、いかがわしいか、といった記述は、記述する人の主観によって違う。しかし、重さが何グラムであるとか、長さが何メートルであるとかは、記述する人の主観によって左右されることはない。これぞ、客観であるというわけだ。∵
何でもよいから、測定して数量化すれば科学的データになるとの信仰はここからくる。逆に言えば、数量化できにくい現象は、科学になりにくいのだ。たとえば、明るいとか暗いとかの記述は、科学的な記述とはみなされないが、照度何ルクスと書けば、たちまち科学的データになるわけだ。
物理学が十九世紀から二十世紀の半ばにかけて、科学の最先端を走っているように見えたのは、ゆえないことではないのだ。物理学は最も数量化しやすい分野だからである。
もう一つ、数値と並んでだれが記述しても同じものがある。それは、自然の中に存在する不変の実体である。もし、そういうものがあって、それに名前をつけることができれば、名前(記述)はだれにとっても同じものを指示するに違いない。数値は不変といっても抽象的なものであるが、実体は具体的な物である。客観を重視した科学は、自然の中にある不変の実体を探す試みという面を強く持つようになる。これは素粒子論におけるクオーク(陽子や中性子の構成要素)や超ひも(すべての物質の究極の構成要素として仮想されている最終実体)に続く道となる。
さて、以上述べてきたような、客観的なるものによって理論を構築すれば、理論そのものが客観的になるのは論をまたない。このようにして、科学の理論はその中から「神」や「霊魂」や「主観」を抜いて公共性を獲得したのだ。客観的な理論は、原則的にはだれにも理解でき、その正否が何らかの実験によって、確かめられるものとなったのである。もちろん理論には内部矛盾があってはならず理論的整合的であることが求められる。
(池田清彦『科学とオカルト』より)