フジ の山 10 月 4 週
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◎自由な題名
★清書(せいしょ)
○求めよ、さらば開かれん
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求めよ、さらば開かれん
ネコやイヌがドアの前でしきりに鳴くとき、ぼくらは彼らが「開けてくれ」といっているのだと理解する。ところがものをむずかしく考える人がたくさんいて、そのような理解は正しくないと教えてくれるのである。
たとえば、言語学者のレーヴェスという人は、「イヌは開けてくれといって吠えるのではなく、閉じこめられているから吠えるのである」といった。どうやら彼は、ある表現によって未来のことを支配しようとするのは、人間においてこそ可能なのであって、イヌやネコのような動物にはそんなことはできない、彼らにできるのは現状の報告だけである、と考えていたらしい。
これは、一時かなりの説得力をもったいいかたであって、ぼくもそうかなと思ったことがある。
けれど、動物行動学者のローレンツはこういうことをいっている――のどのかわいたイヌが水道の蛇口に前足をかけて、ワンワン鳴いているとき、それは人間の言語にかなり近いことをやっているのだ、と。つまりこのイヌは、疑いもなく、「早く蛇口をひねって、水を飲ませてくれ」といっているのだ。
ドアの前でネコが鳴くのも、それとまったく同じである。とくに、彼らがトイレにいきたいとか、子どもが先に外へ出てしまってすごく心配であるとかいう切羽つまった情況で、ぼくらの顔をじっと見ながら、ニャア……と鳴くとき、それはレーヴェスよりローレンツのいったことにはるかに近いだろう。
パンダの発明
ただ鳴いて「開けてくれ」とたのむだけでない。オスネコのパンダはもっとおもしろいことを発明した。
つまり彼は、人間のやっていることをつぶさに観察して、ドアを開けるとき人間たちは必ずノブにさわっている、ということを発見したのである。ここから彼はこういう解釈をした――したがって、ドアを開けたいときは、ドアのノブにさわればよい。
そこで彼は、部屋から外へ出たいとき、後足で立ちあがり、体と∵前足を思いきり伸ばして、前足の先でノブにさわることを始めた。
おもしろいことに、そのときはほとんどの場合、無言である。ひょこひょこっとドアの前へ走っていって、ひょいと立ちあがり、ノブに前足をふれるのだ。
それを見てぼくらはすぐドアを開けてやるから、パンダは自分の発明にすっかり自信をもってしまった。一日何回でも、開けてほしいときは必ずこれをやる。(中略)
ところが、これがほんとうにノブというものの働きを理解した上での行動であるかどうか、いささかわからなくなるような場合もある。
パンダが外へ出かけていって、庭から帰ってきたことがあった。食堂にぼくらがいるのを見て、パンダは入れてくれという表情をした。そして、ガラス戸に手をかけて立ちあがったのである。
三枚引きのガラス戸には、もちろんノブはない。かぎはあるが、外側からは何も見えない。その何もないところへパンダは前足をかけたのである。もちろん、ガラスの部分でなく、かぎのあるべき木枠のところにである。ただ、その高さはドアのノブと同じだった。けれどこれも、ちょうど全身を伸ばしてとどく高さだから、たまたま一致しただけである。そのときパンダは地面から体を伸ばしたのだから、内側にかぎや引き手のあるところよりは、ずっと低い位置に足をかけたことになる。
だとすると、パンダにとっては、ノブがあってもなくても、体を思いきり伸ばして前足でさわれば、それが開けてもらえるという認識しかなかったのかもしれない。ノブが云々という理解はなかったのではないか?
人間以外の動物を人間的に理解すること、つまり擬人主義をきらう人は、このような解釈をよしとする。
けれど、人間だって、たとえば横断歩道を渡るときには手を上げて、などと教わると、鉄道の踏切を渡るときも手を上げてゆく人がいるのだから、似たようなものではないだろうか。
(日高敏隆「ネコたちをめぐる世界」)