ツゲ2 の山 10 月 4 週
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◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○左右に偏らず(感)
 【1】左右に偏らず、目指す地点に近づくことは大事なことである。しかし、私たちは黒白どちらかに行き過ぎることが多い。働くといえば働きっぱなし、休むといえばゆるみっぱなしになりがちなのが人間というものらしい。【2】酒は百薬の長、などという。いい加減にたしなめば心身にいい影響があることはたしかだ。しかし、どこをもってその理想的な地点とするのか。ここに一般的な基準はないと私は思う。私は宇宙天地の間に、ただ一人の私なのだ。【3】同じ人間は地球上にいない。そうとなれば、私個人の基準をさがし、それを目標にするしかない。日々の労働の場においては、そこまで個人を主張できるわけではない。私たちは共通の規則にしたがわなければ暮らしていけないのだ。【4】しかし、自分の休日は、自分でやりたいことをやる。ほかの人から見てばかばかしいと思われようが、無駄だと笑われようが、そこは個人の世界である。
 薬の使用書などを読むと、十三歳以下はこれこれ、大人はこれこれ、と使用量が指定されている。【5】しかし、現実には四十キロの体重に満たない大人の女性もいれば、百キロ以上の重い人もいる。二十歳の青年もいれば、八十歳をすぎた老人もいる。胃腸の丈夫な人もいれば、すぐに調子を悪くするタイプもいる。【6】アレルギー体質の人も、病みあがりの人も、すべて大人ということでくくってしまう共通の世界だ。使用にあたっては医師の指示を受けて、などと書いてあるが、薬局で一般的な売薬を買ってくる人で、いちいち医師に相談する人がいるだろうか。
 【7】そこでは私たちは人間一般として取り扱われているのだ。社会とはそういうものだ。私たちは一個の個人としてではなく、多数の類似品のひとつと見なされるのである。
 こうなれば、せめて自分の休日ぐらいは、世界でただ一人の自己と向きあいたい。【8】自分は一体どういう人間なのか、体や心はどのように他人とちがうか、そこを見極めることからはじめて、自分だ∵けの遊び方をさがすことだ。そのとき、世界のなかの私ではなくて、私ひとりの世界が見えてくる。【9】ちゃんと体を洗う、ということでさえも楽しく遊ぶことはできる。休日の一日、断食してみるという遊び方もある。読めるけれども書けない漢字を十個ほどリストアップして、一日かかってぜんぶ書けるようにする、という遊びもある。【0】自分の生まれた年に、なにがあり、どんな人がいたかを調べて遊ぶこともできる。私は昭和七年、一九三二年の生まれだが、その年の流行語とか、その年に発表された作品とかを拾い集めて遊んだことがあった。昭和七年には、例えば俳句では、中村汀女(ていじょ)の「さみだれや 船がおくる電話など」という句が作られており、杉田久女が『花衣(はなごろも)』を創刊、「ぬかづけば われも善女や仏生会(ぶっしょうえ)」などという句を発表している。流行語には「生まれてはみたけれど」などという文句があった。
 そんなことのどこがおもしろいのか、ときかれれば頭をかくしかない。しかし、ほかの人にとって意味のないことこそ、自分にとっては大事なのだ。世間一般ではなく、自分の世界をつくりだすこと、これが私の頭休めであり、格好よくいえば知の休日でもあった。とりあえず、こんな休日をつみ重ねて、私は六十七歳の今日まで、何とか生きながらえてきた。こんどひまができたら何をしようか、と、いつも楽しみながら暮らしている。歳を重ねるごとに一年が早くすぎてゆく、とは、よく耳にすることだ。たしかに時間が矢のようにとび去っていく感じがある。しかし、ちゃんと退屈することができたとき、時間はゆるやかに流れはじめるのだ。さて、なにをしてきょう一日をすごそうか、と考えるときは、すでにもう世間の時間ではなく、自分の時間に変りはじめているのである。時間を自分のリズムにすることこそ、この忙しい人生をたっぷり生きるための秘訣ではないだろうか。

(五木寛之「知の休日」(集英社新書)による)