ユーカリ の山 10 月 4 週
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◎自由な題名
★清書(せいしょ)
○都会にはむろんのこと
◆
▲
都会にはむろんのこと、日本の町々には、ある大切な要素が欠けている。
―沈黙である。静寂である。
(中略)
わが屋戸(やど)のいささ群竹(むらたけ)吹く風の
音のかそけきこの夕べかも
夕風にそよいで、かすかな葉ずれの音をたてている群竹。作者の大伴家持は、その静寂にじっと耳を傾けている。このような、かそけき音にひかれる心の姿というものこそ日本人特有の姿だった。古池に飛び込む蛙(かわず)の音、ほかの国の人たちが聞いても、おそらくなんの感興(かんきょう)もおこさないであろうような、そのような音を、日本人が何世代にもわたって味わい続けてきたのは、それが「音」だったからではない。「静けさ」だったからなのだ。全山に降る蝉しぐれ、岩にしみ入るようなその蝉の声に芭蕉は耳をとられ、そして、その一句に「閑(しず)かさや」という適切な初語を置いた。
静かさというものは、音のない状態をいうのではない。音が音として、くっきり浮かび上がる、そのような空間と時間をさすのである。音は「静寂」というカンバスに描かれて、初めて「音」になるのであり、同様に静かさというものは、そこに音がくっきりと浮かび上がることによって「静寂」となる。
湯のたぎる音が茶室の静寂をささえ、懸樋(かけひ)の水音が庭の閑寂をいっそう深いものにする。かぼそい虫の声が秋の夜の静けさを呼び、炭火のはじける音が冬の午後の沈黙を生む。こうした「音」と「静寂」のこよなき調和の場こそ、日本人の愛した生活の空間であり、暮らしの時間だった。
だが、「文明」が進み、「文化」が発展するのと歩調を合わせて、静寂は私たちから、反対に遠ざかってしまった。日本の都会の、日本の町々のどこに、「群竹のかそけき音」を耳にしうる場所があろうか。ほんのわずかでも、ほんのいっときでも、静かに思いにふけることのできる空間や時間が、都会の、町々のどこに残されているというのか。
全く逆なのである。私たちの文明とは、静寂を騒音に変えるこ∵とだったのであり、私たちの文化とは、「かそけき音」を拡声器でただやたらに増幅することだったのだ。
日本の町々には、便利さのための、ありとあらゆる施設が造られている。そして、これからも造られようとしている。たった一つ、「静寂の空間」を除いて。
現代の日本の文明は、静寂だけはつくりだすことができないのである。いや、つくりだせないのではなく、つくりだそうと思わないのだ。静寂な空間とは、空白な空間であり、むだな空間だと思っているからである。自然は真空をきらうというが、現代の日本人は沈黙をきらう。きらうのではなくて、恐れているのだ。だから、少しでも、静寂の場所があれば、あわててそこを騒音でふさごうとする。
武器は拡声器である。駅でも、交差点でも、公園でも、横丁でも、喫茶店でも、ホテルのロビーでも、大学の構内でも、寺院でさえ、今や騒音なしには存在しえない。岩にまでしみ込むほどの「閑(しず)かさ」の力を、日本の社会は、とうとう文明によって追放してしまった。そして、人々を沈黙の恐怖から救い出し、静寂の不安から連れ出した。
さあ、もう安心するがいい。どこにいても、騒音が付き添っている。どうだ、寂しくないだろう……。
こうして、人々は、騒音に取り巻かれ、その中で安心して憩い、眠る。
しかし、これほど夢中になって音を製造したにもかかわらず、私たちは、実は何一つ「音」を聞いていないのである。聞こうにも、聞くことができないのだ。私たちのまわりに、いったい、生活のどんな音があるというのか。
折にふれ、人々は、夜明けとともに聞こえてきた納豆売りの声、夕べとともに響いた豆腐屋のラッパの音を懐かしむ。だがそれは、実をいうと、物売りの声やラッパの音そのものを懐かしんでいるのはなく、そうした生活の音をしみじみと聞くことができた「静かさ」への郷愁なのである。現に、それに代わる生活の音なら、今∵だってまわりにたくさんあるではないか。けれど、私たちには、もうそれが聞こえない。なぜなら、音の一つ一つが、くっきりと浮かび上がってくるような静かな空間、沈黙の時間を捨ててしまったからだ。そして、すべての音を、「文化」の名のもとに、単なる騒音につくり変えてしまったからである。
島根県の山あい、津和野の町で、私は久しぶりに忘れていた「音」を聞いた。それは、町のいたるところを流れる用水のささやきだった。
この町には、九千人という人口の十倍もの鯉が放されているのだ。
夜、八時、私は宿を出た。祇園町を通り、新町通りを抜け、殿町を過ぎ、大橋を渡った。どこを歩いても、足もとに用水の鳴る音がついてきた。それはまさしく津和野の町の音だった。
三百年来、この町の人たちは鯉を飼ってきた。「食べない、捕らない、殺さない。」といって。だが、人々はただ鯉をだいじにしたのではない。鯉をだいじにすることによって、この用水の音を大切にしてきたのだ。水の「声」に耳を傾けることのできる静かさを。
大橋に立って、私は改めて思う。
日本の暮らしのなかで、どんな「かそけき」音でも聞くことができ、それに耳を傾けることができる。そのような空間をつくること、そのような時間をもつこと、これこそが本当の文化、本当の生活なのではなかろうか、と。
(森本哲朗「日本のたたずまい」)