フジ の山 11 月 4 週
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◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○僕は一度だけ
 僕は一度だけ塾に通ったことがある。
 小学校の六年生から中学の一年生の春までの間で、場所は北海道の帯広だった。塾の名前は正式の名称があったはずだが、今や覚えているのは狸塾という通称のほうだけだ。(別名ぽんぽこ塾と呼ばれていた)何故その塾に通いだしたのかは忘れてしまった。多分同級生がそこへ通っていたからだろう。あの頃、僕には三人の仲間がいた。
 ありもり、おのだ、まなべ、の三人である。僕を含めて四人は学校が終わると毎日自転車をとばして塾へ通うのだった。雨の日も風の日も僕らは自転車でそこへ通っていた。競争するように競って、びゅんびゅん風を切って走っていたのである。
 そうだ、今思い出した。僕がそこへ彼らと通うようになったのには、ちょっとした理由があったのだ。同じクラスのあやべさんという女の子がやはり通っていたからだ。僕は彼女のことがきっと好きだったのである。どうもまだ愛とか恋とかその手の感情に鈍感な時期だったので、あれがそういう感情のものだったかどうかちょっと自信がないのだが、授業中彼女のきりりとした横顔を見るのがすきだったことは確かだった。その横顔をもっと見たくて勉強の嫌いな僕は塾通いを決心したのである。あやべさんは帯広の大きな病院の令嬢で、ゴトウクミコにまさるともおとらない美形(いや、これは信じて頂くしかないのだが)な才女だったのだ。学校では当然人気者で、僕(ぼく)などそうやすやすと近づくことさえできなかったのである。だから、僕は彼女と同じ塾へ通うことにしたのだ。(中略)
 僕らは塾帰りに、途中の国道沿いの雑貨屋で肉饅(にくまん)を買って食べる習慣があった。季節が変わり寒くなりはじめると湯気の昇る肉饅を食べることが凄(すご)く楽しみになるのだ。北海道の夜空は星が高く、きらきらと散りばめるように灯っていて吸い込まれそうだった。僕らは肉饅を口いっぱいにほおばりながら、その神秘的な輝きを見∵つけていた。大きな星空を見ていると、自分たちの存在の小ささに気を失いそうになった。
 僕らは微妙な年頃であった。恋を知り、物事をわきまえ始める年齢であったのだ。
「なあ、ニック。君は誰か好きな女の子はいるのかい」
 ジョンは缶コーヒーを啜(すす)りながらそういった。
 僕は思わず食べていた肉饅が喉に詰まりそうになって、一度咳払いをするのだった。
「なんだよジョン、いきなりそんなことききやがって」
(帯広はあまり方言らしい方言がなく、殆(ほとん)ど標準語であった。それから僕らの年齢の子供たちはテレビの影響もあって、東京風の言葉を使うのがかっこいいとされていたのである。僕は直ぐに土地の言葉や習慣になれる才能を持っていたのだ。それがないと転校生は余所(よそ)の土地では生き残ってはいけないからだ)
「お、顔が赤いぞ。さては図星君だな」
 ジョンがそういって僕の肩を叩くので、僕は思わず目を伏せてしまった。
「だれだよ、ニックは誰が好きなんだ」
 ロバーツが煽(あお)る。
「ひゅー、ひゅー」
 サムはポケットに手を突っ込んだままマフラーに首を竦(すく)めて僕を冷やかした。(中略)
 僕は夜空を見上げた。星の瞬きがキャサリンのウインクのようで胸がときめいていた。沢山の初恋を経験していたが、多分あのときの感情が僕の本当の恋の第一歩ではなかったかと思うのだ。胸がときめくということを知ったのはまず間違いなく(断言はできないが)キャサリンが最初の女性であった。

(辻仁成「キャサリンの横顔」)