ズミ の山 11 月 4 週
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◎自由な題名
★清書(せいしょ)
○徳川家康自身は
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徳川家康自身は、戦国武将の常として、漢詩文の読み書きはできなかった。しかし彼は、「漢文の力」をよく理解していた。
家康が「漢文の力」を実感した最初の契機は、一五七二年の三方ケ原の合戦であった。若き日の家康は、「孫子の兵法」に精通した武田信玄と交戦し、生涯最大の大敗を喫した。武田家の滅亡後、家康は武田家の遺臣を多く召し抱え、信玄の兵法や軍略を研究させた。
(中略)
日本史上、「漢文の力」を活用して日本人の思想改造に成功した統治者は、聖徳太子と徳川家康の二人であった。
江戸時代は、王朝時代に次ぐ日本漢文の二番目の黄金時代であった。江戸期の漢文文化の特徴としては、
(一)漢文訓読の技術が、一般に公開されたこと
(二)史上空前の、漢籍の出版ブームが起きたこと
(三)武士と百姓町人の上層部である中流実務階級が、漢文を学んだこと
(四)俳句や小説、落語、演劇などの文化にも、漢文が大きな影響を与えたこと
(五)漢文が「生産財としての教養」となったこと
などがあげられる。
室町時代まで、漢文訓読の方法、例えば訓点の打ちかたは、平安時代以来の学者の家の秘伝とされていた。訓点が一般に公開され、われわれが見慣れている「レ点」「一二点」「送り仮名」などの訓点を施した漢籍が広く出版されるようになったのは、江戸時代からであった。
(中略)
日本に来た朝鮮通信使は、日本側の文人と漢詩の応酬をした。これは国威をかけた文の戦いでもあった。初期のころは、日本側が作る漢詩のレベルは低かった。あとになると日本側の漢詩のレベルが急速に向上したため、朝鮮側も一流の漢詩人を選んで日本に送るようになった。
例えば、新井白石は、幕府に仕える漢学者として、朝鮮通信使∵と礼をめぐって激しい論争をかわした。朝鮮側は、論争は別として、白石の漢詩を高く評価した。白石のほうも、自分の漢詩集の序文を朝鮮通信使に書いてもらうなど、彼らの文学的能力に対して深い敬意を払った。政治では対立しても、文化では友好をつらぬく、という態度が、日朝双方に見られたことは、興味深い。
戦国時代まで野蛮だった武士は、江戸時代の漢文ブームによって、朝鮮や中国の士大夫階級とわたりあえる文化的教養人になった。
日本に渡ってきた朝鮮通信使は、華夷(かい)思想の立場から、日本固有の文化や風俗を低く見る傾向があった。そんな彼らさえ、日本の出版業の盛んなこと、とくに漢籍の出版物の豊富さと値段の安さには、驚きの目を見張った。
(中略)
江戸末期には、下級武士のみならず、ヤクザの親分や農民までもが漢文を学んだ。当時の漢字文化圏のなかで、このような中流実務階級が育っていたのは、日本だけである。日本がいちはやく近代化に成功できた理由も、ここにあった。
中国でも、医者だった孫文のような中級実務階級は存在したが、彼らの力は士大夫階級より弱く、そのため中国の辛亥(しんがい)革命(一九一一)は日本の明治維新より半世紀も遅れた。
もし、初代将軍・徳川家康が儒学を幕府の官学にするという構想をもたなかったら。もし、日本に漢文訓読というユニークな文化がなかったとしたら――。
日本の近代化は、もっと困難な道をたどっていたに違いない。
(加藤徹氏の文章に基づく)