ツゲ2 の山 11 月 4 週
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◎自由な題名
★清書(せいしょ)
○過去の集落を(感)
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【1】過去の集落を成り立たせていたパラダイムのことを、私は「依存型共生」と名づけました。「依存型」というのは、技術が依存型だということです。
【2】住宅が単体では成立し得ないような依存型の技術しかなかった時代には、それを補うために必然として「共生関係」が生まれます。台風対策として防風林を必要とする、備瀬の木造住宅などは、その典型です。
【3】現代は、技術の進化によって、高度成長期時代を境にパラダイムが一気に変わりました。依存型の技術が自立型の技術にガラッと変わる瞬間があったのです。一気に自立型技術に変わっていって、その自立型の技術をどんどん進化させてきたのが、現在の我々の暮らしです。
【4】自立型の技術を手に入れてしまうと、もはや我々は、環境や隣人と共生する必要がなくなり、自分だけでよくなります。その結果として、家も人も孤立していきます。ですから現代のパラダイムを「自立型孤独」と名づけました。
(中略)
【5】昔は、外とつながっていなければ、個人単位では生きていけませんでした。街全体の関係性の中で暮らしていたので、人間関係も濃厚でした。ところが、それが一気に変容して、個人単位で自由を謳歌できるライフスタイルができあがりました。【6】便利で、個人が自立した生活は、非常に価値のあるものだと我々は思い込んできました。しかし一方で、人間関係は失われ、地域のコミュニティも希薄になりました。【7】便利で個人主義的な価値を手に入れることは、関係という価値を失うことでもあったのです。その結果として浮き彫りになってきたのが、子どもや老人など、社会的に弱い立場の人たちの問題です。∵
(中略)
【8】昔の住宅は不便でした。その不便さを補うためには、外に対して働きかけることが重要でした。その外への働きかけが、豊かな外の環境を作り上げていました。つまり、不便さが豊かさを作っていたのです。【9】ところが、現在の住宅のように便利になると、不便さを補う必要がなくなります。この結果、外との関係性を絶つわけです。外に対しての働きかけがゼロになると、外に豊かさは生まれません。
【0】つまり、便利さを手に入れてしまうと、もはや我々は豊かさを手に入れられない。そういう状況になっているということが、パラダイムを整理してわかることです。
そう考えると便利さと豊かさのどちらをとるか、都市としての豊かさはどうしたら手に入れられるか、という議論になります。
この場合によく出るのが、「進みすぎた技術によって豊かさを失っているのであれば、もっと伝統的な、ローテクを使っていた昔の暮らしに戻ればいい」という、伝統回帰的な意見です。しかし、パラダイムの特質を考えると、それは、不可能です。便利さを知ってしまった今、もう一度みんなで不便な生活に戻りましょうといっても、非現実的な話です。
そうなると、少し暗い気持ちにもなりますね。便利さを手に入れられても、もう永遠に豊かさは手に入らないのか、と。でも、実はそうではありません。パラダイム論の特質に従うと、もっと楽観的になれるのです。
パラダイムというのは、同じパラダイムがずっと固定することは絶対にありません。今のパラダイムは、どこかの段階で、また次なるパラダイムに移行します。移行する先がどう変わるのかを議論することが重要なのです。
今の都市環境のいろいろな問題の根源は「孤立している」とい∵う状況です。恐らく新しいパラダイムは、自立型の技術がさらに追求されていく一方で、同時に、孤立し合っている状況をいかに「共生」という方向に持っていけるか、ということが重要になってくると思います。要するに「自立型」の技術と「共生型」の工夫とを両方成立させていくというのが、次に来るであろう新しいパラダイムだと私は思っています。
(甲斐徹郎『自立のためのエコロジー』(ちくまプリマー新書)より 一部改変した)