プラタナス の山 11 月 4 週
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◎自由な題名
★清書(せいしょ)
○ところが、突然、ソ連が崩壊して
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ところが、突然、ソ連が崩壊して言語に対する統制も検閲もなくなり、西側の文明がどっと入ってきた。いま、モスクワの町中に氾濫する外来語の膨大さには、驚くばかりだ。モスクワ一の大型書店「ドーム・クニーギ」に行っても、「インターネット」「マネジメント」「マーケティング」といったコーナーばかりで、これがトルストイやドストエフスキーを生んだ偉大な文学の国のなれの果てか、と、ロシア文学びいきの日本人としては、ついなげかわしい気持ちにもなろうというものだ。
しかし、その一方で、日本の都会ではとうに失われてしまった言葉の生々しさのようなものが、現代のロシアではいまだに保存されているということも見のがしてはならない。ロシア人たちは、ほんのちょっとしたことをきっかけに、たとえ見知らぬ他人どうしであっても、驚くほど多くの言葉を費やして、自分の考えと感情を相手に直接ぶつける。それは情報伝達の行為というよりは、言葉を通じで互いの存在を認識しあう共同体の儀式にも似ている。おそらく二一世紀の日本で今後、どんどん失われていくのは、まさに言葉のこういった機能ではないかと思う。
コンピュータ技術が飛躍的に発達し、これから社会の「情報化」がますます進展していくことだろう。商取引から恋愛まで、すべてはインターネット上のヴァーチャルな体験に置き換えられ、一歩も自分の部屋を出なくとも生活が何不自由なくできるという時代が来るのも夢ではない。しかし、そうなったとき、決定的に失われる危険があるのは、個人的な接触を可能にし、互いに同じ人間なのだということを実感させてくれる言葉の機能である。こういった言葉の基本機能のことを、言語学者のヤコブソンは「交感機能」と呼んでいるが、これが失われたら、言葉は言葉でなくなってしまうと言っても過言ではないだろう。
では、そのとき言葉は何になるのか。おそらく「言葉もどき」、オーウェルの表現を再び借りれば、新たな「ニュースピーク」ではないか。ニュースピークとはなにも、過ぎ去った過去の亡霊ではない。それは、人間から個性も思考力も奪い、社会を構成する者全員を画一化する新たな、より強力な全体主義の時代に、再び装いも新たに現れることだろう。
なんだか見通しの暗い予報になってしまったみたいだが、正直な∵ところを言えば、そんなニュースピークの時代が本当に到来するなどとは考えたくはない。これはあくまでも一種の警告である。妙なことを言うようだが、おそらく私たちは、言葉という不思議な生き物の未来については、人類の未来について以上に楽観的になってもいいのではないだろうか。
というのも、言葉は人類のありとあらゆる惨事と残虐と愚かしさを目撃し、克明に記録しながらも絶望することなくしぶとく生き延び、時代の激変を通じてみずからもしなやかに変容しながら、それでいて言葉でありつづけることを止めないで今日まで来ているからだ。ぼくは人智を超えた神秘的な言霊などのことを言っているわけではない。言葉は人間の作り出したものでありながら、人間以上の生命力を持ち、人間社会を逆に作っていく働きさえ備えている。コンピュータ程度の発明に簡単にやられはしないだろう。しかし、それは潜在的に恐ろしい力でもあり続ける。言葉を支配する者は、結局のところ、世界を支配することになるからだ。
(沼野充義()『W文学の世紀へ』)