ユーカリ の山 11 月 4 週
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◎自由な題名
★清書(せいしょ)
○カラーテレビは教育上
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カラーテレビは教育上よくない、白黒テレビのほうがよいという意見があることを聞いた。白黒テレビだと子どもたちは自分である程度まで着色したイメージをえがきうるし、それはさまざまでありうる。ところがカラーテレビだと子どもの想像力がはたらく余地がない。想像力は創造性の基本だから、つまり創造性の伸長をさまたげる結果になるのだという。
白黒テレビが、見本なしのぬり絵のように、色についての子どもの想像力をかきたてるという効果はあるかもしれない。だがその場合、色にかんする想像力を裏づける、いわばそれに対応する、経験の蓄積がなければならない。そうでないなら、白黒の画面を着色の画面に転化したイメージをもつことは困難だし、かりにそうしたことがなされたとしても、そこに成り立ったイメージは、きわめて単純でまずしいものでしかないだろう。子ども向けの怪人・怪獣テレビを見ているとき、これはおとなでも同様だと思わざるをえないことがある。
ところで、われわれ人間に色彩の豊富さを教えるまず第一のものは、自然である。山も海も川も、一つ一つの植物も動物も、なんと複雑で微妙な色彩に富み、陰影によるその変化を示すものであることか。私はガラパゴスの海で、空をあおいで熱帯鳥(ねったいちょう)が羽ばたきもせずに翔(か)けっていくのを見たとき、その白と空の青とがともに単色であるように見えながら、繊細な色彩の交響を心につたえてくるのにうたれた。
絵画は、どれほど自然に忠実であろうとしても、自然の色彩のことごとくをそのまま再現することはできない。そもそも、絵画はそのようなことを目標とはしないであろう。たとえば写実的な風景画であっても、それは自然からの抽象をもとにした創造あるいは再創造であるにちがいない。そして人間は、極度の抽象や単純化のなかに新たな美を発見する能力をそなえている。現代絵画にあらわれているくすんだ単色あるいはそれに近い色彩での画面の構成は、色盲的な夜行動物の世界だといえなくはない。人間にとって、それもまた一つの美である。
色彩ばかりではない。ものの形にかんしても同様である。抽象∵画における、ちょっと見れば単純な一本の曲線とか、交錯する数本の直線とかにも、その背後には画家に感受された豊富な外界があるはずである。外界の音響、たとえば風のいぶきや鳥のさえずりと、音楽の創造とのあいだにも、同一の関係が指摘されるであろう。ある点では、音楽における抽象と構成ないし再構成とは、絵画の場合よりいっそう高度かもしれない。
さて、現代において人間の生活環境から、自然は急速に追放されつつある。それにとってかわっているのは、人工の世界である。開発され都市化のいちじるしく進んだこの国土の風景を一見すれば、それは瞭然としている。巨大なビル、新家屋、舗道、高速道路、そのほか目に映るすべてのものは、色彩も形状も、自然と対比すれば単純化され抽象化されている。だからといって美しくないというのではないが、その人工の美しさを裏づける自然の本来の多彩さが失われてしまっていくのでは、やがては人工の美のまずしさを招来することになるであろう。
人間がどんな環境でも生きられるという、その高度の順応性は、こうした問題をむずかしくしている。密林のなかで何十年もくらすことが不可能ではないし、団地のせまいアパートにひしめきあって生活することもできる。長い年月を牢獄にとじこめられても、それだけですぐ死ぬというわけではない。そして、芸術などにはまったく背を向けて一生を送ったところでどうこういうことは起こらないし、実際に多くの人がそうしている。
もしも人間が、よりよく生き、よりよい社会をつくるという目標をもたないならば、この世界からの自然の消滅を憂える理由は何もない。問題の根本は、人間の生きかたについて理想や目標をもつかどうかにある。視野を大きく、また時間のはばを広くとってみるならば、自然の喪失は人間とその社会にいちじるしい影響をおよぼすことになるにちがいない。われわれの周囲に自然をどう保存するか、どのように新たな自然を設計するかは、いうまでもなく、現代社会の重大な課題である。ことに成長期の子どものために豊かな自然を生活の場として与えることは、なによりたいせつなことである。
(八杉龍一「自然と言葉」)