グミ の山 12 月 4 週
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◎自由な題名
★清書(せいしょ)
○モーツァルトという
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モーツァルトという人類史上まれにみる美を生み出した、近代西洋の機能和声音楽とは、人間にとって何なのか、それを考えるために、私は若いとき、医者になるのはやめて音楽学を勉強しようと思ったことがある。音楽美学のように哲学的・抽象的な概念を問題にするよりも、音を聴くという具体的な感覚体験のほうからそれを考えようとしていたのは、私が医学部生だったからだろうか。
機能和声音楽では、ソシレの属和音の次にドミソの主和音が来ると、音楽が一段落したという終結感が生み出される。属和音にファを加えてソシレファの属七和音にしてやると、この終結感はもっと明確なものになる。これは、シの音が半音上がってドに向かおうとし、ファの音が半音下がってミに向かおうとする、この二つの音のもつ強い方向性のためである。ある音がそれ自身にとどまろうとせず、自らを離脱して別の音を求めようとする、ほとんど生理的といってよい法則的傾向、これが機能和声の基礎になっている。
平均律でどの半音も等間隔で並んでいるピアノのような楽器だと、それぞれの音は完全に均質化されていて、だからこそ転調というような技法も可能になるのだが、そこにひとつの調性が与えられたとたん、音階上のそれぞれの音に、他の音と異質な個性が生まれる。鍵盤上のすべての音は、音の高さ以外はまったく均質であるはずなのに、いったん調性が与えられると、どの音もそれぞれ異なった未来指向性を示すようになる。
この個性、たとえばシのド指向性は、人間の感覚にとって抗いがたいもののようである。だからピアノと違って平均律に固定されていない弦楽器の奏者だと、シの音を弾く場合、この指向性に無意識にひきずられることになり、シをあらかじめドの方向に寄せて、つまり平均律より少し高く、純正調に近い音で弾こうとする傾向が出てくる。モーツァルトはヴァイオリンソナタを書くとき、ヴァイオリンのシとピアノのシがなるべく重ならないように注意していたらしい。音が濁らないようにという配慮からである。
調性が与えられると音が個性をもつようになる。調性が与えられるというのは、それを決める音がすでにいくつか聞こえたということである。つまり、音楽にその経歴が与えられたということであ∵る。音楽が鳴りはじめると、あらゆる音は自らの経歴を、過去の想起(アナムネシス)を含むことになる。過去に鳴ったすべての音の積分として鳴っているといってもよい。そしてこのアナムネシスが、現在の音の未来指向性(プロレプシス)を生み出す。シがドに、ファがミに進もうとするのは、調性のアナムネシスそのものが紡ぎ出す微分的な方向のプロレプシスである。属和音から主和音への進行が終わると、プロレプシスはそこで一段落となり、さらなる行動への要求が消えて、安定感と終結感が得られる。
生命的行動のアナムネシス・プロレプシス構造というのは、ヴァイツゼカーの理論を語るときに欠かすことのできない鍵概念である。人間に限らず、あらゆる生きものの主体的な行動は、物体の物理的な運動と違って、「そこから」と「そこへ」の性格をもっている。それはつねに記憶に裏づけられた未来の先取だとヴァイツゼカーはいう。アナムネシス的な経歴に支えられたプロレプシス的な未来の先取りが、そしてそれのみが、主体の主体性を可能にしている。だから主体というものは、つねに現在の最先端でプロレプシス的に未来を生きている面と、それまでの過去の全部をアナムネシス的に生きている面との、境界的性格をもつことになる。(中略)
人間の感覚は、このプロレプシスの意識とアナムネシスの意識とのはざまに「時間」を感じとる。時間という実在があらかじめ与えられていて、われわれがそれを消費しながら生きているのではない。生きるということは、行動の各瞬間が過去を継承しながら未来を先取することによって、その界面に時間という現実を生み出し続けることにほかならない。
(木村敏(びん)「音楽と時間」より)