ルピナス の山 12 月 4 週
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◎自由な題名
★清書(せいしょ)
○われわれ普通の凡俗にとっては
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われわれ普通の凡俗にとっては、情報の節食、ないしコントロールということはむずかしい。実際「遠くへ行きたい」と言うので、山に登ったりする若者たちも、テントの中で、必ずラジオを聞いている。もちろん、山の天気は変わりやすく、したがって、天気予報を聞くためにラジオは必需品だ、と若者たちは抗弁する。しかし、かれらのテントに近づいて耳を傾ければ、かれらは例外なくディスク・ジョッキーなどを聞いているのである。いや、天気予報だって、昔の登山家は、自分の過去の経験によって見通しを立てた。今日の大衆登山は、その意味では情報登山とでも呼ばれるのがふさわしい。
どうしても情報の洪水の中で生きるより仕方がないのであるとするならば、そこでわれわれには、いったい何ができるのであろうか。
一つの可能性は「体験」の世界を大切に見直してみることである。人間は、みずからの経験の中に、他人の経験を取り入れることができる。われわれの「想像力」は、他人のどんな経験にも乗り移り、どこにでも自由に動いてゆくことができるのだ。われわれのシンボル的経験の世界は、いくらでも、広がってゆく。しかし、シンボル的経験が広がる、ということは、しばしば人間の現実と直接的なかかわりをおろそかにさせる。もちろん、「現実」というもの自体も、シンボル的であり、人間の精神機能を抜きにして考えることはできない。しかし、たとえば、「花」という言葉を使って、花について考えたり語ったりすることよりも、われわれが「花」という言葉によって指し示している実在の植物を自分の手に取って、そのにおいをかいでみる、という行為のほうが、情報行動として、よりシンボル性が少なく、より実在の世界に近づいている、と言えるだろう。そうした、実在の世界との距離をせばめることを、われわれはときどき試みる必要がありはしないか。(中略)
われわれの情報活動のなかでは、しばしばイメージ、あるいは観念を尺度にして現実を評価する、という逆転した思考方法が定着してしまっている。「体験」という名の情報に、より大きな価値を与える習慣をつけなければ、この逆転を正常な姿に引き戻すことはできない。たとえば、旅行案内に書かれていることと、自分がその現地で体験したこととの間に食い違いがあるとすれば、その場合、まちがってるのは、明らかに情報のほうなのである。自分の体験が∵尺度になって、その尺度によって情報が評価されて、はじめて、人間と環境とのかかわりは、正しい姿になるのだ。それを逆転させているかぎり、われわれの情報活動は根なし草のごときものであり続けるだろう。
実際、こんなふうに情報圧力が激しくなってくると、われわれは情報のとりこになり、押し流されることになりかねない。自分の持っている意見が、新聞などに載っている社会の大多数の意見と食い違っているときには、なんとなく不安になって、自分の意見を捨てたくなったりもする。周りがみんな、そうだ、そうだ、と叫んでいるときに、ひとりだけ、ちがう、と発言することは、たいへんな勇気のいる作業なのである。
それを押し返すためには、それぞれの人間がなにがしかの「体験」を蓄積することこそが大事なのである。自分は、この目で確かに見た、この耳で確かに聞いた、と確信をもって言えることがらが、もっとたくさんあってよい。もちろん、体験というものは、かなり主観的なものであって、偏りもあるだろう。しかし、それぞれの人間の個性というのは、結局のところ、そうした偏りのことなのである。偏りを恐れて、個性的で確かな人生など、構築しうるはずがないではないか。
(加藤秀俊「情報行動」)