プラタナス の山 12 月 4 週
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◎自由な題名
★清書(せいしょ)
○患者が最後まで希望を
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「患者が最後まで希望を持つことができるためにはどうしたらよいか」ということは、ことに重篤(じゅうとく)な疾患にかかわる医療現場において切実な問いである。病気であることが知らされる―だんだん状態が悪くなることを知り、有効な対処法はないことも知る――自分の身体がだんだん悪くなり、できることがどんどん減って行く――死を間近に感じるようになる。
このような状況で、「希望」とはしばしば、「治るかもしれない」という望みのことだと思われている。あるいは「自分の場合は通常よりもずっと進行が遅いかもしれない」ということもあろう。いずれにしてもまさに「希望的」観測である。だが、希望とはこうした内容の予測のことなのだろうか。
もしそうだとすると、それこそ確率からいって、そうした患者の多数においては、はじめに立てた希望的観測が次々と覆されるという結果にならざるを得ない。それでは「最後まで望みをもって生きる」ということにはならないだろう。そもそも、「癌」と総称される疾患群をモデルとして、「告知」の正当性がキャンペーンされてきたのは、患者が自分の置かれた状況を適切に把握することが今後の生き方を主体的に選択するために必須の前提であったからではなかったか。右に述べたような望みの見出し方は、非常に悪い情報であっても真実を把握することが人間にとってよいことだという考えとは調和しない。
では「死は終わりではない、その先がある」といった考え方を採用して、希望を時間的な未来における幸福な生に託すというのはどうだろうか。だが、医療自らが、そのような公共的には根拠なき希望的観測に過ぎない信念を採用して、患者の希望を保とうとするわけにはいかない。
ところで、死は私たち全ての生がそこに向かっているところである。遅かれ早かれ私の生もまた死によって終わりとなることは必至である。その私にとって希望とは何か――考えてみればこの問いは、重篤(じゅうとく)な疾患に罹った患者にとっての希望の可能性という問題と何らか連続的であろう。そして、多くの宗教は死後の私の存在の∵持続を教えとして含み、そこに希望を見出そうとしてきた。それは人間の生来の価値観を肯定しつつ、提示される希望である。だが他方宗教的な思想には、死後の生に望みをおく考え方を拒否する流れもある。その場合は、人間はもっとラディカルに自己の望みについて突き詰めるのである――「死後も生き続けたいという思いがそもそも我欲なのである」とか、「自己の幸福を追求するところに問題がある」というように。それは生来の価値観を覆しつつ提示される考えである。では、死が私の存在の終わりであることには何の不都合もないではないかとして、これを肯定した場合に、希望はどこにあるか――どのような仕方であれ、「死へと向かう目下の生それ自体に」と応えるしかないであろう。
終わりのある道行きを歩むこと、今私は歩んでいるのだということ――そのことを積極的に引き受ける時に、終わりに向かって歩んでいるという自覚が希望の根拠となる。そうであれば「希望を最後まで持つ」とは、実は「現実への肯定的な姿勢を最後まで保つ」ということに他ならない。つまり、自己の生の肯定、「これでいいのだ」という肯定である。「自己の生」といっても、生きてしまっている生(完了形)としてみることと、生きつつある生(進行形)としてみることとの二重の視線がある。完了したものという生のアスペクトにおける肯定は「これでよし」との満足である。他方、生きつつある生、つまり一瞬先へと一歩踏み出す活動のアスペクトにおける、前方に向かっての肯定、前方に向かって自ら踏み出す姿勢が、希望に他ならない。
(清水哲郎()『死に直面した状況において希望はどこにあるか』より。一部省略)