ユーカリ の山 12 月 4 週
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◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○見どころ
 「見どころ」、「聞きどころ」という言葉がある。「見どころ」は「見る価値のあるすぐれたところ」を、「聞きどころ」は「聞くねうちのある個所(かしょ)」を意味する言葉として、能、歌舞伎、人形浄瑠璃をはじめ、それから派生してきた舞踊や歌謡など、日本の伝統的芸能の世界でよく使われてきた。ところが、戦後になってから、いつのころからか、その世界では、この二つの言葉の影が薄れて、「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉が優勢になった、とある放送関係の人が教えてくれた。「見どころ」、「聞きどころ」というのは、芸能を享受する側がそれを演ずる側の芸について言う言葉であるが、「見せどころ」、「聞かせどころ」は反対に演ずる側が言う言葉であろう。後者のような言葉が昔から芸能の世界にあったのかどうか私は知らないが、「見せ場」という言葉はあったらしい。辞書によれば、「みせば」は「芝居などでその役者が得意とする芸の見せどころ」のことである。(「見せどころ」は――「聞かせどころ」も――辞典には見当たらない)が、それは役者自身が使ったのか、観客たちが「見どころ」を役者に投影して使ったのか、辞書からはわからない。「見せどころ」、「聞かせどころ」も、芸能の演者自身が使っているのか、興行(こうぎょう)や放送番組のプロデューサーなどが使っているのか、私はよく知らないが、とにかく、この二つの言葉がいま電波や活字に乗って横行(おうこう)しているというのは、どういうことであろうか。
 「見どころ」、「聞きどころ」というのは、芸能を享受する人たちが出し物や曲目からつよい感動をうける個所を指すが、その感動は、それを演ずる人の芸をはなれては生じないが、享受する側の鑑賞力をはなれてもありえない。芸能は享受し鑑賞する側と演ずる側とが対等であって、両者の交感が成立するときにはじめて十全なものになる。そして、「見どころ」、「聞きどころ」は、享受する側の批評意識においてこそ成立するはずである。「見どころ」が隙のない芸の全体をつうじてしか成立しないことを知っている本もの芸能人は、けっして、「見せどころ」、「聞かせどころ」などとは言わないにちがいない。「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉は、享受する側を無視して、演ずる側が自己を∵誇示しようとする態度を示すものであろう。その言葉には、演ずる側がその芸をセールス・ポイントにして享受する側におしつけようとするあつかましさ、「ここが見聞きする価値のあるところだ」というおしつけがましさが感じられる。少なくとも、そこには、芸能人または興行者(放送のプロデューサーや解説者を加えてもいい)が、観客や聴衆にいわば指導者として臨むという思い上がった姿勢が見られる。
 だが、他方から見れば、多くの人びとが伝統芸能に対する教養と関心を失っていることもたしかである。かつて、歌舞伎の観客なり浄瑠璃の聴衆なりは、演じられる出し物や曲目についてよく知っており、演ずる者と共通の理解のうえに立っていたが、今日、その共通の地盤は大きく崩れている。伝統芸能は生活の根から切りはなされて、いわば保存の対象にされている。だから何とかして多くの人たちに伝統芸能のよさを認識させようと熱意と焦りが、芸能関係者たちに啓蒙的指導者としての姿勢をとらせて、「見せどころ」、「聞かせどころ」などという言葉遣いを生みだしたのかもしれない。
 いずれにせよ、「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉は、伝統芸能の危機の深さを端的に表現している。そして、そのような伝統芸能の危機が、日本の社会と日本人の生活意識とのすさまじいほどの急激な変化の一つの局面であることは、言うまでもあるまい。私は「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉のことを考えながら、言葉遣いの変化という些細な現象がどんなに複雑な要因をその背後にもっているかに思いあたって、あらためて驚いた。こうした言葉の変化が日本語の混乱として現れているとすれば、それは日本の社会の変化というより、日本の社会と文化そのものの危機を表しているのではあるまいか。