長文 7.1週
1. 【1】
柳田國男の日記によれば、
柳田は、一九四五年八月一一日――「土よう 晴あつし」とある――に、元
警視総監長岡隆一郎より、「時局の
迫れる話を」、つまり終戦が近いことを知らされる。【2】日記は、この事実を記したあと、「いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」と、自身の決意を記した文が続く。
2. この決意の結果、
柳田が戦後まもなく
上梓したのが『先祖の話』である。【3】この著作での
柳田の学問的な問題意識は、家の存続ということの
信仰上の
基盤を明らかにすることにあった。それはさらに、戦争における死者を救済し、
慰霊しなくてはならないという、
実践的な問題意識によって
駆り立てられていた。【4】「人を
甘んじて
邦家の
為に死なしめる道徳に、
信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。さうして以前にはそれが有つたといふことが、我々にはほゞ確かめ得られるのである」。戦争による死を犬死にしてはならない、というわけである。
3. 【5】だが、家の存続を支える祖
霊崇拝の伝統の存在を実証することが、どうして、死者の救済になるのだろうか? 戦場に散った若者たちの死は、国のための、国体のための、もっと
端的に言えば天皇や皇室のための死であった。【6】敗戦ということは、死者たちがそれのために死んでいったものが、つまり天皇や皇国といった観念が、無意味なものへと転ずることである。つまり、天皇をその内部に位置づける万世一系の血統から、その
超越性が完全に
奪われることを意味する。【7】このとき、死者たちの死を無価値から救済するためには、皇室や天皇家の伝統などはその一部でしかないような、もっと
包括的で深い伝統が、日本人という「民族の自然」にはあることを実証し、その死を意味づけ直すほかない。【8】そうして、死をあらためて意味づけるような参照
枠として
柳田が提起したのが、家の存続を支える先祖
信仰である。皇室や国体のため(のみ)の
犠牲と見れば、若者たちの死や
彼らを戦場へと送り出した戦前・戦中の日本人の行動は、無価値だったとしか
解釈できない。【9】しかし、
彼らが守ろうとしたのは、敗戦によって失われることのない家であり、それゆえ
彼らは祖
霊の集合の中に
迎え入れられるのだとすれば、その死∵も、それを
応援した人々の行動も無価値とは言えないだろう。
4. 【0】なぜ、
柳田は家の存続にこだわるのか。家が、常民の道徳・
規範の源泉になっていると、
柳田は考えるからである。家とは、死者を、祖
霊の集合の中に
繰り込み、生者と親しい
相互交流の関係におくシステムである。
柳田によれば、常民が道徳的でありうるのは、祖
霊のまなざしによって見守られている、との意識があるからだ。
桑原武夫との対談で、
柳田は、日本人の美質として「
義憤」と「制裁があること」を挙げ、それは、「あなたと話をしていても、あの
隅あたりでだれかが
聴いていて、あれあんな心にもないことを言っている、と言われたんじゃたまらんという」心持ちによって支えられている、と論じている。「あの
隅あたりで」あなたを見たり、
聴いたりしているのが、祖
霊である。あるいは、「気がとがめる」という感覚も、祖
霊のまなざしを前提にしている。それは、「自分の周囲の、自分のことを一番
憂えている人(つまり祖
霊)が
一緒になって気にかけるだろう」という意味だからである。
5. ここには、常民の現在を承認したり否認したりする、「
超越」的なまなざしを確保しようという問題意識がある。そのまなざしを、「家」というシステムを
媒介にして
定礎しようとするときには、そのまなざしの「
超越性」は極小化し、「内在性」の方に引き寄せられている。すなわち、まなざす祖
霊は、常民の経験的な現在との間に、親密な
相互交流がありうるような、具体的な他者として表象され、イメージされているのだ。それは、経験的な他者の直接の延長上にある。
6.
柳田は、敗戦がもたらした空白を
埋めるものを、日本社会の
堅固な――と
彼が信ずる――伝統の中に見出そうとした。
7.(
大澤真幸『不可能性の時代』による)
長文 7.2週
1. 【1】「近ごろの若いものは……」などという言いまわしがあります。これは、おそらく、はるかな大昔からつづけられてきた
繰りごとでしょう。【2】現在しぶい顔をして、そんな文句を言っている人でも、かつて若かったころには、自分の親父とか
先輩などに、さんざんそう言って
罵られてきたにちがいないのですが、そのくせ、こんど自分の番になると、やはり同じような言葉づかいで、新しく出てくるものをさまたげようとしています。【3】自分では正直に良心的に、むしろきわめて好意的に判断しているつもりでも、新しくおこってきたものが危険に見えてしかたがないものです。
2. 【4】ところで、そこが問題です。新しいものには、新しい価値規準があるのです。それが、なんの
衝撃もなく、古い価値観念でそのまま認められるようなものなら、もちろん新しくはないし、時代的な意味も価値もない。【5】だから、「いくらなんでも、あれは困る」と思うようなもの、自分で、とても判断も理解もできないようなものこそ、意外にも明朗な新しい価値をになっている場合があるということを十分に疑い、
慎重に判断すべきです。
3. 【6】たとえ未熟でも若いということは生命的にのぞましいことです。いくら年のコウ、
亀のコウを鼻にかけ、若いものを見さげても、やはり年寄りだと言われるといやな気がするし、若いと言われればおせじだとわかっていてもうれしくなる。【7】若いということは、無条件にいいことだと考えてよいのです。そして、若さこそ二度と取りかえせないものです。若いものの言動が気になるのは、それに対する絶望的な一種のやきもちであり、ひがみ根性だと考えるべきです。【8】「近ごろの若いものは……」などと、かりそめにも言いたくなりだしたら、それはただちに
老衰の初期兆候だと考えて、ゆめゆめ口には出さず、つつしんだほうがお身のためだと忠告しておきます。
4. 【9】尊敬すべき老人にたいしては、やや
苛酷で乱暴なものの言い方をしたようですが、しかし私がここで年寄りというのは、けっして、たんに
年齢的な意味ではないのです。【0】若さというのは、その人の青春に対する決意できまります。いつも自分自身を
脱皮し、固定しない人こそ、つねに青春をたもっているのです。現在、
権威にされているものでも、かつて、古い
権威を否定したときの情熱をもちつづけ、さらに
飛躍して自分自身と時代をのりこえて進んでいる∵場合には、その人はうち
倒される古い
権威側ではなく、若さと
新鮮さの
陣営にあるのです。また、いくら
年齢的に若くても、
妙に老成し、ひねこびて固まっている人もいます。大きく歴史的に見れば、若い新しい世代が古い世代をのり
越えていくことはたしかですが、個々の場合は、かならずしもそのとおりには当てはめられません。くれぐれも
肝に
銘じてほしいのは、年功が無意味であると同じように、また、たんに
年齢的な若さもけっして特権ではないということです。
5.(
岡本太郎『今日の芸術』による)
長文 7.3週
1. 【1】テレビの前では、私たちは自分の個人的体験をあまり
考慮することなく、映像に
比較的忠実に物語を見ている。【2】また、茶の間や自分の小さな部屋にいながら、世界全体と直接交流しているかのような
錯覚に
陥ることは当然体験される。あたかも自分がその番組に参加しているような気安さもある。
2. 【3】この点は映画を見る時とは
違うものであり、映画にあっては、やはり映画独特の世界の中に出向いているのだという「お客さん」意識があるものである。茶の間の
雰囲気とテレビの映像は
矛盾なくつながる。【4】食事中に殺人事件や暴力事件が報道されても、私たちは平気でいたりする。このようなテレビ文化がいろんなところに大きな
影響力をおよぼすであろうことは、容易に想像できることである。
3. 【5】たとえば選挙にあっても、あるいは商品のコマーシャルにあっても、テレビなしにはそれらの選挙活動も、商品の
販売力の増大も難しいものである。【6】現代においては、あらゆる生産品ないし商品は、もはやその性能においても同じレベルであることが多い。そうなると宣伝力、とくにテレビでの宣伝力が大きくその
販売力を動かす。【7】見ている人の消費熱をいかに引き出すかということがコマーシャルの最大の使命であるが、コマーシャルの送り手と
視聴者は、いわば欲望を引き出そうとする者と引き出されてしまう者の関係にある。【8】つまり茶の間でテレビを通じ、
視聴者と生産者が欲望を
介して手をつないでいるのである。
4. 【9】このようなテレビを中心とした映像文化に、生まれたときからなじんでいる人間と人生の
途中からそれを知った人間とは、どこか
違うように思われる。【0】実際、若者にとって本を中心にした楽しみは急速に減少しているようだ。出版社の人たちに聞いてみても内容が難しく、かつぺージ数の多い本は売れにくくなりつつあるという。さらに山手線を一周する間に読み切れるくらいの本でなければ売れないともいう。そうなると、
彼らが手にとるのは本といっても名ばかりのものであって、映像に近い本が中心になるのは当然の経過であろう。また、なまじ小説ばかり読んでいる人のほうが精神的に不健康というデータすら見られる。∵
5. 活字の本とテレビを中心とした映像文化と、どこが
違うのであろうか。まず、本は自分で買うという能動性が要求される。また、それを読むにはかなりの時間がかかるし、思考プロセスが相当、
介入するものである。批判的なスタンスを取ることが可能であると同時に、それを要求されるものでもある。そしてまた、個人の想像力がテレビ以上に要求されるものであることは言うまでもない。ラジオもまた、映像がないだけにテレビ以上に想像力が要求される。逆にテレビの場合はチャンネルをつけるまでは能動性はあるにしても、映っている画像、流れてくる情報に対して、私たちは完全に受動的な立場となる。とくにいやおうなく私たちの欲望を引き出そうとするコマーシャルに対して批判的なスタンスを取ることはきわめて難しいことである。ただし、テレビの場合、映像を自分なりに
解釈することができるという側面も論理的には否定できない。なぜなら、テレビの情報提供者がいかにある種の情報のみを流そうとしても、映像を通じて、解説されている内容以外の客観的情報を受け手が得る可能性も
充分あるからである。しかし実際には、解説が入ると批判的に見ることはかなり困難であろう。
長文 7.4週
1. 【1】白い紙に記されたものは不可逆である。
後戻りが出来ない。今日、
押印したりサインしたりという
行為が、意思決定の証として社会の中を流通している背景には、白い紙の上には
訂正不能な出来事が固定されるというイマジネーションがある。【2】白い紙の上に
朱の
印泥を用いて印を
押すという
行為は、明らかに不可逆性の
象徴である。
2. 【3】
思索を言葉として定着させる
行為もまた白い紙の上にペンや筆で書くという不可逆性、そして活字として
書籍の上に定着させるというさらに大きな不可逆性を発生させる営みである。
推敲という
行為はそうした不可逆性が生み出した営みであり美意識であろう。【4】このような、達成を意識した完成度や洗練を求める気持ちの背景に、白という感受性が
潜んでいる。
3. 子供の
頃、習字の練習は半紙という紙の上で行った。黒い
墨で白い半紙の上に未成熟な文字を果てしなく
発露し続ける、その反復が文字を書くトレーニングであった。【5】取り返しのつかないつたない結末を紙の上に
顕し続ける
呵責の念が上達のエネルギーとなる。練習用の半紙といえども、白い紙である。そこに自分のつたない
行為の
痕跡を残し続けていく。【6】紙がもったいないというよりも、白い紙に消し去れない過失を
累積していく様を
把握し続けることが、おのずと
推敲という美意識を加速させるのである。この、
推敲という意識をいざなう推進力のようなものが、紙を中心としたひとつの文化を作り上げてきたのではないかと思うのである。【7】もしも、無限の過失をなんの
代償もなく受け入れ続けてくれるメディアがあったとしたならば、推すか
敲くかを
逡巡する心理は生まれてこないかもしれない。
4. 現代はインターネットという新たな思考経路が生まれた。【8】ネットというメディアは一見、個人のつぶやきの集積のようにも見える。しかし、ネットの本質はむしろ、不完全を前提にした個の集積の向こう側に、
皆が共有できる総合知のようなものに手を
伸ばすことのように思われる。【9】つまりネットを
介してひとりひとりが考え∵るという発想を
超えて、世界の人々が同時に考えるというような
状況が生まれつつある。かつては、百科事典のような厳密さの問われる情報の体系を編むにも、個々のパートは専門家としての個の書き手がこれを担ってきた。【0】しかし現在では、あらゆる人々が加筆
訂正できる百科事典のようなものがネットの中を動いている。
間違いやいたずら、
思い違いや表現の不的確さは、世界中の人々の眼に常にさらされている。印刷物を
間違いなく世に送り出す時の意識とは異なるプレッシャー、良識も悪意も、
嘲笑も尊敬も、
揶揄も批評も
一緒にした興味と関心が生み出す知の圧力によって、情報はある意味で無限に
更新を
繰り返しているのだ。無数の人々の眼にさらされ続ける情報は、変化する現実に限りなく接近し、
寄り添い続けるだろう。断定しない言説に
真偽がつけられないように、その情報はあらゆる評価を
回避しながら、文体を持たないニュートラルな言葉で知の平均値を示し続けるのである。明らかに、
推敲がもたらす質とは異なる、新たな知の基準がここに生まれようとしている。
5.(原研
哉『白』による)
長文 8.1週
1. 【1】
骨董はいじるものである。美術は
鑑賞するものである。そんなことをいうと無意味な酒落のように聞こえるかも知れないが、そんなことはない。【2】この間の
微妙な消息に一番早く気づいたのは
骨董屋さん達であって、
誰が言いだしたともなく、
鑑賞陶器という、昔は考えてもみなかった言葉が、通用するに至っている。【3】言葉は
妙だが、
骨董屋さんの気持ちから言えば、それはいじろうにも、残念ながらいじれない
陶器をいうのである。
鑑賞陶器という新語の発明が、いつごろか無論はっきりしないが、おそらく昭和以後の事であろうと思えば、日本人が
陶器に対して、茶人的態度を引き続きとっていた期間の
驚くほどの長さを、今さらのように思うのである。
2. 【4】
僕は、茶道の歴史などにはまるで不案内であるが、茶器類の不自然な
衰弱した姿が、意外に早くから現れているところから勝手に推断して、利休の健全な思想は、意外に短命なものだったのではあるまいか、と思っている。【5】しかし、茶道の
衰弱と
堕落の期間がいかに長かったとはいえ、器物の美しさに対する茶人の根本的な態度、美しい器物を見ることと、それを使用することが一体となっていて、その間に区別がない、そういう態度は、極めて自然な健全な態度であるとは言えるのである。【6】焼き物いじりが
僕にそのことを痛感させた。
僕も現代知識人の常として、茶人
趣味などにはおよそ無関心なものだが、利休が徳利にも
猪口にも生きていることは確かめ得た。【7】美しい器物を創り出す
行為を美しい器物を使用するうちに再発見しようとした、そういうところに利休の美学(
妙な言葉だが)があったと言えるなら、それが西洋十九世紀の美学とほとんど正面
衝突をする様を、
僕の焼き物いじりの経験が教えてくれた。【8】そしてこの
奇怪な
衝突は、茶人が
隣の
隠居となり終わった今日でも、しかと経験し得るものなのである。
3. 【9】先日、何年ぶりかでトルストイの「クロイチェル・ソナタ」を読み返し、心を動かされたが、この作の主人公の一見
奇矯と思われる近代音楽に対する毒舌は、非常に
鋭くて正しい作者の感受性に裏∵付けられているように思われた。【0】行進曲で軍隊が行進するのはよい、
舞踏曲でダンスをするのはよい、ミサが歌われて、
聖餐を受けるのはわかる、だが、クロイチェル・ソナタが演奏される時、人々は一体何をしたらいいのか。
誰も知らぬ。わけの解らぬ
行為を
挑発するわけの解らぬ力を音楽から受けながら、音楽会の
聴衆は、
行為を禁止されて
椅子に
釘付けになっている。
4.
行為をもって表現されないエネルギーは、
彼等の頭脳を芸術
鑑賞という美名の下にあらゆる
空虚な
妄想で満たすというのだ。何と疑い様のない
明瞭な説であるか。心理学的あるいは
哲学的美学の
意匠を
凝らして、身動きも出来ない美の近代的
鑑賞に対しては、この説は、ほとんど
裸体で立っていると形容してよいくらいである。周知のように、トルストイは、ここから近代芸術
一般を否定する天才的独断へ向かって、真っすぐに歩いた。無論そんな天才の
孤独が、
僕の
凡庸な経験に関係があるわけはない。ただ、
彼が
遂にあの異様な「芸術とは何か」を書かざるを得なくなった所以は、
彼が選んだそもそもの出発点、
彼の
審美的経験の
純粋さ
素朴さにある。その
裸のままの姿から、強引に合理的結論を得ようとしたところにある。これは注意すべきことなのである。
5. もし美に対して素直な子供らしい態度をとるならば、
行為を禁止された美の近代的
鑑賞の不思議な
架空性に関するトルストイの
洞察は、
僕達の経験にも親しいはずなのである。昔は建築を
離れた絵画というような
奇妙なものを
誰も考えつかなかったが、近代絵画には
額縁という家しか、本当に
頼りになる住居がなくなって来ている。
6.(小林
秀雄の文より)
長文 8.2週
1. 【1】戦争がすんだら、世の中が万事バター
臭くなったようである。そんな空気の中で、俳句は第二芸術であるという論があらわれて、大きな話題になった。人々は、戦争に負けてすこし頭がどうかしていたのであろう。【2】第二芸術でもまだもったいないくらいに考えて、この新説に
拍手を送ったものである。
2. この頭のいい議論は、しかし、どこか、おかしい。どこがおかしいのかわからないが、どうも変である。そう思いつづけて二十年がたってしまった。
3. 【3】このごろになってようやく、そのおかしさの
依ってきたるところは、案外、俳句の読み方にあるのではないかと思うようになった。外国語の活字をにらんで読む――これはおそらく読みの極限
状況であろう。【4】わからなければ、辞書を引く、
註釈を参考にする、文法の助けもかりる。とにかく、活字を
攻めていって何とかわかる。何とかして頭で読むほかはない
4. 【5】これはつまり散文の理解の仕方である。局外に立った人間の読み方である。俳句でこういう読み方をすれば疑問は雲のようにわいてくるだろう。そもそも何を言っているのかもはっきりしない。【6】これで独立した表現と言えるだろうかという疑問も生まれるかもしれない。第二芸術どころではない。われわれにとって外国語の読み方がもっとも
尖鋭な意識に支えられていて、その限りでは知的にもすぐれた読みの方法である。それを俳句に適用したところに悲劇があった。
5. 【7】それというのも俳句の読み方がはっきりしていないからである。どうしていいかわからないから、つい、散文の読み、外国語の読みを流用してしまった。目と頭だけでわかろうとする。それが俳句にとって、どんなにひどい仕打ちになるか、ほとんど考えられなかったのではあるまいか。
6. 【8】短詩型文学は、散文を読むように読まれてはいけないのである。そもそも「よむ」こと自体が詩となじまぬ。朗唱、
朗詠すべきであろう。【9】声にして、音にして、その
響きが意識のほの暗い所をゆさぶる。いわば心で読む。舌頭に千転させて、おのずから生じるものを心で受けとめる。そういうものでなくてはならない。
7. 【0】俳句の表現そのものは、きわめて小さな音しかたてないが、
享受者の心を共鳴箱にして、ちょうど、バイオリンのかすかな
絃∵の音がすばらしい豊かな音になるように、
増幅される。たとえ、
絃がよい音を出しても、共鳴箱がこわれていれば、よい音色は生まれない。
8. 散文においては、読者の共鳴箱にもたれかかった表現はむしろ
邪道であるが、詩歌では共鳴を無視するわけにはいかない。もっとも深いところに
眠っているわれわれの共鳴箱をゆり動かしたとき、言葉は力なくして
鬼神を泣かしめることができる。目と頭で読んではそういう
奇蹟が生じにくい。
9. 活字印刷になれきってしまったわれわれは、詩歌に対してあまりにも読者的でありすぎるように思われる。もともと文字は言葉の
影のようなものである。
影だけをどれだけ忠実に追ってみても、本体をとらえることはできない。散文は
影と実体が
一致しているから、文字面からでも心を
汲むことができるが、詩歌では心に
響くものがなければ、何もならない。
10. ひょっとすると、俳句は読んではならないのかもしれない。
11.(
外山滋比古)
長文 8.3週
1. 【1】たとえていえば、それは写真を用いて美人コンテストを行うようなものである。一次選考に写真を利用することはあっても、最終選考に写真を用いる美人コンテストというものはない。写真は自由に美女を
捏造することが可能だからである。【2】写真を用いて仮に選んだ美女たちを、最終的には同一の
舞台の上に立たせて肉眼で
眺める。美を基準とする領域においては、そのような方法のみが、有効性を持つはずなのである。
2. 【3】ところが残念ながら建築を移動させることはできない。さまざまな建築物を美女のようにして、同一の
舞台の上に並べて肉眼で
眺めることはできない。ゆえに、しかたなく、建築は写真に
撮られ、写真の形式で評価され、
比較されることになったのである。【4】写真だけを用いて、「美女コンテスト」を行わざるをえなかったのである。そこに二十世紀の根本的な
矛盾が存在した。そしてコンピュータによる画像処理技術はこの
矛盾を加速し、
露呈させる役割を担ったというわけなのである。
3. 【5】では今後、この美女コンテストはどこに向かうのだろうか。まず予想されるのは、情報量を増やし、
媒体を複数化しようという動きである。写真だけならば、
捏造が可能である。【6】しかしムービーを
併用すれば、
捏造はかなり困難になるであろうという推測である。CDーROMの
普及はそのような
要請の産物と考えることができる。
4. 【7】しかし、この方向には、明らかに限界が存在する。いくら
媒体を複数化したとしても、美という基準とビジュアル(視覚的)メディアの間の断絶を
完璧に
埋めつくすことは不可能なのである。【8】この問題を解決する
唯一の方策は、美という基準を見直すこと。美に
替わる、新しい基準を発見することしかない。
5. 【9】その
徴候はすでに様々な形で出現しつつある。結果としての美ではなく、ものを作るプロセス自身を評価し、楽しむという
傾向は、そのひとつである。建築雑誌や美術雑誌が、そのプロセスを読ませること、追体験させることにぺージをさきはじめたのである。∵【0】建築家やアーティストもまた結果としての美を競うのではなく、そこにいたるプロセス自体を競いはじめた。そのプロセスは様々である。使い手の意見を聞きながら、使い手が
施工にも参加して建築を作る「参加型建築」のプロセスをウリにする建築家が登場した。あるいは、いままで
誰も使ったことがない
珍しい素材を、
試行錯誤を重ねながら、なんとか使いこなしたというプロセスをウリにする建築家も登場した。どちらの場合もできあがりを写真でみただけでは、その良さ、その
特徴はわからない。プロセスのドキュメンテーション(文書)と
一緒に読んではじめて、その価値がわかるという仕組みである。
6. 要は写真の時代が終わりつつあるのではなく、美女コンテストの時代が終わりつつあり、美の時代が終わりつつあるということなのである。視覚的美というものは、いかようにでも
捏造できるのである。
舞台に並べて、
誰が
誰より美しいと論じることは意味がない。大切なことは、
舞台からひきずりおろして実際につきあってみること。同じひとつの時間、ひとつのプロセスを共有することなのである。そういう体験の重みだけが、人間にとって意味を持つということを、他でもない、コンピュータが教えてくれたのである。
7.(
隈研吾の文章による)
長文 8.4週
1. 【1】美しさは創造の領域に属するものと考えられがちだが、何かを生み出すのではなく、ものを
掃き清め、
拭き清めて、
清楚を
維持するという営みそのものの中に、むしろ見出されるものではないかと最近では思うようになった。【2】特に、
禅宗の寺や庭などに
触れるにつけ、その思いは強くなる。
禅寺の庭が美しいのは、作庭家の才につきるものではない。むしろ常に
掃き清められ、手をかけられているがゆえの美しさとも見える。【3】それも一年や二年の
清掃ではなく、長い年月を経て、
清掃に
清掃を重ねてくることで、自然と人間の営みの、どちらともつかない領域におのずと生まれてくる造形の波打ち際のようなものが、庭というものの本質をなしているように感じられるのだ。
2. 【4】自然とは変化流転するものであり、
人為を
超えて
強靭で、それは人間の
思惑のうちにとどまらない。岩や地面には
苔が生じ、落ち葉は
堆積して新たな土を作る。
木肌は退色して
滋味を生じ、池の水は
碧に
澄む。【5】自然の
贈与を受け入れることは、待つということである。長い時間の果てに、
人為ではとうてい届かない自然の
恵みに浴すことが出来る。
3. 一方で、人は意志を持って、自然と
拮抗するものである。【6】
禅寺の
方丈の前に広がる白い四角い石庭は、人の意志の
象徴にも見える。有機的な自然の中に決然と白く四角く存在を示している。この白い石の庭は自然のままでは
維持することができない。【7】放っておくと、落ち葉や天然の
塵芥がその上にゆっくりと降り注ぎ、アースカラーに
覆われていく。その白を白として保つには、小さな石のおびただしい集積の中に混入した自然の
微細な
塵芥を
取り払い、ぬぐい去るという、気の遠くなるほど手間のかかる作業が必要になる。【8】もちろん、石庭に限らず、飛び石も、
苔も、
床も、
障壁も、
埃を
拭い、ちりを
払い、自然の風化に任せない
人為による
制御を、
倦まず
撓まず
繰り返さないと庭は
維持できない。∵【9】自然のままに放置すると、
禅寺は数年のうちに草木に
埋もれて
朽ち果てるだろう。そのような、自然と
人為のせめぎあい、あるいは
混沌と
秩序のせめぎあいが
清掃である。その
清掃の果てに現れてくる人と自然のあわいに日本の庭がある。
4. 【0】また、
清掃は創造を
伴わないという点では、変化ではなく
維持に価値をおく態度でもある。今日においては諸芸術
全般に「新しさ」すなわち刷新性をことさら評価する風潮があるが、誤解を
恐れずに言えば、日本の美意識とは新しさを生み出すことよりもむしろ
維持するところに
湧き出した心性ではないかと思うのである。変化の激しいのは今日のみではない。自然は常に流動する。その流動を食い止め、静止を意図し、
普遍と不変を
標榜しながらコンシステンシーを保っていくことには
壮大なエネルギーが必要である。
禅寺という場所はそういう意味での常態不変への意志で
制御され、日々
清掃を重ねている。その常態不変の
象徴のように見える石庭が、白く表現されていることは重要である。
5.(原研
哉『白』による)
長文 9.1週
1. 【1】ファッションと性意識の関係について考えるときにいつも思いだすのですが、大和和紀さんの『あい色神話』というコミックのなかに、若い女性のこんなつぶやきが出てくるシーンがあります。
2. 【2】家まで歩いて十五分……走って十分……
3. なんだかてれてれ歩くのかったるい……
4. 子どものころはよく走ってたっけ
5. おつかいいくのや学校への道……
6. いつからだろう
7. 【3】あまり走ることをしなくなったのは……
8. 女の子特有の小走りしかしなくなったのは……
9. ……走って……みようか……
10. あのころのように軽く足はあがるだろうか
11. 耳のそばで鳴る風の音をきけるだろうか
12. 身体を空気のように感じることができるだろうか
13. 【4】スカートは女性の「性の制服」だということ、そしてそれが身ごなしやふるまいの一つ一つをかたどり、やがて身体そのものにもなじんでしまって、だれが見てもじぶんが「女らしく」なってしまっているということ、そして逆にそのことによって失ってしまったものへの静かな悲しみやはげしい
疼き……。それらがたいへんにうまく表現されていると思います。
14. 【5】こうした「性の制服」と女性のセクシュアリティの意識のずれはだんだん無視できないほど大きくなってきたようで、とくに友人の
結婚披露宴などでいわゆる「
令嬢」のような服装をしかたなくするときには、多くの女性たちがまるでじぶんが「女装」しているような気分になっているのではないでしょうか。【6】その意味で、衣服の構造にはその時代、その社会の男性的/女性的なものについての観念が強くはたらいていると言えます。
15. 【7】同じことは、性以外の場面でも言えます。子どもらしさだとか高校生らしさ、母親らしさとか教師らしさといった「らしさ」が話題にされるところではいつも、衣服やメイクやしぐさが、そういうイメージとの深い共犯関係のなかで強力にはたらいています。【8】ある種の社会的な強制力をもって、です。このように身体の表面で、ある性的ならびに社会的な属性を目に見えるかたちで演出することで、服装は個人の人格を具体的にかたちづくっていくわけです。【9】イメージの服を
着込みながら、着
換えながら、です。こうしたことから、西洋には「Clothes make people」(衣が人を作る)という
諺もあるくらいです。
16. ∵【0】ひとの成長とは、このように、身ごなし(話し方、食べ方、歩き方、座り方、
挨拶の仕方など)と身づくろいの共通のスタイルのなかにじぶんを
挿入していくことを意味します。そうしてひとは社会の一住民となっていくわけです。職業上の制服や伝統的な民族衣装などは、そういう衣服の社会的意味がとくにはっきり出ているものです。現代社会では、皇族も議員も会社員も芸術家も宗教家も教師も、ほとんどの男性は公的な場面では、背広にネクタイというのがまるで制服のようになっています。逆の私的なシーン、あるいは社会
秩序への
抵抗のシーンにもやはり制服は歴然とあって、
茶髪、細
眉、ミニスカート、ルーズソックスという出で立ちが、家と学校のあいだでの女子高生の「
超」画一的な制服になっていて、そこからはみ出ることがとても勇気のいることになっているのは、ご存じのとおりです。このように見てくると、制服でない衣服を探すほうがむずかしくなります。
17.「ひとはなぜ服を着るのか」(
鷲田清一)より
長文 9.2週
1. 【1】
比喩的な表現であるが、人間は、外の自然と共通で、外の自然と交流しあう、
情緒的で、感覚的な、あるいは食欲や性欲という生命力の表現をはじめとする身体的な、いわゆる「第一の自然」とよばれるものと、科学、技術、生産などにかかわる「第二の自然」とよばれる二つの自然を持っており、その
交錯、調和、統一によって生きている。
2. 【2】だから、人間が自分を全体として生きることは、第一の自然と、第二の自然を統一して、他者との共存の中で生きることを意味しており、それが豊かさ感、という
充実した幸せ感をもたらすのだと考えられる。【3】経済価値にのみつっ走ることは、人間の二つの自然の調和にそぐわないことではないだろうか。
3. 日本には、アメニティという言葉の正確な訳語がないといわれるが、アメニティとは、あるべきところに、あるべきものがある、ということだという。【4】つまり、それは、第一の自然と第二の自然が、統一され、敵対的でなく、共存をひろげていくことを意味する言葉であろう。そして日本では、技術や生産力の価値があまりに支配的になってしまっているため、「あるべきもの」も「あるべきところ」も、わからなくなっているのであろう。
4. 【5】二つの自然の統一、調和というとき、注意しておかなければならないことがある。科学とか、技術とか、生産などのいわゆる第二の自然にかかわる言語表現は、数字や法則を
含めて、多様で正確な表現形式を持っていると思われる。【6】金銭については最も簡明である。ところが、あの山はすばらしい、とか、この絵や音楽はいい、という感覚的な、第一の自然にかんしては、私たちは、ほとんど数字や法則のような客観的な表現を持っていない。【7】「悲しい」という一言の背後には、おそらくいろいろなものがあるのだが、悲しみが深くなればなるほど、それは「悲しい」としか言いようがなく、人びとは、それを、体験的に
悟るか、あるいは感覚的身体的なものによって、
相互に
了解しあうことができるにすぎない。
5. 【8】感覚や感情を正確に客観的に表現するのが難しいだけでなく、人間には無意識の領域さえあるのだという。
6. 【9】私がここで問題にしたいのは、人間というものは(あるいは自然というものは)、まだ知られていない多くのものを持っている未知の存在で、ただモノとカネがあれば幸せだ、ときめつけられるほど単純なものではない、ということである。【0】つまり、豊かな社会の実現は、モノの方から決められるのでなく、人間の方から決めら∵れなければならないということである。
7. 客観的な表現はできないけれども、この第一の自然、感覚や感情や身体という、私たちの生を支えているものにも正当な座席を
与えなければ、本当の豊かさ感は得られないのではないだろうか。
8. ここで誤解をさけるために言えば、この感覚の世界は一人一人に完全に個別的なものではない。また、
捉えにくいもの、証明できないものは、存在しない、ということでもない。むしろ、あまりにも自明なことのために、ことさらに説明する必要がないのだと思われる。
9. だからこそ、カネや、政治家の演説ではごまかされないものとして、この人間の、共通の感受性の世界がある。この世界にも豊かさ感をかんじさせるような技術、生産、社会のありかたこそが、本当の豊かさではないだろうか。それは地球的な豊かさと共通する豊かさである。そしてその豊かさは、体験の中でしか感じ表現することができないからこそ、人間は、豊かな全人間的体験を体験できるような
余暇──つまり自由時間を必要とする。
10.(
暉峻淑子の文章による)
長文 9.3週
1. 【1】たとえば、
路傍のぬかるみの中へわざと
踏みこんでゆき、ぬるぬるの
泥の
感触を楽しみ、
泥水のはねをあげ、もっと深いところを探すことの喜びとは、いったい何だったのだろうと思うことがある。【2】今ではたとえ
長靴をはいていたとしても、私はぬかるみを
避けて、固い地面を探す。だが子どもは、ぬかるみを見れば当然のようにそのほうへ
突進し、
飽くことがない。【3】たまにそんな子どもの楽しみかたにひかれて、おそるおそるぬかるみに足を出すこともあるにはあるが、私たちおとなは
長靴の中に
泥水が
浸入してくることの心持ちわるさや、帰宅したあとの
長靴洗いの
面倒くささのほうにすぐに心が向いてしまって、子どものように
全身全霊をあげて楽しむことはまずないと言っていい。
2. 【4】子どもがぬかるみの中を、
嬉々として
跳ねまわっているのは、おとなにとってあまり快い
眺めではない。私たちはどちらかと言うとそれを制止したがる。【5】きたならしい、着ているものが
汚れる、
無駄なことだ――おとなたちはいつも制止するのに十分な理由をもっていて、それを疑うこともしないのだが、そういう心の
奥に、ほんの少しではあっても喜びの感情もまた、ないではない。【6】
嬉しがってる子どものいきいきした動作や表情のかわいらしさに、おとなはしょうがないなと思いながらも
寛大になる。似たようないたずらがこよなく楽しかった自分の子ども時代のことも、思い出すともなく思い出している。【7】そんなおとなの心の動きを子どもはいち早く
見抜いていて、本気になっておとなが
怒り出すまで、はしゃいでいる。
3. だが、だからと言って、おとなが子どもにとってのぬかるみ遊びの無意味の意味をほんとうに理解しているかどうかは疑わしいのではあるまいか。【8】おとなはいわば子どもを、そして自分の子ども時代をもう外側から
眺めるしかない存在だ。子どもをみつめることでおとなが感ずる喜びと、子どもそのものであることの喜びはちがう。【9】そのことに私は時折、
越えがたい断絶感を味わう。もういちど子どもに
戻りたいと思うのではない、こどもには存在していて、おとなにはすでに存在し得ぬ感情がたしかにあるという一種の絶望∵感、人間という生物が成長してゆくみちすじで、そのような感情を失ってゆくことを、いったい何が正当化するのだろうかという疑問、私の心の中に
浮かぶのはそんな思いだ。
4. 【0】ぬかるみにうつつを
抜かしているとき、子どもは着ているものが
汚れることや、あとになって
長靴を洗わねばならぬことを気にしてはいない。子どもは文字通り
一所懸命に、その
瞬間その場を生きている。他のことに心を向けるゆとりが全くないほどに、その喜びは深く全身的なのである。結果を考えろ、親の苦労を、
或いは他人の
迷惑を考えろと言ったところで、通じようがない。子どもにはそのとき、いわば未来もなければ、社会もない。だから子どもは子どもさ、人間よりはけものに近いんだとおとなは言う。だが喜びという感情は、本来そういうなりふりかまわぬ、自分勝手な、むしろ野性的と言っていいような心の状態だったのではあるまいか。
5. そのことにおぼろげながら感づいているからこそ、おとなは子どものいたずらを大目に見る。ぬかるみがあるのに、それに見むきもせぬ子どもがいたりするとかえって心配になったりする、ぬかるみに
踏みこめば
叱るくせに、そうしない子どものことは、子どもらしくないと断罪しかねない。そんな
矛盾した心の動きの中に、私たち人間の喜びというものの見かたがかくされていると私は思う。
6.(谷川
俊太郎の文より)
長文 9.4週
1. 【1】この本をひもとくたびに、いつも私の心にとどまるのは、
冒頭の有名な一句である。どの段を読んでも、最後はきまってここへ
戻ってくる。【2】「つれづれなるままに、日くらし
硯にむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ物ぐるほしけれ」という一節は、そのたびごとに深さを増してくるようだ。
2. 【3】
冒頭の「つれづれなるままに」という言葉が最も大切である。
退屈まぎれとか、
為すこともないままにとか
解釈するのはむろん誤りであろう。そういう一種の
倦怠感を宿してはいるが、根本には何かしらやるせない気持と異常の
孤独が察せられる。【4】それを決してあらわには告げない。事もなげに、ゆったりと構えているようにみえ、
筆致また
軽妙を
旨とする。その点、「おのづからのまにまに」と
云った思いに似かようけれど、この語のもつ明るさ、のびやかさに比べると、知的にやや
仄暗い感じがつきまとう。【5】
切迫した不安を
伴いながら、
焦慮するでもなく、行方を定めるでもない。
云わば明暗のあわいに、心はとりとめもなく回転して行く。
明晰にして
明晰を意識せず、何ものかに
憑かれているようで、
妙に自意識は
冴えわたる。【6】
好奇心と放心との同時的存在。
恐らく兼好みずから、かような心境をもてあましていたのではなかろうか。「つれづれなるままに」苦しかったのだ。「あやしうこそ物ぐるほしけれ」という結句が、この間の
微妙を告げているであろう。
3. 【7】すべて真向の情熱から語った人の文章には、どこかどぎついものがある。
殊に人間の生死については、ことが異常であればあるほど
臭みを帯び易い。【8】真向の情熱や真正面から取り組むことは、正しい態度にちがいないが、何がほんとうに真向真正面であるか、これはむずかしい問題だ。
兼好の文章は、興味のままに筆を走らせているところ、一見、好事家と
傍観者の相を
呈する。【9】この外相がかなり人々をあやまったように思われる。徒然草は
随筆なりという安易な定義と、
併せて随筆の「気軽さ」なる心理が
瀰漫した。この言葉のもつ一種の
狂気は、見失われてしまったようである。∵
4. 【0】
兼好は人生
万般を決して真正面からなど見ていない。つまり
彼の
凝視は直線的でない。例えば
陶器鑑賞のように、あらゆる角度から異なった光線のもとに
眺め、裏をかえし底をみつめ、
丁寧に
撫でまわして一々の
触感を試み、ついに自己と対象との
刹那間に共通の体温を保とうとする。この共通の体温の上で、しかも
彼は一切を語ろうとはしない。人生の表裏に
徹すれば、一切を語ることの不可能はよくわかるはずだ。ただ
微笑を
浮べる。事物そのものでなく、それが地上に投ずる
翳のみを語る場合もあろう。
5.
彼のものの見方は、見ずして見る、
或いは見て見ぬ様子をする、しかもよく見ている風で、
好奇心と放心が同じ
波紋を
呈してひろがる。
矛盾撞着など眼中にない。
鋭く、
辛辣だが、
鋭く辛辣に書こうなどとは思っていない。
強烈な自意識を内に
湛えながら、これにふわりとした節度を
与える。筆をおろさんとする
刹那の気構えからいえば、「つれづれなるままに」とは、この
微妙な調子を整える心
琴の
撥合せとも解されよう。そこから類のない
微笑が
湧く。すべてをあらわに語りつくそうという人は、
兼好にとって共に談ずるに足らなかったであろう。
彼は好んで余情
陰翳に住せんとした人のごとく思われる。(中略)
6.
兼好は晩年、京都
雙ヶ岡に住んでいたと伝えられる。
7. ちぎりおく花とならびのをかのへにあはれいくよの春をすぐさむ
8. 「ならびのをかに無常所まうけてかたはらにさくらをうゑさすとて」と題して、右の一首が家集にみえる。
彼がここで
歿したかどうか明らかでない。遺言辞世なく、
傍らに
侍した人の手記らしいものも残っていない。最後の有様は
窺うべくもないが、おそらく
兼好は、息をひきとらんとするとき、「うむ、なるほど」と心にうなずいて
瞑目したのではなかろうか。
9.(
亀井勝一郎「古典的人物」による)