長文 10.1週
1. 【1】地球は、水の
惑星と言われるように、表面の七十パーセントが水でおおわれている。「湯水のように」というたとえが使えるのは水の豊富な日本だけのようだが、
誰でも日常的に接しているこの水が、実はきわめて不思議な性質を持っている。
2. 【2】〇度で固体になり、百度で気体になる水は、地球の大きな
循環を支えている。この支える力の秘密は、水が自在に形を変えるというその性質にある。
環境に合わせて形を変えることが、世界を
潤す力になっているのである。
3. 【3】人間もたぶん、この水のように周囲に合わせて自在に形を変えることで、周囲を
潤す力を持つことができる。
4. 例えば、ディベートということを考えてみよう。
欧米では、意見を
闘わせることによって
相互の意見が進歩すると考えられている。【4】弁証法では、ある意見Aとある意見Bが対立することによって新しい意見Cが生まれると考える。
5. 日本人は、これとは反対に対立を
避ける。あたかも水のように、相手がAと言えば、「Aもわかる」と答え、相手がBと言えば、「Bも理解できる」と答える。【5】AもBも、仏教もキリスト教も、
欧米では本来両立しないと考えられたであろうあらゆるものをのみこんで、深い湖のように豊かになっていったのが日本文化である。
6. 【6】日本語のもともとの出発点にも、日本文化の水のような性質が発揮されている。日本は
巨大な中国文化
圏の辺境に位置していたために、中国からの
影響を絶えず受けていた。【7】しかし、同じ立場にある他の多くの民族が、自らも漢字を採用するか、あるいは漢字という言語を
拒否して独自の言語に留まるかどちらかの
選択しか持たなかった中で、日本だけは長い年月をかけて、平仮名、片仮名、音訓読み、漢字かな交じり文という独自の創造的な受け入れ方を生み出した。∵
7. 【8】この水のような性質こそ、これからの世界に最も求められているものではないだろうか。
8. 自己主張ということは確かに大切だ。特に日本人は、相手に合わせすぎるという批判もある。【9】しかし、
狭い地球の中で、岩や石のようにぶつかり合う個性だけが
充満しても、地球は息苦しくなるだけだろう。
9. 水のように自在に形を変える
柔軟さが世界を
潤すとしたら、日本人や日本文化の水のような性質も、改めて見直す必要があるのではないだろうか。【0】
10.(言葉の森長文作成委員会 Σ)
長文 10.2週
1. 【1】学校について友人と話したとき、
彼がおもしろい問いをぶつけてきた。
幼稚園じゃお歌とお
遊戯ばかりだったのに、どうして学校に上がるとお歌とお
遊戯が授業から外されるんだろうというのだ。
2. 【2】小学校に入ると音楽の時間に
楽譜の読みかた、笛の
吹きかた、合唱のしかたは習った。体育の特別授業として一学期に一、二回、フォークダンスの練習もした。が、どちらの時間も生徒だった
頃のわたしはてれにてれた、あるいはふてくされた。【3】なにか
恥ずかしかったからである、おもしろくなかったからである。ひとといっしょに歌うのは楽しいはずである。
踊るのも楽しいはずである。ついこのあいだも見物してきたのだが、知人がやっている
阿波踊りの連の練習会を見ているだけでもそれは分かる。【4】みんな同じように
踊りながら、みんなどことなく
違う。勝手に
踊っている。音楽や体育の時間は、音と動作をきっちり
揃えることが要求される。それがつまらない理由だ。【5】もともとみんなで同じような動作をすることは楽しいのだが、同じ動作をするのはいやなのだ。ファッションだってそう。みんなよく似た服装をしているが(していないと不安だが)、同じ服装は絶対にいやなのだ。
3. 【6】
幼稚園では、いっしょに歌い、いっしょにお
遊戯をするだけでなく、いっしょにおやつやお弁当も食べる。他人の身体に起こっていることを生き生きと感じる練習だ。そういう作業がなぜ学校では軽視されるのか、不思議なかんじがする。ここで他者への想像力は、幸福の感情と深くむすびついている。
4. 【7】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いの外むずかしい。そのとき、死への
恐れは働いても、生きるべきだという
倫理は働かない。【8】生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への
肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは
肯定できないものだ。お歌とお
遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。【9】
永井均は最近の著作のなかでこう書いている。「子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生∵が根源において
肯定されるべきものであることを、体に
覚え込ませてやることである」と。【0】あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに
耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を「だれか」として全的に
肯定することで、存在理由をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。
5. 近代社会では、ひとは他人との関係の結び方をまずは家庭と学校という二つの場所で学ぶ。養育・教育というのは、共同生活のルールを教えることではある。が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという
相互の期待や
信頼がなりたっているときだけである。他人へのそういう根源的な(
信頼)がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる。
6.
幼稚園でのお歌とお
遊戯、学校での給食。みなでいっしょに身体を使い、動かすことで、他人の身体に起こっていること(つまり、直接に知覚できないこと)を生き生きと感じる練習を、わたしたちはくりかえしてきた。身体に想像力を備えさせることで、他人を思いやる気持ちを、つまりは共存の条件となるものを、育んできたのである。
7.
8. (
鷲田清一の文章から)
長文 10.3週
1. 【1】物ごころのついた子どもを動物園に連れてゆくと、たいていの子供ははじめて見る動物の姿に
素朴な
驚きと興味を示す。子供たちの目にまず映るのは、ゾウやキリンやライオンなど
珍しい動物の形や色や大きさであろう。【2】それらの動物の生息地の
環境や生態、あるいは進化などに興味を持つのは、おそらく中学生以上になってからの話である。
2. 科学の発展段階は、まさにそれと同じみちすじをたどる。
3. 【3】ある物事に興味を持ち、それを研究しようとするとき、まず
誰しもが着目するのはその形態や
振る舞い、すなわち現象論的側面である。星に名前をつけて星座としてまとめたり、岩石を
結晶の形や色で仕分けをしたり、動物を
哺乳類や魚類や鳥類ごとに分類したりすることがそれに当たる。【4】次いで、もう少し
詳しくそれぞれの存在する条件(たとえば場所とか温度とか)でその
特徴を記述することを試みる。うまくいけば、その段階において、原理的なことを考えなくともある種の規則性が経験的に見つかる場合もある。【5】科学の歴史上、そのような「経験法則」の例は枚挙にいとまがない。
惑星の位置を
丹念に追って得られた「ケプラーの法則」などは、その最たるもののひとつと言えよう。
4. 【6】しかしながら、もしそれぞれの科学が、そのような
範囲の中にのみとどまっているのならば、しょせんは
記載的な博物学にすぎなくなってしまう。
趣味としての博物学ならばそれもよかろう。【7】博識であること自体は決して悪いことではない。だが、より深く自然を理解しようとする意欲を持っている人々にすれば、博物学だけではいかにも物足りないことであろう。【8】よく言われることであるが、天文学や気象学の入門書が、ややもすれば星の名前や雲の形の記述に終始しているため、中学校の地学クラブのレベルを卒業した意欲的な学生の目から見て不満足なものに映るのは、たしかに反省すべきことと思われる。
5. 【9】したがって、次に必要なことは、ある事物や現象の形態や
振る舞いの
奥にひそむ原理を追求することであろう。たとえば、台風について考える。【0】記述的な筆法でいけば、台風とは熱帯の海上に発生する低気圧で、円形をしており、中心には眼があって、半径は数百キロ、中心付近の最大風速は
云々……ということになろう∵が、もっと物理の目で台風を見るなら、次々と説明さるべき問題点が
浮かび上がってくる。「台風はなぜ陸上で発生しないのか」「どうして高気圧性の台風はないのか」「台風のエネルギー源は何か」これらはみな、台風なら台風の、発生・発達する条件や過程つまり「成因」を問うていることにほかならない。さらに一歩進めるなら、「台風に
伴って大量に降る雨のもととなる水蒸気はいったいどこから運ばれてきたのか」とか「台風が熱帯で発生して北上し、中
緯度で
消滅するまでの間に、南と北の空気はどれだけ入れ
換わるだろうか」といった疑問もわいてくる。これは、台風のもたらす「作用」を論ずることに相当している。考えてみれば、ハドレーの大
循環論は、まず熱帯貿易風や中
緯度偏西風といった経験的事実(現象論)から出発し、太陽の熱放射と重力による大規模対流の生成という運動の成因を論じ、さらにそのことが、地球全体の熱のバランスを満たしているという作用論にまで
及んでいたのである。ここにこそハドレーの
偉大さがあったわけである。
6.
7. (
廣田勇「地球をめぐる風」より)
長文 10.4週
1. 自分が、いままさに死にゆかんとしていることを知らないままに死んでいく人間などいないと、ぼくは思う。そうでなければ、人間が死ぬ必要などどこにもないではないか。人間は、そのことを思い知るために、死んでいくのだ。
有吉の死後、ぼくが読書すら投げ出して考え続けたことは、それだった。だが何のために、そんなことを思い知らなくてはならないのか、ぼくには分からなかった。それを考えるとなぜかぼくは何かに
祈りたくなるのだった。
有吉が死んでからは、ぼくと草間とは
疎遠になった。草間はその
猛烈な勉強ぶりに
拍車をかけ始めたし、ぼくはぼくで、ある新しい情熱を
駆られて小説に読みふけるようになったからだ。その情熱とは、すでにとうの昔にこの世からいなくなった多くの作家たちが、生きているときに何を書かんとしたのかを知りたいという願望だった。死人が小説を書けるはずなどなかったから、ぼくが
捜し出そうとしていたことはばかげたお遊びに近かった。だが、そのばかげたお遊びは、
有吉の死がぼくに
与えた
後遺症だったのだ。ぼくはまもなく
後遺症から立ち直り、あらゆる物語を死から
切り離して考えるようになった。すべては死を裏づけにしていたが、死がすべてである物語は存在しなかったからである。
2. 寒い朝、ぼくは草間からの電話で起こされた。「新聞に、あの絵のことが
載ってるぞォ」と草間は言った。ぼくは電話を切らずに、そのままにしたまま、階段を降りて茶の間に行き、父が読んでいる新聞をひったくって二階に
駆けのぼった。そして「消えた
幻の名画」と見出しがついたコラムに見入った。それは事件としてではなく、ちょっとした町の話題として
載せられたもので、ある日
忽然と誰かに持ち去られてしまった百号の油絵の由来が
紹介され、持ち主の談話が簡単につけ足されていた。
喫茶店の店内から絵を
盗み出してから、すでに八
ヶ月がたっていたから、まさかいま
頃になって新聞ざたになろうとは思いもかけないことだった。作者の
島崎久雄は幼い
頃からじん臓を
患い、長い
闘病生活の果てに
逝った青年だった。多くのデッサンとペン画が残っているが、
油彩の大きな作品としては、
盗まれた「星々の悲しみ」のファンも多かったので、何とか手元に帰って来てくれないものかと思っていると持ち∵主は語っていた。「用事が済んだら、ちゃんと返しとくのがルールやて言うたやろ。志水がいつまでも返さへんから、こんなことになったんや」と草間はそれほど
慌てている様子もなさそうに言った。警察ざたになった訳ではなかったので、ぼくもそんなに
動揺はしなかったが、そろそろ潮時だという気がして、草間に言った。「
頼む、絵を返してきてくれよォ」「
俺一人でか? アホなこと言うなよ。新聞に
載ったとたんにおかしな動き方をしたら余計に危ない。もうちょっと時間をあけてから考えたらええがな」「店の中の、元の
壁に返しとくというのは、なんぼ草間でも無理やろなァ……」草間の笑い声が、電話口から聞こえてきた。ぼくたちはその話は一応打ち切って、
互いの
近況を語り合った。「もう、へとへとや」草間は言った。「今が一番つらいときや。もうちょっとやないか」それから、ぼくはふいに感傷的になって、ほんの少しの間
涙ぐんだ。……「K大の医学部絶対に通れよ。
癌なんかやっつけてしまう医者になってくれ」
3. ぼくはニ、三日、落ち着かない日を過ごした。「星々の悲しみ」から、出来るだけ遠ざかっていたかった。だが、そうなるといっときも早く、絵を持ち主に返してしまいたくて仕方がないようになってしまった。ぼくは意を決して、妹の
加奈子に新聞の記事を見せた。そして妹に手伝わせて、
壁に
掛けてある油絵を降ろし、
畳の上に立てかけた。そして、八
ヶ月前の雨の日、図書館の横の古い橋の上で、初めて草間と
有吉の二人と言葉を交わしたときのことを話して聞かせた。「あれから、たったの八
ヶ月やぞォ」そう言ってしまってから、ぼくはその間に読んだたくさんの小説の行方を思った。悲劇も喜劇も、悪も善も、
恋愛も官能も、心理も行動も、ことごとく
陰翳を失って、ぼくの中に
潜り込んでしまっていた。ぼくは何も得なかったようでもあったし、積み重なった
透明な後光を体中に巻きつけているようでもあった。
加奈子が自分の部屋に
戻ってしまうと、ぼくは古新聞を集めてきて、絵の包装に取りかかった。
乾いたタオルで額についた
埃を
拭いた。それから、もう二度とぼくの手元に
戻ってくることのない「星々の悲しみ」を見た。∵「
凄いなァ」死んだ
有吉は、この絵を見てつぶやいたのだった。
4. 「この絵、もっとほかの題がついていたら、何でもないただの絵かも知れへんなァ」――絵はいつになく光っていた。
蛍光灯の光を受けて、樹木の葉は水に
濡れたように色づき、初夏の陽光は真夏の日差しに変わってまばゆく
輝いた。どこからか
蝉しぐれも聞こえてくるようだった。ぼくは、結局いつかの
加奈子の
解釈が、いちばん正しかったのではないかと思った。
加奈子は、麦わら
帽で顔を
覆って大木の下でうたたねしている青年を、死んでいるのだと思ったのである。絵の作者は、自分の死んでいる姿を
描いたのだと。もし本当にそうだとしたら、この絵にもっともふさわしい題名は確かに「星々の悲しみ」以外ないではないか。ぼくは、葉の
繁った大木の下に
有吉を横たわらせ、そのとてもきれいな死に顔を麦わら
帽で
隠した。
5.(宮本
輝「星々の悲しみ」)
長文 11.1週
1. 【1】時計を選ぶときにはいろいろな
選択肢があるが、文字
盤がアナログかデジタルかで選ぶというのもある。
液晶式デジタルウオッチが世の中に登場したのが一九七二年。【2】時計の表示方式の革命といわれたように、
選択肢が一気に広がり、以後、デジタルウオッチは電子製品の
特徴である、量産化による
大幅な経費
消滅で急速に市場を広げていく。
2. 【3】一九七九年と八〇年の二年間の日本の時計生産ではデジタルがアナログを上まわるほどにまで成長したが、今度はその反動で「アナログ回帰」現象が急に起こり、九〇年にはデジタルの比率は二割にまで
落ち込んでしまった。【4】その後デジタルに
魅力的な製品が開発され、最近は国内市場の三割程度がデジタル時計と考えられる。
3. 情報として考えるならば、デジタルは、細分化された「断片的情報」である。【5】より正確な情報をドライかつ明確に表示することには優れているが、前後との関連や全体のなかでの位置づけを表すことには不向きだ。一方のアナログは、「
情緒的情報」ともいわれるように、全体の
傾向や位置づけを表すのは得意だが、細かい部分を見るにはわかりにくい。【6】グラフでいえば、円グラフや折れ線グラフがアナログ情報である。
4. では、時計の表示としてはどうであろうか。アナログ時計は
瞬時におおまかな時刻を読み取ることと、残り時間を算出しやすいという点で優れており、デジタル時計は正確な時刻を表示する点で勝っている。
5. 【7】面白いもので、人から時刻を聞かれたときにアナログ時計をしていると「一〇時半」と答える人が、デジタル時計をしていると「一〇時二九分」、場合によっては「……四五秒」と秒数までも答えてしまう。【8】アナログ情報は読み取るときに頭の中の思考回路を働かせないと答が出せないのに対して、デジタル情報は表示の数字を読みあげるだけですむからである。残り時間を出す場合、アナログ時計は見ただけで認識できるが、デジタル時計は頭の中で逆算しなければならない。
6. 【9】もっとも、時計が60進法を採っているためにデジタル派はいっそう不利になっている。とくにわれわれ日本人は算用数字イコール10進法という固定観念が強く働いてしまうのかもしれないが、10:59の次が10:60にならずに11:00になるのは、頭ではわかっていても実感がともなわない。【0】デジタルだと、「まだ時間がある」ような
錯覚におちいって話しこんでいるうちに、次の∵約束に
遅れてしまったりするのは、そのためだ。
7. では、表示以外については、デジタルとアナログでどう異なるのか。
8. アナログ時計には針を動かすための歯車があり機械部分が残っているが、デジタル時計は「全電子時計」と呼ばれるように、機械的動きの部分がまったくない。したがって部品点数が少なくなる(自動巻きの機械式
腕時計では一四〇点前後あった部品が二〇?三〇点ですむ)ので、安く、かつ軽くなる。正確で安い経費の時計をつくるにはデジタルが最適だ。
9. 一方、アナログ時計の最大の利点はデザインの多様性だ。デジタルの数字のようにデザイン上の制約がないので、丸型にも角型にもできるし、文字
盤一面に模様を入れることもできる。したがって、スポーティ感覚のデザインでも、高級感あふれるドレスウオッチでも思いのままだ。
宝飾時計の分野などはアナログ時計の
独壇場といえる。
10. 近年デジタルウオッチが盛り返してきたのは、その頭脳である大容量のLSI(大規模集積回路)の価格が下がってきたために安い経費で調達できるようになり、メモリー(
記憶)機能やセンサー(感知)機能が加わって、これまでのウオッチの
概念を
超えるユニークな多機能ウオッチが登場したためだ。このような機能を発展させていくと、
腕につけているだけで時計が体温、血圧、
脈拍などを測り、定期的にかかりつけの病院へ情報を送信し、異常があると呼び出し機能で呼び出される……などという日も近いかもしれない。(中略)
11. アナログウオッチも変わってきている。頭脳にIC(集積回路)を使うようになっただけでなく、近年はそのICに演算処理機能をもたせた時計が実用化している。これによってアナログ時計でありながら時と場合に応じて、ストップウオッチやタイマーなど別時計を同じ文字
盤に表示する多機能のアナログ時計ができたのである。もちろん、元に
戻せば、正しい時刻が表示される。まさにデジタルの頭脳をもったアナログ時計だ。
12. 時計のエレクトロニクス(電子工業)化がデジタルウオッチを生み、アナログ時計にも便利なものが登場した。人間の脳にも右脳と左脳があるように、時計のデジタルとアナログも共存共栄で発展していくことだろう。 (織田
一郎の文章による)
長文 11.2週
1. 【1】もう三〇年も前のことだが、一九六〇年代の中ごろ、ヨーロッパの街角で初めて日本車が走っているのを見たとき、
涙が出るほど感激したことがある。
2. 【2】当時の日本の工業製品は、まだ性能的にも機能的にもかなり
お粗末で、
欧米に
対抗できるのは価格だけといわれていた時代である。自動車も例外ではなく、これでドイツのアウトバーンをフルスピードで走ることができるのか、と現場技術者の間で心配の声が出るほどだった。
3. 【3】それが、今では「メイド・イン・ジャパン」といえば、性能の良さ、
信頼性の高さの代名詞にさえなっている。技術後進国だった日本は、
欧米に追いつこうと
懸命にキャッチアップを続けた結果、わずか三〇年で追いつき、
追い越してしまったのである。この速さは特筆に値する。
4. 【4】キャッチアップの速さは、何も戦後の製造業に限ったことではない。
奈良の大仏や戦国時代の
鉄砲に代表されるように、日本人は異質で高度な文明・文化に
触れたとき、それを率直に評価して
猛烈な勢いで取り入れ、追いついてきた。
5. 【5】
鉄砲を例にとれば、一五四三年(天文一二年)種子島に伝来した
火縄銃はわずか二
挺にすぎなかったといわれている。それがあっという間に全国に伝わり、世界有数の
鉄砲製造国になってしまった。
6. 【6】この
驚異的なキャッチアップの速さを可能にした秘密は、どこに
隠されていたのか。一言でいえば、最新技術を受け入れ、消化するだけの素地=
潜在能力が、
既に日本にあったということである。
7. 【7】
鉄砲の場合は伝来以前に高度な金属加工の技術の
蓄積があった。また、明治以降の近代化も、その前提条件として、日本の木工技術が
既に欧米人が目を見張る段階にまで成熟していたという事実がある。【8】産業構造においても、素材から
下請けにいたるまで、すべての社会的機能が整っていた。これらの要素が複合して近代化のスピードを速める
基盤となったのである。
8. 【9】にもかかわらず、現代の日本人は、この
驚異的な速さのキャッ∵チアップを可能にしてきた自らの
潜在能力に
誇りをもっていない。それは、
欧米から「もの真似上手」という思いもよらぬ批判を浴び続けてきたからである。【0】「もの真似」だけが上手で独創性はまったくない……というマイナス評価が
繰り返し伝えられたため、独創性
欠如コンプレックスに
陥ってしまったのである。
9. しかし、歴史を少しひもといてみると分かることだが、かつての日本人は、「もの真似」に対してそれほどコンプレックスを
抱いてはいなかった。例えば、職人の世界に代表される技術の現場では、昔から必ずグループで仕事をしてきた。そこでは、一人が何か新しい技術をマスターすると、みんなが真似をした。教える際も手取り足取りではなく、「習うよりは慣れろ」、あるいは「見て
盗め」と
突き放して技術を覚えさせた。つまり、学ぶということは、
徹底して「真似る」ことだったのである。
10. 芸事などでも、古くから「守・破・
離」という一つの発展段階説があった。まず、伝統的な古いやり方を、そのとおりに守って
徹底して学ぶ。そして基本技術を十分にマスターした上で、次の段階として古い伝統的なものを破り、やがては学んだものと
離れて、まったく独創的な方式を確立し、新たな流派を形成(=立派)していった。
11. このように、日本人には、
徹底して「真似る」=「学ぶ」姿勢こそが独創性を発揮する大前提であるとする歴史があったのである。それを「真似る」=「独創性の
欠如」と
勘違いするようになったのは、「守・破・
離」の「破」と「
離」の識別が明確にされていなかったからではないだろうか。(中略)
12. 大切なことは、時代的発展段階を
織り込んで考えてみることである。現代では世界の
最先端をいくアメリカも、一九世紀には技術後進国でヨーロッパの進んだ技術文明を
模倣していた。その
証拠に、アメリカ人がノーベル賞を多く受賞し始めたのは、たかだか第二次大戦以降になってからだ。日本人が「もの真似上手」と言われることに、過度のコンプレックスを
抱く必要はまったくないのである。
13. (
石井威望「日本人の技術はどこから来たか」による)
長文 11.3週
1. 【1】昔話の研究をすることは、そこに
隠された民衆の
知恵のようなものを感じとることになり、現代に生きるわれわれに対しても思いがけぬ
示唆を
与えてくれる。
2. 【2】昔話と老人ということになると、まずわが国の昔話にはよく老人が登場することに気づかれるであろう。実はこのことは日本の昔話のひとつの
特徴であり、内外の昔話研究者の
指摘しているところである。【3】このことをどう
解釈するかはここでは
触れないでおくが、昔話に登場する老人がどのような
知恵を
与えてくれるか調べてみることにしよう。「うばすて山」という昔話では、六十
歳になって山にすてるべき老人を息子がかくまっている。【4】
殿様があるとき「灰で
縄をなって来い」と
百姓たちに言いつける。だれもできずに困っているときに、老人が息子に、
縄を固くなって、それをだいじに焼いて灰にしてもってゆけと教えてやる。このようなことから老人の
知恵が
殿様に認められ、うばすての習慣がとりやめになる。【5】この昔話で極めて
象徴的なことは、
皆が灰で
縄をなうのに苦労しているとき、老人はそれを逆にとらえて、
縄をなってから灰にしたことである。
3. 老人の
知恵は思考の逆転の必要性を示している。【6】このような思い切った発想こそ、われわれが老人のことを考えるときに必要なことではなかろうか。老人は何もできない、能率的でないから
駄目だと
皆は言う。これを逆転して、老人は何もしないし非能率的だから価値があると考えてみてはどうだろう。【7】実際、われわれはあくせく働き、能率や進歩を追求してきて、本当に幸福になったであろうか。物質的豊かさと精神の貧しさに病んでいないだろうか。【8】何をしたのか、どれくらい利益を得たのか、そんなことにわれわれがあまりにもこだわりがちとなるとき、ただそこに存在するだけという老人の姿は、価値とは何かについて重要なことを教えてくれるのではなかろうか。
4. 【9】「
貧乏神」という昔話にでてくる老人は、もっと思い切った
知恵を授けてくれる。
詳細を語ると面白いが省略してエッセンスのみを言うと、若夫婦の家に住みついた
貧乏神の老人が金もうけの∵方法を教えてくれるのだ。【0】それは、
殿様の行列が通りかかるのでその
駕籠のなかを目がけてなぐりこめ、というのである。結局、若者は老人の言いつけに従って金を
獲得するのだが、ここで「
殿様をなぐる」などというまったく
途方もないことがでてくるところが興味深いのである。
5.
封建時代には
殿様は絶対的な存在である。それに対してあえてなぐりかかるものこそが、黄金を
獲得できるのだ、と老人の
知恵は告げている。ユングは無意識が意識の一面性を
補償する
傾向があることを、つとに
指摘している。昔話もそれと同様に公的で常識的な考えを裏から
補償する
傾向をもっていると思われる。従って、それは思いがけない解決の道を
示唆するのである。
殿様が絶対的であった時代に、このような話をもっていた日本の民衆というものは、なかなかの活力を底に秘めていたのではなかろうか。
6. ところで、昔話には類話というものがあり、「
貧乏神」にもいろいろな類話が存在している。それをみるとまた興味深い。
殿様をなぐるのに気がひけて家来をなぐったので、大金持ちになれず小金持ちになったというのがある。あるいは、
貧乏神の老人に福の神が通るからつかまえろと教えられるが、たくましい馬がやってきて
怖くてつかまえられない。二度も失敗して最後に弱そうなのがきたのでとびつくと、それは
貧乏神で元どおりになったなどという
愉快なのがある。これは、「ものごとをやるときは思い切りが必要だ」ということを示しているものとも言えるが、せっかくとびついたら元の
貧乏神というところに
巧まぬユーモアがあり、どうせ
貧乏でもいいさという
諦観のようなものさえ感じさせる。類話のなかにはどうせ同じこととひらき直って金持ちになる話も存在している。
7. これらの類話の多様性は人生の問題の解決法の多様性を示している。これでなければ、という固いことではなく、人によっていろいろの生き方があり、それはそれなりに面白いものだ、と昔話の
知恵はわれわれに語りかけてくるのである。このように昔話を読むことは、現代のわれわれの生き方と直接につながってくるのである。
長文 11.4週
1. そのとき、はじめて
お悔やみを言いました。
2.「お
蝶小母さんが亡くなられて、私もさびしくなりました。」
3. すると、私のまんまえでこちらを向いていた栄作小父さんは、ほんとうに静かな動作で、つうっと横を向いてしまい、そのまま直立の姿勢をくずさないでいるのでした。まわりに同じ村の人たちが四、五人はいたのですが、
敏感にその場の気配を察して、私と栄作さんの間の
雰囲気をそっとしておくために、心をくばったようです。
瞬時のことです。
4. 妻をなくして、もうだいぶ月日がたっているのに、夫である栄作さんのつらさが、私に
挨拶されて、そんなにも新しくよみがえったことに、まわりの人たちがいたわりを見せたのでした。細身で、どちらかといえば背の高い、農仕事でひきしまったからだ。面長で鼻筋のとおった顔は、陽が照り残っているようなつやを見せています。七十は
越しているのに
髪も黒く、目も切れ長に黒い。その人が少年のように、口もきけず横を見たまま、まっすぐ遠くをみつめている。たぶんあふれてくるものを見せまいと、背筋を張っていたのに
違いありません。その姿は木のように
素朴で、悲しみがつっ立った感じでした。いきなり横を向かれた私にも、すぐそのことが会得されました。私はちっとも困りませんでした。そして
黙って立ちました。
隣り合わせた一本の木のように。(中略)
5.
横浜での、心のシャッターチャンスがとらえた一枚のスナップについての、これが簡単な説明です。私はこの無形の写真をときどき
思い浮かべると、どうしてか気持ちがほうっとふくらんで、くちびるの辺りがほころびてくる。これをユーモアと名付けてよいものか、どうか。ふだんは
礼儀正しい明治の老人が、礼を忘れた姿に、日がたってからとはいえ、私がかすかなおかしみを味わうとしたら、これは第三者の残
酷以外のなにものでもないのですが、私にはやはりユーモアと名付けるのがいちばんふさわしく思われます。なめれば
甘い、というような単純さで、笑ったからユーモアだ、というのとは別種のもの――。
6.
伊豆の、
山家の、炭焼きさんの、という、うたうような語り口。なぜかあの村へ行くと、人々のやりとり、会話にリズムがあるのを∵感じます。
一軒の家の
囲炉裏に
隣近所のひとが寄ってきてかわす会話の機知に富んだ
軽妙さ。ひとつひとつ覚えておかなかったことが残念ですが、覚えるほどのことではない、また覚えきれることではない日常性が、小川の流れのように、上手に時間を、人と人との
間柄をとりもって運び続けているのかも知れません。それはまちがいなく「ことば」の果たす役割でした。
遠慮のなさ、気取りのなさ、かなりな
冗談。それでいてふっと
黙る部分がある。それが動作に出る。
7. 先ごろ田舎に帰ったとき、栄作さんはからだが弱くなって
寝ている、というので、その庭先からたずねると、いまはあるじの息子が出てきて私に言いました。「ハイ(もう)年ですからノ。年に不足はないガです。」いちおう声をひそめているものの、障子
越しにつつぬけなのはわかっていて、それを、ハラハラなどしないで聞いている自分に、私は確かにここは岩科だ、と思うのでした。通常、
跡とり息子が親に対して、そんな
陰口をきいたら、
お互いどんなメクジラをたてるだろう? 「年に不足はないガです。」そんなことをサッパリと、他人向けに言ってみせる。息子は
充分親孝行で、親は親で、案内された
囲炉裏ばたで茶をすすっている私のところへひょっくりあらわれ、きちんと
膝をそろえるのでした。「この
蜂蜜は、自分のに採ったガです。東京へ持ってって下さい。」
挨拶や説明はすでに家族がすっかり済ませているのを承知で、栄作小父さんはいきなり四合びんを私のかたわらに置くのでした。
透明な器の中で、とろりと
濃い蜜が、びんの首まで届いています。
8. 私はまだまだ顔色のいい栄作さんに目をあて、小父さんはいい耳をしていると、つくづく思いました。
9.(
石垣りん「
焔に手をかざして」)
長文 12.1週
1. 【1】日本のふつうの書きことばでは、漢字の地位が絶対的に高く、それに比べてカタカナは、代用的な役割しか引き受けていない。前者は高度に
抽象的な
概念の表記に不可欠とされるのに対し、後者はガチャガチャ、ドタバ夕など、できごとそのままをむき出しにした、いわば
幼稚園文字である。
2. 【2】ところが、カタカナが時に、この地位を逆転して、漢字のはるかに
及ばない
威信を帯びることがある。
欧米の学芸や学芸人を示すのに用いられるばあいそうであって、たとえば「フィロゾフィー」が「
哲学」より一段高い
威信をあらわすとき、かの
幼稚園文字が、一転して
欧米先進文化の光りかがやく代弁者の地位に
躍り出るのである。
3. 【3】しかしそうなるのは、もとが漢字ではない文字のあらわす音をカタカナが示そうとするばあいに限るのであって、もとにあるのが漢字であるとなれば、事態は一変してしまう。【4】もしその漢字の音をカタカナで写し、それで
押し通そうとするならば、思いもかけないほどの強い
抵抗に出会うであろう。たとえばその国で
一般にそう呼ばれているように「トン・シァオピン」と書くとどこか不安なのに、漢字で書いて、トー・ショーヘーと読めば、
普通の日本人は安心するだろう。【5】この日本式呼び名を聞いて、それが
誰だかわかる中国人はほとんど居ないにもかかわらずである。この安心感は、音はなぞりでしかないのに、漢字はオリジナルで不変だという安心感から来ている。しかしそのオリジナル性は、音のオリジナル性を全く
犠牲にした上に成りたった、無努力、横着のオリジナル性である。
4. 【6】こういう一面的なオリジナル性の上にできた二つの言語間の交流は、たいていは一方の側の、ときには
双方の側からの独善にもとづく、まがいものであるのが
普通だ。【7】なぜなら、人は話をすることによって交流するのが基本だからである。そうでない、文字だけの交流は、その文字エリートや、かれらの作った制度によって管理されたものだからである。
5. 【8】いま私がかりに
韓国に行って、そこの男ないしは女と仲良くなったとする。その仲良くなり方が学問的、職業的なものか、より人間的なものであるかは問わない。とにかくその人が自分を「カン」だと名のれば、私はその人の名を「カン」さんとして心の中に刻み∵つけ、終生変えることはないだろう。【9】しかしその人の名を学生
名簿とか新聞記事で「
姜」という文字によって知れば、その日本式読み方に従って「キョウ」と発音することになるだろう。それは紙の上のつき合いにとどまるからそれですむのであるが、もし
彼、もしくは
彼女を私が愛していれば、絶対に「カン」でなければならない。
6. 【0】文化の交流が一方的に統制されたものから
相互的で直接的なものへと移ると、ことばは紙から
抜け出て音になる。
韓国の人気歌手チョー・ヨンピルを愛するファンが、どうして
彼をその紙のことばの
趙容
弼に従って、チョー・ヨーヒツなどと呼びかえる気になれるだろうか。ヨーヒツは決してヨンピルではないのである。
福岡に居る
韓国人牧師さんが自分の呼び名のことで、もう十年来こういう
訴えを続けているのに、日本の裁判所はわかろうとしない。つまり、ことばには愛があるということを理解しないのである。
7.
8. 田中
克彦「国家語をこえて」から(一部直す)
長文 12.2週
1. 【1】最近わが国では、あらゆる所で「国際化」の必要が唱えられている。
金融・流通機構・労働市場は言うに
及ばず、教育改革の論議の背後にまでも、「国際化」が日本人の国民的課題であると言わんばかりの言い方がなされている。
2. 【2】しかし、「国際化」とは一体何だろうか。わけもわからずこの言葉を合言葉のように
振り回して、日本を一定の方角へ
闇雲に
駆り立ててしまう前に、いま冷静に
踏み止まって言葉の意味を問い直し、その用法を
吟味し、他国との
比較を試み、その上で進むべき方向を
模索しても
遅くはないのではなかろうか。
3. 【3】世界において「国際化」がスローガンさながらに
叫ばれているのは日本だけである。
欧米世界に、これをめぐる議論も、自己反省も存在しないし、第一、日本人が使っているのと同じような意味での「国際化」という言葉が存在しないのだ。【4】私が知る限りの
欧米人に聞いてみると、
彼らはまず第一に、日本語の「国際化」というこの言葉が何を意味するかが分からないと言う。
4. 思うにその理由は、
欧米世界は現実においてすでに「国際化」されているから、今さらそういう言葉を必要とはしていない、という事情があるためだと一応は考えられる。【5】
彼らの大半は無意識のうちにそううぬぼれている。
欧米で通用してきた尺度は、従来、そのまま世界に通用する尺度でもあったからだ。【6】そして、他方において、日本人が「国際化」の必要をかくも熱心に唱えるのは、日本人自身が今なお自分を閉ざされた
特殊な民族と意識し、それを
克服しなければならない欠点と判断しているからだろう。
5. 【7】しかし、果たしてそう単純に考えていてよいのだろうか。世界地図を
見渡してみると、「国際化」されていない、閉ざされた国ばかりがやたら目立つ。イスラム、中国、ソ連しかり。米国や
欧州だって、完全に「開かれた」国々だと果たして言えるだろうか。【8】自分の暮らし方を民主主義の最高形式と信じ、自分の正義を他国に
押しつけ、外国語を学ぼうとさえしない米国国民。近代科学と進歩の理念が自分に発し、地球全体に拡がったことを理由に、久しい間自己中心史観にあぐらをかき、キリスト教を欠いた文明はみな
野蛮で、未解放と思っている
西欧人。【9】一体
彼らがどうして「国際化」∵された、開かれた民族と言えるのであろうか。自分を閉ざされた国だといつも意識している日本人の方が、よほど心理的に開かれていて、外の世界から
謙虚に「学ぶ」という伝統的習性を保持しているのではないだろうか。【0】ただ、国際会議が主に英語で行われるなど、世界の運営がこの二、三百年
欧米の基準でなされてきたので、(
欧米の
閉鎖性)ということが今まではどうしても見えにくかったまでなのだ。
閉鎖的な自己中心
癖はどこの国でも同じで、他国にぬけぬけと「国際化」を要求できるほど公平で、無私の国民など、まずあり得まいと私は信じている。
6. それにもかかわらず、日本の、「国際化」が求められる所以は、貿易、軍事、文化交流、等々において世界を支配しているのは、今のところはまだもっぱら
欧米の論理であって、日本はそれに自分をある程度合わせない限り、国としての生存を
維持できないからにほかなるまい。つまり、「国際化」は必要から、やむを得ず強いられていることであって、決して美しい正義の
御旗なのではない。国が生き延びていくために、どうしても
欧米の論理への適応化を必要とするならそれはそれでいい。いくらでもそういう
覚悟でやったら良いと思う。ただ「国際化」が、日本の
特殊性を
普遍化してくれる絶対善だからそうするのでは断じてない。日本は
特殊で、
欧米は
普遍だなどというのは、過てる
迷妄にすぎない。単に実用的必要の見地から、日本はいま外に向けてある程度開かれようとするのであって、したがって、「国際化」という
甘美な言葉の使用をむしろやめ、はっきりと「
欧米の
秩序への適応化」という正確な言葉を使う方が、かえって誤解は
避けられる。
7. この場合の「誤解」とは日本人の自己誤解である。日本には聖徳太子の昔から、文物を外に求め、己をむなしくして、外の世界に自分を
柔軟に合わせるという美点――島国人としての自意識が非常に発達している。この美点と、政治的経済的必要から
欧米の作り上げた
秩序に一時的に自分を適応させるという現代的課題とを、日本人は「国際化」という同じ一つの言葉の中で、ごちゃ混ぜにして用いていないか。 (
西尾幹二「国際化への疑問」)
長文 12.3週
1. 【1】考えてみると、私の家では犬も
猫も飼った覚えがない。あとになって、大森に
引越してから、家の
縁の下に野良犬が
仔を生んで、鳴き声に気がついた私が、ある日、
縁の下深くまでもぐって
仔犬をつかまえ、【2】飼ってくれと、母親にせがんだことはあったけれど、七、八
匹もいた
仔犬たちは、母犬がどこかにつれていってしまうのか、それとも
盗まれるのか、つぎつぎと姿を消してしまった。【3】最後の一
匹が見えなくなった日は、私は本当に悲しくて、学校から
戻ったあと、日がくれるまで近所一帯を
一生懸命に探して歩き、
疲労と気落ちでしょんぼりして帰宅したあと、夕食もとる気になれず、
床に入ってからも長いこと
寝つかれなかったのを覚えている。【4】
奇妙なことに、まだ
仔犬に対して特別の親近感を
抱くようになるだけの時間もたっていないのに、子供の私には、母親は別だとしても、それまで大切だったはずのほかの多くのものよりもはるかに重大な意味をもつ存在になってしまっていたのだ。【5】どうして、こういうことが、人間の子どもには、可能なのだろうか。私たちのなかの何が、こんな種類の愛情を成立さす力をもっているのだろうか。【6】とにかく、人間の子供にとっての犬や
猫といった小動物たちは、母親のつぎにくる、「愛情の学校」ではないだろうか。私たちは、その学校で、人間同士では味わえない、ある種の
純粋な愛の相を経験するのではなかろうか。
2. 【7】姿を消した
仔犬のことで、私がいつまでもあんまり悲しがっているものだから、母親が、ある日東京に出かけたついでに、ひとつがいのチャボを買って来てくれた。【8】その土産の小さな金物の
籠のままではせますぎるので、大工さんを呼んできて、庭の
片隅に小屋をつくってもらった。チャボは犬とちがって、
愛撫したり、いっしょにそのへんを
駆けまわったりできないので、勝手が少しちがったけれど、それでも私はそれなりに可愛いと思った。【9】こまめに、
餌をやったり、小屋を
掃除したり、いろいろ世話をした。世話をするのがうれしかった。数日して、巣の中に小さな白い卵のおいてあるのを見た時は、これが本当に私たちの鳥の生んだ卵だとはなかなか信じられなかった。【0】しかし、卵はその翌日も、巣の中にちょこん∵とおさまっていた。昨日の分は今朝学校にいく前、朝食といっしょに食べてしまったのだから、これは新しい卵に
相違なかった。こんなに
一生懸命生むのなら、食べてしまったら気の毒だな、と思った。とらずにおいといたら、いまに、卵がかえって、ひよっ子が生れて来るのではないか。
鶏は一年中卵を
抱くわけではないと思うけれど、では少しとらずにおいて様子をみることにしようか、と母はいった。
3. その夜私たちが
寝ていると、庭で何か物音がして、目がさめた。何かが走ってゆくような音が聞こえた。そのまま、しばらく、きき耳をたてていたが、あたりはただひっそりしていて、何にもきこえない。
4. 翌朝起きて、雨戸をくり、庭の方をみると、白い羽根が散乱していた。「おかあさん」と
叫んだまま、鳥小屋の方にかけ出した。前にはられた
金網が破れ、小屋の中はからっぽだった。あとから来た母と二人で、羽根のちらばった方を探しているうち、
小笹の
茂ったかげに、
牝鶏が横になっていた。
咽喉をかまれたと見えて、そこから胸にかけて、白い毛が真赤に染っていた。それでも両手に
抱きとってみると、気のせいか、
眼蓋が動くみたいで、そこから、眼の白いところが少し見える。「まだ生きてるんじゃないか」と、片手で首を持ち上げてみたが表情は全く変らない。
彼女の姿は、生きていた時よりむしろ美しいくらいだった。
5. 昨日まであんなに元気だったのにと思って、手を放したら、首ががくっとたれた。その
瞬間、私は、自分が、今、じかに「死」というものにふれたのだと感じた。この経験は、いうまでもなく、私には全くはじめてのものだった。私はそれまで、そんな経験があろうと予測したこともなかった。
6. 生命とは、何かのことで
一瞬にして消えていってしまうものであること、それが
消滅すると共に、まるでばばぬきで手もとのカードをひきぬかれでもしたみたいに、私の手もとに残ったもの、これこそ「死」以外の何ものでもないという感じ。そこには
恐ろしくて、しかも私の心をいつまでもつかまえて
離さない力があった。
7. これ以上大事なものはないと信じて大切にしていたものでさえ、∵
一瞬にして
離れ去り、二度と
戻ってくることがない。人生では、そういうことが起こる。そういう
一瞬があるのである。それは、あたかも、私たちの油断の時を
狙いすませていたかのように
突然やってくる。アッと思った時は、もうどうしようもない。失われるのは生命に限らない。一つの幸せ、一つの
平穏、一つの
恋であることもある。ついさっきまで、人生は私たちに、あんなに快く、優しい眼差しをおくっていたのに、
一瞬にして、全く別の
相貌が現われる。
8. 子供の日から何十年かの後、私はブリュッセルの美術館で、この時私の感じたものをはっきり思い出させずにおかない一枚の絵に会った。十六世紀の無名のオランダ派の
描いた幼女の半身像で、
彼女は両手に死んだ小鳥を
堅く握りしめたまま、明らかにどこの
誰に向けたらいいのかわからないまま、
困惑と
驚愕と
憤怒でかっと見開いた両眼で、こちらを見すえていた。
9.
10. (
吉田秀和の文章による)
長文 12.4週
1. われわれ
普通の
凡俗にとっては、情報の節食、ないしコントロールということはむずかしい。実際「遠くへ行きたい」と言うので、山に登ったりする若者たちも、テントの中で、必ずラジオを聞いている。もちろん、山の天気は変わりやすく、したがって、天気予報を聞くためにラジオは
必需品だ、と若者たちは
抗弁する。しかし、かれらのテントに近づいて耳を
傾ければ、かれらは例外なくディスク・ジョッキーなどを聞いているのである。いや、天気予報だって、昔の登山家は、自分の過去の経験によって見通しを立てた。今日の大衆登山は、その意味では情報登山とでも呼ばれるのがふさわしい。
2. どうしても情報の
洪水の中で生きるより仕方がないのであるとするならば、そこでわれわれには、いったい何ができるのであろうか。
3. 一つの可能性は「体験」の世界を大切に見直してみることである。人間は、みずからの経験の中に、他人の経験を取り入れることができる。われわれの「想像力」は、他人のどんな経験にも乗り移り、どこにでも自由に動いてゆくことができるのだ。われわれのシンボル的経験の世界は、いくらでも、広がってゆく。しかし、シンボル的経験が広がる、ということは、しばしば人間の現実と直接的なかかわりをおろそかにさせる。もちろん、「現実」というもの自体も、シンボル的であり、人間の精神機能を
抜きにして考えることはできない。しかし、たとえば、「花」という言葉を使って、花について考えたり語ったりすることよりも、われわれが「花」という言葉によって指し示している実在の植物を自分の手に取って、そのにおいをかいでみる、という
行為のほうが、情報行動として、よりシンボル性が少なく、より実在の世界に近づいている、と言えるだろう。そうした、実在の世界との
距離をせばめることを、われわれはときどき試みる必要がありはしないか。(中略)
4. われわれの情報活動のなかでは、しばしばイメージ、あるいは観念を尺度にして現実を評価する、という逆転した思考方法が定着してしまっている。「体験」という名の情報に、より大きな価値を
与える習慣をつけなければ、この逆転を正常な姿に
引き戻すことはできない。たとえば、旅行案内に書かれていることと、自分がその現地で体験したこととの間に
食い違いがあるとすれば、その場合、まちがってるのは、明らかに情報のほうなのである。自分の体験が∵尺度になって、その尺度によって情報が評価されて、はじめて、人間と
環境とのかかわりは、正しい姿になるのだ。それを逆転させているかぎり、われわれの情報活動は根なし草のごときものであり続けるだろう。
5. 実際、こんなふうに情報圧力が激しくなってくると、われわれは情報のとりこになり、
押し流されることになりかねない。自分の持っている意見が、新聞などに
載っている社会の大多数の意見と
食い違っているときには、なんとなく不安になって、自分の意見を捨てたくなったりもする。周りがみんな、そうだ、そうだ、と
叫んでいるときに、ひとりだけ、ちがう、と発言することは、たいへんな勇気のいる作業なのである。
6. それを
押し返すためには、それぞれの人間がなにがしかの「体験」を
蓄積することこそが大事なのである。自分は、この目で確かに見た、この耳で確かに聞いた、と確信をもって言えることがらが、もっとたくさんあってよい。もちろん、体験というものは、かなり主観的なものであって、
偏りもあるだろう。しかし、それぞれの人間の個性というのは、結局のところ、そうした
偏りのことなのである。
偏りを
恐れて、個性的で確かな人生など、構築しうるはずがないではないか。
7.(
加藤秀俊「情報行動」)