長文 1.1週
1. 【1】
陰謀理論とは、社会的現象はそれをひきおこそうとたくらんだ個人もしくは集団の
陰謀から生じてくると主張する理論である。したがって、この理論にとっては
陰謀家を探し出すことが主たる課題となる。【2】たとえば、戦争、
不況、失業といった社会的現象は大
企業とか
帝国主義的戦争屋はたまたシオンの長老たちの
陰謀の結果であるという。【3】悪の
帝国による世界
制覇の野望とそれに対して
果敢に
闘う主人公といった少年マンガのレベルにおいてのみならず、大の大人にとっても、CIAの
謀略とかフリーメイスンの
陰謀といったことで複雑な出来事が簡単に絵解きされるのは、耳に心地よいらしい。
2. 【4】
陰謀理論に対するポパーの批判はきわめて簡単である。つまり、われわれの社会において
陰謀がそのまま成功することはほとんどないという事実が
陰謀理論を
反駁しているというのである。この点については少しばかり、説明が必要かもしれない。【5】われわれの社会では、意図と結果が大きく
相違するのはむしろ当然である。
行為は意図されなかった帰結や反発を引き起こす。それらは、当初の意図に
跳ね返り、その修正を
迫ることになるだろう。とすれば、
陰謀がそのまま実現することはありそうにないことである。【6】しかし、こうした理論的な説明をおこなうよりも、具体的な例を挙げた方がわかりやすいかもしれない。
3. いま、ある人が家の
購入を切望しているとしてみよう。
彼はさまざまな住宅会社を訪ねたり、住宅フェアに顔をだしたりするであろう。【7】加えて、
彼はできるだけ安い価格で家を
購入したいと望んでいるにちがいない。しかしながら、
彼が
購入者として住宅市場に現れたという事実は、原理上、
需要を高め、
彼の意に反して価格を
上昇させる。【8】ここにあるのは、まさに(資本主義)社会の特定のメカニズムである。他方で、
需要の増大が価格の低落をもたらす場合があるとすれば、そこには大量生産といった別種の資本主義的メカニズムが働いている。∵
4. もうひとつ、例をあげてみよう。【9】多くの人は競争を好まない――とくに友人同士の場合には――と仮定してもよいだろう。しかしながら、たとえばポストの数にはかぎりがあるといった
状況が生じたならば、
誰もが競争したくないと思っていても、競争が必然的に生じてこざるをえないだろう。【0】この種の競争という
状況を、各人の
名誉心とか、
闘争心といったものを原因として説明するのはまさに心理的主義であり、
本末転倒である。こうした場合、
名誉心とか、
闘争心といった心理はむしろ
状況の産物である。われわれの社会は、意図であれ
陰謀であれ、それらを当初の
企てどおりに実現させることはきわめて
稀である。テロリストがテロ
行為によって
彼らの(遠大な)目的を実現させることはまずできない。
陰謀理論は、たとえ常識の世界でどれほど受け入れられているにせよ、社会のメカニズムを
考慮に入れていないという明白な
欠陥をもっている。
5. ポパーはこうした社会のメカニズムを制度という観点から
分析することを制度
分析と呼んだ。社会の諸制度はそのなかで
行為がおこなわれるもろもろの
枠組みである。それらは、大部分が意識的に設計されその通りに形成されたものではなく、意図されなかったものとして、あるいは意図に反して形成されたもの(副産物)である。ハイエクの言葉でいえば、社会の諸制度は自主的
秩序である。制度
分析は、制度を支えているものとしての伝統や慣習――これらも広い意味での制度である――のみならず、制度がおのずからにしてもった目的や機能、また制度における人員配置の問題、さらには制度が引きおこす諸帰結などを
分析する。
6. 制度
分析の
概念にくらべると、
状況の論理あるいは
状況分析の
概念はより広い領域をカバーすることができるように思われる。それは、定義的にいえば、事態のもつ必然性の
分析である。ポパーは、トルストイに
言及しながら、ナポレオン戦争下ロシア軍が
闘うことなくモスクワを
明け渡し、
糧食をみつけることのできる∵場所へ
退却していった事態を
状況の論理(必然性)の一例としてあげ、トルストイの
分析の基本的正しさを認めている。ポパーにとっては、
状況の論理を再構成すること、あるいは
状況を
徹底的に
分析することが、(記述的)社会科学や歴史学にとっての課題となる。ポパーのことばでいえば、それ(
状況分析)は「
行為が客観的に
状況に適合したものであったことを認識することである。
換言すれば、たとえば、欲求、動機、
記憶、連想などのはじめは心理的なものと思われた要素は、
状況の要素に変わってしまうほどに
状況が
徹底的に
分析される。……
状況分析の方法は、たしかに個人主義的な方法ではあるが、心理学的なものではない。というのも、それは心理的な要素を原理的に
排除し、客観的な
状況の要素によって
置き換えているからである」。
7.(小河原誠『ポパー 批判的合理主義』による)
長文 1.2週
1. 【1】情報公開という言葉が近年しばしば言われるようになってきた。政府のもつ情報資料の公開、あるいは政府の
審議会や委員会の議事内容の公開が積極的にインターネット上におこなわれるようになって、多くの活動内容が
一般社会の人たちにも理解されるようになってきつつある。【2】二〇〇一年四月には、情報公開法が
施行されることになり、個人のプライバシーにかかわらない、かなりの
範囲の国の情報が、
請求によって開示されることになった。
2. それでも、すべてのことが公開され、十分な
監視とチェックの下におかれることはできず、いろいろと思わぬ事故をおこしてきた。【3】情報の公開とともに、どうすれば第三者的立場から十分なチェックをして、安全性を確保していけるかは、これからの大きな課題である。科学ジャーナリズムにおいても、よく検討すべき問題であろう。【4】たとえば原子力のような複雑なものは、科学ジャーナリズムなどが適切に橋わたしをしなければ、
一般の人たちには、客観的な立場からのものの見方をすることは、たいへんむずかしいのである。
3. あることがらに対する科学的説明は論理的で、その
範囲内においては反論の余地のないものであることがほとんどである。【5】しかし、それでも社会の多くの人々を納得させることのできない場合があるのはなぜか、を考えることが必要だろう。
4. それにはいろいろな理由があるだろう。一つは、その科学的説明の前提となっていることが、ほんとうに確信のもてることなのかどうかということである。【6】もう一つは、論理的、科学的説明といっても、説明に用いられる推論規則は絶対確実なものではない。九九・九九九%まちがいないといわれても、〇・〇〇一%の確率でおこる可能性があるとすれば、それに対する心配がある。また理論がまったく予想しない条件が生じないともかぎらないという心配もある。【7】原子力発電所の建設などに対する反対は、そういうところから生じていると考えられる。
5. もう一つのタイプの心配は、体外受精の適用
範囲の拡大、脳死判定と臓器移植などにおける人間の
倫理観や文化に深く関係する問題である。【8】この種の問題については、科学的内容の説明が、人間感情というまったく次元のちがう要素に対して効力を発揮することを期待することはできず、人々を納得させることはむずかしい。∵
6. もっと直接的に個人に関係するのは、インフォームド・コンセントであろう。【9】自分の病気がどういうものであり、どういう手術をしたら、どのようになるか、手術の成功率・危険性はどのように判断したらよいか、といったことすべてについて、医者の説明を聞き、それを理解し、医者の助言によって自分が判断し、決定しなければならない。【0】そのときに、完全に理解して明確に決定することができないという場合が多いだろう。しかし、自分の運命は自分が
選択しなければならず、そのためには納得のいく説明を受け、十分な理解をする努力が必要になる。医者の側でも、
患者の病状だけでなく、その人の
年齢、家庭
環境、経済力、その人のもつ人生観・価値観についても考えに入れて、助言することが必要となるだろう。説明はあくまでも客観性を失ってはならないが、科学的側面だけでは決定できないのである。
7. 科学的な説明は論理的なものであり、そのようにして説明されたことはまちがいがないから、人はそれにしたがわねばならないと
一般に思われているかもしれない。しかし、論理的な理解のほかに身体的レベルにおける理解、心の底から納得できる状態というものがあって、これは必ずしも論理的なものかどうかはわからないが、個人にとってはむしろこの納得のほうがはるかに優位にある理解の状態といってよいだろう。客観的真理が絶対的なものでなく、それを
超えた理解の状態の大切さということにもっと目を向けるべき時代にきているのではないだろうか。
8.(
長尾真『「わかる」とは何か』に
拠る)
長文 1.3週
1. 【1】「
寄物」という言葉を覚えたのは
柳田国男の『海上の道』を読むことによってであった。はるか
沖から
吹ききたる風に名前を
与える身振りから始まるあの美しい
幻想小説。【2】「アユは後世のアイノカゼも同様に、海岸に向かってまともに
吹いてくる風、すなわち数々の
渡海の船を安らかに港入りさせ、または、くさぐさの
珍らかなる物を、
渚に向かって
吹き寄せる風のことであった」。【3】そうした風に乗ってわれわれの国に訪れる「くさぐさの
珍らかなる物」、それが「寄物」だ。そして、その代表として
柳田がまず第一に挙げたものは、周知の通り、三河の
伊良湖崎の
浜に打ち寄せられていたのを
彼が
目撃したというあの神話的な
椰子の実であった。
2. 【4】
島崎藤村はこの
柳田の見聞を材に採り、ただちに人口に
膾炙することになったあの
俗謡の歌詞を作ったわけだが、『海上の道』の著者は
島崎藤村の「
椰子の実」に対してやや不満げな感想を
洩らしている。【5】「そを取りて胸に当つれば/新たなり
流離の
愁い/という章句などは、もとより私の挙動でも
感嘆でもなかったうえに、海の日の
沈むを見れば
云々の句をみても、
或いは、詩人は今すこし西の方の、
寂しい磯ばたに持って行きたいとおもわれたのかもしれないが……(後略)」。【6】晴れやかな朝陽の中で
珍しい「寄物」を発見するのは
柳田にとって喜ばしい出会い以外のものではなく、「
流離の
愁い」も
寂しい日没も「詩人」の
汚れた筆が
捏造した受け
狙いの感傷にすぎない。【7】「千曲川旅情の歌」にしてもそうだが、
既成の欲情に
媚びることを
恬として
恥じない
自称「詩人」の
輩は今も昔も
尽きることがない。
3. 「海上の道」において、
柳田の想像力が
透視しているのは、「日本人」もまたこうした幸運のアイノカゼに
吹き寄せられてきた「寄物」そのものだという独創的な命題である。【8】「もしも
漂着をもって最初の交通と見ることが許されるならば、日本人の故郷はそう∵遠方ではなかったことが先ずわかる。人は、際限もなく
椰子の実のように、海上にただようては居られないのみならず、【9】幸いに命活きて、この島住むに足るという印象を得たとすれば、一度は引き返して必要なる物種をととのえ、ことに妻
娘を
伴のうて、永続の計を立てねばならぬ」。【0】この「そう遠方でもない」場所とはいったいどこなのか、それを
柳田は、厳密な文化人類学の学術論文の装いからははるかに
隔たったこの文章の中で、具体的に明言しているわけではない(中略)。だが、そう遠方でもないというこの
奇妙に生々しい限定が、
柳田の詩的な直観に異様な
迫真性と説得力を
賦与していることは否定できない。
4.
漂着をもって最初の交通と見る――しかしそれにしても、これは何と美しい言葉ではないか。この
端的な断言を受けて、わたしはもう一歩進んでこう言ってみたい、
漂着こそ
唯一の交通ではないのかと。実際、
漂着する以外のどんなやりかたでわたしたちは世界と結びつくことができるだろう。なるほど、あてどない「
漂流」の時間の快楽というものはある。だが、単にそこにとどまるかぎり、たとえいかほどロマンティックな
孤独の
抒情がそそられはしても、そこで人はあの「
流離の
愁い」の場合と同じく結局は単にひとりよがりの詩情の内部に閉ざされてあるほかない。「
漂流」が意味を持つのは、それがどこかに、
逢着するかぎりにおいてのことだろう。
5. 詩は「投
壜通信」でしかない、あるいはそうあるべきだといった言いかたがされることがときたまあるが、そうした命題がもし何らかの意味を持つとしたら、海上に放たれた
壜がどこかの
浜辺に
漂着し、それが拾い上げられる現場に想像力を働かせたうえのことではないか。良き風に
吹き寄せられ、未知の
浜に打ち上げられた言葉を、拾い上げてくれる手があるということ。それこそ、ありうべき真のコミュニケーションの
唯一の形態であるはずだ。
6.(
松浦寿輝「
漂着について」)
長文 1.4週
1. 【1】物語とはなにか。
2. 物語を理性の言葉としての
哲学や科学に対立させて、空想の語り、非合理的な語りとする見方があるが、それは正しい見方とはいえない。宗教学者の島田
裕巳は物語を積極的に評価して、「世界の中に生起する現象の説明原理であり、筋立てを持つ説明の体系のこと」と定義する。【2】それは独自の「体系化や分類の働きを」もち、「
儀礼や
象徴の背後に存在し」て、「人生に一定の方向性を
与える」ものだという。
3. どういうことか。
4. たとえば有名なオイディプス伝説を考えてみよう。【3】ソフォクレスの悲劇でよく知られるこの物語は、もともとテーバイ地方に伝わる神話・伝説であった。主人公オイディプスは、テーバイの王ライオスの長子として生まれるが、その生誕の直前に「成長すると、父を殺し、母と交わる」との
神託が出たことによって、
荒れ野に捨てられる。【4】その
彼をコリントスの王ポリュボスが見つけ、わが子として育てる。やがて成長したオイディプスは、自分の出生に疑いをいだくようになり、
神託を求めたところ右の答えが得られたため、実父と信じるポリュボスを殺すことを
恐れて町を
離れる。【5】道を歩む
彼は、
偶然、実父ライオスと出会い、争ってこれを殺す。ついで
彼はテーバイを訪れ、災いをもたらしていた
怪物スフィンクスの
謎を解いてこれを退治し、その
報奨として女王イオカステと
結婚し、子どもをもうける。【6】しかしその後も町に災いは続いたため、知者を呼んだところ、
神託に告げられていた真実を知らされる。自分の運命を知った
彼は、われとわが目を
剣で
突いて、
放浪の旅に出るところで悲劇は終わる。
5. 【7】この物語は、あらゆる物語がそうであるように、一つづきの
行為=出来事を時間の経過のなかで展開させたものである。それはオイディプスをはじめとする登場人物が、なにをし、なにを
喋ったかを述べるものであって、それ以上のものではない。【8】殺されるはずであったオイディプスが、従者の情けによって
荒れ野に捨てられたこと。コリントスの王に拾われた
彼が、その実子として大切に育∵てられたこと。成人したオイディプスが、「父を殺し、母と交わる」との
神託の実現を
恐れて、町を
離れたこと。【9】やがて
彼が
偶然、実の父であるライオスと出会い、争ってこれを殺したこと。テーバイの町を訪れた
彼が、町に災いを
与えていたスフィンクスを退治して、その
報奨として実の母であるイオカステと
結婚したこと。
6. 【0】これらの
行為は、ひとつひとつが善意からなされたという以外にはいかなる共通性ももってはおらず、たがいに結びつけられるべき必然性はどこにもない。にもかかわらず、それが物語という一つの時間の流れのなかに置かれると、それらの
行為=出来事はたがいに結びつけられて、明確なメッセージを生むことになる。「人間はその運命を
逃れることはできない」というメッセージを、それは言外に表明しているのである。
7. 物語的認識の
特徴はまさにこうした点にある。それは現実の世界でも生じるような出来事の一続きを、時間的な流れのなかで語ったものにすぎない。しかしながら、現実の世界では
偶然事があいつぎ、出来事
相互の関係がかならずしも
明晰ではないのにたいし、物語のなかの出来事は
緊密な必然性の糸によって結ばれている。そしてその結びつきがメッセージを、物語の意味を生みだしているのである。
8. しかも物語は、そのように
偶然性を必然性に結びつけるだけでなく、個別性を
普遍性に
超克させるものでもある。たとえば先のオイディプス伝説についていえば、テーバイやコリントスなど、特定の土地で生じた出来事を、特定の時間のなかで語ったものにすぎない。しかもその登場人物にしても、私たちとはまったく
無縁な、特定の名前と個性をもった存在でしかない。ところが物語は、そうした
徹底した個別性と具体性を連ねていくことによって、人間が人間であるかぎり
逃れることのできない、運命にたいするある種の見方を示している。その意味でそれは、具体的、個別的な
行為と出来事の
契機を語りながら、人間存在の必然的、
普遍的な認識を
与えるものなのである。∵
9. 物語の理論家であるミンクらが明らかにしているように、物語とは経験の流れを理解可能にするための認識の仕方であって、たんなるおとぎ話ではない。そしてそのとき、物語的認識の
特徴は、理論的・科学的な認識が
一般理論のなかに出来事を吸収するのにたいし、個別的な事実性、出来事性を残している点にある。
10.(
竹沢尚一郎『宗教という技法』による)
長文 2.1週
1. 【1】私はある時から、英文で論文を書くことをやめた。日本語で考え、日本語で暮らしている。そういう人間が英語で論文を書くとは、いったいそれはどういう作業か。それが論理的に理解できなかったからである。【2】そのために、理科系の人間としては、業界から「干された」というしかない。
2. 『最後の授業』という物語を引くまでもない。日本の知的な世界は、日本社会の他のシステムと同様に、あらゆる
根拠を失ったままに、さまざまなやり方を
便宜的に採用してきた。【3】そうだからといって、
闇雲に古い習慣に
固執すればいいというものでもない。われわれは、われわれに発する
普遍性を説かなくてはならないのである。その
基盤は
明瞭であろう。「人間」である。たとえば、言語を
一般的にヒトが持つ特質と見なせば、そこには明白な
普遍性が認められる。【4】国語・国文学を、そこに
基礎づける。その作業は、脳生理学者に任せておけばいいというものではあるまい。小説家であろうと、車には乗るはずである。テレビも見れば、映画も
鑑賞するであろう。それなら国語の脳機能としての特質を考えて、なんの不思議もあるまい。
3. 【5】日本語の脳の関係については、やはりすでに『考えるヒト』で述べたことがある。たとえば日本における
漫画の流行は、音訓読みという日本語の特性と
切り離すことはできない。この場合、
漫画はアイコンであり、アイコンは古い形式の漢字と同じものである。【6】アイコンとは、「もとのものの性質を一つでも残した」記号だからである。このアイコンにルビを
振る。そのルビが
漫画では
吹き出しに相当する。こうしたことを外国人に説明するのは至難である。かれらはそもそも音訓読みが理解できないからである。
4. 【7】中国語が
孤立語であったため、日本語はその文字を取り入れ、しかも音訓の両読みを開発することができた。それなら
朝鮮語はなぜそれをしなかったか。そこに言語の歴史性がある。
ヴェトナム語は訓読みを発明したかもしれないが、アルファベット表記に変わってすでに半世紀以上が過ぎてしまった。【8】その意味でいうなら、日本語は世界でもきわめて特異なことばなのである。国語の先生は、そのことを理解し、生徒にそれを教えているだろうか。
5. あるいは日本語は「読み」のために脳の二
ヵ所を利用する。【9】こ∵ういうことばは、おそらくほかにない。だからこそ寺子屋では「読み書きソロバン」だったのである。プラトンを読めば、古代ギリシャでソフィストたちが教えたのは「弁論術」だとわかる。日本語はおしゃべりを教えてお金を取ることはしない。【0】「読み書き」を教えるのである。だからこそまた、日本では
文盲率がきわめて低い。日本語は視覚言語性が高いのである。
6. 日本語文法の形式もまた、十分には理解されていないらしい。日本語に
定冠詞はないというのは、英文法の授業でさんざん教わることである。それなら、「昔々おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山に
芝刈りに」という文章における、助詞「が」と「は」の使い分けはなんなのか。
定冠詞は語の前に来る。そういう形式的反論があるなら、ギリシャ語では
定冠詞の位置は語の前でも後でもいいといおう。文法は形式でもあり、機能でもある。助詞には
冠詞機能が認められるといってもよいであろう。
7. 脳から見た国語には、さまざまな主題が見つかりそうである。それを探求するのは、国語の専門家であって、いっこうにおかしくない。対象を限定することで「専門家」を育て、対象の分類によって学問を分類する時代は終わったと私は思う。学問とは方法である。国語を知るためには、いかなる方法を利用してもいいのである。情報化時代とは、じつはそれを意味している。
8.(養老
孟司「国語と脳」より)
長文 2.2週
1. 【1】大きな災害の直後の映像を思い返してみると、
被災地にいた人たちの表情は(一部、
茫然自失状態の人を除いて)、いきいきとしていた。
彼らの表情は数日のうちに
疲弊して生気のないものに変わっていったけれど、直後はいきいきとしていた。【2】あのときのいきいきとした状態を、私は「生きがい」や「
充実感」と同じものだと考える。というよりもむしろ、「生きがい」や「
充実感」の典型的な状態だと考える。「
充実」という心の状態は、危機に直面したときに最も強く起こるものなのだ。
2. 【3】スポーツやゲームで味わう「
充実感」は、危機に直面したときに起こる心の状態を、不快と感じる手前のところに調整した(つまり「
緩和した」)ものだと私は思う。この、危機に直面したときの心の状態は夢の中で感じる心の状態と同じものだ。【4】
比喩的な意味で同じだというのではなくて、事実として同じということだ。私たちは危機に直面したときも夢の中でも、「結果」なんか考える
余裕もないまま、ひたすら「プロセス」に
没頭する。――リアリティということで言うなら、二つの場面で同じリアリティを感じている。
3. 【5】神話が夢と同じように表面的には
荒唐無稽で、しかしその意味する内実を夢と同じように
分析することが可能である理由は、神話が夢に起源を持つからなのだが、スポーツやゲームの起源もまた夢なのだと私は思う。【6】夢には必ず強い
拘束感がある。その
拘束感がスポーツやゲームで「ルール」に変形した。人間は自由であることばかりが楽しいわけではなくて、ルールという
拘束の中で何かを達成することの方がずっと「
充実」することができる。【7】神話は夢の解消や
昇華ではなくて、もっとずっと生な、夢の反復だ。スポーツやゲームもまた、
覚醒時になされる夢の反復なのだ。
4. 【8】フロイトは夢(夢で反復される無意識)を、現実の中で
把握しそびれた体験という観点から、体験を正しく定着させることで、現実の中に解消しようとしたけれど、人が夢を見るかぎり、夢は現実の中で起こる気持ちの原型として機能しつづける。∵
5. 【9】また、
分析によって、過去の体験を
把握し直して過去に
拘束された夢を見なくなったとしても、人は生きているかぎり新しい体験を重ね、それが夢として反復される、という構造の外に出ることはできない。
6. 【0】それにしても夢というのは、考えなければどうと言うことのないものだけれど、考えはじめるとキリがなく面白く感じられるという独特の性質を持っている。「外がない」と言えばいいのか、現実と夢との「入れ子構造になっている」と言えばいいのか、「
沼のようだ」と言えばいいのか……。私はさっき、「スポーツやゲームで味わう『
充実感』は、危機に直面したときに起こる心の状態を、不快と感じる手前のところに調整したものだ。この、危機に直面したときの心の状態は、夢の中で感じる心の状態と同じものだ」と書いたけれど、ここまできて私は、「危機に直面したときの心の状態」さえも、「夢の中で感じる心の状態」に起源を持つものなのではないか、と感じはじめている。
7. つまり、大人になってもなお
真剣になることができるようなこととは、すべて夢の中で感じる心の状態が源泉として働いているのではないか、ということであり、人間にとってのリアリティの源泉とはすべて夢にあるのではないか、ということだ。リアリティという点から考えると、夢こそが「主」であって、現実はすべてが夢に従属している、ということになるのではないだろうか。
8.(保坂和志『世界を
肯定する
哲学』による)
長文 2.3週
1. 【1】人間は、合理的にものを考える動物であると同時に、非合理な感情をそなえた動物でもある。言葉の意味にも、明示的な意味(デノテーション)と、
含意的な意味(コノテーション)がある。【2】「感ずる」と「感じる」とでは、デノテーションはおなじだが、前者にはカミシモを着たような
雰囲気があり、後者にはふだん着の
雰囲気があって、コノテーションはずいぶんちがう。乱暴にいえばレトリックとはデノテーションではなくコノテーションに注目する姿勢のことである。
2. 【3】シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)は一枚のコインの裏と表のようなもので、切りはなすことはできない。だから言葉では、
贈りものの中身と包装のようには、内容と表現を切りはなすことができない。【4】言葉は
陰に
陽にいつもレトリックをひきずっているわけで、レトリックが市民権をえた今日、――とくに、言葉をなりわいにする人たちのあいだでは――内容と表現を区別することは、
時代遅れもはなはだしい態度であり、「……はたんなるレトリックにすぎない」という発言などは、シーラカンスの合言葉とみなされる。
3. 【5】「豊か」な消費社会では、サービスや気持ちが重視され、おしゃれであることが重要なポイントになる。おしゃれでないことは、「貧しさ」を連想させるからだ。コノテーションがデノテーションを
圧倒する現象がふえてきた。【6】ペン習字のお手本のような字より、変体少女文字のほうが、おしゃれでかわいい。
4. 中身と包装、内容と形式の二分はむなしいというのが、レトリック派の言い分である。けれども世の中は、言葉やイメージや気持ちだけで動いているわけではない。【7】農業や製造業の就業者数がへったからといって、非製造業だけで暮らしがなりたつわけではない。かりに日本が完全な非製造業国になったとしても、世界のどこかには農業や製造業がなくてはならない。
5. 【8】変体少女文字で書かれた文章も、ペン習字のお手本のような字で書かれた文章も、ワープロでおなじ活字に
変換すれば、字体の
雰囲気など問題にならなくなる。「感ずる」と「感じる」とでは、コノテーションはちがうかもしれないけれども、デノテーションはおなじだ。【9】「感ずる」と書くか、「感じる」と書くかは、たんにレトリックの差にすぎない場合がある。しかも、言葉がもちいられるのは、やはりそのような場合が多いのではないだろうか。∵
6. 残念ながら文学でも、内容と形式に二分できるような作品がゴロゴロしている。【0】逆にいえば、内容と形式に二分できないような作品だけが、一流と呼ばれるのだ。きわめて
抽象的なメディアである言葉は、もっともタチのわるい包装となることがある。
7. マス・イメージで連呼される「おいしさ」や「おもしろさ」の中身は、どうなのだろう。クルマのコマーシャルの
舞台となっている外国のように、交通事情はいいのだろうか。空気はきれいなのか。
普通にはたらけば、ゆったりした家が買えるほど、土地は安いのだろうか。日本はほんとうに「豊か」なのだろうか。派手で
豪華な
結婚式は、暮らしの貧しさやつまらなさを証明しているのではないだろうか。「豊か」な包装をちょっと破っただけで、中身の貧しさがすぐに見える。貧しいからこそ、必死になって豊かなイメージを追いかけているのかもしれない。
8. そのむかし、三木清は「もう
分析にはあきあきした。それよりいまはレトリックを必要とする時代だ」と言った。だが、現代のシーラカンスは、「……はレトリックにすぎない」という合言葉をつぶやきながら、三木清の言葉をひっくりかえす。もうレトリックにはあきあきした。それよりいまは
分析を必要とする時代だ。
9.(
丘沢静也『からだの教養』による)
長文 2.4週
1. 【1】考えてみれば、発達成長の段階にある子供が大人より
遙かに活動的であることは当然である。子供が遊ぶ時には体や衣服が
汚れるのは自然なのだから、
汚されても困らない服を着せ、遊びにはつきものの多少の品物の損害やカスリ傷などは、【2】子供の生育に必然的に
伴う当然の
代償として一々小言を言わず、社会的な場面や本質的に
矯正を必要とする
事柄に限って
断乎と
叱るようにすれば、家の子は言うことをきかなくて困りますというような結果には、まずならないものである。【3】それをビラビラした
飾りのついた活動に不便な高価な服を着せ、ちょっと
汚したと言っては
叱り、
跳ね回ると危ないからよせと言い、物を
毀せば、もう買ってあげませんよと
威すといた具合に、禁止と規制の
範囲をやたらと拡げてしまう結果、【4】子供としては
叱られることなど気にしていたら生きて行かれなくなる状態に置かれるから、親の小言はひとまず無視する
癖がつくことになる。つまり、禁止の
範囲が不条理を
含み、本質的に山かけ的であるため、制止された場合はひとまずそれを無視して行動を続けるのが得策というパターンが身につくのである。
2. 【5】このようにことばを使う方が、言ったことを本当に守らせるだけの見通しも裏付けもなく使うことの結果として、言語とその背後にある意志の間に大きなズレが生じ、ことばに対する
信頼が失われ、ことばが無力化するのである。
3. 【6】私の見るところでは日本人の日常のことばに対するこのような態度が法律や規制の面で一番よく表れているのが、道路交通法に基づく禁止
条項に対する
一般人の反応である。数限りなくある禁止の
形骸化の実例から
唯一つだけ
駐車禁止の問題を取り上げて見よう。
4. 【7】例えば現在の東京では、
環状七号線の内側は特定する場所を除いて、
一般道路は全面
駐車禁止の対策がとられている。ところが
誰もが知っているように、交番や警察署の目の前ですら、
見渡す限り
違反駐車の列である。【8】文字通り法律の規定通りに
違反駐車をしている車を、本当に
違反駐車として判断し、処置するまでに∵は、いわく言い難きいく段階かのプロセスがあるのは
誰でも知っている事実である。【9】つまり
駐車禁止の標識とは母親が単に「いけませんよ」と言っている段階に相当するのであって、それは直ちに実力の裏付けと組み合わされているものではないのである。しかしだからと言っていつでも無視してよいものではないことも
誰でも知っている。【0】本当に
叱られた子供と同じく、
罰金をとられる運転者も、不条理性とか運が悪いといった気持で自己の
違反を受けとめるのであって、悪いことをしたのだから止むを得ないという割り切った気持にはなれないしくみになっているのだ。
5. 法のカバーする
範囲を
極端に広くしておいて、
懲罰と反則
行為との直接的対応を弱めてしまうことは、法の
威信の低下、禁止など無数の標識に対する無感覚の助長など無数のマイナスが
指摘出来よう。標識関係の経費が全国では
莫大な金額にのぼっていることも忘れてはなるまい。むしろ絶対にゆずれない局限された場所と時間に禁止を限り、
取締りの能力と連動した規制を行うという発想の
転換が必要ではないだろうか。そのためには、私たち日本人がもっと、投入するコストと実効との関係、山かけ発想の危険性に今より
敏感になり、明示的一義的に
解釈可能な領域に
於ては
行為の意図よりも結果で物ごとを決定するような態度を育成する必要があるように思う。ニューヨーク州でマリファナ使用を合法と認めるかの議論があった時、強力な賛成意見の一つに現在の警察力では
取締り切れないからというのがあったが、これなど
違反行為と
懲罰の直結性を重く見る考え方の一例として参考になるのではないだろうか。
6.(
鈴木孝夫『ひとにはどれだけの物が必要か』による)
長文 3.1週
1. 【1】写真が物語化する装置だということは、
肖像写真やスナップ写真のばあいでもいえる。かつてひとは自分というもののイメージを、内面の
記憶と鏡に映ったイメージとから得ていた。【2】ところで、そもそも自分とはなにものかというアイデンティティーにかかわる自己像もまた、それ自体始まりも終わりももたない意識の持続のなかに
把持されたそのつどバラバラの
記憶を、ひとつの全体性へと統合することで得られたイメージであり、【3】つまりは
記憶の物語である。
記憶の物語においてはじめて「わたし」は、他の登場人物から区別された主人公として、そのくっきりとした
輪郭をあらわす。
2. 【4】写真発明以前に、ひとが
記憶にない幼年時代の自分のイメージをもつことはなかった。こんにちひとは自分というものを、
記憶にはない幼年期の自分をもふくめて、アルバムに残された多様なイメージの総体として理解している。【5】とすれば、
肖像写真やスナップ写真を
介してひとは、あたらしい自己
了解の様式、あたらしい自己像の物語をもつことになったのである。
3. 写真が可能にする「わたし」の
記憶によらない自己像は、いわば外から、他人の目から見た「わたし」の物語である。【6】自分の写真が
匿名の視線にさらされるとき、それは知らぬところで知らぬひとによって、「わたし」のもうひとつの物語が語られるという危険を、それゆえアイデンティティーの危機をもたらすだろう。
4. 【7】写真を
介して、他者による物語が
押しつけられるという
状況は、まずは
肖像写真とは似て非なるもの、つまり顔写真という、写真がつくりだしたあたらしいジャンルにおいてあらわになる。そこに刻印された
囚人や病人や貧民たちは、もっぱら告発され、
追跡され、
監視されるものとしてのイメージをみずからに引き受けて生きるほかはない。【8】ポルノ写真のモデルたちも、これを見る
匿名の「男」がそこに
投影する欲望のファンタジーを、みずからのジェンダーの物語として受けいれる。報道写真においても、
飢饉や戦争にあえぐひとびとは、これらの写真をお茶の間で見るものに∵は、ジャーナリズムの
標榜するヒューマニズムの物語の登場人物として受けとられるだろう。
5. 【9】現代では、
肖像写真と顔写真との境界はきわめてあいまいなものとなっている。学生証、パスポート、運転
免許証、身分証明書はもとより、卒業写真アルバムにならべられたクラスメートの写真や新聞でいつも目にする政治家たちの写真にしても、完全に顔写真のフォーマットにおさまっている。【0】思い出のスナップ写真も、トリミングによって容易に手配写真に転じる。
6. 最近では、女子高生たちが友達どうし、インスタント・カメラでわけもなく写真を
撮りあうことがはやり、また「プリクラ」で
撮った写真を街中にはったり、見知らぬひとと
交換することが流行している。いずれも、おたがいに直接にむきあうことのない
希薄な人間関係と、おおむね満たされてとりたてていうことのない日常のなかで、写真を
撮ることによってこれをなんとかくっきりとしたひとつのできごととしてとらえようとし、あるいはイメージの
交換・流通によって、ようやく他人とのコミュニケーションを確保しようとしているというべきだろう。そしてこれらの「物語ゲーム」もまた、現代における
肖像写真と顔写真のあいだの視線の
揺れを反映しているだろう。
7.(西村清和の文章による)
長文 3.2週
1. 【1】
岡潔先生のお考えはこうである――私たち日本民族には、人の喜びを自分の喜びとして、人の悲しみを自分の悲しみとして体得することができる心情があるという。【2】
蕉門の物のあわれを感ずる心、思いやりの心、情(
情緒)であって、仏教でいう、自他の対立のない非自非他の心境(真我、大我)に
徹しさせる無差別
智である。この
知恵が、私たち日本民族をかくも栄えさせているのだといわれる。
2. 【3】トインビー博士のご意見はこうである――人間にとって、物質的な面よりも重要なのは、自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ることである。もともと、これは人間の天性にとって非常にむつかしいことである。【4】個人の
生涯であれ、社会の歴史であれ、人間の悲劇はすべて、この面の
倫理的努力を人間がおこたったことから出発している。そして、この協力の心を教え、指導するのは宗教であるといわれる。ちなみに、英語の宗教religionということばの語源は、結びつけるという意味である。
3. 【5】
岡潔先生とトインビー博士の表現の
違いは、
培われた精神的風土の
違いによるのであって、願う心は同じである。私は、
岡潔先生やトインビー博士の願う心を受けいれるのに決してやぶさかではないどころか、私の心はそれにいたく共鳴している。
4. 【6】しかし、そうはいっても、あの顔つきはいやだ、あの
皮膚の色は好かない、あの主義主張は気にくわないといわれてしまえばそれまでである。そうなると、私たちは、もっと
掘りさげて、文句なく
理屈ぬきで、相手を認めることができる足場を探さねばならない。【7】幸いにも、その足場を、私は、脳の仕組みのなかに求めることができたと信じている。
5. それはいのちの座である脳幹・
脊髄系である。脳幹・
脊髄系は、人種の
違い、民族の
違い、ことばの
違い、イデオロギーの
違い、風習の
違い、
皮膚の色の
違いなど、【8】精神的、肉体的のすべての
違いを
超越して、ただ
黙々と私たちの身体の健康を保障してくれているいのちの座である。脳幹・
脊髄系には、全く色がついていない。
6. 私たちは、前頭連合野の働きによって、自分のいのちに限りない
執着をもっている。【9】そんなに
執着の心があるのなら、全く個∵性のない、共通の構造と働きをもっている他人の脳幹・
脊髄系なら、無条件に認めることができ、そこに営まれるいのちだけは、
理屈ぬきで
愛惜することができるのではなかろうか。
7. 【0】私たち人間の死とは、個性をもった人格者の
消滅であることには異論はなかろう。そうであるなら、前頭連合野のすばらしく発達している新皮質系の機能の
喪失したときが、人間の死といえよう。しかし、私たち日本人は、西洋諸国の人々と
違って、脳幹・
脊髄系だけで生きている「植物人間」に対しても、あらゆる努力を
払って生きながらえさせようとしている。「植物人間」から、移植用の心臓を切りだすことを許さない私たち日本人の心情、すなわち、生に対して限りなく「思いをかけ」、「思いをのこす」心根は、脳幹・
脊髄系のいのちを
お互いに認めあうという発想にたって、はじめて納得できるのではなかろうか。
8. とかく
空虚な
響きとして耳をかすめがちな「生命の尊重」ということば――その意味をここまで
掘りさげ、心の
奥深く定着させ、それによって、日々の行動を規制してゆきたいものである。複雑に
絡みあう集団と個の対立、個と個の対決によって、ますます非合理的存在者として生きてゆかねばならないよう運命づけられている私たち人間は、「生命の尊重」の決意によってのみ、将来の人類の
繁栄が期待できるのではないかと、私には思えてならない。
9. これについて思いだされることは、先年亡くなったアフリカの聖者アルベルト・シュバイツァー博士の説く、「生への
畏敬」の精神であって、私の願いは、「われわれは、生きんとする生命にとりまかれた、生きんとする生命である。」という博士のきびしいことばに
凝集している。
10. そして、シュバイツァー博士のこの精神は、ダグ・ハマショールドの日記につづられた次のことばによって、よりいっそう
高揚されている。
11. 「われわれの生きようとする意思は、生が自分のものかひとのものかを意に
介せずに生きてゆこうと思うようになって、はじめて確固たるものになる。」 (時実
利彦「人間であること」岩波新書)
長文 3.3週
1. 【1】多くの場合、病人を病院に送りこめば、とりあえず家族は一安心出来る。少なくともそこは、自宅とは比べようもないほど人的、物的な条件が整い、病人に必要な手当ての態勢が整えられている
筈なのだから。
2. 【2】したがって、重い病人を入院させるのは当然の
行為であり、これを非難する
謂れは全くない。しかし一方、本人を病院の手に委ねた時、周囲の者がほっと一息つける心の底のどこかには、自分が苦しみを
見詰める直接の責任者の立場から半歩退くことが出来た、という
哀しい安心感が
蠢いてはいないだろうか。【3】眼を
逸らせた、というつもりはない。しかし、
薄く眼を閉じて視野を
狭めるほどのことはしたのではないか。そしてこの止むを得ざる心の動きが、
畳の上で人の死ねなくなったという事態に、どこかで
繋っているような重い気分が
振り払えない。
3. 【4】もちろん、
畳の上で死ねさえすればいいのではない。
畳の上での死の実現には、病院で
迎える死の場合とは
比較にならぬほどの苦しみが、病人とその家族に
襲いかかる可能性が強い。だからこそ、老いた病者を病院に送り入れた時、家族は
僅かに救われ、なにがしかの苦しみの軽減を手に入れる。【5】その
経緯を
誰も責められはしない。
4. 考えてみれば世の中は、苦しみを少しでも軽いものとし、手を
尽くしてそれを弱める方向へと動いているようである。最期の近い病人に対しては、苦痛を取り除くことまでは無理としても、それを最小限に
抑える配慮は
医療面でも
払われているのだろう。【6】そしてその種の手当てが自宅では
充分に行えぬとしたら、病者は病院に入れられねばならない。この直接的な苦しみの
排除と、苦しむ者を
見詰め続けねばならぬ、いわば間接的な苦しみの
回避とが結びつき、人は
畳の上で死ぬ力を失ってしまったのではないだろうか。
5. 【7】別の見方をすれば、
畳の上で死ぬことには自他ともに
凄じいエネルギーが必要だったのだ。そして苦しみを遠ざけ、それを∵
避けようとする正当な努力が、しかし苦しみを直視し、苦しみに向き合う力を、いつか人間から
奪い去る
傾向を助長しつつある。
6. 【8】その問題は、他の場所にも様々な形で顔をのぞかせているのではあるまいか。たとえば、子供の読む童話や民話の本から、
残酷な光景や死に関る部分が取り除かれたり、
隠されたりするのだとしたら、これは幼い心から予め苦しみを遠ざけることによって、苦しみとつき合う機会を
奪う結果となるだろう。【9】
小・中学校の国語の教科書
編纂に際し、動物の死を
含むような暗い内容の文章を採用しにくいため、教材の
選択に苦労する、との話も聞く。これなども、苦しみや痛みに対する予防処置の一つといえるかもしれぬ。【0】少しずつでも苦痛に
触れさせて慣らすことを考えるのではなく、その種の課題を最初から
排除してしまう。子供や生徒が
嫌ったり
拒んだりするからというより、教える側の大人が
怯むのではないか。苦しみを教える苦しみからの
逃避の姿勢がそこに見られる、と考えるのは見当
違いであろうか。
7. 世の中全体が、苦しみから身を
躱(かわ)す術に長けて来た。見なければそこには存在しない、という
信仰が広まりつつある。そして事実を置き去りにしたかかる
信仰を支える装置とでもいったものが、大きな規模で生み出されて来た。その装置や仕組みのいずれもが、幸福とか、安心とか、平和とか、休らぎとかを目指している。つまり、
信仰にはそれなりの正当性と物的保証がある。
8. そして、人は苦しみの
消滅に出会う。
畳の上で死ぬことを望むのは、最早どこから見ても
時代遅れなのである。今やわれわれは、ろくに
畳の上で生きてもいないのだから――。
9.(
黒井千次『老いの時間の密度』)
長文 3.4週
1. 【1】地のままの金から
鋳造された金貨へ、軽くなった金貨から
兌換を保証されている
紙幣へ、
兌換保証を失った
紙幣からエレクトロニック・マネーへと
変遷していく
貨幣の
系譜――【2】それは、まさに、「本物」の
貨幣のたんなる「代わり」がその「本物」の
貨幣になり代わってそれ自体で「本物」の
貨幣となってしまうという「
奇跡」のくりかえしにほかならない。もちろん、現実の歴史はこのような
系譜をそのまま順を追ってなぞってはくれない。【3】
飛び越しもあるだろうし、
後戻りもある。だが、ここで重要なのは、どの時代においても、「本物」の
貨幣とはそのときどきの「代わり」にたいするそのときどきの「本物」にすぎず、「本物」の
貨幣の「代わり」とはそのときどきの「本物」にたいするそのときどきの「代わり」にすぎないということである。【4】そして、このような「
奇跡」のくりかえしをとおして、
貨幣の
貨幣としての価値とモノとしての価値のあいだの
乖離が拡大していく
傾向をもつ。
2. 今度は、逆に、
貨幣の
系譜を現在から過去へとさかのぼってみよう。【5】エレクトロニック・マネーから
紙幣、
紙幣から金貨、金貨から……と
順繰りにたどっていくと、地のままの金へとたどりつく。しかし、
金塊や砂金がこの世の最初の
貨幣であったわけではないだろう。【6】
燦然とかがやく金といえども、それ以前に流通していた「本物」の
貨幣の「代わり」として流通のなかに登場してきたのにちがいない。たとえば、ポール・アインツィヒが著した原始
貨幣にかんする書物をひもといてみれば、そこには、金のほかに、銀、銅、青銅、鉄、
鉛、【7】黒曜石、石の円版、ガラス玉、
陶片、指輪、塩、矢、刀、
斧、
鉄砲、木材、樹皮、小麦、大麦、トウモロコシ、米、ココナッツ、ココア、アーモンド、ヤム
芋、砂糖、茶、ラム酒、ジン、タバコ、笛、
太鼓、毛布、
麻布、綿布、絹布、羽毛、毛皮、【8】皮革、牛、羊、水牛、
豚、トナカイ、干し魚、バター、子∵安貝、
法螺貝、カタツムリ貝、
鯨の歯、犬の歯、
豚の歯、
蜜蝋、そして人間のドレイといったありとあらゆるものが、古今東西にわたって
貨幣として流通していたことが書かれている。【9】そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、
貨幣が
貨幣であることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。なんらかの意味での
耐久性さえもっていれば、どのようなモノでも
貨幣として使われてきたのである。【0】だが、ここで強調すべきことは、たとえそれが鉱物であったとしても、植物であったとしても、動物であったとしても、人間であったとしても、さらにまたそのいずれにも分類できない得体の知れないモノであったとしても、
貨幣がこの世にはじめて
貨幣として登場したその
瞬間に、それはモノとしての価値を上回る
貨幣としての価値をもつことになったということである。そもそもその始原から、
貨幣としての
貨幣とはモノとしての存在以上の存在であり、モノとしての
貨幣とは
貨幣としての存在以下の存在である。カッコがつかない本物の
貨幣、いや本モノの
貨幣という言葉は、
自家撞着以外のなにものでもない。
3.
貨幣の
系譜をさかのぼっていくと、それは「本物」の
貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」の
貨幣になってしまうという「
奇跡」によってくりかえしくりかえし寸断されているのがわかる。そして、その
端緒にようやくたどりついてみても、そこで見いだすことができるのは、たんなるモノでしかないモノが「本物」の
貨幣へと
跳躍しているさらに大きな断絶である。無から有が生まれていたのである。いや、
貨幣で「ない」ものの「代わり」が
貨幣で「ある」ものになったのだ、といいかえてもよい。
貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。
4.(
岩井克人『
貨幣論』による)