a 長文 4.1週 ha
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
大丈夫だいじょうぶ、寒くない、寒くないぞ。」
 ぼくはドアを開けて外へ飛び出した。
 もうすっかり春とはいえ、半ズボンはさすがに寒い。しかし、これに負けていてはいけないのだ。ぼくには自分を鍛えきた 直して健康になるという、大きな目標があるのだから。
 ぼくは体が弱い。すぐにのど痛くいた なって熱が出るし、お腹 なか壊すこわ し、貧血になる。苦しい思いはたびたびしてきたが、今までそれで困っこま たことはなかった。周りもみんな気をつかって、助けてくれていたからだ。
 だが去年、ぼくは高熱を出してしまい、林間学校に参加することができなかった。その旅の様子は、みんなから聞いた話と、撮らと れた写真でしかぼくには分からない。みんな最高に楽しそうな笑顔で写真に写っている。
 だれにからかわれたわけでもなかったが、自分がみじめで悔しいくや  思いがした。だからぼくは一念発起したのだ。今年は日光への修学旅行がある。それには絶対に参加するのだ、と。
 そのため、手始めにぼくは半ズボンをはいて通学し、寒さに慣れることにした。
大丈夫だいじょうぶ恥ずかしくは    ない、恥ずかしくは    ないぞ。」
 ぼくは自分に言い聞かせて、ドアを開けて教室に飛び込んと こ だ。見慣れないぼくの半ズボン姿すがたに、友人たちは実にいろいろな反応をした。「えっ。」という表情になる人もいたし、「なに、その格好。」と笑う人もいた。しかし、そのくらい、なんてことはない。これは目標達成のための、ぼくなりの努力なのだ。笑いたければ笑えばいいという感じである。
 そもそも、体育のときはみんな短パンで運動しているのだ。私服しふくの半ズボンだけ恥ずかしは   がることはないはずだ。ぼくはいつもどおりに挨拶あいさつをして、席に座っすわ た。ぼく覚悟かくごが伝わったのか、友達もすぐに何も言わなくなった。
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 目標のためなら、人間は大胆だいたんな行動がとれる。むしろ、大胆だいたんな発想や決断なくしては人間の進歩はないと言っていい。そう考えると、ぼくの似合わない半ズボン姿すがただって、まるでピカソの芸術やエジソンの発明のように輝かしいかがや   ものではないだろうか。
 この前の朝礼のとき、校長先生が「寒い日が続きますが、今朝、わたしの横を元気に駆け抜けか ぬ ていった生徒が半ズボンで……」という話をした。それは間違いまちが なく、ぼくのことだ。やはりこれは誇っほこ ていいことなのだと実感した。ぼくはこれからも半ズボンをはき続けていこう。
大丈夫だいじょうぶ。寒くないぞ。」
 ぼくは、今日も半ズボン姿すがたで元気に学校に向かう。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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長文 4.1週 haのつづき
 こうしてこれまでに人間は、平和のための備えをし、平和のためと称するしょう  戦争を始め、いつしかそれが人間から平和を奪ううば ただの戦争になっていた、という経験をしばしばしてきました。備えをすることが全く不要だとは言えないでしょうが、平和というものが相手のある問題、他者との関係である以上、備えさえあれば平和でいられるという単純たんじゅんなものではないことも、次第に明らかになってきたのです。
 加えて、平和についての思索しさくが進むにつれ、こういう別の問題も意識されるようになります。すなわち、戦争さえなければそれで平和と言えるか――。
 たとえば、多くの人々が極度の貧困ひんこんにさいなまれ、飢えう に苦しんでいるような社会は平和だろうか。また、人種や性による差別が根強く残り、女児の就学しゅうがく率が男児のそれよりもいちじるしく低いような社会は平和だろうか。あるいは、字が読めないばかりに十分な社会参加ができず、自分たちが不利益をこうむっていることさえ気づかない人がたくさんいる社会は平和か。そういう問題です。
 一九六〇年代も終わるころ、それらもまた暴力と呼ぶよ べきだ、と主張する学者が現れました。ノルウェーのヨハン・ガルトゥンクという人です。いま述べたさまざまな問題は、だれかが誰かだれ 殴っなぐ たり殺したりするという意味での暴力ではないが、みずから望んだわけではない不利益をこうむる人は確実にいるのだから、それもまた別のかたちの暴力と呼ぶよ べきだという考え方で、その種の「暴力」に「構造的暴力」という名前をつけました。これに対し、人を殴っなぐ たり殺したりするような種類の暴力を「直接的暴力」と呼びよ ます。
 「構造的」という言葉づかいはあまりなじみのないものかもしれませんが、おおよそ次のような意味です。たとえば、一つの社会の中で、一方には巨額きょがくの富を占めし 飽食ほうしょくしている人がいる。もう一方にはいくら働いても十分な収入しゅうにゅうが得られず、あるいは職さえも得られず、十分な食糧しょくりょうさえ得られない人がいる。それが当人たちの能力ややる気の問題ではなく、富の配分の仕組みが不適切であることの結果であるとしたなら、また、特定の人種や性が原因でなかば自動的に貧困ひんこん飢餓きがの中に閉じ込めと こ られているとしたなら
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―それは社会構造が原因で生み出されている暴力と呼ぶよ ほかないのではないか。富める人々が貧しい人々を殴りつけなぐ   飢えう させているのではなく、したがって加害者は特定できないが、社会構造の被害ひがい者はいるという意味での「暴力」なのではないか。
 この構造的暴力ろんは、それまでの平和ろんの見落としていた点を浮き彫りう ぼ にし、新たな地平を開くものでした。それまでは「戦争のないこと」が「平和」だとされていたのに対し、戦争がなくとも「平和ならざる状態」はある、という視点してん理論りろん化するものだったからです。その背後はいごには、平和とは何より社会正義の問題なのではないか、という問題意識があります。人間が自分の責任によらないことで差別され、排除はいじょされ、悲しみ、傷つくきず  のは平和とは言えないのではないか、という問題意識です。
 平和研究の課題は一挙に広がりました。戦争や武力紛争ふんそう軍拡ぐんかくが主題だった(少なくともそう信じられていた)のに対し、貧困ひんこんや開発や人権じんけんや平等といった、いわば非軍事的な社会問題に関心を広げていったのです。いまでも平和研究といいますと戦争や軍拡ぐんかくの研究ですねと言う方が少なくありませんが、けっしてそうではありません。それ以外の問題に対する関心も高く、その中にはジェンダーとか環境かんきょうとかいった、今日的な問題も含まふく れます。それは単に「研究対象を広げた」ということではありません。暴力の意味が変わり、平和の意味が変わったからそれらの問題が必然的に平和研究に入り込んはい こ できた、ということなのです。

(最上敏樹としき『いま平和とは』)
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a 長文 4.2週 ha
 里山を歩いていると何人ものハイカーとすれちがいます。それぞれの人は何かの楽しみを求めて里山を訪れおとず ているのです。遠い故郷こきょうのかわりに、ダイエットのため、おいしい空気を吸うす ため、写真をとったりスケッチをするため、バードウォッチングのため、つりのため、などさまざまでしょう。それぞれの目的を気持ちよく、楽しく達成させてくれるのが里山の景観であり、それを構成する野生生物を中心とした自然です。
 おく武蔵むさしの里山を訪れおとず たときのことです。秋の終わりで道ばたの草もほとんど枯れか ていました。せまい谷間に農家が点々とあり、だんだん畑がきれいに整備されています。雑木林やスギ林もきれいに手入れされています。たいへん美しい景観です。しかし、村のあちこちに立てられた看板かんばんが目ざわりです。看板かんばんには、「駐車ちゅうしゃ禁止」とか「ゴミを捨てるす  な」とか、「私有地しゆうちにつき立ち入り禁止」とか、「山野草の花をつむな」とか、そして「山野草の採集は窃盗せっとう罪」とまで書いてあります。何か殺伐とさつばつ しています。里山をきれいに維持いじしている村の人びとにとって、ハイカーのマナーの悪さは目にあまるのでしょう。
(中略)
 今、美しく維持いじされている里山は、必要なてまひまをすべて山里の人びとの善意ぜんいに負っています。たまに訪れるおとず  わたしのようなハイカーが里山を楽しむとき、山里の人びとの善意ぜんいにただあまえているだけです。また、里山には治山、治水という機能があります。山が荒れあ 土砂どしゃを川に流しこみ、中流や下流に水害をおこさせないようにするはたらきです。おいしい水を川へゆっくり供給きょうきゅうするという機能もあります。
 わたしは、里山を私有しゆう財産という枠組みわくぐ のなかだけで考えていたのでは守れないと思います。都市に暮らすく  人びとが、大切な里山を維持いじしてもらえるように山里の人びとに対して相応の負担ふたんをするべきではないかと考えています。それは金銭的な補助ほじょもあるでしょうが、人手が不足している里山で下草刈りくさか などの世話をするボランティア活動であってもいいと思います。里山は人間によってつくら
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れ、維持いじされてきた自然だということを考えると、都市の人びとがここを訪れおとず て仕事をする後者のほうがよいと思いますが。これに行政側が資金的な援助えんじょをすればよいのです。
 早春になると里山のウグイスは町までおりてきます。このころには立派りっぱに「ホーホケキョッ」とさえずることができるようになっています。すこし前まで東京の町でもウグイスのさえずりをたくさんきくことができました。最近では都会のウグイスが少なくなってきたような気がします。都会の緑が少なくなってきたことが原因でしょう。それに、緑があっても、かなりとびとびになってしまったことも関係します。ウグイスはしげみを好む野鳥だからです。鳥ですから空をとべますが、体をむきだしにするのは不安なのでしょう。これでは都会にやってくることはできません。
 雑木林に生活する野生動物たちのなかには一生をそこで終えるものもいますが、一時期だけ訪れるおとず  ものもいます。一日の間にある雑木林から別の雑木林へと移動しながら食べ物を食べるサルのような動物もいます。里山と平地を行ったり来たりするウグイスのような動物もたくさんいます。開発が進む里山では、新しい道路がつくられ、野生動物たちが訪れるおとず  林が分断されることが多くなりました。このため、里山の野生動物の交通事故がめだってふえているようです。「シカに注意」とか、「タヌキに注意」といった道路標識を見かけることが多くなっています。これまたとうぜんですが、シカやタヌキにはこの道路標識は読めません。人間の側の注意と配慮はいりょがもっと必要です。野生動物たちにとっていちばんいいのは緑のコリドー(回廊かいろう)です。野生動物の体をかくしてくれる緑の廊下ろうかです。緑のコリドーとは人間が立ち入らないことにします。野生動物たちは安心して緑のコリドーを伝わって移動できます。工事費が多少高くついても、道路の一部を地面より下のトンネルなどにして緑のコリドーをつくる工夫が必要でしょう。

 (山岡やまおか寛人ひろと『自然保護は何を保護するのか』
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a 長文 4.3週 ha
 読書の楽しみは一人でできる楽しみです。を打つには相手がいる。野球を楽しむには自分の他に少なくとも十七人の賛同者が必要でしょう。そういう楽しみは、いつでもどこでも、というわけにはゆきません。道具や、設備や、場合によっては途方とほうもなく広い場所がなければ、どうにもならない。読書の方は、設備も要らず、どこかへ出かけるにも及ばおよ ず、相手と相談もせず、気の向くままにいつでもどこでもできます。ほたるの光まどの雪というのは、貧富の差が大きく、灯火用の油の値段ねだんが高すぎたむかしの話です。今は電気がいたるところにあるので、だれでも、望めば昼となく夜となく好きな本を読むことができるでしょう。こんな便利な娯楽ごらくはめったにありません。
 しかも、当方の体力とはほとんど関係がない。老人子供こども、病人でも、多くの場合には、それぞれ読んで楽しめます。疲れつか ているときでも、易しい疲れつか ない本を選びさえすればよい。しかもカネがかからない。本が高くなったといっても、どこかの「ファミリー・レストラン」で二、三度食事をする値段ねだんで、大抵たいていの本は買えます。それでも買えないほど高い本は、公共図書館にあり、そこから借りればタダですむでしょう。こんなに安くて便利な楽しみを知らぬ人がいるとすれば、その気の毒な人に同情しなければなりません。
 「オーディオ・ヴィジュアル」の情報が、活字情報を駆逐くちくする(追いはらう)時代が来た、という人がいます。「ヴィジュアル」とは感覚的ということで、たとえば肖像しょうぞう写真が一人の男または女の顔を示すのは「ヴィジュアル」な情報です。しかしその他のだれとも違うちが 顔の特徴とくちょうを言葉であらわすのは容易なことではありません。肖像しょうぞう写真は、活字の何十ページ、いや、おそらく何百、何千ページに相当する情報を一挙に伝えることができます。しかしその男または女が、昨日はソバを食べた、明日はウドンを食べるだろう、という活字の一行に相当する情報を伝えることはできません。肖像しょうぞう写真は人物の顔の現在であって、過去も、未来も、表現できない。ヴィジュアル」な情報と言葉による情報(そのひとつが活字情報)とは、互いにたが  他を補うおぎな ので、一方が他方を駆逐くちくするので
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はないし、一方が他方に代わるのでもありません。言葉は耳で聞くこともできます。耳で聞くのが「オーディオ」。活字の文章は、声に出して読んでテープレコーダーに記録することができるでしょう。しかしそうすることが便利な場合と、不便な場合があります。活字の文章でなく音楽の記録ならば、あきらかにテープレコーダーが便利な道具です。六法全書をテープレコーダーに吹き込むふ こ のは、あまりに不便だからだれもしないことです。要するに活字時代の後に「オーディオ・ヴィジュアル」の時代が来たのではなく、活字情報に「オーディオ・ヴィジュアル」の情報が加わったというだけのことです。どちらも楽しめばよいので、どちらか一方だけを選ぶ必要はまったくありません。
 それでは読書そのものに、どういう種類の楽しみが伴うともな でしょうか。それは人により、本によって違うちが でしょう。もし共通の楽しみがあるとすれば、それは知的好奇こうき心のほとんど無制限な満足ということになるかもしれません。世の中には好奇こうき心を刺激しげきする対象が数限りなくあるでしょうから、対象を移して、好奇こうき心の満足を広げてゆくこともできるでしょう。読書の楽しみは無限です。時間をもてあましてすることがない、といっている人の心理ほどわかりにくいものはありません。人生は短く、面白そうな本は多し。一日に一さつ読んでも年に三百六十五さつ。そんなことを何十年もつづけることは不可能で、一生に一万さつ読むのもむずかしいでしょう。それは、たとえば東京都立中央図書館の蔵書ぞうしょ一五〇万さつ以上の一%にも足りないということです。面白そうな本を読みつくすことはだれにもできないのです。すべての本は特定の言語で書かれています。日本で出版される大部分の本の場合には、日本語です。本を沢山たくさん読むということは、日本語を沢山たくさん読むということであり、日本語による表現の多様性、その美しさと魅力みりょくを知るということもあるでしょう。わたしは本を読んで日本語の文章を楽しんで来ました。それも読書の楽しみの一つです。
 
 (加藤かとう周一 「読書術」による)
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a 長文 4.4週 ha
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
「ばあちゃん、もう春は来とるんかな」
 ヨウはかまどにたきぎをくべているるい婆さんばあ  蒲団ふとんの中からちいさな顔だけを出して聞いた。るい婆さんばあ  はもやのたちこめる暗い土間のすみにしゃがんだままゆっくりとふりむいて、
「春の夢でも見たんかや」
と日焼けした顔から白い歯をのぞかせて言うと、こくりとうなずいた孫娘まごむすめに、
「ああ、もうとっくに日向ッ原ひなっぱらじゃ春の歌がはじまっとるぞ」
とうれしそうに笑いかけた。
 ヨウはおおきな目をかがやかせて、蒲団ふとん跳ねは 上げて立ち上がると、土間のサンダルをつっかけ寝間着ねまきのまま外へ走り出した。
「こらっ、顔を洗っあら てから行かんか」
背後はいごで聞こえる、るい婆さんばあ  の声にヨウは首を横にふりながら、島の南西を見下ろせる裏手うらて段々畑だんだんばたけまでの畔道あぜみちをかけ上がって行った。
 昨日まではぬかるんでいた道をヨウは犬のように跳ねは ながら走る。イモ畑を越えこ 蜜柑みかんの木の下を抜けぬ て、牛のモグがいる小屋の前にたどり着くと、ヨウは立ち止まって朝陽に光る海を見下ろした。
 半月余り続いた雨が上がった瀬戸内海せとないかいは無数の波頭なみがしらが西へむかう鳥の群れのように踊っおど ていた。ヨウはかたで息をしながらおおきな目を少しずつ下げて行く。海原にむかって突き出しつ だ 皇子みこみさき、左手にとんがり帽子ぼうしのように頭を見せるみさきの白い岩肌いわはだが草のひろがる緑にかわると、そこだけ円形のステージのように丸くなった草原、日向ッ原が見えた。
「モグ、見てごらんよ。春が来とるよ。日向ッ原に、いっぺんに春が来とるよ」
 ヨウは大声で叫んさけ だ。
 日向ッ原はまるで花たちが一夜のうちに開花したかのように菜の花とれんげが一面に咲いさ ていた。春風の織ったじゅうたんがヨウの目にあざやかに映っうつ た。
「やっぱり夢で見たとおりだよ、モグ」
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 ヨウはその場で飛び跳ねると は  と、いつものように口をもぐもぐとさせているモグの首に抱きついだ   た。モグはのどを鳴らしてから、ヨウの身体を釣り上げるつ あ  ように首を回した。

伊集院いじゅういん静「機関車先生」)
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長文 4.4週 haのつづき
 最近の日本にはプロフェッショナルが少ないと思います。いつからか専門せんもん家というか、プロフェッショナルが敬遠けいえんされ始めた。なぜそうなったか分析ぶんせきはしていないけれど、結果としてアマチュアがもてはやされる国になってしまった。何のプロでもない者が、日常感覚でものをいうことが大変重要だというような、そんな価値かち観がはびこっています。
 たとえば審議しんぎ会などに参加しても、普通ふつうの人としかいいようのない委員が堂々と日常感覚の意見を述べる。その情報はいわゆるマスコミで取り上げられるような程度で、実際のところはどうなっているのか、そのデータを知らないのに、ある限られた情報げんに基づく日常感覚があたかもすべての判断の基準かのようなことを主張する。またそれがもっともなことのように、マスコミで取り上げられる。最近はそういうことを頻繁ひんぱんに見かけます。
 本来、そういう場は、さまざまな分野のプロフェッショナルの意見を聞くところでした。プロとはあることがらに関する事実がどうなっているのか、少なくともある条件下ではあるにしても、客観的なデータとして把握はあくしています。国というものは、プロフェッショナルが運営しなければ危険きけんきわまりない。もっとも、最近の政治家も大衆たいしゅう迎合げいごうするばかりですから、その程度のアマチュアの政治家が多いということですが。いまの我が国わ くには、この意味では限りなくアマチュアの国になりつつあると思います。
 ここでいうアマチュアとは、その主張の根拠こんきょがほとんどマスコミに出ている程度のことにある人のことです。自分の知っている範囲はんいのことをすべてだと思い込みおも こ 、あたかもそれが正論せいろんであるかのように、堂々としゃべる。そんな風潮ふうちょうが目につきすぎます。
 結局、そういう人たちには謙虚けんきょさがないということです。実際のところはよく知りませんが、わたしの知っている範囲はんいはこうだけど――といういい方をするのが当然なのに、そうではありません。これっぽっちの経験しかないのに、それを拡大かくだいして、人類一般いっぱん普遍ふへん的な話としてどうのこうのというような議論ぎろんまでするわけです。こういう状態を見ていると、この国はどうしようもない国になったなという感じがします。
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 プロフェッショナルがいないということは、いいかえれば、エリートが少なくなったということかもしれません。いい大学に入って、いい会社に入って、というのがエリートという意味ではありません。自分の頭できちっと考えることができる、しかもその座標軸ざひょうじくは古今東西の歴史から、芸術、哲学てつがくに通じ、科学に通じる、それがエリートです。このような広い時空スケールの中に自分の尺度しゃくどを持ち、したがってすべてのことが判断でき、行動できる。それがエリートです。
 秀才しゅうさい呼ばよ れ、大学に残って学者になる人間はいっぱいいます。しかし、現在のいわゆる秀才しゅうさいというのは所詮しょせん与えあた られた問題が解けるだけの人間です。解くべき問題がつくれない人が、多い。問題がつくれない人はエリートではありません。
 戦後教育は、あえてエリートをつくろうとしなかったともいえます。すべての子どもに、最初からがある、などという誤っあやま た前提に立ったために、教育と呼べるよ  ような教育をしてこなかったのではないでしょうか。だから、当然のことながらエリートは育たなかったのです。

松井まつい孝典たかのり『コトの本質』(講談社))
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a 長文 5.1週 ha
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 パーツに接着ざい塗りぬ 慎重しんちょうに土台と組み合わせる。よし、これで完成だ。
 ぼくが集めているものは、プラモデルである。プラモデルといっても、「ガンプラ」のようなキャラクターモデルとは一味違うちが ぼくが作っているのは「しろ」の模型もけいなのだ。
 白鷺城しらさぎじょうとも呼ばよ れる姫路城ひめじじょう、織田信長の天下布武ふぶ象徴しょうちょうである安土じょう、豊臣秀吉ひでよし大阪おおさかじょう、……たくさんのしろを組み立ててきた。
 普通ふつうのプラモデルは簡単かんたんに作れて、完成させたあとに遊ぶことが目的の「おもちゃ」の一種という感じだが、しろ模型もけいはそうではない。作り終わってしまったら、飾っかざ 眺めるなが  しかすることはない。つまり、作ることそのものに意義があるのだ。おもちゃというより工作に近いかもしれない。
 ぼくも昔は、車やロボットのプラモで遊んでいた。しかし、学校の授業で日本の歴史を学び、武将ぶしょうの伝記などを読むようになって、がぜん戦国時代に興味を持つようになった。
 そこで去年、初めてしろのプラモデルを買ってみた。今までと全く違うちが 買い物に、店のおじさんは、ほうっという顔をして驚いおどろ た。
「これは作るのが難しいむずか  よ。接着ざいを使うけど、持っているの。」
 そう心配してくれたが、ぼくは力強く、「大丈夫だいじょうぶです」と宣言せんげんした。
 確かに初めは悪戦苦闘あくせんくとうしたが、すぐに作り方のコツが飲み込めの こ た。
 今では、本棚ほんだなの上にたくさんの空き箱が積み上がっている。この箱を材料にして、さらに巨大きょだいしろの工作が作れそうなほどだ。
 特に気に入っているのが、小田原じょうのプラモデルである。姫路城ひめじじょうや安土じょうより知名度が低いせいか、模型もけいとしての出来栄えはもう一歩なのだが、それでもぼくにとってはいちばんの名城めいじょうである。なぜなら、このしろは今でも地元の神奈川かながわ県に残っていて、ぼく自身も実際に行ったことがあるからだ。
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 しろの中にはいろいろな展示てんじ物があった。戦国武将ぶしょう甲冑かっちゅうやりを見られたことは感動的だったが、外国からの観光客に分かりやすくするためか、忍者にんじゃが使う手裏剣しゅりけんが「シュリケン」などとローマ字で書かれていたのには笑ってしまった。
 自分の手で組み立てた小田原じょう眺めなが ていると、天守閣てんしゅかくから見た景色が思い出される。意識が模型もけいしろの中に入っていき、当時の自分と重なるような気持ちがする。
 ぼくはさまざまなしろのプラモデルを集めることで、そのしろが築かれた背景はいけいや歴史に詳しくくわ  なった。それぞれのしろ特徴とくちょうと、その違いちが 探究たんきゅうしていくことはとても楽しい。それに手先も器用になって、クラスでも頼りたよ にされることが多くなった。
 何かを集めるということは、その物事に興味を持ち、理解を深めていくということだ。集めた物自体も大切だが、それを通じて手に入れた知識や技術が、人間にとって何より大切な財産になるのだと思う。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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長文 5.1週 haのつづき
 成長の速い子供こどもをタケノコのようにすくすく伸びるの  といい、タケノコは昔から成長が速いものの代名詞だいめいしとされてきたが、実際にその成長速度を測った人はあまりいないだろう。竹博士として有名な上田弘一郎こういちろう氏(京都大学名誉めいよ教授)によると、マダケのタケノコで一日に一二一センチメートル、モウソウチクのタケノコで一日に一一九センチメートルも伸長しんちょうした例があるというから、その成長速度はすさまじいものである。とくに昼間の伸長しんちょうは速く、一時間に八〜一〇センチメートルも伸びるの  ことがあるというから、これを換算かんさんすると一分間に約一・五ミリメートル伸びるの  ことになり、タケノコは、見る見るうちに伸びるの  ものだといってよい。雨後のタケノコともいわれるように、雨の降っふ たあとなどは、とくに数多くのタケノコがにょきにょきと現われてくるのであって、そのようなとき、手入れのゆきとどいた竹やぶの緑の中に、茶褐色ちゃかっしょくの皮をかぶったタケノコが無数につき立っているありさまは実にみごとなものだ。
 なぜこれほど多くのタケノコが、これほどすさまじい勢いで成長することができるのであろうか。それは、地下に張りめぐらされた無数の地下茎ちかけいから多量の栄養が供給きょうきゅうされるためであり、また、早くに成長することを止めた親竹が光合成でかせぐ栄養のすべてを、タケノコに供給きょうきゅうするためだといってよいだろう。
 竹の根を掘りおこしほ    た経験のある人は、地下茎ちかけいがぎっしりと張りめぐらされているのを見て驚かおどろ れたことと思うが、そのありさまは実際に掘っほ たことのない人には、とても想像できないものである。上田氏らの調査では、モウソウチク林で、一平方メートルあたり一一メートル、マダケ林では一平方メートルあたり一九メートルもの地下茎ちかけいが張りめぐらされていたという。これらの地下茎ちかけいは、たいへん太いものであるから、竹林の土の中には地下茎ちかけいがぎっしりとつまっているといっても過言でない。四〜五月に出てきたタケノコは、地下茎ちかけい蓄えたくわ られた栄養と親竹から供給きょうきゅうされる光合成産物を利用して急速に伸びるの  が、五〜六月には早ばやと伸長しんちょうを終わ
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り、夏の間は伸びるの  ことなく、つぎつぎと葉を開いて光合成を行う。この時期には、その年に成長した竹だけでなく、前の年あるいはそれ以前に地上に現われた竹も、ほとんど成長することなく光合成で獲得かくとくする栄養分をすべて地下茎ちかけいに送るのであるから、地下茎ちかけいはどんどん大きくなるばかりでなく、栄養をたっぷりと蓄えるたくわ  ことができる。植物の成長にとっても好都合な夏の間、竹はさんさんと降りそそぐふ    夏の太陽のエネルギーを利用してつくる光合成産物を、ほとんど地上部の成長についやすことなく、せっせと地下茎ちかけい送り込んおく こ 蓄えたくわ ている点に注目してほしい。このために、よく春に出るタケノコがすくすくと成長できるのである。
(中略)
 ふつう、一本の若竹わかたけを育てるのに五本以上の親竹の協力が必要だといわれているのに、出てくるタケノコの数はそれよりもはるかに多い。そのため、タケノコ社会でもはげしい生存せいぞん競争が演じられることになるが、このとき竹は、弱者を遠慮なくえんりょ  切り捨てき す 、すべての子供こどもに平等に栄養を与えあた て多数の栄養不全の子供こどもをつくるようなことはしない。人間社会ではとうていまねのできない決断である。
(中略)
 わたしたちが若いわか タケノコをとって食用に供するきょう  のは、このような犠牲ぎせい者の数を減らすのに役立っており、逆にいえば、わたしたちはトマリタケノコを若いわか うちにとって食べていることになる。このように考えると、タケノコをとることは、その量さえ多すぎなければ竹林の成長を妨げるさまた  ことにはならないのであるから、わたしたちは安心して、タケノコを食べることができる。
 
 (たき本 「ヒマワリはなぜ東を向くか」より)
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a 長文 5.2週 ha
 少年のころの桜はもっと長く咲いさ ていた感じだが……と春ごとに同じ思いをくり返してきたが、今年の桜は久しぶりに長かった。歩いて通勤つうきんできるようになって、花を見る目のほうに少年時代ののどかさがもどってきたせいにちがいない。
 「桜前線」という言葉があるが、この言葉はいただきかねる。季節感はやはり「※1梅一輪ほどの」とか「※2風の音にぞ」といった、微小びしょう感覚のものであり、大きく見渡すみわた といったところで、「※3やなぎ桜をこきまぜて」という程度なのであって、巨視的きょしてきに、日本列島全体を見下ろすスケールは、どうにも花見のさまでないと思う。つまるところ、昔からある「花便り」のほうが、はるかに風情に富むのである。「つぼみふくらむ」「ちらほら咲きさ 」「八分咲きさ 」「散り初め」「落花盛んさか 」「散り果て」。花便りの言葉も、微小びしょう感覚を表し分けて、まことに風情に富んでいる。
 ところが、散り初めのころのある日、枝を離れはな た花びらを見ていて、これが地面に達するまでのあいだの状態を、ぴたりと表す言葉がないのに気がついた。風が一斉いっせいに散らす花には、「花吹雪はなふぶき」「散り交う」という言葉がある。だが一ひらまた一ひらと、自分の重みだけで木を離れはな 、○○○てゆく花びらのありさまをいう動詞どうしは、簡単かんたんには見つからない。具体的に言えば、右の○○○印を「散る・落ちる・流れる・こぼれる」などで埋めう てみても、ぴたり、とはゆかないのである。はだに感じるほどの風はなく、空は青く晴れわたり、いましも枝離ればな した花びらは、空気がそこにあるのだということを気づかせる程度の支えを受けて、静かに漂うただよ がごとくにしつつ、しかし確かに地表へ降りお てゆく。それは「漂うただよ 」でもなく、もとより「降りるお  」でもない。
 これと似たような光景を、わたしは秋の信州で見たことがある。からまつのこまやかな葉が、同じように自分の重みだけで枝を離れはな 、金色の光をひるがえしながら、音もなく地表に降りふ 積むのであった。からまつというのを見るのが、そもそも初めてであったからわたしはその美しさと静寂せいじゃくに息をのみ、林の中にたたずみつくした
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のを覚えている。そしてそれを日記に書こうとして、「からまつの葉が」とだけ書いてたちまち言葉につかえたものだ。青年時代の経験だが、今なおあの光景を表す言葉を発見できないままである。
 桜の花びらと、からまつの葉と、自然はついに言語の及びおよ えないものなのであろうか。何をそうめんどうな、「降るふ 」でよいではないかとも思うのだが、雪よりも長く時間をかけて、浮かびう  ながら降りお てゆく一まいまいの、数量と重量についての微小びしょう感覚が、「降るふ 」には欠けていてもどかしい。
 花便りのいろいろの言葉を作り出し、育ててきた日本語だから、わたしのまだ知らないところに、あの美しさを表す言葉があるかもしれない。もし日本語にそれがなければ、それは日本語の語彙ごいの貧弱を意味すると、二十年前と同じことを考えさせられた。日本語になくてはならない言葉のように思えるのだが。
 
渡辺わたなべ 実氏の文章による)
 ※1梅一輪ほどの…嵐雪らんせつの句。「梅一輪一輪ほどの暖かあたた さ」を指す。
 ※2風の音にぞ…藤原ふじわら敏行としゆきの和歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」を指す。
 ※3やなぎ桜をこきまぜて…素性法師の和歌「見渡せみわた やなぎ桜をこきまぜて都ぞ春のにしきなりける」を指す。
 ※4語彙ごい…言葉の総体。
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a 長文 5.3週 ha
 日本語は、いままで日本民族によってしか使われたことのない内輪の言語、つまり部族言語です。どこの言語も初めは部族言語なのですが、それが外国に広まりだすと、外の視点してんが入ってきて言語の刈りか こみが行われてくるわけです。その刈りか こみがはなはだしいのが英語です。英語というのは、外の視点してんと内の視点してんが合作でつくり上げためずらしい言語なのです。その点、ロシア語などは、多分にまだ内部の視点してんだけの言語ですが、それは国際普及ふきゅうの度合いが少ないからです。日本語などはその最たるもので、これまで外側の目というのはまったくなかった。
 日本人は、自分の国の言語を国語と言ったり日本語と言ったりしますが、国語、日本語の対立は実はこの問題と関係があるのです。国語として日本人が自分の言語を見るときは、完全に内側の視点してんで見ているのです。みんな、日常の文法などは知っているという前提で、日本語の文学とか詩が論じろん られる。つまり基本的知識のある者同士の話なのです。ところが、外国人は、ことばのきまりも発音の仕方も知らないで日本語を習うのですから、外の視点してんしか持っていないということです。
 そして、わたしたちの母語である日本語は、いま徐々にじょじょ 外の視点してんを加味して整理される芽生えが出てきています。もし外国人が日本語を学ぶ勢いがこのまま五十年、百年とおとろえなければ、日本語も大きく変わると思うのです。それは、英語が四百年の間にまったく変わってしまったのと同じで、日本語が国際普及ふきゅうするに従って したが  、外の人の影響えいきょう力が国内の日本語にもおよんでくる。ただ、だからといって、日本本来の内側の視点してん閉鎖へいさ社会のなごりだからやめるというのは、大きなまちがいです。英語でさえも、いまだにイギリス人しかわからない、彼らかれ だけの内側の視点してんの部分があるのです。その外側に、人工的に刈りか こまれた英語の部分が付加されてきたということなのです。
 日本語はまだこの部分が少ない。その証拠しょうこに、日本語の字引はすべて国語辞書です。日本語の辞書は、ほとんどすべて日本語を内側の視点してんからしか見ていません。ですから、日本語国際普及ふきゅうの一つの大きな課題は外の視点してんを取り入れた日本語辞典をつくることで
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す。これは、一つの大事な国家的事業であり、個人ではできないことですから、国際交流基金などが中心にやるべき仕事だと思います。
 日本語は、外国人によって学ばれ、使われた経験がないために、植木屋を十年も入れなかった庭みたいでめちゃくちゃに枝がのびているという状態です。多くの西洋の言語は、ヴェルサイユ宮殿きゅうでんの庭木のように、整然と刈りか こまれ、人工的な手入れがされているのです。かつて大学の先生をやめてフランスで日本語を教えていた学者が、ことごとにフランスには整然たる文法があるのに、日本語には文法がないと言ったのも、そのへんの問題だと思うのです。
 フランスでも、十六、十七世紀のフランス語は、植木屋の手の入らない日本語みたいな状態にありました。それを研究所をつくり、一種の理念にもとづいた人工フランス語をつくって、それを世界普及ふきゅうのフランス語の中心にしたわけです。だから、それはフランス人にとっても学ばなければならない「外国語」でした。高等教育を受けたフランスの知識階級が話すフランス語と庶民しょみんが話すフランス語がいまだにちがうのは、庶民しょみんはお金をかけてフランス語を勉強していないからなのです。外国人がフランス語を学ぶのが易しいのは、人工的に整理されたフランス語だからです。それを文法と、かの学者は呼んよ だわけです。
 日本語にはそれがないのです。日本語は、明治からいままで百年の間におどろくほど変わりました。戦後の四十年間でもどんどん変わっているという野放図な自然言語なのです。これは、外国に日本語はこれですよと教えるときには大きな障害しょうがいになるわけです。ですから、日本は、これからどうやって日本語を刈りか こんでいったら、国際普及ふきゅうの日本語になるかということを考えなければならない。そして、これは国家的な事業として相当大きな研究課題としてお金をかけ、真剣しんけんに取り組まないと、どうにもならないと思うのです。
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a 長文 5.4週 ha
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 ぼくの小さいころは、買い物をするのに定価のないことが多かった。店の人と世間話から始まって、値切るねぎ やりとりがあった。そして、自分がをきめたような気分が少しはあって、その値段ねだんにチョッピリ自分の責任があった。
 もちろん、ドジだと高く買わされる。要領のよいのがトクをする。同じものを買うのに、高く買うのもあれば、安く買うのもいる。まったく、「不平等」だった。
 このごろでは、共同購入こうにゅうなどと、代表者にまかせるのまである。そのかわり、みんなが同じ値段ねだんで買う。国家と生命の売買をやるのだって、代表者にまかせて、みんなが同じ値段ねだんでやるのじゃないかと、時節がら少々不安である。
 ドジを重ねて、要領をおぼえたものだ。それで、ある日急に買い物上手になったりもする。店との相性もあるもので、気に入りの店だと安く買えたりする。なじみがいもあった。ドジが固定するものでもないし、ある店ではドジでも、別の店では要領よくナジミになったりもした。
 いつでもドジだと困るこま かというと、そうした人間は、店のほうからまけてくれた。ドジにつけこんで、いつももうけていたのでは、店の評判も落ちるのだった。
 そして、要領のよい子を相手にとなると、店のほうでもなかなかシブトイ。値切りねぎ 合戦というのは、ゲームでもあった。そしてそこには、ヤヤコシイ人間関係があった。
 若いわか 人に聞くと、そんなのメンドクサイ、と言う。金を出して物を手に入れる、それだけならば、だれでも同じ値段ねだんで物が手に入るのが「平等」だ。その極端きょくたんなのは、自動販売はんばい機で、機械にお世辞を言っても、まけてくれない。
 しかしぼくは、要領のいいのやドジなのや、さまざまに混じりあって、店も客もさまざまに気を使いあう世の中が、よい世の中だと思う。
 校則だって、守る生徒やら守らない生徒があって、うるさい教師や甘いあま 教師があって、そのなかで叱らしか れたり逃げに たり、そのほうが気持ちがよい。このごろの「非行生」の文句に、「他の人間もやってるのに、自分が叱らしか れるのは不公平」というのがある。これは、「非行」それ自体よりも、人間社会にとってよほど危機ききではない
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か。
 自分がドジで叱らしか れようが、要領のよい仲間が叱らしか れずにすむことは、喜ぶべきことであるはずだ。「不公平」というのは、ヤッカミ根性のことかもしれぬ。
 問題は自分だけのことだ。他人が叱らしか れようが叱らしか れまいが、どうでもよいことだ。今はドジでも、今度はうまくやればよい。こういうのこそ、「自立してない」と言うんだろうな。せめて「非行生」だけでも自立してほしい。「優等生ゆうとうせい」が自立してないことは、大学生を相手であきらめてるんだから。

(森つよし「ひとりで渡れわた ばあぶなくない」)
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長文 5.4週 haのつづき
 メダカは長さが三、四センチしかない小さな魚で、わたしたちが子どものころはほんとうにどこにでもいました。あまりにありふれていたので、フナやコイなどとくらべると、子どもにとってあまり魅力みりょくのない、雑魚の代表のような魚でした。
 ところが、このメダカがなんと「絶滅ぜつめつ危惧きぐ種」として絶滅ぜつめつを心配されているというニュースが流れたのです。一九九九年のことです。子どものころ魚とりに熱中したことのある、わたしたちの世代にはとても信じられないことでした。減ったことは事実かもしれない、でもメダカにかぎって絶滅ぜつめつということは考えられない、というのが実感でした。しかし、これはどうやら信じなければならない事実のようです。じつに悲しいことです。その背景はいけいにはつぎのようなことがありました。
 かつて田んぼは用水路で水を引いていました。その用水路は田んぼとほぼ同じ高さにあり、微妙びみょうな高さの違いちが を利用して水の入り口と出口がつくられていました。ひとつの田んぼから出た水がとなりの田んぼに入る、という構造になっているものもありました。そのような用水路は地形に応じて曲がっており、深さも一定でないので、水の流れにも微妙びみょう違いちが があり、それに応じて違うちが 植物が生えていました。昔の子どもが夢中で魚とりをしたのは、このような用水路でした。秋になって田んぼから水が抜かぬ れても用水路には水が残っており、くぼみが「魚だまり」となって魚が生きていたのです。
 ところが、一九六〇年代からはじまった農業基本整備事業によって、自然の地形に応じてつくられていた田んぼに大きな変化が生じました。かつて人力で営々と築かれてきた田んぼは、大規模きぼな土木工事によって完全につくりかえられてしまったのです。田んぼの水が管理しやすいように、用水路はU字管というコンクリートの管にされました。断面の形がU字型なのでこう呼ばよ れます。U字管の機能は水田に水を運ぶことですから、それ以外のものは必要ありません。その結果、水を流すときは洪水こうずいのように大量の水が勢いよく流れます。
 魚が隠れるかく  ところもなければ、カエルがたまごを産むところもありません。用水路は田んぼから効率的に排水はいすいするために、水田との
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高さの差が大きくなるようにつくられました。このため、水を抜くぬ と田んぼは完全に干上がりひあ  ます。U字管には魚だまりはありませんから、土の中にもぐって生きるドジョウや小さなメダカも生き延びるい の  ことはできません。その結果、夏の「洪水こうずい」と冬の「砂漠さばく」がくりかえされることになります。これでは生きていける動物はいません。
 ところが、小動物に対する仕打ちはこれにとどまりませんでした。ちまちました小さな田んぼは農作業の効率が悪いことは確かです。そこで「暗渠排水あんきょはいすい」といって、田んぼの地中に管を埋めう 、水を集めて排水はいすいすることがすすめられたのです。こうすれば水路に使った土地も使えるし、細かなデコボコをなくすことができると考えたのです。こうなると動物には生活する場所がまったくなくなってしまいます。こうして、メダカに代表される無数の小さな生きものたちは、田んぼから姿すがたを消していったのです。
 日本の農業は稲作いなさくが中心ですが、それは米を巨大きょだいなポットのようなところで効率的につくることだけではありませんでした。毎日の営みの中で米づくりを中心におきながらも、家畜かちくを飼い、裏山うらやまから肥料となる枯れ葉か はを集め、ときどきドジョウやフナをとるなど、じつにさまざまな営みの中でおこなわれたものでした。また、田植えのときには若いわか 女性が晴れ着を着て早苗さなえを植え、近所の人が助けあって田植えや稲刈りいねか をするという社会の営みでもありました。そして先祖から引き継いひ つ だ土地に祈りいの をささげ、収穫しゅうかく物に感謝をささげるという心に支えられたものだったはずです。それは工場で米という名の製品をつくるのとはほど遠い営みでした。
 しかし、この土木工事はそのようなことをすべて無視むししたものでした。そのことの意味の深さをわたしたちは考えつづけなければならないと思います。

高槻たかつき成紀『野生動物と共存きょうぞんできるか――保全生態学入門』(岩波ジュニア新書))
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a 長文 6.1週 ha
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
「これってどういうこと? 教えてよ。」
 わたしの家では、家族どうしの会話がとても多い。テレビや新聞を見ていて、気になることがあると、みんな遠慮なくえんりょ  口に出す。名前の分からない芸能人がいれば父はわたしに聞いてくるし、可愛い動物が映れうつ ば母は大喜びでみんなを呼ぶよ 中学生の兄はすぐに、聞いてもいないうんちくを言いたがる。
 そういうわたしも、自分が好きな本や映画えいがの話になると、「これはこういうあらすじで、こんな登場人物がいてね……」と解説を始めてしまうのだから、始末に終えない。
 ああでもないこうでもないと話しているうちに、気がついたら番組そのものが終わっていた、ということも少なくない。自分の考えをしゃべって、家族の意見を聞いて、納得なっとくすることが楽しいのだ。
 ある日、わたし帰宅きたくすると、父と兄が何事か言い合う声が聞こえてきた。ふだんのんびりして頼りたよ なさそうな父と、ダジャレばかり言っている兄。そんな二人がこんなに熱くなるのは珍しいめずら  ことだ。
 まさか喧嘩けんかかとわたしは身を固くしたが、よくよく聞いてみると、どうやら二人とも同じことについて怒っおこ ていて、その不満を述べ合っているらしい。わたしはひとまず安心して、何があったのかと聞いてみた。
 すると兄は「はやぶさ」のことだと教えてくれた。小惑星しょうわくせい探査たんさ機「はやぶさ」が、長い宇宙うちゅうの旅を終えて地球に帰ってくる。それも、さまざまなトラブルを乗り越えの こ て、奇跡きせき的に。わたしはそんなものが存在そんざいしていたことすら知らなかった。
 父と兄は、その世紀の瞬間しゅんかんがテレビ中継ちゅうけいされないことに憤慨ふんがいしていたようだ。とはいえ、今はちょうどサッカーのワールドカップが始まったところだ。四年に一度のイベントを優先ゆうせんする方が当たり前ではないかと、わたしには思えた。
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 わたしがそう言うと、兄はいっそう大きな声で、わたしに「はやぶさ」の魅力みりょくを語った。その任務が世界初の試みであること、事故でボロボロになったにも関わらず必死に帰ってこようとしていること、中でも一番驚いおどろ たのは、その放浪ほうろうの旅が七年にも及んおよ でいるということだった。四年に一度どころではない。
 兄たちはこれから、わざわざジャクサのホームページに接続して、動画で帰還きかん見届けるみとど  のだという。せっかくだからとわたし一緒いっしょに見ることにした。その映像えいぞうはお世辞にも鮮明せんめいとは言えなかったが、燃え尽きも つ ていく「はやぶさ」の姿すがたは、まるで大きな流れ星のようだった。そしてわたし翌日よくじつ、その美しさについて、見ていなかった母に熱く語って聞かせることになったのである。
 人間はだれかと対話をすることで、新しいことを知り、自分の世界を広げることができる。そうした対話を欠かさないことは、わたしの家族の長所と言っていいと思う。じっくり話してみることで、身近な人のさらなる長所を見つけることもできる。わたしは、これからも家族の対話を大切にしていきたい。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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長文 6.1週 haのつづき
 昆虫こんちゅう幼虫ようちゅうが育つ日数(幼虫ようちゅう期間)は、哺乳類ほにゅうるいなどにくらべて短いものが多い。夏のイエバエはたった一週間で幼虫ようちゅうが発育をとげてさなぎになり、四日たつとさなぎから成虫に羽化するというスピードぶりである。一方、カワゲラ類の三年.ムカシトンボの五年、アブラゼミやミンミンゼミの六年などのように、犬やねこより長くかかって親になる昆虫こんちゅうもいる。
 しかし、上には上があるもので、五〇年もかかって育つ昆虫こんちゅうがいる。アメリカ西部にすむアメリカアカヘリタマムシがその記録保持者である。日本のタマムシはその美しさゆえに、法隆寺ほうりゅうじ国宝こくほう玉虫厨子たまむしのずしはねが使われているが、アメリカアカヘリタマムシも美麗びれいさにかけてはひけをとらない甲虫(こうちゅうで、金緑色の翅鞘ししょうが赤くふちどられている。
 このタマムシは樹勢じゅせいのおとろえたアメリカマツを選んで産卵さんらんし、幼虫ようちゅうは木の内部を食べて二、四年後にさなぎになり、羽化した成虫は、ひと冬木の中ですごしてから脱出だっしゅつする。ここまでなら、成育日数が多少長くかかる昆虫こんちゅうにはよくある話で、それほど珍しいめずら  ことではない。
 ところが、幼虫ようちゅうが小さいうちに林のマツが伐採ばっさいされて建材になると、発育の間のび現象がおこる。建築後数十年たった家屋の柱、床板とこいたまどわく、あるいは長年使ってきた食器戸棚とだななどから、ひょっこり成虫が現れてくる。それもアメリカだけでなく、この虫が分布していないはずのヨーロッパやグアム島などで国内羽化が記録されている。それは、幼虫ようちゅうのひそんでいたマツの木材がアメリカから輸入されて使われたためである。
 この虫は伐採ばっさいしたマツ材にはけっして産卵さんらんしないから、伐採ばっさい後何年目に成虫が出現したかでおおよその成長記録が推定すいていできる。最高記録の五一年は幼虫ようちゅうとして発見されたものなので、半世紀以上かかって育ったことになる。
 幼虫ようちゅう期間がふつうの一〇倍以上もかかる理由は、木材が乾燥かんそうして水分が不足したための発育遅延ちえんと説明されている。乾燥かんそうにより
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命がのびたという見方もできる。乾燥かんそうという厳しいきび  逆境で、体がひからびて死ぬこともなく、しぶとく育つこの虫の生命力には驚嘆きょうたんさせられる。
 極限の乾燥かんそうにさらされながら何年も生きぬく、もう一つのすごい虫にアフリカのユスリカがある。ユスリカの幼虫ようちゅう(アカボウフラ)は水生で、水がないと発育できないだけでなく、水がなくなれば死がおとずれる。しかし、ナイジェリアの砂漠さばくにすむポリペディウムというユスリカの幼虫ようちゅうは例外である。日照りがつづいて水が干あがるひ   と、土の中でミイラのように縮んちぢ 姿すがたになり、雨が降るふ のを何ヵ月かげつも待つ。じっとがまんの日がつづいたあと、旱天かんてん慈雨じう恵まれるめぐ   とよみがえって本来の姿すがたにもどり、発育を再開する。実験室で数年間乾燥かんそうさせて貯蔵ちょぞうした幼虫ようちゅうを水にいれたところ、すぐよみがえって活動をはじめたという報告もある。乾燥かんそうで命がのびたような気さえする。
 この虫は乾燥かんそうに強いだけでなく、短時間なら、摂氏せっし一〇二度からマイナス二七〇度の高低温にも耐えるた  という。
 
(安富和男の文章から)
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a 長文 6.2週 ha
 「ガッツがある」とか「根性が足りない」とかいった言葉をよく耳にしますが、わたしは、どうも好きになれません。そもそも〃guts〃なんて、「臓物ぞうもつ」という意味だし、この言葉の音が汚いきたな のも、嫌いきら な理由の一つです。根性も、本来の仏教語では、「草木の根にたとえられる人間の性質」のことですが、現在では違っちが た意味に使われるのでいやな言葉の一つになりました。
 ものごとを一所懸命いっしょけんめいにやることは本当に大切なことです。ただ、目を血走らせ、ムキになった、むきだしの表情を、わたしは好まないのです。闘志とうしは表面に出さず、内に秘めひ ておくもの、これがわたしの美意識だからです。
 「一心不乱いっしんふらん」はすばらしいのですが、「盲目的もうもくてきないちず」が困るこま のです。いつも「主人公」が目覚めていなくては、お話になりません。そのためにも、そこに「遊び」が必要ではないでしょうか。つまり、余裕よゆうです。「遊び」には、大事な意味がいくつかあります。たとえば、肝心かんじんなのは、「自分のしたいこと」を「楽しむこと」です。いわば、自分の好きなことをして「楽しむ」のです。それに、「機械の遊び」という場合の「遊び」のような「余裕よゆう」「余地」、「遊びの時間」のような「ひま」が大切です。
 自動車のハンドルにも、「遊び」があります。あの遊びがなかったら、ずいぶん運転しにくくなるでしょうし、第一、危険きけんです。ハンドルに遊びがあるので、少しばかり手がすべっても、急に変な方向へ曲がらないですむのです。人生という車にも、この「余裕よゆう」「ひま」という遊びがないと危険きけんです。
 子供こどもたちの天職は、遊ぶことです。たっぷり遊ぶのが役目です。しかし、部活だの、じゅく通いだの、受験勉強だの、すべて強制、半強制のわくの中で、せかせかした生活をしています。小学校、中学校、高等学校を、このように過ごさざるを得なかった学生たちを見ていると、わたしは、一大学教師として、もの悲しさで一杯いっぱいになるのです。
 わたしどものところでは、学生たちは、二年に進むとき、自分の専攻せんこうしたいコースを選びます。その際、英米文学コースを志望す
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る学生たちを集めて、一人ずつ面接をします。そして、あれこれ質問するのですが、近年はますます幼稚ようちさが目立ちます。大学へ入ったけれど、一体自分が何をしたいのか分からない。英米文学コースに所属したいらしいが、何を学びたいわけでもない。文学をやりたいなどと言いながら、文学作品などほとんど読んだことがない。人生や、宗教しゅうきょうや、友情や、人間の様々な側面に深い関心をもたずして、文学などと、まったく何をかいわんや、です。
(中略)
 ものをおいしく食べるにはお腹 なかをすかせたらいい。そうしたら、強制されなくても、だれだって自分から食べようとします。同様に、本来の人間に備わっている好奇こうき心が働き出せば、自然に知識欲ちしきよく湧いわ てきて、自然に勉強したくなります。そんな状態においてやるのが、本来の教育です。子供こどもたちの、一人一人が持って生まれた「個性」、それを引き出してやるのが、教育者のはずです。しかしながら、無理やり、知識を頭の中へ詰め込まつ こ れた結果、人間本来の好奇こうき心がすっかり消えてしまったのです。それも、感受性が最も強く、人間の心の勉強をするのに最も適している時期に、外から、よけいなもので一杯いっぱいにされて、本来の好奇こうき心の働く余地が、すっかりなくなってしまったのです。画一的に鋳型いがたにはめられた結果、遊びの好奇こうき心も、自由に働く想像力も、新しい発見の創造そうぞう力も、みんな学歴主義に塗りぬ 込めこ られてしまいました。
 想像力は心に必要な遊びです。心が本来の自由な姿すがた戻れもど ば、人間の想像力が働き出します。この想像力の遊びもまた、心にとって栄養となります。想像は創造そうぞうにつながります。想像がさらに深まれば、「思いやり」となって、人間関係を創造そうぞうするのです。
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a 長文 6.3週 ha
 先日、日本産トキの絶滅ぜつめつが確実になったと報じられた。種の存続そんぞくのためにさまざまな努力がはらわれ、中国産のトキを借り受けてペアリングも試みられたが、失敗に終わった。関係者の落胆らくたんは大きかったにちがいない。
 トキのように絶滅ぜつめつ寸前すんぜんにまで追いこまれた動物や、その数を激減げきげんさせている植物を救おうと努力する姿すがたは、「人間の良識」と評される。その通りと思う半面、偽善ぎぜんではとのむなしい思いが残る。第二第三のトキを生む自然破壊はかいが、日本全国で進んでいるからである。
 一九八九年に環境庁かんきょうちょうが発行したレッドデータブックには、緊急きんきゅうに保護を要する動物だけでも約三万七千種近くが記載きさいされている。イリオモテヤマネコなど、絶滅ぜつめつ危機ききにひんしている動物も多い。
 身近な動物の中にも、姿すがたを見ることがまれになったものが少なくない。日本在来のメダカは外来種に追われて、東京の河川ではめったに見られない。ミヤコタナゴも少なくなった。ゲンゴロウやタガメなどの水生昆虫こんちゅう激減げきげんした。人間の良識とは、その数が激減げきげんしている動植物に対し、早急に保護の手を差し延べるさ の  ことである。絶滅ぜつめつ確実視かくじつしされるまで放置したあとで、救済きゅうさい努力を傾注けいちゅうするということには、大きな矛盾むじゅんを感じる。
 自然保護の先進国アメリカでは、一八七二年、世界に先がけてイエローストーン国立公園を設置した。日本では自然保護など話題にもならないころのことである。一九一六年には国立公園局が設置され、自然景観や動植物の保護に全国的な制度が確立、機能的に運営されて今日に至っいた ている。
 他方日本では、一九三一年に国立公園法が制定され、一九五七年に自然公園法に代わった。自然保護の基本的考え方は先進国のそれを踏襲とうしゅうしたが、戦争をはさみ、戦後は自然保護と経済けいざい発展はってんのはざまでゆれ動き、必ずしもその機能を果たしていないのが実情である。
 アメリカの徹底てっていした自然保護を日本のそれと比較ひかくして、そのちが
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いをなげいていた筆者だが、最近うれしい体験をした。わが家の子供こどもたちが一年以上も飼育をつづけているカマキリの話題である。
 親は秋に産卵さんらんを終えて死んだが、そのたまごが六月に飼育箱の中で孵化ふかした。先日渡米とべいの折、ロサンゼルスの友人たちにこのカマキリの話をした。ところが、かれらの話では、ロサンゼルスではカマキリの捕獲ほかくが禁止されているそうだ。数が激減げきげんしているのがその理由だった。
 東京に比べれば、はるかに土地は広く緑も多い。郊外こうがいにはコヨーテまで出没しゅつぼつし、飼いねこが犠牲ぎせいになるほど自然にめぐまれた都市である。そこで子供こどもたちがカマキリをとらえて飼育観察できないとはさびしい限りだ。
 ロスより自然環境かんきょうは悪い東京だが、都心でも植えこみや生けがきに毎年カマキリのたまごが見られ、六、七月にはあみ戸に張り付く子カマキリの姿すがたが多い。子供こどもたちの通常の捕獲ほかくぐらいでは、減りそうにない数である。アメリカが自然保護で先進国となった一因として、他国より早く自然を破壊はかいしたことも考えられる。今日でもカマキリを自由にとらえて、飼育観察できる東京に、ささやかな幸せを感じた経験だった。
 
 ペアリング…おすとめすの一組にすること。
 レッドデータブック…絶滅ぜつめつのおそれのある野生生物の現状を記録した資料集。
 傾注けいちゅうする…精神や力を一つの事に集中する。
 踏襲とうしゅうする…前人のやり方などをそのまま受けつぐ。
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a 長文 6.4週 ha
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 今年の秋、ウィーンの楽友協会ホールで武満とおるさんの新作クラリネット・コンチェルトがウィーン・フィルハーモニーによって演奏えんそうされる。二百年前、モーツァルトのクラリネット・コンチェルトがウィーンで初演奏えんそうされたのを記念する催しもよお で、百年前には同じ趣旨しゅしでブラームスがクラリネット五重奏じゅうそうを作曲していることを考えると、これは日本の音楽界だけでなく日本にとって大きな出来事だと思う。おそらくわが国の文化芸術の分野でこれに匹敵ひってきすることはかつてなかったし、今後もそうそうあることではなかろう。(中略)
 製紙会社の会長と作曲家武満とのかかわり合いを不思議に思われる方もあると思うが、家内同士が学校時代からの親友で、武満さんが二十さいを過ぎたころから家族ぐるみのお付き合いをしてもう四十年にもなろうとする。だからといってわたしかれの音楽をいっこうに理解するものではないが、今回世界の存在そんざいとまでなった武満さんの人生の来し方を眺めなが 続けてきた者として、その人間的バックグラウンドを語ってみたい。
 何よりもまず自分の道を自分のやり方で歩いてきた人である。作曲家としても徒手空拳としゅくうけん、自ら一家をなしたので、音楽学校へいったわけでも特定の師についたのでもない。本当に才能のある人は既成きせい概念がいねんで教育など授けないほうがよほど純粋じゅんすいに成長できるという真理をかれもまたわれわれに示してくれた。大江おおえ健三郎けんざぶろうとの共著きょうちょ「オペラをつくる」の中でかれはこういっている。
「ぼく自身が音楽家としての四十年、音を表現媒体ばいたいとして、自分でしか言い表せないようなことを表す。……音楽といってもその表現のスタイル、形式は多様で、たんに慰めなぐさ 娯楽ごらくのための音楽であれば、時代の人たちが喜ぶような表現方法はあるように思います。しかし、ぼくがやっている音楽はそういうものでなくて、音というものを通して人間の実在について考える。どちらかというと、詩とか哲学てつがくとか、そうしたものに近い表現形式として音楽をやっているわけで、これがいちばんむずかしいところなんですね」
 創造そうぞう性と個性、いまの日本人にこれほど求められているものはない。
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 武満さんはまた世界人であると同時にすぐれて日本人である。かれの作風からもこのことはよくうかがえる。代表作であるノヴェンバー・ステップスには和楽器である琵琶びわ尺八しゃくはちが取り入れられ、本来西洋のものであるコンチェルトに日本の音色を植えつけたことはあまりにも有名である。前述の本の中でかれはまた、「ぼくの音は西洋音楽の音とはまったく違うちが 」とも述べている。かれの音楽は西洋の亜流ありゅうではないようだ。そこが世界の注目をひき絶賛を博しているのだと思う。(中略)
 ややしかつめらしいことを書いてきたが、多くの人々が武満さんにひかれるのは、根っからの市井しせい人である一面であろう。立派りっぱなサイレント・マジョリティの一員、卑近ひきんな言い方をすればくまさん、八つぁん的要素である。熱狂ねっきょう的な阪神タイガースはんしん     ファンでシーズンになると外出先でもラジオを離さはな 一喜一憂いっきいちゆうしている。まさに日本人の判官びいきを絵に描いえが たようなものである。
 わたしかれ背広せびろ姿すがたをほとんどみたことがない。普通ふつうはズボンにセーター、改まったときは、ネクタイなしだが独特のスタイルのジャケットを着用している。最近、だれのデザインですかと聞いたら、これは森英恵はなえさんですと答えた。これで日本はおろか世界中を通している。わたしはひそかに浴衣がけの外交と呼んよ でいる。あのとても頑丈がんじょうとはいえない肉体で年に何回となく外国に出かけるエネルギーは聡明そうめい献身けんしん的な奥さんおく  、才気煥発かんぱつお嬢さん じょう  、そしてねこひきという恵まれめぐ  た家庭のたまもので、これはかれの最大の作品かもしれない。市井しせい人の常識が申し分なく働いている。ここにもいまの日本人がともすればないがしろにしがちなものがある。
 武満とおるろんを最後に締めくくれし    ば、世界への道の前に日本の道があり、日本への道の前にわが道があったということであろうか。そして平凡へいぼんの中に非凡ひぼんがあることがなんとも魅力みりょく的である。

(河毛二郎「逆風順風」)
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長文 6.4週 haのつづき
 小学生のとき、夢中になって『ファーブル昆虫こんちゅう記』を読んだ。理科よりも国語、算数よりも社会が好きだったわたしは、はじめこの本のタイトルを見て、敬遠けいえんしていた。
 「おもしろいわよ。たまには、こういうのも読んでみたら?」
 物語にばかり偏るかたよ わたしに、勧めすす てくれたのは母だった。
 朝顔の観察とか、ありの巣づくりを調べるとかいうことは、好きなほうではなかった。たぶん、そんなようなことが、たくさん書いてある本だろうと思っていた。そして実際に読んでみると、たしかに内容は、そんなようなことである。にもかかわらず、ぐいぐい引き込まひ こ れていった。勧めすす た母親のほうがあきれるくらい、ても覚めても『ファーブル昆虫こんちゅう記』、という感じだった。
 それでは、わたしはファーブルによって、昆虫こんちゅうへの理科的な興味を開眼させられた、といっていいだろうか?
 ちょっと違うちが ような気がする。それまで夢中になった本と同じように、わたしはそこに「物語」を読んでいたのだ。
 登場する昆虫こんちゅうたちは、ユニークで頭がよくて愛嬌あいきょうのある主人公。彼らかれ のくりひろげる「生きる」という物語にすっかり魅せみ られてしまった。
 『ファーブル昆虫こんちゅう記』の素晴らしさは、ここにあるのだと思う。自然のなかに隠さかく れている、楽しくて不思議でときには厳しいきび  物語の数々を、現在進行形でファーブルとともに発見してゆく喜び。『オズの魔法使いまほうつか 』や『不思議の国のアリス』を読んでいるときにも似たような興奮こうふんが、そこにはあった。
 なかでも印象に残っておもしろかったのは「ふんころがし」すなわち「オオタマオシコガネ」の章である。今回あらためて読みかえしてみて、この虫を描くえが ときのファーブルの筆には、ひときわ愛情がこもっているように感じられた。子ども心にもそれが伝わったのだろうか。
 自然の恵みめぐ を受けることと、自然と戦うことが、表裏一体ひょうりいったいとなって紡がつむ れるドラマ。西洋ナシの形をしたお団子のなかで生きる
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幼虫ようちゅうの話は、何度読んでも飽きあ ないものである。虫の持つ知恵ちえへの驚きおどろ も、もっとも大きい章だった。
 ところで、昆虫こんちゅうというと、最近ちょっと気になる報道があった。
 昆虫こんちゅう採集は自然破壊はかいにつながるのでやめようという意見があるという。子どもにも自然を大切にする心を教えなければ、と。
 一瞬いっしゅん、なるほどと思いかけて、いやいや待てよ、と思った。せみを採ったり甲虫かぶとむしをつかまえることは、自然と親しむことにこそなれ、自然を破壊はかいすることにはならないのではないだろうか。むしろ、そういう体験をすることなしに大人になってしまうことのほうが、こわいような気がする。
 貴重きちょうな高山植物やちん種のちょうを採ることはもちろん規制されてしかるべきだろう。が、そういう特殊とくしゅな例を除けのぞ ば、昆虫こんちゅう採集の禁止は、それこそ近視眼きんしがん的な発想ではないかと思う。子どもが採集するぐらいで、せみ昆虫こんちゅう絶滅ぜつめつしたりはしない。山を切り崩しき くず たり、ゴルフ場を造ったりするほうがよっぽど虫たちを脅かすおびや  ことになるだろう。
 そんな愚行ぐこうから虫たちを守ろうと、将来しょうらい発想することができるのは、どんな育ちかたをした子どもだろうか。せみ甲虫かぶとむしも見たことがない、というのでは、はなはだ心もとない。
 ファーブルも、さまざまな実験の途中とちゅうでは、多くの虫たちを死なせてしまっている。せみをフライにして食べちゃったりもする。が、ファーブルが心から虫を愛していた人であることはいうまでもない。昆虫こんちゅう採集禁止をとなえる人は、ファーブルの行為こういもまた残酷ざんこくだというのだろうか。
 愛情は、なにもないところからは生まれない。まず「知る」ことが、愛情のめばえのスタートだ。

(俵万智まち「二十一世紀の子どもたちへ」(『世界文学の玉手箱四 昆虫こんちゅう記 下』(解説)(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ所収しょしゅう)より)
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