1こうしてこれまでに人間は、平和のための備えをし、平和のためと称する戦争を始め、いつしかそれが人間から平和を奪うただの戦争になっていた、という経験をしばしばしてきました。2備えをすることが全く不要だとは言えないでしょうが、平和というものが相手のある問題、他者との関係である以上、備えさえあれば平和でいられるという単純なものではないことも、次第に明らかになってきたのです。
3加えて、平和についての思索が進むにつれ、こういう別の問題も意識されるようになります。すなわち、戦争さえなければそれで平和と言えるか――。
たとえば、多くの人々が極度の貧困にさいなまれ、飢えに苦しんでいるような社会は平和だろうか。4また、人種や性による差別が根強く残り、女児の就学率が男児のそれよりもいちじるしく低いような社会は平和だろうか。あるいは、字が読めないばかりに十分な社会参加ができず、自分たちが不利益をこうむっていることさえ気づかない人がたくさんいる社会は平和か。そういう問題です。
5一九六〇年代も終わる頃、それらもまた暴力と呼ぶべきだ、と主張する学者が現れました。ノルウェーのヨハン・ガルトゥンクという人です。6いま述べたさまざまな問題は、誰かが誰かを殴ったり殺したりするという意味での暴力ではないが、みずから望んだわけではない不利益をこうむる人は確実にいるのだから、それもまた別のかたちの暴力と呼ぶべきだという考え方で、その種の「暴力」に「構造的暴力」という名前をつけました。7これに対し、人を殴ったり殺したりするような種類の暴力を「直接的暴力」と呼びます。
「構造的」という言葉づかいはあまりなじみのないものかもしれませんが、おおよそ次のような意味です。たとえば、一つの社会の中で、一方には巨額の富を占め、飽食している人がいる。8もう一方にはいくら働いても十分な収入が得られず、あるいは職さえも得られず、十分な食糧さえ得られない人がいる。それが当人たちの能力ややる気の問題ではなく、富の配分の仕組みが不適切であることの結果であるとしたなら、また、特定の人種や性が原因でなかば自動的に貧困や飢餓の中に閉じ込められているとしたなら9―
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