a 長文 1.1週 he2
 まず第一に必要な「自由化」は「完全主義からの自由」である。いうまでもなく、コミュニケーションにとっていちばん大事なのは、相手を理解しようとする努力である。相手の話し言葉が不十分であることを責めていたのでは、コミュニケーションは成立しない。とりわけ、母国語以外の言語を話すときに、その言語を完全に操るあやつ ことなど、常識的に考えてみても、だれにもできるはずはない。事実、一つの言語が多くの人々によって使用される条件、あるいは一つの言語が「世界語」になりうる条件は、その言語がどれだけ柔軟性じゅうなんせいを持っているか、そして不完全な部分を許容し、補完ほかんすることができるか、にかかっているのである。
 実際「英語」がこれだけ世界的に普及ふきゅうしたのも、この言語が一つの民族の「専用せんよう語」としての閉鎖へいさ性をいつのまにか開放して、かなり怪しげあや  な「英語」をも許容し、意味が通じればよい、という実用主義に徹してっ たからなのではないか。国際会議などでさまざまな国籍こくせきの人々が使っている「英語」がいかに多様で奇怪きかいなものであるかを思い出すだけでもそのことは明らかだ。
 そんなことを考えながら、たまたま在日外国人のために発行されている日本語の雑誌ざっしを読んでいたら、「日本語の失敗」という特集があって、こんな事例が紹介しょうかいされていた。その外国人は「わたしは母親にいつもおそわっています」というべきところを、「わたしは母親にいつもおそわれています」と言い間違えまちが て、聴衆ちょうしゅうから笑われた、というのである。確かに、「おそわる」と「おそわれる」との間には大きな意味の違いちが がある。物事は間違わまちが ないにこしたことはない。しかし、話を聞いていれば、その言語的文脈と社会的文脈から、かれが本当は「おそわる」と言いたかったに違いちが ない、ということはだれにでも推測すいそくできるはずである。この場合、コミュニケーション上の問題を生んだのは、話し手であるこの外国人の責任というよりは、文脈上簡単かんたん推測すいそくできる言葉に、厳密げんみつな正確さを求めた日本人の側にあるのではないか、とわたしは思った。このような少しの間違いまちが を問題にして、相手を笑うというのでは「日本語」が「世界性」を持つ言語になることはかなりむずかしいのではないのだろうか。「国際化」の進行にともなって、このような「さまざま
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な日本語」がわれわれの周辺でしばしば発生するようになってきている。とりわけ東京の都心部などでは、電車に乗っても、街を歩いていても、多くの外国人がそれぞれに「日本語」を操っあやつ ている風景を見かける。そこでは、かなりたどたどしい「日本語」が使用されているけれども、別段べつだん日常的な生活にはこと欠かない。十分意志は通じるのである。コミュニケーションというのは、おおむねこんな性質のものなのであって、お互いに たが  常識的な推論すいろんによって、およその見当がつけばそれでよいのである。

 (加藤かとう英俊ひでとし監修かんしゅう・国際交流基金日本語国際センター編『日本語の開国』(TBSブリタニカ))
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a 長文 1.2週 he2
 また人に好かれる人は、他人に対してもよいイメージを抱くいだ ことに心がけながら交際していきます。相手に対して悪いイメージを抱きいだ つづけると、潜在せんざい意識はイメージ通りに反応していくことはご承知のとおりです。それは同時に、自分にとっても悪い現象がおこることをよく知っているからです。
 わたしたち人間は、いやな人に対しては決してよいイメージを抱いいだ てはいません。それと反対に、好ましい人にはよいイメージを持っていることに気づきます。男女間の恋人こいびと同士を見ればよくわかるでしょう。顔のあばたもえくぼに見えてくるのです。
 ところが、自分の抱いいだ ている悪いイメージによって、その人が嫌いきら になっているということに気づかないのです。そして、いつまでも悪いイメージを持ちつづけて、結局は何一つ得にならないばかりか、損ばかりしていることになるのです。
 このイメージも、創造そうぞう的に活用することが大事です。相手の長所にだけ目をむけるように、イメージ作りをしていけば、好きだった人はますます好きになり、きらいだった人とも次第にうちとけ合うようになります。
 人に好かれる大きな魅力みりょくは、利己りこ的でなく利他的であるということです。自分の利益より他人の利益を先にすることをまず考え、奉仕ほうしの精神で他人に接するように心がけることです。そして困っこま ている人を見れば、すすんで力を貸してあげるのです。
 この心得が、お釈迦さま しゃか  のいう「功徳」をつむことにつながるものと、わたしは考えています。自分の利益を先にして、相手に恩を売るのは、決して功徳にはなりません。
 キリストの言葉に「与えよあた  、さらば与えあた られん」と説いているのも、単にギブ・アンド・テーク        の打算的な考えではなく、功徳と同じ深い内容の意味を持っているものと思います。
 人間はとかく打算に走りやすく、自分の利益につながらないことはしたがりません。また、他人に何かをしてやる場合でも、必ずその見返りを期待しています。その見返りが多い少ないで、争いがおこります。このように、目さきの損得ばかりを考えて行動していくと、優劣ゆうれつを意識する場合と同じように、必ずさまざまな破壊はかい的現象がおこります。
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 釈迦しゃかやキリストのような人類の聖人せいじん呼ばよ れる人は、そんなことは遠の昔にお見通しです。その上でわたしたちに、「与えるあた  こと」のほんとうの意味を説いているのです。損や得をぬきにして、純粋じゅんすいな心で他人にほどこせば、本人は気分がさわやかであるばかりか、相手からも感謝され、その恩はいつかきっと返ってくる。もし仮に相手が忘れわす たとしても、よそから必ず何倍にもなって返ってくる。その上功徳をつめば、それだけ人間の徳は高くなるという、高遠な因果の教えを説いているのです。
 集団生活をしていて、わたしたちが生涯しょうがいに出会うことのできる人の数はかぎられています。それだけ人生における出会い(えん)というものは大切なものです。特に友だちと名のつく人は、生涯しょうがい掛けか がえのない存在そんざいです。フランスの作家ロマン=ロラン(一八六六〜一九四四)は、このことを次のようにいっています。
「わたしは世界に二つのたからを持っている。わたしの友とわたしのたましいと」
 またゲーテは、次のようにいっています。
「空気と光と、そして友だちの愛、これだけが残っていれば、気をおとすことはない」
 わたしたちが一生を通じて得られる友だちの中で、生涯しょうがいの友が得られるのは、若いわか 年代の時といいます。みなさんも、この絶好の黄金の時期を決して無にしないように、今まで述べてきたことをよく理解し、積極的に活用して下さい。

百瀬ももせ昭次 『君たちは偉大いだいだ』)
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a 長文 1.3週 he2
 物の命と人間の心が結び合って一つになる。の強い人には友達ができがたいように、おたがいの心が結び合ってこそ友人になるのである。河井かわい寛次郎かんじろう先生が、物を自分や友人に見立てて「物を買って来る、自分を買って来る」とか、物を親しい友人として「自分の家に連れて来る」というように表現されていたことを思い出すのである。そのように考えると、美しい物は何か人の心に与えるあた  ものを持っている。したがって、物と心が結び合う時、自分の水準が高められる。それゆえ、美を味得する道は人によって違うちが のである。一般いっぱん的に、生まれながら情操じょうそう的な人と理知的な人があるように、だれでも同じようにはいかないが、情操じょうそう的な人ほど友人が多くできるように、美しい物との出会いは多い。そういう人ほど直感力が強いといえる。
 さて、この直感力を強くする道は、修業によらなければならないが、やなぎ先生は参考として役に立つ二つの実際的方法を示唆しさして、練習の資にきょうしたいと言われている。一つは標準法で、他は擬人ぎじん法である。物は程度の差はあっても、いろいろな条件によってそれぞれ異なっこと  ているもので、作った人の性質、境遇きょうぐう、意志、取りあつかい方などが直接できあがった物に影響えいきょうしてくる。これは人間性の反映はんえいである。それゆえ人間と同じように見ていくことはその理解を早める一つの道である。例えば、工芸品の一つを例として取り上げると、色とか模様もようとかデザインなどが派手はでにすぎていたら、ぜいたくな人間の性質と同じように見えるだろう。ぜいたくという言葉は道徳の世界から見れば、必ずしもぜんではないし、華美かびというものと真の美とはどうしても反発する傾向けいこうがある。
 今度は別に装飾そうしょくはなくても、落着いた形、確実な材料や機能、おだやかな色調などを見る時、かざり気のない実直な人のほうがどれだけ人に信頼しんらいされるかということに通じる。物としても、そのような人に通じるものがあることを考えないわけにはいかない。物としてもそのような美しさを持っている物があるといえよう。また細々とやせて、きゃしゃな形を見ると、やはりそれは健康体とはいえない。(中略)
 また例えばそまつな材料や、粗雑そざつな仕事でありながら、上っ面ば
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かりよく見せかけていても、その仕事やそれを作る人間のようなうそのある物とは、共に暮すくら 気持にはなれないのが普通ふつうである。どんな人間が信用できるか、また頼りたよ になるか、友達として長く付き合えるかというように、物にも一様の道徳観がある。一時はだまされても、不道徳な人や物は、はっきりわかってしまえば、どうなるか考えなくてもわかる。これを見ぬく見識は、真に美しい物を常に求めている者が持てるのである。
 また、気品のある物、品格のある物、着実な物、健康な物、温かみのある物、うるおいのある物、深味のある物、静けさのある物、こういう性質のある物は、美しさに結びつきやすいえんを持つといえる。ただ注意すべきは人間の世界にごまかしが多過ぎるように、物の場合にもよくあることである。これは巧みたく 技巧ぎこうをこらした物、器用さで作った物など、その作為さくいにごまかされて、それを美しさと誤認ごにんする場合が多い。技巧ぎこうと美、器用と美の混同される場合も多いが、これらと一緒いっしょ暮しくら ている間には、いつかボロが出て来て必ずいやになるものである。これは、結局はごまかし物ということになる。これに反して不器用でも実直な物、田舎くさくても、素朴そぼくでも着実な物の価値かち忘れわす てはいけない。
 愛され、尊敬そんけいされる人間と同じで、それを早く見ぬくことが大切である。このように、見かけの美しさと真の美しさとはちがうもので、これを人間に例えて考える判定の仕方が擬人ぎじん法である。

(池田三四郎さんしろう『美しさについて』)
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a 長文 1.4週 he2
 釈迦しゃか、キリスト、ソクラテス、孔子こうし等の語録を読んでだれでも気づくことは、その多くが対話の形式をとっているということである。とくにプラトンの著作ちょさくはすべて対話編と呼ばよ れているように対話が中心になっているが、経文も論語ろんごも、バイブルもその中には対話的要素が少なくない。とくにプラトンの対話編をみると、宗教しゅうきょう哲学てつがく、文学などと分化しない以前の、そのいっさいが一つの生命において把握はあくされているそういう一種の原始性がある。現代ではあらゆるものが分化し、細分化されつつあるが、その以前の状態のもつ全人性といったものをわたし尊重そんちょうしてきた。ここに生ずる対話の精神は現在は消滅しょうめつしたのではないかと疑わうたが れる。
 わたしはきわめて初歩的な問題として提出したいのだが、読書とは要するに対話の精神の所産ではないかということである。ごく簡単かんたんにいうと、つまり疑問ぎもんを持つということだ。それがどんなに幼稚ようちなものであっても、人間が青春時代に達すると必ず人生や社会や、あるいは自分自身の生存せいぞんの仕方についてさまざまの疑問ぎもん抱くいだ 疑問ぎもん抱きいだ 疑問ぎもんを表現するということが考えるということの始まりなのであって、当然その疑問ぎもんに答える人を求めるわけである。プラトンの対話編や、孔子こうしでも釈迦しゃかでもソクラテスでも、その語録を読むと、すべて何ものかから疑問ぎもんを投げ与えあた られ、それに対して答えるという形式をとっている例が多い。あるいは質問した人間に向かって逆に質問する。それによってその人の抱いいだ ている疑問ぎもんに明確なかたちを与えるあた  。つまり問題の問題であるゆえんをはっきりさせるのだ。書物が存在そんざいしたとしても、まず現に生きている師に出会って、その師の口からの直接的な問答体によって「自己じこ」を発芽させる方法がとられたわけである。
 さきに述べたようにプラトンは書物にあまり重きをおかなかったにもかかわらず多くの書物を書いたが、しかしかれの本来の仕事はアカデミアにおける研究、あるいは弟子たちとの問答による教育という点に主眼がおかれていたわけで、書物そのものの占めるし  比重
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は、今日から考えるとかなり小さかったと思われる。この状態を、書物に対してもできるだけ応用してみることをわたしはすすめたいのである。もっともプラトンが指摘してきしたように、こちらで問いかけても書物というものは同じ言葉をくりかえすだけで何も答えてはくれない。疑問ぎもん抱いいだ て接しても、明確な答えが直ちに得られるとは限らない。
 たしかに書物の限界にはちがいないが、だから書物は不用だということにはならない。この限界があるからこそ、逆に書物に対する我々われわれの無限の探求たんきゅうが始まるわけである。これは、田中美知太郎みちたろう氏も指摘してきしておられる点で、プラトンの真意を知るためには、あらゆる種類の解釈かいしゃく、考証、共同研究等が求続的に行われなければならなかったし、そのために読書力が深まった、と。

 (亀井かめい勝一郎かついちろう『読書ろん』(旺文社おうぶんしゃ))
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a 長文 2.1週 he2
 日本は、世界の中でもきわめて安全な社会だといわれています。国民一人あたりの犯罪発生率も低いですし、ふだんスリや置き引きの心配をせずに生活できます。ハンドバッグをいすにかけたり、カバンを電車の網棚あみだなにのせたり、わきに置いたまま電話をかけたりといったことはあたりまえになっています。こうしたことができるのは、もちろんたいへんいいことなのですが、ごみの視点してんで見たときに、この安全度の高さが困っこま た問題の原因となっていることがあります。
 それは自動販売はんばい機の普及ふきゅうです。安全な社会でなければ自動販売はんばい機をだれも監視かんししていない所に置いておくことはできません。日本では、ジュースなどの清涼せいりょう飲料からはじまって、酒、たばこ、週刊から乾電池かんでんちにいたるまで、自動販売はんばい機は、いたるところに見られます。普及ふきゅう台数は全国で六百万台近く、国民二十人あたり一台の割合わりあいになります。これが安全についての日本の特殊とくしゅ事情によることはいうまでもありません。
 ところが問題もあります。自動販売はんばい機はいつでも気軽に買えるために、清涼せいりょう飲料の消費が大きくのび、その結果ごみも増えることとなりました。また、屋外で飲まれることが多いため、容器がどうしても散乱さんらんすることになります。道路わきや海岸、公園などに散乱さんらんする空き缶あ かんやペットボトルは、ごみ問題の一つの象徴しょうちょう存在そんざいです。道徳心にうったえることも大切ですが、野放しの自動販売はんばい機にも一考の余地がありそうです。
 日本人は働きすぎだといわれます。しかし、現在は週休二日制などが導入され、また労働時間の短縮たんしゅくもはかられていますから、これからは余暇よか利用はますますさかんになるでしょう。その代表は観光です。そこで観光で生きていこうとする地域ちいきでは、どうすれば人が来てくれるか、知恵ちえをしぼることになります。
 先日、静岡しずおか県の伊東いとう観光協会から、「伊東いとうの観光のあり方を考える」というテーマで講演をたのまれたのを機会に、観光とはなんだろうか、人はなにを求めて観光地に行くのだろうか、観光客はどうすれば満ち足りた気分になるのだろうかと考えてみました。
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の答えは一言でいえば、日常生活からの解放、つまりいつもとまったくちがう世界を楽しむということです。都会のオフィスで、毎日コンピュータとにらめっこしているサラリーマンにとって、人里はなれた渓流けいりゅうでヤマメを釣るつ こと、毎日食事のしたくにいそがしい主婦にとって、食事のしたくや後かたづけをせずに過ごせるということは、それだけでなんとなく豊かな気分になれます。
 ところでごみですが、これは、わたしたちが生活していくうえで、いつでもどこでもかならず出てくるものですから、日常性の代名詞だいめいしといってもいいものです。とすると、ごみが一つもない世界は、わたしたちの日常生活とはまったくちがった世界だということです。観光地からいっさいのごみをなくせば、そのことがそこを訪れおとず た人の心をいつもとちがった新鮮しんせんなおどろきで満たし、またそこへ行きたいという気持ちをおこさせることになるでしょう。
 この原理を適用して大成功した観光地、それが東京ディズニーランドです。ここには自動販売はんばい機は一台もありません。食べもの、飲みものの持ちこみも禁止されています。どこを見わたしても、ごみが一つも落ちていません。もしだれかがごみを捨てす たとすると、目にもとまらぬ速さで係員がちり取りに入れてしまいます。ちょうどウインブルドンのテニス世界選手権せんしゅけんで、ネットにかかったボールがすばやく取り去られるような要領です。
 ミッキーマウスもシンデレラ(じょうも、確かに非日常の世界なのですが、ごみが散乱さんらんしていたのではたちまち日常の世界に引きもどされてしまいます。ごみはそれほど日常を強く意識させ、わたしたちの日々の生活に深く結びついているのです。というわけで、伊東いとうの海岸にまた行ってみようという気持ちにさせるには、この方法を応用したらどうか、道徳心にうったえる方法とはまったく逆の、つまりごみをすばやく拾い、砂浜すなはまにはごみが一つも落ちていないようにするという方法を考えてみたらどうかということを、お話したのです。
 このように、ごみは社会を考える切り口をあたえてくれます。ごみから社会を見ていくと、社会の新しい面が見えてきます。ごみはわたしたちの生活や社会と表裏一体ひょうりいったいの関係にあるからです。
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a 長文 2.2週 he2
 サラリーマンが仕事がおもしろくない。上役にしかられた、というようなことがあると、ほかの人のしていることがよさそうに思われる。自分のやっている仕事がいちばんつまらなそうだ。思い切ってやめてしまえ、となる。商売変えしたところで、同じ人間がするのである。急に万事うまく行く道理がない。またおもしろくなくなる。すると、またも、ほかの人の職業がよさそうに見える。こういう人はいつまでたってもこしが落ちつかない。
 こういう例は世の中にごろごろしている。それなのに、相変わらず、同じことをくりかえす人があとからあとからあらわれる。めいめいの人にほかの人の経験が情報として整理されていないからである。整理されていないわけではない。ちゃんと、ことわざという高度の定理化が行われているのにそれを知らないでいるためである。
 たえず職業を変えるのは、賢明けんめいでない。そのことは古くからはっきりしていた。「石の上にも三年」というのがそれである。イギリスには、これを「ころがる石はコケ(お金)をつけない」と表現した。とにかく、じっと我慢がまんが必要だ、ということである。
 商売をする人、投機をする人は、ものの売り買いのタイミングを見きわめるのに身の細る思いをする。もうよかろうと思って、売買をすると、早すぎる。それにこりて、こんどは満を持していると、好機を失ってしまう。もっと早く決断すればよかったと後悔こうかいする。商売の人は、たえずこういう失敗を経験している。そのひとつひとつは複雑で、それぞれ事情は違うちが ただ、タイミングのとりかたがいかに難しいむずか  か、という点と、自分の判断が絶対的でないというところを法則化すると、「モウはマダなり、マダはモウなり」ということわざが生まれる。
 学校教育では、どういうものか、ことわざをバカにする。ことわざを使うと、インテリではないように思われることがある。
 しかし、実生活で苦労している人たちは、ことわざについての関心が大きい。現実の理解、判断の基準として有益だからである。ものを考えるに当たっても、ことわざをうまく利用すると、簡単かんたん処理しょりできる問題も少なくない。
 現実に起こっているのは、具体的問題である。これはひとつひとつ特殊とくしゅな形をしているから、分類が困難こんなんである。これをパターンにして、一般いっぱん化、記号化したのがことわざである。Aというサラリ
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ーマンのこしが落ちつかず、つぎつぎ勤めつと を変えている。これだけでは、サラリーマン一般いっぱん、さらには、人間というものにそういう習性があって、その害が古くから認めみと られていることに思い至るいた のは無理だろう。
 これに「ころがる石はコケをつけない」というパターンをかぶせると、サラリーマンAも人間の習性によって行動していることがわかる。別に珍しくめずら  もない、となる。
 具体例を抽象ちゅうしょう化し、さらに、これを定型化したのが、ことわざの世界である。庶民しょみん知恵ちえである。古くから、どこの国においても、おびただしい数のことわざがあるのは、文字を用いない時代から、人間の思考の整理法は進んでいたことを物語る。
 個人の考えをまとめ、整理するに当たっても、人類が歴史の上で行なってきた、ことわざの創作そうさくが参考になる。個々の経験、考えたことをそのままの形で記録、保存ほぞんしようとすれば、ごたごたしてわずらわしく、片端かたはしから消えてしまい、後に残らない。
 一般いっぱん化して、なるべく、普遍ふへん性の高い形にまとめておくと、同類のものが、あとあとその形とうまく対応して、その形式を強化してくれる。

外山滋比古とやましげひこちょ「思考の整理学」)
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a 長文 2.3週 he2
 「一を聞いて十を知る」
 十のうちの一を聞いただけで全体を知る。つまり、賢いかしこ ことを意味している。まるで日本の格言のようになってしまっているが、じつは「論語ろんご」に記された言葉である。弟子である顔回の聡明そうめいさを、師の孔子こうしがそう評したのだ。
 だが、ぼくはこの言葉こそ、日本文化の性格を端的たんてきに言い当てた表現とみなす。と言っても、日本人が無条件に賢いかしこ 、というわけではない。日本人の発想形式を、この言葉が見事に言い当てている、というのである。どのように?
 日本人は多弁や説明を嫌うきら 。日本の詩を代表する俳句はいくをみれば、それがよくわかろう。たった十七文字で詩的世界を表現しよう、などという文学の形は、世界のどこを探しさが てもない。このような形式が成立するところに、「一を聞いて十を知る」日本的性格が遺憾いかんなく示されているではないか。
 日本的風土からもっとも遠いのは、おそらく砂漠さばく地帯だろう。湿潤しつじゅんで四季に恵まれめぐ  た日本とは正反対の乾きかわ きった広大なすなの世界。ぼくは、その砂漠さばくへ何度となく足を踏み入れふ い た。そして、その都度、あらためて日本的風土を強く意識することになった。
 ある夏。オアシスでの午後のこと。真昼の、悪魔あくまのような太陽を避けさ て、わずかなナツメ椰子やし木陰こかげに身を寄せて横になった。 ぼくは退屈たいくつしのぎに、日本から持ってきた文庫本のページを繰っく ていた。そんなぼくの姿すがたをめざとく見つけて、トゥアレグ人がやってきた。彼らかれ も時間をもてあましていたのである。
「それは何だ? コーランか」と、そのうちの一人が聞いた。
「いや、日本の、有名な詩人の詩集だよ」と、ぼくは答えた。ぼくが手にしていたのは「芭蕉ばしょう俳句はいく集」だったのである。日本とまったくちがった風土で、日本を感じさせるものを読むのが、ぼく流の旅の仕方なのだ。
「ほう、どんな詩かね」と、もう一人が聞いた。
 彼らかれ はフランス語と片言かたことの英語をしゃべる。ぼくは弱った。が、無理をして「古池や(かわず飛びこむ水のおと」を、なんとか訳しやく 
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てやった。みな、うなずいた。どうやら通じたのだ。
 しかし、そのあとがいけなかった。というのは、「それで?」と目を輝かかがや せて、彼らかれ はつづきを待っていたからである。
「それだけさ」と、ぼくは言った。だが、彼らかれ 納得なっとくしない。かえるが水に飛び込んと こ で水音がした、ということは了解りょうかいしたのだが、彼らかれ にしてみれば、それはたんなる事実にすぎず、詩などとは、とうてい受けとれないからである。(中略)
 なにも、サハラのおくだけではあるまい。たぶん、世界中どこへいっても、こうした芭蕉ばしょうの句は同じような反応を引き起こすことだろう。なぜなら、ほとんどの民族は、十の説明から一つのものを導き出す、というのが普通ふつうなのだから。(中略)
 これは俳句はいくにかぎったことではない。日本的会話、日本的論議ろんぎ、すべてにわたって言えることだ。そこで、日本人は一を言って、相手に十の理解を求めることになる。
 だが、世界は、こうした日本的な直感的思考とは、ほど遠いところにある。それなのに、グローバル・コミュニケーション時代のいまに至っいた てもなお、日本人は直感形式のコミュニケーションですませようとしてしまう。
 重ねて言うが、西欧せいおうはじめ、日本以外の文化けんでは、「一を聞いて十を知る」ではなく、「十を聞いて一を知る」のである。それは、理解力が足りない、ということではない。人間同士の関係において、それだけ「十分な説明」が重要されている、ということなのだ。
 言葉をつくして、自分の考えを相手に理解させ、相手からも十分な言葉によって情報を得る。それが日本以外の、世界のルールである。この点で、日本はたしかに「異質いしつ」だと言える。では、どうすべきか。
 日本人が説明上手になるしかない。いままで一ですませてきたものを、十の言葉で説明して相手に理解させることだ。言葉のかべは、こうした文化的背景はいけい違いちが にある。だから、ぼくたちがどれだけそうした差異さいを自覚して相手に接するか、ということにつきよう。
(森本哲郎てつろう『この言葉!』)
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a 長文 2.4週 he2
 わたしが作曲家として携わったずさ  ているのは西洋音楽です。いわゆるクラシック音楽と呼ばよ れ、皆さんみな  ご存知 ぞんじであろうバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ショパン、ブラームス、ワーグナー、ドビュッシー、と続いてきた伝統があります。わたしはその線上に乗って、現代において作曲をしているわけです。クラシック音楽というと今や音楽の一ジャンルになっていますが、そもそもはヨーロッパにおいて、特に教会を中心として発達してきた、ある意味では非常にローカルな音楽なのです。西洋という一地域ちいきにおける民族音楽とも言えます。
 とはいえ現在、西洋音楽はグローバルなものとして広まっています。なぜここまで世界的な音楽として成功したかというと、要因の一つには、五線紙というものに機能的に記録する形式を獲得かくとくしたことが大きく働いています。楽譜がくふを書く」という大原則が根本にあったために、数百年前の作品も残っているのです。これを楽譜がくふ中心主義と言います。
 たとえばこんな話があります。日本では音楽そのものを「ミュージック」と訳しやく ていますが、西洋においてミュージックと言うと、まず頭の中にイメージするのは楽譜がくふなのです。辞書を引いてみるとわかると思います。欧米おうべいに行って、オーケストラや室内楽といった創作そうさくする現場へ行くと、
おれのミュージック、どこかへいってしまったぞ。お前、今日ミュージック貸してよ」
といったふうに、日常の会話の中では「楽譜がくふ」という意味でミュージックという言葉が使われています。
 つまり、西洋音楽の存在そんざい裏づけるうら   もっとも重要な要素として、まず楽譜がくふ(ミュージック)があるということです。
 西洋音楽を楽譜がくふ中心主義という大原則のもとに、いくつかの要素に分けて分析ぶんせきしてみましょう。まず楽譜がくふが中心にあって、それを音(サウンド)に変換へんかんする人がいる。演奏えんそう(パフォーマンス)する、演奏えんそう家です。さらにその演奏えんそう聴取ちょうしゅ(リスニング)する人、
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聴衆ちょうしゅうがいます。以上は楽譜がくふから生み出される要素でした。
 一方で、楽譜がくふからさかのぼるものもあります。いわば上流の部分には、その楽譜がくふを生み出す過程があります。その楽譜がくふを書く人の内にある何らかの音楽的要求、まずは欲求よっきゅうと言ってもいいのかもしれませんが、そこから音楽が始まります。
 つまり音楽によって何かを表現したいという自己じこ表現欲求よっきゅうがあって、それを自分の外部に、楽譜がくふという形式で、その音楽的要求(リクワィアメント)を固定する過程があるわけです。もうおわかりと思いますが、これが作曲(コンポジション)です。
 以上の三つの過程が「作曲→演奏えんそう聴取ちょうしゅ」と連続した図式(スキーマ)によって西洋音楽は成立しています。わたしは作曲家ですから、最も上流の部分で自分の表現したいものがあり、それを楽譜がくふに固定する立場です。演奏えんそう家がそれを音にして、聴衆ちょうしゅうがそれを聴くき 。このような創造そうぞう過程によって音楽が成り立っているわけです。
 この図式は、建築とよく似ています。家を建てるプロセスを考えてみると分かりやすいかもしれません。建築家がまず設計図面を書く、大工さんがそれを建物にする、そしてそこに住む人がいる、というスキーマです。

 (茂木もぎ健一郎けんいちろう江村えむら哲二てつじ『音楽を「考える」』(ちくまプリマー新書))
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 本について語られる言葉のおおくには、少なからぬうそがあります。だれもが本についてはずいぶんとうそをつきます。忘れわす られない本があるというようなことを言います。一度読んだら忘れわす られない、一生心にのこる、というほめ言葉をつかいます。こんないんちきな話はありません。人間は忘れわす ます。だれだろうと、読んだ本をかたっぱしから忘れわす てゆく。中身をぜんぶ忘れるわす  。読んでしばらく経ってから、これは読んだっけかなあというような本のほうがずっとたくさんあるはずです。
 本の文化をなりたたせてきたのは、じつは、この忘れるわす  ちからです。忘れわす られない本というものはありません。読んだら忘れわす てしまえるというのが、本のもっているもっとも優れすぐ たちからです。べつに人間が呆けぼ るからではないのです。読んでも忘れるわす  忘れるわす  がゆえにもう一回読むことができる。そのように再読できるというのが本のもっているちからです。
 ですから、再読することができる、本は読んでも忘れるわす  ことができる、忘れわす たらもう一回読めばいいという文化なのです。また忘れわす たらさらにもう一回読めばいい。本というのは読み終わったら終わりではないのです。図書館という大きな建物があって、図書館には本があるのは、一回読んだらあとは捨てるす  ためにあるわけではありません。読んでも読んでも忘れるわす  人間のために取っておくしかないから、図書館は必要なのです。
 そうすると、本の文化というものを自分のなかに新鮮しんせんにたもってゆくために、つねに必要なことは、そういう再読のチャンスを自分で自分にあたえてやる、ということです。あの本をまた読もうかなと思いだしたときに、読む。読んで忘れわす た本に再読のチャンスを自分であたえることで、読書という経験を、自分のなかで、絶えず新しい経験にしてゆくことができる。
 正月がくるたび、ある本を読むと決める。それだけでも、心の置きどころができるのが、本です。たとえば、教会というのは、聖書せいしょという本のある場所のことです。教会に行って、聖書せいしょを開いて、読む。毎回読む。何度もまた読む。毎日曜日、教会に行って、何度も何度も読んだ聖書せいしょをまた開いて読んでゆく。再読という習
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慣がもっとも大切な行為こういとして、信仰しんこうのなかにたもたれています。
 再読は、忘却ぼうきゃくとのたたかい方でもあれば、必要な言葉を自分にとりもどす方法でもあるのです。本の文化を自分のものにできるかどうかの重要な分かれ目は、その再読のチャンスを自分のなかに、生活のなかに、日常のなかに、自分の習慣として、人生の習慣としてそれをつくってゆくことができるかどうかだと思うのです。
 生まれたところから離れはな 暮らしく  て、そのあと過ごしたところの方がずっと長くなっても、生まれたところに対して、ずっと故郷こきょうという愛着をもちつづけるように、親しんだ本を再読するときには、そこに帰郷ききょうしたような感覚をもちます。たとえまったく覚えていなくても、しかしこれは自分が呼吸こきゅうした空気であるということを、よみがえらせてくれる本があります。そういう本の記憶きおくをどれだけ自分のなかにもっているかいないかで、自分の時間のゆたかさはまるで変わってきます。
 本の文化は、技術の文化のように、新しさや最先端さいせんたんがすべてではありません。今ある時間にむきあえるもう一つの言葉をもつことができなければ、そのもう一つの言葉の側から今という時間を新しく読みなおしてゆくということはむずかしいし、そのためにたずねられなければならないのは、もう一つの言葉をもつ、自分にとっての友人としての本という、本のあり方です。どの本がよい、というのではなく、本が自分の友人としてそこにあるというあり方を、自分たちの時間のなかにつくってゆく方法を育んでゆくということが、今、わたしたちにはとても大事ではないでしょうか。

(長田ひろし『読書からはじまる』)
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 あまのじゃくな人が嫌わきら れるのは、みんなと歩調を合わせないので、なにかと足手まといになるからです。人間は一人で生きているのではなく、他人とともに生きるようにつくられているのです。ところが、一人ひとりの人間はあらゆる点で違いちが ます。生まれつきの差もありますが、ものの見え方や音の聞こえ方も経験によって違っちが てくるように、後天的につくられるのう機能の差はさらに大きいのです。その違いちが がいわば個性ということになります。個性というと、先天的な差を連想する人もいるので、個人差という方が誤解ごかいが少ないでしょう。単なる感覚でさえも一人ひとりが違うちが のですから、価値かち観やものの考え方が違うちが のも当然です。
 このように、一人ひとりが違うちが のですが、その違いちが お互い たが に主張し合えば、だれもがあまのじゃくになってしまいます。そこで、人間同士の間には一種のなれあい現象が必要になってきます。つまり相手と意見が違っちが ても、すぐに反論はんろんするのではなく、一応は聞いておいて、自分の意見も修正し、相手の考え方もおだやかに改めてもらえるように工夫します。お互い たが 妥協だきょうするということにもなります。
 たとえば、ある料理を食べたときに、相手が「さすがにホンモノの味だ」といったとしても、自分にはそうも思えないというようなことはよくあります。しかし、それを口にすることはせずに一応は相槌あいづちを打って、味わい直してみるのがふつうでしょう。それでその場はなごやかに過ごせるし、自分の味覚が進歩することにもなります。
 このように、他人と歩調をそろえなければならないときには、だれもがひとりでになれあうのがふつうです。従ってしたが  、あまのじゃくになるひとつの原因は、そこにいる人と歩調をそろえるつもりがないために、自分の意見をそのまま主張するということです。だれに対してもあまのじゃくになるとしたら、その人はできるだけ自分だけで生きてゆこうとする人です。実際はそんなことは無理であっても、そういう姿勢しせいをとろうとするわけで、どこかで人間嫌いぎら になる原因があったのでしょう。
 (中略)
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 動物であれば、吠えほ たり、さえずったりして、自分の存在そんざいを周囲に訴えるうった  ところを、なにかと他人と違うちが 意見を主張することによって自己じこ顕示けんじするというあまのじゃくもいます。
 つまり、あまのじゃくにはいろいろの原因があるわけですが、原因はなにであれ、それが集団の歩調を乱すみだ という意味では迷惑めいわくなことです。あまのじゃくが仁王におう様にふみつけられるはめになるのはそのためでしょう。特に、日本人は自他の一体性が強いので、あまのじゃくを嫌うきら ようです。
 しかし、なれあいや妥協だきょうも度を過ごすと、自分独自の考えがなくなり、個性が薄れうす てしまいます。特に、創造そうぞう的な活動を必要とする場合は、それではまずいということになります。「逆転の発想」ということばもあるように、天動説が支配的な状況じょうきょうの中で、地球が動いているのではないか、と考えるような態度が大きな発見につながってゆきます。創造そうぞう性の強い人の中には「変人」といわれる人が少なくありません。部分的にはあまのじゃくとされることも多いでしょう。つまり、他人と歩調をそろえる心得も持ちながら、自分の意見をしっかり持っているというバランスが必要なのです。

(『ヒトはなぜ夢を見るのか』千葉康則)
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a 長文 3.3週 he2
 考えることが得意でない風に見える人々がいる。たとえばほとんど口をきかず、毎日にこにこと店でトンカツばかり揚げあ ているようなおやじは、そう見えるかもしれない。しかし、このおやじのトンカツがとびきりうまいとしたら、この人ほどものを考えている人間は少ないかも知れない。とりあえずは、そう仮定しておく必要がある。わたしたちは、こういう人の存在そんざいに実に鈍感どんかんになった。鈍感どんかんになって、いつもひりひりとした自負心、嫉妬しっと焦燥しょうそう退屈たいくつにさいなまれるようになった。だれもかれもが、得体の知れないこの時代にともかくも遅れおく まいとし、遅れおく ていない外見を作ることに忙しくいそが  なった。それでわたしたちは、一体何を考えているのだろう。
 トンカツ屋のおやじは、豚肉ぶたにくの性質について、油の温度やパン粉の付き具合についてずいぶん考えているに違いちが ない。いや、この人のトンカツが、こうまでうまいからには、その考えは常人の及ばおよ ない驚くおどろ べき地点に達している可能性が大いにある。このことをおそれよ。このおそれこそ、大事なものである。
 むろん、わたしはうまいトンカツの重要性について述べているのではない。では、何の重要性について述べているのか。それを簡単かんたんに言うことは、どうも大変難しいむずか  。けれども、大事なことはみな、このように難しいむずか  のである。だから、トンカツ屋のおやじは黙っだま てトンカツを揚げあ ている。かれは学問を軽んじているのでも、思想を軽蔑けいべつしているのでもない。ただ、かれは自分の仕事が出会ういろいろなものの抵抗ていこうで、それらの抵抗ていこう克服こくふくする工夫で、いつも心をいっぱいに満たしているから、余計なことを考えるひまも必要もないのである。こういう男のトンカツが、いつのまにか万人の舌を説得している、このことにこそ人間の大事があると、わたしは思っているに過ぎない。
 ここに中学生の男の子がいるとしよう。この子は、学校の勉強以外、学ぶということを一切したことがない。したがって、トンカツ屋のおやじをおそれるだけの知恵ちえがない。だから、おそれ気もなくこ
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尋ねるたず  。おじさん、なぜ人を殺してはいけないの? おやじは、まずこんな質問には耳を貸さないだろう。じゃまだから、あっちに行ってろと言うだけだろう。それでおしまいである。何の騒ぎさわ も起こらない。この子が中学を出て、高校などには行かず、トンカツ屋のおやじのところに見習いに入ったとしよう。そこで、同じ質問をする。お前は見込みみこ がないから、ほかで仕事を探せさが と言われるだろう。しかし、このおやじがもっと親切なら、見習い坊主ぼうず張り倒さは たお れる。それでおしまいである。
 おそれのないところに、学ぶという行為こういは成り立たない。遊びながら楽しく学ぶやり方は、元来幼稚園ようちえんの発明だが、今の日本の学校はそれが大学まで普及ふきゅう尽くしつ  てしまった。日本だけではなかろう。二十歳はたちを過ぎてもまだ遊んでいる人間が数えきれずいる国では、やがてそういうことになる。遊ぶことと学ぶこととが、どう違うちが のかわからない。子供こどもたちは何も怖くこわ ないから、勝手に教室を歩き回るようになる。
 おそれることができるには、自分よりけた外れに大きなものを察知する知恵ちえがいる。ところが、このけた外れに大きなものは、けたが外れているが故に、寝そべっね   ている人間の眼には見えにくい。見習い坊主ぼうずもまた、パン粉を付けてみるしかない。それは、初めちっとも面白い仕事ではないだろう。おそれる知恵ちえがまだ育っていない者に、心底面白い仕事などあるわけがない。だが、知恵ちえは育つのだ。豚肉ぶたにくやパン粉があり、怖いこわ おやじがいる限りは。

(前田英樹ひでき倫理りんりという力』)
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 わたしはゲオルク・ジンメルという約百年前ドイツで活躍かつやくした社会学者の研究を専門せんもんにしていて、数年前に『ジンメル・つながりの哲学てつがく』(NHKブックス)という本を書きました。その作業中、まさに百年前にドイツで生きたジンメルという人間と、「どうなの? これどうなの?」という会話をしている実感があったのです。たしかにそこまでのめり込む   こ には相当な集中力を要します。でも、真剣しんけんにある程度耳を傾けよかたむ  うとすれば、「いま・ここ」にはいない筆者と、いつのまにか直接対話しているような感覚を味わえることもあるのです。
 みなさんでしたら、大好きな小説家、詩人、歴史上の人物でもいいでしょう。本の世界に没頭ぼっとうしていくと、文字を通して、書き手や登場人物の肉声がなんとなく聞こえてくるような感覚、コミュニケーションがだんだん双方向そうほうこうになっていく感覚が生じてくることがあるのです。
 もちろん本を読めばいつでも、というわけにはいきません。でも、わたしが『つながりの哲学てつがく』を書いていたときは、「ジンメルだったら今の日本をどういうふうに見るんだろうな」というようなことを、ずっと考えながら執筆しっぴつしていたので、なんとなくかれがいつのまにか今の時代にタイムスリップしてきて、今の日本を見ながらわたしに語りかけてくれているような気分になっていました。
 コミュニケーションの本質って、じつはこういうところにあるんじゃないかと思います。
 具体的な人との関係でも、漫然とまんぜん 言葉を交わしているだけではだめなのです。
 ちょっと心地よくなると、すぐその場を放棄ほうきできてしまう言葉がいくつも準備されていて、自分の感覚的なノリとかリズムとか、そういうものの心地よさだけで親しさを確認かくにんしていると、やはり関係は本当の意味で深まっていきません。料理でいうと「苦み」のない、ただ甘いあま だけの料理を求めてしまう感じですね。
 ノリとリズムだけの親しさには、深みも味わいもありません。そればかりか、友だちは多いのに寂しいさび  とか、いつ裏切らうらぎ れるかわからないとか、ノリがちょっと合わなくなってきたらもうダメだと
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か、そういう希薄きはくで不安定な関係しか構築できなくなるのではないかと思います。
 読書のよさは、一つには今ここにいない人と対話をして、情緒じょうちょの深度を深めていけること。しかも二つ目として、くり返し読み直したりすることによって自分が納得なっとくするまで時間をかけ理解を深めることができること(実際の会話では「えっ、今なんて言ったの。もう一度言ってみて」、なんて何度も聞きなおすことはできませんものね)。あと三つ目としては、多くの本を読むということは、いろんな人が語ってくれるわけですから、小説にしても評論ひょうろんにしても、「あ、こんな考え方がある」「ナルホド、そういう感じ方があるのか」という発見を自分の中に取り込めると こ  ということ。実際のつき合いではそんなにいろいろなキャラクターの人とコミュニケーションすると「人疲れづか 」するころがありますよね。でも本を読む上では作者でも登場人物でも、いろいろな性格の人と比較的ひかくてき楽に対話することができます。その結果、少しずつ自分の感じ方や考え方を作り変えていくことができるわけです。そういう体験を少しずつ積み重ねることは、多少シンドイ面もありますが、慣れてくると、じつはとても楽しい作業になるのです。

 (菅野仁『友だち幻想げんそう 人と人の「つながり」を考える』(ちくまプリマー新書)
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