a 長文 7.1週 hi2
 カニクイザルの道具使用行動が、本書の趣旨しゅしである人類進化にどんな意味を持っているか考えてみよう。
 カキやカニはタンパク質に富む、非常に高品質な食物だ。カキは多くの岩やマングローブの根に成育するので、大量にある食物資源しげんでもある。しかし、その一方で、カキは固いから覆わおお れていて、霊長れいちょう類にとっては獲得かくとく難いがた 食物である。カニクイザルは、それを道具によって効率よく獲得かくとく処理しょりして食べている。「のう=高度な知能=道具使用=得がたいが高品質・大量の食物の獲得かくとく」というヒト進化の原型がここにある。
 カニクイザルはうまく叩けたた ば、三回ほどの打撃だげきでカキの身を食べている。この行動は、手ごろな石を握るにぎ こと、それを三〇〜五〇センチメートルの振りふ はば振りふ 下ろすこと、の二つの動作で構成されている。そのどちらも日常的に行っている動作であり、それらの組み合わせである。ビデオ画像を見ると、強力なおや指が関与かんよするヒトの握りにぎ に比べると、把握はあくのしっかり感にいくらか欠けるものの、こういった打撃だげきには十分だ。また、彼らかれ が使っているハンマーは楕円だえん形をした平たい石が多く、握りにぎ やすいとともに、打撃だげき部分が点に近いため、カキやカニ割りわ には効率がよい。のうの発達に効果器が重要であることが、ここでも証明されている。
 宮崎みやざき県、日向灘ひゅうがなだ浮かぶう  幸島のニホンザルたちも、海産物を食べることが知られている。彼らかれ の場合、岩に付着しているヨメガカサなどのアワビの小型版の一まい貝を、道具を使わず、下あごの前歯でがして食べる。このため、彼らかれ の前歯は磨耗まもう激しくはげ  、オトナの中には歯肉から出た部分がほとんどなくなった個体も多い。したがって、カニクイザルの道具の効果は絶大と言ってよい。
 道具使用行動は、遺伝いでんによって子孫に伝えられる行動パターンではない。他の個体が行っているところを観察して、学習する必要がある。群れを作って生活し、他の個体のやっていることを見て、真似ることは、文化伝播でんぱ・伝承の必要条件である。わたしたちは、カニクイザルの子供こどもたちが学習しているところを観察した。カキ
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割りわ の手順とメカニズムを十分に理解できていない子ザルが、獲物えものもないのに台石をハンマーで叩きたた 叩いたた たところに口をもっていっていた。もうしばらくすれば、カキのから叩きたた 割るわ ことや獲物えものをその道具セットの場に持っていくことを覚えるだろう。こう考えると、子供こどもの期間が非常に重要で、霊長れいちょう類における成長期間の延長えんちょうは、複雑・高度な行動パターンの学習には必要条件である。
 知能というものが、新しい行動パターンを思いつくという最初の過程だけでなく、学び取ること「学習」を含むふく ということを、特に強調したい。
(中略)
 小島の子ザルが、食物を置かずにハンマー石を台石に無心に叩きつけたた   ている様子は微笑ましいほほえ   。しかし、その行動をビデオで何度も見ているうちに、真似るということが、ヒト以外の動物にとってどれほど困難こんなんなものであるのかを実感する。そして、子ザルがそのメカニズムを体得しようと取り組んでいる真剣しんけんさに感動してしまう。それまで、カキ割りわ をしていなかったオトナなら、とっくにあきらめてしまうのだろうが、子ザルはそれを執拗しつように行う。生きる上で、この行動の習得が必須ひっすだと思いこませるような遺伝いでん的指令があるのかとさえ感じてしまう。この指令が発達過程に織り込まお こ れているのは、ヒトにもあてはまるだろう。それゆえに親や社会のメンバーは、子供こどもたちのモデルである。
 のうはあっても適切な学習過程と学習環境かんきょう与えあた られなければ、十分な機能を発達させられない。「あるがまま」「自然にまかせて」の教育の恐ろしおそ  さは、そこにある。

濱田穣『なぜヒトののうだけが大きくなったのか』(講談社ブルーバックス))
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a 長文 7.2週 hi2
 だれにすがるわけにもいかない。だれかにしかられたいと思っても、しかってもらうわけにはいかない。先輩せんぱいも、同僚どうりょうもいない。親もいなければ、きょうだいもいない。しかも、生きるか死ぬかというときです。全部自分で引き受けるしかない。自分の判断に基づく行動のほか何にもない、こういう状態が自由です。だから、自由というのはこわい。ぞっとするほどおそろしい。
 われわれは、つね日ごろは、先輩せんぱいなり、後輩こうはいなり、友だちなり、親があり、先生があり、そのほかいろいろあります。しかし、ほんとうの自由というのは、全部取り払っと はら て、自分一人きり、それが全責任を負う。自分の判断に全部をまかせる。この状態が自由です。人間というものは、本質的には自由の続きですが、さいわい、そんなこわいことばかりでなしに、あれこれとたよるべきものがある。しかし、ほんとうの自由というものは、そういうものだということを、はっきり知っていないと、こまるのです。ぼくは自由ということばをきょうはだいぶしゃべりましたが、めったに口にしません。こわいことばですから。ぼくは自分の文章に、自由ということばをそんなに無造作に書きません。自由なんてことばを聞くと、どきっとします。
 しかし、ぼくのように自由を受け取っている人は、そんなに大勢いないでしょう。それどころか、自由と聞けば、とたんにダンスのステップでも踏み出しふ だ かねないかっこうをする人が多くて、まったく閉口へいこうです。
 ことばだけを口先でしゃべりまくって、何か事が済んす でいるみたいなところに、教育の普及ふきゅう国でありながら、日本はひどく変なところ、ひどく不幸なところがあると思います。くりかえしになりますが、自由ということは、たった一人の人間、たった一人の自分というものの責任においてはじめて可能になるということです。
 では、たった一人の自分だけでいいか、ということになると、そうはいきません。次は、たった一人の人間が、別のたった一人の人間とどう結びつくかという問題です。ほんとうに、自分というものをしっかり握っにぎ て──オウムのように何だかわけのわからぬことを口ばしって疑いうたが も持たないような人間でなくて、うっかりすると、人ごみにまぎれこんでしまいがちな自分というものに、いつも目をくばって、自分で自分を監督かんとくする。めいめいの人間が自分にブ
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レーキをかけることを忘れわす ない。そんな社会を文明社会といいます。めいめいがそれぞれ、ブレーキを持って、まさかのときは、自分でブレーキをかけることを忘れわす ない。こういう人間の集まっている所が文明社会です。そういう、ひとりひとりが自分をしっかり握っにぎ て、行くえ不明にならないように、自分が自分を監督かんとくする。こういう人間と、もう一人のそういう人間との結びつき、これが社会というものの根本です。

臼井うすい吉見よしみの文章による)
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a 長文 7.3週 hi2
 わたしは四さいのときに小児マヒにかかった。幸い重症じゅうしょうではなかったが、それでも左足にマヒが残っているのでびっこを引いている。わたしを形成した最大の先生はこの足だと思っている。
 そのため、さまざまなことを味わってきたが、わたしに限らず、身障者しんしょうしゃにとっていちばんの願いはできるなら自分が不具(身体が不自由なこと)であることを、相手が心の底から忘れわす てくれることである。ごくふつうの人間として扱っあつか てくれることである。
 いつだったか、わたしは電車のなかで青年から席を譲らゆず れたことがあった。かれは立上がるとわたしの顔を見ながら、はっきりした声で「おすわりなさい。あなた足が悪いんでしょう」といったのである。かれの善意ぜんい、親切はわかったが、わたしはその時、いささか憂うつゆう  であった。
 反対に一つの席をねらってお互い たが にダッシュする時がある。これは勝っても負けてもうれしいのである。相手はわたしを一人前の相手と認めみと ているのだから。
 群馬県の高崎たかさきに心身障害しょうがい者のための国立コロニーができるということである。コロニーとは、いわば、障害しょうがいのために、社会的・職業的に一人だちできない、そういう人間が日々を生きていくための村とでもいうべきものである。
 今の社会の現状では、実際問題として、このようなコロニーはなくてはならないだろう。
 そのことは認めみと た上でのことなのだが、わたしにはひとつの気がかりがある。それは、この種の構想が社会にとってあまり有用でないものをまとめて「隔離かくり」する、というような気持とどこかで関係がなければいいが、ということである。
 それは、おそらくひねくれた見方であろう。しかし、実際の生活のなかでそのような差別意識が生きていることもまた事実である。精神に障害しょうがいのない肢体したい(手足または身体)不自由な者などの場合、そのような厄介やっかい者意識・差別意識と出会うことの苦悩くのうはひとしお大きい。
 たとえば社会復帰の不可能なもの、ということであるが、これ
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は要するにおカネを自分でかせいで自活できないもの、という意味であろう。そして確かに、現状では自分で働けないものは、家庭の世話になって生きるか、このような施設しせつにはいるよりないのである。
 しかし、では人間の価値かちというものは何であろう。今のわたしたちが生きている社会の基準では、それは、働いておかねがかせげるかどうか、役立つかどうかということにかかっているように思われる。だから、かりに、身障者しんしょうしゃのある人が非常にすぐれた知力を持っていたとしても、かれが、労働能力を持っていなければやはり厄介やっかい者であろう。
 わたしは正直いって、そういう事実を悲しく思う。人間として立派りっぱに一人前のものを持っているのに、これらの人々の場合には、それを認めるみと  だけの余裕よゆうが社会の側にないのである。だから社会はかれらを施設しせつ収容しゅうようしなければならない、またかれらも施設しせつ避難ひなん港として考える、ということになるのであろう。
 労働能力や外見が事実上人間の価値かちをきめる――これは、この社会が物質的・精神的に貧しいことにほかならない。そして真に豊かな社会が来、あらゆる問題が解決するまで、ほんとうの解決はこないであろう。

(三木 たくの文章より)
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a 長文 7.4週 hi2
 サルは集団で暮らしく  ている。ストレスが溜まるた  。そこで彼らかれ が編み出した方法というのが、グルーミングというものだ。お互い たが の毛づくろいをする。
 衛生的な目的であれば、グルーミングしている時間と身体の大きさが正比例するはずなのだが、そうではなく、社会的なグループの大きさと時間とが比例するという。つまり、複雑で大きな集団になればなるほど、グルーミングの時間が増える。
 しかもグルーミングの相手は無差別ではない。特定の相手とのみ、おこなわれる。グルーミングは社会的に仲良くなろうとする行為こういであるのだ。親子同士はもちろんだが、仲間内の、特定の相手が選ばれて、グルーミングをする。いわば親しい友人である。そして近くにこの友人がいるときほど、特に仲間のために警戒けいかい音を発したり、えさを見つけたよという合図をおこなうことが多いという。つまり、利他的な行為こういは、ふだんのグルーミングによる付き合いの結果なのだ。
 グルーミングによって親しい友人が増やせるし、生きていくのも簡単かんたんになるのなら、なるべく多くのグルーミング相手がいたほうがいい。しかし、このグルーミングの相手になる数は限られている。グルーミングは一対一でしかおこなわれない。しかも一日のうち、四十パーセントの時間をグルーミングに費やすということも観察されている。小さな集団であれば、それで充分じゅうぶんなのだが、より強大になろうとし、より大きな集団を作ろうとしたとき、グルーミングでは間に合わなくなってくる。そこで、音声による友人作り、つまり言語が始まったのだ、というのがダンバーの説である。言語によって、グルーミングと同じように、友だちを増やしている。つまり、ことばが、情報のやり取りではなく、仲良くなるという目的で使われている。
 小田は、コンタクト・コールという特定の相手との音声の呼びよ 交わしが、かなり原始的なサルにも見られると報告している。コンタクト・コールは、移動中などにお互い たが の位置を教えあうためにおこなわれると考えられているものだが、特定の相手と頻繁ひんぱんにおこなわれることから、やはり、集団を維持いじするためにおこなわれると考えられる。グルーミングの補助ほじょ役割やくわりを果たしていると考えられ、これがわたしたちの日常会話の原型なのではないかという。
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 グルーミングにせよ、コンタクト・コールにせよ、お互い たが が仲良くなるための手段しゅだんとして使われている。異性いせい間に限られない。また家族間にも限られない。そこで伝えられているものは、たぶん、隣人りんじん愛と呼ばよ れるものの最も原初的なものなのではなかろうか。
 人間以前のことばが隣人りんじん愛を伝えているとすれば、これは、ファティックであると言える。繁殖はんしょく期になって、オスがメスを呼ぶよ 。それが、愛であるのならば、お互い たが の共同生活を作るものならば、ファティックと言える。
 外敵から身を守るために集団で暮らすく  ことを選んだ人間の先祖たちは、その集団のまとまりを維持いじするために、ことばを使い始め、そうして社会を形成した、という考えなのだ。
 今まで、ことばの起源きげんは、動物の発する相手に対する威嚇いかくの声や逃げるに  ときの悲鳴などが初めにあって、それらが、今あることばの働きかけの機能、自己じこ表出の機能になったと考えられてきた。働きかけは、相手に何かを頼んたの だりすること、自己じこ表出は、自分の気持ちを表現すること。これらがことばの最も原初的な働きであり、それがすなわちコミュニケーションであると考えられてきたフシがある。しかし、そうした働きは、ことばの一面を言っているにすぎない。
 ことばはコミュニケーションの道具である、とよく言う。しかし、ことばは情報伝達の道具というだけではすまされない。ことばの起源きげんの現場を見た人はどこにもいないのだから、あくまでも仮説にすぎないけれど、ことばがお互い たが が仲良くするという目的のために生まれたのだという考えは、ちょっと魅力みりょく的だと思う。

(金田一秀穂『新しい日本語の予習法』(角川oneテーマ二十一))
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a 長文 8.1週 hi2
 二、三年前、小学高学年の子どもたち三〇〇人に、どんな公園、どんなあそび場が欲しいほ  かという絵を描いえが てもらったことがある。その時子どもだけしか入れない公園が欲しいほ  というのがかなりあった。
 児童公園など、あそんでいるのは子どもがほとんどなのに、と思うのだが、子どもたちに言わせれば、児童公園には大人もたくさん来て、野球をしちゃあいけない、木に登ってもいけないなど、いろいろ言う。
 そのくせ、自分たちはゲートボールとかゴルフの練習とかして、危ないあぶ  から向こうであそべという。そういうのでなく、子どもだけで自由に勝手にあそべる公園が欲しいほ  というわけである。
 なるほど、いま子どもたちにとって、大人から全く干渉かんしょうされない空間はほとんどない。子どものための施設しせつ、子ども用の施設しせつというのはある。しかし多くの場合、大人が管理している子どもの施設しせつである。子どもが大人から離れはな て、自立的に持っている空間はない。
 わたしの子どものころは、何をどうしようと大人たちからあれこれ言われないあそび場がたくさんあった。防空壕ぼうくうごうや空き地や裏山うらやまや、さまざまな所に子どもたちだけの秘密ひみつの場所を持っていた。大人も子どもに干渉かんしょうするほどひまではなく、忙しかっいそが   た。
 かつて、子どものころの秘密ひみつの場所とか秘密ひみつの小屋とか子どもだけの場所をアジトスペースと名づけて調査をしたことがある。ほとんどの大人は子どものころそういうものを持っていたし、集団でよくあそんだと答えた。一五年ほど前、子どもたちに同じ質問をしたところ、一〇人に一人しか持っていなかった。特に、都市部の子どもたちは少なかった。横浜よこはまで一九八九年に調査したところ、子どもたちは全員そういう場所を持っていなかった。
 かつては子どもだけの場所、言うなれば子どもの独立国が町や村のそこここにあったのである。昔、わたしたちはそこで自立心を学んだのだろう。ところが今、それらは大人たちによって滅ぼさほろ  れ、植民地のようになっているのかもしれない。
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 今の子どもたちは自立心がない、独立心がない、と大人はよく言う。その心を育てる空間を自分たちが奪っうば てしまっていることを忘れわす ている。子どもたちが自由な独立国をつくれるような、都市や環境かんきょうのゆとりのある改造が必要だろう。
 昔も今も、子どもたちは大人から干渉かんしょうされない自由なあそび場を求めているはずだ。

仙田せんだ みつる「子どもとあそび」より)
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a 長文 8.2週 hi2
 いやいやがまんするのではなくて、進んで行なう、これが心地よさの基礎きそである。ところが、砂糖さとう菓子がしは口のなかで溶かしと  さえすれば、ほかに何もしなくともけっこううまいものだから、多くの人々は幸福を同じやり方で味わおうとして、みごとに失敗する。音楽は聞くことだけしかせず、自分では全然歌わないのなら、たいして楽しくはない。だから、ある頭のいい人は、音楽を耳で鑑賞かんしょうするのではなく、のどで味わうのだ、と言った。美しい絵からうける楽しみでさえ、下手でもいいから自分で描いえが てみるとか自分で収集しゅうしゅうするとかしなければ、休息の楽しみであって、熱中の楽しさは味わえない。大切なのは、判断するだけにとどまらず、探究たんきゅうし、征服せいふくすることである。人々は芝居しばいを見に行き、自分でいやになるくらい退屈たいくつする。自分でつくり出すことが必要なのだ。少なくとも自分で演ずることが必要なのだ。演ずることもまたつくり出すことなのだ。わたしは人形しばいのことばかり考えてすごした幸福な数週間のことを思い出す。だが、ことわっておくが、わたしは小刀で木の根に、高利貸だの、兵隊だの、むすめだの、老婆ろうばだのを刻んきざ でいたのである。ほかの連中がそれらの人形に衣装いしょうを着せた。わたしは観客のことなど眼中になかった。批評ひひょうなどというとるに足らぬ楽しみは観客どもにまかせておいた。いくらかでも自分で考え出したという点では、批判ひはんもまた楽しみではあるのだが。トランプをやっている連中は、たえずなにかを考え出し、勝負の機械的な進行に手を加える。だが、それにしても、ゲームを学ばなければならない。なにごとにおいてもそうだ。幸福になるには、幸福になるなり方を学ばなければならない。
 幸福はいつもわれわれから逃げに てゆくものだ、といわれる。人から与えあた られた幸福を言うのなら、それは正しい。与えあた られた幸福などというものはおよそ存在そんざいしないからである。しかし、自分でつくる幸福は、決して裏切らうらぎ ない。それは学ぶことであり、そして人はたえず学ぶものだ。知れば知るほど学ぶことができるようになる。ラテン語学者の楽しみもそういうものだ。そこにはきりというものがなく、むしろ進んだだけ楽しみが増える。音楽家であることの楽しみも同様である。だからこそ、アリストテレスはつぎのよ
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うな驚くおどろ べきことを言う。真の音楽家とは音楽を楽しむ人であり、真の政治家とは政治を楽しむ人である、と。
「楽しみとは能力のあらわれである」と、かれは言っている。その理論りろんなど忘れわす させてしまう用語の完璧かんぺきさをもつ素晴らしいことばだ。いかなる行動においても、真の進歩のしるしは、人がそこに感じうる楽しみにほかならない。したがって、仕事こそが心を楽しませる唯一ゆいいつのものであり、しかもそれだけでじゅうぶんなのだ。わたしの言う仕事とは、力のあらわれであると同時に、力を生み出す源泉げんせんでもある自由な仕事のことだ。くりかえしていうが、大切なのはがまんすることではなく、行動することである。
 だれでも見たことがあるように、石工たちはゆっくり時間をかけて小さな家をつくる。かれらが一つ一つの石を選んでいる様子を見て欲しいほ  。この楽しみはどんな手仕事にもある。職人はいつでも考え出しては学んでいるからである。ところが、職人が自分のつくった物となんらの関係ももたず、自分の物を所有することもなく、さらに学ぶために使用することもなく、たえず同じことをはじめからくりかえす場合には、きわめていい加減なことになる。機械的な完全さが退屈たいくつをうむことは、もちろん言うには及ぶおよ まい。これに反して、仕事の継続けいぞく、作物が次の作物を約束すること、それが農夫を幸福にする。もちろん自由で自立している農夫のことだ。ところが、たいへんな労苦によってあがなわれるこういう幸福に対してだれもがみんなさわがしく反対する。人から与えあた られた幸福を味わいたいなどというけしからぬ考えがはびこっているからだ。ディオゲネスがいうとおり、苦しみの方がいいのだ。だが、精神はこの矛盾むじゅん背負っせお て行きたがらない。この矛盾むじゅんにうちかつことこそ大切なのだ。

(アラン『幸福ろんそう左近やくより)
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a 長文 8.3週 hi2
 わたしが考えてみたところでは、自分には生きがいがあるかどうか、とか、生きがいとは何か、などと人が考えるのは、青年期にいろいろな人生問題を悩むなや ときか、またはすっかり年とって心身ともにおとろえ、自分でも生きているのがつらくなり、他人にも迷惑めいわくでないか、さりとて、どうしたらいいか、などと悩むなや ときが多いような気がします。そうでなければ、人生の途上とじょう、何かたいへんつらい目にあったりして、生きて行く望みを失ったときに、ああ、もう自分は生きがいがない、などと思い悩むおも なや ものだろうと思います。つまり、生きがいということばが、ふつうの人の頭に浮かびう  あがってくるのは、まさに生きがいが奪わうば れそうになったり、ある生きがいが失われたりしたときなのだろうと考えられるのです。
 そもそも生きがいということばの意味は何でしょうか。辞書をひいてみると、「生きているだけのねうち」とか「生きている幸福・利益」などと書いてあります。この二つの定義がならべてあるところをみると、この二つはたがいに無関係ではなく、幸福とか利益とかいっても、それは「ああ生きていてよかったなァ」「生きているだけのことがあったなァ」と感じるよろこびの心を内容としているものだろうと思われてきます。ですから生きているだけのねうちといっても、それは自分で自分に向かってみとめるものであって、他人がみとめるものとは限らないといえましょう。
 ここが生きがいについてのたいせつなところだと思います。万人がうらやむような高い地位にのぼっても、ありあまる富を所有しても、スター的存在そんざいになれるほどの美貌びぼうや才能を持っても、本人の心の中で生きるよろこびが感じられなければ、生きがいを持っているとはいえないわけです。
 こうみてくると、生きがいある生涯しょうがいを送るためには、何かしら生きがいを感じやすい心を育て、生きがいの感じられるような生きかたをする必要があるのではないか、と思われてきます。もちろん、人間の心はたえず生きがいを感じるようにはできていないので、一生のうち何べんか、「ああ、生きていてよかったなァ」と感じられるような瞬間しゅんかんがあればありがたいとすべきでしょう。たえず生きがいを感じて喜んでいるというのは、むしろふつうでないのではないかと考えられます。
 さて、こういうことを承知のうえで、生きがいを感じる心とはど
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んな心かと考えてみますと、それは結局、感受性のこまやかな謙虚けんきょな心、何よりも、「感謝を知る心」だろうと思われます。欲深よくふかい、勝気な心の正反対です。感謝を知るというのは、何か特に他人が自分によくしてくれた場合だけでなく、自分の生というものを深くみつめて、どれだけの要素がかさなりあって自分の存在そんざいが可能になったのかを思い、大自然にむかい、ありがとう、と思うことをいっているのです。
 次に、生きがいが感じられるような生きかたとはどんなものかを考えてみましょう。生きがいとは生きているだけのねうちということでしたが、この「ねうち」が、自分にもっともはっきり感じられるときのひとつは、自分の存在そんざいが何かのために、だれかのために必要とされていると自覚されるときでしょう。それも、ただ飾りかざ のようなぐあいに必要とされるのではなく、他人では代用できない任務や責任を負った者として必要とされるときに、一ばん強く意識されるでしょう。
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a 長文 8.4週 hi2
 理解できなくても、理解者になることができる――この発想がとても大切です。
 では、どうしたらわたしたちは、苦しんでいる人から見て「理解者」になることができるのでしょうか?
 理解者になることは、面白い話をしてくれる人になることではありません。がんばってねと励ましはげ  てくれる人になることでもありません。知らんぷりをする人になることでもありません。
 そばにいて、ただじっと聴いき てくれる人が、わかってくれる人になるのです。
 わたしは、この場合の「きく」には「聴くき 」という漢字をあてて、「聞く」とはあえて区別して用いるようにしています。
 一般いっぱん的に、聞くということは、自分が何かを知るために行なうことです。つまり、「自分の知りたいこと」を知るために聞くのです。
 苦しむ人を前にすると、医師は「いつから具合が悪いのか」「何か良くないものを食べたか」「ほかに具合の悪いところはないか」など、病気を疑っうたが て問いかけます。皆さんみな  であれば、「どうしたの? 何かつらいことがあったの?」など、いろいろ質問をするかもしれませんね。
 しかし、ここで紹介しょうかいしたい「聴くき こと」は、自分が理解するための「聞くこと」とは違いちが ます。相手から見て、わかってくれたと思えるための「聴くき こと」です。自分が知りたいことを聞くのではなく、相手から見て、わかってもらえたと思えるように「聴くき 」ことがとても大切になってきます。
(中略)
 苦しんでいる人は、いろいろなサインを出します。言葉であったり、言葉ではなかったりします。そして、聴きき 手である「わたし」は、そのサインを何か意味があるメッセージとして受け取ろうとします。何か伝えたいことがあるのだと意識して聴いき ていく時、相手のメッセージが見えてくることでしょう。
 そして、そのメッセージを、言葉にします。「あなたのいいたいことは、こういうことですね」という具合に、メッセージを受け取ったことを、相手に伝えます。
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具体的には「反復」という技法を用います。相手の話した大切なカギとなる言葉を、ていねいに反復するのです。
 大切なことは、話をした人が、「いいたいことが伝わった」という感覚を持てるかどうかにあるのです。聴いき てもらえたけれど、本当に聴いき てくれた相手に自分の思いが伝わったかどうかわからなければ、聴くき ということの意味が半分以下になってしまうことでしょう。
 たとえば、相手にメールを送ったのに返事がないと、本当に伝わったか心配になる人もいるでしょう。一言、「メール届いとど たよ」でも、返事があるとうれしいですね。これと同じです。話した人に対して、あなたのいいたいことは、こういうことなんですね、と返してあげることが、大切になります。
 これだけでも、苦しんでいる人の気持ちは楽になると思います。わかってくれたとの思いは、満足につながります。そして、安心した気持ちになっていきます。
 その人は、聴いき てくれた人のことを「わかってくれる人」として認めみと てくれるでしょう。そして、聴いき てくれた人を信頼しんらいするようになっていくのです。
(中略)
 人は、誰かだれ に「わかってもらえた」と思えた時に初めて、苦しみの中にあっても生きようとする力がわいてくるのだと思います。
 聴くき ことは、とても大切な援助えんじょの方法です。聴いき てもらえるだけで、気持ちが楽になる人もいるはずです。このように聴くき ことができたならば、皆さんみな  は、大切な人の苦しみをやわらげることのできる、素晴らしい援助えんじょ者になれるでしょう。

小澤竹俊『一三さいからの「いのちの授業」』(大和出版)による)
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a 長文 9.1週 hi2
 『学校の怪談かいだん』という本がかくれたベストセラーと言っていいほど、よく売れているそうである。どこかの教室に幽霊ゆうれいが居た、というようなよくある話が書かれているようだが、これが意外と子どもたちに人気があり、おどろくほどの売れゆきを示していると言う。
 ある幼稚園ようちえんの先生に次のような相談をされたことがある。子どもたちが話をしてくれ、とよくせがむので、むかし話など自分が覚えている話をしてやると、子どもたちは非常に喜ぶ。テレビのアニメなどで、もっとおもしろい話を見ていると思うのだが、先生の話を予想外に喜んで聞く。そして、そのなかで魔女まじょが出てきたりするところなど、こわいところがあると、「こわい」とさけんで耳を手でふさいだり、となりの子どもにしがみついたりしている。これはよくなかったかな、と思っていると、子どもたちが、「先生、あのこわい話をして」とせがむのである。
 先生が疑問ぎもんに思われるのは、「どうして、子どもは『こわい、こわい』とさわぎながら、何度も聞きたがるのでしょう」ということである。そして、そもそも子どもにそれほどこわい話をしていいものだろうか、ということである。子どもたちは何度も同じ話を聞いて、こわいところはもうすでに知っている。そして、それを心待ちしているようにさえ見えるが、そこに話がくると、「キャー」とさけんだりする。何とも不思議な現象だ、と先生はいぶかしがられるのである。
 人間にはいろいろな感情がある。喜怒哀楽きどあいらくなどというが、それはもっとこまかく分けられる。その感情を体験し、自分がそのような感情のなかにいるということを意識するのは、六さいくらいまでの子どもでも可能であり、それを体験することは子どもの情緒じょうちょの発達にとって非常に大切なことである。
 ただ、悲しみや怒りいか などの感情があまりに強いときは、子どもがそれにたえられず、情緒じょうちょの発達というより、むしろ破壊はかい的な結果になってしまう。その上、親としては、子どもに悲しみや恐怖きょうふなどはなるべく味わわせたくない気持ちがあるので、そのような体験をさせないようにする。しかし、このあたりが難しいむずか  ところで、子どもが十分に育ってゆくためには、そのような否定ひてい的な感情を体験することも必要なのである。
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 子どもの心が自然に流れるかぎり、「こわい」感情体験もしたくなるのは当然である。そのようなマイナスの感情を体験してこそ感情が豊かになってゆくのだ。しかし、マイナスの感情が強くなりすぎると危険きけん性が高くなる。そこで、子どもたちの信頼しんらいする大人にこわい話をしてもらうことは、信頼しんらい関係によってマイナスの感情を消しながら、「こわい」体験ができる──時にはそれを楽しめる──というわけで、これは子どもにとって非常に好都合の状況じょうきょうなのである。したがって、子どもは自分の好きな大人にこわい話をせがむことになる。
 このように考えると、子どもたちにこわい話をしてとせがまれるのは自分が子どもたちに信頼しんらいされていることの証拠しょうこだとわかるし、喜んでそれに応じてやればよい。こんな話は「教訓的」ではないとか、こわい話ならもっとすごいのがテレビでも映画えいがでもあるのに、などと余計なことを考える必要はないのである。これは特に、おじいさん、おばあさんなどが、自分のような「古くさい」話はだめだと勝手にきめてかかっているのに対しても言えることである。古くてもいいから思い切って「おはなし」してみることである。
 子どもたちはこんなわけで「こわい話」を自分たちの好きな大人にしてほしいのだが、そんな機会は急激きゅうげきに少なくなってしまった。そこで、『学校の怪談かいだん』などという本を読んで楽しむより仕方なくなってきたものと思われる。心細い思いで子どもたちに一人で「こわい」体験をさせるのではなく、この際、大人たちはもう少し子どもに「おはなし」する機会をつくるようにしてはどうだろうか。

(河合隼雄はやお「おはなし おはなし」による)
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 この数年、おりおりに森を歩いている。
 日本列島で森といえば山のことだが、わたしのは登山ではなくて森あるきだ。頂上ちょうじょうをめざしてひたすら登るという年齢ねんれいではなく、そんな体力もないのだが、山のすそや中腹ちゅうふくの森をゆっくり歩いていると気が安まり心が満ちてくる。
 谷川の石河原で寝そべっね   てみたら若葉わかばのざわめきと水の音と鳥の声につつまれている心地よさに、半日を過ごしてしまい、日暮れひぐ どきになってそのまま帰って来たこともある。紅葉こうようのブナの森を歩いていたら、その前から立ち去りがたい大きな木があちらにもこちらにもあって、そのときも気がつくと半日が過ぎていた。その日予定していた別の森には行かずじまいだった。なにも数多くの森をせっせと歩きまわることはない。訪ねたず た森の数や歩いた距離きょりをだれかと競うわけではないのだから、森の豊かな時間のなかに身を置いて、森の大きないのちの鼓動こどうを静かに聴きき つづける。時を忘れわす させる森では足はおのずとゆっくりになり、しばしば立ちどまってしまう。
 そういう森で見かけるのが、倒木とうぼくだ。三人がかえ四人抱えがかという大きな木が倒れたお ている。何百年かを生きてきて、半ば朽ちく て立っていた木が、ある日強い風に倒さたお れたのだろう。太い幹の途中とちゅうから折れて上部が地上に横たわっている。倒れたお たときの衝撃しょうげきでいくつかに分かれてたて並んなら でいる倒木とうぼくもある。
 古くなった倒木とうぼくにはこけが生えている。倒木とうぼく割れ目わ めにたまった土に若木わかぎが育っていたりする。倒れたお た木そのものがもう半ば土のようになって、そこに育った木が倒木とうぼく同様に太くなり、倒木とうぼくをかかえて天にそびえているのも見かける。森はそういう生と死をはらんで大きないのちを生きつづけている。
 わたしの知るかぎり、時を忘れわす させるほどに豊かな森は、倒木とうぼくのある森だ。人工林には倒木とうぼくがない。伐採ばっさいされて搬出はんしゅつを待っている木が寝かさね  れているだけで、自然の倒木とうぼくが次の世代の木を育てているということはない。日本庭園にも倒木とうぼくを見かけることはまれで
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ある。自然の森をしてあり、半ばは自然の森になっている庭園もあるのだが、ほんとうの森とちがうのはそこに倒木とうぼくのないことだ。若木わかぎを育てたり虫たちが巣くっている倒木とうぼくがない。まして、公園には倒木とうぼくがない。台風で倒れるたお  こともあるだろうが、何日かしたらクレーン車などがやって来て取り除いと のぞ てゆくだろう。人工林にも日本庭園にも公園にも、自然の森に流れているあの豊かな時間はない。
 ある森で、三人抱えかか では足りないほどの大きなブナの木が、上半分が折れ倒れたお て、下半分ばかりが立ち枯れか ているのに出会った。立っている幹は大きく割れわ ていた。近づいてみると割れ目わ めの上下に黒く焦げこ た線が走っていた。落雷らくらいでやられたのだろう。巨木きょぼくのこういう死もあるのだなと思いながら太い幹のうらにまわってみると、おどろいたことに一本の太枝が張り出して豊かな葉を茂らしげ せていた。
 生と死がさまざまなかたちを見せているのが森というものだ。生と死を精妙せいみょうに織りなして、森という大きないのちが息づいている。

──高田 ひろし 東京新聞(3・1・13)「生命 はぐくむもの」のらんによる──
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 実はわたしにもまったく同じ経験があったのである。それは四国の山々をヘリコプターで視察しさつしたときのことであった。四国は日本有数の地すべり地帯である。吉野川よしのがわの上流や仁淀川によどがわ流域りゅういきなど、近寄ることもむつかしいような山崩れやまくず 地帯が至るいた ところにあって、しばしば大水害を起こしている。そうした自然の脅威きょういとたたかいながら過疎かその山村の人たちが、治山、砂防さぼうにとり組んでいる様子を空から調査する、二日間のフライトであったが、その帰りのことであった。四月末であった。ヘリコプターが山の斜面しゃめんにそって高度を下げ、高知の空港へ向かっている。そのとき眼下に広がって見えたのは、山の斜面しゃめんも平野も波打ちぎわに至るいた まで、一面の水、水、水。折から午前の太陽を反射はんしゃして、大地はことごとく鏡を張ったようであった。土佐とさ特有のこの美しい風景は空からでなくとも望めるので、是非ぜひ皆さんみな  にもおすすめしたいが、以来わたしは以前にも増して、「水田はダム」との確信をもつようになった。以前にも増してお米の大切さを訴えるうった  ようになった。テレビのそのディレクターもわたしも、「水」という一点に視点してんをあわせてみれば、はたと思い当る風景は、同じだったのである。
 ところでその水田地帯を歩くばあい、わたしは次のような見かたをする。まず用水の施設しせつを見る。かつてのあの「ふるさとの小川」ののどかな風景は、いまではなくなってしまったけれど、ともかくも用水の水路やせきなど水の施設しせつを見る。水路が放置され、雑草が茂っしげ ていたり、ふちが欠けていたり、水面がゴミだらけだったりすると、「ああ、ここの農民はやる気がないな」と悲しくなり、逆に水路の手入れが行きとどいていれば、「この困難こんなんな時代に、がんばってるなあ」と、うれしくなる。日本の農業と水とはまさにそうした関係にある。
 同じようにして山を見るばあいには、つぎのように見る。金色の稲穂いなほ波うつその水田風景が、平野から山すそへ、さわあいの段々畑だんだんばたけへとはい上がっているようなばあいには、ひょいと上を見れば山もまた、まがりなりにも森林が守られている。その逆に、昔の谷地田
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が放置され、雑草におおわれているようなばあいには、ひょいと山を見上げれば、山もまた放置され、荒れあ ている。日本の山は米が作っているからである。
 その理由はこうである。日本列島の森林を支えている林業。その林業は独立しては成り立ちにくい産業である。自分の植えた木は自分の生きている間は伐れき ず、孫子の代でなければ収入しゅうにゅうにならないからだ。山村の人たちは、さわあいの段々畑だんだんばたけの、その農作業の合間を見て山に入った。炭焼きも植林も農業と一体であった。山村で農業がやって行けないようで、どうして林業がやって行けるだろう。それゆえわたしは常にこういいつづけてきたものであった。日本の森林は米のもと、水も土も作ってきた。でもその森林を作ったのは米であった、と。
 いま、緑、緑と世間も専門せんもん家もかけ声ばかりはにぎやかである。けれども日本の農業をどの方向にもっていくべきかという、そんなところにまで眼をすえて、緑を語ろうとする者は残念ながら、いない。せめて読者の皆さんみな  だけは、風景を見る眼が変わってきて下さると、わたしは思っている。
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 茶道や武道の世界には、「守・破・」という教えがあります。これはその人のレベルに応じて、それぞれの段階だんかいでどのようなことを実践じっせんすべきかを示したものです。三つの段階だんかい簡単かんたんに説明しておくと、「守」は決まった作法や型を守る段階だんかい、次の「破」はその状態を破って作法や型を自分なりに改良する段階だんかい、そして、最後の「」は作法や型を離れはな て独自の世界を開く段階だんかいです。
 一般いっぱん的には、すべての学習は真似から始まります。手本に従って したが  それと同じようにすることを求められるのです。これがまさに「守」です。
 決められていることを生真面目に守るこの段階だんかいは、繰り返しく かえ も多く非常に面倒めんどうだし、なによりもやっているほうは面白くもなんともありません。そのためそこでを通して自己流じこりゅうでいきたがる人がいます。しかし、自分の土台をつくるためには、素直に手本を真似るほうが結果として早く進歩することができます。
 実際、初期の段階だんかい我慢がまんして手本の真似を徹底的てっていてき繰り返しく かえ ていると、そのうちに手本と同じようにやることの意義や、手本から外れたときに生じるデメリットが理解できるようになります。ここまでくると「強制されて仕方なく守っている」というより、「自ら望んで守っている」という状態になります。やっていることの内容や価値かちを自分なりに理解しているので、自分の意思で率先して手本を守るようになるのです。
 ところで、世の中にはこの状態で満足してしまう人がたくさんいます。そのような人は、当然のことながらそれ以上の進歩はありません。
 本当に楽しいのはここからです。この段階だんかいまで来た人は、自分で創意そうい工夫をしながらいろいろなことが試せるようになります。内容を理解しているため、従来じゅうらいの方法よりもっといい方法はないかと自分で探すさが ことができるからで、そのような能力があるのに何もしないのはもったいないことです。
 そして、この状態がまさに作法や型を破る「破」の段階だんかいです。基本的には、作法や型を手に入れて、そこからさらに出ようと意識して行動した人だけが進歩を続けられるのです。もちろん、この
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ときの試行錯誤しこうさくごはしっかりとした経験と根拠こんきょに基づくものなので、初心者があてずっぽうで行動するのとはまったく違いちが ます。決められた道から外れても、それによって致命ちめい的な失敗を犯す危険きけん性は極めて低いし、むしろこのときの行動はより効率的で合理的な方法の創出そうしゅつにつながる可能性も大です。
 従来じゅうらいの作法や型を破るというのは、悪いことのように思えます。しかし、変化のあまりない業界ではともかく、現実の世界ではそのようにしなければいけない場合は意外にたくさんあります。
 それは時代の変化とともに、周囲の条件の変化も必ず起こっているからです。こうした場合は従来じゅうらいの作法や型をそのまま使うことに無理が生じるわけですから、それに合わせて作法や型を変えていくのはむしろ当然といってもいいでしょう。何より条件が変わっているのに従来じゅうらいの作法や型をそのまま使い続けていることのほうが、問題であり危険きけんなことなのです。
 いずれにしても、このような試行錯誤しこうさくごを何度も繰り返しく かえ た人は、理解と経験に基づいてこれまでとはまったく別のものを自分の力で新たに生み出すことができます。これが最後の「」の意味です。このレベルにある人は、従来じゅうらいの技術やシステムを常に効率よく運用できるだけでなく、制約条件の変化や外部からの新たな要求に合わせて全体をつくり変えることもできます。それゆえ「」に到達とうたつした人は「優れすぐ 創造そうぞう力の持ち主」とされているのです。

(畑村洋太郎『組織を強くする 技術の伝え方』(講談社)より)
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