1私には一つ、自分の好奇心を呼び覚ます発見があった。お茶室というものが時代を経る中で、広い書院からだんだん小さく縮んでいって、最後は一坪だけの空間に至るという、その縮小の流れを見つけてハッとしたのだ。2このお茶室の面積が縮小していく流れが、ある不思議な引力をもって見えたのである。
前から気になっていたことだが、懐石料理というものは、何故大きな器にホンの少々の食品を載せるのだろうか。
3同様に、生花というものもおうおうにして、大きな器にホンの一輪の花をすっと斜めに生けたりする。そんなことが何故か気にかかっていた。
懐石料理がほんの一口の分量を大きな器に入れてあること、それを経済要素から見れば貧乏性である。4大きな花器に花一輪も同じことだと思う。ヨーロッパでは花はたくさんあるほど美しく、それが豊かさの表現となっている。それに対して一輪の花で満足しようというのだから、これは貧乏性の美学というより、むしろ貧しさの美学、といった方がいいのかもしれない。5しかしお茶室の縮小していく流れには、ただ経済からの解釈による貧乏性とは違う別の引力があるのではないか、という印象があるのだった。
懐石料理というものは、利休たちの茶の湯の世界が究められていく過程で生れたものだ。6つまりお茶を飲むために、その事前運動として料理を食べる。
私たちがいまふつうに飲む煎茶にしても、まず食事をすませたその後に、ゆっくりと飲むものである。まして茶の湯でいうお茶とは抹茶である。7お茶の葉を摺って粉にしたものを、そのままお湯に溶かして飲むのだから、ずいぶん濃い。それでも薄茶と濃茶とあって、お濃茶というのはほとんどドロドロである。カフェインであるから、空っ腹には相当こたえる。8何か食べたあとの満たされたお腹でなければ受けとめられない。そこでお茶の前には必ずお茶受けのお菓子が出るわけで、そのお茶受けをさらに強化したものとして懐石料理があらわれてくる。
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