a 長文 1.1週 me
 ぴきの子犬が、公園をうれしそうに走っていく。人間の三さいぐらいの子供が、やはり公園をうれしそうに走っていく。その二つの姿は、どちらも同じようにほほえましい。しかし、子犬の方は、その後何年たってもやはり犬のまま大きくなるだけだが、人間の子供は、成長の過程で、偉大いだいな才能を発揮する人間になるか、逆に凶悪きょうあくな犯罪者になるか、あるいは平凡へいぼんな人間として一生過ごすことになるか、予測することができない。また、たとえ平凡へいぼんな人間と思われていても、どういう個性や趣味しゅみがあるかということは千差万別だ。私たちは、この人間の可能性というものをよく見ておく必要がある。
 なぜ、人間をその将来の可能性から見る必要があるかというと、その理由は第一に、人間を幅広くはばひろ 見ることができるからだ。例えば、今何の取り柄と えもないように思われる人でも、場面が変われば急に真価を発揮することがある。小学生のころ、友達と数人でキャンプに出かけた。そのメンバーの中に、学校でも評判のいたずらっ子が入っていた。私は、当初、その子がキャンプに参加することをあまり快く思っていなかった。しかし、実際にキャンプが始まってみると、その子の大活躍かつやくでみんなが大いに盛り上がった。この経験から、私は、人間を一つの面からだけ見るべきではないこと深く実感した。
 人間を可能性から見ることが大切なもう一つの理由は、私たちは進歩ばかりではなく退歩することもあるからである。例えば、豊臣秀吉ひでよしは、若いころさまざまなアイデアと実行力で新しい時代を切り開く役割を果たした。しかし、晩年は自分の権力に執着しゅうちゃくすることに関心の多くが移っていたように思える。たとえ素晴らしい業績を残した人であっても、進歩をやめればやはり後退するしかないのだ。
 確かに、私たちの日常生活のほとんどは平凡へいぼんな時間の繰り返しく かえ だ。しかし、人間は、いざというときは、周りの人が予想もできないような変化をする存在だということをいつも心にとめておく必要がある。「男子三日会わざれば刮目かつもくして待つべし」という言葉がある。たった三日でも、人間は大きく変化する。子犬は、成長しても
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犬のままだ。しかし、人間は、ぶたにも天使にもなれる。よりよく生きるためには、常にその両方の可能性を自覚していることが大切なのである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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a 長文 1.2週 me
 産業革命以来、機械は人びとの生活を豊かにする打出の小槌うちで こづちの役目を果たすものだと思われて来た。そしてその進歩はイコール人類の幸福につながるとも信じられていたのである。過去百年の間、わたしたちはなんの疑いもなくそれを信じて来た。その信仰しんこうがまちがいでなかったことは、人類がついに月に到達とうたつすることによって証明されたかのように見えた。まさに科学の勝利を確認する成果だったわけである。そうした背景に立ったとき、なによりも頼りたよ になる確かなよりどころは、工学的なものの考え方であったし、またそう信ずるのが当然のなりゆきでもあった。そして数量的に証明できるものにこそ真理があり、それのみが正しいとする考え方が、広く行きわたっていったのである。
 だが最近になって、それだけがすべてではないということが、反省されるようになった。経済の高度成長下にあっては、その目的を達成する一番有力な武器は、工学的な発想と工学技術であった。だがいまやその行きすぎがいろいろな面で見直されようとしている。それを補うための最も有効な方法の一つとしてあげられるのは、生物学的な発想であろう。「二〇世紀は機械文明の時代であったが、二一世紀は生物文明の時代になる」というような言葉が使われている。これもまたそのことを示唆しさするとみてよいであろう。
 いまここで述べてきたことは、デザインの分野についてもあてはまることである。以下にとりあげるのは、やや片寄った対象ではあるが、わたしの関係するインテリアの分野を例にしてこの問題を考えてみたい。
 生物学と建築というと、いまのところいかにも縁遠いえんどお 存在のように思われる。だが果たしてそうであろうか。
 動物学は、かつてはおもに医学の補助手段として発達した面があった。一八世紀以来の比較ひかく解剖かいぼう学や、一九世紀になって発展した比較ひかく生理学は、そうしたところから出発した学問であった。だがそれらの科学は、現在ではもっと広く人間そのものの生き方や、人間観の構成という分野にさえも、寄与きよするようになって来ている。おなじ事情は植物学についてもいえることである。
 それにもかかわらず、一般いっぱんには生物学が建築とかかわり合う範囲はんいは、動物学なら建築害虫、植物学なら造園の分野くらいでしかないという単純な受け取り方がある。これはいささか近視眼的にすぎるのではないだろうか、とわたしは思う。
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 これまでの建築は芸術性と工学的な技術に重点がおかれていた。建築学が一つ一つの独立した建物をつくる技術であった段階まではそれでよかったであろうが、それが一方では都市という空間にまで拡大し、他方ではまた、インテリアというミクロの空間にまで細分化されて来た現在では、その底流に生物学的なものの見方、考え方がしっかり根を下していないと、建築もインテリアも本当に人間のためのものになりえないということが、いま反省され始めようとしている。
 考えてみるとわれわれの生活の大部分は、生物的嗜好しこうでよいわるいを判断していることのほうが多い。だが従来の工学的立場では、そういうあいまいさは技術とは認められなかった。そこでなんとか数量的にあらわそうとするが、現在の技術の段階ではどうしても割り切れない部分が残ってしまう。その断層を埋めるう  手段が、しばしば芸術の名のもとに、単なるカッコよさとすり換えか られるおそれもあったのである。だが新しい生物学は、そうしたあいまいさに対して、一つのよりどころを示す可能性を持つようになった。そして同時に、数量的に割り切れるものだけが科学のすべてではない、ということも教えてくれるようになって来たのである。
 いま都市空間の例をあげよう。ブラジリアはあらゆる技術を駆使くしして二一世紀の夢の都市としてつくられたはずであった。だが実際にできあがってみると、かんじんの人間がなかなか住みつかない。その理由を調べてみるといわゆる街角がなかったためだという。気楽に人と人とが接し合う泥臭いどろくさ 片隅かたすみがなくて、街のたたずまいも、周辺の人造湖も、よそゆきの冷たい美しさで整いすぎていた。あるがままの人間くささのよどみ、といったものが欠けていたのが原因だったというのである。
 そうした話題はわれわれの身辺にも少なくないようである。新宿副都心ができてから一年後の反省は、予想していたほどの人が寄りつかないことだったという。その原因は、人を引きつけるなにかがまだ足りない。庶民しょみん的な泥臭どろくささ、たとえば赤ちょうちんや縄のれんなわ   というようなものが欠けていたことに気がついたというのである。住まいの環境かんきょうが美しくあることは、たしかに望ましいことにちがいないが、芸術第一主義では庶民しょみんにはとても住めない。庶民しょみんは人間であるよりもさきに、まず生物で、生物は本来もっと泥臭いどろくさ ものだということが、いつの間にか忘れられていた。それに気がついたわけである。

(小原二郎じろうの文章による)
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a 長文 1.3週 me
 社会は個人から成り立つものとされている。したがって実状はどうであれ、それぞれの個人は、社会の構造、運営、将来について責任をもつものとして意識し、行動していることになっている。しかしながら、このような意識は明治以降に輸入されたものであり、現実の日本人の多くは、社会を構成する個人としてよりも、世間の中にいる、一人の人間として行動している部分の方が多いのである。
 世間と個人の関係について注目すべきことは、個人は自分が世間をつくるのだという意識を全くもっていない点にある。自己は世間に対して、たいていのばあい受け身の立場にたっているのである。個人の行動を最終的に判定し、裁くのは世間だとみなされているからである。「世間」という言葉が定義しにくいのは、世間は常に個人との関係においてその個人の顔見知りの人間関係の中で生まれているものだからであり、人によって世間が広い人も狭いせま 人もいるからである。したがって個人ごとにさまざまな世間があり、日本には数えきれないほどの世間があることになる。ときには身内以外にさしたる世間とのつきあいもなく暮らしている人もいるのであるが、それでも世間の評判は気にかかるのである。
 欧米おうべい人は日本人を権威けんい主義的だとみることが多いが、それは日本人が常に世間の目を気にしながら生きており、彼らかれ からみると個性的ではないようにみえるためである。日本人はできるだけ目立たないように生きることが大切であると考え、自分の能力も必要以上に示さないようにする。日本人が何よりも怖いこわ と思っているのは「世間」から爪弾つまはじきされることだからである。その怖いこわ と思っている態度が欧米おうべい人には理解しかねるのであって、それは彼らかれ には「世間」が理解しかねることと同じ根をもっている。
 個人の性格にもよるが、世間の中で暮らす方が社会の中で暮らすよりも暮らしやすく、楽なのだ。そこでは長幼の序、先輩せんぱい後輩こうはいなどの礼儀れいぎさえ心得ていればすべては慣習どおりに進み、得体のしれない相手とともに行動するときの不安などはないからである。さらに世間の中での個人の位置は、長幼の序や先輩せんぱい後輩こうはいなどの序列で一応決まっており、能力によってその位置が大きく変わることはあまりない。個人が世間に対して批判をしたり、不満を述べることがあっても、世間のルールは慣習そのものであり、なんら成文化されていないから、不満も批判も聞き流されてしまうのである。
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 日本人の多くは世間の中で暮らしている。(中略)現実の日常生活では世間の中で暮らしているにもかかわらず、日本のインテリは少なくとも言葉のうえでは社会が存在するかのごとくに語り、評論家や学者は、現実には世間によって機能している日本の世界を、社会としてとらえようとするために、滑稽こっけい行き違いい ちが がしばしば起こっているのである。このことは政党や大学の学部、企業きぎょうやそのほかの団体などの人間関係のすべてについていえることであり、それらの人間関係はみなそこに属する個人にとっては、世間として機能している部分が大きいのである。個々人はそれら世間と自分との関係を深く考えず、自覚しないようにして暮らしているのである。
 日本人の一人一人にそれぞれ広い狭いせま の差はあれ、世間がある。世間は日常生活の次元においては快適な暮らしをするうえで必須ひっすなものに見えるが、その世間がもつ排他はいた性や差別的閉鎖へいさ性は公共の場に出たときにはっきり現われる。たとえば何人かで旅に出るために列車を待っているとしよう。列をつくっているばあいも、何人かのうちの一人が先頭に並んで、あとからきた者もその先頭の一人のあとにぞろぞろと割り込んわ こ でくることが多い。このようなとき、私たちは自分たちの仲間の利益しか考えていないのである。あるとき電車の中で私は中年の女性に席をゆずった。二駅ほど過ぎてその女性のとなりの席が空いたとき、その女性は遠くの席に座っていた仲間を呼び寄せて並んで座り、「二人とも座れて良かったね」と話し合っていた。彼女かのじょたちにとってそのとき、二人だけの世間が形成されており、まわりの人間のことは全く彼女かのじょたちの考慮こうりょの中に入っていないのである。このようなことは日本では日常的にみられることであり、電車の中で宴会えんかいを始めたり、騒いさわ だりする人たちは常にどこでも見られるのである。このような事態に対して、日本人には公徳心が足りないとかいろいろいわれるが、問題は公徳心ではなく、ここでつくられている仲間意識が、多くの人たちによって是認ぜにんされているという点にある。
 そのようなとき私たち日本人には、自分たちが排他はいた的な世間をつくっているのだ、という認識がほとんどないのである。
阿部あべ謹也きんや著『西洋中世の愛と人格』より)
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a 長文 1.4週 me
 エーレンベルグは、植物が生育するためにもっとも適した環境かんきょうには二つの場合があるのではないか、と考えた。
 その一つは、単植栽培さいばいの実験で最大の生長量を示す場所で、もし競争相手がいなければ、適度の水分と養分を自由にとり入れて、のびのびと生育できる地域だ。かれはこのような地域を生理的最適域と名づけた。
 もう一つは、混植栽培さいばいの実験で最大の生長量を示したような場所だ。つまり自然に近い状態で、ある植物が自分よりも競争力の強い植物によって生理的に最適の場所をうばわれているため、心ならずもその場所から押し出さお だ れ、もっと悪い条件のもとで生育しているような地域である。そんな地域を、かれは生態的最適域と名づけた。
 私は感心したが、ぜんぜん疑問がなかったわけではない。
 生理的最適域という言葉は全面的に納得できる。だが生態的最適域のほうはどうだろう? 自分にとってもっともよい環境かんきょう条件からややはずれて、湿っしめ た場所や乾いかわ た場所に追いやられることが最適域という言葉で言いあらわされてよいのだろうか?
 だが、いまになって考えれば、エーレンベルグの言った最適域という意味の深さが、私にもわかるような気がする。ある生物社会が健全で長いあいだ繁栄はんえいしてゆくためには、すべての欲望がほんの短時日のあいだ満足できる本来の最適生育域から多少ずれていて、なんでも思いどおりになるとは限らない環境かんきょうのほうが、よいかもしれないからだ。そのほうが、かえってバランスのとれた社会を保ってゆくのにはよい状態だろう。もし、あまり強くなりすぎ、すべての競争相手にうちかってあらゆる欲望がかなえられたなら、その個体も種族も社会も滅亡めつぼうしてゆくのが生物界の鉄則なのだから。生態的最適域とは、生物社会の本来の意味から言って、まさに長つづきのする最適の地域だったのだ。
 すべての生物には、生理的最適域と生態的最適域とがある。それを人間の社会にあてはめてみるとき、私にはちかごろの人間の生き方に、ある種の恐ろしおそ  さを感じないわけにはいかない。
 私たちの日常生活は、いろいろな欲望を満足させる方向に進んでいる。熱いときは、冷房れいぼう、寒いときには暖房だんぼう。衣料、食物、自動車など、人間の欲望を満たすために、工場はあたらしい製品をこれでもか、これでもかと生産して提供する。
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 人間のかずかずのせつな的欲望がすべて満足させられるような社会が生まれようとしている半面、人間生命の持続的な存続がおびやかされるような画一的な社会化、文明化も進んでいる。矛盾むじゅんした世の中だと、君たちは考えるだろう。だが、この現象はかならずしも矛盾むじゅんではない。
 自然の山野に生きるもの言わぬ植物たちは、きわめてきびしい条件のところで、生理的に最適とはいえない場所でがまんをかさねながらも、力強く生きているではないか。そして何代たっても、そこから消滅しょうめつしいないで生きている。この姿に、私たち人間が学ぶところはないだろうか?
 ことわっておきたいことがある。私はなにも人間の文明が進歩することに反対しているわけではない。便利なことは、不便なことよりもよいにきまっている。ただ、目先の欲望をすこしでも早く満足させるために、現在のように遠い将来までを見ようとしないで環境かんきょうをこわしつづけてゆく。すると、これが人間にとって最高の環境かんきょうだと胸を張ったときに、そこがじつは人間にとって最適地でもなんでもなく、人類の墓場だったということがあると言いたいのだ。
 目的を達するためには多少の犠牲ぎせいもしかたない、というような考えをすてて、まわり道でも時間をかけて目的に進むのだ。そのために環境かんきょうをみずから破壊はかいするような愚かおろ なことは避けさ ようではないか。まわり道をするのもまた、がまんの一つだ。そして、ある程度がまんのあるような状態こそ、生物社会にとってもっとも健全で、長つづきする状態なのだ。
宮脇みやわき昭「人類最後の日」)
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a 長文 2.1週 me
二番目の長文が課題の長文です。
 遊び始めたとき、雨が降ってきた。小学校の三年生のころのことだ。一緒いっしょに遊んでいた数人で、すぐに校舎のひさしの下に入りそのまま遊びを続けた。やがて雨が次第に激しくなり、ついに本格的な大雨になった。仕方がないので、家に帰ることにし、結局ずぶぬれになって帰り、母に笑われた。小学生の私たちにとって、遊びは人生の楽しさそのものだった。休みの日は自然に早く目が覚めるので、夏休みは毎日早起きになる。勉強のある平日は遅くおそ までているが、自由に過ごせる休みの日は、自分でも驚くおどろ ほど早く起きられるのだ。
 遊びは、人間を生き生きとさせる。それが遊びのプラスの面だ。楽しい人生を送ることは、人間として欠かすことができない。そして、人間は遊びを通して勉強以外の何かを学ぶ。遊びの過程にはトラブルがつきものだ。「勝った。負けた」「やった。やらない」などの言い合いがときどき生まれる。しかし、人間はそこで他人との関係に必要な感覚を身につけているのだろう。
 しかし、もちろん人間には勉強も必要だ。勉強は、動物にはない人間独自の時間の過ごし方で、遊びの対極として考えられている。例えば、漢字の書き取り、計算の練習、社会や理科のさまざまな知識の記憶きおく。これらに共通しているのは、退屈たいくつで、できれば後回しにしたいということだ。しかし、それがあとになって役に立つのも事実だ。例えば、算数の九九という計算方法を覚えることによって、その後の数字を使う生活は飛躍ひやく的に能率が上がる。また、もっと学年が上がると、学ぶこと自体が面白くなるという人もいる。
 このように考えると、遊びと勉強はもともと区別して考えるものではないのかもしれない。遊びも勉強も、自己の向上という点で大きくは一致いっちする。そして、自己の向上は、人間にとって最も大きい喜びのひとつだろう。だから、遊びを勉強のように成長のかてにするとともに、逆に勉強を遊びのように楽しむことが、これから必要になってくるのではないだろうか。
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(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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長文 2.1週 meのつづき
 本質的な問題に、どんな点から気付くのか、そういうものが、どんな状況じょうきょうから出てくるかというと、それも、その人の素質によるものだと思います。これはいろいろな要因が考えられます。小さいときからの物の考え方、家庭内でのしつけ、いろんな要素が複雑に入り組んでいるわけです。わがまま放題にして育ったのでは、そういうことを感じ、ある方向へもっていく機能、考え方が生まれてこないと思います。ですから、たとえ小さなことでも、自分がどういう立場にいるかということを、早くから家庭のしつけや、親の愛情で、それを感じさせるということも可能だと思います。
 子供のころのある時期から、仲間内でも、むちゃくちゃやっていると、みんなから嫌わきら れることも、悟りさと ます。
 小さな家庭生活や、子供社会の体験から、本能的なわがままな感情と、一方では、経験的にどうすればいいかという、理性というものが、小さいときから生まれてくるのです。
 家庭のしつけのようなものからでも、その端緒たんしょが生まれてくるのではないかと思います。しつけの厳しい家庭では、小さい子供のころから、子供の就寝しゅうしん時間がきたから部屋に帰ってねなさいと、親は子供にいいます。かなり小さい時からでも、規律を教えるために、そういうことをします。親は可愛いからといって手元においてわがままにさせません。これもわがままにならない、一つの愛だと思います。
 子供が本能や感情で動くときに、早くから、親がきちんと、教育面で、子供の時間というものをしつけとして教えるわけです。最初はわめこうが叫ぼさけ うが、許してもらえません。こうして、我慢がまんすることや、自分の立場を自覚します。そういう日常生活を通じて、どんなに親しくても、それぞれの立場があるということを、しつけとして、覚えていきます。日々の小さな出来事で、何でもないようなことですけど、そういうことの積み重ねにより、将来の判断力の一端いったんが育つと思うのです。それを育てることが、家庭内の本当の愛情といえます。この教育が大事なんです。
 日本でも、昔はそうした伝統的な家庭の教えがあったと思うのです。キチンと父親が善悪や礼儀れいぎを教えていました。愛情を持ちながら、厳しくしつけをしたものです。盲目的もうもくてきに可愛がらない、ねこっ可
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愛がりをしない、そういう分別というものを、精神的につけていく家風がありました。両親のしつけがしっかりしているという、家庭内の空気を感じさせ、これが人間形成の一端いったんを担っていました。そして自分の行動をどうしていくかを子供に感じさせ、自覚させたものです。
 よく教育問題で、これからの学校教育の進路や個性化が文部省の教育審議しんぎ会などで云々うんぬんされます。まず改革は親からやらないと効果が上がりません。「三つ子のたましい百までも」ではないですが、本当に意識づくまでの幼い時代に、家庭でその芽は育つものです。親は本当の愛情とは何ぞやということを自覚する必要があります。昔は親が子供のために一生懸命いっしょうけんめい食事を作りました。けむりなみだを流しながら、朝ご飯を作るとか、手作りのシャツを着せるとかで育ったのです。今日は、弁当でも親が作るというのではなく昔と違っちが て給食です。今日、一般いっぱん的には、家庭でお惣菜そうざいとして早く食べられるよう便利に出来ています。子供でもレンジで温めれば、苦労なく作れます。父親は外で稼いかせ でいますが、その仕事の姿は見えません。母親は、子供には、じゅくへ勉強に行け、次に何しろということがあります。こうしたことが、一生懸命いっしょうけんめい子供たちの事を考えながら、育てていると、親は思っています。ところが、子供の人間形成の大事な点は、人間的な愛情です。本当の愛情は何なのかと、スキンシップで親子の会話や感性が生まれるようにしなければなりません。そういうところの形式が変わっているのに、本当の愛情に気がつかないのではないかと思います。(中略)
 親対子の愛情は古典的、本能的なものですから、経済的に貧しくても、温かい家族的な愛情のある家というのは幸福です。そこからいい人間性が育ちます。ちゃんとした人物が出てくるのではないでしょうか。

(平山郁夫いくお「この道一筋に」より)
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a 長文 2.2週 me
 新聞というものをまるで読まないと言い切っている人がいる。そうかと思うと、朝手洗いで新刊書の広告を読むのが最大の楽しみだという人もいる。私はどちらの方に近いのだろうかと考えてみた。たしかに、私は、新聞が一生懸命いっしょうけんめいに論じようとしている主張の、あまり良い読み手ではないような気がする。たいていの場合、新聞が無名性の名において大衆を善導しようとして声高に説いている論述と、一人一人の新聞人が生きている現実のズレを、そのまま出してくれるような紙面にあまりお目にかからないからであろうか。
 どちらかといえば、私は、行間と余白の読み手であるのかも知れない。そういう意味で私は、新聞を、月一度とか二度でなく毎日立つ縁日えんにちのようなものであると見ているふしがある。論説記事は神社の神主かんぬしさんの祝詞のりとのようなものであり、謹聴きんちょうしなければならないときは黙っだま ておとなしく聴くき が、終わったらホッとする類のものであり、経済記事はおみくじのようなもの、政治・社会面に至っては、小屋掛けこやが 芝居しばいのようなもので、読み手たる私はぶらぶら散歩して夜店をひやかす客のような存在である。
 ということになると一番楽しく、ぴったりしているのはやはり広告らんという名の夜店通りかも知れない。広告も小さい下の書籍しょせきらんのように仲よく並んでいるのは、チャーミングな店舗てんぽであるが、全面広告のようなものはどちらかと言えば、香具師やしの口上じみているから、レイアウトを楽しむけれど、「まゆつばもの」と聞きながす傾向けいこうがある。
 それでは、あなたが時々執筆しっぴつする文化らん・学芸らんたぐいは何であるかと問われると、言うまでもなくそれは縁日えんにちに立つ見世物、そのある程度集約されたものとしてのサーカスのようなものであると答えることができるだろう。時にはさむらいくずれの居合抜きいあいぬ のような突っぱっつ   た言説あり、時にはガマのあぶら売りの口上よろしく本当かうそかわからない言説の押し売りお う があり、舶来はくらいの、人目をおどかせる新奇しんき術よろしくうたい上げられる新思想ショーがある。そうかと思えば、アクロバット仕立ての音楽会評が載るの 。これらはすべ
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て、巧みたく に演じられる時は、内容の当否は別として目を楽しませてもらえるが、下手な芸、または興行師の下手な意図が、前面に出たりすると目もあてられなくなる。
 縁日えんにちであるから、やはりそこには、日常生活の時間の流れと異なった、さまざまな偶然ぐうぜん介入かいにゅうがあった方がよい。思いがけない人に会うとか、国鉄(JR)払い下げはら さ かさを百円か二百円で買うとか、思ってみなかった種類の商品に出会う面白さはできるだけあった方がよい。
 その点、安物だが、新しさだけは強調してある夜店の売り場は子供にとって魅惑みわくの空間そのものである。さし当たって、新聞の中にそうした偶然ぐうぜん潜んひそ でいる空間を探すとすれば、それはやはり、あちこちに散らばっている情報である。情報もできるだけ、個人がひそかに培養ばいようしている「私」文化といった、あまり人と分かち持ちたくないものに直接プラスになるものの方が、意外性の面ではより高いように思われる。
 演劇、音楽、催しもよお 、人についてなど、こうした、自分が知っているから隠れかく た意味が明らかになるといった事実は、なるべく宝さがしのように、それらしくないところに置いてあった方がよい。多くの人が、新聞の読書らんというものをたいしてありがたがらず、本の広告の方にひそかな楽しみを託そたく うとするのは、そのような情報の極秘化の欲求の表れかも知れない。
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a 長文 2.3週 me
 科学は記述から始まる。現象をコトバで記述する。ある現象とあるコトバが厳密に一対一に対応しているならば、だれが現象を記述しても同じ記述になるはずだ。
 ところが、どっこい、そうはうまくゆかない。そのことは、記述から現象を再現してみればわかる。
 「白馬にまたがってやってきたのは、素敵な王子様だった」
 この記述から現象を再現してみることはできるけれども、人によって少しずつ異なった情景を再現するに違いちが ない。それでもまだ、白馬とか王子様とかの自然言語には、ある程度の共通了解りょうかいがあるので、キリンにチンパンジーがまたがっているような情景を思い浮かべるおも う   人はいない。
(中略)
 コトバの共通了解りょうかいについて、深く考えたのは、スイスの言語学者のソシュール(一八五七〜一九一三)である。
 ソシュールはまず、コトバの表記はいい加減であると言う。イヌのことをイヌと呼ぶのは適当に決まったのであって、別にさしたる理由があるわけではない。別の表記、たとえば、イコでもイポでもよかったのだ。それが証拠しょうこに英語ではdogという。これをコトバの(表記に関する)恣意しい性と言う。この話はだれにでもよくわかる。
 しかし、コトバの本当の恣意しい性はもっと深いところにある、とソシュールは言う。
 世界は連続的に変化する。我々はそれを適当に切り取って、コトバで言い当てようとする。コトバによる世界の切り取り方には根拠こんきょがない。これがソシュールの主張である。
 これはちょっとわかりづらいかも知れない。多くの人は、世界にあらかじめ何らかの実体があって、それに名前をつけていると思っているからである。
 それに対して、ソシュールは次のような主張をしたのだ。たとえば、イヌとかネコとかの実体が、あらかじめ世界にあって、それに対してイヌとかネコとかの名前をつけているのではなく、イヌとかネコとかの名前がつけられて、初めて、イヌとかネコとかの実体があるかのように見えるのだ。
 やっぱりわからない? それではこういう例はどうだろう。日本ではにじは七色である。色は可視光線の波長によって、徐々にじょじょ 変化する。それを七つに分断する根拠こんきょはない。しかし、七色あると言われて見れば、七色に分かれて見える。
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だから、にじの色が二色であるという言語があれば、その言語を使っている人にはにじは二色に見えるのである。実際にリベリアのバッサ語では、にじの色は二色であるという。(中略)
 コトバが世界にあらかじめある実体に、名前をつけただけのものでないことは、次のようなことからも理解できるかも知れない。
 我々が人にコトバを教えるのに何をするかと言えば、実物を指さして、コトバを言うのである。たとえば幼児に教える時に、犬を指さしてワンワンと言う。何度か繰り返しく かえ て教えると、幼児は見知らぬ犬を見ても、ちゃんとワンワンと言うようになる。もっともワンワンというコトバしか知らないと、ねこを見てもタヌキを見てもワンワンと言うかも知れない。
 幼児は、犬のはん例をいくつか見て、ワンワンというパターンを作り上げる。最初はねこもワンワンのパターンの中に入っているが、大人にそれはニャンニャンだよ、と言われて、ワンワンのパターンを修正する。だからワンワンというパターンは、現物を見ながら他人とのコミュニケーションを通して、構成されるのだ。
 個々の犬は確かに世界に実在するだろう。しかし、ワンワンというパターンは、幼児と無関係に世界に実在するわけではない。科学は記述なしには成立しない。だから科学はパターンが人によって異なるのはあまりありがたくない。そこでパターンを固定しようと努力することになる。我々の日常の世界では、コミュニケーションが成立すれば、イヌとは何か、ということが定義できなくとも、別に問題はない。しかし科学は、できることならばコトバを厳密に定義できるものにしたいのだ。しかし、今話したように、イヌというパターンが世界の中に実体として実在しているかどうかは非常に疑わしい。それは多分、人間の心の中に何らかのパターンとしてあるに違いちが ないのである。

 (池田清彦きよひこ『科学はどこまでいくのか』より)
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a 長文 2.4週 me
 それにしても、五億冊というのはおどろくべき数字である。世界広しといえども、これだけの量の本がつくられ、そして消費されている国は、そうたくさんはない。おそらく、日本人は、世界中で最もよく本を読む民族なのである。
 そして、つくられ、消費される本の量以上に注目すべきことは、このように大量の書物が日本では家庭の中にまでとけこんでいるという事実である。四人家族で年に十二冊、五年で百冊、とにかくちょっとした「蔵書」が、たいていの家庭でできあがっているのだ。
 もちろん、西洋の家庭にも多少の書物がないわけではない。しかし、わたしの見たかぎりでは、ふつうの家庭の場合、書物はたとえば暖炉だんろのうえに数冊の小説がのっている、という程度のものであって、何十冊も何百冊もが本棚ほんだな埋めう ているのは、かなり知識人の家庭にかぎられている。
 実際、家庭用の本棚ほんだなをこんなに多種類とりそろえて家具売り場で売っている国は、世界でおそらく日本だけだ。アメリカでもヨーロッパでも、もし家庭用の本棚ほんだなというものがあるとすれば、せいぜい、サイドボードぐらいのものであって、数十冊を収容することなど、とうていできそうもない。本棚ほんだなは、よほど特殊とくしゅな場合は別として、家庭の標準備品ではないのである。
 ところが、日本の家庭にはたいてい本棚ほんだながある。規模の大小は別として、ともかく「蔵書」がある。たとえば書斎しょさいはなくても、廊下ろうかのつきあたりとか居間のかべぎわとかに本棚ほんだながあり、全集ものがならんでいる。それが平均的な日本の家庭の風景なのだ。書物のない家庭は日本にはない。
 これと対照的に西洋の家庭で気がつくのは、やたらに大型のグラフ雑誌などがゆきわたっているという事実だ。どこの家に行っても、アメリカなら、たとえば『ライフ』のような雑誌が居間の机の上に、必ずといってよいほど積み重ねてある。しかし、それは日本の家庭ではあまり見かけない風景だ。事実、日本のグラフ雑誌は、だいたいお医者さんや床屋とこやさんの待合室の備品であって、家庭の備品にはなりにくいのである。
 それでは、書物を備品とする日本の家庭とグラフ雑誌を備品とする西洋の家庭とは、どうちがうのだろう。第一にいえることは、グラフ雑誌がその読まれ方、あるいは見られ方において集団的であるということだ。居間のソファにこしをおろして、主婦がグラフ雑誌を
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開いているとき、夫や子どもは、それに「参加」することができる。グラフは、一種の絵本のようなものだから、それをのぞきこんでいっしょに見ることができるのだ。ちょうどそれはテレビを見ているようなもので、集団的なものである。
 だが、書物となると、そういうわけにはゆかない。書物はひとりで読むものである。のぞきこんでいっしょに読むことは難しいし、第一、そんなことをされたら落ち着かない。たとえすぐそばにだれかがいても、読書というのは孤独こどくな個人の行為こういなのである。
 だから、日本の茶の間では、たとえば、主人が経営学の本を読み、主婦は文学全集を、子どもはマンガを、それぞれに黙っだま て読んでいる、といったような風景が出現する。一冊のグラフ雑誌をかこんで、家庭の全員が集団的になにかを見るのではなく、家族のそれぞれが、それぞれの本を通じて、それぞれの世界に没入ぼつにゅうしている――それが日本の家庭における読書風景なのだ。
 いささか飛躍ひやくするようだが、これはことによると、日本の住居に個室がないことと関係しているのかもしれない。どこにいても、家族と顔をつきあわせていなければならないのだから、せめて本でも読んで、自分だけの精神の個室をつくりたい、という欲求が生まれるのである。ひとりひとりが個室をもっている西洋人が、居間のグラフ雑誌をかこんで集団的な世界をたのしむのに対して、もともとがべったりと集団的な日本の家庭では、書物によって、個室的な世界を求めようとするのだ、といってもよい。いつだったか、三じょうひと間に六人というひどい住宅環境かんきょう紹介しょうかいするテレビ番組を見ていたとき、この六人の家族が、みなかたを寄せあって、それぞれに本を読んでいた情景にわたしは打たれたことがある。
 現実に個室が十分でないとき、人は、心理的な個室を、読書という方法で手に入れることができるのである。

加藤かとう秀俊ひでとし「暮しの思想」)
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a 長文 3.1週 me
二番目の長文が課題の長文です。
 顔パスという言葉がある。「おれだ」「よし」という阿吽あうんの呼吸で、本来は規則として処理するところを当人どうしの個人的な関係で処理する方法である。なれ合いというと聞こえは悪いが、人間どうしの信頼しんらい関係を基礎きそにしている点で最も確実な方法とも言える。現代の法律や規則万能の社会では、このような人間の信頼しんらい関係に基づいた対応の仕方がもっと見直されてもよいのではないだろうか。
 そのための第一の方法は、相手を信じるだけの心の広さを持つことだ。信頼しんらいするということは、相手に自分をゆだねることである。場合によっては、自分が大きな損失を被るこうむ こともある。それにもかかわらず、相手にすべてを任せて信頼しんらいする。そういう決意があるからこそ、相手も自分を信頼しんらいしてくれる。ジャン・バルジャンは、自分を信じてくれた老司教を裏切った。しかし、翌朝憲兵に連れられてきたジャンに、司教は、「その銀の食器は私が与えあた たものだ」と告げる。このように、相手の善なる心に対する絶対の信頼しんらいが、人間らしい心をもとにした社会の基礎きそとなる。
 また、第二には、そのような人間どうしの信頼しんらいを支えるだけの社会の一体性を作ることだ。日本の社会の治安のよさは、世界の中でも際立っている。タクシーの中へ置き忘れた財布は、ほぼ確実に戻っもど てくる。日本人にとっては当たり前のように見えるこのようなことが、世界ではきわめてまれなことなのである。そういう社会が築かれたのは、日本が一つの民族、一つの言語、一つの文化を持った社会だったからである。異なる民族や文化と共存することはもちろん大切だが、それは日本の社会の中に異なる民族や文化が異質なまま広がっていいということではない。
 法と正義に基づいて判断するという考えは、確かに人類が長い歴史の中で勝ち取ってきた権利だ。だからこそ、この考えは世界のどこでも通用するグローバルな思想となっている。しかし、そのグローバリズムは、日本のように互いたが 信頼しんらい関係をもとに成り立ってき
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た社会では、人間の心を持たない冷たい機械のような対応に見える。大岡越前守おおおかえちぜんのかみが日本人に人気があるのも、人間の心の温もりを裁き方の中に生かしたからだ。顔パスで交わされるものは、単なる顔ではなく、互いたが の善意への信頼しんらいなのである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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長文 3.1週 meのつづき
 たしかブレーズ・パスカルだったと思いますが、大体次のようなことを申しました。
 ――病は、キリスト教徒の自然の状態である、と。
 つまり、いつまでも自分のどこかが具合が悪い、どこかが痛むこと、言いかえれば、中途半端ちゅうとはんぱで割り切れない存在である人間が、己の有限性を染々と感じ、「原罪」の意識に悩んなや で、常に心に痛みを感じているのが、キリスト教徒の自然の姿だと申すわけなのでしょう。まあ、そういうふうに解釈かいしゃくさせてもらいます。
 これは何もキリスト教徒に限らず人間として自覚を持った人間、すなわち、人間はとかく「天使になろうとしてぶたになる」存在であり、しかも、さぼてんでもなくかめの子どもでもない存在であり、更にさら また、うっかりしていると、ライオンやへびたぬききつねに似た行動をする存在であることを自覚した人間の、憤然ふんぜんとした、沈痛ちんつう述懐じゅっかいにもなるかもしれません。
 恐らくおそ  狂気きょうき」とは、今述べたような自覚を持たない人間、あるいはこの自覚を忘れた人間の精神状態のことかもしれません。あえてロンブローゾを待つまでもなく、ノーマルな人間とアブノーマルな人間との差別はむずかしいものです。気違いきちが 気違いきちが でない人間との境ははっきり判らぬものらしいのです。まず、その間のことを忘れてはならず、心得ていたほうがよいかもしれないのです。我々には、みな、少々気違いきちが めいたところがあり、うっかりしていると本物になるのだと、自分に言い聞かせていないと、えらい「狂気きょうき」 にとりつかれます。また、そういうことを知らないでいると、いつのまにか「狂気きょうき」の愛人になっているものです。
 天才と狂人きょうじんとの差は紙一重だと、ロンブローゾは申しているわけですが、天才とは、「狂気きょうき」が持続しない狂人きょうじんかもしれませんし、狂人きょうじんとは「狂気きょうき」 が持続している天才かもしれませぬ。
 しかし、人間というものは「狂気きょうき」なしには居られぬものでもあるらしいのです。我々の心のなか、体のなかにある様々な傾向けいこうのものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動を起す場合には、そのうようよ動いているものが、あたかも磁気にかかった鉄粉
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のように一定の方向を向きます。そして、その方向へ進むのに一番適した傾向けいこうを持ったものが、むくむくと頭をもたげて、まとまった大きな力のものになるのです。そのまま進み続けますと、だんだんと人間は興奮してゆき、ついには、精神も肉体もある歪みゆが 方を示すようになります。その時「狂気きょうき」が現れてくるのです。幸いにも、普通ふつうの人間のエネルギーには限度はありますし、様々な制約もありますから、「狂気きょうき」もそう永続はしません。興奮から平静に戻りもど 、まとまって、むくむく頭をもたげていたものが力を失い、「狂気きょうき」が弱まるにつれて、まとまっていたものは、ばらばらになり、またもとのような、うようよした様々な傾向けいこうを持つものの集合体に戻るもど のです。そして、人間は、このうようよした様々なものが静かにしている状態を、平和とか安静とか正気とか呼んで、一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これにあきて憂鬱ゆううつになったり倦怠けんたい催しもよお たりします。そして、再び次の「狂気きょうき」を求めるようになるものらしいのです。この勝手な営みが、恐らくおそ  人間の生活の実態かもしれません。
 酒を飲んで酔っよ た人々の狂態きょうたいを考えてごらんなさい。エネルギーはその人の極限にまで拡大され、様々な制約はまひ感によって消されます。ですから、あのような「狂気きょうき」の饗宴きょうえんは開かれるのです。酔漢すいかん狂態きょうたい鎮めるしず  のには、かれ昏睡こんすいさせるか、あるいは狂態きょうたいの結果として生じた無理は簡単には通らぬということを何かの力で示すかするより外にしかたがないことがしばしばあります。しかも、正気に戻っもど 酔漢すいかんは、その後少しばかり正気の期間が続きますと、何となく倦怠けんたい感を覚え、「狂気きょうき」への郷愁きょうしゅう駆らか れて、またしても酒を求めるようなことをいたします。
 我々が正気だとうぬぼれている生活でも、よく考えてみれば、大小の「狂気きょうき」の起伏きふくの連続であり、「狂気きょうき」なくしては、生活は展開しないこともあるということは、奇妙きみょうなことです。
 要は、我々は「天使になろうとしてぶたになりかねない」存在であ
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長文 3.1週 meのつづき
ることを悟りさと 、「狂気きょうき」なくしては生活できぬ存在であることを悟るさと べきかもしれません。このことは、天使にあこがれる必要はないとか、「狂気きょうき」を唯一ゆいいつ倫理りんりにせよとかいう結論に達すべきものでは決してありますまい。むしろ逆で、ぶたになるかもしれないから、ぶたにならぬように気をつけて、なれないことは判っていても天使にあこがれ、だれしもが持っている「狂気きょうき」を常に監視かんしして生きねばならぬという結論は出てきてもよいと思います。「狂気きょうき」なしでは偉大いだいな事業はなしとげられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。「狂気きょうき」によってなされた事業は、必ず荒廃こうはい犠牲ぎせい伴いともな ます。真に偉大いだいな事業は、「狂気きょうき」に捕えとら られやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗しつように地道になされるものです。やかましく言われるヒューマニズム(ユマニスム)というものの心かくには、こうした自覚があるはずだと申したいのであります。容易に陥りおちい やすい「狂気きょうき」を避けさ ねばなりませんし、他人を「狂気きょうき」に導くようなことも避けさ ねばなりませぬ。平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう。冷静と反省とが行動の準則とならねばならぬわけです。そして、冷静と反省とは、非行動と同一ではありませぬ。最も人間的な行動の動因となるべきものです。ただし、錯誤さくごせぬとは限りません。しかし、常に病を己の自然の姿と考えて、進むべきでしょう。

渡辺わたなべ一夫『狂気きょうきについて』より抜粋ばっすい
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a 長文 3.2週 me
 日本人が、淡泊たんぱくであるかわりに持続力に欠けていると言われるのも、生活感覚に左右されているところがすくなくないのではあるまいか。うるさいことは嫌いきら だという。ごてごてしているのはおもしろくないと感じる。
 こういう傾向けいこうが言語に影響えいきょうしないはずはない。こまかいことは省略してしまう。それがわからぬのは野暮だとして相手にしない。のけもの扱いあつか されるのはだれしも好むところではないから、お互いに たが  以心伝心の術に長ずるようになる。道筋を飛ばして結論を出す。結論は相手の想像に委ねて、さりげない話でお茶をにごす。ありのままをくどくどのべるのは興ざめだとされる。
 そういう淡泊たんぱく好みの通人たちが考えだした詩型が和歌であり俳句であって、短いことでは世界に類がすくない。ことに大昔から確立している和歌の形式は、日本人の感性、言語、思考を決定するほどの力をもってきたように思われる。
 その妙手みょうしゅたちに比較的ひかくてき女流が多かったことも、またおどろくべきことである。ヨーロッパの文学の歴史を見ると、文学史そのものが短いこともあるけれども、三、四百年前の時代に女流詩人の名を見いだすことは困難であろう。ところが、わが国では千年ちかい昔でも、女性は男性とかたを並べて名歌を数多く残している。ことに日本の言葉が花と開いた平安朝の文学は実質的に女流文学であった。そういう古い時代に、こういうことがほかの国で起こっているだろうか。日本語全体に女性的性格がつよいことは認めてよい。
 女性的言語が持久性のつよい長編詩に結晶けっしょうしないで短詩型文学を生んだのは、やはり風土的因子によるものと考えられる。さらりと流す叙情じょじょうが尊重される。その女性的性格にいくらか反発したらしく思われるのが、俳句というさらに短い詩である。和歌が仮名言葉中心であるのに、俳句では漢語の比重が大きい。
 そういう和歌と俳句の相違そういはありながらも、実によく似ているのは、言葉のいわゆる論理に背をむけていることである。感覚的に全体を直感で把握はあくする。
 目に青葉 山ほととぎす はつかつお (素堂)
 この句の表現しようとしているものを理屈りくつで説明しようとすればおそらく何十枚もの文章を必要とする。それでも決して言い表わ
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せぬものを、この中に凝縮ぎょうしゅくさせている。論理を超えるこ  論理があるからだ。
 「言ひおほせて何かある」……そう芭蕉ばしょうは言っている。完結した表現、整いすぎた言葉は詩にならないことを、これほど端的たんてきにのべたものはすくない。「言ひおほせ」ないためには論理でも何でも犠牲ぎせいにしてかえりみない。
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a 長文 3.3週 me
 日本のある会社が香港ほんこんで現地の人間を採用しようと求人広告を出したという。
 「日本語のできる人を求む」
 すると(またたく間に、「我こそは日本語が達者である」と胸を張ってたくさんの香港ほんこん人が押しかけお   た。会社側はおおいに喜んで、さっそく面接をしてみたが、実際にはほとんどの人が、「コンニーチハ、サヨナーラ」といった挨拶あいさつ程度しか日本語を話すことができなかったそうである。
 この話を聞いたとき、私は「香港ほんこんの人はすごい」と感心したものだ。何より語学ができるという認識が、日本人とずいぶんかけ離れ  はな ているではないか。もし日本人が、「あなたは英語が話せますか」と問われたら、たいがいの人は、「少しだけ」と答えるであろう。この「少しだけ」が「はい、話せます」に変わるまでには長い道のりがあって、よほど流暢りゅうちょうに、アメリカ人もびっくりするほどペラリペラリとしゃべれない限り、「話せます」とはとうてい答えられない。恥ずかしいは    という理由もあるだろうが、もし「話せます」と答えた場合、その責任を自分が取らされたうえ、理解できなかったらどうしようという不安が、一瞬いっしゅん、脳裏をかすめるからである。
 そこで、「まあ、そこそこ話せるな」と内心自負している人も、「少しだけ」と答えておく。そのほうが無難である。これが日本流「謙譲けんじょうの美徳」 なのである。
 ところが香港ほんこんのような国際貿易都市で生きていくためには、そんなのんきなことは言っていられない。語学が堪能たんのうでなければ給料のいい仕事にはありつけないし、語学のみならず、自己PRの上手にできない人間は、出世も望めないという社会の仕組みが出来上がっているのだろう。つまり、少々はったりをきかせても、「できる」と先に手を挙げたほうが勝ちなのである。
 もっともこれは、今から十年ほど昔の話だから、やや時代遅れじだいおく の認識だと言われるかもしれない。今や日本の若者のなかにも、臆病おくびょうがらずに「はい、話せます」と答える人間が増えている。しかし、私を含めふく たおおかたの日本人の心のなかには、良かれ悪しかれ「謙譲けんじょう」を「美徳」とする意識が残っているような気がする。
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 学生時代、先輩せんぱいからこんな手紙をもらったことがある。「君はいつも、もうこれ以上は落ちる心配がないというところまで自分を卑下ひげするくせがある。そうしておけば安心なのだろう。人から過大な期待をかけられて失敗するよりも、最初は期待されないで、だんだん評価が上がっていくほうが得策だと思っているのかもしれない。しかし、それは決して正当な自己評価にはつながらない。一見、謙虚けんきょに見えるけれど、それでは進歩がないからだ」
 なんでこんなに厳しい批判をされなければならないんだと憤慨ふんがいしながらも、同時に、自分でも気づいていなかった性格の新しい側面を、みごとに分析ぶんせきされ、見せつけられたのには驚いおどろ た。(中略)
 日本人は(と、こういう枠組みわくぐ を作ることがそもそもいけないのだが)、対する人間の出方次第で自分の位置や行動を決めるきらいがある。だからこそ、なるべく早く、目の前にいる人がどういう人間なのかを判断、整理、類別しなければならない。これはもう、持って生まれた性癖せいへきのようなものである。「あの人って、誰々だれだれに似てると思わない」というのも日本人の得意な台詞である。私個人も気がつくとしょっちゅう言っている。
 かくして人は、自分の立場を確保するために他人を型にはめたがり、その作られた型からはみ出て「打たれるくい」にならないよう、自分自身は「謙譲けんじょうの美徳」を利用する。
 考えてみると、つくづく日本には、個人の秘めたる才能をできるだけ伸ばさの  ないようにする基盤きばんがあることに気がついた。
 では、どうすればいいのでしょう。難しい問題です。何しろ、他人をけなす人は多くても、おだて上手が少ない国だから。
「できる、えらいぞ、ほれ、ガンバ」
 残る手立ては、自分で自分をほめちぎり、なんとか怠けなま ている細胞さいぼうをたたき起こす以外にない。

阿川あがわ佐和子さわこ『おいしいおしゃべり』から)
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a 長文 3.4週 me
 人間がこの世に生きて持ついろいろな体験は、人間の最大の教師だ。あることを目的として我々はそれを達成しようと試みる。そして失敗し、また成功する。その経験を、記憶きおくの中で整理して知恵ちえと呼ばれる理解力を得ることによって、類似した次の体験に我々は備える。その累積るいせきが何代も何代も続いて巨大きょだいなものに達したのが文化である。
 技術的な知恵ちえのうち簡単なものは、教育によって容易に伝えることができる。しかし、理論や道具や機械のようなものが複雑になると、それを授ける人受け取る人が限られ、そこに専門家が生まれる。技術的な知恵ちえは専門家にまかせておいていいことがある。
 肉体的なもの、心理的なもの、または道徳的、宗教的なものの伝授は、専門家のみで処理できない。乳の飲ませかた、子どもの育てかた、他人との交際の仕方、愛や悲しみの扱いあつか 方とその表現の仕方などは、あらゆる人間が、親や教師や先輩せんぱいから受け取って、自分の生活の実質としなければならない。それ等を体得することは赤ん坊あか ぼうから大人になることであり、言わば動物から人間になることである。
 自分と他人との触れ合いふ あ かた、自分の内部に起こる欲求や喜びや悲しみの調整の仕方は、人間であることの根本条件につながっているがゆえに、その処理を誤ることは、生存の危機となり、破滅はめつとなる。我々の存在の外側にあるものは、特に専門的な知識や技能を必要とするものでない限り、我々はそれに慣れることができる。たとえば自転車に乗ることは、人間を疲労ひろうさせるものだとしても、人間は、必要なときだけそれに乗り、不必要な時はそれを使わずにいることができる。自転車は我々から離れはな てそとにあるものであり、我々はそれを必要な時だけ利用する。
 しかし、自分の喜びや悲しみ、家族や勤務先の同僚どうりょうなどと接触せっしょくせずに生きていることはできない。そういう事柄ことがらについての生き方の技術というべきものは利口な人間も利口でない人間もが、同じように学び取り、そして毎日を、毎時間をそれの処理に当たらなければならないことである。その処理の仕方として、礼儀れいぎとか倫理りんりという一般いっぱん的なものがあり、さらにより深いところからその種のことに
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ついての真理的な安定を得る方法としての道徳、愛憎あいぞう恋愛れんあい、宗教の教理などがある。
 そして我々が「体験」という言葉を、人間の生き方との関係において使うときは、このような体験のことを言う。そして宗教家や教育家が、我々を導くのもまたこのような部分においてである。この部分について、だれでもが自分の体験について何かの判断をしているものである。私の父は、田舎の村の収入役という目立たない仕事をしている人間であったが、何度か私たちに向かって言った。「人生というのは芝居しばいをしているようなものだ。自分の当たった役割りをうまくやる外はない」と。たしか、私のおぼろげな推定では、私の父は村長になりたかったようである。その当時の村長は選挙でなく、前任者や村会議員たちの推薦すいせんによって地方の長官から任命されたものであった。父は内気な手固い人間であったので、村長に推挙される機会がなく、収入役で終わった。そのことに対しての不満とあきらめの感情がこの言葉の中に漂っただよ ていることを、二十さいぐらいのとき私は感じた。

伊藤いとう整「体験と思想」)
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