a 長文 1.1週 me2
 見かけは科学のようだが実は科学ではない「ニセ科学」が蔓延まんえんしている。代表的な例として血液型性格判断やマイナスイオンを挙げれば、なるほどその手の話かと合点がいくかたも多いのではないだろうか。念のため述べておくと、前者は心理学の調査によってとっくに否定されており、また、いわゆるマイナスイオンが体によいという科学的根拠こんきょはほぼ皆無かいむと言ってよい。
 もちろん、この手のニセ科学が今に始まったわけではないが、最近の状況じょうきょうは以前よりはるかに深刻に思える。大手電器メーカーがこぞって参入したマイナスイオン・ブームなど、熱に浮かされう   ていたとでも表現するしかなかろう。
 あるいは、水に「ありがとう」と声をかけると雪の結晶けっしょうに似たきれいな結晶けっしょうができ、「ばかやろう」と声をかけるときれいな結晶けっしょうはできない、という説はどうだろう。そのようにして撮影さつえいしたと称するしょう  結晶けっしょうの写真集はベストセラーになった。
 話だけなら単なるオカルトとしか思えないが、写真があまりに印象的なためか、これを「科学的事実」と信じ込んしん こ でしまう人は意外に多いらしい。しかも、これが多くの小学校で言葉の大切さを教えるための道徳教材として使われているのだから、笑ってすますわけにはいかない。言葉づかいは水に教わるようなものではないはずなのだが。
 こういったニセ科学は、あくまでも「科学」として受け入れられていることを強調しておきたい。いや、それどころか、もしかすると多くの人にとって、ニセ科学のほうが科学よりも「科学らしく」見えているのかもしれない。
 たとえば、「プラスは体に悪く、マイナスはよい」などという白黒二分法的な考えかたは、本来、科学から最も遠いところにある。科学者に「プラスとマイナスのどちらが体にいいですか」と尋ねたず たとしても、返ってくるのは「マイナスといってもいろいろあるし、少量なら体にいいものだとしても、量が多すぎれば悪いだろうし……」といった歯切れの悪い答えであるに違いちが ない。
 一方、パブリックイメージとしての科学は、そのようなあいまいな返事をせず、「さまざまな問題に対してきちんと白黒つけてくれる」ものなのではないだろうか。ところが、実はこれはニセ科学
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特徴とくちょうである。
 本当にニセ科学のほうが科学らしく見えてしまうとすれば、ニセ科学が受け入れられるのは、科学に対する信頼しんらいが失われているからではない。むしろ、科学は信頼しんらいされているのである。ただし、それは必ずしも科学的な考え方が浸透しんとうしていることを意味しない。
 科学の結果だけが求められ、その本質である合理的思考のプロセスは求められていない。水の結晶けっしょうの話が道徳教材になってしまうのも、あるいは、テレビゲームが脳を機能的に壊すこわ というこれまた根拠こんきょ薄弱はくじゃくな説が教育現場ではやるのも、結論だけに飛びついた人が多いからだろう。たしかに、しつけや道徳が科学で根拠こんきょづけられるなら、それほど楽なことはないのかもしれない。だが、それは思考停止にすぎない。

 さて、昨今、先端せんたん科学の成果を一般いっぱん市民に「わかりやすく」伝えることが強く求められている。ところが、そこには落とし穴が待ち受けている。科学を「わかりやすく」語ることに慣れていない科学者たちは、先端せんたん科学の成果がいかに不思議であるかを強調すれば「わかりやすい」のだろうと安易に考えがちである。しかし、不思議を語るだけでは、魔法まほうの話をしているのとなんら変わりがない。
 SF作家アーサー・C・クラークは「非常に進んだテクノロジーは魔法まほうと区別できない」と述べた。この言葉は現代科学にもあてはまる。もし科学の成果をあたかも魔法まほうであるかのように語るなら、それは、魔法まほうに過ぎないはずのニセ科学を科学であるかのように見せることにもつながる。「こんなことが起こります」という結果だけではなく、その裏にある科学の「考え方」を伝える努力が求められている。

菊池きくちまこと「かがく批評室」による。本文を改めたところがある)
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a 長文 1.2週 me2
 憧れるあこが  と同時に相手を侮蔑ぶべつする。そうすることによって人間は生きていくというような側面があることは事実だと思います。
 その偏見へんけんには、政治的な野心とか、経済的な願望とか、そういう利害関係ももちろんからんでくると同時に、政治や経済や軍事において逆に優位にある民族や社会に対して、劣位れついにおかれていた人が文化的な優越ゆうえつ性をもって相手を見返すということもあるわけです。黒人の文化というのは差別の対象のようにずっと捉えとら られていた面があるわけですが、ブラックパワーと言い出して、生命力では白人より黒人のほうが強いという主張を黒人がして白人を見下すこともあるわけです。それは、白人の優越ゆうえつ感の裏がえしでもあります。白人、黒人といったいい方も乱暴ないい方にはちがいありません。日本人などは黄色人といわれますが、これも現実に私たちは黄色ではありません。人間にはさまざまに見えるところがあり、はだの色も微妙びみょうにちがう面が多いわけです。現にフランスでスペイン人に間違わまちが れたとか、アメリカでメキシコ人として扱わあつか れたとか、日本人と外国でなかなか見てくれないような体験をする人もいるわけです。白人、黒人、黄色人といった区別も文化的な偏見へんけんの面が強いと思います。
 異文化に対しては、ささいなことが拡大されて、オリエンタリズム的なアプローチを生み出します。サイードは、学者や小説家の言説だけではなく、一九世紀イギリスの政治家の議会演説なども引用しながらそこに含まふく れるオリエンタリズムをあらわにしてゆくのですが、日本人のアジアに対する言説を明治以来拾ってみれば、同じようなことが言えるかもしれません。福沢ふくさわ諭吉ゆきちの「脱亜入欧だつあにゅうおう」は近代日本の国家的スローガンにもなりましたが、福沢ふくざわには強い「アジア蔑視べっし」があったと安川寿之輔氏は指摘してきしています。私も以前そのようなことを述べたことがあります。無意識的に発言された言葉が誤解を拡大させて、それが大きな国際関係まで脅かすおびや  可能性があるということです。
 いつも感じることで、日本人はどうも自己完結的というのか、外来文化を日本文化の中で消化しようとしてしまう。外から伝わった文化の要素でもいつのまにか日本文化になってしまっているということが多く、それで、逆に異文化をあまり意識しないのではない
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でしょうか。異文化に対する憧れあこが 軽蔑けいべつもあるのですが、日常生活の中で異文化に対する無関心というものが、いかに大きな誤解とか差別とか、逆に外国での日本に対する悪感情を生むかということを意識しないで行動している場合が多いと思います。
 オリエンタリズムは、オリエントに対する近代西欧せいおう偏見へんけん偏向へんこうというものを、西欧せいおうのオリエント支配の生み出した言説として、サイードが告発したところからきているわけですが、これまで見てきましたように大きな意味で異文化に対する偏見へんけんを示す象徴しょうちょう的な言葉として使えると思います。単に西欧せいおう対オリエントという形でなくて、日本対アジアとか、アメリカ対中国や日本というような形でも使えるし、西ヨーロッパ対日本という形でもあてはめられると思います。それはアジアやアフリカのさまざまな地域でも多数派民族から少数派民族を見る場合とか、複雑な異文化間の状況じょうきょうにおいて使われることでもあるでしょう。
 なぜオリエンタリズムの問題がそれほど重要かといえば、現代は文化と人間の広い交流の時代だからです。幾度いくど繰り返しく かえ ますが、異文化は常に身近にあるし、常に他者と接触せっしょくしつつ人々は生活をしていかなくてはなりません。そのときに、異文化に対してあまりにも無知であったり、また無知からくる偏見へんけんは大きな困難や摩擦まさつを生み出します。
 異文化理解が重要になった時代に、異文化へのアプローチに対する警告の言葉として、「オリエンタリズム」というのは非常に重要な言葉だということを指摘してきしておきたいと思います。

(青木保『異文化理解』より 一部改変した)
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a 長文 1.3週 me2
 結局のところ、日本語は、質問者の質問のしかたに即しそく 、その意図にそっていれば「ええ」とこたえ、反していれば「いいえ」とこたえるわけだが、欧米おうべいでは、肯定こうてい疑問であろうが否定疑問であろうがそんなことにはおかまいなく、返答する者が知っているか否かによってのみイエス・ノーが決められている。こうしてわが同胞どうほうは、外国に行って否定疑問文を浴びせかけられるたびに、どぎまぎしながら「はい、いやちがった、いいえ」「いいえ、いや、はい」などとやって、ますます「あいまいな日本人」という神話をはびこらせてしまいもするのだろう。
 このような否定疑問へのこたえ方にかいま見られるのは、自己中心的な欧米おうべい流の思考法と外部指向的なわが国の思考法とのちがいにほかならない。そのうえ、そもそも私たちは、きっぱりとは「ノーと言えぬ」やさしき日本人なのである。つまり、私たちのあいまいさは、多分に、他人への配慮はいりょからも生じているわけだ。
 こうした他人への配慮はいりょは、多かれ少なかれ、自己を抑制よくせいすることになるだろうし、他人と歩調を合わせようとすることにもなるだろう。私たち旧世代がつねに指摘してきされてきた日本的集団主義はもとより、はた目には、かなり自己チュー(自己中心的)と見られる現代の若者たちまでが、学校や職場での友人関係にどれほど気をつかっているかは、見ていて涙ぐましいなみだ    ほどである。「はい、はい、はい、はい」と、「はい」をいくつも続けてコミカルかつ同調的な司会者のノリを出してみたり、「やっぱし」「ヤッパ」「あんまり」「意外と」を連発して社会通念にこびてみたり、「半疑問」「半クエスチョン」と呼ばれる文の途中とちゅうでの語尾ごびのアゲを使うことで相手との一致いっちをたえず確認してみたり、あげくの果てには、携帯けいたい電話を通してまでもこうした気づかいをくりかえし、彼らかれ は、ようやく、「だれかとつながっている」という安心感を得るにいたるらしいのだ。
 このように、私の見るところ、日本語におけるあいまいさと言われるものは、大別すれば、「暗黙あんもく了解りょうかい」と「他人への配慮はいりょ」という二つのものに由来しているように思われる。「暗黙あんもく了解りょうかい」はまさしく了解りょうかいされている以上、それを言葉にしないのは当然のことであって、それがあいまいと映るのは外部の目に対して
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だけである。あるいはまた、「他人への配慮はいりょ」によって物言いを微妙びみょうに変えるところなど、自己主張ばかりに終始する西洋風の言葉づかいよりも数段すぐれていると考えることもできる。したがって、日本語における「あいまいさ」なるものは、本来の意味においてはあいまいではないのだと、そういうこともできるだろう。
 しかしながらこの「暗黙あんもく了解りょうかい」や「他人への配慮はいりょ」が、日本語の内部においても次第に崩れくず てきているとすればどうだろう。暗黙あんもく了解りょうかいがあってこそあいまいさをまぬがれていた私たちも、そうはいかなくなり、他人への配慮はいりょがあってこそあいまいも美徳になっていたのが、一転して、単なるあいまいとしての悪徳になってしまうのではないだろうか。
 たとえば、あるスーパーマーケットで年配の婦人が、若い女店員にこうたずねた。
 「あのう、お嬢さん じょう  、このお豆腐とうふずいぶんにごりが出ているけれど、まさかヨイゴシ(宵越しよいご )のお豆腐とうふじゃないでしょうね」
 けげんな顔をした女店員は、こう応じたのである。
 「いえ、お客様、当店では「絹ごし」と「木綿ごし」しか置いておりません」
 思わず私はふき出してしまった。二重の意味においてである。ひとむかし前ならば、この答えは当意即妙とういそくみょうの見事なものであったにちがいない。当店の商品には「宵越しよいご 」などという言葉はないと、ナポレオンのように自信たっぷりの答えとなったはずである。しかしながら、当の女店員さんは大まじめ。ご婦人の苦笑に一抹いちまつ淋しさび さを感じたのは、私の深読みにすぎなかったのだろうか。

加賀野井かがのい秀一『日本語の復権』による。)
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a 長文 1.4週 me2
 わずか一つぶの種から一万個以上もの実をつけたトマトの巨木きょぼくがある。遺伝子組み換えく か などの新しい技術により、このようなトマトができたのかと想像されるかもしれないが、そうではない。
 このトマトは、一本の根幹から何千もの枝が分かれて、トマトの実を結ぶ。最も多いときで、一万個以上が実るというから確かにすごい。その秘密は、太陽の光と、水と空気の恵みめぐ 充分じゅうぶんに受けて土なしで育てるところにある。水中の養分を補えば、根の部分は水中に浸しひた ておくだけで栽培さいばいできるのである。
 つまり、植物がその成長能力を最大限に発揮する上で、土は不要ということなのだ。
 むしろ、土に根を生やしているがために、潜在せんざい的な成長能力は一定に押さえつけお    られている。一万個も実をつけるトマトは、実際、土とは無縁むえんである。これが、植物の成長にとって理想的な環境かんきょうだというのである。
 将来、人類が地球を出て、宇宙で生活するためには、このような栽培さいばい法が、どうしても必要となる。この巨大きょだいなトマトの木は、生き物にはまだまだ私たちの知らない、無限とも言える可能性が秘められていることを、見事に示した。
 一方、科学用語のひとつに、「最適規模・最適値」という言葉がある。ある環境かんきょうの中の最適な数や量のことで、自然界は、非常にうまくこの最適規模を守っている。(中略)
 この観点からすると、一つぶの種から一万個も実をつけるのは本当に良いことなのか。
 個別にその植物だけを取り出して考えると、問題は解きほぐせない。大地、植物、光、水、大気という自然界全体の成り立ちを視野におさめて、初めてひとつの答えが導き出される。
 植物は、大地に根を生やし、成長して実をつける。その樹液や花のみつ、木の実などを食べて生きる虫や小動物がいる。それを食べる動物もいる。死んだ動物は土にもどり、微生物びせいぶつによって分解され、植物の養分となる。こうして巧みたく 循環じゅんかんがなされているからこそ、自然界は過不足なく成り立つのであって、何処かの連鎖れんさが断たれると、問題が生じる。
 木を切りすぎると動物もいなくなり、大地は枯渇こかつして砂漠さばく化す
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る。一つぶの種だけが無際限に繁殖はんしょくすると、全体が危機に瀕するひん  
 このように見てくると、普通ふつうのトマトが、一つぶの種から一万個も実をつけないのは、土によって本来の成長をじゃまされているのではなく、生態系全体の中での適正な成長規模を守っているからだとも考えられよう。
 遺伝子情報としては、一万個を実らせる能力を書き込まか こ れているのだろうが、ぎりぎりまで発現させることは通常ないのである。
 複雑な生命体は、私たちの想像を超えるこ  潜在せんざい能力を持っているとみてよい。しかし、生物相互そうごのかかわり合い、生物と自然とのかかわり合いの中で、能力の発現は一定に保たれる。つまり、生態系という高いレベルの有機的な秩序ちつじょが保たれていくために、最適値がある。
 この生物の中に人類も含まふく れる。科学・技術を発達させ、際限なく生産の拡大を図るだけでは、人類はいつか行き詰るい づま 。そして、次の世代に大きな負の遺産を残すことになる。
 人間は、限度を超えこ て物が増えた分だけ、心が貧しくなり、寂しくさび  なっていくのではないか。それを解決するには、人間の慎みつつし が必要である。
 先ごろ、ノーベル平和賞を受賞したケニアの女性環境かんきょう保護活動家ワンガリ・マータイさんが、日本語の「もったいない」をエコロジーの言葉「モッタイナイ」として世界に紹介しょうかいしたように、「慎みつつし 」も新時代の人間の生き方を表す世界の共通語「ツツシミ」となるよう広く伝えていきたいものである。
 「モッタイナイ」は単に物を節約することではないし、「ツツシミ」は欲望を消極的に抑えるおさ  ことではないだろう。
 この言葉の背後には、人類を含めふく た生物が、大自然の偉大いだいな力「サムシング・グレート」により生かされているということに対する感謝の気持ちが込めこ られている。

村上むらかみ和雄かずおの文章による)
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a 長文 2.1週 me2
 ここで、技術と人間の関係について考えておきたいと思います。科学の技術化の進行とともに、生活は便利で快適になりました。情報の交換こうかんは、コンピューター・ネットワークを通じて、時間的にも(瞬時しゅんじにつながる)、空間的にも(国際的につながる)、実に効率的に広がっています。グローバルな(地球規模での)人間のつながりが可能になり、これまでの「国家」に閉じ込めと こ られた発想を越えるこ  ことができるようになるだろうという予感をもっています。二一世紀には、この流れは、よりいっそう加速されてゆくでしょう。これを「情報革命」あるいは「情報化社会」と呼んでいます。コンピューターだけでなく、これまで思いもつかなかった機械や道具が、マイクロマシンやナノテクノロジーから生み出されてくると思われます。技術の発展が人間の新しい可能性を拓いひら ていくのです。
 確かにそうなのですが、技術の発展と人間の関係について、気をつけるべき二つのポイントがあります。
 一つは、いくら素晴らしい性能をもつ製品でも、その能力は使う人間の技術レベルで決まっているということです。私のワープロには実にさまざまな機能が組み込まく こ れていますが、私はその一部しか使えません。せっかく便利に作られていても使いこなせなければ、その技術は生きないのです。この点は、ワープロだけでなく、あらゆる技術にいえるでしょう。技術の真の価値を利用するには、それを使う人間の技術レベルも上げなければならないのです。そのためには、技術の内容を理解し、論理的な思考や全体のつながりを把握はあくする力をもっていなければなりません。そうでない限り、技術は、それを有効に使えるエリートだけのものになってしまうでしょう。
 しかし一方では、私たちは新しい技術に使われ、追い立てられることにもなります。そのため、じっくり考える余裕よゆうを失うかもしれません。私は、コンピューター社会で落ちこぼれかかっているのですが、考える時間を確保しようとすると、次々と新しいソフトや新しい情報処理方法についてゆけなくなるからです。
 今や、パソコンは計算をするだけでなく、ワープロ・表計算・英文タイプ・図表製作にも使え、ネットワークを通じて、手紙・図・写真・音声まで交換こうかんできるようになりました。パソコンは、筆箱・電卓でんたく・コンパスや物差し・電話・タイプライター・写真フィル
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ムなど、さまざまな道具を一つに集めたようなものです。しかし、それらを使いこなすためには、相当な時間が必要になります。その時間を惜しむお  と、パソコンはただの電脳箱に過ぎません。むろん、より使いやすくはなるでしょうが、技術を常に追いかけねばならない時代に、真の知が開花するだろうか、というのが私の心配なのです。
 もう一つは、「情報革命」の問題点です。情報は、知っていると楽しくもあり、豊かな気分になりますが、それを使わない限り価値を生みません。お金と似ています。だから、情報を有効に使わないと革命は起こらないのです。人間の知的レベルを上げなければ、情報を有効に使えないでしょう。つまり、技術を使いこなすだけでなく、世界を広い視野で見、将来を深く洞察どうさつする能力が不可欠なのです。情報革命は、人間のレベルを上げない限り、「情報オタク」を生み出すだけとなるでしょう。その結果、情報を有効に使える大企業きぎょうや政府が利益を得るのみなら、新しい人間の可能性を拓いひら たり、国境のかべが破れることにはなりません。現在と本質的に同じ状態だからです。つまり、個々人が情報に埋もれうず  ず、情報を有効に使う能力が、二一世紀には強く望まれているといえるでしょう。
 さらにつけ加えておきたいことは、情報化社会となると、すべての仕事が机の上でできるようになって、三K(キツイ・キタナイ・キケン)の仕事がなくなるような幻想げんそうがふりまかれていますが、それは間違いまちが です。確かに、毎日会社や学校に行かなくても仕事や学習ができる部分はあるでしょう。しかし、パソコンを作る人、それを運ぶ人、運ぶ道路(トラック)や鉄道(貨車)を作り整備する人、その資材を作る人、その原料を掘り出すほ だ 人……と、パソコン一つをとっても多数の人々の労働の結晶けっしょうなのです。その労働自身は、決してなくなることはありません。私たちの生活の中で必要とする、食べ物も住宅も着物も電気も、あらゆるものに労働が必要なのも確かです。情報革命は、人間の知的レベルの革命であって、生活や労働を変える革命ではないことを、しっかりと押さえお  ておく必要があると思います。

(池内(さとるの文による)
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a 長文 2.2週 me2
 コンビニエンス・ストアの二十四時間営業の店がだんだんふえていったのは、一九八〇年ごろからだ。それは、日本の社会が本格的に「サービス化・ソフト化・情報化」という方向にむかおうとするちょうどそのころだった。
 お店の機能をサービスという観点から見直すと、だいたい夜も活動する人間がふえてきているのに、夜の七時にお店がしまっていたのではお話にならないのだ。
 ここで、「時間的な便利さ(コンビニエンス)」というサービスが商売として成り立つ。
 便利さというサービスを商売とする以上、当然、チェーン店として、いろいろな地域をネットワークしていくような展開が必要となる。
 いつでもあいていて、そこにいけば日常のかんたんな雑貨から食料までなんとかなる、そういうお店だ。ふつうのコンビニエンス・ストアには、だいたい三千品目以上の商品がおかれているといわれる。
 その後、コンビニエンス・ストアは、ファースト・フードをいれ(「おでん」すらファースト・フード化させ)、チケット類の予約販売はんばい、公共料金の窓口業務、クリーニングの取り扱いと あつか といったぐあいに、新しいアイテムをつぎつぎと加えていっている。コンビニエンス・ストアというお店の基本的なあり方も、最初のころとくらべるとやや変わってきている。固定的なものではなく、客のニーズがあればすぐさまその商品をそろえるという柔軟じゅうなんさこそ、コンビニエンス・ストアの真髄しんずいだろう。
 ところで、「時間」をビジネスにしているのはコンビニエンス・ストアだけではない。きみたちのまわりでは、たとえば「牛どん」ショップとか、ファースト・フードのチェーン店などがそうだ。
 日本では、一九七〇年ごろからファースト・フードが店舗てんぽをふやしはじめる。
 ハンバーガーの店ではそれまでの日本では考えられなかった「早朝」という時間帯を営業のなかに組みいれてビジネス化を図った。その後、「深夜」や「二十四時間」を組みこむ店もふえた。
 一方、和食系のファースト・フード店も、「早朝・深夜」をビジネスの対象にした。食事できる場所がしまってしまった深夜や、まだどこもあいていない早朝に営業することで、他のお店との「差別化」を図って、そこにある時間の利便性を商売にむすびつけているわけだ。和食系のチェーン店では、アメリカにまで進出し、成功
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をおさめたものもある。
 時間のビジネス化という意味では、コンビニエンス・ストアとファースト・フード店はあるていど共通している。
 しかし、筆者のみるところでは、やはりコンビニエンス・ストアには、独特のものがあると思う。立地でいうと、繁華はんか街だけでなく住宅街のまんなかにも出店している。コンビニエンス・ストアの午後九時や十時にいってみるといい。じゅく帰りなどの小学生や中学生が夜食がわりにおでんをワイワイいいながら食べているのに出会えるはず。
 コンビニエンス・ストアが開拓かいたくした「時間」はどうみても夜だ。あの「時間」はまだきちんと管理されておらず、どこにも位置づけられてないのだ。奇妙きみょうな明るさのなかにある解放感と孤独こどく感がそれを物語っている。
 コンビニエンス・ストアが消費社会の申し子と考えるのはそのためだ。消費社会というのは、これまでの時間についての考え方、みんなの共通の枠組みわくぐ が統一性を失った社会なのではないだろうか。コンビニエンス・ストアの「時間」の位置づけられなさはそれを象徴しょうちょうしている。
 それまでの常識では考えられなかった、営業時間の「すきま」をビジネスにしたのがコンビニエンス・ストアやファースト・フードだった。
 「すきま」というのは、時間についてだけいうのではない。それまで他の企業きぎょうが関心をもっていなかった分野だとか、余裕よゆうがなくてできなかった分野のことを一般いっぱんに「すきま」(またはニッチ)という。
 いま、企業きぎょうは、いろいろなすきまの分野をねらって、ビジネスにしようとしている。市場が大きくふくらんで成長が頂点に近づくにしたがって、すきまをつく戦略が重要な役割を占めし てくる。
 そして、コンビニエンス・ストアをはじめ、宅配便など、それまでなかった商売が、いつのまにか、いまでは欠かすことができなくなっている。これも消費社会の一つの断面といってよさそうだ。

(児玉ひろし「あなたは買わされている」による)
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a 長文 2.3週 me2
 動物たちの「ことば」と私たち人間の「ことば」との間には、たいせつな違うちが 点がいくつかあります。たとえば、アリやミツバチは、どのようにして「ことば」を身につけるのでしょうか。お母さんのアリが子どものアリに向かって、えさを見つけたときにはこうするのですよ、と教えているというのは、考えてみただけでもほんとうにほほえましい光景です。でも、じっさいには、アリのお母さんはそんなことをする必要はないのです。アリであれば、えさを見つけると、足の先からにおいのするものがしぜんに出てくるというふうに、生まれつき仕組まれているのです。ミツバチの場合も、お母さんが子どもの手足をとって、ダンスの仕方を教えてやるというわけではありません。
 人間の「ことば」は、こういうふうにはいきません。私たちが日ごろ使っている日本語ですと、まるで生まれつき身についていたように思えるかもしれませんが、たとえば、どういう場合に「アニ」といって「オトウト」とはいわないのか、などということは、みんな私たち自身が他の人から教えられたり、あるいは、他の人が使っているのを見たり聞いたりして学び知ったのか、どちらかです。ひとりでに使えるようになったというわけではありません。このことは、外国語を身につける場合を考えてみれば、もっとはっきりするでしょう。
 動物たちは「ことば」の勉強をしなくてすむからいいな、などと思ってはいけません。動物たちは、たしかに人間のように、努力して「ことば」を学ばなければならないというようなことはありません。しかし、その代わり、動物たちは、いつも、そしていつまでたっても、同じことしか伝えることができないのです。それからもうひとつ、動物の「ことば」は、いま、ここにあることがらを伝えることはできるでしょうが、「いま」と「ここ」を越えこ たもっと広い世界のことがらを伝えることはできないでしょう。
 動物の「ことば」の仕組みは生まれつき身に備わっていますが、その代わり、動物たちには、もともと生まれつき定められたことしか、表したり、伝えたりすることができないのです。動物の「ことば」は、動物たちをせまい世界の中に閉じこめています。
 私たち人間の世界は、このように閉じたものではありません。人間の「ことば」は「ここ」「いま」のことがらをはるかに越えこ て、過去のことも、未来のことも、そしてじっさいにはありえない想像上のことであっても、表し、伝えることができます。人間は「ことば」を学ばなければならない代わりに学べば学ぶほど、新しい言いまわしを身につければつけるほど、世界が広くなっていきま
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す。そして、さらにすすんで、もし新しい外国語を身につけたとしたら、私たちの世界はどれほど広くなることでしょうか。私たちのほうでその気になれば、人間の「ことば」は私たちをいくらでも広い世界へと連れていってくれます。
 私たちがなんの気なしに使っている「ことば」――その「ことば」は、私たちにとってほんとうに深い深いかかわりをもっているのです。

(池上嘉彦よしひこ「ふしぎなことば ことばのふしぎ」による)
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a 長文 2.4週 me2
 公立中学校の先生が去年一年ぼくの大学院のゼミに聴講生ちょうこうせいとして来ていた。おかげで、教育の「荒廃こうはい」ぶりについて現場の声を伺ううかが ことができた。中でも印象的だったのは、子どもががらりと変化するのが、たいてい中学二年の夏休みだということである。夏休み前まではなんだかおどおどして、はっきりしない子どもだったのが、夏が終わると、髪の毛かみ け茶髪ちゃぱつに染めて、昇降しょうこう口に座り込んすわ こ で、三白眼で教師をにらみつけて「うぜえんだよ」と追い払うお はら ……というふうに変貌へんぼうしてしまう。なるほど、思春期の自意識の混乱を、この子たちはこういうふうに処理するのか、とみょうに納得してしまった。
 中学二年生ころの自意識の混乱というのを、私たちはもう忘れてしまっているけれど、あれはけっこう大変なものである。自分自身、自分が何を考えているのか、よく分からない。何か口にすると、そのつど「いや、こんなことが言いたいわけじゃない」という前言撤回てっかいの思いがせり上がってくる。何かをしても、「いや、こんなことがしたかったわけじゃない」という、自分自身の欲望との不整合感がぬぐえない。だから、思春期の少年少女のたたずまいというのは、ほんらい、「なんだか煮えに 切らないもの」なのである。口ごもり、言いよどみ、身の置き所がない……というのが思春期のシャイネスの「王道」である。
 ところが、「九月デビュー」の即製そくせい不良少年たちは、できあいの「不良の型」にすっぽり収まることで、このシャイネスに「けりをつけて」しまった。一人一人の中学生が、感じている自分自身との違和感いわかんはそんな簡単にできあいの「型」にはめられるものではない。茶髪ちゃぱつにしたり、ピアスをしたくらいで、ぴったりした自己表現の形態に出会いました、というほどめでたくステレオタイプな人間なんていやしない。不良少年たちとはいえ、それぞれに家庭環境かんきょうも学校での立ち位置も言語能力も身体感受性も趣味しゅみ嗜好しこう違うちが はずだ。それをぜんぶ「ちゃら」にして、レディメイドの「不良型」にすっぽり収まるというのは、相当いろいろなものを切り捨てることなしには達成できない力業である。思春期のシャイネスを「捨て値」で売り払うう はら ことによって、この子たちは、できあ
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いのアイデンティティを買い取っているのだけれど、私はそれはずいぶんと不利なバーゲンのような気がする。でも、そういうシャイネスのたたき売りと「九月デビュー」を子どもたち自身は(場合によっては親や教師やメディアも)「個性の実現」だと錯覚さっかくしている。そんな「定型への回収」をどうして「個性的」だなんて思い込めおも こ るのか、私には理解できないけれど、本人たちはそう信じて、思春期にけりをつける。
 どうして、「不利なバーゲン」だと思うかというと、そういうふうに思春期に乱暴に「けりをつけて」しまった人間は、そのあと、年齢ねんれいを加えていっても、もう「シャイ」になったり、「複雑」になったりすることができないからである。なりたくても、もうなれない。立て板に水を流すような、薄っぺらうす   なセールストークの操作能力なんかは一週間もあれば、だれでも身につけることができるけれど、「口ごもる」「言いよどむ」「ためらう」というような思春期固有の言語運用の回路は、一回壊しこわ てしまったら、もう再生がきかない。シャイネスなんて、一回手放したら、もう二度と手に入れることはできない。でも、それがどれほどたいせつなものかはだれもアナウンスしない。
 (中略)
 しかし、私たちの社会は(家庭でも学校でも企業きぎょうでも)、そのような複雑さを評価する習慣を失って久しい。私たちに要求されるのは、何よりもまず「わかりやすさ」であり、「単純なキャラクター」である。けれども、人間というのは、そんなに簡単に「わかりやすく」「単純」になれるものなのだろうか。人間本来の底知れなさを無視して、単純な「型」のうちに流し込むなが こ ことの本質的な危険性に人々は気づいているのであろうか。

(内田 響くひび 声・複数の私』より)
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 晩秋の山あい、美しい落ち葉で彩らいろど れた岩清水の冷たさに、秋の旅立ちが近いことを感じます。明日の朝、しもがおりていたら、新しい冬の訪れが、もう間近です。
 ついさきごろ、小さいお子さんが書いた手作りの詩集を見せていただく機会にめぐまれました。一人は福島市在住の中学二年生、もう一人は横浜よこはま市在住の小学三年生、手書きの文字からにおいたつ、きらりとした描写びょうしゃは、日本が生んだ天才童謡どうよう詩人、金子みすゞ手書きの試作ノートにはじめてであったときのような新鮮しんせんさに満ちていました。
 近年、コミュニケーションの主役が、従来の手紙から電話や電子メールに移ってきているのは、何事もより速くということがいいことであるという現代の風潮を反映してのことでしょうが、この傾向けいこうは心の「輪郭りんかく」を不鮮明ふせんめいにするだけではなく、「考える」ということさえも日常生活から奪っうば てしまったかのように思われてなりません。面と向かって話せばわかることが、メールのやりとりでは、議論が空転し、あげくのはてに思考停止の状態になることすらあります。海外とのやりとりなどでは、たしかにメールほど効率のよいコミュニケーション手段はないと思いますが、一方では、隣り合わせとな あ  の机にすわっている人同士が、メールで事務連絡れんらくをとりあっている風景も普通ふつうになっていて複雑な気持ちです。
 私自身も、学生からの意見やレポートもメール、施設しせつ使用の申し込みもう こ から、成績評価など、すべてがメールというメール漬けづ の毎日で、精神的にも実質以上の多忙たぼう感にあおられています。パソコンの進化もめざましく、新しい機種に変更へんこうされるたびに、戸惑いとまど 操作を間違えるまちが  と画面上には、パソコンからのきついお叱りしか の言葉が飛び交い、あわてて、あちこちキー操作をしているうちに、突如とつじょ、かたまってしまって、にっちもさっちもいかなくなるという事態も日常茶飯事で、不器用な私は、神経質なパソコンに怒らおこ れてばかりの毎日です。
 それにひきかえ、昔のワープロは寛大かんだいでした。「おんがく」と打ち込めう こ ば、「音我苦」などと変換へんかんする余裕よゆうとユーモアに満ち、こ
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ちらが慣れるのを根気よく待ってくれていました。手書きからワープロヘ、そしてパソコンヘと転身する現代は、心が見えにくくなっていて、それだけに、手書きの詩集には新鮮しんせんな感動がありました。
 ところで、物理学といえば、ものごとのすべてを論理的にきちんと説明してくれる堅いかた 学問だと思っていらっしゃる方も少なくないでしょう。しかし、ほんとうは、かなり寛容かんような精神に満ちた学問だと思います。光の本性だって、粒子りゅうしであるとも波動であるとも、見る人の立場によって、いかようにでも見えることを許してくれますし、極端きょくたんな言い方をすれば、「月を見る心がないとき、月は存在するといえるのか」という議論まで、物理学の問題として考えることを許していてくれているのですから。となると、原子から宇宙までを論理の言葉で語ろうとする物理学は、もっともスケールの大きな現代の神話なのかもしれません。

(「夢見る科学」佐治さじ晴夫 より)
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 カはメスだけが人間の血を吸う。オスは果物のしるなどを吸っていて、決して吸血鬼きゅうけつきになることはない。けれど、動物の吸血鬼きゅうけつきの多くは、オスであるかメスであるかには関わらない。
 例えばヒルだ。カには「血を吸われた」というより「刺ささ れた」という感じを持つことが多いけれど、ヒルにはほんとに血を吸われたという気がする。
 近ごろは農薬のおかげでヒルはほとんどいなくなったが、昔は田んぼや小さな川にヒルがたくさんいて、魚とりや水遊びの楽しみをそがれたものだった。湿度しつどの高い山の林にはヤマビルというのもいる。人間が歩いていくと、木の上から落ちてきて、首すじなどにとりついて血を吸う。いずれにせよ、ヒルに血を吸われるときは、痛みもかゆみも感じない。気がついたらたっぷりと吸った血で丸々とふくれあがったヒルがはだにとりついている、というおぞましさであった。
 北ボルネオの熱帯林では、しばしばヒルに悩まさなや  れた。林の中の細い道をたどっていきながら、ふと道の両側の草に目をやると、そこら中にヒルがいるではないか! 草の葉の上に、長さ一センチから二センチの小さなヒルが立ち上がって、ヒコヒコ体を動かしている。そうやってとりつくべき相手をねらっているのだ。
 双眼鏡そうがんきょうで十メートルぐらい先の草をのぞいても、ヒルは一ひきもみつからない。けれどぼくらが歩いてそこへ近づいていくと、あたりは何十ひき、何百ひきというヒコヒコ動くヒルでいっぱいになる。それまでは葉の上にピタリとくっついて休んでいたヒルたちが、ぼくらの体臭たいしゅうや体温をキャッチして葉の上に立ち上がり、思いきり体を伸ばしの  て前後左右に振りふ ながら、何とかしてぼくらの体にとりつこうとしているのだ。
 それはぞっとするような光景だった。その何百ひきというヒルたちは、何日いや何か月間この機会を待っていたのかわからない。林は広く、人間やけものはそのどこを通るかわからないからである。
 吸血性の動物というのは、一般にいっぱん そのような生き方を強いられている。たしかに血は動物の体の中でもっとも栄養価の高いものだろう。そしてそれは、生きた動物にとりついて吸うほかはない。し
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かし生きた動物は動きまわる。血を吸う側は必ず相手より小さい。長い距離きょり、相手を追っかけていくわけにはいかない。どうしてもある場所にじっとひそんでいて、相手がそこにやってくる機会を待つほかはない。
 だからヒルにしても、ノミにしても、ダニにしても、吸血性の動物はじつに長い期間、飢えう 耐えるた  彼らかれ はほとんど休眠きゅうみんした状態で、じっと相手の出現を待っている。相手の存在をキャッチする嗅覚きゅうかく器官だけは眠らねむ ずにいて、千載一遇せんざいいちぐうの好機の到来とうらいを今か今かと探っている。
 強力なつばさをもった吸血コウモリは、おそらくその唯一ゆいいつの例外であろう、彼らかれ は毎晩、かくれがの洞窟どうくつを出て、獲物えものを探しにいく。けれど獲物えもののガードも固い。運の悪いやつは、ついに一滴いってきの血も吸えずに帰ってくる。すると血にありついた仲間がこいつに血を吐きは もどして分けてくれる。
 これはヴァンパイアの助け合いとして有名な話だ。けれど、この助け合いは美しい道徳的行為こういなのではない。血を分けてもらった個体は、相手をちゃんと覚えていて、翌日そいつが空腹のまま帰ってきたら、優先的にそいつに血を分けてやるのだ。そこには互恵ごけいの原則が成り立っている。日本での昔からの表現によれば、「情けは人のためならず」なのである。

(日高敏隆としたか「動物の言い分、人間の言い分」)
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 テレビを見ているとき、急に私が怒りおこ だし、登場人物に反論し始めるので家人がびっくりすることが度々ある。大体それは、科学者が「専門家」として、いかにもすべてを知っているかのように話すときであり、自らの判断ミスを素直に認めないまま権威けんいを保とうという態度にあきれはてた場合である。「そんな姿勢だから、科学者がますます信用されなくなるんだ」と私はつい怒っおこ てしまうのだ。
 と書き出せば、地震じしんの予知やエイズ問題に登場する科学者のことだとお気付きと思う。私が強く言いたいのは「科学者は、少なくとも真実に対しては徹底てっていして忠実であるべきだ」ということである。未知のやみを探るのが科学者の仕事なのだから、間違いまちが を犯すのが科学者であり、知識の限界を知っているのも科学者なのである。だからこそ、真実が明らかになったとき、間違いまちが を率直に訂正ていせいし、どこに限界があったかを誠実に語らねばならないと思うのだ。それが「真実に忠実な科学者」の姿であり、科学者は間違うまちが ものだという当然の事実を、私たちも知るようになるからだ。それが「専門家」として、科学者が何らかの問題に関係したときの取るべき態度だと思っている。
 しかし、立場や権威けんい邪魔じゃまをするのだろうか、それとも責任を問われるのが怖いこわ のだろうか、なかなかそのような「専門家」にはお目にかからない。「もんじゅ」の事故しかり、エイズ問題しかり。「その段階ではわからなかった」にしても(確かにそうだったのかは調べなければならないが)、ある種の判断をしたのは事実だから、真実がわかった段階で素早く誤りを認めるのが真実に忠実な科学者なのである。さらに、「答申はしたが、実行は行政の責任だ」という逃げ口上に こうじょうで責任を回避かいひするのは、ほとんど人間として失格だと思う。答申がなければ政府は実行できないのだから、そのような答申をした道義責任からは決して逃れるのが  ことができないのだ。専門家として政府の委員になるということは、その責任を負う覚悟かくごをしているということなのだから。
 いろいろな問題で、多くの科学者が専門家として安全を「保証」したり、無害を「証明」する役を演じている。時には、妙ちきりんみょう    な説で現場を混乱させたり、例外や小さな欠点を針小棒
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大に言いたてて誠実に対応しようとする人の信用を落とさせるようなピエロ役を果たすこともある。数々の公害問題で、科学者は平気でそんな役回りを演じ、政府や会社の隠れ蓑かく みのとなってきたことは否定できない。
 それにしても、なぜ人にはピエロだと見抜けみぬ ないのだろう。おそらく、「専門家は間違わまちが ない」という幻想げんそうを、知らぬ間に刷り込ます こ れているからではないだろうか。お上が偉くえら 、お上が相談する専門家の科学者の先生はもっと偉いえら 、という体質が抜きぬ 難く染み着いているのかもしれない。それに対応して少なからぬ科学者は自らを権威けんいづけることが習い性となり、間違いまちが や限界を語る義務を放棄ほうきしてしまった。「真実に」ではなく「権威けんいに」忠実な科学者というわけである。
 そういえば、日本にはやたらに専門家が多い。むろん、命にかかわらない専門家はいくらいても構わないが、「権威けんいだけがある」科学者が専門家として後ろに控えひか ていると極めて危険である。いずれにしろ、そんな専門家の言うことなんか、まゆつばをつけて聞く習慣を身に付けた方が良さそうだ。
 先日、地震じしん学者の金森博雄ひろお教授と対談したとき、印象に残った言葉を聞いた。かれはカリフォルニア州の地震じしんが発生したとき即座そくざ震源しんげんや規模を推定し、鉄道やガス会社に地震じしん情報を知らせるシステムの責任者となっている。もしかれの情報が間違っまちが ていた場合、会社に損害を与えあた 訴訟そしょうになるかもしれませんねと聞いたら、かれは「刑務所けいむしょへ行くことは覚悟かくごしています」と答えた。真の専門家とは、このような人のことだとつくづく思ったものだった。

(池内りょう「科学は今どうなってるの」)
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 たたら製鉄とは、粘土ねんどでつくったの中に木炭と砂鉄を入れ、三日三晩ふいごで風を送って鉄をつくる製法で、「玉鋼」と呼ばれる、日本刀をつくる材料になる上質の鉄ができます。何百年も続いてきた伝統的な製法ですが、私が実際に木原さんにお会いして聞いた言葉は実に科学的なものでした。
 例えば、の中からブチブチ聞こえる音がするので、それは何かと聞くと「鉄のしずくが落ちてくる音だ」と言う。見なくてもそんなことがわかるのかと聞いたら、「穴をあけてのぞいたよ」。温度は一四〇〇度ぐらいと言うから、そんな低くてよいのかと問うと、「自分で測定して調べたから間違いまちが ない」。炭素の含有がんゆう量は一・二パーセントぐらいと思えばいいと言うから、どうしてわかるのかと聞くと、「全部分析ぶんせきした」と答えが返ってくる。つまり何を言いたいかというと、かれはたたら製鉄という伝統的な産業に従事しながら、昔からのものを伝承としてそのまま墨守ぼくしゅするのではなく、自分の目や頭や手を使ってすべてを確かめたうえで取り組んでいるのです。
 実は、かれは四二さいになるまでは研究所や工場で、良質の鋼とずくをつくるための研究を行うとともに、実際に製造に携わったずさ  ていました。そして、日本美術刀剣とうけん保存協会が一九七七年にたたら製鉄を復活する際に、当時の安部由蔵村下あべよしぞうむらげ村下むらげは職名)のもとで、養成員としてたたら製鉄の仕事を始めました。
 ところが、その村下むらげは「これをこうしなさい、あれをああしなさい」という指示はまったくしませんでした。自分で考えて自分でやれというわけです。何か失敗をすると、「オレならこうする」と言って、そのときになって初めて教える。木原さんはそうした過程で何度も失敗を繰り返しく かえ 、「なぜそうするのか」を自ら徹底的てっていてきに調べることで納得しながら技を身につけていったのです。
 ものづくりのさまざまな現場には、「暗黙あんもく知」と呼ばれるものがあります。例えば機械設計に携わるたずさ  人なら、機械のバランスが悪いとき、「ここにこんな力が走っているからこんな動きをしてしまうので、その力の流れを考えていけばバランスが正しくなる」と読み取れる力を自らの経験から身につけています。これが「暗黙あんもく
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知」で、ものづくりを進めるうえで非常に重要な要素です。
 以前は、こうした暗黙あんもく知は、先輩せんぱい後輩こうはい一緒いっしょに働いているときに、自然と伝わっていきました。それも、言葉で伝わるのではなく、横で見ていて先輩せんぱいのもっている技を「盗むぬす 」という形で行われていました。最初は、わけもわからず見よう見まねで行ってうまくいかなくても、失敗を繰り返すく かえ うちにちゃんと理屈りくつを考えて、「どうしてこうするのか」を自分で考えるようになる。単に言葉で教えられただけでは、失敗はしなくても真似事の範疇はんちゅうから出ることはなく、真の理解を得たことにはなりません。技は「盗むぬす 」ものなのです。たたら製鉄で木原さんが行ったのが、まさしくこれでした。自分の目で鉄のしずくが落ちるのを見たり、鋼の成分を分析ぶんせきしたりするのも、真の科学的理解を得るために先輩せんぱいから技を盗みぬす 取って、木原さん自身が必要と感じて行ったものなのです。
 例えば、動いているものの仕組みを考えるとき、まず自分で観察し、どんな動きを実現したいかという課題設定をする。次に、観察した事実から要素を摘出てきしゅつし、その要素をどのように組み合わせて全体図をつくればいいかを考える。それにしたがってつくったものを実際に動かしてみる。その動きが、最初に観察したものの動きと一致いっちしていれば、初めてその仕組みが「わかった」と言えるのです。そして、もし違っちが ていれば、また観察して全体図をつくりなおしていく――。これはまさしく「科学」そのものです。「伝統」と「科学」というと水と油、「伝統」とは昔からやってきたものをただ黙っだま 受け継ぐう つ ことと感じている方も多いでしょう。しかし、以上のことから見てもわかるように、真の伝統とは科学的なものなのです。

畑村洋太郎「だから失敗は起こる」による)
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