a 長文 7.1週 mi2
 研究者をめざす多くの人は、「何を研究するか」(what)が一番大切だと思うかもしれないが、その前に「どのように研究するか」(how)という問題意識の方がより重要だと私は考える。
 科学的な発想や思考、問題を見つけるセンスから始まって、理論的な手法や実験的な手技に見られる基本的な勘所かんどころは、すべての分野に共通している。その意味で、「どのように研究するか」という考え方や方法論をしっかり身につけておけば、どんな分野の研究でもできることになる。
 逆に、「何を研究するか」のみを重視すると、ある分野の知識を蓄えたくわ たあとで研究分野を変えた時に、一からやり直しになるかのような気がしてしまいがちである。その結果、同じ分野に安住することになり、新しい発想や異分野からの知見を取り入れることに、二の足を踏むふ ことになりかねない。だから、まず「どのように研究するか」を十分に体得した上で、「何を研究するか」を考えた方が良い。
 大学や大学院で始めた研究が、将来のライフワークとなる研究分野と一致いっちしたとしたら、それはとても幸運なことだが、そうでなくともがっかりすることはない。その過程で、「どのように研究するか」をまなぶことができたとしたら、それは研究者の卵として最大の財産になるに違いちが ない。
 「どのように研究するか」は、言い換えれい か  模倣もほうの段階である。そして、「何を研究するか」は、創造の段階に対応する。すでに述べたように、この順番が大切だ。「一に模倣もほう、二に創造」である。
 幅広くはばひろ 科学の知識を吸収し、研究の仕方や考え方を確実に模倣もほうした上で、専門的な分野で創造的な研究に進むことが望ましい。ただし、模倣もほうするにしても、受身になって情報に触れるふ  だけでは身につかない。自分で吸収しやすいようにかみ砕くくだ 必要がある。そのためには、やはり自分なりに考えなくてはならない。
 大学で講義の内容を一方的に説明するのでは学生を受身にさせているだけなので、私はできるだけ学生に質問を投げかけて、講義中に考えてもらうようにしている。ところが、学生に質問すると、オウム返しに同じ質問が返ってくることがしばしばある。
 たとえば、「フェヒナーの法則といって、感覚として感じる大きさは刺激しげきの強さの対数(注・累乗るいじょうの逆算法のひとつ。例えば一〇
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の二乗=一〇〇なら二)に比例することが知られていますが、これはどんなことに役立っていますか?」と質問すると、「それって、フェヒナーの法則がどんなことに役立つかってことですか?」と逆に切り返される。ほとんど反射的に質問の主導権を奪っうば ておいて、それでいて考えようとしているようには見えないのがとても不思議である。質問を確認して質問者にボールを投げ返したら、あとはただ相手の出方を待つだけだ。実際、「そう質問したのですよ」と言うと、判で押しお たように黙りこくっだま    てしまう。答えを述べる時でも、「○○じゃないんですか?」と質問調で返ってくることがあまりに多い。ずいぶんと不作法なやりとりに聞こえるだろうが、これは今時の風潮である。
 いつも受身で待っているだけの模倣もほうでは、その内容を良く吸収できない。オウムが内容をわからずに同じフレーズ(句)をくり返すようなものである。反射的なオウム返しはやめて、知恵ちえをはたらかせるべきだ。
 「光の強さや音の大きさに感覚の大きさが比例するのでは、すぐに飽和ほうわしてしまって環境かんきょうにある広い範囲はんい刺激しげきに対して対応できません。対数に比例することで、動物が環境かんきょうに適応するのに役立っていると考えます」というように、自分の考えとしてはっきり述べるようにしたい。そうすれば、新しい知識が確実に自分のものになる。

酒井邦嘉『科学者という仕事』による)
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a 長文 7.2週 mi2
 人間が他の動物と異なるところは、みずから築いた日常生活が、ときおり、なんともやりきれなくなり、無刺激しげき無抵抗むていこう耐えた られなくなる、という点にある。それが、あるときは「不安」を呼びさまし、あるときは「反省」をもたらし、また、あるときは「おどろき」に染められる。こんなことでいいのだろうか、何の目的で自分は生きているのか、どうしてこのような毎日に安住しているのだろう、という目覚めである。
 そして、そこから、その人の哲学てつがくが始まる。哲学てつがくとは、あたりまえのことが、あたりまえでなくなる瞬間しゅんかんに誕生するのである。
 などと言えば、「とんでもない」と反論する人がいるだろう。われわれの日常生活は、けっして安穏あんのんとりでなどではない。生計をたてるために精いっぱい働かなければならず、職場での気苦労、家庭にあっても子供の教育、家族間の摩擦まさつ、健康上の不安、老後の設計、近親者の死、思いがけない事故……無刺激しげきどころか、こうしたストレスと戦うのが毎日の生活ではないか、と。
 たしかに、それが生活というものであろう。だが、それだからこそ、人間はそのような日常性に取り込まと こ れ、そこに浸りひた きって、それを「あたりまえ」として受け取ってしまうのだ。「雑事にとりまぎれて、つい御無沙汰ごぶさたいたしております」と、よく手紙に書くように。そして、「これが人生さ」と達観することになる。なぜなら、どんな苦しみも、たのしみも、おしなべて人生というパターンに取り込んと こ でしまうのが、ほかならぬ日常性だからである。苦しければ苦しいなりに。愉しけれたの   愉しいたの  なりに。
 だが、慣れきった生活は、しだいに生きているという実感を喪失そうしつさせてしまう。すべてが習慣化してしまえば、人間はただきまったレールの上を滑っすべ ていくだけである。そこには何の抵抗ていこうもないが、まさにその無抵抗むていこう倦怠けんたいをもたらし、倦怠けんたいはやがて名状しがたい不安へと、ぼくらを導いていく。そのすえにふと、あるときフランスの作家カミュの言葉を借りれば、日常性という「舞台ぶたい装置が崩壊ほうかい」する。かれはこう書いている。
 「とりたててこともない人生の来る日も来る日も、時間がぼく
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らをいつも同じようにささえている。だが、ぼくらのほうで時間をささえなければならぬときが、いつかかならずやってくる。」
 人びとは、ふだん何も深く考えることもなく、時の流れるままに日常生活を繰り返しく かえ ている。いうなら、時間がぼくらをささえ、ぼくらはすべてを時間にゆだねている。けれど、いつか、確実に死に向かっている自分の生を考える瞬間しゅんかん到来とうらいする。カミュは、それを「実存の目覚め」という。そして、ひとたび目覚めるや、ぼくらはこんどは自分で時間をささえねばならぬようになる、というのだ。哲学てつがくはここに始まる、と言ってもよい。

(森本哲郎てつろう『ぼくの哲学てつがく日記』による)
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a 長文 7.3週 mi2
「消費は美徳」という時代が戦後長く続いてきた。しかし、「すべては消耗しょうもう品」「そろそろ買い換えか か の時期」と喧伝けんでんする声は、現在では、もはやうつろに響くひび だけだ。
 高度経済成長のスピードにのって、便利、快適、新しい、あなただけの、といった甘いあま 言葉がささやかれてきたが、もはやこの速度に対応できないというのが私たちの正直な感想ではないだろうか。
 私たちは便利で快適なたくさんのものに囲まれている。私たちはこれらの恩恵おんけいなしには生活できないことを知っている。なぜなら生活が便利になったおかげで、自由で創造的な時間をたっぷり手に入れることができたから。では、その時間を有効に使っているかといえば、そのほとんどを、私たちは生活をさらにいっそう便利で快適にする新しいものをつくるために、あるいは求めるために費やしているのだ。
 ますます便利なものが生み出される現代では昨日まで便利だったものが、今日すでに不便になっているといった状況じょうきょうが起きている。しかし、便利を追い求めなければ不便が生まれることはない。電話がなかった時代の人が電話ができて使えるようになれば大変便利だと思うだろうが、そのとき携帯けいたい電話がないからといって不便を感じることはないだろう。あってあたりまえの便利にあきたりなくなると人は不便を感じるわけで、便利がひとつ増えれば、さらにいっそうの便利さを追い求めるようになる。
 ところで、日本人は古来旅好きといわれる。その証拠しょうこにすばらしい紀行文を私たちは古典文学の中に数多く見つけることができる。現在の私たちは彼らかれ に比べれば想像もできないほど便利で快適な旅を約束されている。しかし、その実態はといえば、快適で便利な乗物に乗りながら、かえって旅の豊かな実感は消え失せてしまったというのが本当のところではないだろうか。確かに移動時間は短縮された。しかしそのぶん余裕よゆうが生まれたかといえば、私たちは以前にもまして時間に追われた忙しいいそが  旅を強いられている。もはや自分の足でじっくり歩いていくことも、ゆったりと車窓の景色を眺めるなが  ことさえなかなかしようとしない。こういうところから古典を超えるこ  紀行文が生まれるだろうか。
 人間の生活を便利に快適にするために生まれたものが、必ずしも
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自由で創造的なものを生み出すことになってはいない、これはいい例だ。
 科学技術の発達は、生活ばかりでなく、私たちの視野を大幅おおはばに拡大した。極大の世界から極小の世界まで、私たちに見えないものは何もないかのようだ。
 しかし、科学の目がよく見えるようになったことで、逆に私たちは肝心かんじんなものが見えなくなってはいないだろうか。科学者が生命体をバラバラに分解していくとき、かえって生命の本質を見失うということが起きていないだろうか。
 人はだれしも健康でありたいと願うものだ。人間の身体が遺伝子レベルで明らかになるにつれ、たいがいのことは血液検査でわかるようになってきたが、目に見える検査値が正常値の範囲はんい内ならその人は果たして健康といいきれるだろうか。人の心のケアはどうだろう。
 逆に目に見えないことで、かえってものごとの本質が見えてくるということがある。人工衛星や天体望遠鏡が発明されていなかったころ、宇宙に関する知識は今よりずっと乏しかっとぼ   た。それなのに小さな庭の設えに宇宙の深淵しんえんを見ることができたのはどうしてだろうか。
 もとより、人は視覚だけに頼ったよ てものを見ているわけではない。住み慣れた街であっても、歩き方しだいで旅にもできるのは、人が視覚だけではなく想像力を使って自らの視点を拡大したり縮小したりできるからである。
 そろそろ私たちは、すっかり萎えな てしまった想像力をもう一度鍛えきた なおす必要がありそうだ。目に見える便利さや快適さのかげ隠れかく て見えなくなってしまって、心の目でしか見ることのできない真に価値あるものに光をあててみようと思う。

(『目で見るものと心で見るもの』による)
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a 長文 7.4週 mi2
 日本語にはとってもいい言葉があります。そのとってもいい言葉の一つだと思うのが、「器量」という言葉です。「器量好し」というふうに言う。その「器量」の「器」は容器のことです。「量」はおおきさです。つまり器と、その器に容れられるおおきさです。「器量好し」というのは、ですから姿を言うのではありません。器ですから、人間というものの器、すなわち心という、心の器のおおきさを表すものです。
 日本語のなかに生まれ育ってきた人たちは、人を見定めるのに器量ということをもって、目盛りにしてきました。しかしもうすでに、そうではなくなっています。器量でないもので人を計ろうとしていて、人が狭量きょうりょうになってきています。器量という物差しがあまり使われなくなっているとすれば、世の中はおもしろくなくなってきます。
 器量は人の心のおおきさを表します。「器量好し」というのは、心のおおきい人のことです。そういった心のおおきさを、あるいは心の容積というのをおおきくしてゆけるような言葉を、どれだけ自分のなかにたくわえているだろうかということが、これからの時代の物差しになってゆかないと、わたしたちの時代の言葉は、どんどんと乏しくとぼ  なっていってしまうでしょう。言葉に器量をとりもどすということが、これからはもっとずっと大切になってくる。わたしはそう考えています。
 二一世紀という時代の変わり目にあるということは、すなわち二〇世紀という一つの世紀がつくりあげた、みなおなじという文化もまたその変わり目にあるということです。わたしたちが手にしてきたのは、みなおなじである世のあり方でした。けれども、これからただされるのは、みなおなじという等質な社会のあり方のなかから、自分のものでしかない価値、自分という独自性を見つけられるかは、どんな言葉をどのように使って、自分で自分を自分にしてゆくことができるか、あるいは自分というものがその言葉によって、どのように表されてゆくだろうかということに、深く懸かっか  ているでしょう。
 見つめるものは、何であってもかまわない。ただ何を見つめようと、まずそこにある言葉に心をむける。そこから言葉のありように対する感受性を研いでゆくようにすることを怠けなま なければ、目の前にある状況じょうきょうというのは、きっとまったく違っちが て見えてきます。そうした経験の重なりから、言葉との付きあい方、係わりあいを通して、人間の器量というのはゆっくりとかたちづくられてゆくの
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だろうと思うのです。
 言葉は意味がすべてではなく、怒っおこ たときは怒っおこ たように話す。悲しいときは悲しいしかたで話す。そのとき言葉が伝えるのは、言葉が表す意味でなく、言外の意味です。意味というのは言葉によって指し示される、心の方向のことです。言葉というのは、自分の使う言葉がどんな自分を表しているか、ということです。
 たとえ、みながみなおなじマフラーをもっていても、自分が自分であることを示すのは、自分はそのマフラーをどう結ぶかです。重要なのは、どういうマフラーをもっているかではありません。そのマフラーをどう結ぶかです。
 言葉もそうです。みながみなおなじにもつ言葉をかけがえのない自分の言葉にできるものは、一つだけ。自分は自分の言葉というものをどう結んでゆくかという言葉にむきあう態度、一つだけです。

(長田 ひろし『読書からはじまる』より)
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a 長文 8.1週 mi2
 現代の社会に生きることはその前の時代に比べて容易なのであろうか、あるいは難しいのであろうか。その答えはイエスでもあり、ノーでもあると思われる。
 つまり、ある部分では確かに楽になっている。例えば私たちは機械文明の中に生きており、ボタン一つであらゆることができる。世界の出来事すら、ボタン一つでテレビを通じて知ることができる。物が欲しいとき、真夜中でも自動販売はんばい機にお金を入れて手に入れることができる。かつて夜は文字どおり眠るねむ ための夜であったが、現代の夜は昼とあまり差がなく祝祭的ですらある。また、インスタント食品と電気器具によって、私たちは手を汚さよご ずに食べ物を口にすることができる。つまり、今ほど便利な時代はないのである。
 そしてまた、現代ほど第三次産業の発展した時代はない。
第三次産業の中でもサービス業の急速な展開は、ただ座っているだけで、あらゆるものが私たちの手に入るという、サービス過剰かじょうな社会を作った。したがって、この面では極めて暮らしやすい時代である。私たちは生産主体から消費主体に移りつつある。現代青年は正真正銘しょうしんしょうめいの消費人間になっている。作るより消費する方がはるかに得意なのである。
 では、このような暮らしやすいサービスの時代は、はたして良い時代なのであろうか。苦労もしなくて、すべてが手に入る社会は、はたして良い社会なのであろうか。文明というものは多かれ少なかれプラスの裏に必ずマイナスが付き物であるが、現代の消費社会のプラス面が便利さであるとするならば、マイナス面は心が短絡たんらく的、衝動しょうどう的な人間を多く生み出す可能性であるといえよう。現代の青年は、生まれた時から豊富なモノとテレビなどの便利な電気製品に囲まれて育った。したがって、彼らかれ の望みはまたたく間にかなえられたのである。しかし、彼らかれ は、小さい時からそれを喜ぶわけでもなく、当然のものとして生きていた。彼らかれ 、消費主体の青年たちはかつての生産主体の青年たちに比し、待ち、工夫し、努力し、作り、その末に何かを手に入れるということが苦手である。
 人間がよかれとして作り上げている社会が逆に未熟で衝動しょうどう的で、待てなくても暮らせるような人間を作り出す。言い換えれい か  ば、消費社会は消費人間を作り出し、消費人間はまた消費社会を支え
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る。社会と人間の性格には、このような相関関係がある。したがって、このような社会を暮らしやすいとするか、暮らしにくいとするかと問われれば、確かに表面的には暮らしやすい社会になっているが、成熟しなくてもよいという社会は、ある意味では危うい社会であり、最終的には暮らしにくい社会に逆戻りぎゃくもど する可能性をもつ、と答えざるを得ないだろう。

(「成熟できない若者たち」(町沢静夫)より)
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a 長文 8.2週 mi2
 考える、とは、まず具体的なものごとを抽象ちゅうしょう化することである。げんに考えることを考えようとするなら、「考える」作用を、「考え」という概念がいねん抽象ちゅうしょうして、対象化、客観化しなければならない。具体から抽象ちゅうしょうへというのが思考の第一条件なのだ。そこで、思考の道具ともいうべき言語は、具体的な記述的表現から、抽象ちゅうしょうによる概念がいねんの創出へ、という発展過程をとる。日本語(やまとことば)も、それを巧みたく にやってのけた。
 たとえば「動く」から「動き」へ、「教える」から「教え」へ、「眠るねむ 」から「眠りねむ 」へ、「喜ぶ」から「喜び」へ……というふうにである。こうした例は、挙げていけばきりがない。さらに、日本人は「さ」とか「み」という接尾せつび語で、さまざまな事象を(心の状態もふくめて)みごとに抽象ちゅうしょう化していった。「美しい」という形容詞を「美しさ」という名詞=一般いっぱん概念がいねんに。「さびしい」を「さびしさ」、「速い」を「速さ」、「寒い」を「寒さ」、「弱い」を「弱さ」というぐあいに。
 また、「み」を加えることで、性状を一般いっぱん化することにも意を用いた。「恨むうら 」を「恨みうら 」、「重い」を「重み」、「悩むなや 」を「悩みなや 」、「取り組む」から「取り組み」というふうに。
 こうした造語は、じつに見事な第一歩であった。なぜなら、さまざまな現象を、そのもの自体として考えるためには、それを概念がいねん、あるいは観念として意識のなかで客観化し、定着させねばならず、このようにして出来上がっていく概念がいねんを、さまざまに操作することにより、初めて思考は成立するからである。別言すれば、人間は、言葉をつくりだす過程で、考えを深化させていくのだ。だから「思う」から「思い」、あるいは「うれしい」から「うれしさ」、また「話す」から「話し」への第一歩こそ、思索しさくの出発点にほかならないのである。
 ところが、日本人がそのようにして思索しさくを展開していく途上とじょうで、すでに日本より高度に文化を発達させていた異国から、抽象ちゅうしょう的な概念がいねんや観念が、つぎつぎに流入してきた。それによって、日
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本語の造語力はいつの間にか失われ、日本人の抽象ちゅうしょう能力は、すっかり弱められてしまった。それらの外来語を、そっくり代用することで。
 日本人が抽象ちゅうしょう的な思索しさくを苦手とするのはそのゆえである。
 そんなわけで、日本では哲学てつがくが育たなかった。哲学てつがくとは人生の意味を求める学問である。生きるとは何か、自分とは何者か、という根源的な疑問に対する挑戦ちょうせんと言ってもいい。そのような大切な探求であるにもかかわらず、哲学てつがくは難解な「抽象ちゅうしょう論」とみなされ、敬遠されることになった。そして、そのかわりをつとめたのが文学だった。文学は具体的な現象を、暗示的に、象徴しょうちょう的に描き出すえが だ ものだからである。
 繰り返しく かえ ていうが、哲学てつがくが難解の代名詞のように思われるようになったのは、本来は具体的なものから到達とうたつすべきだった抽象ちゅうしょう語が、すべて「舶来はくらい品」であったこと、しかも、外国語(ヨーロッパ語)の翻訳ほんやくに外来語(漢語)を以てしたことに最大の原因がある、とぼくは思う。
 そこで、ぼくは、あらためて言葉の問題に頭をかかえる。哲学てつがくはだれにでもわかる人生の知恵ちえでなければならない。だが、考えようとすれば、ぼくらはいやおうなく抽象ちゅうしょう語を用いなければならぬ。その言葉が難解で意味がはっきりつかめなければ、「下手な考え、休むに似たり」、あるいは「わかったつもり」に終るのが関の山であろう。この意味で、新たな思索しさくを始めようとするなら、日本人は、もう一度、言葉そのものを反省する必要があるのではなかろうか。

(森本哲郎てつろう「ぼくの哲学てつがく日記」による。)
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a 長文 8.3週 mi2
 日ごろ見慣れている景色──たとえば、自分の家の玄関げんかんの造りや庭のたたずまい、など──が、ある時、ふと、まるで初めて見る時のように新しく、珍しくめずら  感じられるという経験をしたことはないでしょうか。そのような時、私たちは日常、眼でものを見ているつもりで、それでいて実は何も見ていなかったのだということを感じます。
 言葉についても、同じことです。日ごろ使い慣れている言葉ですから、私たちは自分の使う言葉については何でも分かっているつもりですが、ふとした機会に、実はそれが勝手な思い込みおも こ であったことに気づいて、はっとすることがあります。子どもたちは、そのような機会をしばしば与えあた てくれます。──「ネコはどうしてネコと言うの。」、「ハンバーグとハンドバッグは〔ものは〕似ていないのに、どうして名前が似ているの。」、「校歌を歌ってあげるね。『緑ノ風ガイーテイル……。』あれ、変だね。『緑の風』なんてないよね。」などといった具合です。そして、日本語を習っている外国人もそうです。──「山田サンと富士サン。なるほど日本人はフジヤマ好きなのね。」、「『お目にかかる』と言うけど変ね。眼にぶら下がられたら、重くて困るでしょう。」
 言葉を知っているといっても、私たちは毎日きまった道を通って通勤するのと同じように、日ごろは言葉の世界でもきまった道しか行き来していないのです。しかし、この世界には思いがけないところに別の道があったり、それがまた他の新しい道と交わったり、そうかと思うと、まわりまわって気がつくと結局もとの道に戻っもど てしまっていたりします。詩人はそのような新しい道を見出したり、自分で作り出したりもする特別の才能を備えた人たちです。しかし、そうでなくとも、私たちはだれでもその気になれば、言葉というものの持っている隠れかく た量り知れない意味する力に気づくことができるはずです。
 まったく同じ顔つきでまったく同じ性格の人がいないのと同じように、一つ一つの語も、その気になって観察してみると、それぞれ実に個性のあるものです。頑固がんこ」というのは聞いた感じも見た感じもいかにも頑固がんこそうですし、「前向き」のように何とでもこちらの言いなりになってくれそうな語もいます。「破廉恥はれんち」のよう
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なけしからぬものも「ハレンチ」と装いを改めるとずいぶん違っちが た印象を与えあた ます。「なまじっか」のように長らくつき合ってきたのに、いざ紹介しょうかいしてくれと言われると、どのように紹介しょうかいしてよいのか分からなくて困る語もあります。一人一人の子どもをそれぞれ個性ある人間として見るのと同じ眼で語も眺めなが てみたら、これほど愛着を感じさせるものはないのではないでしょうか。
 それぞれの語にそのような個性があるのは、その語が長い年月にわたって一つの文化の中で培わつちか れてきたからです。私たちは、長い間生活を共にしてきて、そのすべてを知りつくしている語は、他のどのような語でもっても置きかえることのできない、かけがえのない何かがあると感じます。そのような語には私たちは特別の愛着を感じますし、また、その語について他の人に語って聞かせることほど楽しいことはないはずです。たとえば、自分が身につけている方言がそうでしょう。だから、もしそのような言葉を粗末そまつ扱うあつか ような人がいたとしたら、その人は、外国語の単語を日本語の単語に一対一で置きかえれば事がすむと思い込んおも こ でしまった人たちと同じように、言葉を使っているつもりで、実は言葉に使われている人たちなのでしょう。

(池上嘉彦よしひこ『ことばの詩学』による。)
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a 長文 8.4週 mi2
 昭和三〇年代半ばからのとどまることをしらない経済拡大による自然破壊はかいのせいで、かなり怪しくあや  なってきたとはいえ、日本は、本来、自然が豊か、すなわち生物多様性も高いのです。この、急速に絶滅ぜつめつ危惧きぐ種も多くなっている日本の自然を保全、ないしは回復するにはどうすればいいのでしょうか。身近な問題として考えてみましょう。
 そのためには、自然に手を加えず、放っておくのが上策という考え方もあります。これは、まったくのまちがいというわけではありませんが、いろいろ問題があります。
 一時期、森林で「木を伐るき 」ことが自然保護の目の敵にされたことがありました。七〇年代に入って環境かんきょうが問題視されはじめた時代です。自然環境かんきょうを守るためには、自然に手を加えてはならない、木を伐るき ことそく、自然破壊はかいという短絡たんらく的な理解です。いまも都市生活者の間では、まだそうした考え方が色濃くいろこ 残っています。
 放っておけば、自然は守られ、生物多様性や生態系の健全性も保全されるのでしょうか。
 もちろん、自然や生態系にまったく圧力を加えず、そのままにできれば、自然保全としてそれに越しこ たことはないかもしれません。しかし、それは私たちの生存を否定することになります。人間が生活していくうえでは、居住や生産に利用するために森や湿地しっち壊しこわ たり、その生産物を生活資材に横取りしたりと、自然や生態系に圧力を加えることは避けさ られません。この日本列島から人間が消えたほうが、ほかの生物たちにとってはうれしいかもしれませんが、私たちヒトも生物の一員として生きていかなければなりません。私たちが日本列島で生きていく以上、自然や生態系に対しては、利用しながら保全していくというむずかしい対応が不可避ふかひなのです。
 人間も生きていくうえで利用しなければならないという前提で、元来豊かだった日本の自然を守るポイントはどこにあるでしょうか。先述のように、これまでの日本では都市生活者を中心に、自然や生態系の保護といえば「まったく手をつけることなく、放置すること」との認識が一般いっぱん的でした。しかしそれは、次のような背景から、とりわけ日本の自然についてはあてはまらないようです。
 その理由の一つは、日本の自然は、すでに人の手が入った自然が
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多いという点にあります。そのことによって逆に生物多様性が高まってきたという事情もあるのです。「人手の入った豊かな自然生態系」とは自己矛盾むじゅんのようですが、そんな自然もあるのです。(中略)
 それがいわゆる里山環境かんきょうです。何千年にもわたるそうした人為じんいを通じた環境かんきょう維持いじは、もう一つの生態系を形づくってきました。
 そこには、森林、あぜ地、ため池、水路、水田といった複合生態系がまさにモザイク状にセットされた「景観の多様性」が形成され、特有の豊かな生物種が棲んす でいます。たとえば、もっともわかりやすい例としては、先に触れふ たように、両生類については、イギリス七種に対して日本六一種というように圧倒的あっとうてきです。そのほか、トンボ、タガメなどの昆虫こんちゅう、メダカ、タニシ、シジミなどの魚貝類、トンビ、タカなどの猛禽もうきん類なども豊かです。トンボ類も約二〇〇種と、イギリスの三〇種あまりにくらべるとケタちがいです。
 また植物についても、「手を入れつづける」ことによって維持いじされてきた種も多くあります。一〇〜二〇年間隔かんかくで定期的に上木が伐採ばっさいされる薪炭しんたん環境かんきょうに適応した、「春の妖精ようせい(スプリング・エフェメラル)」と呼ばれるカタクリ、フクジュソウ、ニリンソウなどがそれにあたりますが、彼女かのじょたちには、下草が刈らか れ、落ち葉が掻かか れ、上層の落葉樹の葉が茂るしげ 前の春先に地表面によく陽光が射しこむ雑木林が必要なのです。あぜ地などが草刈りくさか されることに適応したキキョウやフジバカマなどもそうした部類ですが、その多くも、いまではほとんど人手が加えられなくなった結果、環境かんきょう変化のために絶滅ぜつめつ危惧きぐ種となっています。

(豊島 ・著『ビジネスマンのためのエコロジー基礎きそ講座森林入門』八坂書房しょぼう による)
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a 長文 9.1週 mi2
 私の好きな言葉に、「内心にひそむ確信を語れば、それは普遍ふへんに通ずる」という名言がある。アメリカの哲学てつがく者エマソンが『自己信頼しんらい』というエッセイで述べたもので、ものを考えたり書いたりする際、いつも私の脳裏にあるのはこのエマソンの言葉である。自分自身の考えを信じ、自分にとって真理であることはすべての人にとっても真理であると信じること、それが天才というものであって、人間にとってもっとも肝心かんじんなことは、自分自身を信じることである、とエマソンは言う。
 なにかすばらしいアイデアが浮かぶう  ことがある。一瞬いっしゅん、こんなすばらしいアイデアを思いついた自分は天才かもしれないと思ったりする。しかし同時に、いやいや、これは錯覚さっかくにすぎない、それに、こんなことなどだれでも考えつくことだと思いなおす。こうして、われわれは、すばらしい考えを捨て去るが、一方、天才と言われる人間は、自分のアイデアに自信を持ち、これを心のなかでじっくりと育て、すばらしいものを生み出す――エマソンはこんなふうに考える。
 たしかに、天才うんぬんは別にして、だれでも、時にはすばらしいアイデアを思いつくことはある。問題は、それが本当にすばらしいアイデアなのかどうか自分では容易にきめかねることである。私自身も、哲学てつがく者や芸術家の思想や生涯しょうがいを研究しながら、ときには、いままでだれも思いつかなかったのではないかと思えるようなすばらしい見方や分析ぶんせきを発見したと感じることがある。そこには、誇張こちょうして言えば、大発見にともなう感動と陶酔とうすいがある。そういう感動と陶酔とうすいこそ、ものを考え、それを文章に書きあらわすうえでもっとも強い動力となることを私は実感する。ただし、そういうとき、いつも頭をよぎるのは、私にはすばらしいと思えるこのアイデアが、はたして他の人びとにはわかってもらえるだろうか。あるいは、これはまるで見当はずれの考えなのではあるまいか……という懸念けねんである。自分の考えの正しさを確信することはなかなか容易なことではないのだ。天才に通ずる道だとエマソンが言う自己確信は、うぬぼれや誇大妄想こだいもうそうへと到るいた 危険もはらんでいる。
 たしかに、なにごとかを確信して、自分の考えと呼べるようなものを獲得かくとくするのはたいへんむずかしいことではある。しかし、私
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自身の体験から、本当に自分で確信したことは、必ず他の人びとにわかってもらえ、少なからざる感動あるいは共感を得られる、と保証することができる。ただし、その際、いちばん肝心かんじんなことは、自分ひとりで徹底的てっていてき考え抜くかんが ぬ ということである。本当にこれは私自身の考えだ、と言うことができれば、それはエマソンの言うように、普遍ふへんに通ずるはずである。自分自身も驚くおどろ ようなすばらしい自分の考えのみが、他の人びとをも驚かおどろ せ、納得させることができる。他の人がびっくりする前に、自分自身がびっくりするような自分の考えこそ、内心の確信に通ずるものである。

(「孤独こどくの研究」(木原武一)による。)
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 ことばは伝達の手段である。それはそのとおりであるが、他人に伝えたいことがないときに、使ってならないということではない。とくにいうことはないのだが、知ったもの同士の出会った確認として、あいさつをするのもことばの機能のひとつである。それによって人間と人間の間にできるかもしれない摩擦まさつが解消する。
 朝会って「おはよう」、別れるときの「さようなら」といった、いわゆるあいさつのほかにも、ことばはいろいろと社交的機能において使われている。
 別に用はないが、久しぶりに友人をたずねて雑談をするというのも拡張されたあいさつであるといってよい。たいていのむだ話や世間話は、それ自体に価値があるのではなくて、そういう一見無意味と思われることばをかわすことによって、人間関係を円滑えんかつにする効果があるのである。たんなるおしゃべりが思いがけない役に立っていることがすくなくない。
 どこの国の言語にも、実用的伝達の目的はもっていないが、人間関係を円滑えんかつにする社交語、あいさつ語というものがあることはこれがいかに重要なものであるかを物語っている。安定した社会においては、あいさつ語の機能がとくに問題になることもないかもしれないが、変化がはげしくて、個人と個人の関係が無機的なものになってくると、これが再認識されなくてはならないようになる。
 近年のわが国の社会では、新しい人間関係が確立しかけていて、なお、いまだ、安定には達していない。人と人との関係はどうしてもぎこちないものになり、摩擦まさつを生じやすい。
 新しい言語表現が浸透しんとうしつつあるけれども、まだ、それが美しいことばになるほどの洗練には至っていない。お互い たが に傷つけるつもりもなくて、ことばで他人の心を傷つけている。小さなトラブルがデパートでも喫茶店きっさてんでも街頭でも起こっている。
 こういう摩擦まさつやトラブルをなくするには、潤滑油じゅんかつゆとしての言語がもっとも有効である。あいさつ語、社交語は、要するに潤滑油じゅんかつゆである。新しい社会的緊張きんちょうに対処するには新しい社交語、あいさつ語が必要であろう。
 その意味において、「対話」などは潤滑油じゅんかつゆの役割を果たしうるようにできるかもしれない。共通のことばをもたずにおこなわれる
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対話はかえって断絶を深めるけれども、対立の摩擦まさつ緩和かんわする潤滑油じゅんかつゆとしての自覚があれば、論理的には無益であっても、心理的には効果のある対話が存在しうることになる。
 潤滑油じゅんかつゆとしてのことばの機能にもっと注目することは社会としてもきわめて重要なことのように思われる。

外山とやま滋比古しげひこ「新編 ことばの作法」より)
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 自然のなかにはいりこみ、自然の精密さとか、自然の大きないのちとかにふれ、自然と心を通い合わせたり、自然から学んだりしたとき、人間は自分がいかに微小びしょうであったかに気づく。微小びしょうであるのに努力もしないで不遜ふそんになっていたことに気づき、恥ずかしくは    なったり、つつましくなったりする。
 そればかりではない。自然の持っている、生まれいずるいのちにふれることによって、平凡へいぼんなくりかえしだけをしていた日常の生活からときはなたれ、力を与えあた られたり、充足じゅうそくしたゆたかな気持ちになったりするのである。仕事に疲れはてつか   たり、気持ちがあらあらしくなったり、自信をなくしてしまったりした人も、自然からいのちを与えあた られて、いのちをよみがえらせ、自信をとりもどしたり、暖かい気持ちになったりすることもできるのである。
  よくみればなづな花咲くさ 垣根かきねかな
 これは芭蕉ばしょうの俳句だが、いままで何もないと思った垣根かきねの下になずなの花が白々とつつましく咲いさ ているのを発見して驚いおどろ ている。ほんとうによく見れば、どこにでも真実なものはあり、美しいものはある。こういう発見をし、驚きおどろ をつぎつぎとしていくことによって、人間は、たえず自分をあたらしくし、新鮮しんせんにしていくことができるのである。
 そうして、そういう人間は人間をみる場合も、形式的にみたり、常識的にみたり、一般いっぱん的にみたりしなくなる。いままで何もないと思った人のなかに美しいものをみたり、暖かいものをみつけ出したりするようになる。そしてそういうところから、ほかの人間をたいせつにしたり、ほかの人間と、しみじみと心を通い合わせたりすることもできるようになっていく。そういうことからまた、自分自身をゆたかに成長させることができるようになっていく。
 だから自然のなかにはいりこみ、自然と心を通い合わせ、自然から学ぶということは、人間性を回復するということでもある。

斎藤さいとう喜博『君の可能性』による)
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 本というのは最も古い情報伝達システムではあるけれども、それだけに限界もある。読み手が、印刷された黒点を活字化された言葉として受けとる、言いかえるとその内包するものを頭の中に生きた記号、あるいは映像として再生させる能力がなければ、それは何一つ訴えるうった  力がないということである。映画やテレビならば、こちらが何をしないでも映像を与えあた てくれるし、音楽は音を聞かせてくれる。つまり人が完全な受動的状態にいても働きかけてくるが、書物だけはそうはいかない。こちらが能動的状態になって能力を働かせないと、向うからは何も訴えうった てこない。そこが映画やテレビや音楽と違うちが ところで、読書という行為こういは人間の能動的能力を要求する、つまり高等なメディアなのだ。
 と、小難しい理窟りくつはそれくらいにして、とにかく自分自身の過去における本との付き合いを思い起こしても、とにかくたのしいとか得をするとかがなければ本を読まなかったのはたしかだ。そしてたのしい読書というときぼくがまず思いつくのは漱石そうせきの『坊っちゃんぼ    』である。
 ぼくがこの本を最初に読んだのが何歳のとしだったか覚えていないけれども、たぶんそれは昔の小学校の高等科(小学六年を終了しゅうりょう後入って二年間ソロバンや何かを学ぶコース)に入ったころだろうと思う。すなわち十三か十四のとしだ。そのころぼくはもう、山中峯太郎みねたろうの『敵中横断三百里』だの、当時の少年たちの血を湧かわ せた『亜細亜あじああけぼの』『大東の鉄人』だの、南洋一郎よういちろうの『吼えるほ  密林』だのといった少年向け冒険ぼうけん小説にそろそろきてきて、もう少し大人っぽいものが欲しくなりだしていた。そしてその一番初めの試みとして読んだのが岩波文庫の『坊っちゃんぼ    』だった。
 岩波文庫という、高校生や大学生が読む文庫を買うというそのこと自体が、どんなに少年の心をときめかせたことか。当時は文庫といえば岩波文庫で、これは高級な知的世界そのものであった。せかせかと、しかし一足跳びと にその世界に足を踏み入れるふ い  ことは、だから身のえるような興奮を与えるあた  それは出来事だった。
 初めて大人の読み物を読むという緊張きんちょうがあったに違いちが ない
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が、ルビ(振りふ 仮名)も振っふ てあるし、これは読んですぐわかった。しかも実に面白かった。ぼくは今でも漱石そうせきが好きだが、それはこの最初の出会いが幸福な彩りいろど につつまれていたせいではないかと思う。最初の印象は、人間どうしの付き合いでもそうだが、しばしば決定的な作用をする。『坊っちゃんぼ    』の面白さ、それは何よりもまずその語り口の面白さであった。率直で、気取りも飾りかざ っ気もなくて、自分の手のうらをすっかりさらけ出しながらテンポよく語る。それは、荘重そうちょうぶった、誇張こちょうと気取りの多い、大袈裟おおげさな語り方をする少年冒険ぼうけん小説しか知らなかった少年には、目の覚めるような新鮮しんせんな体験であった。(中略)
 それはまったく自分のまるで知らなかった語り口、明らかにまるでレベルの違うちが 高尚こうしょうで率直で正直な語り口であった。しかもこの率直で、ありのままに自己を見ることのできる主人公の性格のなんと魅力みりょく的なことだったろう。少年冒険ぼうけん小説の主人公はみな英雄えいゆうで、荘重そうちょうで、重々しく、めったに心のうちをのぞかせないが、この『坊っちゃんぼ    』は自分の弱み、欠点を正直にあかし、負けじ魂ま  だましいだけでつっぱっていて、結局はずる賢いかしこ 連中に負けて退散する。にもかかわらず、読後、勝ったのは真正直なこの坊っちゃんぼ    山嵐やまあらしとの方であるような感じを与えあた 、人間には外観の勝敗とは違うちが レベルの勝敗があることを知らせるのだ。そして清やが言う「坊っちゃんぼ    は正直なお方だ」という言葉の意味が、われわれにもストンと腹に落ちてくるのである。
 なるほど本当の小説とはこういうものか、とぼくは思った。小説はわれわれのものの見方を変える。違うちが 価値がこの世にはあることを教え、そういう世界に向って目を開く。こうして『坊っちゃんぼ    』は読んで愉快ゆかいなだけでなく、いわば精神の世界とでもいうべきものにぼくの目を開いてくれた最初の小説になったのだった。

(『生きることと読むことと「自己発見」の読書案内』中野孝次)
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