a 長文 4.1週 na2
 たとえば粗大そだいゴミのゴミ捨てす 場へ行くと、まだまだ使えるものがいっぱい捨てす てある。それは環境かんきょう汚染おせんするわけです。そんなことならばもうちょっと高くても品質ひんしつのいいものを買って、おじいさんから孫まで生活の思い出の残るものをずっと伝えていけば家具なども捨てす なくていい。そうすればゴミ捨てす 場もそれだけよけいな負担ふたん背負わせお ずにすむわけです。けれども、日本人は使っては捨てす 、使っては捨てす という生活に疑問ぎもんを持っていません。
 何年も寸法すんぽうひとつ狂わくる ずに、引き出しもとびらもピッタリとしている家具への愛着は、毎日の暮らしく  、人生、自分の世界をつくっていたものへの愛でもあり、そういう年月に耐えるた  ものをつくった人の腕前うでまえに対する尊敬そんけいでもあるわけです。
 たとえば何代も読みつがれる名作といわれる文学作品は、アブクのように消えるいわゆる「よみもの」よりも多くの人に長く愛され、尊敬そんけいされているでしょう。いつまでも本棚ほんだなに置いておきたいと思うでしょう。そこから得たものは、それぞれの人格じんかくの中に深くはいりこんで、読者の人間を豊かゆた にしたでしょう。すぐに忘れ去るわす さ 一過いっかせいのよみものとは、違うちが ものだと思います。それはモノに対しても同じであるはずなんです。
 では、ほんとうの豊かゆた さ、なんとなく豊かゆた な気持ちで毎日が送れる時とはどういうときかと考えてみますと、『パパラギ』という本をお読みになった方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、南のある島の酋長しゅうちょうが書いた本です。その中でこういうことを言っている。人間というのは頭だけで生きているのではない。足だけで生きているのでもないし、手だけで生きているわけでもない。心もあるし、身体もあるし、頭もある。頭も手も心で感じることも、目も耳も全部が同時に満足することが必要だ、ひとつに統一とういつされた満足感が必要だ。そういう生活が人間として幸せで豊かゆた な生活なんだと言っている。
 頭だけあるいは手だけを酷使こくしして、ほかのところを顧みかえり ないと、人間は必ず病気になり、健康な心と身体を失う、と言っています。
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つまり人間は、全体で生きていて、全体を働かせ、全体を楽しませ、全体がひとつとなって幸せになることが豊かゆた なのだと言っているのです。一部分だけが満足している状態じょうたいは、病気だと言っているのです。
 同じことは教育の中にもあります。教育は全人格じんかく発展はってん、人間としての成長を促すうなが ものですが、現在げんざい、日本の教育は偏差へんさの点をとる教育になっています。だから学校は楽しくない。人間の子として楽しくないのです。
 また、日本は労働時間が非常ひじょうに長いです。残業をすれば残業手当てももらえます。お金だけ、あるいは企業きぎょうの中で出世することだけを考えれば、頭と職業しょくぎょうに必要な手、目だけを働かせて「職業しょくぎょうバカ」になることもできる。それが日本ではたいへんいいことだと考えられている。あの人は会社のためにつまも子も忘れわす 、一身を捧げささ て、ただただ会社のために尽くしつ  てきた。企業きぎょうにとってはいい社員であるのですが、そういうのは豊かゆた ではないと『パパラギ』は言っている。
 つまり、会社人間は、ある専門せんもん的なことについてはベテランになっていくし、お金も儲けるもう  かもしれません。しかし、もしその人が学校を出てからまともな本を一さつも読んでいない。自分の仕事にかかわるものは読んでいるかもしれないが、人間の土台になる教養というものは、何も身につけていない。会社で働くだけで、それこそ図書館にも行かないし、山登りもしないし、音楽会にも行かないし、地域ちいき社会のために何かをするということもしない。ただ会社で働くだけ。だとしたら、まったく豊かゆた ではありません。それは人間としての生活ではないからです。

暉峻てるおか淑子いつこ『ほんとうの豊かゆた さとは』「岩波ブックレット」より、一部改変)
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a 長文 4.2週 na2
 あることがらや出来事をわたしたちが他の人に伝えたいと思った時、大きくわけてふたとおりの方法が考えられます。一つはそれを写真やビデオに写して見てもらうということです。もう一つの方法は、手紙を書いたり電話をしたりして、読んだり聞いたりしてもらうということ」です。かりに、前者を「映像えいぞうによる伝達」、後者を「言葉による伝達」と呼ぶよ ことにしましょう。
 さて「映像えいぞうによる伝達」と「言葉による伝達」を比較ひかくした場合、どちらが、ことがらや出来事を正しく伝えることができるかと質問しつもんされたら、みなさんはどう答えますか。
 最近は、テレビやビデオなどの目覚ましい発達にともなって、映像えいぞうの力をわたしたちもいやというほど見せつけられることがしばしばです。特に、衛星えいせい放送が可能かのうになってから、わたしたちは、世界で起きている出来事をいながらにして同時中継ちゅうけいで見ることができるようになりました。ごく最近の中国の天安門事件じけんの時も、そこに集まった群衆ぐんしゅう熱狂ねっきょう的な姿すがたや、その後の軍隊の出動の様子などは、まるでわたしたちがそこにいるかのような錯覚さっかく与えるあた  ほど生々しいものでした。そうした、生々しいリアルな映像えいぞう接するせっ  と、その迫力はくりょく圧倒あっとうされてしまい、「映像えいぞうによる伝達」の前では、「言葉による伝達」もかげがうすくなってしまうように思えます。そして、さきほどの質問しつもんにも、文句もんくなしに「映像えいぞうによる伝達」に軍配をあげることになりそうです。昔から「百聞は一見にしかず」ということわざもあり、「映像えいぞうによる伝達」の優位ゆういは、疑えうたが ないことなのかも知れません。
 しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。ほんとうに「言葉による伝達」は、おとっているのでしょうか。たとえば、みなさんのことを全く知らない人に、みなさんの家族の紹介しょうかいをしようという時、家族全員のそろった写真をとって送れば、一番てっとり早いし、なによりも分かりやすいように見えます「しかし、それで、ほんとうにみなさんの家族を相手の人によく理解りかいしてもらえるでしょうか。なるほど家族それぞれの顔や姿すがたなどは、言葉で説明する
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より分かりやすいでしょう。そして、家族全体の持っている雰囲気ふんいきのようなものも、ある程度  ていどはその写真によって伝わることでしょう。しかし、それ以上のことになるとどうでしょうか。その写真ではみんなニコニコ笑っていても、ひょっとしたら、兄と弟は口もきかないような関係にあるかも知れません。父は、実際じっさいには病気がちで、家族のみんなが心配しているような状態じょうたいにあるかも知れません。母は、心の中では、夫の病気や子供こどもたちのことをいつも気にして、疲れつか ぎみかも知れません。そうした、少し入り組んだことは、やはり一まいの写真では表現ひょうげんすることはできないでしょう。その写真をみた人は、「ああ、幸せそうな家族だな」というふうに理解りかいして、それで終わりということになりかねません。
 それに対して、言葉で書いた文章では、家族の顔や姿すがたを十分には伝えることはできないでしょうが、家族の中のかなり複雑ふくざつな問題でも、説明することができます。それによって、写真では伝わらない家族のほんとうの姿すがたを相手に伝え、理解りかいしてもらうことができるのです。
 映像えいぞう瞬間しゅんかん的に人をとらえ、その中に引きこみます。その魅力みりょくわたしたちはよく知っています。そして何よりも、映像えいぞうはリアルです。しかし、そこに落とし穴お  あながあることも事実なのです。つまり、わたしたちはしばしば、映像えいぞうを「現実げんじつそのもの」と思ってしまうというあやまちをおかしてしまうのです。
中略ちゅうりゃく
 「映像えいぞうによる伝達」と「言葉による伝達」では、いちがいにどちらがすぐれているとは言えないでしょう。しかし、「映像えいぞうの時代」などと言われる現代げんだい社会では、わたしたちは、ともすれば「映像えいぞうによる伝達」を過信かしんしがちです。「文章のウソ」以上に「映像えいぞうのウソ」は危険きけんなのです。わたしたちは、そういう「映像えいぞうによる伝達」の危険きけんせいをよくわきまえて、常につね 真実とは何かを考えるように心がけなければなりません。
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a 長文 4.3週 na2
 われわれが歩いたり、走ったりする運動を考えてみましょう。足を前後に往復おうふくさせて前進します。犬や馬もそうです。足は四本ですが、やはり往復おうふく運動です。鳥はどうでしょう。からすも羽を上下に動かして進みます。カエルが泳ぐのも往復おうふく運動ですし、魚も尾びれお  を左右に往復おうふくさせて推進すいしん力を生み出しています。神様がお造りつく になった生物は、みんな往復おうふく運動で前進します。
 それでは、人間が作った道具はどうでしょうか。ノコギリも手で使うノコギリは、前後に往復おうふくさせて板を切ります。しかし、これでは能率のうりつが悪いということで、回転ノコが考え出され、製材せいざい所などでは大変なスピードで木を切っています。
 ジェームス・ワットが発明し、産業革命かくめいのもとになった蒸気じょうき機関も、そこから取り出せた力は往復おうふく運動でしたが、蒸気じょうき機関車は、ピストンの往復おうふく運動を回転運動に変えて使っています。回転運動をフルに利用したものに自動車があります。
 回転運動がふえるのは、速いからです。自動車と動物の走るスピードを比べくら てください。いかに速い競走馬でも、大衆たいしゅう車のスピードにもかないません。このことは、自動車の方が馬よりはるかにすぐれているかのような印象をあたえます。人間の知恵ちえは、とうとう神様の知恵ちえを追いぬいたと考える人もいるかもしれません。
 たしかに、車輪の発見は技術ぎじゅつの発達史上における大きな発見で、四本足で走る馬より、回転する車の自動車のほうが楽だし、速くもあります。しかし、実際じっさいに走ってみると、楽に走れて速いのは平らで道のよいところだけで、山あり谷ありといったデコボコ道では、必ずしも楽ではありません。道のないところは車では進めません。人間や動物なら、川は泳いで渡りわた ますし、ガケもよじ登ることができます。やはり人間の知恵ちえは神様の知恵ちえにかなわないわけです。
 現代げんだい社会は、言ってみればどこも平らですが、それは人間が作ったもので、自然ではありません。平らなところがふえたので、世の中すべてが平らであると思いこむ人がふえてしまったようです。
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 舗装ほそう道路を車ですっ飛ばすように、世の中を突っ走れるつ ぱし  と思っていたところに、つまずきを生じたのが環境かんきょう破壊はかいであり、エネルギー危機ききだったといえます。
 自動車もスピードを出しすぎたので事故じこがふえました。そこで、高速道路でも事故じこの多いところは少しデコボコをつけることが一部で考えられています。人間の知恵ちえから再びふたた 神様の知恵ちえに帰ろうというのでしょうか。
 人間の知恵ちえにはおのずと限界げんかいがあることをわれわれは十分に理解りかいしなければなりません。人間の作ったものは、たいへん便利で能率のうりつ的ではあっても、場合によっては案外落としあながあるものなのです。そういう意味で、われわれはもう一度、神様からあたえられた自然を見直す必要がありそうです。
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a 長文 4.4週 na2
 電車や飛行機の中で、乗務じょうむ員に対して理由もなく横柄おうへいな人がいる。こっけいだ。乗せてもらわなくては困るこま くせに、何をいばっているのだろう。きゅう国鉄の内部には「乗せてやる」という言い回しがあったそうで、それもひどい勘違いかんちが だと思うけれど。
 「いや、お客は偉いえら 。買う時は、だれもが王様になる」という考え方もあるだろう。しかし、それだと無用のストレスが社会に広がりそうで、賛同さんどうしかねる。王様やお姫様 ひめさまの気分にしてあげることを目的とした一部のサービス業を例外として。
 子供こどものころ、駄菓子だがし屋でキャラメルを買う時や、食堂で親が精算せいさんをしている時、「買ってやったぞ」とお客様面をしていた。高度経済けいざい成長期に育ったので、小学生でもいっぱしの消費者として扱わあつか れた結果と言える。そんなわたし現在げんざいのように「転向」したのは、自分が社会に出て接客せっきゃく現場げんばにいたせいだろうが、それに先立つ経験けいけんもある。
 中学生になるかならずかという夏休み。両親の郷里きょうりである高松で過ごしす  源平げんぺい合戦で有名な屋島に遊びに行った。三つ年下の弟と二人だったように思う。平日のことで山上に人は少なかった。蝉しぐれせみ   の遊歩道を散策さんさくしたわたしは、ある光景に出くわす。
 休憩きゅうけい所の店先に帽子ぼうしをかぶったおじさんが立ち、中をのぞいていた。五十代ぐらいの人だったのではないか。連れはいなかった。うどんでも食べて店を出ようとしていたらしい。おじさんは財布さいふ片手かたてに、店のおくに向かって言った。「ごちそうさまぁ」
 意外な言葉だった。代金を払おはら うとしているのに店員の姿すがたが見当たらない場合、とりあえず「すみませーん」と呼びかけるよ    ものだと思っていた。いや、それしか思いつかなかった。なのに、このおじさんは無料でもてなされたかのように「ごちそうさま」と言う。一瞬いっしゅんだけ違和感いわかんを覚えた後、わたしの内に変化が起きた。
 自分のために料理を作ってくれたのだから、お客として代価だいか支払うしはら としても「ごちそうさま」と言うのが礼儀れいぎにかなっている。
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考えたこともなかったけれど、それはそうだと納得なっとくし、お客は偉いえら わけではない、と知ったのだ。
 後日、食堂だかレストランだかで食事をして店を出る時に、わたしは小声でぎこちなく「ごちそうさま」と言ってみた。すると、照れくさい気もしたが、それだけのことで一歩大人に近づいたように感じた。以来、店側に不始末がないかぎり「ごちそうさま」を言い添えそ ている。
 屋島で見た何でもないひとコマが、わたしを少しだけ変えた。あのおじさんには、今も感謝かんしゃしている。先方は、すれ違っ  ちが ただけの少年に何事かを教えたとはゆめゆめ思っていないだろうが、大人の言動が子供こどもにあたえる影響えいきょうは、かほど大きいのだ。平素へいそから心しておかなくてはならない。
 書店員をしていて、いろんな人と遭遇そうぐうした。ブックカバーをつけただけで「どうもありがとう」と言ってくれる人ばかりではない。ささいな行き違いい ちが 激昂げきこうし、アルバイトの大学生に「おれは客やぞ。社長に電話したろか!」と金切り声でさけぶ小学生をなだめたこともある。根性こんじょうの曲がったガキだな、と思いつつ、君はろくな大人と会ったことないんだね、とかわいそうになった。

有栖川ありすがわ「お客は偉くえら ない」『二〇〇七年七月二十九日 日経新聞にっけいしんぶん文化面コラム』)
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a 長文 5.1週 na2
 自分が好感をもっていない相手と話さなければならないことほど気の重いことはない。しかし、これは職場しょくばや学校、近所付き合いなど、あらゆる日常にちじょう生活の中でわたしたちがしばしば避けさ ては通れない現実げんじつといえる。その解決かいけつさくはただ一つ。それは我慢がまんすることである。
 嫌いきら だからといって、皮肉やイヤミを言えば、よけいに不愉快ふゆかいな思いをすることになるし、わざとらしくニコニコ親しげにふるまうのもかえって不自然である。不快ふかい感情かんじょうを表に出さないように注意し、ごく自然に対応たいおうするのがベストということになる。
 しかし、初対面でいやな感じの人と思っていても、付き合っているうちにだんだん相手を見直すことも時にはあろう。人間には案外隠さかく れた部分が多いものだ。一度や二度会った程度ていどでは、その人のすべてがわかったとは言いがたい。
 わたしがラジオの人生相談をしていて思ったのは、人間の観察がんはそれほど確かたし なものではないということだった。たとえば、「夫がこんな人間だったとは思いませんでした。」と言ってくる人は、観察がんが足りなかったということになる。いいと思った人がいやになる。だからそのぎゃくで、いやな人間がいやでなくなる可能かのうせいもあるということだ。
 映画えいが評論ひょうろん家の淀川よどがわ長治さんは、十六さいの時に見た映画えいがの「おれはなあ、嫌いきら やつに今まで会ったことがねェ。」というせりふに感動したという。それ以来、淀川よどがわさんは、「いまだかつて嫌いきら な人に会ったことがない。」という信条しんじょうをもつようになった。
 相手が失礼なことをしたり、非常ひじょうに冷たいとき、昔は怒っおこ たが、ある時期からはらが立たなくなった。それはその人が失礼なことを失礼だと思っていないことに気が付いたからだという。「人間はみんな根がよい人ばかりなのだから、いやだと思ってはいけないんです。自分が相手に愛情あいじょう抱けいだ ば、きっと向こうもそれを感じてくれるはずです。」と、淀川よどがわさんは言っている。
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 他にも、俳優はいゆう森繁もりしげ久弥ひさやさんは、人と付き合う時はその人の長所だけを見てそこだけ認めみと 合った付き合いをするという。どんな嫌いきら な相手にも必ず長所はある。欠点を見てそれをどうこう批判ひはんするのではなく、その長所の部分のみでかかわりあえばいいということである。
 人付き合いというものは、こちらの気持ち次第でかわっていくものなのである。

斎藤さいとう茂太しげた『心のうさの晴れる本』より)
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a 長文 5.2週 na2
 しばらくかげをひそめていた教養という言葉が、またもや人々の注意をひくようになった。かわいた海綿かいめんのように人々はできるだけたっぷりと教養を身に吸いこます   せようとあせっている。結構けっこうなことだと思うが、教養という言葉については従来じゅうらいから一つの誤解ごかいが広く行われているようにわたしには思われる。というのは、雑誌ざっしや書物、ないしは講演こうえんなどで、いわゆる教養講座こうざといわれているものを見ると、そのほとんどが、多種多様な知識ちしきの、しかもその断片だんぺん紹介しょうかいに終始しているように見えているからである。そうして世間でも、いろんなことを雑然とざつぜん 心得ていて、どんな話題にでも口を出せる人を、教養の高い人と簡単かんたんにきめてしまっている。
 しかし、教養と知識ちしきとは決して同じものではないのである。というよりは、知識ちしきはそのままでは決して教養にはならないのである。いくら絵かきの名前をたくさん知っていても、美に対する感覚がちっともみがかれていないような人は、美術びじゅつの教養のある人ということができない。作家や作品に広く通じていても、人間の感情かんじょう生活や人生のしょ問題に粗雑そざつな考察しかめぐらすことのできないような人間には、文学は少しも教養とはなっていないのである。
 もちろん教養には知識ちしきや学問が必要である。いかに耳の感覚の鋭敏えいびんな人でも、ベートーヴェンもショパンもきいたことのないような人を音楽の教養のある人ということはできない。つまり教養とは、その人の血となり肉となり、その人の人格じんかくを内部からしっかりと支えささ ているような知識ちしきを指すのであり、教養によってその人の天性てんせいの感覚や人格じんかくがますますみがかれ、深められ、高められて行かなければならないのである。知識ちしき人格じんかく没交渉ぼっこうしょう状態じょうたいにある場合には、真の教養は決して生まれることができない。無知無学の人を教養ある人間ということはできないが、博識はくしきの学者にも教養のない人間は少なくないのである。
 次に注意しておきたいことは、教養を身につけるということは、知的貴族きぞくになることでは決してないということである。例え
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ば、美術びじゅつ鑑賞眼かんしょうがんを養うことによって、普通ふつうの人々には感じえない深さにまで絵画や彫刻ちょうこくの美しさを感じえた場合、自分か一般いっぱんの人々よりは一段といちだん 高尚こうしょうな人間になったような誇りほこ をいだくことは有りがちのことであるとしても、そのような誇りほこ をいだくために、またそのような特権とっけん階級とならんがために、教養を深めようとするのであるとすれば、その人はついに真の教養を身につけることはできないであろう。なぜなら、くりかえして言うように、教養の目的は、あくまで自己じこの人間完成の上に置かれなければならないからである。

河盛好蔵かわもりよしぞう『愛・自由・幸福』より)
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a 長文 5.3週 na2
 表面的な生活の上では、人間というものは、案外に早く適応てきおうするものだ。二十年前のことなど、すっかり忘れわす て、今の生活にどっぷりつかることが可能かのうである。
 しかし、心の底のほうは、それほど早くは、変われないのではないだろうか。さらに、人間たちの心の共通の底、いわば人間たちの文化と力とか、情感じょうかんとかいったものは、それほど変われないのではないだろうか。
 これも、表面的には風俗ふうぞくはめまぐるしく変わる。流行のうつり変わりは早い。それにともなって、生活態度たいども変わる。表面的に見るかぎり、人間の価値かち観が、どんどん変わっているように見える。
 とくに若者わかものの場合、古いものを持たないだけに、その時代の表層ひょうそう感覚をものにすることは簡単かんたんである。いつでもおとなたちは若者わかものを特別の目で見ようとする。ぼくの若いわか 時代だってアプレ(戦後)と呼ばよ れたものだ。
 それでも、表層ひょうそう意識いしきではなくて、人間たちに共通の、深層しんそう無意識むいしきにとっては、時間の流れは意外におそいのではないだろうか。それが、文化といった形になるには、ゆっくりとした時間が必要なのではないか。それで、あまり急速な変化は、深層しんそう無意識むいしきによってうらぎられたりする。
 ぼくはなにも、いままでの秩序ちつじょ感覚を絶対ぜったい的なものと、考えるわけではない。それも、表層ひょうそうのもので、秩序ちつじょ感覚なんてのは、どんどん変わったところで、人間はそれに適応てきおうできるものだ。たとえば、都市化が進めば、たいていの人間は、とくに若者わかものは、都市的な感覚で暮らせるく   ようになるものだ。都市には都市なりの秩序ちつじょ感覚が生まれる。それでもぼくには、その深層しんそう無意識むいしきは、そんなに急には変わらないのではないか、と思えるのだ。
 たとえばぼくは、月に何回かは、東京と京都を日帰りで往復おうふくするような生活が表層ひょうそうでは自然なようになってしまった。しかし、
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なにかしら深層しんそうでは、そうした時間でそれだけの距離きょり往復おうふくすることへの抵抗ていこうがある。移動いどう可能かのうになった便利さへの抵抗ていこう、そんなものを感じてしまうのである。
 もっとすごい人だと、昨日はパリ、今日は東京、明日はニューヨーク、なんて人もあるかもしれない。そのうちに、それが珍しいめずら  ことでなくなるかもしれない。しかしそれは、何万年もの間、自分の目のとどく範囲はんいをテリトリー(なわばり)として生きてきた、このヒトという生物にとって、異様いようなことのような気がしないか。
 それほどでなくても、東京の友人と、電話で話すことは、いまではなんでもなくなった。これだって、二十年前だと、「長距離ちょうきょり電話」はかなり特殊とくしゅなものだったわけで、ずいぶん便利になった。しかしこれだけの距離きょりの人間がいつでも声をかわしうるということは、いくらか異様いようなことである。
 飛行機による遠距離えんきょり移動いどうとか、電話による遠距離えんきょりの交信とか、そうした文明の利益りえきを、べつになんの気なしに受けながら、ときにぼくには、心の底のヒトが、なにか抵抗ていこうしているような気がする。
 山であったところが、町に変わる。ぼくは山の緑が好きだが、そうしたことを別にしても、あれだけの山林が、これだけの時間に、市街に変化してよいのだろうか、いつもそんな気がする。
 戦後の日本にしても、農村から都市への人の流れが、あまり急速だったような気がする。ひとびとの生活はそれに適応てきおうしているが、文化がそれにおいつけないでいるのではないだろうか。戦後日本の物質ぶっしつ的変化のスピードに、精神せいしん的変化はおいついていないような気がぼくにはするのだ。
 たぶん、社会の急速な変化は、いろいろとチグハグなものをもたらすのだろう。そのチグハグがおもしろいとも言えるし、そうしたものが進歩へのブレーキの役を果たすとも考えられよう。そうしたものが見えてきたのも、いまの時代である。

(森つよしの文章より)
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a 長文 5.4週 na2
 樹木じゅもくは生命の危険きけんを感じると早く子孫を残さなければと多くの種子をつける。実際じっさいかきの実やどんぐりが豊作ほうさくになるようにと子どものころ木のみきを思いっきり蹴飛ばしけと  経験けいけんがある。
 戦後せっせと植えたスギも、林業が儲からもう  なくなって手入れがされなくなった。とくに間伐かんばつがされていないスギ林は、スギ同士の過酷かこく生存せいぞん競争でひょろひょろな木となり、ストレスが大きくなっている。こんな環境かんきょうによって、スギの木も生命の危険きけんを感じ、種子をたくさん残そうと雄花おばなをたくさん付け、花粉を大量に撒きま 散らしているということなのではないだろうか。
 九州の熊本くまもとから九州自動車道を南下すると、八代インターチェンジを過ぎす てから道路は山間に分け入っていく。多くのトンネルと急カーブが続き、全長約六キロメートルの肥後ひごトンネルを抜けるぬ  と、九州で有数の林業地である人吉盆地ひとよしぼんちに入る。道路の両側は急峻きゅうしゅんな山地が空を狭めせば 、森林が天に伸びの ている。しかし、近年、その風景に変化が現れあらわ ている。何気なく通る多くの人たちは気付くことはないのかもしれないが、職業しょくぎょうがらわたしにはどうしても気になってしまう。それは、至るいた ところでかなりの面積にわたり森林が伐採ばっさいされていることだ。戦後、せっせと先人たちが植林したスギの林がようやく伐採ばっさいできるまでになって、利用されるようになったという意味では好ましい現象げんしょうだが、問題なのは、伐採ばっさいされた箇所かしょに植林された形跡けいせきがないことだ。
 わたしたち、森林・林業にかかわるものからすれば、「ったら植える」が常識じょうしきである。しかし、今やこのような常識じょうしき常識じょうしきでなくなってきている。それどころか、これら植林放棄ほうき地の状況じょうきょうをみると、森林所有者が森林を土地ごと手放すケースが増えふ ている。これは、森林を買う木材生産業者が、木材価格かかくの下落に伴いともな 採算さいさんせい維持いじするためにより大きな面積の森林を買い入れようとする意
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向があり、これが森林所有者の森林を所有することへの負担ふたん感と相まって、土地ごとの売却ばいきゃく後押しあとお しているようだ。
 日本の文化は森と木の文化であるといわれる。
 森林に恵まれめぐ  た国土で、その資源しげん巧みたく に利用してきたというのは当たり前だが、とくに日本では、森林を形づくる樹木じゅもくの種類が豊富ほうふであることから、じゅ種の違いちが による木材の性質せいしつも様々であり、その違いちが を上手に使い分けてきた。住まいや身の回りの道具に至るいた まで、こんなものにはどの木を使うという知恵ちえは、すべての人がもっていた。お櫃 ひつにコウヤマキ、まな板にイチョウ、つまようじにはクロモジ、下駄げたやたんすはキリ、家の土台はクリなどだ。
 また、木材を無駄むだなく使うということにも意を用いてきた。まさに、日本人は木とともに生き、木によって生活を維持いじし、木の上手な使い方をあみ出してきた民族である。
 しかし、ここ数十年、木の文化は急速に失われつつある。安価あんか均質きんしつに大量生産できる石油化学製品せいひんなどの代替だいたい品がわたしたちの日常にちじょう氾濫はんらんするようになったからだ。木材にしても、外国からやってくるものが八わり以上を占めるし  ようになっている。このままでは、日本の木の文化は、文化財ぶんかざい美術びじゅつ品などの特殊とくしゅ伝統でんとう文化に残されるだけになるのかもしれない。
 こうなると、国内の木材はますます使われず、価格かかくも下落していくだろう。結果、国内の森林を守ってきた林業も立ち行かなくなる。そして、間伐かんばつなどの手入れもされず森林の放棄ほうき拡大かくだいしていくことになる。
 わたしたちにとってなくてはならない森林が、今、危機ききひんしている。

(矢部三雄みつお恵みめぐ の森 癒しいや の木』(講談社こうだんしゃ+α新書)より)
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 この国から一つの種が消えていくことは、たとえていえばわたしたち自身の未来へつながる糸が、一本切れてしまうことにほかなりません。裏返せうらがえ ば、種の多様せいを大切にすることこそが、豊かゆた で安全な人間の未来を約束しうるのです。さらに、どれだけ多くの生きものがいるかということは、森林の生産力の豊かゆた さを示すしめ 一つのものさしになります。森林の価値かちは、たんに木材などの経済けいざい価値かちだけでなく、そこに暮らすく  生きものの種類や数も、そのものさしとして含めふく て考えるべきです。これが、人間と自然の共存きょうぞん、共生をめざす新しい考え方です。
 人の思想・信条しんじょう価値かち観が画一化された時代が危険きけんであったようにそれは自然についても同様のことがいえます。たとえば、九州のスギノザイタマバエなどによるスギ枯れか のように、単一たんいつ樹種じゅしゅ構成こうせいされている人工林は一度病虫害が発生すると、いっきに広がり大きな被害ひがいをもたらします。とはいうものの、今や日本中の自然林が、スギ、ヒノキの単一経済けいざい林にとってかわろうという勢いいきお です。その土地の風土にあった自然林こそあらゆる危険きけんに対して、実はもっとも強いのだということを忘れわす てはなりません。
 ブナの森にかぎらず、北海道の亜寒帯あかんたい林から沖縄おきなわ亜熱帯あねったい林にいたるまで、多様な自然林を守り、健全な状態じょうたいで次の世代に手渡してわた ていきたいというのがわたしたちの願いです。そして、長い間こうした自然林が、風土に根ざした地方文化を育む一つの母胎ぼたいともなってきた歴史的事実も忘れわす てはらないでしょう。
 最近、日本中で、土地土地の固有の自然林が消え、その土地にえんもゆかりもない「緑」が造り出さつく だ れ、それが当り前の光景となっています。そうしたことをなんの抵抗ていこうもなく受け入れてしまう自然観の欠如けつじょをおそろしいと思います。土地の固有の自然を大切にするということはそれを舞台ぶたいにした土地の文化を守ることでもあります。裏返せうらがえ ば、この国の多様な自然こそが、多様な地方文化を支えささ 
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ているのです。その意味で、緑の量を増やすふ  こともさることながら、むしろ、その土地の風土や歴史的必然せいに根ざした緑のしつ、自然のしつを問うことのできるを養いたいものです。
 その上で、たとえば人知のなせるわざともいえる京都北山の人工スギ林もはるか縄文じょうもんの昔から受けつがれてきたブナなどの自然林も、ともにすばらしいと言わしめるような、そんなしなやかな感性かんせいとバランス感覚を、しっかりと次の世代に伝えておきたいと願わずにはいられません。
 ブナの森は遠い祖先そせんからの贈りおく ものであり、そして子孫からの借りものでもあります。わたしたちは二十一世紀へ手渡すてわた べき遺産いさんの一つとして、この森の将来しょうらいに歴史的責務せきむを負っていることを忘れわす てはならないと思います。この国が、母なる森――ブナ原生林を失ったとき、それはわたしたちが孤児こじになるときです。なぜならば人間もまた、自然の子なのですから。
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 世の中がすべてインスタント化しているのです。インスタント食品はちょうど昭和三〇年代中ごろから出はじめました。そしてそれ以来ずっとわたしたちの暮らしく  を取り囲んでいます。かつては自分で努力をして手をつくして時間をかけて、待っているあいだ心ときめかせて楽しんで、そして結果を得るというので生活が完結しました。ところが、お金を出して始まり、ものを得て終わりといったら、そのあいだは瞬間しゅんかんになる。待たないわけです。高度経済けいざい成長期に入って、待つことが消えていってしまいました。カップラーメンの宣伝せんでんに「三分間待つのだぞ」というのがありましたが、みなさんはご存知 ぞんじないでしょうね。いまは三分待たなくても、すぐできるんでしょうか。あるいは、三分は、もうちっとも短い時間じゃなくなったのかもしれません。三分も待つのーとぎゃくに売れなくなってしまうのかもしれないですね。世の中めまぐるしく速く動いているのですからね。
 ものごと万事、欲望よくぼうがすぐ結果に短絡たんらくするようになってしまっている。本当は何かを願望することと、願望したことが満たされるあいだが実は最も楽しい時間であって、満たされてしまったらもうおしまいなのだというところがあるでしょう。わかりやすくいえば、恋愛れんあいなんかまさにそうです。もちろん、好きだと言ってから、それから先もまた楽しみはありますが、好きになっていくプロセスそのものが実はものすごく、苦しくても楽しい世界ですよね。彼女かのじょは本当にぼくを好いてくれているのかと心配になったり、その時期があるから、好きだということが確認かくにんできたときうれしいわけです。もし手軽に得られたら、それはいいかえれば手軽にすてられる世界にもなります。これはゴミの問題と同じです。手軽に得られるから手軽にすてることができるのです。それではつまらないですね。
 自然のものも、たとえばイチゴなんていまは年中あります。トマトも年中あります。でもかつてしゅんのときしか食べられなかった。だから、待ち遠しかった。
 待つ喜びがあったわけです。そして、たとえばしゅんの初ものを食べると寿命じゅみょう延びるの  などということもいいました。初ものを食べると寿命じゅみょうがのびる気がするほどうれしいから、そういう言葉か
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出てきたんでしょうね。あるいは去年食べたときから一年寿命じゅみょうがあったことを実感できるという幸せがあったから、そういう言葉で表したのかもしれません。
 レジャーにしても、お金を出して得るレジャーに流れていく生活というのは、山の緑、自然の鳥や花と触れるふ  、そういう喜びとは別なんですね。お金で与えあた られる喜びの世界に身をゆだねていくことが、季節の喜びを待つ世界をも希薄きはくにしているんです。
 困っこま たことですが、余暇よかさえもがお金もうけ、金主主義しゅぎのわなの中にはまってしまったようです。商品化され、密室みっしつ化されてきました。子どもたちはゲームセンターに、大人たちはパチンコ屋に、孤独こどくな時を自然の空間に閉じこもっと    て遊びます。「野外での健康的なスポーツ」としてゴルフが宣伝せんでんされていますが、その会員けんは何千万、一億円などという投機の対象であり、ゴルフ場は緑の山をけずって人工的に草を植えた農薬づけの世界なのです。「花と緑」といえば美しい自然を連想させてくれますが、緑の森をつぶして遊園地に作り変えた「花の万博」。高い入園料を払っはら て外国から持ち込んも こ だ植物を無理な気候の中で育てている不自然を見ることになる。あちらこちらとあわただしく交通機関を利用して動きまわれば、一万円はすぐに飛んでしまうしくみのようです。ゆったりと自然の花と緑をたのしむというようにはなっていないのも、お金の世のかなしさなのでしょう。お金によって手軽にということなのです。
 いまのインスタントな時代というのは、欲望よくぼう充足じゅうそくされている点だけを見れば幸せそうにみえるけれども、実は大事なものを失っている。本当は不幸な時代かもしれません。

槌田劭つちだたかし『地球をこわさない生き方の本』より)
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 ゴミの問題は、限りかぎ ある資源しげんをどのように有効ゆうこうに使うかという大きな課題にもつながっている。ゴミは、物の持ち主から、「おまえはもう役立たずだ。」という、おはらい箱判決はんけつを受けたものだ。しかし、ある一人の人の、ある一つの目的にはもう役に立たなくなっても、ほかの目的には、あるいはほかの人には、じゅうぶんに役立つことがある。例えば、木製もくせいのいすは壊れこわ てしまえば、それに座るすわ という目的は達せられない。しかし、いすに使われている木はじゅうぶんに乾燥かんそうしていて、狂いくる がこなくなっている。木工の材料としてみたら、なかなか値うちね  のあるものである。木工の仕事をしている人にとっては、ぜひとも欲しくほ  なるほどの材料だといってもよい。それなのに、いすの持ち主がこれはもう要らないと判決はんけつを下すと、それがゴミとして集められて、焼却しょうきゃくされてしまうというのでは、ずいぶんむだをしていることになる。こういうむだをできるだけ小さくしていくこと、つまり、一つの目的には役に立たなくても、それが役立ちそうなほかの用途ようとを見つけ出して、物をできるだけ長く生かしてやること、これは、ゴミを少なくするだけでなく、資源しげん有効ゆうこうに使うことにもなるわけである。
 もちろん、物を捨てるす  ことにもプラスの面がないわけではない。古いものは不要だと考えて、次々に新しいものに替えか ていくという新陳代謝しんちんたいしゃさかんであると、次々に需要じゅようが生み出されて、経済けいざい活動が活発になる。これはこれでプラス面である。しかし、その反面として怖いこわ のは、みんなが「使い捨てつか す 式」で物を捨てす ていくならば、経済けいざいの中に蓄えたくわ られていくものがなくなるということである。せっかく作り出した物、せっかく買ったものをすぐ「不要だ。」と判決はんけつを下して捨てす てしまうのでは、また同じ物を作ったり買ったりすることに精力せいりょくを使わなくてはならない。一度作り出したり買ったりしたら、今度は別の物を作ったり買ったりするのに精力せいりょくを使ってこそ、物は本当に豊かゆた になっていくのである。何も蓄えたくわ られた物がなくて同じ物を繰り返しく かえ 繰り返しく かえ 手に入れようとあくせくするようでは、生活に進歩は生まれない。
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 日本のことわざに、「捨てるす  神あれば拾う神あり。」という。これをもじっていえば、わたしたちはどんどん紙を捨てす てゴミを作り出しており、「捨てるす  カミ(紙)」がいっぱいなのだから、そういうゴミを「拾うカミ(神)」がいてくれなくては困るこま のである。
 しかし、そういう神様は、どこか空の高い所に住んでいるのでもなくどこかのほら穴  あな潜んひそ でいるのでもない。人間が知恵ちえを出して生み出さなければならないものである。
 物を作るときには、再生さいせい利用することを初めから考えて作るというのも、神様を生み出す方法の一つになるだろう。できるだけ長持ちする製品せいひん割安わりやすにするようにくふうするのも、その一つだろう。今いろいろな知恵ちえを出し合って、ゴミをできるだけ少なくし、資源しげん有効ゆうこうに使うようにしないと、やがて人間そのものが地球から捨てす られてしまうかもしれないのである。

(岸本重陳しげのぶの文章より)
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 大学だけでなく、各地の保育園ほいくえん幼稚園ようちえん講演こうえんに行く機会もかなりあって、参観に来た母親と子どもの様子をそれとなく観察してきました。極端きょくたんにことば数が少ないお子さんの場合、母親のタイプは二通りに分けられるのではないかと思います。
 一つは、お母さん自身も無口で引っ込み思案ひ こ じあん自己じこ主張しゅちょうが少なく、ウサギのようにほとんど声を出さないというケースです。おしめを換えるか  にも、授乳じゅにゅうするにも、くつをはかせるにも、すべて黙々ともくもく 行っている。気質きしつ遺伝いでんなどもあるでしょうが、子どもの側からすれば、どういう局面でどういうことばを用いるのか、模範もはん示ししめ てもらうチャンスが少ないのですから、自分のことばが出てくるまでに、時間がかかるのは当然かもしれません。ようするにこれは、マザリーズのところで述べの た「くりかえし」の不足だと思います。
 もう一つはぎゃくに、母親がひどくおしゃべりで、子どもの自発せいを生かす「間」が不足している場合です。子どもは家で四六時中ことばのシャワーを浴びているはずなのに、なぜこんなに無口なのか。ほんとにこれがあの母親の子なのかと、わが目わが耳を疑ううたが ことがあります。でも長い目で見ると、やはり、因果いんが関係の釣り合いつ あ が、ちゃんと保たたも れているのかもしれません。ふだんはほとんどおしゃべりしない子が、ある日突然とつぜん、母親のいないときにかぎって、せきを切ったように話しはじめる。いったいこの子、どうなってるのと、まわりの人はびっくり。しばらくすると、ピタッとおさまって、何事もなかったかのようにまた無口な子どもにもどります。そういう子はえてして、大人になってからも、ふだんは寡黙かもくな、はにかみやと見なされている場合が多いようです。
 母親との語らいが子どもののう活性かっせい化するという川島さんの実験データは、じつに興味深いきょうみぶか ものがあります。だとすれば、臨界りんかい期の中心に位置すると思われる大切な時期に、魔法使いまほうつか であるはずの母親が魔法まほうの力をふるうことを怠れおこた ば、刷り込みす こ の力ははたらかないわけです。
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 「三つ子のたましい百まで」ということは、三さいまでに学んだことが、百年分に匹敵ひってきする決定的な影響えいきょう与えるあた  ということではないでしょうか。ですから、もし母親が一分間、赤ちゃんに話しかけるとすれば、単純たんじゅん計算だけでもその約三十三倍、つまり三十三分間話しかけただけの効果こうかを生みます。十分間話しかければ、三百三十分、五時間以上話しかけただけの質的しつてき影響えいきょう力をもつことになります。
 すでにマザリーズのところで述べの たように、母親の話しかけには、くりかえしだけでなく「間」が大切ですが、間を生かすためには、母親の心がその場に居合わせるいあ   ことが肝心かんじんだと思います。授乳じゅにゅうしながら赤ちゃんに優しくやさ  話しかければ、赤ちゃんは体の栄養分だけでなく、同時に「たましいかて」も吸収きゅうしゅうしているわけです。もしその時、母親が片手間かたてまに新聞を読んでいたり、テレビの画面に夢中むちゅうだったり、赤ちゃんから気がそれていたりしたらどうでしょう。そこには気持ちのキャッチボール、つまり心と心の対話が欠如けつじょしているのではないかと思います。赤ちゃんはおそらく、母親の気持ちが自分に、向けられていないことを感知し、心のどこかで欲求よっきゅう不満を覚えているにちがいありません。
 ことばと心は、深いところでしっかりつながっています。育児や、家事、職業しょくぎょう趣味しゅみなどの明け暮れあ く で、どんなに忙しいいそが  母親でも、子どもに接するせっ  ときは一期一会、目を見つめながら、心をこめて話しかけたいものです。

(川島隆太りゅうた・安達忠夫ただお「『のうと音読』「講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ所収しょしゅうによる」)
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