a 長文 1.1週 ne
「うーん、どう書こうかなあ」
 わたしにとって、毎年の年賀状ねんがじょう作りは大変なものだ。なぜかというと、ついつい凝りこ すぎてしまうからである。やはり年賀状ねんがじょうは手書き、手作りがいちばんだと思う。父はパソコンで年賀状ねんがじょうを印刷しているが、わたし断固だんことして手作りにこだわっている。一まいまい感謝かんしゃの思いを込めこ ながら、宛名あてなを書く。もちろん、裏面うらめんだってすべてオリジナルの構図こうずを考えて作っていく。
 今年の年賀状ねんがじょうでは、いもばん挑戦ちょうせんしてみた。サツマイモを輪切りにして、彫刻ちょうこく刀で削っけず てハンコにするのだ。かなり大変だったが、干支えとである「」や、「賀正がしょう」という文字を彫っほ た。
 そんなふうに手をかけるので、出来上がった年賀状ねんがじょうを出すのはいつもぎりぎりだ。分厚いぶあつ 年賀状ねんがじょうの束をポストに押し込んお こ で、わたしはようやく、安心してお正月を迎えむか られる。
 しかし、わたし年賀状ねんがじょう作りは、年が明けてもまだ終わらない。毎年必ず、わたしが出さなかった意外な人から年賀状ねんがじょう届くとど からだ。こういう驚きおどろ があることも、新年の楽しみの一つだろう。けれども、もらった年賀状ねんがじょうには返事を書かなければいけない。そうしてわたしは、またまたつくえに向かう羽目になる。
 今年のお正月、そんなときに事件じけんは起きた。
「いもばんがない!」
 わたし叫ぶさけ と、こたつでくつろいでいた家族が、一斉いっせいにこちらを見た。一生懸命いっしょうけんめい作ったいもばんが、いつの間にかなくなっていたのだ。これでは返事を書くことができない。
 家族を無理やり起こして、こたつ布団ぶとんを引きはがしてまで探しさが た。まるで、去年やり忘れわす た大掃除そうじを今ごろやっているかのようなありさまだった。しかし、それでも見つからない。
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 わたしがしょげていると、飼い犬か いぬのユメが足元に寄っよ てきた。慰めなぐさ てくれるのかと感動したが、よく見ると、その口あたりの毛が赤くなっている。わたしはハッとした。
犯人はんにんは、おまえだな!」
 そう。なくなったいもばんは、今はユメのおなかなか。材料がおいもだっただけに、置いておいたものをユメがぺろりと食べてしまったのだ。
「では、おまえをいもばんの代わりに」
 わたしはユメをつかまえると、その肉球に朱肉しゅにくをつけて、返事の年賀状ねんがじょうにペタン、と押しお た。いもばんならぬ「いぬばん」というわけだ。自分のしたことが分かっていないのか、ユメはうれしそうにしっぽを振っふ ていた。
「えーと、干支えとじゃないけどごめんね。」
 戌年いぬどしならよかったのに、とわたしは心の中でつぶやいた。だが、これはこれでかわいらしくて、いいかもしれない。
災いわざわ 転じて福となす」ということわざもある。こだわって作るのもいいが、とっさにひらめくアイデアで対処たいしょすることも大切だ、とわかった気がした。
「うん、これでよし!」
 わたしは笑顔で、ユメと顔を見合わせた。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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a 長文 1.2週 ne
 そっ啄  たくの機という言葉がある。得がたい好機の意味で使われる。比喩ひゆであって、もとは、親鶏おやどりが、孵化ふかしようとしているたまごを外からつついてやる、それとたまごの中からから破ろやぶ うとするのとが、ぴったり呼吸こきゅうの合うことをいったもののようである。
 もし、たまご孵化ふかしようとしているのに親鶏おやどりのつつきが遅れれおく  ば、中でひな窒息ちっそくしてしまう。逆にぎゃく 、つつくのが早すぎれば、まだひなになる準備じゅんびのできていないのが生まれてくるわけで、これまた死んでしまうほかはない。
 早すぎずおそすぎず。まさにこのときというタイミングがそっ啄  たくの機である。
 自然の摂理せつりはおどろくほど精巧せいこうらしいから、ほかにもいろいろな形でそっ啄  たくの機に相当するものがあるに違いちが ないが、かえるたまごはもっとも劇的げきてきなものといってよかろう。
 われわれの頭に浮かぶう  考えも、その初めはいわばたまごのようなものである。そのままではひなにもならないし、飛ぶこともできない。温めてかえるのを待つ。
 時間をかけて温める必要がある。だからといって、いつまでも温めていればよいというわけでもない。あまり長く放っておけばせっかくのたまご腐っくさ てしまう。また反対に、孵化ふかを急ぐようなことがあれば、未熟みじゅくらんとして生まれ、たちまち生命を失ってしまう。
 ちょうどよい時に、たまごを外からつついてやると、ひなになる。たんなる思いつきが、まとまった思考のひなとして生まれかわる。
 われわれはほとんど毎日のように、何かしら新しい考えのたまごを頭の中で生み落としている。ただそれを自覚しないだけである。これがりっぱな思考に育つのは、実際じっさいにごくまれな偶然ぐうぜんのように考えられている。
 たまごはおびただしく生まれているのに、適時てきじから破っやぶ てくれるきっかけに恵まれめぐ  ないために、孵化ふかすることなく、やみからやみ葬りほうむ 去られているのであろう。
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 逆にぎゃく 、外から適当てきとう刺激しげき訪れおとず て、破るやぶ べきたまごからがありさえすれば、孵化ふかが起こるのにと思われるときもすくなくなかろう。ところがそういう時に限っかぎ て、皮肉にも頭の中にちょうどその段階だんかいに達しているたまごがない、ということが多い。せっかく、ついばむ力が外から加わっているのに、こうしてむなしく機会を逸しいっ てしまうことになる。
 頭の中にたまごが温められていて、まさに孵化ふかしようとしているときなら、ほんのちょっとしたきっかけがあれば、それでひながかえる。この千に一番のかね合いが難しいむずか  。それでそっ啄  たくの機が偶然ぐうぜん符合ふごうのように思われるのである。古来、天来のみょう想、インスピレーション、霊感れいかんなどといわれてきたのも、それがいかに稀有けうのことであるかを物語っている。
 たとえ稀有けうだとしても、起こることは起こっているのである。人間ならだれしも霊感れいかんのきっかけの訪れおとず は受けるはずで、それをインスピレーションにするか、流れ星のようなものにしてしまうかの違いちが にすぎない。これには運ということもある。いくら努力してみても運命の女神がほほえみかけてくれなければ、着想というひなはかえらないであろうと思われる。もっともどんなに運命が味方してくれても、もとのたまごがないのでは話にならない。人事を尽くしつ  て天命を待つ。偶然ぐうぜん奇蹟きせきの起こるのを祈るいの 
 すこし話が神秘しんぴ的になってきた。もっと日常にちじょう的な次元で考えてみよう。
 何でもない人間と人間とが、たまたま知り合いになる。互いにたが  不思議な感銘かんめい与えあた 合って、それがきっかけになって、めいめいの人生がそれまでとは違っちが たものになるということがある。出会いである。一期一会だという。
 ほかの人たちとどれほど親しく交わっていても得られなかったものが、何気ない出会いで与えあた られる。ここにもそっ啄  たくの機が認めみと られる。われわれはそれと気付かずに、そういう偶然ぐうぜんを一生さがし求
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長文 1.2週 neのつづき
めつづけているのかもしれない。
 それにめぐり会えたとき、奇蹟きせきが起こるというわけだ。
 難解なんかいな本は一度ではよくわからない。それに絶望ぜつぼうしないで、くりかえし読んでいると、そのうちに理解りかいできるようになる。読書百へん意おのずから通ず。古人はそう教えた。思考も同じことで、初めから全体がはっきりすることはすくない。何度も何度も考えているうちに、自然に形をあらわしてくる。
 人間にとって価値かちのあることは、大体において、時間がかかる。即興そっきょうに生まれてすばらしいものもときにないではないが、まず普通ふつうはじっくり時間をかけたものでないと、長い生命をもちにくい。させておく。温めておく。そして、決定的瞬間しゅんかん訪れるおとず  のを待つ。そこでことはすべて一挙に解明かいめいされる。
 『論語ろんご』の冒頭ぼうとうにある一句いっく「学ビテ時ニこれヲ習フ、またよろこバシカラズヤ」も読書百へんと同じように考えることができるかもしれない。勉強したことを機会あるごとに復習ふくしゅうしていると、知識ちしきがおのずからほんものになって身につく。それが愉快ゆかいだというのである。学んで時にこれを習う、そっ啄  たくの機はいつやってくるかしれない、折にふれて立ち返ってみる必要がある、と教えているのであろうか。
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a 長文 1.3週 ne
 ソクラテス(紀元前四七〇三九九年)は、おそらく哲学てつがくの歴史をつうじてもっともなぞめいた人物だろう。ソクラテスはたったの一行も書かなかった。なのにヨーロッパの思想に最大級の影響えいきょうをおよぼした一人とされている。ソクラテスがとんでもなくみっともない男だったことはたしかだ。チビで、デブで、目つきが陰険いんけんで、はなは空を向いていた。けれども心は「金無垢きんむくのすばらしさ」だったという。ソクラテスの母親はお産婆さんばさんだった。そしてソクラテスは自分のやり方を産婆さんばじゅつにたとえていた。たしかに子供こどもを産むのは産婆さんばではない。産婆さんばはただその場に立ち会ってお産を手伝うだけだ。ソクラテスは、自分の仕事は人間が正しい理解りかいを「生み出す」手伝いをすることだ、と思っていた。なぜなら本当の知は自分のなかからくるものだからだ。他人が接ぎ木つ きすることはできない。自分のなかから生まれた知だけが本当の理解りかいだ。(中略ちゅうりゃく
 ソクラテスはソフィストたちの同時代人だった。ソフィストたちと同じようにソクラテスも人間と人間の生活を論じろん 、自然哲学てつがく者たちの問題にはかかわらなかった。(中略ちゅうりゃくけれどもソクラテスは重要なところでソフィストたちとはちがっている。ソクラテスは、自分は知識ちしき(ソフォス)のある人間やかしこい人間ではないと考えていた。だからソフィストたちとは反対に教えてもお金を取らなかった。そうではなくてソクラテスはことばの本当の意味で自分は哲学てつがく者(フィロソフォス)だと名乗ったんだ。フィロソフォスとは「知恵ちえを愛する人」ということだ。知恵ちえを手に入れようと努力する人のことだ。(中略ちゅうりゃく哲学てつがく者は自分があまりものを知らないということを知っている。だからこそ哲学てつがく者は本当の認識にんしきを手に入れようといつも心がけている。ソクラテスはそういうめったにいない人間だった。ソクラテスは自分は人生や世界について知らない、とはっきり自覚していた。そしてここが大切なところだよ、自分がどれほどものを知らないかということでソクラテスはなやんでいたのだ。哲学てつがく者とは自分にはわけのわからないことがたくさんあることを知っている人、そしてそのことになやむ人だ。だから哲学てつがく者はひとり合点の知識ちしきでもってはな高だかの半可通はんかつうよりもずっとかしこいのだ。
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「もっともかしこい人は自分が知らないということを知っている人だ」とはもう言ったよね。ソクラテスはこういう言い方もしている。わたしは自分が知らないというたった一つのことを知っている、とね。このことば、メモしておくこと。なぜなら哲学てつがく者たちのあいだでもこんな告白はめったにないからだ。さらにはこんなことをおおっぴらに言うのは、命にかかわるたいへん危険きけんなことでもあった。いつの世にも疑問ぎもんを投げかける人はもっとも危険きけんな人物なのだ。答えるのは危険きけんではない。いくつかの問いのほうが千の答えよりも多くの起爆きばくざいをふくんでいる。『はだかの王様』の話は知っているよね? 本当は王様はまっはだかなのに家来のだれ一人そう言う勇気がなかった。ふいに子どもがさけぶ。王様ははだかだ、と。勇気ある子どもだね、ソフィー。これと同じようにソクラテスは人はどれほどものを知らないかをはっきりさせた。はだかだということをつきつけた。つまりこういうことだ。ぼくたちはふさわしい答えがおいそれとは見つからないような重要な問いをつきつけられる。ここから先、道は二つある。一つは自分と世界を全部ごまかして、知る値打ちねう のあることはすべて知っているみたいなふりをする道。もう一つは大切な問いには目をつぶって前に進むことをすっかりあきらめるという道。とまあ人間は二種類に分かれるんだね。少なくとも人間は思いこみが強くてかたくなか、どうでもいいや、と思っているかのどちらかだ。これはトランプのカードが分けられるようなものだ。黒のカードはこっちの山に、赤のカードはそっちの山にと積みあげていく。ところがジョーカーが出てくる。これはハートでもクラブでもないし、ダイヤでもスペードでもない。ソクラテスはアテナイのジョーカーだったんだ。かれは思いこみが強くてかたくなでもなかったし、どうでもいいと思ってもいなかった。ソクラテスは自分は知らないということを知っていただけだ。そしてそのことを思いつめていた。それでソクラテスは哲学てつがく者になったのだ。あきらめない人、知恵ちえを手にいれようとあくことなく努める人に。
(ヨースタイン・ゴルデル)
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a 長文 1.4週 ne
 ぼんゴロ二つをだしただけで、ぼくらはアオたちを無得点におさえ、なんなく一回表をおえた。てんで気をよくしちゃったぼくらは、いきおいにのって攻撃こうげきにうつった。
「小細工よりも、じゃかすか、かっとばしなさい。むこうのボールは、内角低めをねらってるだけだから、バットを短めに持ってあわせていくのよ。」
 キリコがしんけんな目つきで、ぼくらに作戦をあたえてくれる。いまじゃキリコはぼくらの監督かんとくけんコーチで、ぼくらに負けないくらい試合に身を入れてくれるんだ。こいつはいっそうぼくらをはりきらせた。
 試合は五回戦だけど、やつらもなかなかねばる。それに四回戦になると、暑さのせいか、ジックのボールのスピードがおちた。こいつをばちばちひっぱたかれて、二塁打にるいだ一つ、三塁打さんるいだ二つを取られちまった。得点は八-六と、まだリードしてたけど、ジックはすっかりくさり、くさったとこへ、アオのやつが、みんなをあおりたててやじりはじめた。ジックは完全にダウンだ。コントロールまでみだれちゃって、暴投ぼうとうを二度もやり、四球やエラーを続出させた。
 どうにか守備しゅびじんがそれをカバーして、とにかく四回の表はおわらせたけど、結果はさんたんたるもので、八-十とひどい逆転ぎゃくてんをやられちまった。
 ベンチにもどると、ジックはグローブを力いっぱい地面にたたきつけた。
「おれは、もう、野球をやめた!」
 そうとう頭にきちゃったらしくて、ぼくやキリコがいくらなだめても、ますますかっかっしちゃうばかりなんだ。ぼくもすぐ頭にきちゃうほうだけど、ジックのはちょっと特別せいなんだ。
 ミツコやデッコが、景気づけのために、みんなをリードして、いせいのいい歌をうたってくれたりしたけど、ぼくらはしょぼくれちまって、戦意もだんだん遠のいてくんだ。
「おどろいた子たちね。わたしがいつもいってるでしょ。『勝ち』『負け』で、なんでもわりきっちゃおうとするから、そんなことになるのよ。さあ、負けるとわかっても、戦うだけは戦わなければいけないわ。どんなはめになったって、その中でせいいっぱいの努力をするのよ。」
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 キリコはバッターに立つ者ひとりひとりのしりを、大きな手で、ぴしゃぴしゃひっぱたいては元気づけた。が走者、一、三塁さんるいのチャンスもむなしく、無得点におわっちまった。
 まだふてくされているジックをとりまいて、守備しゅびにつく気にもなれず、ぼくらは、タイムを要求して、ぶらぶらしていた。
 六組のきたないやじは、ますますさかんになってくる。ミツコやデッコたちが、負けずにやりかえすのだけど、それもなんだかしだいにいきがさがる。ぼくも最初のうちは、みんなとどなったりしていたんだけど、ジックのがんこさにあきれ、ジックにはらをたてた。
「じゃあ、おまえは、この試合を不戦敗にしようってのかい。」
 ぼくはジックをにらみつけた。けど、ジックのやつグローブをひっぱたくばかりで、さっきからなにもいわないんだ。
 ピッチャーはジックしかいないから、ぼくらはもうどうしようもないんだ。ほかのやつに投げさせれば、もっともっとわるい結果になるのはわかりきっている。それでここんとこは、どんなことしたって、なんとかジックに投げてもらわなけりゃならない。とぼくは決心した。
「あ、あのサブちゃん――。」
 そのとき、おずおず横のほうから、ぼくに話しかけたやつがいた。
「なんだ。うるさいな。」
 ふりむいてぼくはそいつをにらみつけた。すっかりいらいらしてたんだな。
 立っていたのは金井かないだった。みんながなにごとかというふうに、金井かないのまわりに集まってきた。さじを投げたように、遠くのベンチからぼくらをながめていたキリコも、立ちあがってこっちを見てる。
「ぼくに、投げさせて、みてよ。」
 ひとつひとつのことばを、くぎるように、金井かないははっきりいった。
「なんだって!」
 ぼくはじぶんの耳をうたがった。もやしのうまれかわりみたいにひょろひょろして、おまけに、いままでだって野球をしてるのなんか見たこともないやつなんだから、それもむりないというもんだ。
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長文 1.4週 neのつづき
 ところが金井かないのやつ、よっぽど心をきめてるらしく、もいちどはっきり、
「ぼくに投手をやらせてよ。」
といったんだ。ぼくは思わずわらっちまった。でも、金井かないの顔は真剣しんけんなんだな。奥歯おくばをぎゅっとかみしめて、まともにぼくを見つめるようすにあっとうされて、ぼくらはだまりこんじまった。
「よし!」と、ぼくは金井かないの上気した顔にむかっていた。「投げてみろ。」
 みんながざわめいた。ベンチにいたジックが、なにかいいたそうだったけど、ぼくはかまわずみんなにかたを組ませ、「いくぞっ!」とさけんだ。みんなもさけんだ。ぼくらは七度さけんだ。ミツコやデッコたちみんながかん声をあげ、拍手はくしゅし、ぼくらをはげました。ジックがベンチでそわそわしてた。キリコがぼくらにウインクを送ってよこした。
 金井かないはファーストミットを取った。
「おまえはピッチャーをやるんだろ。」
と、ぼくはすこしあきれていった。みんながわらった。
「これが使いなれてるんだ、ごめんよ。」
 金井かないはわらい、それから、ベンチに取り残されたようにすわり、しりをもぞもぞ動かしているジックのところにかけていった。
「いっしょうけんめい投げてみるから、そのあいだにちょうしをなおしといてよね。」
金井かないはそれだけいいおわると、ひどくはずかしいことをしたかのように走ってマウンドにのぼった。
 ぼくら九人は顔を見あわせ、ちょっとくちびるをかんでわらった。やれるとぼくらは思った。そうさ、六組になんか、負けてたまるもんか! ぼくは、ジックにしかめっつらを作っておどけてみせ、みんなといっしょに、声をだしあいながらポジションについた。
 金井かないは左だった。うまいというほどではなかったけど、コントロールがきいたから、左だというだけで、けっこう六組の攻撃こうげきをおさえることができた。それでもその回で二点入れられた。
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 スコアは八-十二だ。だけど、それぐらいはものの数ではなかった。やる気じゅうぶんのいま、四点ぐらい、なんなくとりもどせると思えた。自信は前からあったんだ。ただ、くさっちまって、やる気をなくしてただけなのさ。
「お天気屋さんたち、がんばるのよ。野球は最終回のうらからよ。」
 キリコは金井かないの頭に手をおいて、ぼくらをはげました。
 金井かないはジックにむかって、
「打つほうはてんでだめだから。」
と、バッターをゆずった。ジックだって、いつまでもぐずぐずしてるやつじゃない。
「すまん。」と、金井かないを見ていい、「さっきはわるかったな。」
と、ぼくらにいった。ぼくらはジックをひやかしてわらった。
「ほんとに、ありがと。」と、ジックはもいちど金井かないにいった。
 金井かないはまっかになってうつむき、しきりと二点入れられたことを気にした。ぼくらは金井かないのせなかやかたや、頭をたたき、「気にするな。」「ドンマイ。」「ドンマイ。」
といった。クラスのみんなが、いせいのいい歌をうたう中で五回のうら、ぼくらは最後の攻撃こうげきをかけた。

後藤ごとう竜二りゅうじ「天使で大地はいっぱいだ」)
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a 長文 2.1週 ne
「今年の恵方えほうは、南南東だから、まどの方を向いて食べるのよ。」 
そう言って、母は、恵方えほう巻きま を家族みんなに配った。父は、 
恵方えほうだか阿呆あほうだか知らないけど、昔は、こんなことはやらなかったなあ。」 
などとぶつぶつ文句もんくを言っている。そんな父を横目で見ながら、母は、 
「さあ、始めるわよ。用意、スタート。」 
と、威勢いせいのいいかけ声をかけた。そのかけ声に後押しあとお されるようにみんなで恵方えほう巻きま を食べ始める。恵方えほう巻きま を食べるときには笑ってはいけない。「笑う門には福が来る」ということわざも、節分には通用しないらしい。 
 わたしはいつも、なぜか笑いをこらえきれなくなり、くすくすと笑ってしまう。だから、今年こそは、最後まで笑わずに食べようと決心していた。しかし、スタートと同時に、もう笑いが込み上げこ あ てくる。しばらくは、必死にその笑いをこらえていたが、こらえればこらえるほど、おかしさがつのり、わたしは思わず吹き出しふ だ てしまった。それをきっかけに、姉が笑い出し、わたしたちを横目で見ていた父の表情ひょうじょう崩れくず た。気づくと、父は、目になみだ浮かべう  ながらくっくっくっと笑いをこらえている。そんな中、ただ一人冷静なのは、母だ。顔色一つ変えず、南南東を向いて、黙々ともくもく 恵方えほう巻きま を食べている。姉もわたしも、母の、この強靭きょうじん精神せいしん力を受け継がう つ なかったようだ。 
 恵方えほう巻きま を食べた後は、これも恒例こうれいの豆まきだ。父も、豆まきには積極的に参加する。いちばん大きな声を張り上げは あ ているのは父だ。我が家わ やでは、毎年「おには外、福は内」と言いながら豆をまくが、地方によっては、「おには内」とかけ声をかけるところもあるそうだ。わたしは、みんなの幸せを願う節分の日に、おにだけ外に追い出すという発想に、かねてから疑問ぎもん抱いいだ ていた。おにも幸せになれば悪さをしないと思うからだ。だから、「おには内」とかけ声をかけるように父に提案ていあんしてみた。父は、
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「昔から、おには外、福は内と決まっているんだ。おにはお庭にお逃げに なさいってなもんだ。」 
と取り合ってくれない。習慣しゅうかんとは恐ろしいおそ   ものだ。仕方がないので、わたしは、心の中で「おには内、福も内」と言いながら豆まきをした。 
 豆をまいた後は、みんなで年の数だけ豆を食べるのだが、姉もわたしも年の数だけでは足りず、年の数の何倍も豆を食べてしまう。年の数以上の豆を食べるとどうなるのか心配だったので、調べてみると、自分の年の数より一つ多く食べると、体が丈夫じょうぶになって、風邪かぜをひかないという説もあることを知り、ほっとした。年の数の何倍も食べれば何倍も丈夫じょうぶになるに違いちが ない。さらに調べてみると、豆は「魔滅まめ」に通じ、おにに豆をぶつけて、邪気じゃき追い払うお はら という意味があるらしい。わたしは、ますますおにがかわいそうになった。せめて、豆をぶつけた後は、家に入れて、介抱かいほうしてあげてもよいのではないだろうか。 
 節分のような日本独特どくとくの行事は、そのいわれを正しく理解りかいし、後世に伝えていくことも大事だが、それ以上に大切なのは、家族そろって季節ごとの行事を楽しみ、温かい時間を過ごすす  ことだと思う。 
「しょうがない。おにも中に入れてやろう。おには内、福も内。」 
父の声が響いひび ている。 

(言葉の森長文作成委員会 Λ)
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a 長文 2.2週 ne
 チョウチンアンコウには、上唇うわくちびるのすぐ上に背びれせ  から変わったイリシウムと呼ばよ れるただ一本のアンテナがある。
 イリシウムの先端せんたんには、エスカという丸いふくらみがあり、この部分が発光するのでチョウチンアンコウの名がある。世界的に有名な深海魚である。チョウチンアンコウの最初の記録は一八三七年であるから、もう一五五年も昔から大勢おおぜいの学者の興味きょうみを引いていた。しかし生きたチョウチンアンコウがどのようにして光るのかは、長らくだれも知らなかった。一九六七年、日本の水族館においてそれが確かめたし  られた。
 その年の二月二〇日、鎌倉かまくらの海岸の波打ち際なみう ぎわで一ぴきのチョウチンアンコウが海岸に遊びに来ていた一般いっぱんの人に拾われた。これは珍しいめずら  魚だということで、そのチョウチンアンコウは、段ボールだん   箱に入れられて、八キロ離れはな 江ノ島え しま水族館に運ばれ、海水に戻しもど たところ元気を取り戻しと もど 、八日間生きた。わが国での、そして、たぶん世界でのチョウチンアンコウの最長生存せいぞん記録である。
 連絡れんらくを受けて逗子ずし自宅じたくからかけつけた横須賀よこすか市自然博物館の羽根田博士は、チョウチンアンコウが水槽すいそうの中で発光する様子をくわしく観察されて学術がくじゅつ報告ほうこくを書かれ、後日、わたしにもそのいきさつを直接ちょくせつ話して下さった。温厚おんこうな博士が、その時の思い出話をして下さっているうちに、だんだん興奮こうふんされるのを見てびっくりした。そんなにもたいへんなことだったのだと、さい確認かくにんした。
 生きているチョウチンアンコウのイリシウムの先端せんたんには、小さなザクロの実のように丸くふくらんだエスカがあり、乳白色にゅうはくしょく透明とうめいの上に銀色と淡紅色(たんこうしょくのリングがあって、暗いところで青白く光って見えた。魚をつついて刺激しげきすると、イリシウムを立て、エスカから明るく光る発光えきを前方に向けて噴出ふんしゅつした。エスカの左右にある肉質にくしつ突起とっき先端せんたん真珠しんじゅのような白い小球が光を放ち、エスカから垂れ下がるた さ  黒くて細長いフィラメントの先端せんたんにも小さな発光器
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があって、魚がイリシウムを振りふ 動かすと、これもキラキラと美しく光った。
 「この生きたチョウチンアンコウは、今までのいろいろななぞをといてくれた。このような機会はおそらくもうないであろう」と、横須賀よこすか市自然博物館の報告ほうこく書き添えか そ られた羽根田博士にとって、あの日は一生で一番幸せな日だったことであろう。
 もっとも、深海魚の発光が水族館で観察された例は、これが初めてではない。
 ずっとさかのぼって、イタリアのナポリ水族館では、一八九九年に生きたダルマザメの発光がガラス越しご に観察されている。このサメは長くは生存せいぞんしなかったらしいが、これがたぶん、生きた発光魚を水族館で観察した、最古の観察記録ではないだろうか。ナポリ水族館は、一八七四年にオープンした海洋研究所の附属ふぞく水族館で、サンタルチアの海岸に面して建ち、とくにわが国の大学臨海りんかい実験所のモデルにされてきた水族館である。
 また駿河湾するがわんに話を戻すもど と、ここにはツラナガコビトザメという世界一小さなサメがいる。成長のいい個体こたいでも二五センチ止まり、ふつうは一二、三センチの小さなサメで、頭が大きく三等身なので、ツラナガの名がある。体の下半分一面に小さな発光器が散在さんざいし、尾びれお  と腹 ふくびれの一部に白い部分があって、ここがとくに強く光る。羽根田博士はツラナガコビトザメの発光が発光ザメの中で、最も美しく見事であると太鼓判たいこばん押しお ている。
 ツラナガコビトザメは、駿河湾するがわんではサクラエビといっしょに海面近くまで浮上ふじょうし、サクラエビのあみに入る。個体こたい数は多くもないがまれでもない。駿河湾するがわんでとれる深海の発光ザメは、ツラナガコビトザメ以外にも、フジクジラ、カラスザメ、カスミザメと、数多い。サメばかりではない。駿河湾するがわんは発光生物の宝庫ほうこなのだ。発光しない深海生物ならば、その種類はもっと多い。
 ところが、そのことごとくがまだ水族館では飼えか ないでいる。東海大学海洋科学博物館では、一九八九年以来生きた化石といわれるラブカを中心に、駿河湾するがわんの深海魚の飼育しいく挑戦ちょうせんしてきた。しか
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長文 2.2週 neのつづき
し、正直いって、前途ぜんと遼遠りょうえんである。ラブカやギンザメもメンダコも、ようやく一〇日間程度ていどは生かしつづけることはできたが、それは残念ながら飼育しいくしたというよりも生存せいぞんしていたという方がふさわしい。
 深海魚が水族館で飼えか ないのは、それが深海に棲んす でいるという事実よりも、深海に棲んす でいるために皮膚ひふ内臓ないぞう傷つききず  やすい、体がもろくてこわれやすい、環境かんきょうの変化に弱いという理由の方が大きいようだ。水族館では、傷つききず  弱って入ってきた魚の健康を回復かいふくさせることがほとんどできないので、そこが一番弱い。それでも、駿河湾するがわんの海岸に建っている水族館に勤務きんむする一人として、いつかは発光魚を含むふく 深海生物が水族館で生きているのを見たい、見せてあげたいと思う。水温も、比重ひじゅうも、水質すいしつも、明るさも、自在じざいに調節できるようになった現在げんざいの水族館で、未解決みかいけつの課題として挑戦ちょうせんするのにふさわしい相手であろう。
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 島に住む動物と大陸に住む動物とでは、体の大きさが違うちが 。ゾウのような大形のものを比べるくら  と、島のものは大陸のものより、体が小さくなる傾向けいこうがある。島はせまい。小さな島で物が小さくなっていくのはもっともな話のようだが、事態じたいはそう単純たんじゅんではない。ネズミやウサギのような小形のものを比べるくら  と、こちらは島のほうが大陸より、ずっと大きい。
 島では大きいものは小さくなり、小さいものは大きくなる。島に隔離かくりされた動物に見られる、このような体のサイズの変化の方向せいが「島の法則ほうそく」と呼ばよ れるものだ。変化の方向せいは、いま現にげん 生きているものだけを見ているより時間を追って化石を調べていったほうが、はっきりする。大氷河ひょうが時代には海面が下がり、多くの島が大陸とつながったが、深い海でへだてられていたもの(セレベス、地中海の島々、西インド諸島しょとうなど)は島として残り、そこではゾウ・カバ・シカ・ナマケモノなどが小形化していった。
 もっともあざやかなのはゾウの例だ。ゾウはだんだんと小さくなり、ついには成獣せいじゅうになってもかたまでの高さが一メートル、牛ほどしかないものが出現しゅつげんした。大陸では巨大きょだいなマンモスがのし歩いていたのである。一方ネズミを見てみると、島のネズミは大きくなり、ネコほどもあるものが出現しゅつげんした。
 なぜ島では動物のサイズが変化するのだろうか? 一つの要因よういん捕食ほしょく者であろう。島という環境かんきょうは、捕食ほしょく者のすくない環境かんきょうである。一般いっぱん的に言って、捕食ほしょく者が生きていくには、自身の十倍以上のえさになる動物を必要としている。島という限らかぎ れた面積の中では、えさになる動物の数もたかがしれてくるわけで、そのくらいの数では捕食ほしょく者は生きて行けなくなり、島では捕食ほしょく者がほとんどいない、もしくはまったくいないという状況じょうきょう出現しゅつげんする。こういう状況じょうきょう下ではゾウは小さくなり、ネズミは大きくなっていく。
 ゾウはなぜ巨大きょだいなのか? それは大きな図体で捕食ほしょく者を圧倒あっとうしようとしているからだ。あれだけ巨大きょだいならばトラもライオンも歯がた
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たない。ネズミはなんであんなに小さいのか? 小さければ捕食ほしょく者の目につきにくいし、小さなあなやものかげにすばやくかくれることもできる。ゾウやネズミはだてに大きかったり小さかったりしているわけではない。
 巨大きょだいであることや矮小わいしょうであることは、それなりの代価だいか支払わしはら ねばならぬことである。たとえば巨大きょだいな体を支えるささ  骨格こっかくけいにはかなりの無理がかかっているようで、ゾウは骨折こっせつなどせぬよう、一歩一歩慎重しんちょうに足をはこんでいく。ネズミの場合にはエネルギー上の問題がある。体の小さいものほど、体重のわりには体の表面積が大きい。熱は表面からどんどん逃げに ていくから、体温を一定に保とたも うとおもったら、小さい動物は、体重あたりにして、大きいものよりずっとたくさん食べて熱をつくりださねばならない。体重は半分でも、食料は半分というわけにはいかないのである。
 ゾウの巨大きょだいさは畏敬いけいの念を引きおこすものだ。しかしゾウにしてみれば、大きいからみんなハッピー、というものでもなく、できれば「ふつうの動物」にもどりたいのであろう。ネズミにしたってそうだ。だからこそ、捕食ほしょく者のいない環境かんきょうに置かれると、大きいものは小さく、小さいものは大きくなって、ほ乳類 にゅうるいとして無理のないサイズにもどっていく――これが島の法則ほうそくの一つの解釈かいしゃくである。
 しばらくアメリカの大学で過ごすす  機会を得た。あちらの教授きょうじゅじんの中にはおそれいるばかりの偉人いじんがいて、これでは太刀打ちできないなと、すっかり思い知らされたが、一歩大学の外に出ると、スーパーのレジにしても、自動車修理工しゅうりこうにしても、あきれるほど対応たいおうがのろいし不適切ふてきせつ一般いっぱんの日本人の有能ゆうのうさに、いまさらながら気づかされた。日本という島国では、エリートのスケールは小さくなり、ずばぬけた巨人きょじんとよびうる人物は出て来にくい。ぎゃくに小さい方、つまり庶民しょみんのスケールは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。大きいものは小さくなり、小さいものは大きくなる――島の法則ほうそくは人間にも当てはまりそうだ。
 獰猛どうもう捕食ほしょく者に比せひ られる様々な思想と戦い、きたえぬかれた大
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長文 2.3週 neのつづき
思想を、大陸の人々は生み出してきた。偉大いだいなこととして尊敬そんけいしたい。しかしこれらの大思想は、人間が取り組んで幸福に感ずる思考の範囲はんいを、はるかにこえてしまっているのかもしれない。動物に無理のない体のサイズがあるように、思想も人類に似合いにあ のサイズがあるのではないか。日本よりさらに小さな島にいて、大思想を持たないしあわせと、いくばくかの劣等れっとう感とを、日々あじわっている。

(本川達雄たつお「島の法則ほうそく」)
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a 長文 2.4週 ne
 「飽和ほうわ化市場」という言葉がある。いろいろな商品の普及ふきゅうりつがもう限界げんかいのところまできている消費市場をあらわす言葉だ。たいていのモノはひととおり行きわたった、という状態じょうたいである。
 飽和ほうわ化市場の特徴とくちょうは、いままでもっていた製品せいひんから新しいものに買いかえていく需要じゅようは多いが、市場全体が成長していく力はもう限界げんかいのところまできている、という点だ。
 そのため、売り手側としても、いままでと同じような売り方では商品が売れない。そこで、それぞれ独自どくじの商品を開発したり、新しい売り方を考えたり、これまでとはちがった分野へ進出したりと、あらゆる手を試みる。ここまでに紹介しょうかいした販売はんばい方法の工夫だとか、競合商品にはない独自どくじ機能きのうやデザインの開発などといったことも、こうした市場があふれている。
 たとえばモノ。すでに述べの たように、ヘッドホン・ステレオ一つ取りあげても、似かよっに   た商品がたくさんのメーカーから発売されている。たくさんの商品のなかから、きみは一つの商品を選んで購入こうにゅうするわけだ。そのためにカタログを取りよせたり、お店の人の話を聞いたりして情報じょうほうを集め、比較ひかくした上で決める。
 つまり、きみの前には、とてもたくさんのメニューがあり、そこからある一つを選択せんたくするというわけだ。
 サービスという商品を購入こうにゅうする場合も同じだ。
 外食の代表といえるファースト・フード。あるチェーン店で新しいハンバーガーが登場したと思ったら、すぐに別のチェーン店にもたようなメニューがつけ加えられる。もちろん、「一味ちがった」商品としてだ。
 ここでもきみは、さまざまなお店のさまざまなメニューのなかから一つのサービスを購入こうにゅうするための選択せんたくをすることになる。
 新しい商品やサービスが市場にでるまでには、売り手側の「商品差別化戦略せんりゃく」がおこなわれている。消費者側の情報じょうほうを得るための調査ちょうさ、その情報じょうほうをすぐに利用できるように蓄積ちくせきしたデータベースの作成、テレビやイベントをとおしての宣伝せんでん・広告・商品を効率こうりつ
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く売るための仕掛けしか など、売り手側の努力はこれまでみてきたとおりだ。
 だから、きみは、売り手側の商品差別化戦略せんりゃくという大きな「仕掛けしか 」をかいくぐって、たくさんのメニューから一つを決め、選択せんたくするのである。これは、とてもたいへんなことなのだ。
 たしかにメニューはたくさんある。
 だが、それは、メニューがいまほど多くなかったときにくらべて、よりよい選択せんたくができるということなのだろうか?
 ちがいをうたって登場した商品は、すぐにた商品が登場することで、ちがいの部分がなくなってしまう。きみの「ステイタス」にふさわしいはずの独自どくじの商品が、すぐにその独自どくじせいを失ってしまう。イタチごっこみたいなもので、ちがいはますます細分化し、たいした意味をもたなくなってくる。
 たいした意味のない「ちがい」を選ぶためにたくさんの商品が用意されているのが、はたしてほんとうに豊かゆた なことなのだろうか。わたしたちは、そんな「幸せ」を求めてきたのだろうか。何度でも自問してみる必要がありそうだ。
 おびただしい商品にかこまれて毎日暮らしく  ているわたしたち。わたしたちが生活すること=消費することである。住宅じゅうたく、家具、食品、衣服、電気製品せいひん、新聞、書籍しょせき、日用雑貨ざっかといったモノから、電気、ガス、交通手段しゅだんをはじめとするサービスざいまで、日々消費しつづけているのだ。
 そのわたしたちの多様な消費が、ふたたび多様な生産を促すうなが 
 そして新しく生産された生産物が、消費者であるわたしたちに、また新たな欲望よくぼうをひきおこす。
 こうして生産と消費が循環じゅんかんしながらふくらんでいくのである。しかも、売り手と買い手のどちらも、先がみえていないときているのだ。
 こうした生産と消費のくりかえしのなかで、地球資源しげん減少げんしょうをつづけ、生産にともなう排出はいしゅつ物や消費生活からでる廃棄はいき物などによって、環境かんきょう汚染おせんがすすんでいる。それも、地球的な規模きぼでおこ
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長文 2.4週 neのつづき
っているのである。
 気をつけなくてはいけないのは、地球環境かんきょう汚染おせんしているのは、生産をしている企業きぎょう側だけではない、ということだ。汚染おせん責任せきにんがあるのは、買い手であるわたしたちも同じだ。生産をささえている消費者側の責任せきにんも大きい。
 つまり、わたしたちは他人とのちがいを示すしめ ために地球資源しげんをつかい、環境かんきょう汚染おせん物質ぶっしつ排出はいしゅつしつづけている可能かのうせいをもっているわけだ。もしそうだとしたら、わたしたちは、自分たちの消費のあり方そのものを問いなおさなくてはいけない。
 たとえば、わたしたち日本人がふだん食べているエビ。
 日本人のエビ消費は、この三十年間に六倍以上になり、売り上げは一兆円をこえたそうだ。世界最大のエビ消費国だ。そのほとんどは東南アジアからの輸入ゆにゅうによっている。エビの稚魚ちぎょは、東南アジア各地にひろがる広大なマングローブの沼地ぬまちで育っており、そのエビを捕獲ほかくするために大型船もはいっている。そのためエビ資源しげんはしだいに少なくなり、マングローブの沼地ぬまち荒らさあ  れているのだそうだ。
 日本人が直接ちょくせつ荒らしあ  まわっていないにしても、わたしたちのエビ消費が、結果としてマングローブを枯らすか  ことになっているのは否定ひていできない。
 これは一つの例であって、わたしたちの生活が、このように間接かんせつ的に環境かんきょう破壊はかいしていることは、じつに多い。わたしたちがおびただしい消費を重ねることが、考えてもみないようなところに悪影響あくえいきょうをあたえ、傷つけるきず   ことになっているわけだ。
 そうした直接ちょくせつみえない他人や世界へ、どこまで想像そうぞう力をはたらかせることができるかが、これからますます問われることになるだろう。もちろんこれは大人だけの問題としてでなく、きみたち一人一人がこれから考えなければならない問題だと思う。

(児玉ひろし「あなたは買わされている」)
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a 長文 3.1週 ne
「あれ? おかしいなあ。」 
トースターの中には、ほかほかに温まったコロッケが入っているはずだった。確かたし に、コロッケは入っていたのだが、コロッケを乗せたトレイは、まるで蜂蜜はちみつのようにとろりと溶けと 出し、ほとんど原型をとどめていなかった。やはり、トレイごと入れてはいけなかったのだ。今ごろになって気づいても後の祭りだ。トースターに入れる瞬間しゅんかん、このまま入れても大丈夫だいじょうぶなのだろうかと不安がよぎったが、上にかかっているラップだけを取れば大丈夫だいじょうぶだろうと安易あんい判断はんだんしたのが間違いまちが だった。 
 わたしは、とてもお腹 なかがすいていたが、当然のことながら、コロッケは諦めあきら なければならなかった。しかも、母が帰ってくる前に、トースターの中で溶けと ているトレイを取り除かと のぞ なければならない。空腹くうふくわたしにとって、それは非常ひじょう過酷かこくな労働に思えた。でも、母に見つかったら叱らしか れるに違いちが ない。わたしは、急いで布巾ふきん濡らしぬ  、トースターの中の形のないトレイを取り除こと のぞ うと、手をつっこんだ。 
「あちっ。」 
わたしは、思わず手を引っ込めひ こ た。トースターの中はまだ熱かった。冷ましてからでないと作業ができない。でも、時間がない。仕方がないので、うちわを持ってきて思い切り仰いあお でみた。すると、トースターの底の方に残っていたパンくずが舞い上がりま あ  、さらに大変なことになりそうだったので、すぐにやめた。わたしは、ただ布巾ふきんを手に、付近をうろうろするしかなかった。そうこうしているうちに、母が帰ってきてしまった。トースターを見た母は、すべてを悟りさと 、あきれたようにため息をついた。 
 結局、トースターは、母が掃除そうじをしてくれた。一段落いちだんらくしたところで、わたしは母に、料理で失敗したことがないかどうか聞いてみた。母は、中学生のころ、家族のために野菜炒めいた を作ったことがあるそうだ。フライパンで野菜を炒めいた 、味つけをするさい勢いいきお よくコショウを振っふ ていたら、ビンのふたが取れて、一ビン分のコショウが
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野菜にかかってしまったらしい。母は、くしゃみを連発しながらも、とっさに、野菜をザルに移しうつ 、ジャージャーと水をかけて洗っあら たそうだ。母の素早いすばや 判断はんだんが功を奏しそう 、野菜炒めいた は無事に出来上がり、家族全員がおいしいと言って食べたという。水で洗っあら た野菜炒めいた がおいしいわけはないだろうと思ったが、口には出さなかった。母は、 
「料理に失敗はつきものよ。でも、終わりよければすべてよし。」 
と笑った。 
 わたしの場合は、スーパーで買ってきたコロッケを温めようとしただけなので、料理の失敗とは言えないが、そのおかげでトースターがきれいになったので、やはり、終わりよければすべてよしなのだと思いたい。失敗したからこそわかることもある。わたしは、もう二度と同じ失敗を繰り返さく かえ ないだろう。失敗は、決して悪いことばかりではないということがわかった。 
「あれ? おかしいなあ。」 
台所からお鍋 なべのこげるにおいがしている。 

(言葉の森長文作成委員会 Λ)
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a 長文 3.2週 ne
 レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」は、先にもあとにもだれにもかけなかった傑作けっさくです。心をやわらげてくれるかとおもうと、むねがきりっとなるモーツァルトの音楽は、ただすばらしいとしかいいようがなく、あれだけの音楽はやはりモーツァルトにしか作曲できなかったでしょう。アインシュタインは空間は四次元だと、それまでだれも考えなかったことをみちびきだしました。
 まったく新しいすばらしいものをうみだす「創造そうぞう」の秘密ひみつはどこにあるのでしょうか。創造そうぞうはあまりにもなぞめいているので「天才」にだけできることとかたづけてしまいがちです。しかし、天才だから創造そうぞうできたといってしまうと、「創造そうぞう」を説明したことにならないでしょう。それでは「人間のすばらしさ」とはなにかを考えるのをなげだしてしまうことになります。
 まったく新しいものといっても、人間はなにもないところから、魔法まほうの力でそれをうみだすのではないわけです。そのもとになるものがあったのです。ただし、それまであったままだと、創造そうぞうにはならないので、それまであったものをいろいろ組みあわせて、そのできたいくつもの新しい組みあわせの中から、美しいもの、心にうったえるもの、正しく自然を説明できるものをえらびだし、世の中の人達がその価値かちをみとめたものが創造そうぞうです。ここで「組みあわせ」のかわりに「変化させて」といわれたほうがわかりやすいとおもう人は、そういいかえてもよいでしょう。
 かんじんなのは、それまでほかの人がやらなかった組みあわせをこころみるか、こころみないかです。それまであったものを少し変化させるか、させないかです。それをためしてみなければ、創造そうぞうはおこらなかったのです。ためしに組みあわせてみたり、変化させてみるのですから、だめでもあたりまえです。ですから、だめでもともととおもって、ためしてみるしかないのです。
 第一に、創造そうぞうのきっかけがあまりにも小さな、なんでもないようなことだったのと、第二に、最初のきっかけのあと、ためすのをくりかえした組みあわせや変化の努力があまり大きかったので、第三に、実はあまりにも長い時間がかかっているために、最初のこころみと最終の成果との間があまりにへだたっているので、どうやってそれが創造そうぞうされたのか、それを創造そうぞうした本人にもおもいだせず
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わからなくなって、突然とつぜんひらめいたかのように創造そうぞうがおこったと考えられたり、説明されてしまうのではないでしょうか。
 こう考えてくると、だめでもともとだとおもって試してみるかどうか、よいとかんじたらそれをくりかえしつみかさねるかどうか、それが創造そうぞうにたどりつくかどうかの境目さかいめになります。(中略)
 創造そうぞうが人間にふさわしい仕事であることは、のう構造こうぞうと働きからも説明できます。創造そうぞうとは、人間が意味があり、価値かちがあるとおもう新しい組みあわせですから、ふたつ以上のいろいろなことがらが同時にのうの中に存在そんざいしなくてはならないでしょう。のうの中ではさまざまな働きに関係する細胞さいぼうが、あちらでもこちらでも興奮こうふんしたり抑制よくせいされたりしています。いわば、大脳だいのうはいつもいろんなことがらを組みあわせ、組みかえているわけです。つねに大脳だいのう創造そうぞうばかりやっているようなものではないでしょうか。
 大脳だいのうの中の神経しんけい細胞さいぼうのネットワークは、刺激しげきや学習によって別の神経しんけいネットワークに変化をもたらします。それはたとえるならば、ことがらに新しい光をあて、てらしだすことになります。ことがらに新しい解釈かいしゃくをほどこすことになります。おなじことがらでも、それを位置づける背景はいけい脈絡みゃくらくがかわることにあたります。これを心理学や言語学などでは、「新しい文脈のもとで、意味が変化する」といいます。
 たとえば「タイム」といっても、状況じょうきょうによって「経過けいかした時間の長さ」であったり、午後三時といったような「時刻じこく」であったり、日本人の間ならば「ちょっと待ってほしい」という意味であったりします。それを人間は正しく解釈かいしゃくします。このような大脳だいのうの働きがつみあげられて、ダ・ヴィンチやモーツァルトやアインシュタインの「創造そうぞう」をうみだしたのです。このようなのうの働きを役だて、創造そうぞうのために「こころみ」をつみかさねないのは、まったく人間らしくないことになります。

(赤木昭夫の文章による)
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a 長文 3.3週 ne
 月ができた原因げんいんについては、進化ろんで有名なダーウィンの息子のジョージ・ダーウィンという人が考え出した説が学会で認めみと られていました。それによると月は地球の一部がちぎれて飛び出してできたものだが、面白いことに太平洋は月が飛び出したあとだという説を立てたのです。ジョージ・ダーウィンという人は、たいへんあたまのいい人で、この月の成因せいいん説は、ただの思い付きというわけではなくて、推論すいろんにいろいろな根拠こんきょがあげられているのです。たいへんうまい説明なので当時は反論はんろんする学者もいなくて、それが決まった学説となってしまいました。ですから、わたしたちは学生の時にこういう説を教わったわけなのですが、こんな説は今ではすっかり消えてなくなってしまいました。
 地球の成因せいいんの方は、四十年ほど前に、ドイツのワイッゼッカーという人が、惑星わくせいは太陽から飛び出したのではなくて、昔、太陽系たいようけいをおおっていたガス体から固体のつぶだけが残って、それが太陽の周りをぐるぐる回っているうちに衝突しょうとつし合ってだんだんに成長して、いくつかの惑星わくせいになったという説を立てました。それで、ビュッフォンの説は消えてしまったのです。そのワイッゼッカーの学説もその後十年ほどたって、アメリカのユレーという人と、ソ連のシュミットという人が修正しゅうせいして、地球や木星などの惑星わくせいのもとになったつぶというのは、太陽系たいようけいをおおっていたつぶではなくて、太陽の引力によってつかまえられた宇宙塵うちゅうじん、つまり石ということになったわけです。
 そして、月の方も、ダーウィンの説ではなく、地球のできる時に同じような現象げんしょうで地球と一緒いっしょになってできたものだという説が、今日、定説となって、月は地球の兄弟だと考えられるようになったわけです。
 だが、こういった学説も月ロケットで、人間が月から石のサンプルを持ち帰ったり、ロケットの観測かんそく機が火星や土星まで飛んでいって、情報じょうほうを送ってきたりすると、古い説では解釈かいしゃくがつかないことだらけで、また、いずれ新しい学説が誕生たんじょうすることになるわけです。
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 こういうことは天文学、あるいは地学などに限らかぎ ず、いろいろな科学の領域りょういきで起こってもふしぎはないわけです。まだ、本当は科学は何もかも知っているわけではなくて、ほんの自然の姿すがたの一部をかじっているにすぎないのですから、いろいろと角度を変えて自然を見ているとつぎつぎと新しい発見が生まれてきます。そしてそこから新しい学説が発展はってんし、それをもとにしてまたすぐれた技術ぎじゅつ誕生たんじょうするといったことがこれからも続いていくはずです。
 今までのでき上がった科学の理論りろんとか解説かいせつとかにこだわりすぎてすべてをそれにのっとって(=基準きじゅんとして従っしたが て)考えるという傾向けいこうが強すぎますと、新しい発展はってんが起こらなくなります。古いものにとらわれずに新しい見方をする、あるいは逆転ぎゃくてんの発想という言葉がありますが、そういう考え方をしていると、案外そこから面白い発展はってんが起こるのです。
 これは科学者でなくても、一般いっぱんの方々が広く眺めなが ている観察、あるいは考え方からもみな同じ事情じじょうが生まれるはずですし、そういう点からも皆さんみな  日常にちじょう観察しているものから、新しい科学の目が生まれる、ということも十分にあり得ることだと思います。
 昔、ウェーゲナーという学者が大陸移動いどう説を提唱ていしょうしました。この人は、地質ちしつ学とか物理学とかの理論りろん基づいもと  て考えていたわけではなく、世界地図を見ておりましたらいろいろな大陸の形が、ちょうどジグソーパズルの切れ端き はしのように、寄せよ 集めると一つになってしまいそうな感じがしたことから大陸移動いどうを考えたのです。なるほど合わせてみると、南米とアフリカとは一緒いっしょになりそうですし、アメリカ大陸もユーラシア大陸も、南極大陸もみんな一つに組み合わされそうに見えます。
 そういうところからウェーゲナーは大陸は昔は一つになっていたのが、ある時から分かれて移動いどうしたのではないだろうか、地球の内部が融けと 液体えきたいでその上に固体の大陸が浮かんう  でいる、それがちぎれて、だんだん地球全体に分散したのではないだろうかと考えて、
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長文 3.3週 neのつづき
大陸移動いどう説という学説を立てたのでした。
 たいへん面白い説ですが、当時の学界では、それは単なる思いつきだということで黙殺もくさつされてしまったのです。近頃ちかごろになって、いろいろな観測かんそく技術ぎじゅつが進みますと、どうやらウェーゲナーの学説が本当であったらしいということで、プレート・テクトニクスという学説(=地球の皮膚ひふを形づくるあつさ一〇〇キロの岩板の動きを研究する学説)ができて、実際じっさいに大陸が移動いどうするのだということが、事実として認めみと られるようになったのです。そこでウェーゲナーは今たいへん高く評価ひょうかされるようになっておりますが、こういう、こだわらない自由な心で科学を論じるろん  というのも一つの進歩の道だと言えるわけです。
 そういう意味でも、皆さんみな  の自由な観察力や、考え方から思いついたことをどんどん科学者や科学界にぶつけていきますと、それは皆さんみな  にとってもたいへん楽しいことですし、科学者にとっても楽しいことになるはずです。そして、そこから、思いがけない科学の進歩も生まれるということになりますと、なんともすばらしいことであるに違いちが ありません。

さき範行のりゆき「科学ってこんなに面白い」による)
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a 長文 3.4週 ne
 ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
 たとえば、近所に鬼がわらおに   のような顔の子がいて、「おにの子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親がなみだを流して飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを理解りかいしていないことが多い。
 いじめている人間が、強いわけではない。抑圧よくあつされている人間は、いじめる相手を探しさが がちなものだ。上級生が下級生をいじめる学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだって、リベラル(自由主義しゅぎ的)な雰囲気ふんいきのあるところだと、上級生も下級生も友だちづきあいしている。いじめている人間はたいてい、体制たいせいによっていじめられている、弱い人間なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、する必要がない。
 ときには、だれかをいじめているという、加害意識いしきのないことも多い。その集団しゅうだんが、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。つみ意識いしきなしに悪いことをするほど、困っこま たことはない。
 それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした状況じょうきょう強制きょうせいされて、つみ意識いしきなしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう過去かこをとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした状況じょうきょうのなかで、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
 こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに劣らおと ず、みじめなものだ。
 とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、いじめ方があるらしい。かれもしくは彼女かのじょが、存在そんざいしないように扱うあつか 。顔を合わさず、声をかわさず、存在そんざい自体を無視むししてしまう。これは、一種の精神せいしん的殺
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人である。暴走ぼうそうよりも、万引きよりも、もっとひどい、最大級の非行ひこうだと思う。
 ときに、いじめの計画者がいないことさえある。集団しゅうだん自体が、いじめ存在そんざいになる。ちょっと怪談かいだんじみたこわさがある。こうしたとき、みんな普通ふつうの中学生で、だれも、いじめているという意識いしきのないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの感覚は、怪談かいだんの感覚である。
 ときには、いじめられている子までが、それを意識いしきしていないこともある。こうなると、最高にこわい。意識いしきしていなくても、いじめは存在そんざいしている。意識いしきにのぼらないたましいの底で、一種の夢魔むまの世界で、だれかがだれかをいじめている。
中略ちゅうりゃく
 中学生の間で、いじめが増えふ ているというのを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わない。いじめっこも、たいていは、普通ふつうの子だと思う。いまの中学生の状況じょうきょうが、そうした弱い部分を作っているのだとは思う。
 それでも、もしきみが、よく考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな思いになる。相手にたいしてだけでなく、きみ自身の未来のために、すぐにやめたほうがよい。
 だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている空気があろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみの弱さだ。人間というものは、弱いもので、ぼくは人間の弱さを、むしろいとおしむほうだが、この場合だけは、いや、この場合こそ、きみに強くなってほしい。
 やる気を出せとか、根性こんじょうでがんばれとか、そんな声にのっかって、強くなれというのは、ぼくの趣味しゅみではない。それより、どんな状況じょうきょうにしろ、状況じょうきょうに負けて、他人をいじめることで心のバランスをとったりしないような、自分自身の心の強さがほしい。

(森あつし「まちがったっていいじゃないか」)
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