a 長文 1.1週 ne2
 アフリカの田舎いなかを自転車で訪れるおとず  と、珍客ちんきゃくが来たということで歓迎かんげいされ、村にあるとっておきのゴリラ、サル、芋虫いもむし、ナマズ、ヤマアラシなど貴重きちょうな食べ物でもてなされた。
 ある日、目的地の村に到着とうちゃくして泊めと てもらうことになり、いつものようにばんご飯を待っていたが、日が暮れく てもいっこうに声がかからない。おかしいな……、と思いながらお腹 なかが空いていたので手持ちの食料を食べた。
 そのときの体験を小学校の子どもたちに話して、「どうしてご飯を出してもらえなかったんだと思う?」と聞く。すると子どもたちは一生懸命いっしょうけんめい考えて、
 「村にご飯がなかったから」
 「知らない人だからご飯を出さなかった」
 「ご飯を出さないで、達さんがどんな反応はんのうをするか見ようと思ったから」
 「獲物えものりに行っていたから」
という答えをくれる。相手に理由や原因げんいんがある、という考え方だ。
 ところが質問しつもんをしていると、ひとりの男の子が小声で「自分の挨拶あいさつが足りなかったから」と答えたことがあった。これはとても大切な考えだと思う。自分の方にも何か原因げんいんがあったかもしれない、何かできることがあったかもしれない、という考え方だ。
 ぼく前述ぜんじゅつの問いに対する答えは、「毎日ご飯を食べさせてもらうのがいつの間にか当たり前になってしまって、感謝かんしゃの気持ちがなかった。だからそんな人にはご飯を出さない、と思われたのかもしれない」というものだ。主張しゅちょうするのも大事だが、人の家で食べさせていただくのに感謝かんしゃの気持ちがなかった、きちんと挨拶あいさつしていなかった、相手に失礼なことをしたなど、もしかしたらこちら側に問題があったかもしれないと考えることを伝えたい。なんでも人のせいにしていると最後にはなにも見えなくなり、ゆめや目標があっても実現じつげんさせることができなくなってしまう。ぼくがそう話すと、子どもたちは静まり返って真剣しんけんな顔で聞いている。
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 自転車世界一周というと自分には関係のない話だと思われるかもしれないが、きちんと挨拶あいさつしたり、自分の行動に責任せきにんを持ったりする点では普段ふだんの生活と変わらない。子どもたちはこの辺を敏感びんかんに感じ取ってくれる。そして、「これからは挨拶あいさつをきちんとしよう」とか、「人のせいにするのはやめよう」という感想文をくれ、先生方も「子どもたちが前より挨拶あいさつするようになりました」と言ってくださることがある。
 また中高生になると、受験も、就職しゅうしょくも、クラブも、人間関係も、無意識むいしきでも最終的には全部自分で決めている、と話すことがある。挨拶あいさつしたらどうなるか? お礼をしなかったらどうなるか? 自分にできることはなかったか? いい答えを聞きたかったらいい聞き方をしなくてはいけないなど、自分の行動一つで展開てんかいに大きな違いちが が出てくることを体験から伝える。つまり未来は自分次第でいくらでも変わるという考えだ。
 ぼくも最初はギニアで井戸いど掘るほ のは相当困難こんなんだと思っていた。経験けいけん知識ちしきもネットワークもない自分が、ほとんど部族語しか通じない山村でひとりでプロジェクトを起こすのだから。
 でも目的を持ってできることを一つずつやっていたら、いろんな出会いや出来事に恵まれめぐ  井戸いど掘りほ 実現じつげんに向かった。小さな行動を積み重ね、あきらめなければいろんなことができる。

(坂本達『やった。』より)
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a 長文 1.2週 ne2
 わたしたちはヒトという動物である。この動物は何故かなぜ やたら自分だけが他の動物と違うちが と思いたがる。いわく、理性りせいをもつのはヒトだけだ、他の動物は本能ほんのうのおもむくままに生きているに過ぎす ない、いわく、言語をもつのはヒトだけだ、他の動物の声は情動じょうどうのおもむくままに発せられているに過ぎす ない、いわく、自分のしていることがわかるのはヒトだけだ、他の動物はそんなことを意識いしきしていない、うんぬん。こういうヒトだけに与えあた られた特権とっけんのおかげで、ヒトは全地球を支配しはいするに至っいた た、ヒトは偉いえら 、と。
 本当にこんなに自信満々でいいのだろうか。
 ヒトは確かたし に他の動物とはいろいろな点で異なっこと  ている。四足動物なのに二本あしで歩く。体に比べくら みょうに頭が大きい。ほ乳類 にゅうるいの一種なのに、体毛が極めて薄いうす 。体に似合わにあ ない巨大きょだいな巣を作る。動物界の中では確かたし に変わり種かもしれない。しかし、だからといってヒトは偉いえら ということにはなるまい。動物界を探せさが ば、変わり種なんぞ、それこそゴマンといる。
 なぜヒトは自分たちだけが他の動物と隔絶かくぜつした存在そんざいだと思いたがるのだろう。
 わたしが小学生だったとき、クラスに双子ふたごの転校生がやってきた。一卵性双生児いちらんせいそうせいじで、とてもよくている。いつも同じ服を着ており、どうにも区別がつかない。担任たんにんの先生も、座っすわ ている席で区別していただけだ。向こうがその気になれば、だますのはいとも簡単かんたんである。ところが、一ヶ月かげつもすると、二人の微妙びみょう違いちが がわかるようになり、そのうちに、一瞬いっしゅんで見分けられるようになった。別にホクロのありなしとか、そんな特徴とくちょうで覚えたわけではない。毎日一緒いっしょに遊んでいるうちに、なんとなくわかってきたのである。いったんそうなってしまうと、今度は二人を見分けられない人の方が不思議に思えるようになった。
 同じような経験けいけんはたぶんだれにもあるのではないだろうか。慣れな 
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目でみると、どんな小さな違いちが でも大きくみえる。ぎゃく見慣れみな ないものはどんなに大きな違いちが があっても区別のつかないことがある。
 ヒトが自分たちだけが隔絶かくぜつした存在そんざいだと考えたがるのは、結局これと同じことではなかろうか。自分たちは自分たちの仲間の微妙びみょう違いちが がわかる。そういう目でみれば、サルや類人猿るいじんえんは、ヒトとはとんでもなく違っちが ている。逆にぎゃく 他の動物相互そうご間の違いちが はほとんど見過ごさみす  れてしまう。チンパンジーとゴリラの区別のつかない人は多い。きっとチンパンジーからみれば、ぎゃくにチンパンジーだけが他の動物たちと隔絶かくぜつして見えるに違いちが ない。
 そういう問題じゃない、ヒトは賢いかしこ のだ、というかもしれない。ヒトが自分たちは偉いえら 、と自慢じまんするとき、決まって引き合いに出すのがこの「頭の良さ」である。だがこれとて怪しいあや  ものだ。たとえばもし知能ちのう検査けんさ項目こうもくに、問題に答えるまでの時間があったとしたら、ヒトは絶対ぜったいにチンパンジーには勝てない。チンパンジーの反応はんのう時間はヒトに比べるくら  圧倒的あっとうてきに速いのである。ヒトにはほとんど区別のつかない二まいの写真の微妙びみょう違いちが を、ハトはすぐに見つけることができる。何をもって「頭が良い」とするかによって、順位は当然変わってくる。ヒトは自分たちに都合の良い項目こうもくを「頭の良い」の指標に選ぶからこそ、一番でいられるのだ。
 ミツバチは生まれたときから自分の仕事を知っている。働きバチは生まれてからの日齢にちれい応じおう て巣の掃除そうじ幼虫ようちゅうの世話や食物調達などの仕事を次々とこなしていく。ヒトはといえば、いい年にもなって、いまだに自分の仕事が見つけられずにブラブラしているやからもいる。生まれてから大量の情報じょうほう吸収きゅうしゅうして、学習に学習を重ねてやっと半人前になれる動物と、何もしなくても自然にその種としての行動を始める動物と、どちらが賢いかしこ 生き方なのか、判断はんだん難しいむずか  
藤田ふじた和生の文章による)
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a 長文 1.3週 ne2
 ゴッホ(有名な画家)の絵は、かれが生きているあいだは一般いっぱん大衆たいしゅうにはもちろん、セザンヌ(有名な画家)のような同時代の大天才にさえ、こんな腐っくさ たようなきたない絵はやりきれないとソッポをむかれました。当時はじっさい美しくなかったのです。それが今日はだれにでも絢爛けんらんたる傑作けっさくと思われます。けっしてゴッホの作品自体が変貌へんぼうしたわけではありません。むしろ色は日がたつにつれてかえってくすみ、あせているでしょう。だがそれが美しくなったのです。社会の現実げんじつとして。こんなことはけっしてゴッホのばあいにかぎりません。受けとる側によって作品の存在そんざいの根底から問題がくつがえされてしまう。
 こうなると作品が傑作けっさくだとか、駄作ださくだとかいっても、そのようにするのは作家自身ではなく、味わうほうの側だということがいえるのではありませんか。そうすると鑑賞かんしょう――味わうということは、じつは価値かち創造そうぞうすることそのものだとも考えるべきです。もとになるものはだれかが創っつく たとしても、味わうことによって創造そうぞうに参加するのです。だから、かならずしも自分で筆を握りにぎ 絵の具をぬったり、粘土ねんどをいじったり、あるいは原稿げんこう用紙に字を書きなぐったりしなくても、なまなましく創造そうぞうの喜びというものはあるわけです。
 わたしの言いたいのは、ただ趣味しゅみ的に受動的に、芸術げいじゅつ愛好家になるのではなく、もっと積極的に、自信をもって創るつく という感動、それをたしかめること。作品なんて結果にすぎないのですから、かならずしも作品をのこさなければ創造そうぞうしなかった、なんて考える必要もありません。創るつく というのを、絵だとか音楽だとかいうカテゴリーにはめこみ、わたしは詩だ、音楽だ、踊りおど だ、というふうにわくに入れて考えてしまうのもまちがいです。それは、やはり職能しょくのう的な芸術げいじゅつのせまさにとらわれた古い考え方であって、そんなものにこだわり、自分を限定げんていして、かえってむずかしくしてしまうのはつまりません。
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 それに、また、絵を描きえが ながら、じつは音楽をやっているのかもしれない。音楽を聞きながら、じつはあなたは絵筆こそとっていないけれども、絵画的イメージを心に描いえが ているのかもしれない。つまり、そういう絶対ぜったい的な創造そうぞう意志いし、感動が問題です。
 さらに、自分の生活のうえで、その生きがいをどのようにあふれさせるか、自分の充実じゅうじつした生命、エネルギーをどうやって表現ひょうげんしていくか。たとえ、定着された形、色、音にならなくても、心の中ですでに創作そうさくが行なわれ、創るつく よろこびに生命がいきいきと輝いかがや てくれば、どんなにすばらしいでしょう。
 だから、創らつく れた作品にふれて、自分自身の精神せいしん無限むげんのひろがりと豊かゆた ないろどりをもたせることは、りっぱな創造そうぞうです。
 つまり、自分自身の、人間形成、精神せいしん確立かくりつです。自分自身をつくっているのです。すぐれた作品に身もたましいもぶつけて、ほんとうに感動したならば、その瞬間しゅんかんから、あなたの見る世界は、色、形を変える。生活が生きがいとなり、今まで見ることのなかった、今まで知ることもなかった姿すがたを発見するでしょう。そこですでに、あなたは、あなた自身を創造そうぞうしているのです。

岡本おかもと太郎たろう『今日の芸術げいじゅつ』より)
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a 長文 1.4週 ne2
 二〇〇六年のトリノ・オリンピックで日本ぜい低迷ていめいを続けていたが、ようやく最後の最後になって、荒川あらかわ静香しずか選手が女子フィギュアで金メダルを獲得かくとくし、一気に盛り上がりも あ  を見せた。
 「静かなる湖の朝」を思い起こさせる荒川あらかわ選手の演技えんぎは、跳んと だりはねたりする「元気なフィギュア」のスタイルに対して、みごとに「別の選択肢せんたくし」を見せてくれたのではないかと思う。得点にはあまり貢献こうけんしないとされても、観客を魅了みりょうする「イナバウアー」にこだわった荒川あらかわ選手の快挙かいきょは、単に金メダルにとどまらない意味を持つ。
 「金」「銀」「どう」を「一」「二」「三」と言い直してみればわかるように、メダルとは、つまりは参加した選手の中での順位=「数字」である。よく言われることだが、勝者が出るためには、敗者が存在そんざいしなければならない。全員に「一」という順位の数字をプレゼントすることはできないのだ。
 一方で、競技きょうぎをしている選手たちにとっては、「順位」では捉えとら きれないさまざまなよろこびがあるのは当然のことである。自分を少しずつ高めていくこと。今までできなかったわざができたこと。ケガを乗りこえたこと。
 人間ののうでつくり出される「うれしさ」は、さまざまであり、他人と比べくら てどうかということとは、本来関係ないのである。
 人間ののうは他人との関係せいから多くのよろこびを得るが、その本筋ほんすじ誰かだれ の役に立つことができたとか、心が通じ合ったという点にある。
 競技きょうぎもまた関係せいの一種であり、そこで一番になったということは、本当は副次的なことなのだ。
 強いて言えば、一番になることで「人に認めみと られる」「ほめられる」ということがうれしいのかもしれない。それでも、けっして、「一番」という数字自体に人間関係における根源こんげん的な意味があるわけではないのである。
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 荒川あらかわ選手は、「ポイント(=数字)につながらなくても、人がよろこぶことをやりたい」という思いを強く持っていたと伝えられている。
 そのような、いわばのうにとっての「うれしさ」の本筋ほんすじが金メダルにつながったのだから、これほどすばらしいことはない。
 本質ほんしつを見極めずに、単に順位にこだわるのは、「数字フェチ」とでも言うべきだろう。
 年収ねんしゅう偏差へんさ年齢ねんれい。人間を惑わまど せる数字はたくさんある。数字にこだわるまいと思っても、ついつい左右されてしまうのが人間である。軽い数字フェチは、進化の過程かていでそれなりに役に立ったらしい。
 確かたし に、人間はみなある程度  ていど、数字フェチなのである。うれしいことがあったときに活動するのうの「報酬ほうしゅうけい」は、「これだけのがくのお金をあげます」などといった抽象ちゅうしょう的な刺激しげきでも活性かっせい化する。数字は、もともと人間ののうにとってはきわめて抽象ちゅうしょう的な概念がいねんである。その現実げんじつから離れはな 存在そんざいに自らのよろこびを託すたく ことができるということが、人間ならではの「クセ」らしい。
 学校の成績せいせきや、お小遣いこづか がくや、一国の経済けいざい成長りつ。数字に一喜一憂いっきいちゆうする人間は、動物たちから見れば、かなり奇妙きみょう存在そんざいである。ときには、おれたちはずいぶんヘンらしい、と反省することが必要だろう。
 荒川あらかわ選手の金メダルは、数字フェチたる人間のよろこびを、「他人をよろこばせる」という生きることの根源こんげんに結びつけてくれたのである。

茂木もぎ健一郎けんいちろう『すべてはのうからはじまる』「中公新書ラクレ」)
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a 長文 2.1週 ne2
 商品化された「いれもの」を買うときのわれわれは、ときとして、そのなかにはいるものを買うときよりも慎重しんちょうである。 たとえば、小麦粉だの砂糖さとうだのは、日常にちじょう必需ひつじゅ品であって、べつに銘柄めいがらを指定することもないが、それらの食品をいれるキャニスターを買うときには、あちこちの店を歩きまわって、よいデザインの品物をさがす。値段ねだんが多少高くても、うつくしいものを手にいれようと一生けんめいになる。
 タンスなどもそうだ。値段ねだんと実用せいからいえば、デパートの特価とっか品売場にたくさんタンスがならんでいるから、そのなかからえらべばそれでよいのだが、ながく使う家具、と思うと、なかなか実用一点ばりで気軽に買う気にはなれない。使われている材料だのデザインだのを吟味ぎんみして、いいタンスをさがしまわる。
 つまり、「いれもの」は、たんなる「ものいれ」ではないのである。「いれもの」はそれじたいの価値かちをもつのである。まえにあげた女性じょせいのハンドバッグなどもその一例だ。実用的機能きのうからいえば、財布さいふだの化粧けしょう品だのといった小物がそのなかにはいればそれでよいので、極端きょくたんにいえば、丈夫じょうぶ紙袋かみぶくろだって間にあう。しかし、そうはゆかない。ハンドバッグは、「ものいれ」なのではなく、それじしん、うつくしい「もの」でなければならないのである。だから、ハンドバッグその他の袋ものふくろ  に、高いおカネを払うはら 
 そればかりではない。「いれもの」がうつくしい「もの」であることによって、そのなかにはいるものの価値かちもすっかりかわってしまうからふしぎである。そのことが如実にょじつにわかるのは食器という名の「いれもの」だ。
 たとえば、ここに、一丁のなんの変哲へんてつもない豆腐とうふがある。これを湯豆腐ゆどうふにして食べよう、と思う。そして、湯豆腐ゆどうふをつくるための「いれもの」は、いろいろある。
 もしも、安上りにやろうと思ったら、雑貨ざっか店に行って、小さなアルミのナベを買ってきたらよい。このナベの底に昆布こんぶ敷きし 豆腐とうふを入れて火にかければ、やがて湯豆腐ゆどうふはできあがる。味もそうわるくはない。学生街の食堂などで湯豆腐ゆどうふといえば、だいたい、こ
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んなふうに安上りの「いれもの」にはいったもののことを意味する。わたしも、しばしば、そういう学生食堂の湯豆腐ゆどうふを食べてきた。
 だが、それだけが湯豆腐ゆどうふの「いれもの」なのではない。高級な湯豆腐ゆどうふの店では、京都の「たるげん」でつくられた、小型の湯ぶねのようなたるで湯豆腐ゆどうふの料理をしてくれる。木のにおいがぷんとして、たいへんに清潔せいけつだ。そして、とてもおいしい。おいしいかわりに、学生食堂のアルミ・ナベの湯豆腐ゆどうふのねだんの数十倍のおカネを払わはら なければならない。
 このふたつの湯豆腐ゆどうふは、どうちがうか。材料として使われている豆腐とうふにも、もちろん、ちがいがあるだろう。ひとくちに豆腐とうふといっても、いろいろつくりかたのうえでのコツだの原料の大豆のしつだのがちがうから、上等の豆腐とうふと、ふつうのそれとはおなじだとはいえない。
 しかし、より大きなちがいは「いれもの」のちがいなのである。すくなくとも、わたしのような味のシロウトは、「いれもの」で、完全に降参こうさんしてしまう。「いれもの」がよければ、それだけで、中身がおいしく感じられ、「いれもの」が貧弱ひんじゃくだと、あんまり食欲しょくよくもわかない。
 じっさい、日本の料理は、「いれもの」の芸術げいじゅつなのである。サトイモとエンドウ豆の煮つけに  、といった、ごく素朴そぼくな料理でも、それが古九谷のうつくしいはちにすこし盛りつけも   られて、サンショウの葉などがあしらわれていると、天下の珍味ちんみとみえ、ギンナンをホウロクで煎っい たものが、黒ウルシの皿で出されたりすると、これも、すばらしい食事だ、と感じられる。まさしく、ここにあるのは、「いれもの」の魔術まじゅつである。

加藤かとう秀俊ひでとし暮しくら の思想』による)
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a 長文 2.2週 ne2
 相手あっての文章という考えに立つと、文章は料理のようなものだということがわかってくる。
 料理は作った人も食べる。味見や毒味もする。しかし、料理は食べてくれる人がなくては張り合いは あ がない。料理の先生が、独り暮しひと ぐら の自分のマンションではインスタント・ラーメンを食べているという話がある。教わりたい人がいるから、先生にもなる。うまいと感心してくれる人がいるからこそ、うで振るっふ  てめんどうな料理もこしらえる。自分ひとりだけ食べるのでは、とてもそんな手間ひまをかける気がしないというのであろう。
 文章は料理、とすると、まず、食べられなくてはいけない。何を言っているのか、わからない。これでは料理ではない。スープなのか、みそ汁  しるなのかわからないのでは食べる方は迷惑めいわくである。
 若いわか 人の書く文章に、誤字ごじ脱字だつじ、当て字が多いと言われる。ご飯の中に石が入っているようなもので、石が歯にカチッと当たるのはたいへん気になる。そういう混ざりま  ものをなくさないと、せっかくの料理も台なしになってしまう。文章が料理だとすると、ある程度  ていど、栄養があり、ハラもふくれないといけない。見てくれだけの料理というのもあるが、本当に相手のことを考えていない。文章で言うと、しっかりした内容ないようがあることであろう。いくら表現ひょうげんにこってみても、中身がなくては困るこま 。何を言っているのかが読む側にはっきり伝わり、なるほどと納得なっとくするのがいい文章となる。
 料理で、いちばん大切なのは、おいしい、ということである。いくら栄養があっても、うまくなくては落第。つい食べ過ぎす てしまうようなものが上手な料理というものである。もうやめておきたいと思いながら、つい、もうすこし、もうすこし、と後を引くようなご馳走 ちそうを作るのが本当の名コックだ。
 文章もその通り。
 いくら、りっぱなことが書いてあっても、三行読んだら、あとはごめん、と読者が思うようなのではしかたがない。先、先が読みたくなって、気がついてみたらもう終わっていた。ああ、おもしろかった。こういう文章ならいくら読んでもいい。そういう気持を与えあた たら名文と言ってよい。
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 いまの文章は、多く、読者に対するそういうサービスの精神せいしんに欠けているように思われる。自分の書きたいことを一方的にのべる。身勝手なのである。同じことなら、おもしろく読んでもらおうという親切心が足りない。
 いま、クッキングスクールで料理の勉強をする人はたくさんいるが、文章の料理を教えるところは、ごくすこししかない。おもしろい文章を書こうと思う人がすくないからであろうか。
 ちょっと断っことわ ておかなくてはならないのは、その「おもしろさ」である。
 おもしろいというと、すぐ、おもしろおかしく、吹き出しふ だ たり、ころげ回って笑ったりすることを連想しがちである。そういうおもしろさもないわけではないが、ここで言っているおもしろさは、相手の関心をひくもの、といったほどの意味。読まずにはいられない、放ってはおかれないという気持を読む人に与えるあた  もの、それがおもしろさである。興味深いきょうみぶか もの、知的な快いこころよ 刺激しげきを感じさせるものは、すべて、おもしろいものになる。どんなに固い学術がくじゅつ論文ろんぶんでも、こういう意味ではきわめておもしろい、興味しんしんきょうみ    の文章でありうる。
 文章は料理のように、おいしく、つまり、おもしろくなくては話にならない。

外山滋比古とやましげひこ 「料理のように」 一部改変)
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a 長文 2.3週 ne2
 人間には、他人と違っちが ていることを非常ひじょうにいやがる気持ちと、他人とどこかちがっていないと満足出来ない気持ちとがからみ合っているようであります。かなり小さい時でも、ほかの子供こどもとちがった身なりをしていることはいやなことでありまして、たとえ自分がほかの子供こどもよりも上等な服を着ていましても、それを一刻いっこくも早く脱ぎぬ たいことを大概たいがいの人が何かの折りに経験けいけんしていると思います。そうかと思いますと、一様の制服せいふくを着せられている女学生などが、殆どほとん 目につかないところに一本ひだを入れるとか、むねを少しばかり広くあけるとかして、みんなと違っちが たところを創り出そつく だ うとしていることが見受けられます。世の中の服装ふくそうの流行は、目まぐるしく変りますが、学生の制服せいふくでも細かい流行があります。どんどん新しい流行が生まれるのは、他人と同じではいやだというところと、それに遅れおく て自分だけが流行おくれのなりをしては大変だということが微妙びみょうにからんでいるようであります。服装ふくそうなどの流行は、大部分表面的なもので次々と移り変っうつ かわ て行きますけれども、わたし先程さきほど真似まねをするといいと申しましたのは、もう少し深い意味を含めふく ていたつもりなのです。つまり真似まねをして、どうしても真似まねられないところに突きあたっつ    た時に自分自身の創造そうぞうする力、創り出すつく だ 力、それを発見することを含めふく ていたのです。自分には独創どくそうせいというものがないのではないか、最初はだれもがそう思うのですけれども、何か一つの活動を真剣しんけんになってやっていれば、必ず自分の独特どくとくの力量というものが発見されるはずです。それですから真似まねをすることは一つの手段しゅだんであります。手段しゅだんといいますよりは、わたしどもを動かすいわば原動力であります。したがって、うまく真似るまね ことが出来たと思ってそこで満足をしてそれで終わってしまっては何にもなりません。
 そこでわたし真似まねの仕方に上手下手があると思います。ひょっこり大金が手に入ったような時に、ある人は、それまで漠然とばくぜん 夢みゆめ ていたハイカラな生活をしてやろうとして、何でもかまわずお金持
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ちの持っているものを買い集め、舶来はくらいのもの、高いものを求めます。そしてよく話にあるとおり、洋服箪笥たんす長椅子ながいすが家の中に入らなかったり、大騒ぎおおさわ をしてそれでゆめがさめるのです。真似るまね ためにはもっと慎重しんちょう態度たいどが要るのでして、真似まねをしてもそれを自分なりに充分じゅうぶんこなせることを順に選んで、そして心身ともに楽しい、進歩の感じられるような生活に切りかえて行くのが上手な真似まねの仕方だと思います。これは個人こじんの場合でもはっきりしていますが、少し気をつけて考えてみますと、社会生活の上にも、考えなしに外国の生活の真似まねをしてしまって、そしてそれが真似まねに終わって、ちぐはぐな、ぎこちない、具合の悪いものがいっこうに改良されずに残っているものがずいぶんわたしたちの周囲にはあります。明治のころのあの文明開化で、無反省に取り入れてしまったのは、ズボンをはいて座布団ざぶとん座らすわ なければならない生活にも残っていますし、また、戦争後、文化国家ということになった日本が外国から仕入れた多くの電気器具やその他の立派りっぱな道具などで、冬の停電の時に何ともいえず味気ない姿すがたをさらしているものもあるわけであります。あれほど多くの人が尊んたっと でいる独創どくそうせいが生まれてこないのは、一つは真似まねの仕方が下手だということにもあるようです。

串田くしだ孫一の文章による)
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a 長文 2.4週 ne2
 たとえばサッカーのワールドカップを観る。多くの日本人がスタジアムやスポーツ・カフェや、あるいは自宅じたくなどで応援おうえんをしている。そして日本人がゴールした瞬間しゅんかん、その興奮こうふんと喜びは一瞬いっしゅんにして全ての日本人の間をかけめぐります。特にスタジアムにいる人などは、みごとに嬉しいうれ  という感情かんじょうで一つになる。これは、感情かんじょうというものが非常ひじょうに伝わりやすい性質せいしつを持っているからです。
 感覚とか考えていることとかは、なかなかダイレクトには伝わりません。ところが感情かんじょうのうという垣根かきね越えこ 瞬時しゅんじに伝わっていく。この性質せいしつについては人間も他の動物も変わらないようです。
 さてそれでは、この感情かんじょうが伝わるということがすなわち分かり合えるということなのか。同じ感情かんじょうさえ共有すれば人は互いにたが  優しくやさ  なれるのか。もちろんそれは出発点ではあるかもしれませんが、単にそれだけのものではない。他人の気持ちが分かるというのは、それほど単純たんじゅんな図式ではないのです。ただ、この共感回路というものがベースになっていることは確かたし でしょう。人が苦しんでいるのに何とも思わないほどに共感回路が働かなければ、それは優しやさ さとはかけ離れ  はな たものになります。
 今もし、人の気持ちが分からない人が増えふ ているとしたら。優しやさ さが失われつつあるとしたら。それはきっと共感回路の機能きのうが低下しているからと言えるでしょう。
 他人の心が分かるということが、なぜにこれほど難しいむずか  ことなのか。感情かんじょうなどが瞬時しゅんじに伝わるという共感回路を持ちながらも、なかなか他人の心を理解りかいすることができない。実はその理由は、人間にしか持ち得ないある特性とくせいがあるからです。
 その特性とくせいの正体はポーカー・フェイス。つまり心に抱いいだ ている感情かんじょうと、表に出てくる顔の表情ひょうじょうにくい違いちが があるということです。他の動物は感情かんじょうの動きと表情ひょうじょう常につね 一致いっちしています。怒っおこ ている時はキバをむき出しにするし、喜んでいる時は体でそれを表現ひょうげんする。要するに互いたが の顔や目、あるいは体の動きを見るだ
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けで相手の心が理解りかいできます。
 ところが人間は、心の動きを表に出さず、隠しかく てしまうことができます。本当は悲しいのに笑顔をつくることができる。ものすごく怒っおこ ているのに、冷静な表情ひょうじょうをつくることができる。あるいは置かれた状況じょうきょう応じおう て、その場に合った表情ひょうじょうをつくることもできます。たとえば葬儀そうぎの場所などではそうです。亡くなっな   た人のことを大して知らなくても、また大した悲しみを覚えていなくても、意図的に悲しい表情ひょうじょうをつくることができる。なかには本物のなみだを流せる人もいるでしょう。
 こうしたポーカー・フェイスがあるからこそ、互いにたが  気持ちが分かり合うことが難しくむずか  なる。また、分からないことによって誤解ごかいが生じたりするのです。まずはこのポーカー・フェイスの存在そんざいをよく認識にんしきすること。他人の心というものは、必ずしも見かけとは一致いっちしないということ。そのことをよく理解りかいしておかなくては、社会生活は成り立っていきません。
 他人を思いやる気持ち。互いにたが  分かり合おうとする気持ち。それはまさに、見かけと違うちが 心の状態じょうたいをいかに推測すいそくできるかということになるでしょう。そしてこの推測すいそくする力の高い人ほど、人間関係力も高いということが言えるのです。
 では、そうした力はどうすれば高めることができるのか。やはりそこには「感動」というものがあるような気がします。新しいものや美しいものに触れふ て感動するというだけでなく、人間関係の中での感動を味わうこと。他人と心が通い合うことで、静かな感動を体感することが大切です。

茂木もぎ健一郎けんいちろう『感動するのう』「PHP研究所」より)
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 甘いあま おしるこを食べているとだんだんあまさを感じなくなります。これは、味覚が疲労ひろうして甘みあま の感度が落ちたからだとも考えられます。途中とちゅうに塩味の強い漬物つけものを食べるのは、味の対比たいひを作って、甘味あまみの感覚をさい覚醒かくせいさせるためです。
 トイレの臭いにお は好ましいものではありません。しかし、しばらくすると、何も感じなくなって、平気で入っていられるようになります。嗅覚きゅうかく非常ひじょう疲労ひろうが速いので、トイレに入っても臭いにお を気にせず、新聞を読んでいられるのです。人間は一分間に二〇回も呼吸こきゅうしているので、呼吸こきゅうのたびごとにくさい臭いにお をかいでいたのではたまりません。感覚器はむしろ自らの疲労ひろうによって、のう疲労ひろう防いふせ でいるのです。このことから考えてみると感覚が疲労ひろうしはじめているのに無理に同じ仕事を続けることは、あまりよいことだとは言えません。(中略ちゅうりゃく
 毎日同じ仕事を長く続けていると、それほど苦労しないのに職場しょくばでの仕事が楽になり、上手になってきます。このような人は熟練工じゅくれんこうと言われ、大切にされます。人間国宝こくほうと言われる人も、その道の熟練工じゅくれんこうとして、くり返しによって身についた能力のうりょくが土台になっているのでしょう。
 同じ仕事を繰り返しく かえ ていると、「もう分かっている」とか「またか」という状況じょうきょうになるので、努力しないでも習慣しゅうかん的に行動ができるようになります。これが馴れな 現象げんしょうであり、頭を使わなくてもすむので、頭を経済けいざい的に働かせることができ、のう余裕よゆうが生まれるのです。のうを休ませることによって、いざというときにはいつでも仕事ができるように、待機しているのです。
 さまざまな刺激しげきにいちいち真正直に反応はんのうしていたのでは、のう忙しいそが すぎて疲れつか てしまいます。例えば、まじめな部下が細かいことまでいちいち報告ほうこくしてきたら、上司はそのために疲れつか て、適切てきせつ判断はんだんを下すことも困難こんなんになってしまいます。そこで感覚器の方も「またあの人がきたか、どうせ同じことを言うだけだ」と門前払いもんぜんばら 
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をしようとします。はじめのうちはちょっと呼んよ でもすぐ返事をしていましたが、またかと感ずると返事もしなくなります。返事をしてもらうためには、もっと大きな声で呼ばよ なければなりません。すでに分かっている場合には、のう負担ふたんをかけないために、むしろ常套じょうとう的な行動をとってしまうのです。こうした感覚感度をみるのに閾値いきちという言葉が使われます。いきちとは、越すこ 越さこ ないかの境目さかいめあたいのことで、この越しこ てきたものが反応はんのう値するあたい  刺激しげきの強さとなるのです。
 「馴れな 」ている事柄ことがらに対してはだれもあまり気を使いません。これも神経しんけいけい疲労ひろう防ぐふせ 方法なのです。馴れな ていることはあえて努力しなくてもなしとげられるものなのです。
 四季の変わり目には敏感びんかんだが、やがて真夏の暑さと、真冬の寒さに耐えた られるようになることを、気候順化と言います。同じことが身体にも起こります。四季の変化に対してもはじめのうちは敏感びんかんですが、徐々にじょじょ 感覚が鈍くにぶ なるのは、刺激しげきに対する閾値いきちが上がったことを意味しています。
 はじめて腕時計うでどけいをはめたり入れ歯を入れたときは気になるものですが、やがて何も感じなくなります。これは触覚しょっかく馴れな であり、やはり感覚疲労ひろう効用こうようと言えましょう。

渡辺わたなべ俊男としお『人はどうして疲れるつか  のか』より)
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 手紙を書く機会が減っへ た。現在げんざいでは、手紙は、基本きほん的に礼状れいじょう冠婚葬祭かんこんそうさい挨拶あいさつじょうや案内じょうくらいにしか使われていないのではあるまいか。ほとんどの人が、電話で用を済ませるす   
 が、もっと手紙を書くべきではなかろうか。手紙には長所がたくさんある。第一の長所は、よく言われるとおり、電話と違っちが ひまな時間に読んでもらえることだ。電話は他人の時間を邪魔じゃまする。相手は風呂ふろに入っているかもしれない。家庭内で問題を抱えかか ているかもしれない。いつも、人とおしゃべりをする余裕よゆうがあるとは限らかぎ ない。手紙であれば、電話ほどの押しつけがましお      さがない。
 しかし、手紙の長所がこれだけだと思われてしまうのは、わたしとしては心外だ。ほかに、いくつもの手紙の長所があるのだ。
 二番目の長所、それは、電話よりもまとまったことが一方的に語れるということだ。電話の場合、どうしても、相手とのやり取りになる。一人で一〇分間しゃべることはできない。もし、そんなことをしたら、不躾者ぶしつけものという評判ひょうばんが立つのがオチだろう。すぐに返事が必要で、相手と相談しながら結論けつろんを出さなければならないときには、電話が便利だが、そうでなければ手紙が好ましい。手紙なら、一定時間、自分の文章にくぎづけにできる。長い間、自分の言いたいことに耳を傾けかたむ てもらえる。
 第三の長所、それは手紙の場合、じっくりと書き直せることだ。口で言うと、その場で返事が返ってくるのは便利な反面、自分の言葉を吟味ぎんみできない。言い直しにくい。頭の回転の速い人ならいいかもしれないが、わたしレベルの頭の回転だと、言った先から、「しまった、こんなこと言うんじゃなかった」と思う。しかも、話をするときには、相手の反応はんのうを予想してじっくりと対策たいさくを立てることができない。だが、手紙なら、一度書いたあとしばらくしまっておいて、もう一度読み返すことができる。相手の立場になって考え直すことができる。文体を練り、書き直せる。
 第四の長所、それは、手紙は理性りせい的になれることだ。とりわけ、誰かだれ 抗議こうぎをしたいような場合、口で言うと、けんかになる場合がある。微妙びみょうな問題の場合、売り言葉に買い言葉ということにな
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りかねない。ところが、手紙であれば、冷静に考えることができる。相手の言い分を言い負かそうと書いているうちに、相手の言い分にも正しい面があることに気づいたりする。あるいはぎゃくに、もっと的確てきかくな自分の考えを見つけ出すこともできる。両者ともに納得なっとくするアイディアを思いつくこともあるかもしれない。時には、書くうちにますます熱を帯びることもないではないが、その場合も、書いた後には冷静になることも多い。したがって、書きおわった後、すぐに投函とうかんしなければ、理性りせい的に考えることができる。
 もう一つ、手紙の長所がある。それは、相手が繰り返しく かえ 読むことができることだ。もちろん、それは短所にもなる。不用意なことを書くと、それがのちのちまでを引くことになりかねない。そうならないように細心の注意が必要だ。だが、楽しい手紙であれば、繰り返しく かえ 読むことになる。そうなることで、手紙は人と人との関係をいっそう緊密きんみつにすることができる。意地の悪い言い方をすれば、手紙をうまく使えば、面と向かって話をすると気まずくなる人とでも、心のふれあいができるのだ。そして、それをきっかけにして、良い関係を作ることもできるだろう。

樋口ひぐち裕一ゆういち『ホンモノの文章力』より)
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a 長文 3.3週 ne2
 若いわか 人たちにとっては、自分の才能さいのうがどこにあるのかとか、はたして自分になんらかの意味で才能さいのうというものがあるのか、ということは非常ひじょうに大きな問題だろうと思います。それで、世の中で成功した人を見ていると、はじめから才能さいのうが満ちあふれていて、何もまよいなくその道にずっと邁進まいしんしてきたように見えるかもしれない。
 いや、なかにはそういう人もいるだろうと思います。モーツァルトとかベートーベンとか、あるいはゴッホとか、たしかにいるとは思いますが、しかしそれはほんとに何億人に一人の希有な例であって、ほとんどの人はそうではない。
 現にげん 例えば、音楽家で、あるいはシンガーとして成功しているとか作家として成功している、あるいは大会社の社長になっている、証券しょうけん界でディーラーとして何百億円もの利益りえきを上げているとか、そういうふうに成功している人をみると、何か揺るぎないゆ    ものがあるようにみえるけれども、しかし、そういう彼らかれ にしてからが、おそらく、十代のころとか、大学を出てから数年の間のいわゆる若いわか 時代というのは、きっと、はたして自分はこの道に進んでよかったのだろうかとか、ほんとは自分は別のところに才能さいのうがあるんじゃないだろうかとか、もっと自分にとってよい人生がどこかに用意されているような気がする、とかいうような気持ちの揺れゆ というかまよいのようなものは、かならずあったに違いちが ないんです。
 だから、はじめから自分の才能さいのうはこの程度ていどだ、とかいうふうに、自分で自分を決めつけてしまうことは、一種の敗北主義しゅぎで、もう闘わたたか ずして敗れているようなものです。
 一つの目安としては、三十さいまでに一つの方向が見えてくれば、その人にとっては、見極めは早いほうだ、とそのくらいのはばで考えておくといいだろうと思います。
 昔のように、例えば、小学校を出たらすぐ社会に出て、丁稚でっち奉公ぼうこうからはじめて、というようなことであれば、これは二十さいにな
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るころには相当社会経験けいけんを積んだ、一人前の社会人になり得るということだけど、いまは大半が大学まで行くような世の中になってきたので、おのずから状況じょうきょうが変わったんです。
 つまり、大学の卒業まではモラトリアムですから、とくに何も決めなくても構わかま ない。
 そうすると、大学卒業が間近となるまで、あるいは就職しゅうしょくというものが目の前にぶら下がってくるまでは、だれも、はたして自分の才能さいのうはいずこにありや、なんていうことはそれほど切実に考えないですむわけです。
 ほんとうに切実に考えるのは、卒業が間近になったころ、あるいは、卒業して実際じっさいに社会に出てから、何かで挫折ざせつ感を味わって、そこではじめて、ウームこれでよかったのかと考えるチャンスがやってくる。つまり二十さいから三十さいの間ぐらいのところが一番いろいろ揺れ動くゆ うご ところじゃなかろうかと思うんですね。
 才能さいのうというものは、実際じっさいはブラックボックスのようなもので、本人が、おれはこれに才能さいのうがあると思っているにもかかわらず、全然才能さいのうのない場合もあり、本人は思いもかけないのに、たいへんに才能さいのうがあるという場合もあって、かならずしも、自己じこ評価ひょうかと、人から見た評価ひょうかとは一致いっちしないものです。そこに才能さいのうというものの、やっかいにしてしかしおもしろいところがあります。
 だから、わたしの意見はこうです。
 才能さいのうがどこにあるかは今すぐ自分だけでは分からないし、また、どの程度ていど才能さいのうであるかも測れはか ないけれども、しかし、たしかにそれぞれの人にはそれぞれの人の才能さいのうというものがあり、得意・不得意、得手・不得手というものがあることも動かない事実です。そうでしょう?

(林望『魅力みりょくある知性ちせいをつくる24の方法』による)
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 じっさい、日本人にとって、いちばん使いにくい言葉は「ノー」なのである。むろん、日本人も「いいえ」とか「いや」とかいうが、どんな否定ひていの言葉も、「ノー」のように、はっきりしていない。「ノー」というのは、きっぱりと否定ひていすることである。はっきりと断わること  ことでもある。ところが、日本人はどうもそれが苦手なのだ。げんに「きっぱりと断わること  」というような表現ひょうげんがその間の心情しんじょうをよく語っている。
 断わること  というのは、そもそも「はっきりと断わること  」ことではないか。それなのに、「きっぱり」とか「はっきり」などという限定げんていをつけるのは、日本人にとって「断わること  」ということが「きっぱり」「はっきり」した否定ひていを意味していないということを語っている。もし、そんなふうにきっぱり断わっこと  たなら、相手はつれないと思うだろう。「すげなく断わらこと  れた」と思われるにちがいない。そんなふうに思われたらやりきれないので、まずは一応いちおう断わっこと  ておくのだ。つまり、いくばくかの可能かのうせいを残しておくわけである。そして、徐々にじょじょ 相手にこちらの否定ひてい意志いしを感じとらせるというやり方を取る。

中略ちゅうりゃく

 ある販売はんばい会社のかべに、こんな標語が貼っは てあるのを見かけた。「セールスは断わらこと  れたときに始まる」。それを見てわたしは、あっぱれな精神せいしん!と大いに感心したのだが、同時に、なんと日本的なスローガンだろうか、と思った。なぜなら、この標語は「日本人にとって断わること  ということは、けっしてきっぱりと断わること  ことではない」といっているように思えたからである。もし断わること  ことが、きっぱり断わること  のと同義どうぎであるなら、こんな標語は成り立つわけがない。いくら説得しても、客は最後まで「ノー」というであろうからだ。ところが、こうしたスローガンが立派りっぱに通用し、社員を鼓舞こぶ
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しているところを見ると、日本人の否定ひていは完全な否定ひていではなく、あくまで一応いちおう否定ひていであって、その否定ひていはいつか肯定こうていに転じる可能かのうせいを持っていることが、わかる。別言すれば、日本人にとってきっぱり断わること  こと、最後まで「ノー」といいつづけること、それがいかに困難こんなんであるか、この標語が見事にいい当てているのである。
 このように、日本人は完全な否定ひていを言明することをためらい、つねにいくばくかの肯定こうてい余地よちを残すのを美徳びとくと考えるから、外国人とのあいだでしばしばトラブルが起きる。たいていの民族は、否定ひてい否定ひてい肯定こうてい肯定こうていと、それこそイエス、ノーをはっきりと区別している。否定ひていだか肯定こうていだかわからないと、いらいらし、勝手にどちらかにきめて行動する。すると日本人はびっくりして、じつはそうではないんです、などと訂正ていせいする破目はめになる。外国人のあいだで通念のようになっている日本人は不可解ふかかいだというイメージは、このような日本人の否定ひていのあいまいさに大半をおうている。

(森本哲郎てつろう『日本語 表とうら』「新潮しんちょう文庫」)
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