a 長文 7.1週 ni
「ドタッ、バタッ」
 という音が聞こえ、わたしは一体何が出てくるのだろうと、嬉しいうれ  よりも怖くこわ なってしまった。
 これまでで一番印象に残っているプレゼントは、七さい誕生たんじょう日のときのことだ。なにしろ、品物でも食べ物でもなく、生き物を贈らおく れたのだから。
 両親が買ってきたのは、アメリカンショートヘアーの子猫こねこだった。わたし驚かおどろ せようと直前まで隠しかく ていたようだが、ハウスの中で元気よく動き回る音が、廊下ろうかの向こうから響いひび てきていた。
 まだ小さかったわたしにとって、それは未知の存在そんざいに対する恐怖きょうふとなり、父が運んでくるころにはその不安は頂点ちょうてんに達していた。喜ぶとばかり思っていた父は、わたしが今にも泣きそうな顔になっているのを見て、困っこま てしまったと言っていた。
 ハウスから出てきた子猫こねこは、想像よりはるかに小さかった。まるで新しい住みかを確かめるかのように、まん丸のひとみで周囲をきょろきょろと見回している。よちよちとテーブルを歩き回っては、こてんと転んだりする。そのかわいらしい姿すがたを見て、わたしは「この子の面倒めんどうわたしが見てあげなきゃ」と決意した。
 「ロビン」という名前も、わたし悩みなや 悩んなや でつけたものだ。しかし、そんなロビンとの暮らしく  波乱はらんの連続で、わたしは生き物を飼うことの大変さを知った。食事やトイレのしつけはもちろんのこと、壁紙かべがみをボロボロにされたり、お風呂ふろに入れるたびに大騒ぎおおさわ になったり、脱走だっそうしたまま二日間も帰ってこず、心配で倒れたお そうになったこともある。
 さらに、抱っこだ  してやろうと手を伸ばせの  ば、するりと逃げ出しに だ てしまうのだ。いつでも手にとれるぬいぐるみとは違うちが のだと痛感つうかんさせられる。それでいて、自分がお腹 なかが空いたときには体をこすりつけて露骨ろこつ甘えあま てくるのだから、なんとも憎らしいにく   
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 学校でも飼育係をした経験があるが、その仕事は気が向いたときにエサをやったり、先生の指示があったときに水槽すいそう洗っあら たりする程度だった。
 ロビンはもうすっかり、大切な家族の一員である。だが今にして思えば、あの七さい誕生たんじょう日に両親からプレゼントされたのは、もっと大きな価値かちのあるものだったのかもしれない。
 つまり、生き物を世話することでたくさんの思い出や教訓を得る、という機会だ。こうした自分の人生に生きてくるものこそ、人間にとって本当にありがたいプレゼントなのではないかと思った。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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a 長文 7.2週 ni
 「そこをなんとか」という言い方はきわめてあいまいである。「そこ」とは何をさすのか。「なんとか」とはどういうことなのか。おそらく、これをそのまま外国語に翻訳ほんやくしたら、まったく意味をなさないだろう。いや、意訳いやくしても通じまい。だいいち、意訳いやくのしようがない。強いて説明するなら、「あなたはそのような理由で拒絶きょぜつなさるが、その理由をもう一度考え直して、わたしの要求に応じおう てくださるまいか」とでも言うほかあるまい。
 しかし、外国人が理由をあげてたのみを断ることわ 場合は、「だから、わたしはあなたの願いをお引き受けするわけにはいかない」という確固たるかっこ  立場を表明しているわけで、したがって、もうそれ以上いくらたのんでも、応じおう てくれる余地よちはない。相手の要求をいれる余地よちがないからこそ、当人は断っことわ たのである。
 ところが、日本人は義理ぎり人情にんじょうにからまれて、どんなに明白な拒絶きょぜつの理由があろうと、相手に熱心にたのまれたら、それをむげに断ることわ のは、何か気がひけるように思ってしまう。われわれはそれを「義理ぎり人情にんじょう」のせいにするが、もともと義理ぎり人情にんじょうとは、正反対の概念がいねんなのである。「義理ぎり」とは、正当な理のことであり、「人情にんじょう」とは、その理を解きほぐすと    じょうを意味する。このように、正反対のものを一緒いっしょにし、折衷せっちゅうして、日本人はそこに独特どくとく判断はんだん領域りょういき設定せっていするのだ。それは、別言すれば「情状じょうじょう酌量しゃくりょう」といってもよい。つまり、一切のことがらは、それ自体完結しているのではなく、時と場合に応じおう て、伸縮しんしゅく自在じざいの形をとっているわけである。
 だから、日本人のノーは、けっして絶対ぜったい的な否定ひていではなく、その一部にイエスを含みふく 、イエスは、その中にノーの要素ようそをあわせ持っている。「日本人の不可解ふかかいな笑い」といわれるものは、その時その時の、こうした判断はんだんから生まれているようにわたしには思われ
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る。それを勘案かんあんするあいだ、日本人は微笑びしょうしているのである。とうぜん、外国人には、それが狡猾こうかつなごまかしのように映るうつ けれど日本人は、これこそが人情にんじょう、すなわち、もっとも人間的な対応たいおうとみなすのだ。
 じっさい、「そこをなんとか」という表現ひょうげんの中には、日本人のものの考え方が、じつによくあらわれている。その考え方とは、すべては完全ではない、ということだ。そこで、たのむほうも、たのまれるほうも、いくばくかの部分が必ず保留ほりゅうされていることを前提ぜんていに話し合う。したがって、あと、どのくらい可能かのうせい余地よちがあるか、その「残された部分」を両者は見きわめようとし、この言葉が頻出ひんしゅつするわけである。
 日本の絵画の特質とくしつに「余白よはく」の美というのがある。それに対してイスラムの芸術げいじゅつは、まったくぎゃくで、空白への恐怖きょうふとも思えるほど、びっしりと空間をうめつくす。モスクの絢爛けんらんたる装飾そうしょくに、それがよく現れあらわ ている。
 もともと砂漠さばくの民であるアラブ人は、けっして妥協だきょう余地よち認めみと ない。それが、こうした芸術げいじゅつ性格せいかくにも表現ひょうげんされているのではなかろうか。
 ところで、日本人の好む「余白よはく」だが、これは言うまでもなく、可能かのうせいを意味する。画家は、そこに何かを描こえが うと思えば、いくらでも描きえが 足すことができるのだ。しかし、かれ描かえが ない。描かえが ないことによって、鑑賞かんしょう者にその部分をあずける。「余白よはく」は画家と鑑賞かんしょう者の共有の空間なのである。そして「余白よはく」をそれぞれが、想像そうぞうによってどのようにうめるか、当の作品は作者と鑑賞かんしょう者、双方そうほうの「せめぎあい」にかかっている、といってもよかろう。「そこをなんとか」することにより、日本の芸術げいじゅつも、その価値かちを決められるわけである。

(森本哲郎てつろうの文章による)
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a 長文 7.3週 ni
 あれは小学校三年のころだったと思うが、手作りの虫かごの中で、アオムシがキャベツの葉をすさまじい勢いいきお で食べながら、ポトリポトリと緑色のまるい大きなふんを落としていくのを、感心しながらながめていた記憶きおくがある。消化されないセルロース(せんい)をあれだけ食べれば、立派りっぱふんをどんどんと出していかなければならないのだろう。葉を食べるということは、ずいぶん効率こうりつの悪いことなのである。
 ふつう草食の哺乳類ほにゅうるいでサイズの小さいものは、葉だけを食べるということはせず、もっと栄養のつまっている果実や種子や貯蔵ちょぞう根(いも)を食べる。小さい哺乳類ほにゅうるいは、体重あたりで比べれくら  ば、非常ひじょうに多くの食べ物を必要とするから、栄養の低い葉っぱだけで生きていくことはむずかしいのだろう。
 サイズの大きな哺乳類ほにゅうるいでも、草に含まふく れている細胞さいぼうしつだけから栄養をとることはせずに、もっと優れすぐ た方法をあみだしたものが繁栄はんえいしている。ウシやヤギのような反すう動物である。かれらはいくつもの部屋に分かれた大きな胃袋いぶくろをもち、この中に単細胞たんさいぼう生物やバクテリアを共生させている。これらの共生微生物びせいぶつにセルロースを分解ぶんかいさせて、それを自分の栄養にする。だから、同じ草を食べるといっても、細胞さいぼうしつだけ食べてあとは捨てるす  のとは状況じょうきょうがまったく違うちが 。反すうなどという芸当ができるのも、巨大きょだい胃袋いぶくろをもてるだけ、体のサイズに余裕よゆうがあるからだろう。
 ほとんどの鳥は葉っぱは食べない。ハクチョウなどの大形のものをのぞき、草食せいの鳥は果実か穀物こくもつを食べる。これは飛ぶことと関係すると思われる。葉をたべるということは、栄養の低いものを大量に摂取せっしゅすることを意味している。これでは胃袋いぶくろばかり重くなって、飛び回るには都合が悪い。
 実は、同じことが昆虫こんちゅうにもあてはまる。草を食うのは、飛ばない幼虫ようちゅうの時代なのである。変態へんたいして飛ぶようになったら、草は
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食べない。みつ樹液じゅえき吸うす 。これらは栄養の水溶液すいようえき、つまりドリンクざいのようなものだから、吸収きゅうしゅうがよく、重い胃袋いぶくろをかかえてよたよた飛ぶことにはならず、都合がいい。(中略ちゅうりゃく
 昆虫こんちゅうの成功の秘訣ひけつは、大量にありながらほかの動物たちがあまり手をつけなかった葉っぱという食物に目をつけたところにある。しかし、草を食うということは、重い胃袋いぶくろをかかえるわけで、移動いどうせい犠牲ぎせいにする。一本の草を一ぴきの虫が食いつくしてしまったら、草も虫もおしまいであろう。イモムシのような動きののろいものが、草を食いつくしながら、新しい草を求めてはいまわるのは、現実げんじつ的でない。昆虫こんちゅうの小さいサイズは、一本の草で満足できる程度ていどの、てごろなサイズだと思われる。
 しかし、小さくてイモムシのようにはいまわっていては、ひろく子孫をばらまいたり、よい環境かんきょう探しさが 移動いどうするには不利である。そこで、じゅうぶん草を食べて育ったら、変身して羽をのばして飛び回ることにした。どのみち成長の過程かていでクチクラのから脱いぬ で、新しいからを作らねばならないのだから、そのさい、体のつくりも大幅おおはばに変えてやるのは、そう抵抗ていこうはないだろう。こうして羽を得た昆虫こんちゅうは、広い範囲はんいを飛び回り、子どもがちゃんと生きていけそうな草を見つけてたまごを産む。幼虫ようちゅう自身はあまり動きまわれず環境かんきょうを選ぶことはできないが、親がかわりに選んでくれるわけだ。
 昆虫こんちゅうは羽化を節目として食せいと運動法を切り替えるき か  幼虫ようちゅう期は、あまり動かず、ひたすら食う。このときには胃袋いぶくろが重くてもいい。羽化して成虫になると、飛び回ることが最優先ゆうせんになり、消化のいいものだけを食べる。なかには成虫になったらまったく食事をしないものもいる。このように昆虫こんちゅう変態へんたいすることにより、小さいサイズの短所を解消かいしょうした。昆虫こんちゅうの生活は、まさにサイズと密接みっせつにかかわっているものなのである。

(本川達雄たつお「ゾウの時間 ネズミの時間」による)
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a 長文 7.4週 ni
 久助きゅうすけ君の身体のなかに漠然とばくぜん した悲しみがただよっていた。
 昼のなごりの光と、夜のさきぶれのやみとが、地上でうまくとけあわないような、妙にみょう ちぐはぐな感じのひとときであった。
 久助きゅうすけ君のたましいは、長い悲しみの連鎖れんさのつづきをくたびれはてながら、旅人のようにたどっていた。
 六月の日暮ひぐれの、微妙びみょうな、そして豊富ほうふな物音が、戸外にみちていた。それでいて静かだった。
 久助きゅうすけ君は目を開いて、柱にもたれていた。何かよいことがあるような気がした。いやいやまだ悲しみはつづくのだという気もした。
 すると遠いざわめきのなかに、一こえ山羊のなき声がまじったのをききとめた。久助きゅうすけ君はしまったと思った。生まれてからまだ二十日ばかりの山羊を、ひるま川上へつれていって、昆虫こんちゅうを追っかけているうちついわすれてきてしまったのだ。しまった。それと同時に、山羊はひとりで帰ってきたのだと確信かくしんをもって思った。
 久助きゅうすけ君は山羊小屋の横へかけ出していった。川上の方をみた。
 山羊は向こうからやってくる。
 久助きゅうすけ君にはほかのものは何もにはいらなかった。山羊の白いかれんな姿すがただけが、――山羊と自分の地点をつなぐ距離きょりだけがみえた。
 山羊は立ちどまっては川縁かわっぷちの草をすこしみ、またすこし走っては立ちどまり、無心に遊びながらやってくる。
 久助きゅうすけ君はむかえにいこうとは思わなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
 山羊は電車道もこえてきたのだ。電車にもひかれずに。あの土手のこわれたところもうまくわたったのだ。よく川に落ちもせずに。
 久助きゅうすけ君はむねが熱くなり、なみだがにあふれ、ぽとぽとと落ちた。
 山羊はひとりで帰ってきたのだ。
 久助きゅうすけ君のむねに、今年になってからはじめての春がやってきたよ
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うな気がした。
 久助きゅうすけ君はもう、兵太郎へいたろう君が死んではいない、きっと帰ってくる、という確信かくしんを持っていたので、あまりおどろかなかった。
 教室にはいると、そこに――いつも兵太郎へいたろう君のいたところに、洋服に着かえた兵太郎へいたろう君が白くなった顔でにこにこしながら腰かけこし  ていた。
 久助きゅうすけ君は自分の席へついてランドセルをおろすと、を大きく開いたまま、兵太郎へいたろう君をみてつっ立っていた。そうすると自然に顔がくずれて、兵太郎へいたろう君といっしょに笑い出した。
 兵太郎へいたろう君は海峡かいきょうの向こうの親戚しんせきの家にもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやで帰ってきたのだそうである。それだけ久助きゅうすけ君は人からきいた。川のことがもとで病気をしたのかしなかったのかはわからなかった。だがもうそんなことはどうでもよかった。兵太郎へいたろう君は帰ってきたのだ。
 休憩きゅうけい時間に兵太郎へいたろう君が運動場へはだしでとび出していくのをまどからみたとき、久助きゅうすけ君は、しみじみこの世はなつかしいと思った。そしてめったなことでは死なない人間の生命というものが、ほんとうに尊くとうと 、美しく思われた。

(新美南吉なんきち「川」)
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a 長文 8.1週 ni
 紫色むらさきいろ輝くかがや 大粒おおつぶの果実が、目の前にいくつもぶら下がっている。その中の一つをもぎとって口の中に放り込むほう こ と、みずみずしい甘酸っぱあまず  さが一気に広がった。自分の手でブドウの実を摘んつ で、その場で食べるなんて初めての体験だ。感激かんげきして後ろを振り向くふ む と、父も母もそれぞれ夢中でブドウを頬張っほおば ていた。
 わたしたちは「旅行好き」、「食いしん坊く   ぼう」という点が共通した家族である。
 父は仕事一筋ひとすじの働き者で、毎日遅くおそ 帰ってきてはご飯を食べてすぐ眠っねむ てしまう。趣味しゅみらしい趣味しゅみもないそうだが、旅行に出かけたときだけはニコニコしていて、見違えるみちが  ほどエネルギッシュである。
 母は母で、よく同窓生どうそうせいと旅行に出かける。帰ってくる日の夕飯は、決まって地方の名物弁当だ。
 朝早くに起きて、急な日帰り旅行に出発したことは数知れない。この日の目的地は、山梨やまなしのブドウ畑だった。
 父と母は、どちらも車の免許めんきょを持っている。運転が交替こうたいできて楽なので、気軽に出かけられるということもあるだろう。父は安全運転だが、母は極めて危なっかしいあぶ     。一度、赤信号に気がつかずスーッと通過しそうになったときには、わたしが大声で注意しなければならなかった。
 山梨やまなしに着いたら、さっそくブドウりである。
 新鮮しんせんなブドウをたっぷり味わった後、ここが母の知り合いの畑だということを教えてもらった。母は若いわか ころにここへ旅行に来て、農家の人と仲良くなったのだという。
 旅をすることで、新しい出会いが生まれる。両親と旅行をすると、ときどきこうした発見がある。
 ブドウ畑のとなりには、ワインの工房こうぼうもあった。飲める人がいないのが残念だ……と思っていたら、気付いたときには母が真っ赤な顔をしていた。
 帰りの運転は父が一人ですることになってしまった。
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 「可愛い子には旅をさせよ」というが、わたしの旅はたいてい両親と一緒いっしょだ。しかし、ひとりで旅をするのとはまた違うちが 意味で、わたしは旅からいろいろなことを学んでいる。父と母を見ていると、大人になっても旅を楽しむ心を忘れわす ないことが人間には必要なのかもしれない、と感じるのである。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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a 長文 8.2週 ni
 花の絵を描きえが 始める時、心は画用紙のように真白でありたいと思っている。同じ名前がついている花でもよく見ると、一つ一つが人間の顔が違うちが ように、それぞれの表情ひょうじょうを持っているからである。また同じ花でも、朝と昼ではほんのわずか色が変わっている場合が多い。
 いくら見なれた花でも「この花はこういう形をしているんだ」などと先入観をもって描きえが 始めると、花にソッポを向かれてしまうことがある。花屋さんでは、開きすぎたものは売り物にならないようだけれど、開きすぎて雌蕊めしべ雄蕊おしべがとび出したものも、時にはハッとするくらい美しい表情ひょうじょうを見せてくれることがある。花びらが一、二まい落ちてしまったのも、虫が食っているのもいいなあと思う。咲きさ 終わって花びらが茶色くなってしまったのも……、それは決して死んだ花ではなく一生懸命いっしょうけんめい生きて、いま実を結び始めた最もすばらしい時期を迎えむか ているのではないだろうか。
 風で折れてぶらさがっているのもあれば、病気か何かでゆがんで咲いさ ているのもある。日向ひなた勢いいきお よく咲いさ ているのもあるが、根元の方では雨の日に土のはねかえりを受けて、うすぎたなくなったのもある。そういうのを見ていると、人間の社会と同じだなあと思ったりする。頭の良いのもいれば、悪いのもいる。美しい人も、そうでない人も、病気の人も、健康な人も……、いろいろな人がいる。
 しかし、わたし自身、「あいつは、ああいうやつなんだ」とほんのわずかしか知らないうちに決めつけてしまうことが、なんと多いのだろう。花の色が一日にして変化するのだから、まして心を持っている人を見るとき、自分のわずかなはかりで決めつけてしまうのなんて全く間違っまちが ていると思う。
 いまわたしの前には、みごとなきく大輪たいりん咲いさ ている。きく比較的ひかくてき長い期間咲いさ ている花だけれど、それでも人にその花をほめられている時期はほんとうにわずかである。花の下にある葉の一つ一つを、さらにその下にある土の中の根の美しさを、花びらの中に描けるえが  ようになりたいと思っている。
(『風の旅』星野富弘とみひろちょ
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a 長文 8.3週 ni
 国際こくさい人とは一体どんな人間のことなのか、わかっているようでわかりにくい。単に外国へ何度も行ったことがあるとか、西洋のマナーを身につけているとか、外国で知名度が高いなどということではないような気がする。また、外国語に堪能たんのうであるというだけでも国際こくさい人とは呼べよ ないだろう。
 わたしなりの考えでは、「外国人を相手に自分の考えを伝えたり心を通わせることのできる人」というようなものではないかと思っている。こう考えるとき、国際こくさい人たるべき最も大切な条件じょうけんとは何だろうか。それは多分、「論理ろんり的に思考し、それを論理ろんり的に表現ひょうげんする能力のうりょくを持つこと」ではないかと思う。言語、風俗ふうぞく習慣しゅうかんなどは国によって異なっこと  ていても、論理ろんりなるものは万国共通だからである。日本人の議論ぎろんベタは有名であるが、その原因げんいんは日本人がこの能力のうりょくに欠けているからだと思われる。
 なぜ、論理ろんり的思考の訓練が我が国わ くにでは十分にされていないのだろうか。やはり教育が真先に頭に浮かんう  で来てしまう。大学入試を目指して階段かいだん駆けか 上がるような小・中・高の学校教育、しかもその中で知識ちしき修得しゅうとく偏重へんちょうされているということ。このあたりに大きな原因げんいんがあるのではないか。
 アメリカの大学初年生を日本の学生と比べくら てみると、アメリカ学生の方が知識ちしき量でははるかに劣っおと ている。びっくりするほど無知であると言ってもよい。しかし論理ろんり的に考え表現ひょうげんし行動することにかけては、彼らかれ は十分な訓練を受けているから、精神せいしん的には成熟せいじゅくしていて、論争ろんそうになったりした場合には日本人学生はとても太刀打ちできない。一見アメリカの学校は生徒を自由に遊ばせているだけのように見えるが、そういった訓練はきちんとなされているのである。
 たとえば小学生の宿題として「ピューリタン(キリスト教の
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宗派しゅうはの一つ)がアメリカに移住いじゅうしたころ服装ふくそうについて調べなさい」というようなものが出されるという。生徒はそれを調べるのに何をどんな順序じゅんじょで実行すればよいかをまず考える。そして、どこの図書館へ行けばよいのか、どんな本を読めばよいのか、どのようにしてその本を借出すのか、だれに聞けば有益ゆうえき情報じょうほうを得られるか、などを考えることになる。
 一方の日本では、受験勉強のために、生徒たちは知識ちしきやテクニックの修得しゅうとくばかりに追いまくられている。論理ろんり的思考のために適当てきとうと思われている数学でさえ、決まりきった幾ついく かの公式のうちからどれをどの場合にあてはめるかというだけのものになっていて、この意味では単なる暗記科目と化している。論理ろんり的思考の訓練はほとんど置き去りにされていると言えよう。
 それでは、論理ろんり的思考を育てるにはどうしたらよいだろうか。普通ふつうまず数学教育が頭に浮かぶう  が、これは一般いっぱんに信じられているほど効果こうか的とは思えない。数学は確かたし 論理ろんりの上に組み立てられているが、いわゆる論理ろんり的思考に最適さいてきの教材かどうか疑わしいうたが   わたしにはむしろ、「言葉」を大切にすることが最も効果こうか的なように思われる。言葉というものは人間の思考と深く結びついている。言葉は単なる思想の表現ひょうげんではない。言葉によって思考する、という意味では言葉が思想を形作るとさえ言える。思考と言葉とはほとんど区別の出来ないほどに一体化している。この意味で、論理ろんり的言葉を大事にするということは、論理ろんり的思考を大事にすることに等しい。
 このような観点から、国語教育を充実じゅうじつさせることが第一と思われる。洞察どうさつ力に恵まれめぐ  た日本人にとって意思の疎通そつうに言葉を必要としないことはしばしばある。しかし、我々われわれ国際こくさい人として生きようとする限りかぎ 論理ろんり的言葉から逃れのが られないことは明らかに思われる。
藤原ふじわら正彦まさひこ「数学者の言葉では」より)
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a 長文 8.4週 ni
 イヌが喜びを表現ひょうげんするときに振るふ ことはよく知られている。イヌの喜びが大きいときには、激しくはげ  振りふ 、体をくねらせる。耳は後方に絞らしぼ れるような形で伏せふ ている。いてもたってもいられぬように跳びと はねることもある。生後半年前後の若いわか めすでは、嬉しうれ すぎて尿にょうをもらす場合もある。
 このような喜びを表すのは、たとえば、長い間、旅に出ていたご主人が帰ってきたようなときである。イヌは家族をひとつの群れむ として考えているが、むれにはひとりひとりに順位の格付けかくづ がある。当然、順位の上の人に会えたときのほうが喜びの表現ひょうげん激しくはげ  なる。人に対して喜んでいるときのイヌは、年齢ねんれい若いわか ほど人の顔を舐めな たがるものである。
 犬種によって喜びの表現ひょうげんに差があり、一般いっぱんに日本犬は洋犬ほどオーバーではない。洋犬でも小型の愛玩あいがん犬種と、シェパード、シベリアン・ハスキーなど使役犬種との比較ひかくでは、飼主かいぬし居住きょじゅう区を同じにしている愛玩あいがん犬種のほうが喜びの表現ひょうげんは大きい。
 イヌには人と共同作業をしてほめられたときも嬉しくうれ  なる習性しゅうせいがある。たとえば、ボールを投げての「持って来い」の訓練をさせると、イヌは嬉々ききとして投げたボールをくわえてきて飼主かいぬし渡すわた が、このときのボディランゲージは、「大喜び」とはやや違うちが 。「上機嫌じょうきげん」あるいは「親愛」である。ボールを渡しわた た後、「よーし、よくやった」という賞賛しょうさんの言葉で嬉しくうれ  なっている。激しくはげ  振らふ ず、ゆっくりと振っふ て、耳は後ろに伏せふ ている。ボールを主人に渡しわた た後、あし側に坐っすわ て待つ訓練までよくできているイヌは、首を伸ばしの  て主人がもう一度ボールを投げるのを待つ。ときには「わん、わん」と催促さいそくすることがある。
 また、イヌは叱らしか れた後、許しゆる 乞うこ ために「甘えあま 」のボディランゲージを見せるが、そのときのの位置は催促さいそくのときとは違っちが 
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て、下に向けている。つまり、恐縮きょうしゅく表現ひょうげんしながら、遊びに誘いさそ 、なんとか主人に機嫌きげんをなおしてもらいたいという魂胆こんたんである。
 ただし、イヌがこういう様子を見せたからといって、叱らしか れた理由を理解りかいして二度と同じことをしないかといえばそうではない。叱らしか れて懲りこ たときは、まず恐怖きょうふを覚えるものである。恐怖きょうふを覚えたときのイヌは、を完全に股間こかんまるめ込み   こ 、耳を後方に伏せふ てうずくまってしまう。まるめられた振らふ れることはない。叱らしか れても「甘えあま 」を見せるイヌには、叱らしか れた意味が分かっていないものである。
 イヌが知らないイヌに出あって、を上にあげて小刻みこきざ 振るふ ときは、相手に警戒けいかい心を持ったときである。同時に攻撃こうげきすべきかいなかの迷いまよ がある。耳は前方に向けてしっかりと立てられている。垂れた 耳のハウンド種でも、耳の付け根が前向きになるので、警戒けいかい心と攻撃こうげき的な気持ちを抱いいだ たことが判断はんだんできる。
 この場合、を高い位置で振るふ イヌほど気性きしょうが強い上位のイヌである。イヌが相手に威圧いあつ感を覚えればを下げながら振りふ 、耳は後方に向けて伏せふ ていく。
 したがって、イヌが振っふ ているから喧嘩けんかにはならないだろうと思ったら大間違いまちが である。威圧いあつされたイヌが怯えおび ながらも敵意てきいを表してきばを見せたりすると、振っふ ていたほうがいきなり攻撃こうげきをしかける場合もある。とくにテリア・グループは反応はんのうが早いので注意する必要がある。

沼田ぬまた陽一「イヌはなぜ人間になつくのか」)
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a 長文 9.1週 ni
「ユウって本当にロマンがないね!」
 姉にそう言われて、ぼくはぽかんと口を開けてしまった。姉のきつい言葉には慣れていたが、そんなことを言われるとはまったく予想していなかった。
 それは去年、双子ふたごの姉と二人で、夏休みの自由研究について相談していた時のことだ。僕たちぼく  は地元に伝わるおとぎ話について調べ、発表しようと考えていた。「キツネに化かされて田んぼに落っこちた」とか、「山で助けたサルがお返しに木の実を持ってきた」などという話に、姉はむねをときめかせているようだった。
 一方のぼくも、内心燃えていた。こういった話は研究のしがいがある。そう思って、「キツネやサルにそんな知恵ちえがあるはずはないから、人間どうしの出来事をたとえた話ではないか」と自分の考えを話したのだ。そうしたら、姉はいきなり怒りおこ 出してしまった。
 姉によると、「ロマンがない」のがぼくの短所だという。せっかくかわいらしい動物たちの物語を想像しているのに水を差すな、というのである。しかし、そう言われても納得なっとくはいかない。ぼくにも意地があった。結局、ぼくと姉はたもとを分かち、同じ題材で別々に発表をすることになった。
 そして夏休みが終わり、自由研究を発表する日がやってきた。出番は姉が先だ。姉は自分で書いたイラストを見せながら、キツネやサルが主役のおとぎ話を紹介しょうかいしていった。研究発表というより紙芝居かみしばい大会のようだったが、悔しいくや  けれど面白い内容になっていたと思う。
 おかげでぼくはすっかり尻込みしりご してしまった。今度は姉ばかりか、クラスのみんなに「ロマンがない」と言われるかもしれない……。だが、今さら逃げ出すに だ わけにはいかなかった。
 ぼくは勇気をふりしぼって、図書館で調べた話を発表していった。昔は道路が舗装ほそうされておらず、酔っよ た人が田んぼに転落するのはしょっちゅうだったこと。山を挟んはさ となりの村から来た迷子を、送
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り返してあげた話があること……。発表が終わったあと、担任たんにん城田しろた先生はにっこり笑って、こう言ってくれた。
「とても面白かった。ユウくんの探究たんきゅう心はすごいね。」
 その言葉を聞いて、ぼくはすっとむねのつかえがとれたような思いがした。
 確かに、ぼくは姉の言うように「ロマンがない」のかもしれない。しかしその代わりに、先生も認めみと てくれた「探究たんきゅう心」がある。それがぼくの長所だ。「短所をなくすいちばんよい方法は、今ある長所を伸ばすの  ことである」という言葉がある。ぼくは自信を持って、長所である探究たんきゅう心を伸ばしの  ていきたい。
 人間にとって、自分の長所や短所に気付かされる経験は貴重きちょうである。指摘してきしてくれる人がいるということも、ありがたいことだ。今では、城田しろた先生はもちろん、姉にも感謝している。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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a 長文 9.2週 ni
 イギリス人は犬をしつけることが上手である。わたしの家の前が英国大使館の公邸こうていで、三年ごとに交替こうたいするどの家族も、必ず犬をつれてくる。もう七、八家族かわったと思うが、来る犬来る犬が実に見事と言う他ないほどぎょうぎがよい。
 家の中で不必要にほえたてたり騒いさわ だりすることがないどころか主人と連れ立って散歩する時でも実におとなしい。よその犬と行き会っても、ほえもしなければ駆け寄るか よ こともしない。主人の傍らかたわ について前を見てただ黙々ともくもく 歩いていく。むろん引綱ひきづなくさりもなしである。
 これに比べるくら  と日本人の犬は、こちらが恥ずかしくは    なるほどめちゃめちゃである。跳びと かかったり、ほえたり、大きな犬の場合など主人が押さえるお   のに苦労する。犬に引かれて、小走りになる人も多い。狭いせま 道で犬をつれた日本人同士が出会う時がこれまた面白い。小さな弱そうな犬をつれた人は、横道にそれたり、引き返すことさえある。女の人などは、つれている小さな犬をかばって抱き上げだ あ 、足早に通りすぎて行くこともしばしばである。
中略ちゅうりゃく
 このようなはっきりした違いちが は一体何が原因げんいんなのだろうか。わたしの考えでは人間と動物のお互い たが の位置づけが、イギリス人と日本人ではまったく異なること  ことから出発していると思う。
 日本人は、犬、ねこそして馬のような家畜かちくを人間の完全な支配しはい下に位置するもの、人間に従属じゅうぞくする存在そんざいとはみなしていない。もちろんこのような動物を世話し、えさをやり、利用するために殺すというような外見的な面では日本とイギリスでもさほど目立つ相違そういはない。
 日本人にとって犬はそれ自体自由な自律じりつ的な存在そんざいなのである。日本人のペットとか家畜かちくという考えは、このようなお互い たが 独立どくりつした主体的な存在そんざいとしての人間と犬が交差したところに成立してい
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る。実際じっさいごく最近まで犬をつないでおくとか囲いに入れておくという習慣しゅうかんは日本にはなかった。犬はあたりを自由勝手に歩き回り残飯やごみをあさる。
 勝手口に現れるあらわ  犬にえさ与えあた ているうちに、いつのまにかうちの犬になることもしばしばであった。二けん以上の家で同じ犬をうちの犬だと思っていたなどということもあった。また犬は家の人の知らぬ間に、えんの下などで子供こどもを生む。これも犬の勝手である。ところが家人にとっては、いりもしない厄介やっかい者をしょい込む   こ ことは困るこま 。こんな場合に、犬を最も人通りの多い橋のたもとなどに捨てす に行くのだ。
 捨てるす  人は、いらぬ犬を自分の生活けんから遠ざけて、不必要なかかわりを絶つた ことだけが目的で、その犬を何も殺すことはないのである。人通りが多ければ、誰かだれ 仔犬こいぬ欲しいほ  人がいて、拾って行くかも知れない。事実、多くの家で犬を飼うか ようになるいきさつは、子供こどもが拾ってきたからしょうがなく、置いてしまったというのが多かった。
 イギリス人は家畜かちくとは人間が完全に支配しはいすべき、それ自身は自律じりつせいを持たない存在そんざいと考えている。犬は人間が人間のために利用する従属じゅうぞく的な存在そんざいであるから、ぎゃくに一切を面倒めんどう見る責任せきにんが人間にある。不要な犬や、回復かいふく難しいむずか  病気にかかった犬を、自分の手で殺すのは、生きるも死ぬも支配しはい者としての人間が決めてやるべきだという考えに基づいもと  ている。
 だから日本人のように、犬を捨てす たりすると、人間としての責任せきにんをはたしていないと非難ひなんするのだ。従ってしたが  彼らかれ にとっては、犬を安楽死させることが正しい犬の扱いあつか 方となる。一口に言えば、徹底的てっていてきな人間中心的動物観なのである。何が残酷ざんこくで何が残酷ざんこくでないかは人間のきめることなのだ。だから一般いっぱんにヨーロッパ人の残酷ざんこくという考
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長文 9.2週 niのつづき
えは温血動物止まりなのである。
 そこで日本で犬が捨てす られるといって、犬のために悲しむイギリスの婦人ふじんも、大正エビは生きたまま熱湯に投げ込んな こ で料理するのが一番よいと言って平然としている。また食べるためでなく、楽しむために魚を釣るつ のも残酷ざんこくではないのだ。大きなカジキマグロと何時間も海の上で全力を尽くしつ  て戦うことは素晴らしいすば   スポーツなのであって、魚が苦しむだろうと考えないのも同じ理由である。
 もちろんイギリス人でも日本人でも、一般いっぱんの人はいま述べの たような動物観、生命観をはっきり意識いしきしているわけではない。聞けばいろいろと理屈りくつづけはするだろうが、人々を無意識むいしきに動かしている基本きほん的な価値かち体系たいけい枠組みわくぐ というものは、実は深くかくれているのである。
 日本の南極観測かんそく隊が、氷にとじ込めこ られてヘリコプターでやっと脱出だっしゅつした時、連れていった樺太からふと犬を置き去りにしてきたことがあった。この時も日本はむろん、外国からも非難ひなんの声があがった。
 隊員たちは、ただ可愛かわいがっていた犬たちを殺すにしのびなかったのである。だれも犬どもが翌年よくねんまで生きのびようとは考えなかった。それでも殺す気にはなれないのだ。ところがどうであろう。翌年よくねん観測かんそく隊が再びふたた 昭和基地きち訪れおとず たとき、二頭が生存せいぞんしていたのだ。殺さなくてよかったと隊員達は思ったに違いちが ない。人間本位、人間中心の家畜かちくの始末法とは違いちが 、ここでは日本人の動物処理しょり法の方が勝ったのである。少なくとも、犬の幸福を中心に考えればである。
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a 長文 9.3週 ni
 人間および動物を通して、広義こうぎのあいさつ行動は、一体どのような時に起こるものだろうか。第一に考えられるのは、個体こたい個体こたいとの出会いである。互いにたが  見知らぬ者どうしが出会う時は言うまでもなく、すでに知り合っている者の間でも、出会いがある程度  ていど離別りべつの後で起こった場合には、動物・人間を問わず一般いっぱんにあいさつ行動が見られる。
 未知の者どうしの出会いでは、相手の素性すじょうや気持ちがわからぬことからくる不安と警戒けいかいの念が、特にあいさつ行動を要求するのである。そこであいさつを行なうことによって、何よりもまず、相手に対して敵意てきい、害意のないことを示ししめ 、同時に不安からくる相手の攻撃こうげき本能ほんのうの発動を抑えるおさ  、つまり、相手をなだめ、安心させるのである。
 人間の場合、出会いのあいさつ行為こういは、相手が以後仲よく共に行動してゆける仲間かどうかの、身元確認かくにんにもつながっている。そのためには、あいさつがそれぞれの社会で、文化的に慣習かんしゅう化されている一定の形式にしたがって行なわれることが必要となる。この性質せいしつを強くもった、やや特殊とくしゅなあいさつとしては、仁義じんぎてき味方を暗闇くらやみ判別はんべつするのに用いられる合言葉などがあげられる。
 毎日一緒いっしょ暮らしく  ている家族の場合でも、また同じ学校や職場しょくばに通うものどうしでも、一夜明けた朝の出会いの時には、必ずあいさつをする。社会生活を営むいとな 人間にとって、別れて時を過ごすす  ということは、わたしたちが思っている以上に、他者に対する言い知れぬ不安をつのらせるものらしい。
 たしかにだれかと一緒いっしょにいるときは、その人の気持ちの変化についていきやすいし、同じ状況じょうきょうの下にいるわけだから、自分と相手との相互そうご関係もわかっている。ところがいったん離れはな てしまうと、その間は、二人別々の経験けいけんをすることになるため、気持ちのズレや考え方の食い違いく ちが が生じてしまう可能かのうせいがある。だからこそ
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再びふたた 出会ったとき、両者の気持ちや関係が、別れる前と同じで変わっていないことを確認かくにんしたいのである。このことは、なぜ人間は別れる時にもあいさつをするのかという問題にもつながっていく。
 わたしたちが別れのさいにあいさつをする理由は、再びふたた 会う時まで、今別れる時と同じ親愛の気持ち、同一の帰属きぞく感を相手が抱きいだ 続けることを、あらかじめ確認かくにんしておきたいのである。
 このような解釈かいしゃくが正しいと思われる理由は、次のような事実の意味を考えてみればわかる。人間でも動物でも、短い別れの後の出会いのさいのあいさつと、長い別離べつりの後に起こった再会さいかい時のあいさつとでは、その入念さ、強さが異なること  のである。(中略ちゅうりゃく
 動物の場合も同じで、旅行などで主人が長い間家をあけた後帰宅きたくしたようなとき、犬が喜びのあまり飛び跳ねと は て主人を迎えるむか  ことは、犬を飼っか たことのある人ならだれでも知っているとおりである。しかし毎日何度も主人の顔が見える時は、これほどの大騒ぎおおさわ はしない。人間と動物のあいさつ行動で大きく違うちが 点は、動物は先の予測よそくができないため、別離べつりのあいさつがないことである。
 さて長期間の別れの前後のあいさつは、いま述べの たように長く複雑ふくざつなものとなる上に、餞別せんべつとかおみやげといった物的なしるしを贈るおく ことによって、さらなる補強ほきょうを受けることも多い。このように見てくると、わたしたちにとって互いにたが  別れているということが、どれほど不安で心配なものなのかが、よく理解りかいできると思う。

鈴木すずき孝夫たかおの文章による)
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a 長文 9.4週 ni
「ただいま」
「ゆたか、ちょっときなさい」
 お帰りの返事もなく、呼びつけよ   たお父さんの声は、いつもより強かった。
「お前か、ねこをひろってきたのは」
 居間いまにはいるなり、耳につきつけられた言葉に足がすくんだ。
「カラスが狙っねら ていたから……。食べられちゃうから……」
「今から、もどしてきなさい。元のところへ……」
「……」
 いやだと思った。それでも口にはだせなかった。
「お父さんは、ねこの毛アレルギーなの。子供こどものころ、ぜんそくをわずらったことがあるの、それ、ねこの毛が原因げんいんかもしれないんだって」
「友だちで、飼っか てくれる人さがすから……」
「いなかったらどうするの」
 そう言った、お母さんのわきで、お父さんがこっちを見ていた。にらまれているようで、目をあげられなかった。
「それまで、納屋なや飼うか から、自分で生きていかれるようになったら、のらねこにするから」
「聞き分けのないやつだなあ、のらねこ増やしふ  てどうするんだ。のらねこのせいで迷惑めいわくこうむっている人間のことは、どうなるんだ」
「……」
「とにかく、うちじゃ飼えか ないから、元のところにもどしてきなさい。お前が悪いんじゃない、最初にすてた人間が悪いんだ。うちで育てて、のらねこ増やしふ  たら、うちが悪者にされる。分かるな……」
「……」
 もう口ごたえはできなかった。
「今からいってきなさい」
「だれか、ねこの好きな人がひろってくれるかもしれないでしょ」
 そう付け加えたお母さんの言葉は、声だけやさしかった。ゆたかは、言葉をうしなったままに立ち上がった。
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「待ちなさい。これミルクとお皿。ひろってくれる人があらわれるまでに、死んじゃうと困るこま から……」
 お母さんが差しだした、牛乳パックぎゅうにゅう   とプラスチックの皿を受け取り、ゆたかは納屋なやに歩いた。歩きながら、こうなることは、初めから分かっていたような気がした。
 納屋なやに入ると、その気配を感じたのか、子猫こねこたちが鳴きだした。納屋なやの電灯をつけると、けんめいに伸び上がっの あ  て、愛を求める子猫こねこたちの姿すがたがあった。たった二つの、こんな小さな命でさえ、まもってやることのできない自分のことが、みじめでならなかった。大きくなって、自分で働きだしたら、ぜったい、お父さんの言うことも、お母さんの言うことも聞かない。そう思いながら、子猫こねこの入った箱にふたをした。子猫こねこたちが、キーキー鳴きながら、助けてよと、うったえかけるように箱の中を動きまわった。
 公園から見える入り江い えに街灯の光がゆれている。古本屋のおじいさんの家に、明かりの気配はなく、廃屋はいおくが、自分のしでかしたつみのきずあとのようにたたずんでいた。
 ゆたかは、指にミルクをつけて子猫こねこたちの口にもっていき、立ち去れない思いのままに時間を過ごしす  ていた。子猫こねこは、ミルクのついた指にしゃぶりついて、けんめいに吸い込もす こ うとする。そのざらついたした感触かんしょくが、指先に心地よい。
中略ちゅうりゃく
 生きようとしている子猫こねこたちを見つめているうちに、ゆたかは、どうしても助けてやりたくなった。ここに放っておけば、明日の朝にはカラスがくるだろうと思った。頭の中では、子猫こねこたちをかくしておける安全な場所をさがしまわっていた。自分の家で、見つからない場所は、もうなかった。あそこ、ここと思いをどんなにめぐらせても、人の目のないところは思い当たらなかった。

笹山ささやま久三きゅうぞう「ゆたかは鳥になりたかった」)
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