長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
1国境を越えて移動する人々にとって、連続性の保証はなによりも強く希求するところとなる。2なかには、抑圧的な社会体制から逃れることを一つの目的とし、憧れの新しい世界を求めて居を移す者たちもいるが、それでも知己、親戚などのつてを頼り、同国人あるいは同民族コミュニティの中に迎えられることを願う者は多数であろう。3先にあげたアルジェリアのカビール地方の向仏移民たちが「フランスは初めて踏む土地ではない」と思い込んでいるということは、この連続性の想定であり、もっといえば連続性への願望であろう。4いくぶんともそのような想定をもつことなしには、移動という行動がそもそも起こりえないだろう、ということはすでに述べた。連続性想定の機能的意義は大きい。
5しかし、こうした連続性の想定の上での移動は、また、移民たちの生活をさまざまに限界づけてしまう。そのもっとも顕著な例は、言語へのかれらの態度である。6かつてトルコの東部から連鎖移民的にドイツの町々にやってきた移民たちは、「ドイツ語ができなくとも、トルコ人の先住コミュニティに迎えてもらえばなんとかなる」と思い、ドイツ語を学ぶ労もとらずドイツに住み着いた。7たしかにコミュニティの中で生活しているかぎり大きな不自由はないが、そこから外へと人間関係を広げていくことはほとんどできない。職場の中でのかれらの位置も、トルコ人を同僚とする限られた地位にすぎなくなってしまう。
8言語に関しては、旧植民地から旧宗主国にやってきた移民の場合に、連続性の幻想がかえって一個の陥穽となるおそれがある。9たとえばアルジェリアからフランスへの移民には――少なくともこの国のアラビア語化が本格的に始まる以前の六〇年代の来仏者には――「フランス語は使えるから、問題はない」という思い込みがあった。0だが、かえってその思い込みのため、フランス語を学ぶという動機づけが弱く、夜間の講座に通うなどの労もとらず、そのため来仏後の進歩がはかばかしくない、という問題を生じていた。じっさい、彼らが「フランス語には問題はない」というのは、せいぜい日常会話のそれであって、言語資本としては貧しい。フランス語の読み書きは心もとなく、自分で手紙を書くことはもとより、新聞を読むこと、職場で操作マニュアルを読むことも困難なのである。
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