1「大人」は一人前の社会人としてさまざまな権利や義務をもつが「子ども」はそうではない。「子ども」は未熟であり、大人によって社会の荒波から庇護され、発達に応じてそれにふさわしい教育を受けるべきである。2そうした子ども観は、われわれにとってはほとんど自明のものである。しかし、われわれの子ども観がどこでも通用するわけではない。社会が異なれば、さまざまに異なった子ども観があり、それによって子どもたち自身の経験も異なってくる。3このことをアメリカの社会学者カープとヨールズは、次のような例を挙げて示している。
例えばナバホ・インディアンは子どもを自立したものと考え、部族の行事のすべてに子どもたちを参加させる。子どもは、庇護されるべきものとも重要な責任能力がないものともみなされない。4子どもの言葉は大人の意見と同様に尊重され交渉ごとで大人が子どもの代弁をすることもない。子どもが歩き出すようになっても、親が危険なものを先回りして取り除くようなことはせず子ども自身が失敗から学ぶことを期待する。5こうした子どもへの信頼は、われわれの目には過度の放任とも見えるが、自分と他者の自立を尊重するナバホの文化を教えるのにもっとも有効な方法であるという。(中略)
6今日のわれわれの子ども観、つまり「子ども」期をある年齢幅で区切り特別な愛情と教育の対象として子どもをとらえる見方は、フランスの歴史家、フィリップ・アリエスによれば主として近代の西欧社会で形成されたものであるという。7アリエスは、ヨーロッパでも中世においては、子どもは大人と較べて身体は小さく能力は劣るものの、いわば「小さな大人」とみなされ、ことさらに大人と違いがあるとは考えられていなかったという。8子どもは「子ども扱い」されることなく奉公や見習い修行に出、日常のあらゆる場で大人に混じって大人と同じように働き、遊び、暮らしていた。子どもがしだいに無知で無垢な存在とみなされて大人と明確に区別され学校や家庭に隔離されるようになっていったのは、十七世紀から十八世紀にかけてのことである。9アリエスはこのプロセスを「『子供』の誕生」のなかで、子どもを描いた絵画や子どもの服装、遊び、教会での祈りの言葉や学校のありさまなどを丹念に記述するこ
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