a 長文 7.1週 nngi
 世間では、得意なものを伸ばすの  か苦手なものを直すかという問いが立てられることが多い。しかし、理想は、得意を伸ばすの  ことと苦手を直すことを両立させることだ。どちらか一方があれば、他方は自然に解消するというものではない。しかし、今日の社会では、この二つの選択肢せんたくしが、都合のよい形で使い分けられているところがある。例えば、苦手な勉強があった場合、「得意なものを伸ばしの  ていけばよい」という慰めなぐさ 方をされることがある。逆に、得意なものが見つからない場合、「それよりもまず苦手なものをなくして将来の準備をしておくことだ」というアドバイスをされることがある。つまり、現状を打破するためにではなく、現状を追認するために得意分野と苦手分野が使い分けられているところがあるのだ。
 その原因の一つは、早い時期から結果を求める今の社会の風潮にある。例えば、小中学校の基礎きそ教育の期間には、本来苦手分野はあってはならないものだ。できるだけ苦手をなくし、オールラウンドな能力を育てていくことが将来の土台になる。しかし、中学受験や高校受験があった場合、そこで問われるのは、受験する教科の出来不出来だけだ。とすれば、自然に、受験に出ない科目は苦手でも問題ないという発想になる。大学入試の場合も同じことが言える。これからの社会はどの分野でも高度な知識が要求される知識産業社会になる。高校も一種の義務教育の期間になりつつあるのが現状だ。ところが、高校の学習では、小中学校よりも更にさら 受験に影響えいきょうしない教科は苦手でもよいという発想が強くなる。
 もう一つの原因は、得意分野というオリジナリティを求めない社会の仕組みだ。大学教育は、高度な専門的知識を身につける場であるはずだ。しかし、実際には就職のための予備校か、あるいは就職の前の息抜きいきぬ の期間のように思われている面がある。それは、これまでの社会が、社会に出る若者に、独創性よりも、従順な歯車の一つになることを要求していたからだ。それは、戦後の日本が、戦災から復興し欧米おうべいに追い付くこととを大きな目標にしていたからだ。社会が一団となって共通の目標を目指すとき必要なのは、個性ではなく馬力だったのだと言える。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 


 しかし、これからの日本の未来に待っているものは、海図のない広い世界だ。欧米おうべいが未来を指し示す羅針盤らしんばん独占どくせんしていた時代は既にすで 終わっている。一方、日本には江戸えど時代の歴史に見られるように、これまでの西洋世界にはなかった新しい社会のビジョンが豊富に眠っねむ ている。そう考えると、まず日本から新しい未来の社会を提案する時代がやってきていると言えないだろうか。そのときに大事なのは、個性に基づいた得意分野を持つ多くの人材だろう。そして、それがひとりよがりの個性でなく現実の社会に役立つ個性であるために必要なのは、幅広いはばひろ 基礎きそ教養を持ち、苦手分野や弱点を持たないバランスのとれた能力だ。得意を伸ばすの  ことと苦手を克服こくふくすることの両方が同時に求められているのである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 7.2週 nngi
 大昔、この列島は豊かな原生林に覆わおお れていた。祖先たちはそうした森のなかに住み、神々といっしょに生活していた。やがて農業をはじめると人びとは森を離れはな 、開かれた耕地で太陽の光を身体いっぱいに浴びながら、一日をすごすことがだんだん多くなった。原生林のなかで獲物えものを追う生活をやめれば、住居も森から出て耕地の近くにつくられるようになる。人間が出たあと、神さまだけが森のなかに残った。これが神の住む神奈備かんなびの森のはじまりである。しかし、この変化は、けっして一朝一夕に生じたのではない。森のなかでの狩人かりゅうどたち、とくに日本のような海洋性気候の、暖地性照葉樹林帯のなかでけものを追ってきた人たちの皮膚ひふ感覚は、一日中、耕地で陽光を浴びてすごす農業人とは根本の体質が違っちが ていたはずである。日陰ひかげ湿気しっけのほうにより安心感を抱くいだ ような背日性を、農業人の向日性とは対照的な形で備えていたと考えられる。
 祖先たちは原始林のうす暗く、たえず湿気しっけを帯びた樹木のかげから離れはな 、明るく乾燥かんそうし、開かれた場所でひとり立ちするには、よほどの決心を必要としただろう。もちろん、その農業も、水稲すいとう耕作に依拠いきょする以上は湿気しっけ無縁むえんではありえない。しかし、水田や畦道あぜみち泥濘でいねいと、原生森のなかの陽光から遮断しゃだんされた全身をつつむ湿気しっけとは、本質的に異なっている。祖先たちの身体には水田で働くようになったのちも、森のなかに生きていたときの皮膚ひふ感覚は久しいあいだ残留したろう。森からの自立は、母の胎内たいないからの自立過程に似て、意識、無意識のうちにさまざまの退行心理が発現するのは、まことにやむをえないことであったと考えられる。
 農家の土間の台所や、ナンド、ヘヤとよばれる寝室しんしつには、すでにのべたように多くの素朴そぼくな神さまたちが住みついて、人びとといっしょに生活し、文字通り起居をともにしてきた。そのありようは、おそらく原始時代に原生森のなかで営まれた祖先たちの住居のなかに起源をもっている。とすると、そうした住居をとり囲む木立のなかに住んでいた神々も、そのまま人びとの生活を守り、住居を守って外敵を防いでくれる神々として、住居の周辺にいつまでも
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

いてくれるように願われたろう。森のなかに村があるような形のものはもちろんのこと、耕地に囲まれた広くて明るい場所に家を建てるようになってからでも、周囲に家を保護してくれる屋敷やしき林をもち、それに精神的な防壁ぼうへきの意味までもたせてきたのは、森のなかで神さまといっしょに住んでいた時代の、最後のへソの(であるように思われる。土塀どべい生垣いけがきに囲まれるだけで、外界にむけて自己を完全に開放しているような家でさえ、しばしば屋敷やしき廻りまわ の大木の根もとに屋敷やしき神の小祠しょうしをもっている。これのもとづく起源も、おそらく古いものがあるといえよう。
 ともあれ、明治以後、西洋風をまねてふとんに白いシーツを掛けるか  ことは、寝室しんしつ内部にまで日光と外気をもち込もこ うとする大変革の象徴しょうちょうであった。うす暗く、外気を通すことの少ない寝室しんしつの、シーツもかけないあかじみた万年床まんねんどこ、その木綿ぶとん特有の湿気しっけをおびたはだざわりは、大多数の日本人が久しく馴染んなじ できた住居における私的な生活感覚の、中心部を占めし てきた。ふとんを日に干すのが近代的家政の象徴しょうちょうであることを裏返したら、こういうことになるだろう。それは木綿ぶとんの普及ふきゅうする以前の、帳台構えなどとよばれるナンドの部屋での、ワラにもぐってた感覚の残存であり、それであるから、万年床まんねんどこがあたりまえとされてきた。だが、そのような感覚は、これをさらに煎じつめるせん    と、大昔、この列島に特有の濃密のうみつな照葉樹の原生森のなかで有形無形の外敵におびえ、神々といっしょにつねに湿気しっけをふくんだ薄暗いうすぐら 木陰こかげに身をひそめていた時代の、もっとも根源的な生活感覚にまで遡るさかのぼ ように思われる。屋敷やしきをめぐる屋敷やしき林、さらには森のなかにある村といってよいほどの木立に包まれた集落のたたずまいは、その傍証ぼうしょうといえるだろう。

(高取正男「生活学」 同志社大)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 7.3週 nngi
 すでにみたように、人間関係とは結局のところ二人の人間のあいだでの問題であるというよりは、むしろ、ひとりの人間の内部での「こちら側の自分」と「もうひとりの自分」との問題であった。このふたつが、相互そうご刺激しげきをあたえながら、つねにあたらしい自我をつくってゆく過程、それが人間関係のまさしく人間関係たるゆえんであった。ピストン運動の錆びつきさ   は、そう考えてくると、人間関係をむつかしくする最大の障害であるといってさしつかえない。極端きょくたん頑固がんこ、そしてその対極にある極端きょくたん浮遊ふゆう型人間、それはともに厳密な意味での自我喪失そうしつというべきなのだろう。
 錆びつきさ   が発生する、ということは、それぞれの人間にとって不幸なことだ。どちらの極に片よるにせよ、「ふたつの自分」のうちのひとつに心が膠着こうちゃくしてしまったが最後、その人間の心は進歩することがないのである。ひとりの人間の心の進歩というものは、結局のところ「ふたつの自分」のあいだの活発な会話からうまれる。その会話によって、自我がかわるからこそ、人間関係は人間にとって大事なのだ。
 自我のこの変化は、別の角度からみれば折衷せっちゅうのプロセスであるとも考えられる。そこにあるのは「こちら側の自分」と「もうひとりの自分」のうちのどちらをとり、どちらを捨てるかという二者択一にしゃたくいつなのではなく、「ふたつの自分」の歩みよりによる、折衷せっちゅうの立場の建設なのである。
 他人、あるいは自分のなかにとりこまれた他人としての「もうひとりの自分」と接触せっしょくすることで、「こちら側の自分」はすこしずつかわる。また同時に「もうひとりの自分」もかわる。かわったものが互いにたが  接近しあって統合される。それは折衷せっちゅうという以外のなにものでもない。折衷せっちゅうの積みかさねによって、人間はかわりつづける。人間関係というものは、その理想的なすがたからいえば、ひとりひとりの人間をかえるための方法、というべきなのである。
 人間関係を考えるにあたって、いちばん大事なのは、たぶんこの点だ。たしかに人間関係というのは、ふたり以上の人間がお互い たが に理解し、協力しあってゆくための方法であり、また技術でもある。だが、人間の側からみるときには、人間関係はあくまでも個人の成長のための跳躍ちょうやく台だ。人間関係というネットによってより充実じゅうじつした存在になってゆくのである。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 事実、反省してみればすぐわかることだが、われわれひとりひとりの今日の存在は、これまでの人生のなかでのさまざまな人間関係の結果物としてとらえることができる。生まれたときから物心つくまでの母親と子どもの人間関係、学校にはいってからの教師と生徒の人間関係、友人との人間関係、そして結婚けっこん後の夫婦の人間関係、職場の人間関係、近隣きんりんの人間関係……かぞえあげていったらきりがない。そのきりのない人間関係のなかで、ひとりひとりの人間の精神がつくられてきた。まわりの人間との記号を媒介ばいかいとした交渉こうしょうなしに、ひとりの人間が形成されるというのはありえないことなのだ。そしてさまざまな人間関係を通じて、われわれはかわってゆく。
 人間の存在は、可塑かそ的なものだ。今日の自分はもはや昨日の自分ではない。すこしずつ、人間はかわる。厳密にいえば昨日の自分はすでに他人である。もちろん、どうでもいい、とにかくかわるのが望ましい、というわけではない。しかし、最近の医学の教えるところによれば、人間は、その脳のなかの二十億個の脳細胞さいぼうのほんの一部を使って生涯しょうがいをおえているのだそうだ。大部分は未使用なのである。人間の精神の可能性は、まだ、ほとんど未開発なのだ。その未開発な部分をひらく手がかりは、たぶん、生産的な人間関係、つまり効率のよいピストン運動であろう。
 世間には、ひとつの俗信ぞくしんがあって、創造的な人間活動と他人との人間関係とは対立するというふうに考える人が多い。しかし、それは、たぶん、あやまった考え方だ。他人(いうまでもなくそれは、自分のなかにとりこまれた「もうひとりの自分」をふくむ)とのかかわりなしに、人間の創造はありえない。人間関係なくして創造活動なし、なのである。ピストンの錆びつきさ   は、人物の可能性開発への障害物だ。人間関係が大事なのは、相手と仲よくするためではない。相手とうまくやってゆくという意味での人間関係なら、だれだってできる。ニコニコしていればよいのである。人間関係の本当の問題は、それが自分の可能性をどこまで跳躍ちょうやくさせてくれるかという問題だ。よく組まれた人間関係というものは、当事者同士のピストン運動を活発にし、相互そうごに可能性を開花させうるような関係のことなのだ。

加藤かとう秀俊ひでとし『人間関係』より。関西学院大)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 7.4週 nngi
 日本人は記録だ、と言う人がある。何でも、やたらにメモをとる、記録しておく。何のためということはない。おもしろそうなことも、おもしろくなさそうなことも、無差別に記録してしまう。事実がそこにあるからであろう。こういう記録的なところが、かえって日本に歴史らしい歴史の発達をおくらせることになった。歴史には史観という倫理りんりが必要で、がらくたの骨董こっとう屋のような人間は歴史家になることができない。
 思想の「体系」もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々ともくもく 記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いつらぬ 不朽ふきゅうのものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却ぼうきゃくのなかへ棄てす さる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。
 日本人は無常という仏教観が好きだが、頭の中にも、無常の風が吹いふ ていて、しっかりした体系の構築を妨げさまた ている。しかし、へたに建物が立っていない空地だから、新しいものを建てるのに便利である、とも言えるのである。
 日本語はどうも、俳句や短篇たんぺん珠玉しゅぎょくのような随筆ずいひつに見られる点的思考に適している。逆に、大思想を支えるような線的思考の持久力には欠けている。しかし、持続力はときによくない先入主となって、精神の自由な躍動やくどうをじゃますることがないとは言えない。「ひらめき」をもつのには、日本語はなかなか好都合なのである。
 このごろ、やたらに、対話だとかコミュニケイションだとかが騒がさわ れているが、元来、日本人は多言、雄弁ゆうべんをきらい、沈黙ちんもくの言語を深いものと感じるセンスをもっている。巧言令色こうげんれいしょくスクナシ仁。そして、問答無用。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 ほかの人間と議論して、正と反との葛藤かっとうの中から合という中正を見つけていこうという弁証法のような考え方とは、日本人はもともと無縁むえんである。日本にレトリック(修辞学)や弁論術が発達しなかったのは当然であろう。対話によって思考を展開するのではなくて、独白、あるいは詠嘆えいたんによって、最終的な形の思考を、投げ出すように表現するのが日本的発想である。
 言いかえると、日本人は言語を使用しながら、ともすれば、伝達拒否きょひの姿勢をとりやすい。他人のちょっとした言葉にも傷つく繊細せんさいさをもっていることもあって、自分のからにこもって内攻ないこうする。発散しない表現のエネルギーは鬱積うっせきして「腹ふくるるわざ」になるが、いよいよもって抑えおさ られなくなると、爆発ばくはつするのである。
 宗教における悟道ごどう啓示けいじというのもこの範疇はんちゅうに入れて考えてよい。喫茶店きっさてんで友人とコーヒーをすすりながら悟りさと をひらく、というようなことは考えにくい。やはり、面壁めんぺき九年の修行の方がオーソドックスというものである。日本語は、どうも出家的創造性に適していると言うことが出来そうである。論理に行きづまった西欧せいおうの知識人が、ぜんに絶大な魅力みりょくを見出しているのも故なしとは言えないように思われる。
 出家的創造は、対話的発想による論理のように持続はしないが、高圧にまで圧縮されたエネルギーが爆発ばくはつするときの力には、天地の様相を一変させるものすごさがあることも忘れてはならない。
 日本語が、いわゆる論理的でないと言われる、まさにその点に、日本語の創造的性格が存するということは、われわれを勇気づけるに足る逆説である。

(外山滋比古しげひこ「日本語と創造性」による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.1週 nngi
 オイル・ショックが生じた時、これで日本もおしまいだと思った人たちは、日本の内外を問わず、沢山たくさんいたと思います。石油資源をすべて外国に依存いぞんしている日本は、もっともひどく打撃だげきを受ける国であり、日本商品は割高になり、輸出は激減し、国際収支は大赤字になって、失業者はちまたにみちあふれる。多くの人たちはこういう事態を予想したでしょう。
 私自身も、あの一九四五年八月十五日の真夜中に、桜島の南の垂水海軍航空隊の野天風呂のてんぶろ風呂ふろの建物は、爆撃ばくげきですっ飛んでいたので、見事な野天風呂のてんぶろになってしまっていた)にはいっていた時のことを、おもわず思い出しました。私はちょうどその前日に、佐世保させぼの針屋海兵団から転勤して来たばかりで、隊の事情には暗かったので、従兵に風呂ふろはどこかと聞きますと、案内してくれて、「背中を流しましょう」といいます。「戦争がすんだのだから、もう他人の背中など洗うな」といったのですが、「分隊士が最後です」というので、お世話になりました。垂水航空隊というのは、鹿児島湾かごしまわんの海辺にあって、片方は山、片方は海の約三、四〇〇メートルの狭いせま 平地に、細長く作られていました。海風が吹いふ て気持ちよく、月が丸くて、こうこうと照っていたのを覚えています。
 待ち望んでいましたが、全く思いがけずやって来た平和に、私たちはどうしたらよいかわかりませんでした。すべて静かで、夜おそく風呂ふろを使う水音と、波の音と、私たちの時々の会話の他は、全く何の音もありませんでした。しかし、それから数日たって、第五航空艦隊かんたい司令長官の宇垣うがき中将が、彗星すいせい(海軍の爆撃ばくげき機)に乗って、沖縄おきなわ上空に、特攻隊とっこうたい員のあとを追って自爆じばくしたことが判明しますと、四国九州方面の海軍部隊は、指揮官を失って壊滅かいめつし、算をみだして兵隊も、士官も、めいめい勝手に復員してしまったのです。復員といえば人聞きはよいですが、実際には逃亡とうぼう以外の何物でもなかったのです。私もその一人でした。そして、それが戦後のはじまりだったのです。
 それから、終戦直後の流行歌「リンゴのうた」があって、プロ野球の大下や川上の青バット、赤バットが現れて、歌手の笠置かさぎシヅ子の
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

「ブギウギ」の歌が出てと、過去から現在にむかって思い出の糸をたどり、最後にオイル・ショックにつき当たった時、「可哀そうかわい  な日本よ」とおもわずつぶやかざるをえませんでした。その時、私がロンドンの大通りを歩いていなかったのなら、なみだを流していたかもしれません。
 それほどオイル・ショックは深刻でした。私がなまじっか経済学を勉強しているからかもしれませんが、「これで日本もおわりだ」というような気持がしたのです。対日石油禁輸の結果、数か月間の艦隊かんたい行動をすれば帝国ていこく海軍の石油保有量ゼロになることが明白になった段階で、海軍もついに決戦を決意して、太平洋戦争がはじまったのですから、オイル危機が日本にとって歴史的な重大事件であったと考えるのは、何もおおげさではないと思います。
 しかし、驚くおどろ べきことに、結果は全く逆でした。苦しい時期も一時ありましたが、現在では、日本はオイル危機以前よりも、相対的には、かえって強くなっております。無意識的に、経営者と労働者が一致いっち団結したのかもしれません。もちろん現在でも、日本もその他の諸国も、オイル危機の後遺症こういしょう悩まさなや  れていますが、それらの国のうちでは、日本は一番、調子よく行っている国であります。何はともあれ、世界の諸国は、いまや日本の底力を完全に承認しており、オイル危機以後、日本の地位が格段と上昇じょうしょうしたことは、まぎれもない事実であります。
 これは驚異きょうい的な成果であり、全く、うれしい誤算であります。しかし誤算は、もう一つの誤算をひき起こしました。高くなった石油購入こうにゅう費をまかなうために、輸出にはげまなければならないことはきわめて当然ですが、オイル・ショックで沈滞ちんたいした国内需要じゅようの分までも、輸出でカバーしようとしたので、輸出が予想外に伸びの 、日本では国際収支が逆に黒字になってきました。しかもこの輸出が数種の品目に集中して、ヨーロッパ諸国を襲いおそ ましたので、ヨーロッパでこれらの品目を生産している地方の失業問題をひき起こし、日本を締めし 出せの声が、弱体の経済に悩むなや 英国においてのみでなく、好調のはずのドイツでも高まってまいりました。いわゆる貿易戦争が勃発ぼっぱつしたのであります。(関西学院大)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.2週 nngi
 伝統の根をもたぬものは遊離ゆうりした存在である。しかし、伝統を越えこ ぬものは真に新しい存在とはならない。新しい存在によって伝統が受けつがれない時伝統は腐朽ふきゅうする。新しい存在が新しい伝統をつくる。伝統を真に伝統たらしめるものは、伝統を越えこ た新しい存在である。この一般いっぱん的な方式に今日のわれわれの問題もある。われわれの民族性とは伝統の中に顕現けんげんするものだからである。
 明治以来の輸入文化は伝統の根をもっていない。それはあらゆる方面に新しい世界を開いたけれど、その新しい世界はどこか宙に浮いう た、でなければどこかに空虚くうきょを宿したものであった。しかしそこに民族の可能性が引き出されたのである。民衆の生活の自然の発展によるよりも外部の力に反応した上からの誘導ゆうどうによってそうなったところに二重の遊離ゆうり性が見られるにしても、とにかくそうなったことは可能性の新しい展開であった。それをうしろにひき戻すもど ことはできない。うしろに引き戻すひ もど ことはいかなる破壊はかいよりも悪い破壊はかいである。ただしかし宙に浮いう ているものを地につけ空虚くうきょ埋めるう  ことはできる。
 試みに建築の世界を考えて見よう。
 建築は生活と実用との中に常にかたく組みこまれている。そして鉄筋コンクリート建築が近代の生活と実用とに最も適合したものとせられている。構成が容易で耐久たいきゅう力が強い。材料が比較的ひかくてき安価である。――しかし日本の湿気しっけにはこの材料は必ずしも適しない。日本ではまだ独立の小家屋が都市においても一般いっぱん的な家屋単位となっているし、従ってそれには古来の木造建築が最も手軽で便利である。それにこの古来の建築法は日本の風土にたしかに適合している。しかしいっぽう公共建造物に今日こういう木造建築物を建てないところをみるとそれは今日のわれわれのある生活面に対して明らかに適合しないことが解る。そこで歌舞伎座かぶきざの建築のようにその建物の性質上木造の様式を保存したいところでは、コンクリートをもって木造の様式だけをまねる。これがいかに不自然な醜いみにく ものになっているかは眼のある人は見ていよう。コンクリートの壁面へきめんは木材の支える力としての弾性だんせいをもっていない。それがたとえば円柱の表面の張りのある美しさとなっているのであるが、疑似円柱に
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

はその美しさは全く見られない。これは典型的な例であるが、新しい材料を用いて古い日本の様式を採り入れようとしたものは多くこの種の不自然とみにくさとをもっている。今日見られる建築の「日本的」方向とはこういう一種の折衷せっちゅう主義である。ここでわれわれが注意しなければならないのは、こういう建物においても実質的にはまったく新しい材料を使っているということである。従って新しい材料をもってする新しい建築に必要なあらゆる技術がここでは自明なこととして予想せられている。そしてその技術はまた新しい科学の基礎きその上に立っている。建物において「日本的」なものを主張する人でも、決して木造建築を大公共建造物において主張しはしないし、隅田川すみだがわに昔風の木橋を架けよか  うとはしないのである。その意味で過去へ帰ろうとはしないし、また帰ることはできない。新しい科学と技術との勝利がここにある。古い大工に新しい建築家が代っているのである。この事実をわれわれは窮極きゅうきょくにおいて認めなければならないであろう。
 われわれはしかしもう一つの和洋折衷わようせっちゅう態を知っている。今もなお郊外こうがいにおびただしく見られる小住宅の形式で、普通ふつうの日本家にひと間かふた間の「洋館」をくっつけたものである。その「洋館」はおおむね赤い屋根や青い屋根をもっている。それは何の調和をも考えずにとってくっつけたまでのものである。ほとんどすべての場合そのみにくさは言語に絶する。
 私は田舎の町にいた子供のころを思い出す。そこに一軒いっけんのペンキ塗りぬ の「洋館」が建った時、その建物をどんなに立派な建物だと考えたかを思い出す。今見ればそれはいかにも安っぽいちゃちな建物である。しかしそのころはそれが西洋風の外観をもっているということだけで立派に見えたのだ。こういう感じを子供にいだかせる理由は当時の状況じょうきょうからすればもちろん自然であった。われわれはあらゆるものを西洋から受け入れ学んできたからである。しかし同時に今日大人の眼をもってわれわれがそれを安っぽいちゃちな建物とすることも正しい。それは在来の固有の日本の家屋のいかなるものより安っぽくてちゃちである。しかし郊外こうがいの住宅においては、そういう「洋館」がその住宅全体に勿体もったいをつける必須ひっす条件になっている。そこに何か新しい文化が象徴しょうちょうせられているように考えられるのである。(津田塾大つだじゅくだい
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.3週 nngi
 科学が人間にもたらすものには多かれ少なかれ必ず明暗両面が存在する。前世紀末のダイナマイトの発明者ノーベルの苦悩くのう象徴しょうちょうされるように、これは決して最近始まったことではない。しかし、過去数十年の科学技術の進歩はあまりにも速く、人間と社会とに軋轢あつれきを生じてきている。不可能が可能になり、また、より多くのことが明らかになってきた一方で、ものごとの本質は単純ではなく、シロかクロかを言い切れないことも明らかになってきた。
 たとえば、科学の進歩により生と死との間のグレーゾーンが拡大した。凍結とうけつした精子による人工受精が可能となり、親や世代の意味さえあいまいになっている。遺伝子診断しんだん、遺伝子治療ちりょうは新たな生命倫理りんりの問題を提起している。これ以外に環境かんきょう倫理りんり、電子情報倫理りんりとでも名付けられる新しい問題も生じてきている。
 先進国の社会構造も変わりつつある。社会がある程度豊かになり市民の権利意識が高まってきた結果、判断が個々の人にゆだねられる場合もできている。罹病りびょう率と予防接種率を比べてわが子に三種混合ワクチンを接種させるかどうかの判断を下すのは親である。インフォームド・コンセント            がとられるようになってきているが、科学の進歩で一層複雑になった医療いりょう現場において、ある治療ちりょう診断しんだんを受けるかどうかを最終的に決断するのは、本人ないしその家族である。
 来世紀にますます深刻になる地球環境かんきょう・資源・人口・エネルギー問題についても、一人一人に自分の問題としての思索しさくと決断が求められてくるだろう。科学技術の進歩ゆえにいっそう複雑になっていくこのような問題に対して、どうすれば感情論や上滑りうわすべ の議論に流されることなく、科学的知識と広い視野に立った自分なりに納得のいく判断が下せるのだろうか。そのためには、科学と社会を結びつける良質の情報が必要である。それを自分の行動に役立てていかなくてはならないし、場合によっては、自ら発信者となることも大切である。
 残念なことに、科学者が出した成果はそのままでは判断材料として役立たないことが多い。専門用語ゆえに科学はとりつきにくい。良質の情報には優れた表現能力も必要とされる。研究に専念している科学者には時間的余裕よゆうがないのが普通ふつうであり、研究の社会的
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

意味も忘れられがちである。
 そこで、最先端さいせんたんの科学の研究成果とその社会的意味を科学に慣れ親しんでいない人に、(社会的意味については科学者にも改めて)説明してくれる人材、つまり科学の「インタープリター」が必要となる。「インタープリター」は専門用語の単なる直訳者ではなく、問題を指摘してきし進むべき方向を示唆しさする、科学と実生活の橋渡しはしわた をする解説・評論者である。
 まずは科学の面白さを伝えてほしい。科学のマイナス面あるいは生活の利便性に貢献こうけんする面ばかりをセンセーショナルな言葉で強調せず、本質的な理解に基づいて生命現象の素晴らしさや量子の世界の不思議さ、宇宙の深遠さを語ってほしい。現在の科学は、何十億年もかけて作られてきた宇宙や生命のなぞのほんの一端いったんしか明らかにしていないこと、科学による知的創造が人類の未来には不可欠であることも訴えうった てほしい。
 小さな成果も多くの科学者の地道な努力の積み重ねである。実験現場では、実験条件、実験対象の状態、誤差など種々の要素を考慮こうりょに入れなくてはならず、結論を単純には出せない。また、例外にこそ面白さがあると実感するが、このようなことを理解できる人であってほしい。脳死を議論するとき、脳波の有無といっても実は測定機器の検出限界や脳内の測定部位によるのではないか、といった疑問を持つことのできる人である。もっと一般いっぱん的な場合では、確率や平均値などの数値を鵜呑みうの にせず、その定義や算出方法を考えてみることのできる、つまり科学的思考のできる人である。

(東京理科大)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.4週 nngi
 ぞくに言う重箱のすみを突っつくつ   たぐいの学術論文は別にして、歴史書を書くほどの人は学者でも、ということは世界的に有名な大学の教授の地位にある研究者でも、その人たちの歴史著作を読めば、必ずしも「イフ」は禁句ではないということがわかる。
 もちろん彼らかれ でも、カエサルがブルータスらに殺されずにあと十年生きていたら、ローマはどうなっていたか、とは書かない。しかし、カエサルの暗殺以後のローマの分析ぶんせきは、「イフ」的な思考を経ないかぎり到達とうたつ不可能な分析ぶんせきになっている。ということは、書かなくても頭の中では考えていたということである。
 では、専門の学者でもなぜ、「イフ」を頭の中だけにしてももてあそぶのか。
 それは、歴史を学んだり楽しんだりする知的行為こういの意義の半ばが、「イフ」的思考にあるからである。ちなみに残りの半ばは、知識を増やすことにある。「だれが」、「いつ」、「どこで」、「何を」、「いかに」、行ったか、だけを書くならば、今や流行りのインターネットでも駆使くしして、世界中の大学や研究所からデータを集めまくれば簡単に書ける。ところが史書が簡単に書けないのは、これらに加えて「なぜ」に肉迫にくはくしなければならないからである。
 ギボンは、『ローマ帝国   ていこく衰亡すいぼう史』の最後を、東ローマ帝国   ていこくの首都コンスタンティノープルの陥落かんらくで終えた。だが、五十余日にわたった攻防こうぼう戦を日々刻々記録したあるヴェネツィアの医師が残した史料は、ギボンの死んだ後で発見されたのである。それを基にして今世紀、現在では世界的権威けんいとされているランシマン著の『コンスタンティノープルの陥落かんらく』が書かれたのだった。
 この二書を読み比べてみると、たしかにランシマンの著作のほうが、五十余日の移り変わりが明確になっている。だが、本質的にはまったく差はない。ギボンの鋭くするど 深い史観は、一級史料なしでも歴史の本質への肉迫にくはくを可能にしたのである。つまり、「なぜ」の考察に関しては、データの量はおろか質でさえも、決定要因にはならないということだ。歴史書の良否を決するのは、「なぜ」にどれほど
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

肉迫にくはくできたか、につきると私は確信している。
 そして、史書の良否に加えて史書の魅力みりょくの面でも、「なぜ」は大変に重要だ。だれが、いつ、どこで、何を、いかに、まではデータに属するが、それゆえに著者から読者への一方通行にならざるをえないが、「なぜ」になってはじめて、読者も参加してくるからである。その理由は、「なぜ」のみが書く側の全知力を投入しての判断、つまり、勝負であるために、読む側も全知力を投入して、考えるという知的作業に参加することになるからだ。書物の魅力みりょくは、絶対に著者からの一方通行では生れない。読者も、感動とか知的刺激しげきを受けるとかで、「参加」するからこそ生れるのである。
 そこで、「なぜ」という著者・読者双方そうほうにとっての知的作業には、必然的に「イフ」的な思考法が必要になってくる。
 私の言いたいのは、なぜ信長は本能寺で死なねばならなかったのか、の「なぜ」ではなく、生前の信長はなぜ、これこれしかじかの政策を考え実行したのか、に肉迫にくはくする「なぜ」である。
 それには、信長の立場に立って考えることが必要だ。かれだって、本能寺で死ぬとは予想していなかったのだから。ゆえに、もしも信長があそこで死なずに十年生きていたら、と考えることではじめて、生きていたころの信長の意図に肉迫にくはくできるようになる。反対に「イフ」的思考を排除はいじょすると、話は本能寺で終ってしまい、日本史上空前の政策家信長の真意も、連続する線上で捕えるとら  ことが困難になってしまうのだ。
 われわれは大学から給料をもらっている身でもないし、それゆえに学術論文を書く義務もない。彼らかれ が禁句にしているからといって、われわれまでが恐縮きょうしゅくして従う必要はないのである。歴史を、著者・読者双方そうほうともが生きる現代に活かすのにも、「イフ」的思考は有効である。

(塩野七生「『イフ』的思考のすすめ」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.1週 nngi
 もっとも肉食がぜいたくだといいだせば、本来なら、欧米おうべい諸国でも事情は同じである。いくら一人当り農用地面積がひろくとも、土地からの第一次生産物を直接人間の口に入れる方が、はるかに安上がりなことに変りはない。にもかかわらずヨーロッパ人のあいだでは、栄養問題がたいしてやかましくもない古い時代から、なぜ不経済な肉食が高い比率を占めし てきたのであろうか。実は、畜産ちくさん物を食べるのがぜいたくだというのは、食用作物の十分にとれる耕地をわざわざ割いて、飼料作物を人工的に栽培さいばいした場合のことである。もし、家畜かちくが、そこらに勝手に生える、食用にならない草のようなもので育つぶんには、肉食はすこしも不経済ではない。ヨーロッパ人の家畜かちく飼育は、もともとそういうところからでてきたのである。日本とは、だいぶ事情がちがう。ヨーロッパの肉食率が古くから高かったのは、もとはといえば、日本では考えられないほど家畜かちく飼育の容易な、牧畜ぼくちく適地だったからである。そして、ヨーロッパを牧畜ぼくちく適地にしたのは、要するに、自然に生える草類が家畜かちく飼料にならないほど徒長するのを妨げるさまた  、独特の気候条件であった。では、ある意味では植物の生育に不適なそうした気候条件は、穀物生産に対してどのように働きかけたのであろうか。
 ここでまず考えなければならないのは、日本では穀物生産の主役が伝統的に水稲すいとうであったのに、ヨーロッパでは麦類であったという事実である。このことは何でもないようで実は重大な意味をもつ。とくに、現在とちがって化学肥料がものをいわない時代には、なおさらである。たとえば、無肥料連作をつづけた場合、麦類は水稲すいとうの半分ほどの収量比しか確保できない。これは、水稲すいとうであれば、自然の用水のなかにいろいろな養分があり、収穫しゅうかくはそれほどおちないのに、麦の場合はそうはいかないからである。同じいねでありながら、陸稲おかぼを無肥料連作すると、麦類と同じくらいの比率で収量が低下することからも、このことはわかる。それならばヨーロッパでも水稲すいとう栽培さいばいしてもよさそうなものであるが、ここでわたくしたちは気候条件につきあたる。水稲すいとう栽培さいばいには、成育期に三か月以上摂氏せっし二〇度を越すこ 気温と、年間で一〇〇〇ミリを越すこ 降雨量が必要であるが、ヨーロッパでこのような条件を満たすところ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

はほんのわずかである。水稲すいとう栽培さいばいが可能なのは、本来的には、役にたたない雑草を繁茂はんもさせる、暑熱と湿潤しつじゅんのはげしい所だけである。したがって、近代以前のヨーロッパの穀物生産力はいちじるしく低い。
 こうした低い生産力水準は、ときとともに少しはましになる。べつに肥料をつぎこまなくても、播種はしゅのまえに何回もたがやすようにすれば、収穫しゅうかく量はいくぶん増加する。それにしても、上昇じょうしょうのテンポはゆっくりしたものである。十三、十四世紀には、ヨーロッパのあちこちで生産力の実態をつかむことができるようになるが、とくに条件のめぐまれた場合を別にすると、収穫しゅうかく量の平均は播種はしゅ量の三倍から四倍ていどにすぎない。近世にはいっても、ようやく五、六倍ぐらいである。十九世紀はじめでも、たいていのところでは、五、六倍のままである。これらの数字がいかにひどいものかは、日本とくらべるとはっきりする。日本の水田はふつう上田・中田・下田などに分類されていたが、徳川時代の農業書を総合すると、平均値にあたる中田の収穫しゅうかく量は、大体播種はしゅ量の三十倍から四十倍である。ヨーロッパをほぼひとけた上廻っうわまわ ている。徳川時代というと、すぐ五公五民とか六公四民といった調子で、ひどくしいたげられた農民の姿が浮かぶう  が、考えてみれば、その原因の一半(いっぱん)は、水田のこうした異常な生産力の高さにある。いくら政治権力が暴虐ぼうぎゃくでも、生産力の低いところでは、とても、収穫しゅうかく物の半分以上を横取りすることはできない。(中略)日本の農民は、生産力が高いがゆえにいじめられるという、みょうなジレンマにおいこまれていたわけである。ところで、ヨーロッパの穀物生産力が、十九世紀はじめまで、これほど低いものであるとすれば、日本のような主食観念はとうてい生まれようがない。そこでは、ある意味で、「パンはぜいたく品」である。過去の日本人が動物性食品に対して抱いいだ た、「もったいない」という感じが、いわば裏返しの形で存在する。だから、ヨーロッパ人の肉食率が高いのは、考え方によってはけっしてかれらがめぐまれていたためではない。風土的条件が、かれらに穀物で満腹することを許さなかったのである。穀物であれ、畜産ちくさん物であれ、主食・副食の別なしに口にすることがかれらの生きる唯一ゆいいつの道だったのである。 (東北学院大)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.2週 nngi
 そうした中で、「戦後史」の展望にかかわる事典を編むという作業に参加したことは、第一に自分の経験以外の細部に出会えるという機会であり、第二に全体像を見て取る、誤解を承知で言いかえれば、ある種の歴史の錯覚さっかくを得るためにも得難い機会であった。私が担当した科学技術の分野について、多少の印象を述べる前に、一人の人間として、日本の戦後史とは何であったかという点を、簡潔に表現すれば、「生命と生活の安寧あんねいをお金で買い、その代償だいしょうとして、高潔さの徳を売り渡しう わた た」ということになる。この売り物と買い物の組み合わせは、ほとんど必然であると思われるので、結局、戦後の日本の選択せんたくがまさにそれであったといってよいのだろう。良かれ悪しかれ、その選択せんたくが戦後の日本を造り、自分も含めふく て現在の日本人を造った。私自身常にそのバーゲンのうちに身をさかれているのを覚える。戦後、身の内からわき出るような笑いを笑った記憶きおくを持たない自分に気づくとき、我が身のその分裂ぶんれつがどれほど深い抑圧よくあつであるかを、重ねて苦く知らされる。
 そうしたバーゲンに決定的に貢献こうけんしたものの一つが、科学技術であった。とくに産業技術に関していえば、その成長ぶりは、想像を越えこ ている。早い話、自分が自分の自動車を持つことなど、一体どれだけの人が、例えば昭和二五年に信じられただろう。無論、敗戦後、アメリカをはじめ戦勝国が食料・衣料や医薬品を放出してくれたことが、日本国民を救ったし、朝鮮ちょうせん戦争・ベトナム戦争では多くの国々の若者たちの血が流されたが、日本だけは一滴いってきの血も流さなかったばかりか、特需とくじゅという形の経済的な利得だけを得たという、日本にとってまことに都合のよい事態が、続けて起こったことを見逃すみのが わけにはいくまい。
 しかし、石油ショックを産業の体質改善に利用し、徹底てっていした省エネルギー化と合理化の中で技術を磨いみが たことは、確かに日本の自助努力であったと評価することができよう。それは原料やエネルギー資源を国内に持たない日本だったからこそ可能な努力だったとも考えられるし、さらに敢えてあ  いえば、かのバーゲンをしてしまった日本だからこそ、そこにエネルギーを傾注けいちゅうできた、とも考えられる。その結果、公害抑止よくし技術を含めふく て日本の技術が世界に貢献こうけん
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

きる余地は明らかに増えた。今のところ、日本のそうした関連の技術は、普遍ふへん的に利用できるほど廉価れんかではないが、地球環境かんきょう問題の深刻化を考えると、この分野での技術の多様化と徹底てってい化に率先して努力を傾注けいちゅうすることで、これまで海外から受けた様々な援助えんじょの返礼をすべき時が来ていることを痛感する。科学技術の領域をめぐって戦後史という観点から振り返っふ かえ て、見えてくる最大のポイントはそこにあるのであって、ノーベル賞受賞者の数をどうやって増やせばよいか、というようなことは、枝葉末節だと私は信ずる。
 他方、科学については湯川秀樹ひできのノーベル賞受賞は戦後最大のニュースで、それとともに湯川や朝永を中心にした素粒子そりゅうし論グループが世界をリードしたと思われる時期も僅かわず ながらあった。ただ、日本はもともと純粋じゅんすい科学のような理念を持ち難い体質の社会である。また、過度の平等化が進んで、突出とっしゅつした才能を発掘はっくつしにくい雰囲気ふんいきもあろう。最近とみに話題になる、いわゆる「センター・オブ・エクセレンス(その分野の研究者なら、行ってみたい、滞在たいざいしてみたいという吸引力を備えた、世界的な研究機関)」が、日本に全くといっていいほど存在しないのも、平等化の進んだ結果であろう。公立の高校が「学校群」などという馬鹿げばか た制度の採用で平均化されてしまったことが、現在の偏差へんさ値教育の元凶げんきょうであろうが、このような構造を一朝一夕には変えられないとすれば、問題は、そうした一面から見れば奇妙きみょうな学校教育に支えられた、日本の科学研究が今後どこへ進むべきか、という点であろう。
 ノーベル賞受賞者を一人増やすよりは、世界の様々な場所で、人間の尊厳を全うできずに苦しんでいる人々の「生」を支えるような科学技術、次の時代に生きるはずの、まだ生まれ来ていないものたちが、少しでも生きていてよかったと思えるような地球を残すために役立つような科学技術、そうしたものの創造に力を尽くすつ  科学者が、日本から一人でも生まれることを、かつて人々が人間の尊厳を失い、外国の援助えんじょに助けられた、またその結果として、高潔さを売り渡しう わた て「生」の安寧あんねいを追求することを選択せんたくしてしまった「日本の戦後史」の総括そうかつとして、ここに望んでおこう。(村上陽一郎よういちろう「科学技術のポスト戦後」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.3週 nngi
 芸術スポーツといっても、何のことか分からない人のほうが多いに違いちが ない。体操、新体操、シンクロナイズド・スイミング             、フィギュア・スケートなど、美しさを競うスポーツの総称そうしょうである。耳慣れないのは当然で、二十世紀も九〇年代になってようやく用いられるようになってきた言葉なのだ。だが、この芸術スポーツにこそ、オリンピックの、いやスポーツの未来がかかっていると、私には思われる。この呼称こしょうが登場したということ自体、人間の身体に関する考え方の大きな変化を象徴しょうちょうしているといっていいからである。
 むろん、ほんとうは美しくないスポーツなど存在しない。全力で戦っている人間はみな美しい。野球選手もサッカー選手もテニス選手も、みな美しい。少なくとも、美しさに輝くかがや 一瞬いっしゅんを持っている。とすれば何をいまさら芸術スポーツかといわれそうだが、この言葉は、その美しく見える一瞬いっしゅんこそがスポーツのもっとも大切な要素ではないかと問いかけているのだ。学問的な定義において、スポーツはすべて芸術ではないかと密かに問いかけているのである。その問いかけがいま、きわめて重要になりつつあると私には思われる。
 というのも、スポーツ、さらに総合的な言葉でいえば体育は、必ずしも美しさを追求するものではなかったからである。近代体育はまず何よりも軍事教練として始まった。ヨーロッパの後を追うように近代化に励んはげ だ日本においてはさらに著しいが、それはまず国民の体力の向上を目指すものだったのである。その最大の視覚化が軍隊だが、軍隊の予備軍としての学校、それを補完するものとしての工場においても、体育はもっとも重要なものと見なされていた。
 身体の近代化を推し進めたのはじつは愛国主義であり軍国主義だったということになるが、しかしその背後にはさらに重要な動機が隠さかく れていた。生産第一主義である。いかに効率よく生産力を上げるかということこそ、近代体育の、また近代スポーツの隠さかく れた主題だった。二十世紀の過半を占めるし  のは米ソの冷戦だが、社会体制の違うちが この両陣営じんえいが争っていたのは軍事力では必ずしもなかった。むしろ生産力だったのである。オリンピックは長いあいだ冷戦を反映したが、その間の最大の話題が記録の更新こうしんとメダルの数にほ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

かならなかったことを考えてほしい。身体の祝祭を測る物差しが、国家の生産力を測る物差しと寸分も違っちが ていなかったのである。
 米ソ二大国の没落ぼつらくと、生産第一主義への疑いの高まりが、ほぼ軌を一にき いつ していたことに注意すべきだろう。芸術スポーツはこの変化を象徴しょうちょうするように登場してきたのである。新体操もシンクロナイズド・スイミング             も一九八四年のロサンゼルス・オリンピックから正式種目になった。むろん、記録の更新こうしんとメダルの数が話題にならなくなったわけではないが、それ以上に、美しさと感動が話題になるようになったのである。体育やスポーツを見る視線のこのような変化は、選手たちの表情や態度の変化にもはっきりと見て取れる。選手たちはもはや、国家の威信いしんをかけるような悲壮ひそうな表情をしなくなった。競技を楽しむようになってきたのである。
 人は何のために生産するのか。消費するためにである。より豊かに、より楽しく、より美しく生きるためにである。多くの人がそう考えるようになってきた。生産第一主義から消費第一主義への移行である。かつて生産は美徳で消費は悪徳だったが、いまでは逆に消費は豊かさの別名になっている。物質的な、ではない。生の時間をいかに豊かに過ごすかが、消費の内実であるとだれもが考えるようになってきたのだ。芸術スポーツという言葉は、まさにこのような潮流のなかに生まれてきたのである。
 芸術スポーツのコーチたちは、審査しんさ員のみならず観客を感動させることがいかに重要かよく知っている。見るものの印象によって決定されるのが芸術点であるとするならば、その採点は観客の反応をも、多少は考慮こうりょせざるをえなくなるだろう。とりわけ新体操のグループ演技やシンクロナイズド・スイミング             などの場合、コーチの指導はほとんど演出に近いものになってくる。つまり、スポーツが舞台ぶたい芸術化するのである。人によっては、勝敗が曖昧あいまいになるようで、これを嫌うきら かもしれない。だが、私はそうは思わない。ひたすら記録の更新こうしん邁進まいしんするよりは、はるかに健康的に思える。観客もまた生きている人間なのである。

(国学院大)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.4週 nngi
 最近のローティーン以下の子供たちは、あれほど教師が「個性」「自立」「自立性」を金科玉条のように主張しているにもかかわらず、目立つことを嫌うきら 傾向けいこうが強いそうである。彼らかれ の間では、「他人に配慮はいりょができる」気配り型が人気で、「場の空気が読めない」外し型が不人気だそうである。事実、うちの小学生のむすめを見ていても、目立たないことの重要性を学習していると感じている。
 「けっこうです」という言葉は頭が痛い。高文脈言語である日本語を象徴しょうちょうする言葉である。文脈を理解していないと、「イエス」か「ノー」かわからないのである。日本人でも文脈が微妙びみょうで、どちらかわからないことさえある。最近の若者の間で、この「けっこうです」に代わる言葉のひとつに、「ビミョー」があろう。明確な判断を避けさ ているとの批判もあるが、若者たちの間では、共有している文脈のなかで、最近はとくに否定的な意見や感想をできるだけ述べたくないので、推し量れという高文脈言葉として使われている。まさに微妙びみょうなのである。
(中略)
 これを巨視的きょしてきにはどう捉えるとら  べきか。戦後の一億総中流という平等幻想げんそうの上に築かれた企業きぎょうという名の大きな帰属集団が、いままさに崩壊ほうかいせんとしており、日本的小規模帰属集団への先祖返りが若者によってなされようとしている、と受けとれないこともない。この意味においても、日本企業きぎょうは若年層の企業きぎょうへの忠誠心(この場合は英語のコミットメントという語がふさわしい)を、どのように確保するのかという大きな問題を抱えかか ているといえる。このまま企業きぎょうが、若者たちの企業きぎょうへのコミットメントを喪失そうしつすれば、日本企業きぎょう企業きぎょう力、ひいては日本の国力は衰退すいたいしていくことだろう。
 したがって、若者の行動の変化が個人主義への移行につながるという議論は、明らかに論理が飛躍ひやくしている。利己主義化(わがまま化)していることを個人主義化の根拠こんきょとしているのかもしれないが、集団主義を否定すれば個人主義になるというような単純な二こう対立的な問題ではない。日本と西欧せいおうの自我/自己構造の違いちが を考え
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

れば、これが乱暴な論であることは明らかである。
 にもかかわらず、日本的原理の崩壊ほうかい=個人主義への移行という極端きょくたんな論を展開している人が多いのは、そうした論者自身が日本人的自己の前提構造の不安定さに苛立っいらだ ているからと解釈かいしゃくしたほうがよいのではないか。自己の前提となる役割構造が崩壊ほうかいしてしまうときによく見られる日本的な態度、まるで振り子ふ このように「ゼロか百か」に極端きょくたん振れるふ  姿勢が、ここにもあらわれているのである。そもそも、利己主義と個人主義を混同すること自体、日本人が西欧せいおう的な意味での個人主義原理に向かっていない証拠しょうこである。
 繰り返しく かえ になるが、若年層の行動を子細に見ていくと、自己の相対的位置づけに基づく内向きの思考メカニズムに、構造的な変化は認められない。一見、個人主義原理へ移行しつつあるように映る若年層の行動は、自己構造にいたる手前のプロセスにおける、二つの領域での変化と解釈かいしゃくすべきなのではないか。
 ひとつは、従来に比べて若年層の共通文脈の設定領域が狭くせま なったことと、コミュニケーション・スキルとその方法が変化したことである。もうひとつは、若年層の社会行動規範きはんの通念が、これまでに比べてかなり変化してきたことである。戦後の官僚かんりょうが築き上げた「一億総中流の平等幻想げんそう」がバブル崩壊ほうかいによって破綻はたんし、「一億総よい子化」に息苦しさを感じる若者たちが出てきたことによって、社会通念が変化し、よい意味での階層化が進んでいる。息苦しくなくいられる、自分のアイデンティティとなるワーキング・クラスの形成である。けっして裕福ゆうふくでもない家庭の子供がニートの多くを占めし られるほど豊かな社会では当然かもしれない。最近は「下流社会」とか「格差社会」という言葉がはやっているが、階層化をすべて悪と捉えるとら  のは、社会主義的官僚かんりょうか、おせっかいな進歩的文化人であろう。

小笠原おがさわらやすし『なんとなく、日本人』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534