a 長文 4.1週 nnza2
 野球で「二年目のジンクス」ということがよく言われる。一年目は好成績を残したのに、二年目はさっぱりダメという場合である。イチローのような特段に優れた選手は例外で、ほとんどが並の実力の持ち主だから、一年目は誤差でたまたまいい成績となっただけで、二年目からは平均に戻っもど たと考えた方が正しいだろう。にもかかわらず、スウィングが悪い、モーションが悪いと指摘してきされ、自分もそうではないかと思い込んおも こ でフォームを崩しくず てしまい、結局大成しなかった選手が多くいる。数年間を見て実力を見極める度量が欲しいものである。

 以上、判断の各過程におけるエラーについて述べてきたが、それらに共通する心理を整理しておこう。
 まず、「認知的節約の原理」がある。限られた情報から欠けた部分を経験や先入観や単純な類推によって補い、効率よく事態を処理しようとする心理のことだ。本人にとって負担が少ない思考法だが、そこにエラーが生じてしまうのだ。
 続いて、「認知的保守性の原理」を挙げよう。すでに持っているスキーマを保ち維持いじしようとする傾向けいこうで、反証を無視したり、無理にでも自分の像に合わせてしまう心理である。自分は一貫いっかんした考え方をしていると自認できるので心理的な安定感が得られることになる。だからこそ間違いまちが やすいとも言える。自分が安心できる思考法でつい安住してしまうからだ。
 もう一つは、「主観的確証の原理」で、どちらともつかない証拠しょうこだけでなく明らかな反証であっても、自分の予期を積極的に支持していると勝手に解釈かいしゃくする心理傾向けいこうである。「いやよいやよも好きのうち」と身勝手に思い込んおも こ でセクシュアルハラスメントに及ぶおよ 人間がその典型と言える。自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑あんかんとしている人にお目にかかることが多いのはこのためだろう。被疑ひぎ者に対して状況じょうきょう証拠しょうこしか見つかっていないのに犯人と決めつけ、すべてその仮定の下で解釈かいしゃくしたがる例もある。犯人が見つかっていないと不安だが、強引にでも決めつけてしまえば安心するのだ。(早く安心したいという気持が底に潜んひそ 
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

いることもある。)この心理には、思考の経済性や一貫いっかん性なども絡み合っから あ ている。こうなるともはや自省する気持を失ってしまう。
 さらに付け加えるとすれば、「偶然ぐうぜん性を拒否きょひしたい心理」、言い換えれい か  ば「確固とした因果関係として説明したい心理」もある。偶然ぐうぜんに起こったことであっても必然だと思い込みおも こ 、それをきちんとした因果関係で説明しようとすると科学的な理由が見つからず、ついにちょう常的現象だと考えてしまうケースである。予知夢がテレパシーしかないと解釈かいしゃくし、たまたま当たったのを透視とうしできたと受け取り、そのまま信じ込んしん こ でしまうのだ。認知的エラーを自覚しない人ほど、自分の体験を絶対化して信じ込むしん こ 傾向けいこうが強い。「しょせん、体験したことがない人にはわからない」として、他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまうのだ。そして、自分の意見を強調すればするほどその信念はいっそう強くなっていき、もはや後戻りあともど が不可能になる。
 むろん、人間の認知エラーが多いと言っても、私たちは日常生活において大きな支障なしに生きている。それを無意識のうちに矯正きょうせいしたり、または大きな問題が起こらないので気づかないままやり過ごしている。ときには認知エラーが人間の生存にプラスにはたらいていることもあると知っておくべきだろう。あまりに気にし過ぎると神経症しんけいしょうを病むことになりかねないからだ。
 ただ、突発とっぱつ的な事件が起こって即座そくざの判断を迫らせま れたり、すぐに合理的な解釈かいしゃくができない事象に遭遇そうぐうしたりしたとき、認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないことが肝腎かんじんなのである。それは疑似科学に騙さだま れていないか自らを点検することにも通じるからだ。

(池内りょう『疑似科学入門』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 4.2週 nnza2
 教養の危機を語るにつけて、現代人の俗耳ぞくじにもっともはいりやすい説明は、いわゆる情報化時代の脅威きょういであろう。その場合、問題の焦点しょうてんはおもにメディアの革命にあてられる。
 電子メディアの台頭によぶ活字文化の衰退すいたい憂慮ゆうりょされるのがつねである。端的たんてきにいえば、人びとがテレビ映像に耽溺たんできして本を読まなくなり、関心は総合雑誌よりもインターネットの情報に向いているといった現象が、不安として指摘してきされる。(中略)
 変化のポイントは、知の性質のなかで永遠性よりも新しさが価値を占めし 脈絡みゃくらくよりは断片性が強められ、知がより多く時事的な好奇こうき心と実用性に訴えるうった  ようになったことであった。写本の聖書よりは個人の著作のほうが、著作よりは雑誌論文や新聞記事のほうが、ときどきの移り行く関心に応え、その分だけ視野の脈絡みゃくらくに欠けることは明らかだろう。単行本の目次は、一つの論理の構成を示しているが、雑誌の目次や新聞のページ建ては、多様な主題を緩やかゆる  に分類しているにすぎない。そして情報という言葉のもっとも常識的な定義が、この主題の多様性、新鮮しんせんさと断片性、猟奇りょうき性と実用性であることはいうまでもあるまい。古い情報、役に立たない情報、論理の難解な情報などは、だれの興味もひかないはずである。
 ちなみに、知(knowing)を、その働きの方向によって分類すれば、情報(information)と反対の極をめざすのが、知恵ちえ(wisdom)だと見ることができる。聖書の知恵ちえ、長老の知恵ちえ、おばあさんの生活の知恵ちえという言い方が暗示するように、それは時間を超えこ た真実を総合的にとらえるものとして理解されている。知恵ちえは深い意味で実用性を持つが、およそ新しさや多様性とはえんがなく、それ自体が内部から自己革新を起こす性質にも欠けている。知恵ちえは永遠であり唯一ゆいいつであり、その内部にも多様化への余地を許さない統一性を保っている。そして、このように比較ひかくすると、普通ふつうに知識(knowledge)と呼ばれる種類の知は、
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

構造と機能のどちらの面でも、この知恵ちえと情報の中間にあると考えられるのである。
 知識は断片的な情報に脈絡みゃくらく与えあた 、できるだけ広い知の統一性を求めるとともに、できるだけ永く持続するものにしようとする。その点では、明らかに情報よりは知恵ちえの方向をめざしながら、しかし知識はその内部に多様な情報を組みこみ、全体としては分節性のある構造をつくりあげる。全体を区切る細部があって、そのあいだに順序配列のある統一をつくるのである。知識はたえず新しい情報を受け入れて自己革新に努め、同時に古い知識との連続性を維持いじしようとする。一方、内側にも外側にも複雑な脈絡みゃくらくを持つ知識は、情報よりも知恵ちえよりもそれを理解するのに努力を必要とする。さらに実用性という点から見ても、知識はこの二つに比べて効用をわかりにくくしたのが特色だといえよう。
 こうした知識がにわかに拡大したのが十八世紀であって、自然科学を中心に随所ずいしょで神秘的な知恵ちえや経験的な知恵ちえ駆逐くちくして行った。青年の学ぶ新しい学問のほうが、村の長老やおばあさんの言い伝えよりも尊重されるようになったのである。だがその反面、知識は最初からたえず情報に背後を脅かさおびや  れ、体系的な統一性を試される宿命をおびていた。十八・九世紀は新発見の時代でもあって、理論的な知識は、それに合わせてたえず組み替えく か を求められたからであった。知識が増殖ぞうしょくし視野が分岐ぶんきするにつれて、その全体を統一する中心的な価値が揺らいゆ  だことは、先に述べた。二十世紀はこの趨勢すうせいがさらに力を増して、ついにいっさいの求心性を欠いた情報の群れが優位を占めるし  時代になったのである。

 (山崎やまざき正和『歴史の真実と政治の正義』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 4.3週 nnza2
 ある特定の動物になる、あるいはその動物の身になったところを想像してみる、ということが文学の世界ではよくあります。漱石そうせきの『我輩わがはいねこである』やカフカの『変身』はその代表的な例です。
 これらの作品を読んでいると、このような想像もそれほど突飛とっぴな話ではない気がします。その動物になってしまったら、自分の生活はどうなるのか、「どんな感じ」がするのか、想像することは、簡単な気がするでしょう。
 しかし、ほんとうにそうでしょうか。精密に検討してみると、このような想像が意外に困難であり、むしろ不可能に近いことがわかってきます。正確に言うと、「想像すること」自体は簡単なのですが、その妥当だとう性を主張することが無意味なのです。
 哲学てつがく者ヘーゲルは、この問題を、もっともきちんと提起した人です。かれは、そのタイトルもずばり「コウモリになったらどんなふうか?」という論文で、その不可能さと無意味さを指摘してきしています。「コウモリの身になったらどんなふうか、その体験事実はコウモリだけに特異的なもののはずである。あまりにも特異的すぎて、それをわれわれ人間が想像できると主張することすら、ほとんど無意味なのだ」とかれは言います。
 たとえば、自分のうで網状あみじょうに枝分かれして、その間にまくが張り、空を飛べるようになったら、どんなだろうとか、明け方や夕方の空を飛びながら虫を捕まえつか  られたらとか、一日中洞穴ほらあな天井てんじょう裏に足でつかまって逆さ吊りつ でいたら、などと想像することは、もちろんできます。目がほとんど見えず、ちょう音波のエコロケーション(反響はんきょう定位)・システムを使って環境かんきょう世界を知覚するということも、ある程度想像することは可能だともいえます。
 しかし、そのような想像をしている限り、それは「私がコウモリの身に押し込めお こ られたら」という想像でしかありません。飛行機にパイロットが乗り込みの こ 操縦するように、コウモリに「私が」乗り込みの こ 「操縦する」ことを想像したら、という特異なケースでしかないのです。(中略)
 しかし、いまここで問うているのは、そういうことではありませ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ん。「コウモリがコウモリとして、コウモリの身で体験する世界とはどのようなものなのか」という問いなのです。その問いに答えようとして想像力を働かす瞬間しゅんかんに、そこには「私」の「ヒト」としての制約が避けさ がたくはたらいてしまいます。この制約そのものがすでにして、ここで要求されている課題と矛盾むじゅんします。つまりどうがんばっても、想像されたものは「ヒトの身体」の経験であり、「ヒトの心」の経験でしかないのです。
 まだ納得できないと言われる方のために、もう少しがんばってみましょうか。
 つまり、ヒトとしての「過去」、ヒトとしての「記憶きおく」がじゃまをしているということだろう。それなら、先ほどの「飛行機とパイロット」のような状態でも構わない、強引に(ヒトの来歴をひきずったまま)コウモリに「乗り込んの こ で」、コウモリのセンサー(感覚器)を使い、コウモリのつばさを使って飛び続けてみてはどうか。そうすればやがて、コウモリとしての「経験」、コウモリとしての「来歴」ができ、コウモリとしての「自我」さえ(もしそんなものがあるとすれば)芽生えるかもしれない。その分だけコウモリ自身の体験に近いものを体験できるのではないか。
 これはかなりいい線を行っている議論だと思います。しかしこれをさらに徹底てっていするには、人間としての感覚能力や記憶きおくをすべて「失う」、あるいは「消し去る」というところまで推し進めないと完璧かんぺきではありません。そうでないと、完全にコウモリとしての「来歴」を獲得かくとくしたことにならないのです。
 ところがそうなったとすると、そこに存在するのは「私」ではなく、何の変哲へんてつもないコウモリが一ぴきいるだけということになりはしないでしょうか。つまり、この思考実験の前後を比べると、もとは「私」と自ら呼んでいたヒトが一人消え、コウモリが一ぴき増えただけという話になるのではないでしょうか。「コウモリになったとしたときの体験をありありと想像できるか」という最初の課題も、どこかで蒸発してしまうことになるのです。
 
下條しもじょう『「意識」とは何だろうか』より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 4.4週 nnza2
 私は『牡丹ぼたん灯籠どうろう』の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四さいであったが、一編の眼目とする牡丹ぼたん灯籠どうろう怪談かいだんの件を読んでも、さのみに怖いこわ とも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町こうじまち区山元町)の万長ていという寄席へ出て、の『牡丹ぼたん灯籠どうろう』を口演するというので、私はその怪談かいだんの夜を選んで聴きき に行った。作り事のようであるが、あたかもその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談かいだん聴くき には全くお誂えあつら 向きのよいであった。
「お前、怪談かいだん聴きき に行くのかえ」と、母は嚇すおどか ようにいった。
「なに、牡丹ぼたん灯籠どうろうなんか怖くこわ ありませんよ。」
 速記の活版本でたかをくくっていた私は、平気で威張っいば て出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高座にあらわれて、燭台しょくだいの前でその怪談かいだんを話し始めると、私はだんだんに一種の妖気ようきを感じて来た。満場の聴衆ちょうしゅうはみな息をんで聴きき すましている。伴蔵とその女房にょうぼうの対話が進行するにしたがって、私ののあたりは何だか冷たくなって来た。周囲に大勢の聴衆ちょうしゅうがぎっしりと詰めかけつ   ているにもかかわらず、私はこの話の舞台ぶたいとなっている根津ねづのあたりの暗い小さい古家のなかに座って、自分ひとりで怪談かいだん聴かき されているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日と違っちが て、そのころの寄席はランプの灯が暗い。高座の蝋燭ろうそくの火も薄暗いうすぐら 。外には雨の音が聞こえる。それらのことも怪談かいだん気分を作るべく恰好かっこうの条件になっていたには相違そういないが、いずれにしても私がこの怪談かいだんにおびやかされたのは事実で、席のねたのは十時ころ、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるに  ように帰った。
 この時に、私は円朝の話術のみょうということをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄くすご おそろしくも感じられ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ない怪談かいだんが、高座に持ち出されて円朝の口に上ると、人をえさせるような凄味すごみを帯びて来るのは、実に偉いえら ものだと感服した。時は欧化おうか主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹きふ 捲くま っている。学校に通う生徒などは、もちろん怪談かいだんのたぐいを信じないように教育されている。その時代にこの怪談かいだんを売り物にして、東京中の人気を殆どほとん 独占どくせんしていたのは、怖いこわ 物見たさ聴きき たさが人間の本能であるとはいえ、確かに円朝の技に因るものであると、今でも私は信じている。(中略)
 前にもいう通り、話術のみょうをここに説くことは出来ないが、たとえばかの孝助が主人のめかけお国の密夫源次郎げんじろう突こつ うとして、誤って主人飯島平左衛門を傷つけ、それから屋敷やしきをぬけ出して、将来のしゅうとたるべき相川新五兵衛の屋敷やしき駈けか 付けて訴えるうった  件など、その前半は今晩の山であるから面白いに相違そういないが、後半の相川屋敷やしきは単に筋を売るに過ぎないであまり面白くもない所である。速記本などで読めば、軽々に看過ごされてしまう所である。ところが、それを高座で聴かき されると、息もつけぬほどに面白い。孝助が誤って主人を突いつ たという話を聴きき 、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ源次郎げんじろう……と声をかけて突かつ ないのだ」と叱るしか 。文字に書けばただ一句であるが、その一句のうちに、一方には一大事出来しゅったい驚きおどろ 、一方には孝助の不注意を責め、また一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現れて、新五兵衛という老武士の風貌ふうぼう躍如やくじょたらしめる所など、その息の巧みたく さ、今も私の耳に残っている。団十郎じゅうろうもうまい、菊五郎きくごろうもうまい。しかも俳優はその人らしい扮装ふんそうをして、その場らしい舞台ぶたいに立って演じるのであるが、円朝は単におうぎ一本をもって、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術のみょう尽くしつ  たものといってよい。名人はおそるべきである。

岡本おかもと綺堂きどう岡本おかもと綺堂きどう随筆ずいひつ集』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 5.1週 nnza2
 カーニヴァルの期間中、街の中心へと出向くための手段もまた祝祭的で意識的なものとなる。すなわち人々は、バスや市街電車のなかで歌を歌い、踊りおど 、サンバのリズムに身体を動かしながら目的地に向かう。こうしたことが起こるのはカーニヴァルのために急に交通手段が改善されたからではもちろんなく、乗り物の内部空間までがカーニヴァルの空間へと変質したことによるものなのである。だから、バスや電車はもはや決められた時間に仕事場に着かねばならない労働者によって占めし られてはいない。そこに乗っている人々が目的地に着かないかぎり、いかなる物事も始まらないのである。人々でぎゅうぎゅう詰めつ になった公共の交通機関による通勤という、都市の日常生活における地獄じごくのような苦痛の時間が、カーニヴァルのあいだきわめて創造的な瞬間しゅんかんに変化する。この瞬間しゅんかん人々は笑いや冗談じょうだんや身体の接触せっしょくを通じて、強烈きょうれつな生感覚を味わうのである。
 カーニヴァルにおいては、場所の移動という行為こうい自体が、高度に遊戯ゆうぎ化され、儀礼ぎれい化された別種のリアリティとして民衆によって生き直されていることを、こうした指摘してきは示している。不毛で、苦痛だけが充満じゅうまんする日常的通勤行為こういが、いかに祝祭的な場に変容しているかを、右の描写びょうしゃは見事に伝える。(中略)
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 ダ・マッタも指摘してきするように、ブラジルでは、カーニヴァルのあいだにいかなることが起きようと、それは「本気」(serio)ではなく、一種の「遊び」「冗談じょうだん」であるという一般いっぱん的な信仰しんこうのようなものがある。しかしこの場合、それは冗談じょうだんだから許される、とか、真面目でないから責任がない、といった、自己弁明的な理屈りくつを保証するための留保ではない。むしろ逆に、ここで主張されているのは、真面目でないものこそが永続的な価値をもつ、という強固な民衆的信仰しんこうについてである。ブラジルにおいて、規則と常識と事大主義によって支配された堅気かたぎな真面目さ=堅苦しかたくる さ(ポルトガル語のserioに対応する一語を見つけることは難しい)を代表するのは、政府機関、政党、学校、裁判所といった公共的な組織から、会社、銀行、さらには教会や社交クラブといった組織にいたるあらゆる中産階級的な法人組織であり、それらは一種の永続性のイデオロギーを所有しているものの、現実には社会のなかでつねに改変や整理の対象とされ、驚くおどろ ほど頻繁ひんぱんに現われては消えるという動きを繰り返しく かえ てきた。役所や企業きぎょう標榜ひょうぼうする永遠性へのオプセッションは、かなわぬ理念にすぎないことを民衆はすでに悟っさと てしまっている。これと対照的なのが、貧しく、地味であっても決して廃れるすた  ことも宗旨しゅうし替えが することもなく、昔ながらの熱気とともに存続してきたカーニヴァルの地域集団なのである。永遠性のイデオロギーを戴くいただ かにみえる制度的な法人組織が、じつははかない命しか持たず、逆説的にも、まったく自発的に生まれ組織を欠いたカーニヴァル集団と祝祭の方が、結局は日々生きる民衆の永続性への希求をまっすぐに受けとめることができる…。このパラドックスのなかの真実に目覚めることによって、ブラジルには、真面目でないもの、中産階級に属さないものはすべて生き残る、という強固な信仰しんこうが生まれることになったのである。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 5.2週 nnza2
 過去のわが国の外国語教育は、たしかに読解力と文法のみに重点を置きすぎたといえる。そのため、哲人てつじんカーライルのような文章が書けても、話す方は赤ん坊あか ぼうに等しい「教養人」が生産されてしまった。しかし、だからといって、発音の方は立派でも、内容空疎くうそな会話しかできないというのでは、決して国外で尊敬されることにはなるまい。そう考えると、小学校レベルで外国語に親しませるというのは本当に必要だろうか。低学年では、むしろ国語を正確に読み書き話す力をつけるのが先決であり、その基盤きばんなしに外国語を教えても、中途半端ちゅうとはんぱな根無し草的「国際人」を養成することになりかねない。(中略)
 文法や語彙ごいを重視してきた反動として、近年それらを軽視し、発音や流暢りゅうちょうさだけを追い求める向きがあるが、これは間違っまちが ている。格調ある言葉を使う必要は、日本語でも外国語でも同じである。発音については、あまりひどい片仮名発音は禁物であるが、発音が全く英米人のようである必要はなく、ある程度の訛りなま はかまわない。
 多少の訛りなま は、話している人の文化的アイデンティティーを示しており、世界が多様であることを物語っている。長い国連生活で、私は各国の外交官や国連職員がお国訛りくになま の英語やフランス語で、堂々と自分の考えを述べるのを聞いてきた。流暢りゅうちょうさより、話す内容の方が、はるかに重要なのである。現行の語学教科書には、学ぶ人の知的水準を無視したものが多く、読者の文学性や哲学てつがく的関心をそそるような教材の使用に努めるべきだろう。
 とはいっても、いまの日本の英語教育にもっとも欠けているのはやはり聞き取りと会話の能力であろう。会話に先天的な能力などはなく、中学生のころから自分をそうした環境かんきょうにおいて、話す能力をつけていくしかあるまい。また日本人の英語教師のすべてに是非ともぜひ  海外留学の機会を与えあた 、本場の英語に触れふ させるべきである。
 JETプログラム(地方公共団体による外国人教師招致しょうち事業)で英語使用国の数多くの若者が来日しているが、この人たちをもっと本格的に活用し日本人学生の外国人恐怖きょうふ心をなくしていくべきだ。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

「ものいわぬは腹ふくるるわざ」だと兼好けんこう法師がいっている。幼少から外国人の中で暮らした少数の人を除いた、多数の日本人にとって、語学習得の近道はない。はじをかき、反復をいとわずに勉強しながらも、過度に完全主義にならないことだ。なかでも、よい教師や友人にめぐりあい、刺激しげきをうけることが、学ぶ者にとって大事である。
 グローバル化とアングロ・サクソン化は違うちが のだが、英語を話す人口は約八億人と推定され、その数は増加する一方だ。国際的取引や知的職業に属す人々の圧倒的あっとうてき多数が英語を話しており、インターネットの導入がそれを加速している。
 グローバル化にとり残されないために、我々はより効果的な英語教育に真剣しんけんに取り組まなければならない。日本人だけの心地よい以心伝心の世界に安住することは、もはや許されない。完璧かんぺきでなくても外国語をあやつり、国境を超えるこ  骨太の論理を駆使くしして、他流試合に挑んいど でいくたくましさを身につけたいものだ。
 そのためには、東洋の島国の腹芸と自己満足を脱却だっきゃくするのが必要である。とはいっても立て板に水を流すように、外国語に雄弁ゆうべんである必要はない。自分なりの論理とレトリックとユーモアを使って、訥々とつとつとでもよいから相手を説得する努力をすることが大事だ。
 第二次大戦後、次々と優れた工業製品を作り出すことで世界の賞賛の的になったわが国は、いま政治、社会、文化、科学など幅広いはばひろ ソフトウエアの分野において、国際的な対話と共同作業に活発に参加することを求められている。外国語、とりわけ英語は、それを行うため避けさ て通れない手段なのである。手段にすぎないとはいえ、それが不如意ふにょいなため、わが国の潜在せんざい的能力が過小に評価され、世界の知的潮流に充分じゅうぶん貢献こうけんできないという結果をもたらしている。思いつきでない大胆だいたんな解決策が、言語教育において焦眉しょうびの急であることは明らかである。

(明石康「地球を読む一日本人の英語力」『読売新聞』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 5.3週 nnza2
 なぜ人を殺してはいけないのか。ぼくの考えを簡単に言うと、こうなります。人は自分を人間だと思っています。なぜ人間だと思っているかと言うと、自分を知っている他人が自分をそのように見て、そのように承認してくれていると確信しているからです。つまり、これはへーゲルの説ですが、個人の自己の意識、オレはこういう人間だ、というアイデンティティの意識には、「他者の承認」ということが条件として組み込まく こ れています。そして、人間だという意識は、このアイデンティティの一番の下部構造をなしているのです。
 ところで、人間というのは、どんなことがあっても人を殺すべきでない、と僕達ぼくたちは思っています。何が起こるかわからないし、そうなれば自分がどうなるかわからない。殺人(迫っせま てきて、相手がスキを見せたら、ぼくでも正当防衛のためにこの殺人(刺すさ かも知れません。でも、とにかく、平常心では何があっても人は殺しちゃいけないと思っている。そのようにして、ぼくの人間意識は成立しています。
 ところで、そのぼくが、自覚してたとえば自分の都合で、人を殺したとします。すると、きっと他人はぼくを人間の規矩きくを外れた存在と見るだろう、という予期がぼくには訪れます。むろん、本当のところはわかりませんよ。だれもそんなぼくに関心を持たないかも知れません。でも、他人のことは結局だれにもわからないのですから、大事なのは、どう他人が思うか、ではなく、どう他人が思うとぼくが思うか、ということです。それが他人の像がとりあえずぼくの自己の意識に持つ意味にほかなりません。ぼくには、きっと他人に人間と見られないだろう、という確信が生じる。すると、どうなるか。ぼくの中で、自分が人間であるという意識、アイデンティティが揺らぎゆ  ます。つまり人を殺すと、その結果として、ぼくが自分で自分は人間だと思っている、その確信が揺らぎゆ  壊れこわ てしまうのです。
 むろん、何が起こるかわかりませんから、ぼくだって人を殺すことがないとは言えません。日本で最大の宗教家の一人である親鸞しんらん
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

は、「心のよくて人を殺さずにあらず」と言っていますね。悪いから人を殺すのでもないし、人間がよいから人を殺さないのでもない。どんな心の清い人間でも、ある状況じょうきょうの中ではつい人を殺してしまうということもあるし、どんなに人を殺そうとしても、状況じょうきょうによっては殺せないということもある。人を殺す、殺さないは、その人とその人の置かれた状況じょうきょうの関係から生じると考えたほうがいい、と言うのです。
 ですが、そのことは、だから人を殺しても人は元通りに回復されるということではないのですから、人を殺してしまう場合には、その人の中で、一度壊れこわ た「人間」がどのようにどこまで再修復されるか、というドラマが生じることになります。
 たとえば、ドストエフスキーの『罪とばつ』はそのようなことを描いえが た小説と言えるでしょう。これは、頭脳明断な青年が、だれからも疎まうと れているような金貸しの婆さんばあ  を、人類的な理想実現のため殺していけない理由はない、という理論を実行するため、おので殺す、という小説です。竹田青嗣せいじがあるところでこの小説に触れふ 、面白い個所を引いているんですが、老婆ろうばおので殺した後その青年ラスコーリニコフに変な感覚が生まれます。かれはその後世界で一番愛している母と妹と会うのですが、話をしていても、何か落ち着かない。「その話は後でゆっくりしましょうよ!」と母との話を打ち切るんだけれども、その時、絶対に、そんな時はもう二度と来ないだろう、という感覚がかれにやって来るのです。
 なぜ人を殺したらいけないのか。そうすると、自分で自分を人間社会の一員だと思えなくなってしまう、人間としてのアイデンティティを失う、とさっきは言いましたが、それってどういうことなのか。自分の中で、何か大切なものが壊れるこわ  。人間としてのアイデンティティを失うとは、だれとも心を開いては話せなくなる、ということです。だからやはり、人を殺すのは、自分にとってまず、よくない、そういう理由があると思うんです。

加藤かとう典洋『理解することへの抵抗ていこう』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 5.4週 nnza2
 「日本人は、奈良なら時代には梅が好きだった。ところが平安時代から好みが変って、桜を愛するようになった」
 と、こんなことを教室で教えられたり、本で読んだりしたことは、ないだろうか。少くとも私はそうだった。こう書いてある本も、いっぱいある。
 しかし、そんな事実はない。太古以来、日本人は桜を愛してきたのである。
 それでは、どうしてこんな間違いまちが がおこったのか。じつは奈良なら時代にできた『万葉集』という歌集でいちばんたくさん詠まよ れた花は、梅である。
 だから、みんな、梅が好きだったと思った。
 ところが、これは当時の中国好みの貴族趣味しゅみによるもので、ある歌人などは梅見に人びとを招集し、みんなでいっせいに四十首ほどの梅の歌を作った。おまけに、後からこの時をしのんで梅の歌を作った人もある。
 こうなるといっきょに梅の歌の数がふえてしまう。その数を、歌の性質を吟味ぎんみしないで数えたから、個人やごく少数の人の好みを、一般いっぱんの人の好みとかんちがいしてしまったのである。
 反対に、単純に桜の歌を数えると、数は梅に及ばおよ ない。しかし桜が民衆的には熱烈ねつれつに愛されていることがわかる。
 また、平安時代になっても、ごく初期のころには、宮中の正殿せいでんの前に、梅とたちばなが植えられていた。それが火事で焼けて、その後桜とたちばなに変った。そこでまた、人びとは梅から桜へと趣味しゅみが移ったと誤解するのだが、最初は万事中国好みの宮廷きゅうていだったから、梅を植えたのである。やがては素直に、日本趣味しゅみにしたがって桜を植えた。
 そこで、今後は若い世代にも「日本人はずっと桜を愛してきた」と、言おうではないか。
 しかし、そうなると日本人はどうしてこうも、長い間桜を愛しつづけるのだろうという疑問がわく。もう桜は、遺伝子の中に組みこまれてしまった記号だろうか。(中略)
 もう桜は、日本人の遺伝子の問題である。
 ではどんな遺伝子なのだろう。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 先ほど『万葉集』について述べたが、その中に、次のような一首がある。

  桜花 時は過ぎねど 見る人の こいの盛りと 今し散るらむ

 桜の花はどうして散るのか、作者は推測する。「この桜の花は次のように思って散るのではないか」と。つまり桜は「私を見ている人は、いまが一番私を愛してくれている」と思う。だから桜はしおれるのを待たないで散ろうと思う。
 そう、作者は桜の落花を納得した。
 人間にいいかえてみると、恋人こいびとがいま、一番私を愛してくれている。だから自殺をしよう――そう思うことになる。
 そんな人がいたら、盛りの命の死を惜しまお  ない人はいない。
 もっと生きつづけて永遠の愛に生きればよかったのに、とやや批判をする人もいるだろう。しかし反面、長くは生きられない命だから、花の盛りに死んでよかった、と賛成する人もいるだろう。
 いずれにしても、これらは時間の中で命を見ていることに変りはない。
 命は時間の力を、まぬがれがたい。
 このもっとも根元的な命の課題を、死からもっとも遠い花の絶頂期に考えることの、衝撃しょうげき力は強い。
 万葉の歌の作者は、桜の花をじっと見ることによって、無意識に体の中にたたえられていた命のうつろいが誘い出ささそ だ れ、花の姿がわが命の代行者として映ったのだろう。人間の死の想いを誘い出しさそ だ たものは、花のあまりもの美しさだったことになる。

(中西進の文章による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 6.1週 nnza2
 そもそも、食べることに強い関心を抱いいだ たのには、遅飯コンプレックスばかりでなく、もう十年もイタリアと日本を行き来するような暮らしの中で感じてきたひとつの思いがある。スローフードという言葉が、私の中の模糊もことした思いに、あるくっきりとした輪郭りんかく与えあた てくれた様な気がした。
 たとえば、数百年も前の史跡しせきと呼んで差し支えない石造りの家屋に人が今でも住んでいるフィレンツェのような都市では、新鮮しんせんな素材を納得のいく値段で買い、おいしいものを作ることはしごくたやすい。
 肉は肉屋、生パスタなら製めん屋、野菜は八百屋、パンはパン屋とそれぞれ昔ながらの専門店ががんばっている。でなければ、大きな中央市場まで足を運べば、野菜や果物もそれは色とりどりそろっていて、チーズもかたまりで買えるし、無農薬野菜の店もある。
 取材の合間にひまができれば、料理にうでを奮い、そんな日にはかならず友を招く。週末や日曜の昼には、食事に招き、また招かれる。夕食時まで仕事に捧げるささ  人はまれで、日本のようにノミニケーションなどといって職場の面々と飲みながら過ごすことは滅多にめった しない。何はさておき家族で食事である。そんなことをしているからイタリア人男性は妻に管理されっぱなしだという人もいるが、それは当てにならない。彼らかれ はよく外食も楽しむ。それにしたって、前菜に、パスタやリゾット、肉か魚のメインディッシュに野菜のつけあわせ、甘いあま 物にカフェ。人によってはチーズに食後酒までいただくものだから、ゆうに三時間はかかる。
 日本へ帰れば、そうは問屋が卸さおろ ない。
 まず友人たちを食事に招きたくとも、みんな何かと忙しいいそが  。招かれた途端とたんに、帰りの電車の時間を心配しはじめ、腕時計うでどけい覗きのぞ こんでいたりする。
 おそらく、日本というより東京といった方がいいのかもしれないが、町が肥大化し過ぎているのだろう。共稼ぎともかせ の友人はといえば、残業だらけでぐったりで、とてもではないが平日は夕食の買い物すらできないといって嘆くなげ その働く女性、忙しいいそが  母親たち―
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

―もちろん、父親だっていいわけだが――の暮らしの救世主のごとき面持ちでちまた溢れあふ 返っているのが、レンジでチンするだけの冷凍れいとう食品、お湯に投げこむだけのレトルト食品お湯を注ぐだけのカップめん、コンビニエンス・ストアのお弁当、デパートのお惣菜そうざい売り場に、よりどり見取りのファーストフード・チエーン店である。
 ところが、それだけ急いで食べる時間まで節約しておきながら、だれもが「忙しいいそが  、時間がない」と口にしているのはどういうことなんだろう。家族が一日に一度さえ顔を合わせる時間もなければ、愛情の証だったはずの料理に手間ひまをかける時間もない。
 私たち日本人は、いったいいつから、ゆっくりと食事をすることもままならなくなってしまったのだろう。
 四割を越えるこ  子供たちのアトピー、若者にまで増えている骨粗鬆症こつそしょうしょうや動脈硬化こうか、サラリーマンの過労死、環境かんきょうホルモン、ダイオキシン、名前をもたない現代病……、すでに社会に深刻な黒いかげを落としている現象の根っこに、狂っくる た食生活があることにだれもが気づいているはずだ。
 この国は、これで大丈夫だいじょうぶなのだろうか?
 私には、スローフードという言葉が、その暗澹あんたんたる思いに一条の光を投げ込んな こ だかのように思えた。
 スローフード運動を推進する者たちは、単にファーストフード反対運動というような了見りょうけん狭いせま ところに留まらない。スローフーダーの真の敵は、ファーストライフという名の世界的狂気きょうきであり、それは、もっと複雑な現代社会の機構の中に妖しくあや  うごめくなにかなのだという。
 それはいったい何なんだろう?
 そんな疑問にこし押さお れるようにして、九六年のある日、ふいに思い立った私は、ファーストライフ症候群しょうこうぐん巣窟そうくつである日本の大都市を離れはな 、スローフード協会の本部があるという北イタリアの町へと旅立った。彼らかれ の言い分に耳を傾けかたむ 、イタリア人たちの食卓しょくたくをゆっくり見つめ直してみたくなった。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 6.2週 nnza2
 かつて日本が貧しかった時代、日本人は――殊にこと 青年は人生について社会について自分自身について本気で考えたものだった。なぜ働きたいのに仕事がないのか、なぜ働けど働けど貧しいのか、なぜ権力はこのように強大なのか、なぜ自分の命を戦場へ捨てに行くのか……。どれも素朴そぼくなしかし切実な疑問だった。若者は社会の矛盾むじゅんに気づき、闘うたたか 妥協だきょうするか、全体のために生きるか、個人の幸福を優先させるかを迷い、考え、憤っいきどお た。己れの無力卑小ひしょう嘆きなげ 、思うに委せぬ現実に切歯扼腕せっしやくわんして苦しみ、そして考えた。
 だが経済大国になった日本の社会は、自由と豊かさによって「考えない日本人」を作り出した。いかに生きるかについて考えなくても、「フツー」にしていれば生きていけるのである。青年が考えるとしたら大学受験と就職を考えればよいのである。壮年そうねんが考えることはいかに社会の流れと妥協だきょうして得をするかということであり、老人はいかに老後を楽しみ、いかに安楽にうまく死ぬかということを考える。
 男子大学生に向って「万一、日本が軍事攻撃こうげきを受けた場合、どうするか」というアンケートを取ったところ、「戦う」にマルをつけたのは100人中ただ一人で、あとの99人は「安全な場所を捜しさが 逃げるに  」にマルをつけたという。その話をした人は、若者から勇気や愛国心が欠如けつじょしたことを嘆きなげ たいようだったが、私は彼らかれ はただ「何も考えない」だけなのだろうと思う。多分彼らかれ は反射的に答を出しただけなのだ。彼らかれ は考えない。すべてアドリブでことをすませてしまう。考えるのは面倒めんどうだから考えないというよりも、考える習慣がなくなっているのにちがいない。
 「人間は一くきあしのように弱いものだが、しかし人間は考えることを知っている」とパスカルはいった。「我々の品位は思考の中にのみ存在する。正しく考えるようにつとめよう」と。
 だが今、人は考えるあしではなくなった。我々は宇宙に乗り出し、おそれを知らずにそれを利用しつつある。科学の力で命を産み出し、死さえ遠ざけることが出来ると思っている。「考える」ことを捨てたのだ。私は貧乏びんぼうな若者が好きである。若者の燃えおこるエネ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ルギーと貧乏びんぼうが、固く握っにぎ たゲンコツのようにがっちりと組み合さって不如意ふにょい闘うたたか 姿が好きである。
 「本郷西片町より高台の方を仰ぎあお 見れば、並びなせる下宿屋のろうろう下、無数の窓我に向いてもの言うが如くごと 灯明らかにともされたり、の多くの窓の中の何れかの窓より未来の偉人いじん傑士けっしいずる事ならんと思えば一層に懐かしきなつ   心地す、と同時にの窓の中に有為ゆういの材を以て空しく一生朽ちく 果つべき運命を有するものもあらんかと思えば胸るるばかりなり」
 これは私の父の明治38年春の日記の一節である。並んでいる下宿屋の無数の窓に明々とともされた灯の下、貧しい学生たちが一心に書物を読んでいる姿を想像して胸を打たれた父の、その青年への想いが私の胸にも熱く伝わってくる。日本が貧しく矛盾むじゅんに満ちていた時代、刻苦勉励べんれいという言葉が生きていた時代だ。
 貧しさ故に若者は考えた。鬱屈うっくつして考えるが故に広大な未来があった。可能性に満ちた洋々たる前途ぜんと、夢があった。それが若者の貧しい青春に輝きかがや 与えあた ていた。今、豊かさのみを追って考えることをやめた我々にどんな未来があるのだろう。若者たちを含めふく た我々は何に向って生きようとしているのか、さらなる豊かさと安住に向って?
 だがいったいそこにある希望とはどんなものなのだろう?

佐藤さとう愛子『われわれが「考えるあし」でなくなったこと』より。一部改変。)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 6.3週 nnza2
 子供のしつけは、社会の圧力によって為さな れるが、感化はそうではない。感化院というのがあるけれども、人を監禁かんきんして行なうことを感化とは言えまい。感化は受ける者が自由に受け与えるあた  者の意図を超えこ 与えあた られる。これが原則である。しつけは、そうはいかない。しつけには、強制とばつとが伴うともな 。それを喜んで受ける者はないだろう。そこで、しつけの義務を合理的に説明する道徳教育が必要になる。しかし、しつけを可能にさせるものは、道徳教育ではない。社会の圧力である。態と感化とのこうした関係は、反対から見ることもできる。しつけは、ある社会なり共同体なりが任意の基準で強制するけれども、受ける者はそれに反抗はんこうしたり、無感覚になったりすることが可能である。感化のほうは、そういうわけにはいかない。感化には、どこか不自由になる喜びがあり、この喜びに反抗はんこうしようとする者はいないだろう。しつけは任意になされ、感化は否応なく起こる。しつけと感化とは子供が教育される時の切り離せき はな ない二つの側面になる。個々の人間が、自然の群れのなかではなく、社会のなかに産み落とされる限り、教育のこれら二つの側面は、必要なものだと思われる。社会が複雑になるほど、しつけは種々の共同体のなかで多様化し、分業化する。私が尊敬してやまないトンカツ屋のおやじは、修業時代には、ずいぶん厳しいしつけを受けたに違いちが ない。」のしつけは、かれが志した職業上の技術の習得と一体になったものであり、習得に欠かせない生活条件だったとも言える。しつけを欠いたままの技術教育は、まことに非効率なものである。逆に、技術教育の裏づけがないしつけは、まことに不安定なものであり、すぐに馬鹿馬鹿しいばかばか  頽廃たいはいをみる。
 しかし、この技術教育がほんとうの素質を育て上げるには、感化が要る。模倣もほうへの欲求を掻き立てるか た  一人の人物が要るのである。すぐれた料理人を育てる調理場には、必ず模倣もほうの対象となるようなすぐれた料理人がいる。このような人物は、単に技術がすぐれているだけではない。他人の内に模倣もほうへの欲求を掻き立てるか た  何かが、そ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

の技術を根底から作り出すものになっているのである。かれは意図せずして、他人に感化を与えるあた  。意図して為さな れる教育は、意図せずして引き起こされる感化なしには、決して実を結ばない。
 もちろん、これは技術教育の現場では至る所にある事例だが、学校教育では極めて少ない事例である。先生たちが悪いのではない。学校で教えられている事柄ことがらの本来の暖味さが、つまらなさが、学校でのしつけと感化とをほとんど不可能にしているのである。テレビドラマに出てくる先生は、しつけ抜きぬ にいきなり感化を与えるあた  が、だれにとってもあれが無理なことに見えるのは、そうした感化に不自然を感じるからである。学校には具体的なしつけを必要とする技術教育がなく、尊敬される技術のないところに感化は起こらない。(中略)
 言い換えれい か  ば、人間の技術とは、しつけと感化とを必須ひっすの条件として磨かみが れる何かでなくてはならない。少なくとも、技術という言葉の意味をそんなふうに扱うあつか ことは、子供の教育にとってよいことだ。受験技術という言葉がある。高級な勉強とは別に、低級な技術があり、いやでもそれを呑み込んの こ でいないことには、受験に失敗する、それは必要悪だ、そんな意味合いがこの言葉にある。技術という言葉が、こんなふうにおとしめられているところに、子供を奮い立たせる教育などあるはずがない。
 「技術」という漢語は二つに離しはな て、「技」とか「術」とか言ったほうがいいのかもしれない。学問は、料理同様、社会のなかでひたすら磨かみが れる一種の技である。学校で教わる「教科」は、そうした技にまっすぐつながっていなければ、これはもう殺人的につまらないものだろう。このつまらなさが、子供から成長する力を奪ううば 。感化される能力さえ奪ううば 。高校がつまらなければ、さっさとやめてトンカツ屋の修業に行けばよい。このことは、効率の上でも、倫理りんりの上でも、まったく正当に言える。

(前田英樹『倫理りんりという力』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 6.4週 nnza2
 今の世の中、孤独こどくという言葉は、なぜか悪いイメージで塗りぬ 固められている。いつからそうなったのか、私は知らない。いつのころからか、引きこもりという言葉が、現代の若者や子どもたちの、社会や学校に出られないで家にこもり切りになる特殊とくしゅな状態を指すようになってから、孤独こどくのイメージはすっかり悪くなった。言い換えるい か  なら、引きこもりの若者や子どもたちが何万、何十万という数になってから、いよいよ孤独こどくのイメージは、社会的に手を差しのべてあげなければならないもの、克服こくふくしなければならないもの、といった否定的なものになってしまったのだ。
 もちろん、集中的ないじめを受けたり、心の病になったりして、まともに対人関係を保てなくなった場合には、周囲からの何らかのサポートが必要であることは言うまでもない。そういう場合の孤独こどくと、人間ひとりが生きていくうえで本来的にまつわりつく孤独こどくとでは、本質において違うちが もののはずだ。両者の間に明確な線引きはできないにしても。
 ところが、両者をいっしょくたにして、すべて孤独こどくはあってはならないものであるかのような風潮になっているところに問題がある。子どもには子どもなりに、心の成長や考える力をつけるためには、孤独こどくな時間はとても大事なのに、今の社会はそのゆとりを持たせようとしない。ミヒャエル・エンデの『モモ』に描かえが れた「時間貯蓄ちょちく銀行」の銀行員のように、何もしないでいると、たとえば、「あなたはきょうは、二時間三十一分四十七秒無駄むだにした。一生は六十六万六千四百三十二時間二十五分四十八秒しかないのだから、時間をそんなに無駄むだにしてはいけない。一分一秒でも何もしない時間は私どもに預けなさい」といったぐあいに迫るせま のだ。
 やれじゅくに、やれお稽古 けいこに、やれ宿題に、と迫らせま れることに耐えた られない子どもたちは、ゲームやケータイやパソコンに没入ぼつにゅうする。大人たちは奇妙きみょうなことに、ちゃーんとゲームやケータイやパソコンを大量生産して、子どもたちがどんどんその世界に入るのを誘っさそ ている。そういうものをどんどん子どもに与えるあた  のは、「麻薬まやく
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

与えるあた  に等しい」と言ったのは、医療いりょう少年院に勤務する精神科医・岡田おかだ尊司氏だ。
 ダブルバインド(二重拘束こうそく)という精神医学用語を紹介しょうかいしたことがある。社会学や人類学などマルチな才能を持つベイトソンという学者が作った、人間の心の領域にかかわる用語だ。ベイトソンが紹介しょうかいしている象徴しょうちょう的な症例しょうれいはわかりやすい。母親が精神病院に入院中の息子に面会に行く。息子と並んで座った母親は、口では「あなたを愛してるのよ」と言うが、内心では息子を恐れおそ ている。息子は言葉をそのまま受けとめ、嬉しくうれ  なって母親にキスをしようとする。ところが、母親は一瞬いっしゅんだがピクッと顔をこわばらせ、キスされるのを避けるさ  ように身をそらす。内心が身体に表れたのだ。息子は鋭くするど 母親の二面性を読み取り、病室に駆けか 戻るもど 。母親が帰った後、息子は暴れまくり、保護室に入れられてしまう。
 親が二律背反のことを同時に子どもに言うと、子どもはどちらを選んでいいかわからなくなり、精神的に混乱したり、身動きができなくなったりする。そういう親に育てられた子は、心の発達にゆがみが生じるおそれがある。これがダブルバインドとその結末だ。

柳田やなぎだ邦男くにおの文章による。一部省略がある。)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534