1近時、大学教師の悩みの種は、授業中の私語の多さである。私はいつも最初の講義のとき、「オシャベリはいけない」と学生たちに厳しい態度を示してから講義に入ることにしている。
2問題は私語ばかりではない。昨年あたりから、教室に新現象が起こり始めた。四月、いつものように私語禁止を言い渡してから講義に入った。学生たちは静かに聞いている。今年の学生は質がよいのかと、私はうれしくなった。3が、ふと見ると、前から三分の一あたりのところで、机上に英語の教科書と辞書を広げている者がいる。ちなみに私の授業は「西洋精神史」であって、英語ではない。だから、彼女の行為は「内職」である。
4授業中の内職は、別に新しい現象ではない。だが、内職は教室の後ろのほうで、机の下でこっそりとやるから内職というのである。前のほうで、しかも机の上で堂々とやる内職は初めて見た。つまり、彼女には、自分が悪いことをしているという意識がまったくないのである。
5こういう学生を叱るのは実に骨が折れる。「なぜ悪いのか」をわからせるのがひと苦労なのだ。もともと内職が悪いことだとは毛頭思っていないから、注意すると、ただポカンとして私の顔を見つめる。6彼女らはおそらく、小学校でも、中学校でも、高校でも、また家庭でも、そうしたことで注意されたことがないのであろう。
同じことはアクビについても言える。授業中にアクビをするなと言うと、学生たちは不思議な顔をする。「生まれて初めてアクビを注意されました」と言わんばかりである。
7こんなことは昔なら一言、「礼儀を重んじなさい」と言えば済んだ。それがいまは通じない。「いけないこと」を一つひとつ示し、「なぜいけないのか」を丁寧に説明しなければならないのである。原理原則に従う行動様式、思考様式を持っていないから、原理を示しても無駄なのだ。
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