a 長文 1.1週 nnze2
 たとえばいま、ホームレスが地下街の通路で寝るね のをやめさせたいとしよう。我々はもちろん法によってそれを禁じたり、それはよくないことだと社会規範きはん訴えうった て説得することができる。地下街という公共の空間の価格を操作することはできないが、代替だいたい財である安アパートや簡易宿泊しゅくはく所の価格を引き下げることができれば、結果的に地下街で寝るね 人は減ることだろう。財の価格や供給水準を決める市場のあり方によって、人々の行動は左右される。
 これに対し、たとえばみょう突起とっき物を設置していくことによって、寝ころぶね   ことのできる隙間すきまを物理的になくしていくとすれば、それがアーキテクチャによる支配である。レッシグは「社会生活の『物理的につくられた環境かんきょう』」をアーキテクチャと呼んでいる。我々がその内部で行為こういを行なう空間のあり方それ自体に操作を加えることによって、我々の行動をコントロールすることが可能になるのだ。
 もちろん先ほどの地下街の例は、架空かくうのものではない。新宿駅の西口から都庁に向かう地下通路の目立たない部分、周囲から引っ込んひ こ で人々の通行しにくい部分、言い換えれい か  ばホームレスたちが通行人に邪魔じゃまされることなく転がれるような部分には、青島都知事時代の一九九六年、オブジェと称するしょう  奇態きたいな出っ張りが設置された。斜めなな に切り取られた先端せんたんは、ホームレスをその領域から完全に排除はいじょすることを狙っねら ている。通路の反対側、動く歩道とのあいだに設けられたフェンスも、歩道とのあいだを仕切るだけでなく、一定の面積が確保されることを妨害ぼうがいしようとしているのだろう。
 自然法則はだれかが決めたものではないから、我々が空を飛べないことは自由に対する制約ではないと、リバタリアンは言ったのだった。だが法則それ自体はそうだとしても、それが働く環境かんきょう自体を操作することによって我々が何かをする可能性があらかじめ奪わうば れているとすれば、それもまた自由の侵害しんがいにはあたらない、のだろうか。
 (中略)
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 ところがアーキテクチャは、そのような意識を必要としない。「かぎは、かぎがドアをブロックしているのを泥棒どろぼうが知らなくても、泥棒どろぼうを制約する」(『CODE』)。アーキテクチャの権力は、我々がそれに気付くことなく、我々の行為こういに先立って事前(ex ante)に、我々の行為こういを制約する。法律や規範きはんに対して何の知識も持たない存在も、アーキテクチャに従わせることはできる。いやそれどころか、人格なき存在であっても支配の対象にできることは、かぎのかかったドアの内側にはだれも――人間だけでなく犬やねこも入れなくなることを考えればわかるだろう。アーキテクチャの権力は、「個人」を必要とはしない。
 我々は知らないうちに、ある一定の行為こうい可能性のわくの内側に閉じこめられているのかもしれない。そのわくの内側では我々の行為こうい選択せんたくに制約を加えるものはなく、我々は完全な消極的自由を享受きょうじゅできるとしよう。だがこれは本当に自由なのだろうか? もし我々がその制約の存在を知っていたとして、それでもなお我々の選択せんたくはそのような制約がない場合と同じだと知ることができるだろうか。我々は迷路に閉じこめられたマウスと、どこがどのくらい違うちが のだろうか?

 (大屋雄裕『自由とは何か――監視かんし社会と「個人」の消滅しょうめつ』)
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a 長文 1.2週 nnze2
 ところで、「理解できた」と、「わかった!」という感覚とは、本質的にちがうところがある。
 「理解できた」というのは、他人からくわしい説明をうけ、それを論理的にわかることであると考えられる。つまり、これまで知らなかった知識を与えあた られ、それが論理的に自分のもっている知識と整合的であるという場合に、理解できたということになる。
 これに対して、「わかった!」というのは、どういう場合なのであろうか。それは、ミッシング・リンクのようなものだと考えられる。つまり、話題になっていることに関連した知識はほとんどもっている、しかしその話題がその知識によって解釈かいしゃくできない、という状態にあって、そこで何かのヒントを得た結果、もっている知識によって、その話題が完全に解釈かいしゃくできるということがわかったとき、「わかった!」ということになる。その場合はただちにその解釈かいしゃく結果をわかった結果として答えることができるという場合である。
 幾何きか学の定理の証明の道すじを発見したという場合は、ほとんどこの場合である。先の「五〇ヤードなので柔らかやわ  さが重要であった」という表現も、ゴルフの場面であるということがわかれば、ゴルフで苦労している人にとっては、「わかった!」ということになる。この例からもわかるように、「わかった!」というのは、知識を得たのではなく、自分のもっている知識によって、ある状況じょうきょう解釈かいしゃくできたという場合である。そのような場合には、与えあた られたヒント以上にくわしく理由を説明してもらう必要はまったくなく、自分の頭のなかに説明の道すじが明瞭めいりょう浮かび上がっう  あ  ているのである。
 逆に、いくら説明を聞いてもわからないというのはどういう場合なのだろうか、を考えてみる必要もあるだろう。説明の対象となる分野の知識をまったくもっていない場合はどうしようもない。その人のもっている知識で理解できる基本的な概念がいねんからはじめて、順次対象分野の知識を与えあた ていくというステップをふまねばならない。一度に一つだけ未知のことを教えるという、気の長いステップとなる。
 これに対して、その分野のことをかなり知っている人の場合はどうだろうか。一つ考えられることは、説明のなかに出てくる用語の
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意味・概念がいねんがわからないのでわからないという場合である。この場合には、その用語の意味を聞き返さなければならないが、なんとなくわかった気になって、確かめることをおこたってしまうことによって、わからなくなってしまうことがよくある。
 もう一つの場合は先に述べたが、説明の言葉の意味はわかるが、その言葉で説明されている対象世界が明確にイメージできないことによっておこるわからなさである。これは、ものごとの説明は、一つの道すじだけで理詰めりづ で説明されただけでは、人はなかなか納得できないことをしめしている。別の道すじからも説明してもらうことによって、対象に対する理解が深まる。そして自分の頭のなかでその対象を再構築して、自分流に外に出して説明することができねば、ほんとうによくわかったということにはなりにくいのである。したがって、いろいろな質問をして、自分のもつ対象世界のイメージを明確化し、豊かにしなければならない。

長尾ながお真『「わかる」とは何か』による)
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a 長文 1.3週 nnze2
 言葉というものは、具体的な名詞や動詞から、次第に抽象ちゅうしょうの過程を経て一般いっぱん的、普遍ふへん的な概念がいねんへと成長するものであるが、日本語はその初期の段階で、きわめて高度な中国語の洗礼を受けた。その結果、日本語は、具体語から抽象ちゅうしょう語へといういわば自然の成長をせずに、いきなり高いレベルの中国語を漢語としてそっくりそのまま借用することになった。しかし、日本に一挙に流入した中国語の抽象ちゅうしょう名詞は、日本人には容易に理解できるものではなかった。それを何とかわかろうとするためにはただ一つの方法しかない。すなわち、漢語の抽象ちゅうしょう的な概念がいねんを具体的なイメージに置き換えるお か  、ということである。こうして日本人は、中国語のさまざまな抽象ちゅうしょう語を、具体的なものに翻訳ほんやくして理解しようとしたのである。いいかえれば、日本人のものの考え方は、具体から抽象ちゅうしょうへ進むのではなく、反対に、抽象ちゅうしょうから具体へというコースをたどったのだ。
 たとえば「自然」あるいは「造化」という漢語を日本人はどのように理解したか。このような抽象ちゅうしょう的な概念がいねんは、到底とうてい日本人の手に負えなかった。だから、老子や荘子そうしの説く無為むい自然といった思想は、ものになぞらえて具体的なイメージで解釈かいしゃくするほかなかった。そこで、「自然」あるいは「造化」の観念は、日本では「花鳥」や「風月」のイメージに翻訳ほんやくされたのである。中国では、「花鳥」や「風月」や「山水」という具体的なイメージから、やがて「自然」「造化」という普遍ふへん的な概念がいねんへ至ったのであったが、日本では逆に、中国から受けとった「自然」「造化」なる抽象ちゅうしょう語をもとの「花鳥」や「山水」へと連れもどし、そうした具体的なものを通して「自然」「造化」を理解したわけである。
 その結果、日本人にとって具体的なものは、その中に抽象ちゅうしょう性をふくんだ独特の概念がいねんとなった。つまり、日本人の描くえが 具体的なもののイメージは、単なる具体的なものでなく、象徴しょうちょう性をおびることになったのである。
 芭蕉ばしょうにおける「造化」の観念は、まさしくそれであった。かれ
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は、「造化」という抽象ちゅうしょう的な概念がいねんを「たどりなき風雲」に、あるいは、「花鳥」に移しかえ、そうした具体的なイメージで、「造化」「自然」を感得したのだ。だから、かれ俳諧はいかい詠まよ れる「花鳥」や「風月」は、けっして、たんなる花や鳥や月ではない。具体的な花や月は、その中に「造化」という観念を秘めている象徴しょうちょうなのであり、いわば自然の代表なのである。そこで、「見る処、花にあらずといふ事なし、思ふところ、月にあらずといふ事なし」という信念になる。そして、ここに至って、こんどは、具体が抽象ちゅうしょうへと転化する。即ちすなわ 具体的なものが抽象ちゅうしょう性を獲得かくとくするのである。日本の短詩、和歌や俳諧はいかいの秘密はここにある。芭蕉ばしょうが「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と説いたのは、芭蕉ばしょうの弟子土芳とほうが解説しているように、松や竹をただ対象として見るのではなく、象徴しょうちょうとしてとらえよ、ということなのだ。
 こうした日本特有のものの見方、考え方を「もの(物・者)」という大和言葉が一身に背負うことになった。中村氏は、前記のように、「一般いっぱんに主観に対立するものとしての対象を表はす語は本来の日本語には存しない」として、「もの」という言葉が、客観的な意味にも主観的な意味にも用いられている点を指摘してきされているが、確かに「もの」とは、主・客が融合ゆうごうした、そして、現実と本質とが合体した日本人の思考の磁場のような働きをしている。「もったいない」という日常語は、考えてみれば、なんと日本的な言葉! といえないであろうか。

(森本哲郎てつろう『日本語 表と裏』による)
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a 長文 1.4週 nnze2
 さて、フィリアー(愛)はアリストテレスによれば三つの成立根拠こんきょをもっている。その一つは「有益なもの」であり、もう一つは「快いもの」であり、そして、最後に「善いもの」である。
 それでは、「有益である」ことに基づいて、他者と交わっている人はその他者を愛しているであろうか。ある意味では、愛している、と言えるかもしれない。すなわち、かれが自分にとって有益である限りにおいて。しかし、かれが有益でなくなれば、その人はかれを見捨てるであろう。たとえば、かれが老化したり、アルツハイマー病などになったり、体を壊しこわ たりして、仕事ができなくなれば、かれを有能な人間として評価し雇用こようしていた社長はかれを解雇かいこするだろう。もともと、かれは人間自身としてぐうされていたわけではなく、したがって、愛されていたのではなかったからである。
 では、快楽の故に他者と交わっている場合はどうか。ある人が機転が利いて、いつも面白い話をし、その魅力みりょくのゆえに人に愛されていたとしよう。この場合も、右の「有能さ」の場合と同様である。脳梗塞こうそくなどになって機転が利かなくなり、全然面白くなくなれば、人々はかれから離れはな てゆくかもしれない。
 この点について、パスカルは恐ろしいおそ   話をしている。ある男がある女性をその美貌びぼうの故に愛していたとする。あるとき、彼女かのじょ天然痘てんねんとうにかかり、その美しさを失ったとする。そのとき、その男はその女をなお愛し続けるか。もしも、そのとき、男が女から離れはな たとすれば、男は女を愛していたのではなく、自分の快楽を愛していたのである、と。パスカルはこの断章で、人間は人間を、ただ滅びほろ ゆく付けたりの性質によってしか、愛することはない(愛しえない)のだから、人間が人間を(あらゆる付属的性質を取り払っと はら たそれ自体として)愛することなどはありえない、という苛烈かれつな帰結を引き出している。
 厳しく言えば、それはそうかもしれない。しかし、ここで問題にしているアリストテレス的な良識の次元で言えば、利益や快楽に基づく愛は、第一に、自分自身の利益や快楽の尊重で相手自身の尊重ではないということ、第二に、そのような利益や快楽を生み出す相手の美質は安全性を欠くあまりにも移ろいやすい陽炎かげろうであるとい
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う点に問題があるのである。
 それゆえ、利益と快楽に基づく愛は、本来、愛の名に値しない。これらの交わりにおいては、人は相手の人を愛しているのではなく、自分の利益や快楽を愛しているからである。それはエゴイズムの一形態なのである。
 そこで、愛は、残る一つの成立根拠こんきょ、すなわち、「善」に基づく愛でしかありえない。なぜ、そうなのか。なぜなら、相手自身を愛するとは、相手のもつ様々な性質や能力を愛することではなく、相手の人格を愛することであり、人間の人格は善(徳)に基づいてしか成立しえないからである。どのように魅力みりょく的な性質や能力も時間の中で老化と衰弱すいじゃくへと運命づけられている。もしも、人と人との交わりがこれらの属性に依存いぞんしていたのなら、交わりもまた早晩衰弱すいじゃく消滅しょうめつせざるをえないだろう。
 しかし、善に基づいて形成された人間の「在り方」としての徳は、人間のもつ様々な在り方のうちで、もっとも恒常こうじょう的であり、安定的であり、したがって、信頼しんらいに値する、とアリストテレスは言う。いったん確立された徳は、いわば時間と老化とあらゆる加害を超えこ て存続する人格の基礎きそとして、生きている限り、決して滅亡めつぼうすることのない恒常こうじょう的存在である。

 (岩田靖夫やすお『いま哲学てつがくとはなにか』による)
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a 長文 2.1週 nnze2
 実際に一九世紀前半において、ようやく始まった科学研究から得られた成果が、社会の役に立つと主張できるような実例は、化学の世界を除いてはほとんど皆無かいむであった。にも拘わらかか  ず、すでに科学者たちは、研究から得られる知識が「役に立つ」という価値を持っていることを、社会にアピールしようとしたのであった。
 しかし、一方で科学者は、研究は自らの好奇こうき心や真理探究心によるものであり、それは純粋じゅんすいに知的な活動であることを主張し続けたのである。「価値」という点からみれば、ちょうど一九世紀ヨーロッパに「芸術のための芸術」という考え方があったのと同じように、科学的知識には、それ自体に内在的な価値が備わっていて、したがって科学というのは、社会的に有用な価値を追求するのではなく、知識を追求することそれ自体が、人間にとって価値がある、という姿勢をとった。別の言い方をすれば、「知識のための知識」こそ科学の姿である、ということにもなる。
 科学者たちは、この二つの主張を、一九世紀の発足当時から、使い分けながら社会に対処してきたと言える。社会もまたこのダブル・スタンダードをある程度は受け入れてきた。
 したがって、科学者の立場からすれば、自分たちの造り出す知識は、芸術作品とは違っちが て、豊富な社会的効用を備えているのだから、社会は、そうした効用を備えた知識を提供してくれる科学研究には、公的に支援しえんをして当然である、という主張を一方で抱えかか 他方で、科学研究は純粋じゅんすいに「知識のための知識」追求の営みなのだから、社会の側から制約や管理を受けるべきでないし、その必要もない、という主張を用意してきたのである。
 この二面性は現在でも解消されていないばかりか、むしろかえって現代により深刻な問題を生み出している。
 もしも、科学が、純粋じゅんすいに研究者集団の内部に閉じ込めと こ られた、自己閉鎖へいさ的で、自己充足じゅうそく的な営みであるとすれば、倫理りんり的な問題が入り込むはい こ べき場所は、そうした集団の内部のみということになるだろう。しかし、科学の成果が、社会的なインパクトを持ち、社会における個々人の生活に善きにつけ悪しきにつけ、直接的な力を発揮するようになった現在においては、やはり、科学者の場合も、内部規範きはんだけでは明らかに不十分であると思われる。科学者は、好奇こうき心に任せて、どんな材料を使って、どんな方法で、何を
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やっても、それが「研究」である限り、許されるし、その結果がもたらす事態についても、社会的責任や義務から免れるまぬか  、というわけには行かなくなったのである。
 このように考えてくると、科学者という概念がいねんもまた改めなければならないところが見えてくる。科学者とは、本来、自らの好奇こうき心の赴くおもむ ままに、俗界ぞっかい離れはな て、ひたすら真理を探求することに勤しむものである、というイメージがかつて存在した。そこでの倫理りんりは、ただひたすら真理に忠実であれ、ということで済んだ。
 しかし、今や、科学者の研究という行動は、望むと望まざるとに拘わらかか  ず、社会における他者、科学者という同僚どうりょう以外の他者の生活を、生から死までの全般ぜんぱん亘っわた て、左右するような成果もしくは結果を導く可能性があることを認識し、負の影響えいきょう避けるさ  ためには、自分の好奇こうき心を抑制よくせいし、研究の方向を制御せいぎょすることも、ときには自ら決断しなければならない、そういう倫理りんり観が要求される存在として、科学者があらためて認識されるに至っている。
 少なくとも、専門家として、自らの研究成果の、社会に対する負の効果に対して、常に敏感びんかんであり、それを制御せいぎょする方法の案出にも責任と義務を感じ、またそれを実践じっせんできるような、そういう研究者の倫理りんりが、求められてくる。
 同時に専門家としての経験と知識が、常にそうした義務や責任の遂行すいこうに最適・最善である、とは言えない、という事情に鑑みれかんが  ば、研究の世界で起こっていることを、常に一般いっぱんの社会に対して開示、説明する義務もまた、そこに生まれてくる。一般いっぱんの社会も、そこで起こっていることを充分じゅうぶんに理解した上で、専門家と協力しながら、正の効果を増大させ、負の効果を減少させるために、パートナーとして働かなければならない。
 言い換えるい か  と、現代社会においては、一般いっぱんの社会もまた、ある種の倫理りんり綱領こうりょうのなかで、科学的研究を見つめ、協力し、共生していくを探らなければならないのである。
(村上陽一郎よういちろうの文による)
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a 長文 2.2週 nnze2
 十九世紀の経済学には、経済活動を支える要素のひとつとして、人間の欲望を説いているものが多い。より豊かになりたいという欲望や、新しいものをつくりだそうとする欲望、そんなさまざまな欲望が、経済を発展させてきたと、多くの人々は語ってきた。
 ところが、二十世紀に入ると、欲望もまた人々が自然的につくりだしているものではなく、つくられたものではないかという見方が大きく広がってきた。
 たとえば日々流されているコマーシャルが私たちの欲望をつくりだすうえで、一定の役割をはたしていることは確かであろう。企業きぎょうによる新しい価値観の提案も、人々に新しい欲望を生みださせる。いわば今年の流行を企業きぎょうが示すことによって、それが本当に流行化してしまうような構造が、いたるところで生まれているのである。
 そして私たちはそれを手に入れることによって、それが必要な生活スタイルをつくり、それを手放すことができなくなる。たとえば、電子レンジなどはそのひとつで、電子レンジを使う生活がはじまったことによって、電子レンジのない生活が不便なものになってしまったのである。
 考えてみればお米のない生活をしていた縄文じょうもん時代の人々が、お米を食べたいと思うはずはない。お米が入ってきたことによって、お米を食べたいと思うようになったのであり、しかもそのお米が不足するとき、お米への欲望は大きくなっていくのである。
 とすると欲望の生産者とはだれなのであろうか。
 はっきりしていることは、近代的な経済社会は、生産と流通と欲望の相互そうご依存いぞん的な拡大の社会としてつくられていた、ということであろう。生産の拡大が流通を拡大し、逆に流通の拡大がまた生産を拡大する。商品や情報の流通が欲望を拡大し、欲望の拡大がまた生産や流通を拡大していく。今日の経済社会とは、こんな社会である。
 この社会は、経済を発展させていくうえでは、きわめて便利な役割をはたした。そしてここには、次のような前提があったように感じられる。それは、人間の欲望は無限に拡大していくものであり、経済もまた無限に拡大していくという前提である。その結果、近代以降における経済と人間の自由の関係は、無限に拡大しつづける欲望と経済を前提にした社会での、経済活動の自由でありつづけた。つまり拡大系の経済社会を基盤きばんにした経済的自由だったのである。
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 ところが、このような経済社会観は、今日になると、環境かんきょうの面からほころびをみせはじめる。なぜなら経済が無限に拡大できるのなら、資源もまた無限でなければならないにもかかわらず、自然は有限なものであることがはっきりしてきたからである。もうひとつ、経済活動によって生まれる公害なども、一定量をこえると自然が負担しきれないことも明らかになってきた。自然と人間の活動との調和を考えるなら、経済と欲望の無限の拡大を前提にした社会も、その社会を前提にした人間の自由も、間違いまちが なくかべにつきあたっているのである。
 おそらくこのような認識が高まるにしたがって、私たちは、新しい社会を作りだす試みを開始しなければならないだろう。すなわち生産と流通と消費とが大きな循環じゅんかんの中で実現し、自然と人間とが循環じゅんかん的に支え合う社会の創造である。
 とすると、そのような社会における、人間の経済活動の自由とはどのようなものなのであろうか。
 これまでの大半の経済学は、自然を無限のものとして扱いあつか 、そのことを前提にして、経済と人間の自由について語ってきた。その結果、自由な経済活動が自然を破壊はかいしたばかりでなく、人間たちもまた欲望と消費の拡大といううずのなかにまきこまれてしまった。私たちはいま、このような構造の外に出たいと思っている。そして、労働や生活に関する、新しい自由を作り出したいと思っている。

(内山節『自由論――自然と人間のゆらぎの中で』より)
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a 長文 2.3週 nnze2
 周知のように明治以降わが国でも、この園遊会方式が積極的に採り入れられた。かつての鹿鳴館ろくめいかんの夜会、今日の皇居における園遊会がそれにあたる。そしてむろんそのような形式は、一般いっぱんにホテルや会館などでおこなわれる各種の立食パーティーに受けつがれ、少人数のホームパーティーや交歓こうかん会にまで及んおよ でいる。
 だが、そのような園遊会の方式は、はたしてわれわれの深層の意識までをも変えてしまったのであろうか。かならずしもそのようには思われないのである。さきに私は、かつてわが国の饗宴きょうえんかくは正客を中心に列座のものが全員手を打ちそろえて、一つの歌をうたうところにあるだろうということをいった。手を打ちそろえることが「うちあげ」であり「うたげ」だったのだといった。うたげはあくまでも正客を中心にすすめられ、その正客と主人のあいだに交わされるダイアローグを大きな流れのかくとして進行していく。そして列座のものが手を打ちそろえることで、そのうたげの場に中心が形成される。列座のものたちの心がその中心にむかって統合されていくといってよいだろう。そのとき遊びの気分が昂揚こうようし、遊びごころが調和のとれた安定感をうるのである。
 私はさきに、日本の芸能が大道芸から庭芸へ、そして、庭芸から座敷ざしき芸へと展開し、しだいに洗練されていったということをのべたが、それは遊びの構図を考える場合にも参考になるだろう。すなわち遊びの空間もまた広い世界から局限された場にしだいに移行していく過程で洗練されていった、というように――。
 饗宴きょうえんの本質がもしも正客を中心とする「うちあげ」の機能にあるとすれば、遊びの諸要素がその中心にむかって収斂しゅうれんしていくのも不思議なことではない。その収斂しゅうれん凝縮ぎょうしゅくのはてに遊びのクライマックスがやってくる。その求心的な姿勢のなかに遊び心が蘇るよみがえ といってよい。さきに休日の問題にふれて、家を空にすることへの罪責感のような感情を問題にしたけれども、それもいまいった求心的な姿勢と関係があるかもしれない。中心から外れていくことが、その人間を何となく不安にさせるのである。
 これにくらべるとき、園遊会がそれとは逆に拡散と開放のなかに遊び気分を盛りあげようとする方式であることが明らかになる。そこにはむろん、正客がいないわけではない。正客を迎えるむか  主人の
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側の趣向しゅこうがこらされていないわけでもない。しかしながらその正客も主人も、その園遊会の大きな流れのなかでは遠心的にはたらく人びとの動きからのがれることはできない。正客と主人のあいだの対話は、まさに離合りごう集散する会話の流れによって分断され、その重層する渦巻きうずま のなかにのみこまれていくほかはないからである。
 こうして私は、ヨーロッパの饗宴きょうえんは遠心力の機能にもとづいて演出されてきたのにたいし、わが国の「うたげ」の伝統は、いまのべたようにむしろ求心力の作用を前提に発想されたのではなかったかと思う。とはいっても、もちろんヨーロッパの園遊会や饗宴きょうえんの席に儀礼ぎれい的中心がまったく存在しなかったというのではない。同様にして日本の「うたげ」のなかに拡散や開放の契機けいきやエネルギーがみられないわけでもない。そもそも乱痴気騒ぎらんちきさわ や無礼講は、洋の東西を問わず遊びや宴席えんせきにはつきものだったからである。しかしながらそのような共通性にもかかわらず、さきにのべた饗宴きょうえんにおける遠心と求心の対照性は基本のところで動かないのではないだろうか。

(山折哲雄てつお『近代日本人の美意識』)
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a 長文 2.4週 nnze2
 日本語の「自然」は、「おのずから」という情態性を表している。それは主語として立てられうる名詞的実体ではなくて、どこまでも述語的に、自己の内面的な心の動きを捲き込んま こ だあり方を示している。私たちは、人為じんい的なはからいの及ばおよ ない、「おのずからそうであり」、「ひとりでにそうなる」事態に出会った場合に、そこに一種不安にも似た情感を抱くいだ 。この情感において、私たちの祖先は自然を「あはれ」と感じ、そこに無常を見て取っていた。
 この不安の情態性がきわめて強調された形で言語化されたものが「万一のこと」、「不慮ふりょのこと」を意味する「自然」の用法であろう。「自然」が「不測の偶発ぐうはつ事」を意味しうるというようなことは、西洋人の理解を全く超えこ たことである。ここで「自然のこと」といわれているような事態は、西洋人の眼から見ればきわめて不自然な、自然の摂理せつりに反するような椿事ちんじである。それが死を指しているときには、それは明らかに「不自然死」である。ところが日本人にとっては、自然はつねに「もしも」という仮定法的な心の動きをうながすというところがある。西洋の自然が主として人間の心に安らぎを与えあた 緊張きんちょうを解除するように働くものだとするならば、日本の自然は自己の一種の緊張きんちょう感において成立しているといってもよいだろう。
 この対比が鋭くするど 現れているいまひとつの例として、西洋の庭園と日本の庭園との差異について触れふ ておこう。西洋の庭園の代表的様式としては、フランス式庭園とイギリス式庭園がある。前者は左右対称たいしょう幾何きか学的図形を基本とする人工的装飾そうしょく趣きおもむ の強いものであるのに対して、後者はできるかぎり人工を排しはい て自然の風景そのままの再現をむねとしている。一方これに対して、日本の庭園では、狭いせま 空間にいわば象徴しょうちょう的に天地山水を配する技法が重んじられ、その意味では人為じんい極致きょくちとも考えられるけれども、しかもその人為じんい人為じんいとして、技術を技術として感じさせず、自然の真意をそのままに表した庭が最高の庭とされている。イギリス式庭園が自然に対して写実的であるとするならば、日本の庭園は自然に対して表意的である。イギリス式庭園が本来の自然のコピーとして、不特
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定多数の人びとのために手軽な代用的自然を提供する「公園」であるのに対して、日本の庭は、そこに表意されている自然の真意を鋭敏えいびんに感じとる主体の側の感受性を期待して作られるものであって、したがって当然のことながら、鑑賞かんしょう能力を有する少数の人だけのための私的・閉鎖へいさ的な芸術作品という性格を帯びる。
 この庭園の例によってもわかるように、西洋の自然がだれにとっても一様に自然であり、人間一般いっぱんに対しての外的実在であるのとちがって、日本の自然は、心の一種の緊張きんちょう感においてそれを自然として感じとる個人を必要とし、人間一般いっぱんの外にあるのではなくて一人一人の個人の心の内にある。というよりはむしろ、自己がその心の動きを、張りつめた集中性において、しかもそれでいながら一切の束縛そくばく離れはな たありのままの自在性において感じとっているという事態、あるいはそのような事態を出現させる契機けいきとなっている事物、そういったものが日本人にとっては「自然」の語の意味内容となっているのである。

 (木村『自分ということ』による)
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 西洋近代における一つの画期的な新しい出来事として、数学に基づく自然科学的方法による自然世界の発見と並んで、風景としての自然の発見と風景感情の覚醒かくせいということがありました。ところで日本はどうかと言いますと、幕末の開港――明治維新めいじいしんの変革と共に、西洋近代文化、特に近代のいろいろな精神文化の流入が開始するに及んおよ で、これを文化受容していく過程で、日本においても全く新たに風景の発見、風景感情の覚醒かくせいが生起することになったのです。具体的に言いますと西洋近代の精神文化の遺産であります文学・詩・西洋画(特に風景画)・建築・博物学・地理学・山岳さんがく登山・民衆芸術・思想(哲学てつがく)、更にさら それら一切の文化の精神的基礎きその一つであるプロテスタンティズムなどの日本への流入があって、これらを受容する過程で初めて、自由な個人の覚醒かくせい、自然の美の世界への心的覚醒かくせいが日本人に生じ、これによって日本人は初めて、風景の発見・風景感情の覚醒かくせいへと導かれたのでした。
 西洋近代の物質的文明の方面については、経済や自然科学の技術や制度など、すべての方面において、日本人は全面的に急速にそれらを摂取せっしゅして自分のものとなし、物的・経済的・制度的方面において、いわゆる近代化を達成したのです。この点で日本人は極めて優秀ゆうしゅうな国民であることを証明したのでした。ところが、これに対して、西洋近代の諸々の精神文化については、その本質的な部分にまで深く入って、それを理解したり受容したりするという次元になると、一般いっぱん的な傾向けいこうとして、そこではスレチガイになるか、拒否きょひされるか、そうした反応が繰り返しく かえ 起こるのです。なぜこういうことが起こるのか、ということについてですが、このような現象につきましては、かつて戦前の日本(仙台せんだい)に教授として数年(一九三六〜四一年)滞在たいざいしたことのあるレーヴィットの次のような鋭いするど 日本人観察の言葉が、そのまま的中していると思うのです。大概たいがいの日本人の西洋に対する関係において聞き逃さのが れない言外の響きひび は、ヨーロッパに対する拒絶きょぜつである」。日本人は、「あらゆる領域で今やふたたび己れ自身になろうと欲する」。それは「今日の日本人の国粋こくすい主義的な願望」の現れなのであり、「日本の自己愛」
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の現れなのである、と。またこうもレーヴイットは言っています。ギリシア人は、「自分の中から自由に歩みでること」ができた国民であって、まさにこのことによって「その根が異国のものであった一つの世界を己れの故郷」とすることができた、と。
 ところで、日本人の物質主義的・現実主義的傾向けいこうによって西洋近代の物質文明と進歩信仰しんこうの一面的・情熱的摂取せっしゅがなされたのに対して、西洋の精神文化の受容となると国粋こくすい主義的アレルギーの反応が起こる、という点を考えると、それだけに一層驚かさおどろ  れること、また感動深くあることは、明治時代の日本人の一部の人たちが初めて体験する西洋近代の精神文化の流入に直面した時、新鮮しんせん驚きおどろ 、自己を空しくして学びとろうと努力したことがあるという事実です。そしてそのことの成果として、精神文化の各方面においては、近代の自然科学的自然の発見とは異なるいま一つの自然の発見、自然における美の世界の発見、すなわち自然風景の発見に、導かれたということです。しかもこれは、明治の初期にすぐに発生する国粋こくすい主義的・日本主義的反動の層の厚い流れの中で、その流れにこうしながら生じたのでした。ですからそのことは文化史的、思想史的に極めて意義深き出来事だったと言えるでしょう。

(内田芳明よしあき氏の文章による)
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 人間が、死にたいして持っている感情は、恐怖きょうふなのではなくてむしろ「不安」なのではないだろうか。小さいころに殺人や轢死れきし体などを見ると、こどもは恐怖きょうふ襲わおそ れる。しかし、こどもは、それを自分の死と結びつけては考えない。ただ、無惨むざんな姿が脳裏に焼きついていて、それが恐怖きょうふとなっているのである。しかし、中年をすぎて親戚しんせきや友人の葬儀そうぎに行くと、自分の死と結びつけて考えるようになる。そこにあるのは、死ぬことの恐ろしおそ  さなのではなくて、死にたいする漠然とばくぜん した不安なのである。
 「死にたいする不安を持つのは、人間特有の現象である」と大脳生理学者はいう。つまり、動物には不安のようなものはないのだというわけである。これは、人間の脳のメカニズムから説明されている。かんたんにいうと、人間の脳のなかに「新しい皮質」と呼ばれる部分があって、知識、理性、判断などを支配している。この新しい皮質のなかで、ちょうど、額の下に当たる部分に「前頭葉」と呼ばれている部分がある。これは、ものを考えたり、ものをつくりだしたりする、いわば「創造の座」である。
 人類の遺産と呼ばれているものは、すべてこの前頭葉がつくりだしたものである。それだけではない、科学も文明も文化も教育もすべて前頭葉がつくりだしたものである。この脳の働きをコンピューターにたとえていうならば、前頭葉はソフト・ウェアに相当するもので、前頭葉を除く新しい皮質はハードウェアに該当がいとうする。
 ところで、この前頭葉は、人間だけが特別によく発達していて、他の動物では、ほとんど発達していない。そのために、洋服を着ている犬はいないし、「文化」の定義にもよるが、動物にはそれらしきものはないといえる。ただし、幸島のサルがイモを海水で洗ってから食べるのは文化だという説もある。
 死にたいする不安というのは、死にたいする認識があっておきるものである。私たち人間は、死にたいする認識をそれなりに持っている。そこから、不安が発生するわけである。それは、前頭葉で「死」というものを考えることができるから、未来への不安を持つわけである。もしも、人間がその日ぐらしで、未来を考えないとしたら、死への不安はまったくないわけである。たとえば逆行性健忘症けんぼうしょうともいわれる、アルコール中毒の末期症状しょうじょうであるコルサコフ症候群しょうこうぐんになると、すべての記憶きおく喪失そうしつしているために、死を考え
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ることができず、したがって死への不安もない。
 このようにしてみると、死は、形としては動物にもあるが、意識や認識としての死は、人間だけの問題であるということもできそうだ。少なくとも、死の問題を考えることができるのは人間だけであることはまちがいない。そうだとすれば、私たちは、死をタブーと考え、死を考えることをさけるのは、必ずしも正しい態度とはいえないのではないかと思われる。
 高齢こうれい化社会を迎えむか つつある現在、日本人の平均寿命じゅみょう伸びの 、人数のうえでも、年数のうえでも、私たちは死を見つめる時間がふえてきた。それでいて、だれでも死からまぬがれることはできない。一度は必ず死ぬ。かつてのように、多くの人々が、若いうちに死ぬ場合は、働きざかりのときにポックリ死ぬ人が多く、死を考える時間的余裕よゆうもなかった。しかし、現代は多くの人が高齢こうれいまで生きることができる。ことし一年間で生まれた人千人のうち、九五パーセント以上の人は、息子の銀婚式ぎんこんしきまで生きることができるといわれているぐらいである。それだけ死を見つめる時間はふえたわけである。
 しかし、そのわりに、一部の医師や警察官のような職業の人を除いては、死を見る機会が減っている。かつてのように農耕社会で大家族の場合は、家族の中のだれかが死んだ。それをまのあたりに見て、死を考えたものである。しかし、核家族かくかぞくではそういう機会はない。死といえば、葬儀そうぎにでかけていくぐらいである。これは、やはり一種のセレモニーである。
 一方、医学の発達で、死は新しい問題を提起した。必ずしも心臓移植だけがそうなのではなく「医療いりょう器械につながれた生命」のようなものも出現し、そこから「尊厳死」というコトバも生まれた。死を考えねばならなくなったのである。

(水野はじめ『死』が問う医療いりょうの在り方」による)
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 進化を含めふく 、歴史を客観的事実の連続として記載きさいすれば、作業量は無限になってしまう。全地球上にわたる、五億年の歴史を記述するには、五億年以上が必要であろう。それはわかりきったことではないか。したがって、歴史家は(さらに当然のことだが、そういうものがあるとすれば、進化史家は)、完全に客観的な歴史ないし進化史などありえないと、はじめから知っているはずである。
 では、歴史はどこまで「主観的」でよいか。
 すでに述べた意味でいえば、歴史はつねに主観、すなわち脳の機能である。数億年なり数千年なりを、数時間の記述にまとめてしまう。それを可能だとするのが、脳の大きな特徴とくちょうである。それがなぜ可能であるか、その根拠こんきょはこの際どうでもよろしい。それが可能であると、脳は信じている。なぜなら、歴史を書くからである。歴史は、その意味では、脳が持つことのできる、時空系の処理形式の一つである。その形式を、昔から「物語」と呼ぶのであろう。だから、歴史は神話からはじまる。
 脳はこうして、さまざまな物語を描くえが 。ただし、歴史という物語は、歴史的な事実との対応を求められ、科学という物語は、物理的事実との対応を求められる。では文学という物語の本家の物語は、どのような対応を求められるのか。作家という人間であろうか。
 さらに、その文学に歴史はあるか。文学が人間に基礎きそを置くとすれば、人間はここ五万年変化していない。それなら、根本的には文学に歴史はない。さまざまな可能な変異があるだけである。では、文学史とはなにか。
 文学史が「歴史」であるなら、それは事実との対応を求められよう。あるとき、だれかが、こういう作品を書いた。それならたしかに「歴史」だが、その種の歴史はさんざん勉強させられてきたような気がする。
 私はかつて医学部の入学試験を受けた。当時は教養学部が済むと、医学部だけは、あらためて入試があった。その試験では、八科目を受験する必要があったが、そのなかで人文系の科目を一つ選択せんたくすることになっており、私はなぜか国文学史をとった覚えがある。答案では、物語について述べたような気がするのだが、「物語」ということばは、以来ほとんど使ったことはない。ただそこで記憶きおくしているのは、物語について述べることは、物語自身とは、ほとんどまったく無関係だった、ということだけである。なぜ、そういう
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ことになるのか。
 文学は、理科系における数学のようなものであろう。数学が実験室における証明を要求されないのと同じように、文学の内容もまた、事実との対応を要求されはしない。しかし、文学がある種の「真実」を述べるものであることは、数学と同様であろう。両者は、現実の役に立つような、立たないようなところが、よく似ているだけではなく、脳の機能としては、明らかに食い合わせになっている。文学的嗜好しこうが、数学的嗜好しこうと食い合わせだということは、経験的に、多くの人が知っていることである。逆に、音楽的嗜好しこうと数学的嗜好しこうは、重なることができる。脳は一つしかないから、ある種の類似機能は、一方を立てれば、他方が立たないようになっているはずである。この食い合わせは、おそらく脳のどこかの部分の入口にあって、どちらかが先にそこを通ってしまうと、他方が通りにくくなるという関係から、説明されるかもしれない。だから比較的ひかくてき若年のうちに、文科か理科か、それが決まってしまうのであろう。
 文学の「歴史」がふつうの意味の歴史と違うちが のは、文学自体が、事実との対応をとくに要求されないという点にあろう。文学の内容がそうである以上、「事実」との対応をおけば、文学史は、文学自体とは当然関係が薄いうす 「事実」を扱うあつか ことになってしまう。文学では、評論が主となるのは、ここに原因があろう。文学では、歴史がむしろ評論の形をとることになるらしい。これは、おそらく、数学史、哲学てつがく史でも同じことであろう。いずれの分野も、それ自体の内部における整合性しか、根本的には問題にならないからである。
 これらの分野で、「事実」に相当するものは、「書かれていること」以外にない。つまり作品の内容である。それ以外の事実、作家の生年月日とか、性別とか、男あるいは女出入りとか、それを扱うあつか なら、文学「史」になるかもしれない。しかし、それが文学の辺えんに過ぎないことは、だれでも知っている。

(養老孟司たけし『身体の文学史』による)
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 白は、完成度というものに対する人間の意識に影響えいきょう与えあた 続けた。紙と印刷の文化に関係する美意識は、文字や活字の問題だけではなく、言葉をいかなる完成度で定着させるかという、情報の仕上げと始末への意識を生み出している。白い紙に黒いインクで文字を印刷するという行為こういは、不可逆な定着をおのずと成立させてしまうので、未成熟なもの、吟味ぎんみの足らないものはその上に発露はつろされてはならないという、暗黙あんもく了解りょうかいをいざなう。
 推敲すいこうという言葉がある。推敲すいこうとは中国のとう代の詩人、賈島かとうの、詩作における逡巡しゅんじゅん逸話いつわである。詩人は求める詩想において「そうは推す月下の門」がいいか「そう敲くたた 月下の門」がいいかを決めかねて悩むなや 逸話いつわ逸話いつわたるゆえんは、選択せんたくする言葉のわずかな差異と、その差において詩のイマジネーションになるほど大きな変容が起こり得るという共感が、この有名な逡巡しゅんじゅんを通して成立するということであろう。月あかりの静謐せいひつな風景の中を、音もなく門を推すのか、あるいは静寂せいじゃくの中に木戸を敲くたた 音を響かせるひび   かは、確かに大きな違いちが かもしれない。いずれかを決めかねる詩人のデリケートな感受性に、人はささやかな同意を寄せるかもしれない。しかしながら一方で、推すにしても敲くたた にしても、それほどの逡巡しゅんじゅんを生み出すほどの大事でもなかろうという、差に執着しゅうちゃくする詩人の神経質さ、器量の小ささをも同時に印象づけているかもしれない。これは「定着」あるいは「完成」という状態を前にした人間の心理に言及げんきゅうする問題である。
 白い紙に記されたものは不可逆である。後戻りあともど が出来ない。今日、押印おういんしたりサインしたりという行為こういが、意思決定の証として社会の中を流通している背景には、白い紙の上には訂正ていせい不能な出来事が固定されるというイマジネーションがある。白い紙の上にしゅ印泥いんでいを用いて印を押すお という行為こういは、明らかに不可逆性の象徴しょうちょうである。
 思索しさくを言葉として定着させる行為こういもまた白い紙の上にペンや筆
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で書くという不可逆性、そして活字として書籍しょせきの上に定着させるというさらに大きな不可逆性を発生させる営みである。推敲すいこうという行為こういはそうした不可逆性が生み出した営みであり美意識であろう。このような、達成を意識した完成度や洗練を求める気持ちの背景に、白という感受性が潜んひそ でいる。
 子供のころ、習字の練習は半紙という紙の上で行った。黒いすみで白い半紙の上に未成熟な文字を果てしなく発露はつろし続ける、その反復が文字を書くトレーニングであった。取り返しのつかないつたない結末を紙の上に顕しあらわ 続ける呵責かしゃくの念が上達のエネルギーとなる。練習用の半紙といえども、白い紙である。そこに自分のつたない行為こうい痕跡こんせきを残し続けていく。紙がもったいないというよりも、白い紙に消し去れない過失を累積るいせきしていく様を把握はあくし続けることが、おのずと推敲すいこうという美意識を加速させるのである。この、推敲すいこうという意識をいざなう推進力のようなものが、紙を中心としたひとつの文化を作り上げてきたのではないかと思うのである。もしも、無限の過失をなんの代償だいしょうもなく受け入れ続けてくれるメディアがあったとしたならば、推すか敲くたた かを逡巡しゅんじゅんする心理は生まれてこないかもしれない。
 (中略)
 弓矢の初級者に向けた忠告として「諸矢を手挟みたばさ て的に向かふ」ことをいさめる逸話いつわが『徒然草』にある。標的に向かう時に二本目の矢を持って弓を構えてはいけない。その刹那せつなに訪れる二の矢への無意識の依存いぞんが一の矢への切実な集中を鈍らにぶ せるという指摘してきである。この、矢を一本だけ持って的に向かう集中の中に白がある。

 (原研『白』)
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