a 長文 7.1週 nnzi
 ケンタウロスは、人間の上半身に馬のどうあしがついた生き物だ。人魚ひめは、人間の上半身に魚のどうがついている。インドのガネーシャは、人間の身体にゾウの顔がついている。これらの不思議な神話上の生物を作る技術を、現代のバイオテクノロジーは手に入れつつある。科学の進歩は、科学の悪用の可能性と不可分の関係にある。その典型的な分野のひとつが、かく物理学である。物質が持っている膨大ぼうだいな熱量の可能性を、人間はエネルギーとして利用することもできるし、兵器として利用することもできる。同様のことが、バイオテクノロジーの未来についても言えるのではないか。
 バイオテクノロジーの今後の発展から予想される第一の問題は、できることとやっていいことは違うちが という区別の基準がまだはっきりしていないことである。遺伝子の解析かいせき技術が発展すれば、各種の遺伝的な疾病しっぺいの改善には役立つだろう。しかし、それは遺伝的素質による就職や結婚けっこんの差別を生み出すことにもつながる可能性がある。人類のこれまでの歴史は、無条件に病気を悪、健康を善としてきた。しかし、不老不死が技術的に可能になりつつある時代に大切なのは、いかに生きるかという技術よりもいかによりよく生きるかという哲学てつがくである。自然界を見ればわかるように、生き物はみな成長し子孫を残し年老いて死んでいく。永遠の生命を求めることは、大きく見れば自然の摂理せつりに反することではないだろうか。自然の摂理せつりと人間の倫理りんりの統合がこれから求められてくる。
 問題点の第二は、科学の発達による恩恵おんけいが強力なものであればあるほど、あとでその弊害へいがいがわかったときに、手後れとなることも多いということである。特に、生命に関することについては、人間の知識は肝心かんじんなことは何もわかっていないと言ってよい。生命を生み出す知識さえないのに、生命を部分的に操作する技術だけはあるという状態が最も危険なのだ。この危険性を防ぐためには、多様性の確保を技術の発達以上に優先することだ。農業の品種改良で、F1雑種による成果が取り上げられることは多いが、それが地域固有種の絶滅ぜつめつに結びつくようなことがあってはならない。大きな恩恵おんけいは、大きな弊害へいがいと裏腹の関係にある。
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 バイオテクノロジーは大きな可能性を秘めている。それは、肉体の変容だけでなく、精神の変容に生かすことさえできるようになるだろう。大切なのは、その可能性を発展させるか、その危険性を抑止よくしするかということではない。どのような技術も、それを生かす社会の仕組みによって、人間を助ける乗り物にもなれば、人間を傷つける武器にもなる。ケンタウロスや人魚ひめやガネーシャが人間と一緒いっしょに暮らすようになってもよい。しかし、大事なことは、すべての生物が自分の存在に自信と誇りほこ と喜びを感じて生きていくための技術でなければならないということである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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a 長文 7.2週 nnzi
 一九七九年一月一七日から同年二月九日までの朝日新聞『いま学校で』らんに、十六回にわたって「テストの点数は人間の価値を測る絶対的な尺度であり得るか」という問題について、A、B両氏の紙上討論とも言える「往復書簡」が掲載けいさいされた。両氏の主張の一部についての要旨ようしは次のような内容である。

A氏
 まず、人間の価値ということであるが、どこの学校においても知育、徳育、体育の調和のとれたことだと考えている。だからこそ、「全人教育」ということばが非難しがたくはばをきかせているのである。その半面「知育偏重へんちょう」「受験体制」「テスト主義」などということばが罪悪のごとく非難されている。しかし、今までの教育を受け、受験をし、テストを課せられてきたものが、みな、人間性に問題があるのであろうか。
 テストはやはり必要ではないか。およそ強制のともなわない教育などというものはあり得ない。強制がなければ自発的に知識を身につけにくいものである。子どもを本能のままにまかせたら遊んでばかりいて、しまつにおえないのではないか。
 十題のうち三題間違えまちが て七点という場合、「あなたの努力は七割でしたね。こんどは八割、九割とがん張りましょうね。」という励ましはげ  であり、評点と評価を明確に区別する必要はない。もし競争原理を否定したらどんな世の中になるであろうか。オリンピック、野球、相撲すもう、ラグビー、政治、経済、文化等々、社会各般かくはんの活動はみな停止せねばならなくなるであろう。
 今学校では、体育の教科も他の教科も必修になっている。体育の時間の生徒の心理状態も学科の時間の生徒のそれも同じである。走るなら速く走りたいし、理解はできるだけ早くしたいという気持ちは同じである。人より速く走るな、理解は人より早くするなというのは、根っから無理な話である。

B氏
 今の社会が貨幣かへいじくとして回転しているように、今の学校は点数をじくとして回転している。テストはひんぱんにおこなわれ、そのテストで一点でも多くの点数をとろうとして血まなこになっている。
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そしてこの点数は学校を卒業した後の人生にも何らかの影響えいきょう及ぼすおよ  仕組みになっている。
 また学校は優等生が多いか少ないかによって一流、二流……と序列化され、いまの日本の学校は小学校から大学まで単一のピラミッド組織に組み込まく こ れているが、そのピラミッドを構成している一つ一つの積み石は、せんじ詰めれつ  ば点数であり、また、今回論点の中心となっている『テストの点数は人間の価値を測る絶対的な尺度である』という等式(点数=人間の価値)にほかならない。
 教育には強制が必要だという信念は、ほとんど大多数の教育者のゆるぎない信念となっているようだが、日曜画家や市民大学をこころざす人が増えているように、それは人間が強制なしに学ぶ強い本能をもっていることを物語っている。
 教育には評価は必要であるが、評点は不必要であるばかりでなく有害である。評点のめざすところは結局は点とり競争であり、学校を、共に学ぶ場所でなく、優勝劣敗ゆうしょうれっぱい、弱肉強食の荒涼たるこうりょう  「勉強強制収容所」に変えてしまった原因の一つである。
 それは人間は競争のみによってのみ進歩するものだ、という競争原理が生み出したものであり、この競争原理を否定しない限り、今日の学校の荒廃こうはいをなくすことはできない。
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a 長文 7.3週 nnzi
 中国には、数限りなくいっているし、ベトナムにはこれで三度目だ。北朝鮮きたちょうせんははじめてで、近くて世界で最も遠い国には興味があった。報道で伝えられてくるものは、情報としてはともかく、はだざわりが感じられない。そこにはどんな空気が流れているか、やみさはどのくらいであるかと、物書きには実感が大切だ。実感ばかりに頼ったよ て歴史の大きな流れを見落としがちになるという欠点は充分じゅうぶんにわかっているつもりで、小さな真実のようなものを拾い集める旅をしてきた。駆け足か あしで通り過ぎていく旅人にはそれしかできないからなのだが、旅というのは表層をかろやかに浮遊ふゆうするというようなものだろう。旅の快感に身をひたすということなのかもしれない。それが昔から私がとってきた方法なのだよ。
 君の年齢ねんれいよりもう少し若いぐらいの時から、私はリュックを担ぎゴムゾウリをはいて、アジアの大地をぎらぎらと巡っめぐ てきた。最初に踏みしめふ   たのは下関から船に乗ってたどり着いた韓国かんこく釜山ぷさんで、次は横浜よこはまから留学生船と呼ばれるフランス郵船の貨客船に乗って上陸した香港ほんこんとバンコクだった。バンコクからプノンペンに飛んだのが、生まれてはじめて乗った飛行機だったよ。
 あのころ、せいぜい遠くまでいったといえるのが、インドだった。結果的にアジアにこだわってきたといえるのだが、その理由は安くいけるということからだ。運賃も近いから安いし、食う寝るね も安くすんだ。安くて心が充たさみ  れるというのが、当時の私の方向感覚であった。もちろん今もそれはたいして変わっているとはいえない。
 あのころのアジアには変わらないことへの安らぎというようなものがあった。悠久ゆうきゅうの時に充足じゅうそくしてたゆたっているような感覚があり、高度成長期にはいり経済活動に邁進まいしんしはじめた国からやってきた若者には、なくしてしまった過去を訪ねるような趣きおもむ があったよ。ソウルやバンコクの路地から、子供の私が駆けか てくるような雰囲気ふんいきがあったのだ。
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 今、アジアの国々はそれぞれの道を歩いている。当時、先頭を全力疾走しっそうしていた日本は少しくたびれ、未知の世界を前に立ち暮れているような風情である。一方、北朝鮮きたちょうせん以外の国々は歩調をあわせ、同じ方向に向かって走りだした。それは日本が走ってきたと同じような道で、その功罪を知っている私は一定の危惧きぐを禁じ得ないのである。あんまり速く走るとまわりの風景も見えないし、疲れつか 余裕よゆうもなくなってしまう。それに、物質的な満足など、人の喜びのほんの一部なのだ。衣食の足りているもののいう言葉だといういい方もあるが、今私たちの国をおおっている虚ろうつ さを彼らかれ にどう伝えたらいいのだろう。
 君たちはこれからどのように生きようとしているのか、と考えると、私は暗澹あんたんとしてくる。時代はいつも暗澹あんたんとしていて、ことに若者は暗澹あんたんとしている。私は暗澹あんたんのリュックを担ぎ、アジアの大地を一歩また一歩と暗澹あんたんとして歩を運んでいたといえる。これからは君たちの時代なのだが、アジアの人たちと暗澹あんたんたる気分を分けあっていくよりしょうがないのではないかと思う。これから無限に希望のある時代とはとてもいいがたいのだ。(中略)
 温暖化している地球で、ことにアジアは熱い場所だ。将来の地球の運命を決める場所といってもよいかもしれない。若い君に、いまだ固まらない熱い岸辺を歩くことを、私はすすめたい。
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a 長文 7.4週 nnzi
 言葉の裏返しを考える上でいつも思い出すのは五味太郎たろうの『あそぼうよ』というごく幼い子向きの絵本である。
 登場するのはことりとおじさん風のきりんだけ。ことりが「あそぼうよ」というと、きりんが「あそばない」と答える。毎ページ、このくりかえし。しかし、絵をみるとこのきりんおじさんはなかなかふざけんぼで、首をくるくるまわしたり、かくれんぼしたり、あげくのはてはことりを背中に乗せて泳いだり、サービス満点の遊び相手なのだ。しかし口にする言葉は徹頭徹尾てっとうてつび「あそばない」。最後にことりが「あした また あそぼうよ」とうれしそうに飛び去るときも、きりんおじさんはとっぽい顔で「あした また あそばない」とこたえる。
 この絵本、まじめな保育園幼稚園ようちえんの先生方には評判はよろしくなかったらしい。どこかの園長先生から「せめて最後だけはあそんでほしかった」という抗議こうぎの声が寄せられたという話を聞いて笑ってしまった。が、このやり取りの面白さを大人が理解して楽しく読めば、子どもたちはてきめんに喜ぶ。子どもたちはくり返しをすぐ覚え、きりんおじさんになって、わたしが「あそぼうよ」と呼びかけると、みんなで声をそろえて「あそばなーい」と叫びさけ 、くすくす笑うのである。意味の上で反対のことを言っても相手と通じ合うというコミュニケーション体験は、この相手ならばこそ、という濃厚のうこうな関係を互いにたが  意識させる。だから、くすぐったい。子どもたちはきりんおじさんになって、言葉の文字通りの意味を超えこ て相手に触れるふ  のである。そう、ここでは言葉は相手に触れるふ  道具になっている。そのためには文字通りの意味が過激であるほうが触れるふ  という感覚を強くする。言われた方は、はっと胸を突かつ れ、瞬間しゅんかん、立ち止って、相手の意図を知って笑う。こんな触れ合いふ あ が成り立つためにはなんといってもお互い たが のゆるぎない信頼しんらい関係が前提になるではないか。
「ウソ」「マジ」もこれと同じだと思う。不信の念を過激に表せば表すほど、言葉の意味を超えこ た次元での互いたが 信頼しんらい関係は強固に確認される。言葉によるスキンシップといってもいいかもしれない。
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電車のなかなどで数人の若い人の会話を聞いていると、「ウソッ」「マジッ」がやたらと耳を打つ。どうやら会話の内容には重みはなさそうで、場をもたせるのが大切らしい。ごにょごにょと話があると、間髪かんぱつをいれず「ウソッ」、「マジイー」と来る。謡曲ようきょくつづみのようにそれが「カーン」と響きひび 、会話を支えている。「ウソ」「マジ」は心のきずなを確かめ合い、安心して次に進む会話の青信号のようだ。「ほんと」よりもずっと相手の心のど真ん中を突いつ て親しさを盛り上げている。若い人たちの間でまたたく間に広がっていったのもうなずける。しかし、あいづちの言葉などは使う頻度ひんどが高いから、使っているうちに洗いざらしになって、当然、色あせてくる。ショウ迫力はくりょくも失せてくる。中高生たちの会話に耳を傾けかたむ ていると、「ウソ」も「マジ」も、もうそんな鮮度せんどは失って、ごく自然に、普通ふつうに使われている。昨日もじゅくに来ているおとなしい地味なタイプの中学生の女の子がふたり、仲良くなって静かに会話をかわしていたが、「ウソ」や「マジ」がささやき声で行き交っていた。たった二十数年でこんなふうに言葉の命の変化を見極められるなんて面白い。万が一「マジ」が生き残ったら、五十年後、ふたりの老人が日向ぼっこをしながら、互いにたが  「マジッすか」と静かに言い交わし、語り合う場面があるかもしれない。
 おやおや、どこかから高校生たちの声がする。「ありえな〜い!」

(長谷川摂子の文章による)
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a 長文 8.1週 nnzi
 実は現在インターネットの上では二つの力が争っていると思うんです。一方はそれを資本主義化してしまおうという力、もう一方はそれを贈与ぞうよ交換こうかんの世界へ引き戻そひ もど うという力です。
 インターネットは、その出発点においては、アメリカ国防省から軍事研究を委託いたくされていた、研究者の間の科学研究の情報のネットワークであったわけですが、もともとの参加者である科学者にとっては、インターネットを経済的な目的に使うのは抵抗ていこうがあるようです。科学者の集団というのは、少なくとも建て前の上では、信用なるものによって結ばれている世界なのです。科学者がおたがいに論文を交換こうかんする、あるいは科学情報や技術情報を交換こうかんするとき、それは同じ科学コミュニティの一員としておたがいの名前を認めあっているからです。たとえ個人的に名前を知らない場合でも、博士号を持っていたり、名のある研究機関に属している人間であれば同じです。そこでは、まさに名前というものが重要な役割を果たす信用のネットワークが築かれる。そして、その名前が重要な役割を果たす世界とは、贈与ぞうよ交換こうかんの世界なのです。たとえば、古代ギリシアのホメロスの叙事詩じょじしのなかに出てくる英雄えいゆうたちは、他人から贈与ぞうよを受けたら、自らの名誉めいよを守るために、つまり自分の名前の信用を守るために、必ず贈与ぞうよをした人間に対して返礼をする。ここでは、まさにおたがいの名前に対する信用が人間と人間との交換こうかんを可能にしている。贈らおく れるモノそのものに価値があるから返礼するのではなく、贈っおく た人間と贈らおく れた人間との間の一種の信用関係を保つためにモノが交換こうかんされるのです。
 昨年、あるコンピュータ・サイエンスの会合に呼ばれて講演をしたときに出会った何人かの人たちは、コンピュータ・コミュニケーションの世界に資本主義的な要素が入り込んはい こ でくるのをなるべく排除はいじょしようとしていました。それは、いうなれば、それを原初における贈与ぞうよ交換こうかんの世界のままに保ちたいという必死の抵抗ていこうでしょう。その極端きょくたんな例が、ソフトウェアを全部タダにしようと、それをネットを通じてタダでばらまこうという動きです。コピーレフトですね。あれはインターネットから資本主義の原理を排除はいじょして、
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なるべく古き良き贈与ぞうよ交換こうかんの世界に留めておこうという動きだと思います。
 これがインターネットのなかで働いている一方の力ですが、しかし不幸にして、もう一方の力が厳として存在しており、それはいうまでもなく資本主義化への動きなのです。そして、コピーレフトに全面的に対抗たいこうする手段となるのが暗号化の技術です。インターネット上の情報を暗号化すると、その情報の内容はまさに秘密キーを持っている人間だけしか知ることができなくなる。つまり、ここに所有権が確保され、その所有権をもとにした商品交換こうかんが可能になるというわけです。
 いまインターネットを舞台ぶたいにして、この二つの力が争っているんだと思います。幸か不幸か、私は経済学者ですから、資本主義化への動きというものがいかに強いものであるかを良く知っています。そして、さらに不幸なことに、じつは贈与ぞうよ交換こうかん維持いじしようとしている動きには自己矛盾むじゅんがはらまれている。なぜならば、インターネットとは、原則としてすべての人が自由に参加できることを前提にしているわけですが、おたがいの間の信用を基礎きそにして成立する贈与ぞうよ交換こうかんの世界とは、まさにそれが何らかの意味で閉じていることを必要とするのです。たとえば、科学的な情報や知識が、贈与ぞうよ的な原理によってインターネット上をタダで自由に行き来していくと、それがだれでも参加できるインターネット上であるが故に、それを欲しがる人間を増やしてしまい、そのなかにはもちろん信用のない人間も当然含まふく れますから、自らの基盤きばんである信用に基づくコミュニティを破壊はかいしてしまうことになる。インターネットがこれだけ拡大してしまうと、今度は、贈与ぞうよ的な世界を維持いじしようとする人びとは、インターネットから離れはな た小さなネットワークを作ったり、あるいはもっと皮肉なことに、自分たちのかたきである暗号システムを使ってインターネット上に閉じたコミュニティを作ることになるかもしれない。

 (岩井いわい克人かつとインタヴュー 上野俊哉としや)『インターネット資本主義と貨幣かへい』より抜粋ばっすい、調整)
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a 長文 8.2週 nnzi
 荒木あらき博之ひろゆきのあげたつぎのようなケースは、その典型例であろう。
 ――日本の小学校などでよく見かける光景であるが、先生が生徒に向かって「みなさんわかりましたか」とたずねると、生徒は全員声を揃えそろ て「ハーイ」と答える。この場合、先生の方はかならず全員一致いっちして「ハーイ」と答えることを期待しているし、生徒の方もたとえほんとうにわかっていなくても、全員声を揃えそろ て同調することが先生の期待に答える所以であることを知っているのである。こういった全員一致いっち雰囲気ふんいきのなかでただひとり「わかりません」ということがきわめて勇気がいる行為こういであることは、日本人であればだれしも体験的に知っていることであるだろう。――
 対照的にアメリカの小学校の子どもが、「先生が口を酸っぱくしてくり返しくり返し説明しても、わからなければ金輪際『イエス』とはいわない態度に驚きおどろ かつ感銘かんめいを受けたことがあった」、と荒木あらきは報告している。
 日本人に顕著けんちょな集団への同調行動は、何も小学生に限ったことではない。きだ・みのるも、小さな村落(部落)での参加観察に基づいて、同様の事実を見出している。ある村人は、かれに向かってこう述べている。
 ――そらあ、多数決の方が進歩的かも知れねえが部落会議にゃ向かねえや。……部落会議じゃあ、村議会でもそうだが十中七人賛成なら残りの三人は部落のつき合いのため自分の主張をあきらめて賛成するのが昔からの仕来りよ。どうしても少数派が折れねえときにゃあ、決は採らずに少数派の説得をつづけ、説得に成功してから決を採るので、満場一致まんじょういっちになっちもうのよ。――
 要するに、「部落の決議は全会一致いっちで、多数決は恨みうら を残し部落の運営の円滑えんかつ妨げるさまた  原因になるので採用されていない。部落で一番嫌わきら れる悪は部落を割ることだ。したがって十中七人も賛成することにはつき合いのため賛成することになる」というのである。こうした「つき合いのための賛成」という態度は、近代主義者の目からすれば、当人の自主性を損ねていることになる。どうして集団のためにそうまでしなければならないのだろうか、と批判的なまなざしを向ける。
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 しかし、当の村人にしてみれば、「部落は人数が少なく朝に晩に顔を会わしているのでおにっ子を作っては部落の運営がうまく行かなくなる」という現実的な判断が働いているのである。何とか全会一致いっちで決めたいし、かりに自分自身としては反対でも集団の「和」のためには賛成の方に回ったほうがよい、という思惑おもわくがある。結果的にそれは、自律性の喪失そうしつ、地域社会への屈服くっぷくであるかも知れない。しかしながら、ここで留意すべきことは、みなが、どうすれば「部落の運営がうまく行くか」ということを配慮はいりょしたうえで「賛成」している、という事実である。その場合の賛同は、単純に集団に同調する行動ではないしまた地域社会による「少数派の圧殺」でもない。(中略)
 このように考えてみると、日本人の集団主義的な傾向けいこうについてはその内容を再検討することが不可避ふかひとなる。日本人に特異だとされる集団主義が、はたして個人の集団・組織への投入や隷属れいぞくを意味するものなのかどうか、よく吟味ぎんみすることが必要であろう。結論を先取りして言えば、日本人の集団主義は、成員の組織への全面的な帰服を指しているのではなく、他の成員との協調や、集団への自発的なかかわり合いが、結局は自分自身の福利をもたらすことを知ったうえで、組織的活動にコミットする傾向けいこうをいうのである。普通ふつう「集団主義」という語は、「個人主義」の否定的対立こうとして用いられる。だが日本人の場合、その「集団主義」は、アンチ「個人主義」を意味しないのだから、タームとしては実は不適当なのであり、また既存きそんの語感にたよったまま日本人を集団主義者だと結論づけることは、完全に現実を見誤ることにもなろう。この点に関しては,「集団主義」という用語そのもののセマンティックスをもっと深く分析ぶんせきする必要がある。

濱口恵俊・公文俊平編「日本的集団主義」より。濱口恵俊執筆
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a 長文 8.3週 nnzi
 第一に、歴史においては、過去の事実は自然における事実と性質をことにする、ということです。過去の事実はすでに述べましたように、歴史家が直接観察したり、実験により再現することができない、一回性の「事実」です。それに歴史家が到達とうたつできるためには、史料といわれる証拠しょうこ頼るたよ ほかありません。
 史料は人間の過去の行為こういの記録であり、そこには記録という人間の加工が介在かいざいしています。歴史家は、行為こうい者・記録者などの人間の行為こういそこに表明された思想を、自己の思想により理解し識別してはじめて過去の時日に到達とうたつすることができるのです。ですから、ジョージ・クラークに従って、「過去の知識は、ひとりあるいはそれ以上の人間の心を通じて伝えられ、かれらの手で『加工』されたものであって、したがって、何ものも変更へんこうを加えることができないような根源的・非人格的原子からできているということはありえない」ということができます。歴史家にとって事実とは、事実一般いっぱんではなく「歴史家の事実」なのです。
 「関係の客観性」の意味する第二の論点は、歴史家は時日とは完全に別の存在なのではなくて、かれ自身が「歴史過程の一部分」とである、という位置確認です。歴史家は認識の対象である歴史過程の外にある存在でなくてその一部であることから、歴史的制約をうけざるをえません。あるいは、歴史家が歴史過程において占めるし  位置から生れる「偏向へんこう」とか「党派性」を歴史家は免れるまぬか  ことができません。
 そのことを意識し、自己の認識の限界不完全性をつねに自覚することによってこそ、歴史家は客観性に近づくことができるのです。そういう意識をもたない歴史家は、えてして公正とか不偏不党ふへんふとうを口にするのですが、じつは時代の支配的価値観の拘束こうそくを無自覚に受けているのです。歴史認識における「偏向へんこう」は、客観性の否定ではなくその限界、不完全性、一時性を指示するものにすぎません。歴史家はいまでは、過去を概念的がいねんてき把握はあくするというような大それた企てくわだ を意図することはありません。なしうることは、過去についてなにをいうことができるか、を示すことで、そうしたつつましい限度を越えるこ  ことはありません。(中略)
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 歴史における客観性の意味を以上のように把握はあくするなら、「歴史は時代とともに書き換えか か られる」ことの意味はより理解しやすいものになるでしょう。過去の事実は歴史家の事実であり、歴史家は歴史過程の一部である、という相互そうご関係にあるとすれば、過去はつねに現在、歴史家が置かれている現在に生きていることが了解りょうかいされるでしょう。「過去が現在に生きる歴史過程と、過去が死んで現在が生れる自然過程の区別」(コリングウッド)がこうして現れるのです。
 歴史においては、過去において.「既知きち」とされたものが時代の変化によって「未知」へと転化すること、歴史の目的は、単に新しい事実の収集にあるのではなく、「未知」へと転化した主題を証拠しょうこと推論によって解明することを目指すことが、ここに理解されるでしょう。この点において歴史家も科学者も違いちが はありません。しかし歴史過程においては自然過程とは違っちが て過去が現在に生きつづけます。過去はつねに新しい文脈のなかで問い直されるのです。(中略)
 このようにいうことは、決して歴史懐疑かいぎ論への同調を意味するのではなく、「歴史家自身が自身の研究対象たる過程の一部であり、同過程中にかれ独自の位置を保持し、現在の瞬間しゅんかんにおいてかれが占有せんゆうしている観点からのみ同過程を見ることができる」という歴史認識の特殊とくしゅ性を指示するにすぎません。歴史が時代とともに書き直されるという命題は、歴史が単なる過去の記憶きおくではなく、あるいは、歴史家の偏見へんけん憶測おくそくの産物でもなく、時代が新たに提起する問題を証拠しょうこと推論によって解決する学問的認識方法のひとつであるとする規定になんら背反するものではありません。

(E.H.Carr(一八九二〜一九八二) イギリスの歴史家)
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a 長文 8.4週 nnzi
 「カセット」というと、いまではひとは普通ふつうカセット・テープのことを考えるだろうが、もともとは宝石などを容れる小箱、つまり「宝石箱」のことである。だから、「カセット効果」というのは、外国語や外来語をカタカナで表記することで、ことばを、中の見えない宝石箱に容れて、明確な概念がいねんや意味よりも、いかにもありがたそうにムード化して示す効果を意味している。
 しかも、それらの外国語のカタカナ表記は、多くの場合、門外漢にとっては原語を調べようにも調べられないかたちに縮約されているので、たちまち隠語いんごと化してしまう。このような隠語いんごたるやしばしば専門家たちの合言葉にもステータス・シンボル――これも外国語のカタカナ表記だが――にもなるのだから、手に負えないのである。原語の概念がいねんを明らかに示すためには、ときによっては、思い切って翻訳ほんやくした方がいい、と思うのである。
 その点で、日頃ひごろから私が感心しているのは、現代中国語では、コンピュータのことを「電脳」、プライマリ・ケアのことを「全科医療いりょう」、ファジー工学のことを「模糊もこ工程学」と思い切って意訳していることである。このうちコンピュータ→「電脳」は、脳機能の一部の外化を示していて的確なだけでなく、英語の「computer」やフランス語の「ordinateur」が依然としていぜん   「計算機」に囚われとら  ていることを思えば、実体の表現としてすぐれている。
 プライマリ・ケア→「全科医療いりょう」となると、さらに傑作けっさくである。プライマリ・ケアのプライマリは、プライマリ・スクール(小学校)のプライマリ、「基本の」ということを表わすとともに、プライマリ・ゴール(主要目的)のプライマリ、目的のうち「第一番目に重要な」ということを表わしている。(この全科といえば、かつて小学校の全教科の参考書が『××全科』と呼ばれていたことを思い出す。)日本語ではこれまでに決まった訳語がない。「基本医療いりょう」とか「一次医療いりょう」とかという訳語はあるが、十分にその意味を表わし切っていない。
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 もちろん、日本語の特徴とくちょうは、漢字仮名――この場合には、ひらがな――まじり文からなる上に、どんな外国語・外来語でもカタカナで近似的に音写することで、自国語の構文を壊さこわ ずにそのなかに取り込めると こ  ことにある。これはたいへん便利なことであり、このような日本語の持つ柔軟性じゅうなんせいは、日本の経済発展や諸外国の文化を採り入れる上で、少なからず役立っている。しかし、その反面で、日本語のなかにカタカナの外来語や外国語がとかく感覚的、気分的に安易に導入され、意味がよくわからずに感じだけで使われることに対しては、野放しにしておくべきではなかろう。
 たしかに漢字によって意訳せずにカタカナで音写しておけば、原語の持つ多義性を保存できた「気分」になれる上、新鮮しんせんな感じがするし輝いかがや て見えることもある。だから、学術用語としてばかりでなく、広告・宣伝用語としても、新社名としても、カタカナの外国語が好んで使われるのである。この「カタカナの外国語」は、もうすでに日本語になっていると言ってもいいので、排除はいじょすることなどできないが、それだけに、漢字による意訳に対するのと同じくらいの「うるさい眼」を、「カタカナの外国語」の使用法には持つべきであろう。

(中村雄二郎ゆうじろうインフォームド・コンセント            」による)
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a 長文 9.1週 nnzi
 現代の科学技術のひとつである電気的な通信手段が「フェイス・トゥー・フェイス・コミュニケーション」ならぬいわば「テレ・コミュニケーション」を高度に可能にした。たとえば、われわれは自分の眼前には存在していない事象、場合によってははるか遠隔えんかくのところに存在している事象をテレビジョンによって見る。こうした仕方で、放送、新聞、週刊誌などを通して、つまりは、直接にではなく、メディアを介しかい た「写し(コピー)」によって、われわれは現実を知っている。いや、知っているつもりになっている。「他の世界」も、このようなかたちで知っているつもりになっている現実のひとつである。
 しかし、「写し」は「オリジナル」と同じではない。「写し」がどこまで「オリジナル」に近いかは、一律には論じられないが、「現実」が「オリジナル」である場合、その「写し」としての情報はいずれにしてもいわば「擬似ぎじ現実」である。
 この「擬似ぎじ」という重大な性格は、情報という擬似ぎじ現実の場合には、避けるさ  ことができない。情報メディアというものは、単なる伝送メディアではなく、必要に応じて変形したり加工したりするメディアであるからである。この、必要に応じて変形したり加工したりするメディアであるということと、情報メディアが科学技術的な電気メディアとして発達しているということとは、密接不可分である。
 情報という擬似ぎじ現実は、伝送(具体的には、電送)されてきたものであるだけではなく、必要に応じて変形されたり加工されたりしてきている。
 (中略)
 情報の変形と加工は、きわめて組織的に、また「公的に」なされることすら、ありうる。それゆえ、現代のわれわれが「他の世界」をどう見るか、見ているか、ということは、重要な次元で社会体制とも関係がある。情報メディアを制する者がひとびとの世界観を制する、という事態にもなりかねない。
 「他の世界」というものの存在をこれほど強く実感し、「他の世界」のありさまについて、多くのひとびとがこれほどたくさんのことを知っているということは、過去のどの時代にもなかったことであり、このことは、明らかに、現代のひとつの重要な性格である。
 現代の……と言っても、もちろん、右のことは現代の全世界に共通に、同じ程度に見られる事態ではなく右のことが顕著けんちょに見られ
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るのは、いわゆる先進諸国においてである。現代日本がその一例であり、いや、一例と言うよりも、諸局面でさまざまな「他の世界」が取り込まと こ れて存在し、ひとびとがきわめて身近なところでそれらに接しながら生活しているひとつの顕著けんちょな例とも言うべきものが、今日の日本である。
 今日の日本のまず衣食住の場面に、実に多種多様な「他の世界」が取り込まと こ れている。世界中に、あるいは地球上に、多くの地域や国が存在し、さまざまな生活形態や文化、そして、ものの見方考え方が存在するということを、われわれはすでに衣食住の場面で、もはやそのことをあらためて意識することがないという場合も少なくないほど、よく知っている。たとえば、「衣」。今日では、どんなに珍しいめずら  民族衣装を着たひとに出会っても、そのデザインや色がらに関して「珍しいめずら  」という感じ方はするにしても、そうした衣装も存在し、そうした衣装がふつうであるひとびとも存在するということは、われわれはよく承知している。「食」と「住」についても同様であり、とくに今日の日本では、実にさまざまな「他の世界」の「食」と「住」に関心が持たれ、その相当部分は自分たちの食生活と住生活に取り込まと こ れている。そして、このような衣食住のレヴェルでの実感に支えられて、それより抽象ちゅうしょう的なレヴェルでの、「他の世界」の文化やものの見方考え方というようなものの存在もわれわれはよく知っている。(中略)
 現代における情報メディアの発達は、その根幹において、ネットワーク化というかたちで進みつつある。われわれは、多種多様な情報を多量に獲得かくとくして、「他の世界」についての自分なりに知識を積み重ね、自分の責任で判断をしているつもりになっている。「価値観の多様化」というようなことが言われるのも、そのような「つもり」の一局面である。しかし、「どこかで、その必要に応じて、変形されたり加工された、本質において同じ」情報によって、多くのひとびとが同じ方向へと方向づけられているということになっているかもしれない。現代は、その意味で、「他の世界」が実ははなはだ見えにくい時代であり、現代人が抱いいだ ている世界観は、少なくともこの意味で、はなはだ危ういものでしかない。

(増成隆士たかし『(新てい)現代の人間観と世界観』(放送大学教育振興しんこう会、一九九二年))
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 後世から振り返っふ かえ たとき、大山鳴動の「オウム」事件は、どんな意味をもって見えるだろうか。追及ついきゅうされている疑惑ぎわくが実証されて、犯罪史上の一大事件として想起されるか。あるいは手段と規模が特異なだけで、本質的には平凡へいぼん凶悪きょうあく事件として語られているだろうか。なにしろ狂信きょうしん的な閉鎖へいさ集団も、目的なき犯罪も、浄化じょうかのための民族抹殺まっさつも、歴史には多くの先例があるからである。
 だが一つだけ、この教団が明白に特異な点は、それが工業社会の漫画まんがのような組織であり、裏腹に、宗教の持つ芸術的な表現力を完全に欠如けつじょした集団だということである。
 神域に工場群が林立し、自称じしょうによれば、農業の生産性を工業なみにあげる農薬が製造されている。信徒の悟りさと もヘッドギアと薬物で機械的に増産され、医師の手で効率よく管理される。組織には正大師、正師など企業きぎょう顔負けの地位序列が用意され、お布施 ふせの営業成績をあげれば出世が保証される。弁護士の威勢いせいがいいのも工業社会の特色だろうし、幹部に工、医、法学部が目立って、文学部のかげ薄いうす のは象徴しょうちょう的である。
 一方、この教団には通例の豪華ごうか神殿しんでんがなく、修行場は粗末そまつなバラックだし、都心の本部は凡庸ぼんような事務所ビルである。とくに神像が発泡スチロールはっぽう     製で、工場の目隠しめかく に使われていたというのは宗教史上の珍事ちんじだろう。制服の無趣味むしゅみはよいとして、儀式ぎしきの演出の稚拙ちせつは目を覆うおお ばかり、歌や踊りおど は幼児なみである。当然、この教団には大衆的な祭典がなく、花火もマスゲームも護摩ごま供養もない。かつて総選挙に出た幹部の仮面踊りおど など、演劇的には「感情異化効果」の極致きょくちに達していた。
 要するに、この教団は初期工業時代の遺物にほかならず、ポスト工業社会の感性に欠けているのだが、おそらくそのこと自体、現代社会心理の病弊びょうへいを体現しているのである。
 近代とは、個人にとっては業績達成の時代であり、財と地位による自己実現の時代であった。万人が「何者か」になりうるはずだ
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と教えられ、できなければ世の中が悪いのだと扇動せんどうされる時代であった。これはもちろんきれい事のうそであるから、民衆は構造的に不満に駆らか れるのであるが、しかし、企業きぎょう組織が確立すると事態はややましになった。企業きぎょうには人事評価の公平な基準があると信じられたし、人は身近の顔見知りと競争して、互いたが の実力を見る機会が持てた。他人との具体的な比較ひかくによって、己の「分を知り」、勝敗を納得することができたのである。
 不幸なのは、昨今この企業きぎょうが人の意識のうえで小さくなり、個人が海のような大衆社会にじかに触れふ 始めたことであった。脱サラだつ  やフリーターが流行し、休日が増え寿命じゅみょうが延び、人が企業きぎょう外で生きる時間が多くなった。若者を中心に企業きぎょうへの帰属感が弱まり、評価基準への信頼しんらい薄まりうす  、その分だけ消費による自己実現と、流行という匿名とくめい世界への参加の機会が増えた。だれもが自由になる半面、分を知ることが難しくなり、顔の見えない他人と自分を比較ひかくして、限度のない自己実現を迫らせま れる程度が増したのである。(中略)
 だとすれば問題の抜本ばっぽん解決法は、自己実現社会の転換てんかんであり、達成への脅迫きょうはくからの解放だろうが、それには近代のもう一つの原理である、自己「表現」を奨励しょうれいする以外にはあるまい。表現は実現と違っちが て、財や地位の量的な尺度で計られず、魅力みりょくを理解する親しい他人の目があれば足りる。それは閉鎖へいさ的な階層組織ではなく、相互そうごに顔の見える柔らかやわ  な社交の集団を作り、人はその小世界で認められることで、「何者か」であることができる。例えば、黒人ゴスペルのあの熱烈ねつれつな合唱を聴いき た人なら、人に表現があるかぎり、どんな宗教的熱狂ねっきょうも必ずしも暴力を生まないことを知るであろう。

(朝日新聞「論壇ろんだん」1995より引用)
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 環境かんきょうサミットとかしょうする会議があるというんで、マスコミは「環境かんきょう環境かんきょう」って大騒ぎおおさわ 。と思ったら、とたんに政治家は「環境かんきょう税」なんて言い出すんだから、全く人をバカにしているよ。
 オイラなんか「地球にやさしく」なんて言葉を聞くと鳥肌とりはだがたってくる。前から言ってるように「地球にやさしく」したかったら、人間殺せって。この地球上で六〇億もの人間が、なんとかかんとか食っていかなきゃならないんだからね。「地球にやさしく」なんかできるか。
 その上、「地球を救え」なんて言うやつまでいる。そういう連中はついこの間までは、「人間の命は地球より重い」って言ってたんだよ。今度は地球の方が大事になったのか。
 地球なんて、救わなくたって、四五億年も前から、小惑星しょうわくせいとぶつかろうが、氷づけになろうが、淡々たんたんと回ってきたんだろう。人間なんか絶滅ぜつめつしようがどうしようが、地球はこの先充分じゅうぶんやって行ける。
 地球上の生物で、人間がここまで絶滅ぜつめつしないで勝ち抜いか ぬ てきたのは、ひたすら数を増やすということに、優秀ゆうしゅうだったからだろう。
 その代わり、随分ずいぶんいろんな生物を絶滅ぜつめつさせてきた。それは、人間に害があるものだったんだね。天然痘てんねんとうだろうと結核けっかくきんだろうと、みんな人間に害があるからといって絶滅ぜつめつさせてきた。
 だけど人間に害があるものでも、地球環境かんきょう全体から考えれば、案外必要なものかもしれないよ。
 環境かんきょうサミットの本音は、「地球にやさしく」じゃなくて、「人間に一番都合のいい地球をつくる」ためにはどうしたらいいかということだろう。
 もっと言えば、一部の先進諸国の人間にとって都合のいい地球の作り方に過ぎないんだよ。
 ブラジルの森林伐採ばっさいは止めようと言っているけど、ブラジルで暮している人は、それをしなきゃ食えないのにどうしてくれるということになる。
 ヘビースモーカーだった巨泉きょせんさんみたいなものだな。さんざん
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タバコを吸ってたあげくに、身体に悪いから止めようとなると、他のやつにも絶対吸わせない。「タバコ、やめろよ、おまえ」なんて。この前まですぱすぱ吸ってた自分は何なのって言いたくなる。
 二〇さいになって、さあこれからタバコを始めようっていうやつに吸うんじゃないって怒っおこ ているようなもんでさ。止めるんだったら、巨泉きょせんさんと同じぐらい吸ってから止めたいよ。
 今まで先進国と言われたやつらがやったことと同じことを発展途上とじょう国の人たちがやってから、初めて、もう止めましょうって言うならわかる。毛皮でも何でも取り放題取った後、もう自然が危ないから止めましょうと言ったって困るよ。毛皮が着られなくなったら、エスキモーはどうしたらいいの。凍死とうししちゃうじゃないか。何でも自然のままがいいなんてはずはない。
 昔みたいに砂ぼこりをあげる道と、全部アスファルトで舗装ほそうされて、そんなにほこりが舞い上がらま あ  ないのとどっちがいいか。くつ汚れよご ない、ほこりが舞い上がらま あ  ない方がいいに決まってるんじゃないか。
 ところが一部に、ほこりを舞いま 上げたい連中がいるんだね。有機農法の虫食いの野菜の方がおいしい、やっぱりきれいな野菜はよくないなんて言う。もともと人間が食べるために栽培さいばいされた穀物や野菜が自然のままであるはずがないんだよ。
 自然食品という言葉自体が矛盾むじゅんしている。食品という以上、何らかの加工をしているんだからね。農薬を初めとする化学薬品の毒性は厳しい基準があるけれど、自然の植物が持っている毒性には規制がないから、かえって自然のままの食物のほうが恐ろしいおそ   という話を聞いたことがある。
 だいたい、品種改良とか自然に挑戦ちょうせんしてきた昔の人たちの努力があったから、こんなに多くの人間が食えるようになったんじゃないのか。

(ビートたけし「みんな自分がわからない」より)
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 生成という時、死滅しめつを反対概念がいねんとして排除はいじょするかと思われるが、「おのずから」の中核ちゅうかく的意味内容としての生成は、死をつつみこえるものとしての生成である。元和年間(一六一五―二四)に書かれた『見聞愚案ぐあん記』に、「世話に、自然じねん呉音ごおんへば自然天地の様に心得、自然しぜんと漢音にへば、もしの様に心得るなり」とあるという。特に中世において顕著けんちょであるが、自然はジネンと訓まれる時、今日一般いっぱんにいう自然・必然の意となり、シゼンとまれる時、偶然ぐうぜん・万一の意となったことが知られる。このように、「おのずから」も自然も、一見、相反する二義を持っていた。特に「シゼンの事」が万一の最たる死そのものを意味することもあったことが注目される。
 どうしてこのような相反する二義を「おのずから」・自然がもつことになったかが問題であるが、人間にとって死のような不慮ふりょな事態も、あるいは偶然ぐうぜんと思われる事態も、高い次元に立つ時、成り行きとして当然のこととして受けとめられるという理解があったからではないかと思われる。高い次元に立つとは、宇宙的地平に立つことではないであろうか。宇宙的地平に立つ時には、人間に万一・偶然ぐうぜんとして受けとられる事態も、当然の成り行きと受けとられる事態と何ら変るものではなく、したがって一つの「おのずから」、一つの自然に統括とうかつしうると理解されたのではないだろうか。
 たとえば、世阿弥ぜあみわき能『養老』に次のようなことばがある。「それ行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。流れに浮ぶうか うたかたは、かつ消えかつ結んで、久しく澄めす る色とかや。」いうまでもなくこれは鴨長明かものちょうめいの『方丈ほうじょう記』冒頭ぼうとうの文をうけて、これをわば逆転させたものである。後半を長明は「淀みよど 浮ぶうか うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例なし」と仏教的な無常観を語っていた。しかし、同じ『方丈ほうじょう記』の「不知。生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る」などとともに、ここには日本人のより一般いっぱん的な実存感覚が示されているのではないで
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あろうか。だが、ここでいたいのは、世阿弥ぜあみが、その実存感覚をつつみこえ、これを「久しく澄めす る色とかや」と無窮むきゅうの流れを謡っうた ていることである。うたかたの浮沈ふちんをつつみこえる無窮むきゅうの流れが語られている。それは人間の死をこえる宇宙の無窮むきゅうの生成を思うものであろう。「何方より来たりて、何方へか去る」も、『養老』においては、無窮むきゅうの生成から成り来たり、生成そのものへ帰することになるであろう。「おのずから」や自然の二義性も、このような事例によれば納得しうるであろう。
 宇宙を無窮むきゅうの生成とみるが故に、人間は万一の事態を、また死を「あきらめ」ることができた。「あきらめ」は、日本人の伝統的な死生観の最も根源をなすものであるが、それがこのように「おのずから」としての自然観によってはじめて可能であったことは注目される。ここにう「あきらめ」は、今日、日常的な場でわれる消極的なものではなく、それなりに精神的な緊張きんちょうの高い「あきらめ」である。武士が強調し、その行動性の精神的な心構えとした覚悟かくごも、この「あきらめ」をふまえたものである。
「あきらめ」は、己れの願望、広くはこの世の生の肯定こうていをふくんでいる。肯定こうていしつつもなおそれを思い切るのがまさに「あきらめ」である。ところで日本人は、時に現実主義的な人間であるとわれる。しかしまた、日本人ほど生に恬淡てんたんであり死に親近感をもつものはないとわれる。この相い反するような二つの指摘してきも「おのずから」の生成という宇宙観をもってくることによって統一的に理解される。それは、この世の生は無窮むきゅうの生成より成り現われたものであり、この世の生に生きること自体が無窮むきゅうの生成の一齣ひとこまに生きることであったからである。ここから現実肯定こうてい的な姿勢が生れた。しかしまた、死は無窮むきゅうの生成そのものに帰することであり、生の終りを悲しみつつもなお「あきらめ」うるものであった。

(相良「「おのずから」としての自然」(一九八七年)による)
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