a 長文 10.1週 nnzu2
 キャラ的なコミュニケーションには、本来はわかりにくいのが当たり前の内面的な人格を視覚化し、わかりやすくしようという社会的要請ようせいもあると言っていい。キャラ化は言うまでもなく人格の視覚化であり、記号化という側面を持つ。わかりにくさを忌み嫌うい きら 現代社会においては、人間の内面さえも単純に記号化しないではいられないのかも知れない。考えてみれば、アニメやマンガのキャラは、制作の過程でなんらかの役割を持たされるため、他のキャラとかぶることはあり得ない。もし、キャラがかぶるようであれば、それは当然、制作途上とじょう排除はいじょされる。もちろんキャラが立たないものは論外だ。
 こうやってみると、若者たちのコミュニケーションの所作は、まさにアニメ・マンガにおけるキャラ作りの状況じょうきょうと極めて近いと言うことができる。そして、まるで制作者というメタ物語的な視点からの監視かんしにおびえるかのように、彼らかれ は自分の立ち位置をいつも気にしながら生きているのである。
 コミュニケーションとは本来、相互そうごの人間関係強化へと向かうはずのものだ。知らない者同士がコミュニケーションを通じて深く関係を構築していくというわけだ。しかし、若者たちのキャラ・コミュニケーションでは既にすで 相互そうごの関係は表層的に成立してしまっている。そして、それ以上の深入りはご法度なのである。
 関係はタテに深まることはなく、その場に浮遊ふゆうしたまま、ヨコヘヨコヘと際限なく広がっていく。一見内面を吐露とろしあっているかに見えるブログのコミュニケーションも、いわば「ネタ」であり、それにお決まりのコメントをつけるという関係が際限なく繰り返さく かえ れるのだ。今の若者たちが、表層的な関係の友だちを信じられないほど多く持っているのは、まさにそういった関係のゆえだ。ここでは、コミュニケーションそのものがキャラになっているとも言えるのである。
 キャラ化はまた、お約束のコミュニケーション手法でもある。あらかじめ決められたキャラを前提に、フリとツッコミを繰り返しく かえ 、笑いを作る。若者たちのコミュニケーションは、基本的にその繰り返しく かえ だ。これは、コミュニケーションを常に想定内に収めるための技術だと言ってもいい。
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 アニメやマンガのキャラが決して決められた以外の振る舞いふ ま をしないように、若者たちのコミュニケーションもまた、自由闊達かったつ素振りそぶ をしながら、お約束の範囲はんいを絶対に出ないように細心の注意が払わはら れてもいるのだ。さらに言えば、笑いはコミュニケーションの広がりを防止する作用を持つ。だれかのツッコミにみんなが笑う。まただれかがツッコみ、みんなが笑う。コミュニケーションはいつもそこで終わり、次には続いていかない。これもコミュニケーションが思わぬ展開になることを防ぐ機能だと言っていい。
 ここでも、若者たちは生身のコミュニケーションのあり方に対して、ある種のおびえを感じているように見える。「お約束」「役割」のないストレートなコミュニケーションや、自分の予想を超えこ た未知なるコミュニケーションの広がりに対する強い拒否きょひ反応があるのではないだろうか。
 そう考えると、若者たちにとってのコミュニケーションとは、そもそも、「アニメやマンガのシナリオ=お約束」の世界の中で行われる儀式ぎしきのようなものなのかも知れない。だからこそ安心して、そこに「居場所」を持っていられるということなのだ。
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a 長文 10.2週 nnzu2
 化粧けしょうすることや食べることを始めとする、電車の中での人前での行為こういについては、すでにいろいろ論じられている。一つは、若い人々は、他人に対して透明とうめいなバリヤのようなものを張り巡らしは めぐ  て、自分の空間を遮断しゃだんしているから、人中での化粧けしょうも食事も平気なのだという言い方。つまり、彼らかれ の前には他人はいるのだが、いないも同然だから見られても平気だというのだ。もう一つは、今の若い人々の間でプライベート空間についての考え方の変化が起こったという言い方。つまり、自分の部屋が電車の中にそのまま移動したような感覚をもっているから、座席に坐りすわ ながら音楽を聞いたり、漫画まんがを見たり、勉強をしたり、化粧けしょうをしたり、食事をしたりすることに何の抵抗ていこうもないのだそうだ。彼らかれ の間では、公的空間と私的空間の区別はもはや意味をもたない。二つは溶け合いと あ 、境界は不分明になり、自分のいるところはいつでもプライベート空間に変貌へんぼうする。
 なるほど、目の前には、となりには、他人はいるが、しかし彼らかれ は単にそこに居合わせただけであって、そのことによって自分たちの行為こういが変わるわけではない。他人に迷惑めいわくさえかけなければ、化粧けしょうも食事もウォークマンもいいではないか。自分の坐っすわ ている場所は、自分の空間、要するに、プライベート空間なのである。バリヤでもプライベート空間でも、自分たちの周囲には透明とうめいな幕が張り巡らさは めぐ  れていて、そこには他人は入ることはできない。だから、そばに他人がいても、その他人が彼らかれ の関心をひくことはない。かくして、実に奇妙きみょうな光景が電車の中に現れることになる。
 だが、本当にそうだろうか。わたしはむしろ逆の事態が起こっているのではないかと考えている。そこにあるのは、他人への無関心ではなく、逆に他人視線への強い欲望なのではないか。要するに、他人がいるのにその他人への心が働かないというのではなく、それは今までとは違うちが 、自分を現す一つの方なのではないか。実は、彼らかれ は自分たちの行為こういをもっと見てもらいたいではないか。あれらの現象は、誰かだれ に見られたい、人々に注目されたい、みなの中
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で目立ちたいという欲求が日常の場面にまで及んおよ で、今や人々の根源的欲求になったということを示しているのではないだろうか。電車の中で突飛とっぴな行動をしたり奇声きせいを発したりすることで、人々の関心を買うといったことならば、別にどうということはない。私が奇妙きみょうこわさを感じるのは、そこにそういう何か特別のことで見られたいというのではない欲求が働いているのではないかと思われる点なのだ。
 それは単に、見られたい、注目されたい、目立ちたいというのではなく、見られることでしか自分の存在を確認することができないというあり方、誰かだれ に見てもらわないと何もできないし、見てもらわないと困るといったような欲求の切実さである。しかもそれが反復的な日常の基本動作にまで及んおよ でいるという事態にこれまでとは違うちが こわさがある。だからこそ、今までは家の中で行われていた日常のありふれた行為こういが人前に現れることになったのではないか。私はこの日常のありふれた行為こういの出現に気持の悪さを感じる。朝食をとることや、化粧けしょうをしたりすることは、顔を洗ったり、歯をみがいたりすることと同様に、家の中での行為こういだった。日常を支える基本的行為こういは、だれにとってもありふれたもので、それゆえ人目を引くものではない。しかし、だからこそ、その行為こういは自分の生を作る自明な繰り返しく かえ として家の中の生活習慣であり続けた。そのような日常の生活習慣は、他人に関わる行為こういではなく、自分自身に関わること、自分自身の世話をすることとして、自分の生活の基本になっている。それは他人に見られるからするのではなく、自分が自分のために自らするのである。
 この基本が壊れこわ つつあるのではないか。自分の世話が自分でできなくなっているのではないか。睡眠すいみん排泄はいせつ、洗顔、歯磨きはみが 、食事などを始め、日常生活の細部に渡っわた て、自分が自分の生活を配慮はいりょすること、つまり、自己への配慮はいりょ崩れくず 、それさえも他人による支えが必要なのだとしたら、これはほとんど親という他人の配慮はいりょのもとでしか生存できない子供の世界ということになるのではないか。
(庭田茂吉「ミニマ・フィロソフィア」より)
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a 長文 10.3週 nnzu2
 「極東の島国日本」などとしばしばいわれるように、日本を孤立こりつした「島国」とする見方は、おそらく現代日本人の圧倒的あっとうてき多数の常識であり、これまでの多くの日本人論、日本文化論もそれを大前提として論じられてきたといってよい。
 そして日本の「島国」であることが強調される場合、そこには対立する二つの文脈があったと思われる。その一つは、とくに敗戦後、日本の国際社会への復帰に当って、それまでの独善的、閉鎖へいさ的な日本人のあり方に対する反省が強く求められたさいなどに強調された文脈で、「島国根性の打破」「島国性の克服こくふく」がこの中で声高に叫ばさけ れたのであり、現在もなお同じ方向でこうした主張が展開されることが多い。
 これに対し、他の一つとして、「島国」であることに日本人、日本文化の独自性、均質性の基盤きばんを求める文脈があり、この見方は海によって周辺の世界から隔てへだ られ、また海に守られることによって他民族による軍事的な侵略しんりゃくをまぬかれ、政治的な支配を受けることなく周辺から技術、文化を吸収、「島国」の中でそれを熟成してきたところに、日本文化の特質を見出そうとする。それは日本が「島国」であることに積極的な意味を求めようとする見方で、現在の日本文化論の中で、こうした立場に立つ見解は多い。
 この二つの見方は、まったく相反する方向から日本をとらえており、前者は「近代化論」につながる志向を持つのに対し、後者は日本文化の独自性を強調し、ときに天皇が長期にわたって日本列島の国家に関わりつづけてきたことを賛美する方向に進む場合も見られる。とはいえ、この両者はともに共通した「日本は島国」という認識の上に立っている。そしてたしかに現在の日本国が島によって構成された国―「島国」であることはまぎれもない事実であり、この点についてはあたかも異論の入る余地のまったくない「常識」であるかの如くごと に見えるのである。
 しかし一歩突き放しつ はな てこの「常識」を見直してみると、それがしばしばきわめて底の浅い、偏っかたよ た見方であることはただちに明白になる。
 そもそも日本国が現在の島々から成り立つようになったのは敗戦後のことで、中国東北、朝鮮半島ちょうせんはんとうを植民地としていた「大日本帝国だいにっぽんていこく」の時代はそうでなかったという自明な事実――それが
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いかに嫌悪けんおすべき状況じょうきょうであったとしても――を想起する必要がある。この「常識」の基礎きそがまことに不安定であることはこれによっても明らかであろう。
 それとともに、この「常識」の中では、「島国」を構成する島は本州・四国・九州を中心とする島々に限定され、北海道・沖縄おきなわがほとんど欠落することになっている場合が多い。そしてそれを意識した議論の場合でも、琉球りゅうきゅう、アイヌの問題は「日本文化」の源流、古層としてとり上げられるにとどまり、日本列島の人間社会の歴史全体の中で、その独自な位置づけを与えあた られることはない、といってよかろう。
 そしてなによりも不思議なことは、「島国論」に基づく日本論が、現在の日本国内の島々の間の海のみを、人と人とを結びつけるものとし、他の海のすべてを、人と人とを隔てるへだ  海としている点である。しかしなみ荒いあら 玄界灘げんかいなだ隔てへだ た九州と対馬の間に人びとの文化の交流が縄文じょうもん時代以来あったとしながら、ドーバー海峡かいきょうほどではないにせよ、狭いせま 対馬と朝鮮半島ちょうせんはんとうとの間の海―朝鮮ちょうせん海峡かいきょうが人と人とを隔離かくりしたなどと考える議論の不自然さは、だれが見ても明らかであろう。また南九州と奄美あまみ沖縄おきなわとの間に文化の交流があったとすれば、宮古、八重山と台湾たいわんとの間に同じことのあったのは当然であり、東北と北海道の間の海が人と人とを結ぶならば、北海道とサハリン、沿海州との間の海が同じ役割をしないはずはないのである。
 「島国論」が成り立つためには、このあまりにも当然な事実が無視されなくてはならないのである。それゆえ、こうした「日本島国論」は根本的に、現在の日本国の国境に規定された俗説ぞくせつ、国家そのものをつくりだした「虚構きょこう」であり、その非歴史性、一面性のゆえに、たやすく政治的なイデオロギーに転化しうる議論、と私は考える。

網野善彦「日本論の視座」より)
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a 長文 10.4週 nnzu2
 じつは、物理や化学の研究者のあいだでは抄録しょうろく誌の利用率は、一部の化学者を除いて、それほど高くないのである。
 その一つの理由として、研究者にとっては論文は要約だけでは役に立たないことがあげられる。もっとも要約されたかたちの抄録しょうろくは有用であり、必要である。しかし、かれ自身の研究に直接に関連のある研究であれば、抄録しょうろくを読んだだけで用がすむということはあり得ない。本文を読もうと決心した途端とたんに、かれにとっては著者抄録しょうろくは意味を失う。著者抄録しょうろくは著者の目で見た内容抄録しょうろくであり、かれは自分の目でその論文を読むのだからである。論文のなかで、著者はかれの代わりに実験や計算をやってくれている。かれは、著者とともに考えを進め、しばしば著者のやり方に不満をおぼえ、時として著者と反対の結論に到達とうたつする! それは一種の創造の過程と言っていいかもしれない。こういう読者にとっては、要約は単にきっかけを与えあた てくれるにすぎず、その集録である抄録しょうろく誌に目をさらす時間はどちらかというと空しいものと感じられる。
 結果だけを必要とする読者は要約集で用が足りる。その先をめざす読者にとっては、第一線の結果の羅列られつよりも一つ一つの結果が得られた過程のほうが大切なことが多い。本論文を通じて著者とともに創造の過程に参画してはじめて、将来の展望がひらけるからである。
 最良の要約は、あるいは、発展の機縁きえんを生むだけのものを内蔵しているかもしれない。しかし、それを読み解くには、鉛筆えんぴつを片手に本論文のなかの計算を追跡ついせきする以上の努力がいるだろう。

 要約精神の権化は教科書である。高校の物理の教科書は、アルキメデス以来の物理学者がつみ上げてきたものの要約だ。学問は日に日に進むから、要約すべき素材は年々ふえる。教育にあてるべき若年の期間はかぎられているから、教科書の厚さはふやせない。何を捨て、何をえらぶか――二千年の物理学をいかに要約・抄録しょうろくして読者を今日の視点に近づけるか――は教科書の筆者の最大の問題である。
 そういう目で見ると、今日の教科書は、どれをとってみてもかなりよくできている。よくまあこんなにつめこめたと思うくらい
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だ。しかしそれは抄録しょうろくであるがゆえに「つまらない」という宿命をもっている。抄録しょうろくの集積をよみつづけることができるのは、はっきりした目的をもって何かを探し求めている人――ロケット技術者――か、たちまち眼光紙背がんこうしはい徹してっ てその抄録しょうろくの秘めているものを見ぬくことのできるえらい人だけだ。高校生はどちらでもないから、彼らかれ にとって教科書がつまらないのは、石を投げれば下に落ちると同じぐらい自然な話である。私の知っているある大学生の話では、彼女かのじょの高校の物理の時間は、生徒が輪番りんばんに教科書を音読する、P先生が「質問はありませんか」と言う、だまっていると「じゃ、次……」という調子だったそうだ。彼女かのじょが文系に進んだのは当然である。「P先生よ、地獄じごくに落ちろ!」だ。
 教科書が要約集であることは、まあ、仕方がなかろう。しかし、講義までが要約でいいという法はない。教科書の一ページの背後には厖大ぼうだいな研究があり、それらすべては自然そのものとのつき合いから生まれている。その創造の過程を解き明かし――歴史の話をするという意味ではない――生徒をその過程に招待するのが教育というものであろう。そんなことをしたら教科書全部はとてもやれない――そのとおり。教科書あるいは抄録しょうろく集というものは元来そういうふうに使うべきものなのだ。

 (木下是雄『日本語の思考法』より)
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a 長文 11.1週 nnzu2
 スポーツを観る経験の仕方はふたつある。ひとつはメディアによってスペクタクルとして受けとることである。それは消費行動になる。メディアはスポーツを記号化し、観戦者はそのなかに没入ぼつにゅうすることはないが、その記号を自分のペースで利用することができる。これはとくにテレビの場合に著しい。それは直接の体験ではないばかりではない。いつでもリプレイでき、画像を止めることも、そこに動きの説明を書き込むか こ こともできるからである。観戦する側は、スタジアムにいるわけではなく、自分の家の室内にいて、ときには別の行為こういをしながらときどき観るといった経験が可能である。スポーツは日常生活のなかに同化してしまうのであり、スポーツがわれわれを日常性から逸脱いつだつさせることはない。われわれはスポーツのみならず、スポーツする身体も消費しているのである。
 テレビによる経験は、最初からある距離きょりをとっているから、決して臨場的なエクスタシーを感じることはない。しかしこれはスポーツにたいして空間的、時間的に個人的な経験を拡大する。われわれは決して個人では経験できないいろいろな角度、いろいろな視野で観られるだけでなく、反復して観ることもできるし、スローで確かめることもできる。つまりスポーツをメディアが構成する言説として受けとる。これは特異な経験ではない。現代社会での経験は、生の出来事を経験するよりも言説に媒介ばいかいされた経験の方が正常だと言えるからである。衛星中継ちゅうけいの発達によってわれわれの経験する空間はネーションを超えこ てひろがり、日本にいながら世界のどこかで行われているゲームを観戦することができる。だがじかに目で観ている場合と、速度、力、全体の雰囲気ふんいき違っちが ている。テレビのカメラを通したものであるし、レンズやフレーム、クローズ・アップとロング・ショットというイメージ言説のモードは免れまぬか ない。
 しかしスタジアムに行くことは、すでにそのゲームの一部になることである。もちろん今そこで起こったことを再現して検証したり、ファウルをチェックしたりすることなどできない。それができないことは、スポーツ観戦が記号化できないことに他ならない。そのときテレビでは決してありえない絶対的瞬間しゅんかんを経験する。日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束こうそく)の状態にあ
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る。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが普通ふつうの状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から脱出だっしゅつする。少なくとも人びとは真の存在を回復したような錯覚さっかく陥るおちい 。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。
 言うまでもないがエクスタシーはスポーツの独占どくせん物ではない。芸術がもっとも深いエクスタシーを生みだしてきたであろうし、宗教も人をトランス状態に誘い込むさそ こ 。しかしスポーツは身体的であり、決して特別な感受性を必要とはしない。さらに今日では芸術にはむしろこうしたエクスタシーから遠ざかることが必要になっている。宗教はたんなるエクスタシーとは異なるものをもっている。そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化することは今日、もっとも普通ふつうの人間にエクスタシーを経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。ファシズムの集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインドの消滅しょうめつを意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの瞬間しゅんかんのもたらす幻覚げんかくは、日常を離脱りだつし、他界に触れふ 、真の存在を取りもどしたかのように錯覚さっかくさせることである。そうかんがえると政治がスポーツを利用したというより、スポーツこそ政治のモデルであったのかもしれない。
 しかし現代社会では今後ますますメディアの力はひろがり、直接的経験は少なくなる。このことは間違いまちが ない。言い換えるい か  と、スポーツはますます記号として消費される身体のパフォーマンスになる。これには明らかに二つの面がある。ひとつは、スポーツの結果が、結局は勝つか負けるかの二者択一にしゃたくいつに帰着すること。しかしもう一面では、その放映権料がスポーツを支え、巨大きょだいな資本の力は浸透しんとう度をさらに強めていくだろう。主体のない巨大きょだいな力がひろがる領域は、一見すると力の支配のメカニズムの場に見えるが、スポーツはそのメカニズムが単純なだけに、そのディジタルな競争の無限の反復は、反対に資本主義のモデルに見えるようになっていくだろう。
(多木ニ「スポーツを考える」より)
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a 長文 11.2週 nnzu2
 労働が私たちの社会的な存在のあり方そのものによって根源的に規定されてあるということには、三つの意味が含まふく れている。一つは、私たちの労働による生産物やサービス行動が、単に私たち自身に向かって投与とうよされたものではなく、同時に必ず、「だれか他の人のためのもの」という規定を帯びることである。
 自分のためだけの労働もあるのではないか、という反論があるかもしれない。なるほど、ロビンソン・クルーソー的な一人の孤立こりつした個人の自給自足的労働を極限として思い浮かべるおも う   ならば、どんな他者のためという規定も帯びない生産物やサービス活動を想定することは可能である。じっさい、私たちの文明生活においても、一人暮しにおける家事活動など、部分的にはこのような自分の身体の維持いじのみに当てられたとしか考えられない労働が存在しうる。
 しかし、そのようにして維持いじされた自分の身体は、ほとんどの場合、ただその維持いじのみを目的として終わることはなく、むしろ今度はそれ自身が他の外的な活動のために使用されることになる。また自分自身を直接に養う労働行為こういといえども、そこにはそれをなし得る一定の能力と技術が不可欠であり、それらを私たちは、ロビンソン・クルーソー的な孤立こりつに至るまでの生涯しょうがいのどこかで、「人間一般いっぱん」に施しほどこ うるものとして習い覚えたのである。自分自身を直接に養う労働行為こういにおいて、私たちは、「未来の自分」「いまだ自分ではない自分」を再生産するためにそれを行うのであるから、いわば、自分を「他者」であるかのように見なすことによってそれを実行しているのだ。自分一人のために技巧ぎこう凝らしこ  た料理を作ってみても、どことなくむなしい感じがつきまとうのはそのゆえである。
 さらに、私たちは、資本主義的な分業と交換こうかんと流通の体制、つまり商品経済の体制のなかで生きているという条件を取り払っと はら て、たとえば原始人は、閉ざされた自給自足体制をとっていたという「純粋じゅんすいモデル」を思い描きおも えが がちである。だが、いかなる小さな孤立こりつした原始的共同体といえども、その内部においては、ある一人の労働行為こういは、常に同時にその他の成員一般いっぱんのためという規定を帯
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びていたのである。つまり、ある一人の労働行為こういは、かれが属する社会のなかでの一定の役割を担うという意味から自由ではあり得なかった。
 労働の意義が、人間の社会存在的本質に宿っているということの第二の意味は、そもそもある労働が可能となるために、人は、他人の生産物やサービスを必要とするという点である。これもまた、いかなる原始共同体でも変わらない。実際に協業する場合はいうに及ばおよ ず、一見一人で労働する場合にも、その労働技術やそれに用いる道具や資材などから、他人の生産物やサービス活動の関与かんよ排除はいじょすることは難しい。すっかり排除はいじょしてしまったら、さるが木に登って木の実を採取する以上の大したことはできないであろう。
 そして第三の意味は、労働こそまさに、社会的な人間関係それ自体を形成する基礎きそ的な媒介ばいかいになっているという事実である。労働は人間精神の、身体を介しかい てのモノや行動への外化・表出形態の一つであるから、それははじめから関係的な行為こういであり、他者への呼びかけという根源的な動機を潜まひそ せている。
 人はそれぞれの置かれた条件を踏まえふ  て、それぞれの部署で自らの労働行為こういを社会に向かって投与とうよするが、それらの諸労働は、およそ、ある複数の人間行為こういの統合への見通しと目的とを持たずにばらばらに存在するということはあり得ず、だれかのそれへの気づきと関与かんよと参入とをはじめから「当てにしている」。そしてできあがった生産物や一定のサービス活動が、だれか他人によって所有されたり消費されたりすることもまた「当てにしている」。他人との協業や分業のあり方、またその成果が他人の手に落ちるあり方は、経済システムによってさまざまであり得るが、いずれにしても、そこには、労働行為こういというものが、社会的な共同性全体の連鎖れんさ的関係を通してその意味と本質を受け取るという原理が貫かつらぬ れている。労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須ひっす条件なのである。

小浜逸郎「人間はなぜ働かなくてはならないのか」より)
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a 長文 11.3週 nnzu2
 ガイドブック等で、見るべき価値があるものとして紹介しょうかいされたものを読んでいたのに、実際自分でその場所に出向いてみると、「裏切られた」と失望することもある。だがその様に失望することが何を意味するかを考えると、「既知きち感」に陥るおちい ことなく、自分自身の解釈かいしゃくが加わったと考えられる。これは少なくとも、自分自身が介在かいざいできたことを意味している。また事前にある程度の情報があったとしても、それ程心動かされないままに出向いて、実際自分の目で見回してみると、予想外に心に響いひび た事があれば、この場合も「既知きち感」に陥らおちい ずに、自分自身が介在かいざいして得られた発見であることは間違いまちが ない。
 あくまでも情報で得られた対象に関心を寄せ、目的と考えたものだけに焦点しょうてんを当てる、つまり極小点へ接近し、再確認することだけで納得する様な状態から、我々は逃れるのが  方法がないものなのだろうか。
 それは周囲を見渡すみわた 余裕よゆうを、積極的に引き出せるかに掛かっか  ている。というのも、その余裕よゆうを引き出すことができれば、フッとかたの力を抜きぬ 、周囲に目を向けて見られるようになるからだ。そして大切なのは、点へ接近することだけで終わらず、その点に留意しながらも、その点を少しでも広げることを意識することである。
 目的と考えた、その点に辿りたど 着くまでの間に何もないはずがなく、そこで何か拾おうとすることは、必然的に点的思考から線的思考へと移行する。つまり点的思考とは、たとえれば、目的地に辿りたど 着くまで、乗り物の中で居眠りいねむ して、着いた時にようやく目を覚まし、目的地だけを見てしまうことだ。線的思考とは、たとえ目的地に向かって乗り物に乗っていたとしても、その間居眠りいねむ することもなく、周囲の風景に目を凝らしこ  ながら乗っている状態である。当然、線的思考では乗り物を利用しなくても、徒歩でじっくり周囲に眼差しを注ぎながら目的地に向かうことも含まふく れる。
 また面的思考とは、点的思考、線的思考よりも、もっと広範囲こうはんいに眼差しを注ぐことである。点的思考、線的思考における点、線
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は、目的とする範囲はんいが限定されたものだが、面的思考になれば、目的地そのものが限定されない、つまりどこも目的地ではなくなるのだ。そのことを逆に言えば、周囲のどこでもが目的地になることだ。さらに上空に広がる大空間へといった、空間的思考になればもっと広がり、三次元空間において、きっと予想を越えるこ  発見が舞い降りま お てくる、言わば予感に満ちた状態を手に入れることができるだろう。
 既知きち感」は空間的に捉えとら た、点的思考、線的思考、面的思考、更にさら 空間的思考への関心に留まるものではない。新しく創作することにおいても「既知きち感」を持って臨んでいるか、臨んでいないかが、創造することを考える上で重要になる。
 新しく創作される時に、もし創作者が「既知きち感」を持って創作の方向性を決めていたとしたら、その時、創造することから大きく後退してしまうのではないだろうか。つまりその行為こういは、事前に見たり知識で得られたものに依っよ てイメージされたものがあり、そこに向かおうとすることに他ならず、先人達が成し遂げな と た形象や形態、あるいは考え方や論考等に近付こうとすることが、第一義となるからだ。確かに行為こういそのものに依っよ て何がしかが生み出されたとしても、創造性に関して言えば何も新しいことが生み出されないことになる。それはなぞりにしか過ぎない、あるいは模倣もほうでしかないと見なされる運命を辿るたど 
 もしそれ等を一旦いったんわきに置くことができずに、創作する方向性さえも同じ、つまり「既知きち感」を持ちつつ、なぞりや模倣もほうの域で終わるものになるなら、それは創作されたものとは決して見なされないのだ。
 もし「既知きち感」という手立てに対する意識から離れるはな  ことができれば、初めてその人にとって未知の世界が立ち現われたことを意味する。創造することとは、やはり未知の世界の中に自分が飛び込みと こ 、未知の世界の中から自分自身が必要な因子を拾い上げ、構築、あるいは再構築する作業であることを忘れてはならないのだ。

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長文 11.3週 nnzu2のつづき
 その意味において「既知きち感」は、事前に得られた情報、既にすで 世に出た作品等に頼るたよ ことなく、それぞれの局面において、いかに自分自身で発見できるかを問う、自分自身だけに与えあた られたリトマス紙の様な、大切な判断の手立てと言えるのだろう。

矢萩喜従「多中心の思考」より)
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a 長文 11.4週 nnzu2
 マナーの精神をもつ人とは、自制心・克己心こっきしん忍耐にんたい力をもつだけでは十分ではなく、さらにまた優しさや寛容かんようさや親切心をもつだけでも十分ではない。有用性を基にした目的的な企図きとを、気前よく破壊はかいする力を発揮できる必要がある。挨拶あいさつを例に取るなら、人は純粋じゅんすい贈与ぞうよによって、有用性に基づく交換こうかんから離脱りだつすることで、初めて本当に他者に頭を下げおじぎをすることができる。そのときになにが起きているのか。おじぎをする前のなにものにも依存いぞんすることのない姿勢とは、垂直に直立した姿勢であるが、おじぎによってその垂直の姿勢は折り曲げられ、エゴはかれ自己は他者に開かれ他者を招き入れることになる。相手に屈服くっぷくしたからでも、敵意をもっていないことを示すためでもなく、ただ自己を開いて差しだすこと、これが純粋じゅんすい贈与ぞうよのおじぎである。この瞬間しゅんかん、目的的生から解き放たれ、おじぎはそれ自体以外にいかなる目的ももつことのない聖なる瞬間しゅんかんを生みだす。挨拶あいさつのおじぎと私たちが神や仏の前で祈りいの 捧げるささ  姿勢とが類似しているのは、この両者が供犠くぎとして留保なく自己を差しだすこと、つまり純粋じゅんすい贈与ぞうよだからである。
 私たちは、おじぎをすることによって、一切の見返りなしに自己を他者の前に差しだすことがある。それはバルネラブルな状態に自らをさらけだしているといえるだろう。なぜなら、差しだされた「私」を、相手は無視したり拒否きょひしたりするかもしれないからだ。そのときには開かれ差しだされた自己は、ひどく傷つけられるだろう。もちろん反対に、差しだすことによって、相手の自己も折り曲げられ、相手から同様のおじぎを受け取ることになるかもしれない。しかし、そのような相手からの仕返しも見返りも計算することなく、私たちは自らを開き、無防備に自分を差しだす。こうして無条件に相手を招き入れる。私たちはおじぎをするたびに、大きな「かけ」をしているのである。
 自己が有用性に基づく交換こうかんから離脱りだつし、非―知の体験ともいうべき自己ならざるものに開かれることによって、初めて私たちは畏れおそ 歓喜かんきとを感じることができるのである。それは負い目を動機とする義務化した交換こうかんとしての挨拶あいさつではなく、純粋じゅんすい贈与ぞうよとして
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自己を差しだしたときに生じるのである。マナーの本性は純粋じゅんすい贈与ぞうよであり歓待かんたいなのだ。
 このような自己の境界線が溶解ようかいする非―知の体験の次元が感じられない人は、どのような場面においても、畏怖いふを感じることはない。そのような人は自己を破壊はかいすることなく、あくまで同一的な自己にとどまり、挨拶あいさつはたんなる形式的な社会的交換こうかんになってしまう。マナーがマニュアル化できる身体技法にすぎないのであれば、時間と熱意さえあれば、学校教育で教えることができるだろう。挨拶あいさつの仕方のみならず、魅力みりょく的な笑い方さえ、マニュアル化して教えることができる。しかし、それではマナーは人間関係を円滑えんかつにするための贈与ぞうよ交換こうかんの身体技法にすぎず、他者や自然や宇宙との生きた全体的な回路を開きはしない。そして身体は、自己から切り離さき はな れて、ますます自分にとって道具のようなものになってしまうだろう。これではやがてマナーは贈与ぞうよ交換こうかんでさえなくなる。どこまでも私たちは「空虚くうきょの感」「不満と不安の念」を抱きいだ 続けるしかない。

 (矢野智司贈与ぞうよ交換こうかんの教育学』による。)
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a 長文 12.1週 nnzu2
 「ソト」と「ウチ」という観念は、本来は、外部と内部との対としてなんの変哲へんてつもないものだが、和つじ哲郎てつろうあたりがこれに特別な意味づけをあたえて以来、日本文化の特徴とくちょうをあらわすのには欠かせない観念となってしまった。たとえば、個人主義的な欧米おうべい人にとっては、個人あるいは個室という究極の「ウチ」があり、屋内、近所、町、国などと、次第に「ソト」の度合いが強まっていくだけである。しかしながら、日本人にあっては、固いかくとしての個人はなく、「ウチ」と「ソト」とが常に相対的に入れ子状になり、そのつど自分を、「ウチ」となる準拠じゅんきょ集団の一員として規定し、その集団の価値観を自分の内部に取りこんでしまうというのである。
 したがって、夫が「ウチのひと」になったり、会社が「ウチの会社」になったりして、内部のはじはみんなで隠蔽いんぺいしたり、外部のことは笑ってすませたりすることにもなってくる。つまり、「ウチ」はベタベタ、「ソト」は切り捨てとなり、女房にょうぼうの深情けと知的無関心とが同居するようになるのである。
 さて、日本語の以心伝心は、まさしくこの「ウチ」において肥大し、情を中心にして蔓延まんえんする。おかげで、家庭的な「ミウチ」は欧米おうべいにくらべ、まだまだ情緒じょうちょ的安定を見せており、あの「メシ、フロ、ネル」ですんでもいるが、同心円的に広がっていく「ウチ」のかなりの部分では、他人への臆病おくびょうなまでの配慮はいりょが要求され、時に、強迫きょうはく的なものにさえなってる。したがって、たとえ中身は空っぽであっても、ある種のフォーマリティとしての言語が贈答ぞうとう品のように交換こうかんされ続け、しかるべき人には、時におうじて、恭順きょうじゅんの意を表する儀式ぎしきが欠かせないのである。ここには、情的なやりとりと、それとは一見、相いれないように思われる形式的な言語との共犯関係ができている。つまり空っぽのフォーマリティであっても、それを発すること自体が情の表明になるわけだ。こうした「ウチ」への配慮はいりょ、ムラ社会の体質は、大都会のただ中にある会社や自治体にさえ根づよく残り、世間体や、世間からの無言の圧力が、人々に同調・同化を求め、そこでの対話を切り捨てているとしても、何の不思議もありはしない。
 そんなわけで、対人関係は、この「ミウチ」「ウチ」「ソト」
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の区別によって大きく変わり、「ミウチ」には無遠慮ぶえんりょ、「ウチ」には多少の甘えあま 臆病おくびょうなまでの配慮はいりょ、「ソト」には、完全な無関心が占めるし  ことになる。取引先や社内ではペコペコして、あれほどにも譲りゆず あっていたサラリーマンが、帰りの電車のなかで隣りとな あわせた見ず知らずの人には、これほどにも不躾ぶしつけになれるというのも、その秘密はここにこそあるわけだ。
 ただし、「ソト」のものが大衆や雑踏ざっとうとして出会われる限りでは、完全な無関心でいられるが、その人物が一人の他者としてこちらを見つめ、きっぱりとした態度で話しかけてきた場合には、わが同胞どうほうは、きわめて不安定な状態におかれてしまうにちがいない。「ミウチ」や「ソト」では言葉をかわさず、「ウチ」では儀礼ぎれい的・形式的な言葉しか使わない者にとって、立場をこえた個人対個人の対話などありえるはずもなく、この他者に対し、どのような態度で、どのような言語を使えばいいか、かいもく見当がつきかねるからである。
 つまり、「ソト」を意識しはじめると、私たちはきわめて観念的な恐怖きょうふ好奇こうき心との入りまじった態度をとることになる。できるならばこの他者を排除はいじょし、自分自身はふたたび居心地のよいタコツボに逃避とうひしたいと考えても、おかしくはないだろう。「ソト」と「ウチ」の文化論は、私たちの言語放棄ほうきとタコツボ指向とを際立たせてくれるものにほかならない。
 こうした私たちのタコツボ指向を物語る好例としては、わが国のいたるところに見うけられる仲間言葉があげられよう。政界のなかだけに閉じている政治言語、企業きぎょう社会のなかだけに閉じている業界用語、若者世代のなかだけに閉じている若者言葉などが、さらにそれぞれの下位区分をもち、行政語、官僚かんりょう語、マスコミ語、学生語、コギャル語といったさまざまな集団言語をつくり出しているのである。このような集団言語は、コミュニケーションの範囲はんいを限定することによって、なによりもまず、そこに自分たちのアイデンティティを求めようとする。

加賀野井秀一「日本語の復権」より。一部変更。)
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a 長文 12.2週 nnzu2
 さいから人は大人と呼ばれるのか、大人とは何か。そういう議論は繰り返しく かえ 起きるようだ。従来なら「成人すれば大人」と考えればよかったのだから話は簡単だが、最近はその基準が曖昧あいまいになってきている。精神科の臨床りんしょうの現場でも、しょうや家庭内暴力といった思春期の病理に基づく問題を三十代、四十代になってから呈するてい  ケースが目に付く。
 いっぽう、十二、三さいでしっかりしたプロ意識を持ったタレントやスポーツ選手もいれば、「高校を出ればおばさん」と言っている少女もいる。早々に「私なんてこんなもの」と自分に見切りをつけてしまう、若者の『早じまい感』を問題視する精神科医もいる。
 一体、だれが大人でだれが若者なのか。その区別はとてもむずかしい。
 先にあげた「思春期の病理を抱えるかか  大人」には、親や周囲との関係の中で激しい自己否定に陥っおちい ているという共通点がある。「私は親に好かれていなかった」「自分なんて生きていても仕方ない」と、彼らかれ はつぶやく。一方、「大人顔負けのプロ意識を持った子供」は、自分の才能や使命をしっかり自覚している。「もうおばさんだ」という十代も、ある意味、「若くなければ自分には価値がない」と自覚しているのかもしれない。
 そう考えると、健全な大人とは「今の自分は何をすべきか」を知っている人たち、ややゆがんだ大人とは「もう何もできない」と知ってしまっている人たち、そして大人とは言えない人たちとは「何ができるか分からない、だれか教えて欲しい」と他人に依存いぞんしている人たち、と定義できるかもしれない。もちろんその場合、年齢ねんれいは関係ない。
 もちろん、子供や若者はまだ自分に何ができるか、分からなくて当たり前だ。何もすべての若者が、幼いころから迷わずに自分の道を進む必要はない。「何ができるだろう」と試行錯誤しこうさくごしたり、ときには「だれか教えて」と周りの大人にすがったり、それは若者に与えあた られた特権であるはずだ。
 ところが今は、その上の世代の大人たちが「自分で自分の人生を自由に決められる時代」の特典をフル活用し過ぎて、いつまでも
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考えたり立ち止まったり、無分別に人生をやり直したりし続けている。それもまたその人の自由なのであるが、彼らかれ が問題なのは、そうやって逡巡しゅんじゅんを続けてうまく行かなくなったときに、「親の愛情不足が原因だ」「指導してくれない先輩せんぱいが悪いのだ」と他者の責任にしようとすることだ。自由な決定をするときには、それと引換えひきか に自分で責任を取る必要があることを、今の大人(年齢ねんれい的な意味での)は忘れてしまっている。「子供っぽい大人」の大軍は、更にさら その下の世代である今の若者、それに続く子供から、試行錯誤しこうさくごや他者への依存いぞんの自由を奪っうば ている。彼らかれ が「迷う自由がないならさっさと自分に見切りをつけて、やれることをやるしかない」と思ってしまうのも、ごく当然だ。
 もちろん、だからといって、今の三十代から五十代の人たちに、「迷うな、早く人生を決定しろ」と強制することはできない。私自身その世代に属する一人として、仕事にしても人生にしても未だに迷っているし、ときには自分の不全感を他人の責任にしたくなることもある。現代という時代が、『迷える子供的大人』を必然的に生んでいるとも考えられる。
 ただ、そうやって迷うのは自由だが、そのしわ寄せが若者に行くことはあってはならない。迷っている大人を待たずに、しっかり自己決定できる若者に重要なポストを与えるあた  といった英断を、企業きぎょうや役所もどんどんすべきだと思う。そうすれば若者達も、早々に諦めるあきら  ことなく、もっと自由に自分の可能性を伸ばしの  て行けるはずなのだ。
(中略)
 そして、下の世代の邪魔じゃまをしない。これが大人の最低条件だ。それをクリアしている人は、世の中の何割だろうか。案外、どの世代にも同じような割合でしかいないような気もする。小学校にも一割の大人、政治の世界にも一割の大人、といった具合だ。もしそうだとしたら、選挙権などの『大人にしか与えあた られていない権利』についてもいつか見直しが必要、といった時代も、冗談じょうだんではなく来るのではないだろうか。

香山リカ「若者の法則」より)
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a 長文 12.3週 nnzu2
 一連の関連情報に熟知しているはずの情報科学の担当者でも、二、三ヵ月かげつ単位で入れ替わるい か  最先端さいせんたんの機器のことはすぐにわからなくなるという。理科系学部の出身者でも、わからないと音を上げる先端せんたん機器の扱いあつか 方は、いまでは一握りにぎ の人間だけが専門家として熟知しているのだという。機能がよくなるたびに使い捨てにするのは、ソフトや機器類だけではない。
 みかけの明るさのなかにある、この不気味なやみはいったいどう解釈かいしゃくすればいいのか。専門の医師さえ知らない最新の病気の症状しょうじょうもインターネットで手に入るし、あやしげな薬も核兵器かくへいきまでもがインターネットで手に入る時代になったのである。
 迷惑めいわくメールやヴィールスのあつかいを今後どうするのかも、これからの共同の課題であろう。しかし、それと同時に、いまなお外国の放送が自由に受信できず、外からの情報が遮断しゃだんされている国がすぐ近くにもあることを忘れないでいたい。そうして、いまこの瞬間しゅんかんにも、われわれの貴重な文書が、時代遅れじだいおく でもう要らないとみなされて、大量のごみとして、どしどし抹殺まっさつされる新しい焚書ふんしょの時代がいま進行していることを忘れてはならない。
 今後、われわれは、あまたの情報機器をどう使いこなしていけばいいのか。その知恵ちえが共通の知恵ちえとして、われわれの社会に根づくには、まだだいぶ時間がかかりそうである。そのときが来るまで、この私が、はたして無事に生きていられるという保障はない。とすれば、私はやはり、自分のメモやノートのたぐいは、ある程度は手書きのまま残しておくのがいいのではないか。ファイルなども、すべて抹殺まっさつして自己の責任を帳消しにしたがる文化は、自分史の痕跡こんせきすら抹殺まっさつする文化であることを忘れないでいたいものである。
 情報化時代は、いくら言われ聞かされても、自分の利害に直接関わりがないと、知らぬ存ぜぬという顔をする厚顔無恥こうがんむち傾向けいこうを助長するところがある。またいま、われわれ現代人がどれほど誠実に現代社会の諸問題に対して処方箋しょほうせんを考えてみたところで、それが後代の日本人に対する処方箋しょほうせんにはなりえないだろうということがある。そういう言説は、それを発する当人の世代に対する処方箋しょほうせんでし
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かないということも真実なのだ。
 そう考えると、二十一世紀の人間には、この先の二十年、三十年先のことまでは、とても予測できないだろうという悲観論も、引きうけなくてはならなくなる。
 私という人間が、せまく「われ」というからに閉じこもって「ひとり」になるのと、せまい「われわれ」のなかに逃げ込むに こ のは、別ではなく、どこかでつながっている。あえて孤立こりつ化することと、みかけの連帯を志向するのは、逆方向にむかう別の動きではあるものの、結果としてせまいかたちでひとつになっている、というのが日本的な「われ」と「われわれ」のかかえる、むずかしい問題のありかを象徴しょうちょう的に示している。
 こうして、せまく小さいiweが密接に関わりあい、お互い たが になりかわりあい、支えあうが、他の者はすべてtheyとして突き放しつ はな 、目をやらないというのが日本人の「日本人らしさ」になっている。
 そこにある問題をこのまま放置しておいていいのか、というのが私の問いかけたい問いである。今後、より開かれた国際社会のなかで、よりひろい生き方を選びとろうとするなら、たとえ自分とは異質であっても、協力し共生していくために、新たな連帯の道を模索もさくすることがあってもいいのではないか。そういう方向に自らを認識させようとする生き方を、さらに模索もさくしていくことがいまわれわれに求められているのではないか。
 「われ」が「われわれ」と同じものを求めあい、「われ」が他の「われ」と容易になりかわりあう社会。そういう慣例が国民レベルですでに浸透しんとうしきっている日本という社会は、どこまでも同質であることに価値をおき、そのなかで、似通った人材の再生産をめざす社会になっている。
 国の内外に見られる「平和」というものも、そのせまい生ぬるい排他はいた的な社会のあり方から来ている。そのなかにあるかぎり、とくにめだった反抗はんこうをしないでいれば、痛くもかゆくもない安全と平和が保障されている。だが、それが見えないところでどれだけ絶望に充ちみ たあり方になっているか、何もしなくていい問題であるかはまた別の問題である。
(小原信「iモード社会の「われとわれわれ」)
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 この国の人々ははるかな昔から自分のことを「わ」と呼んできた。ただ、それを書き記す文字がなかった。中国から漢字が伝わる以前のことである。これは今でも「われ」「わたくし」「わたし」という形で残っている。
 日本がやがて中国の王朝と交渉こうしょうするようになったとき、日本の使節団は自分たちのことを「わ」と呼んだのだろう。中国側の官僚かんりょうたちはこれをおもしろがって「わ」にという漢字を当てて、この国を倭国わのくに、この国の人を倭人わじんと呼ぶようになった。という字は人に委ねると書く。身を低くして相手に従うという意味である。中国文明を築いた漢民族は黄河の流れる世界の中心に住む自分たちこそ、もっとも優れた民族であるという誇りほこ をもっていた。そこで周辺の国々をみな蔑んさげす でその国名に侮蔑ぶべつ的な漢字を当てた。倭国わのくに倭人わじんもそうした蔑称べっしょうである。
 ところが、あるとき、この国の誰かだれ 倭国わのくにを和と改めた。この人物が天才的であったのは和はと同じ音でありながら、とはまったく違うちが 誇りほこ 高い意味の漢字だからである。和の左側のは軍門に立てる標識、右の口は誓いちか の文書を入れる箱をさしている。つまり、和は敵対するもの同士が和議を結ぶという意味になる。
 この人物が天才的であったもうひとつの理由は、和という字はこの国の文化の特徴とくちょうをたった一字で表わしているからである。というのは、この国の生活と文化の根底には互いにたが  対立するもの、相容れないものを和解させ、調和させる力が働いているのだが、この字はその力を暗示しているからである。
 和という言葉は本来、この互いにたが  対立するものを調和させるという意味だった。そして、明治時代に国をあげて近代化という名の西洋化にとりかかるまで、長い間、この意味で使われてきた。和という字を「やわらぐ」「なごむ」「あえる」とも読むのはそのためである。「やわらぐ」とは互いたが の敵対心が解消すること。「なごむ」とは対立するもの同士が仲良くなること。「あえる」とは白和え、胡麻和えごまあ のように料理でよく使う言葉だが、異なるものを混ぜ合わせてなじませること。
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 この国の歌を昔から和歌というのは、もともとは中国の漢詩に対して、和の国の歌、和の歌、自分たちの歌という意味だった。しかし、和歌の和は自分という古い意味を響かせひび  ながらも、そこには対立するものを和ませるというもっと大きな別の意味をもっていた。九〇〇年代の初めに編纂へんさんされた『古今和歌集』の序に、編纂へんさんの中心にいた紀貫之きのつらゆきは次のように書いている。

 やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きしげ ものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴くうぐいす、水に住むかえるの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神きしんをもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、たけき武士の心をも慰むなぐさ るは歌なり。

 「男女の中をも和らげ」というところに和の字が見えるが、それだけが和なのではない。「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神きしんをもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、たけき武士の心をも慰むなぐさ る」というくだり全体が和歌の和の働きである。和とは天地、鬼神きしん、男女、武士のように互いにたが  異質なもの、対立するもの、荒々しいあらあら  ものを「力をも入れずして……動かし、……あはれと思はせ、……和らげ、……慰むなぐさ る」、こうした働きをいうのである。これが本来の和の姿だった。

 (長谷川『和の思想』中公新書、二〇〇九年、四〇〜四六ページ、抜粋ばっすい・一部改変)
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