1キャラ的なコミュニケーションには、本来はわかりにくいのが当たり前の内面的な人格を視覚化し、わかりやすくしようという社会的要請もあると言っていい。キャラ化は言うまでもなく人格の視覚化であり、記号化という側面を持つ。2わかりにくさを忌み嫌う現代社会においては、人間の内面さえも単純に記号化しないではいられないのかも知れない。考えてみれば、アニメやマンガのキャラは、制作の過程でなんらかの役割を持たされるため、他のキャラとかぶることはあり得ない。3もし、キャラがかぶるようであれば、それは当然、制作途上で排除される。もちろんキャラが立たないものは論外だ。
こうやってみると、若者たちのコミュニケーションの所作は、まさにアニメ・マンガにおけるキャラ作りの状況と極めて近いと言うことができる。4そして、まるで制作者というメタ物語的な視点からの監視におびえるかのように、彼らは自分の立ち位置をいつも気にしながら生きているのである。
コミュニケーションとは本来、相互の人間関係強化へと向かうはずのものだ。5知らない者同士がコミュニケーションを通じて深く関係を構築していくというわけだ。しかし、若者たちのキャラ・コミュニケーションでは既に相互の関係は表層的に成立してしまっている。そして、それ以上の深入りはご法度なのである。
6関係はタテに深まることはなく、その場に浮遊したまま、ヨコヘヨコヘと際限なく広がっていく。一見内面を吐露しあっているかに見えるブログのコミュニケーションも、いわば「ネタ」であり、それにお決まりのコメントをつけるという関係が際限なく繰り返されるのだ。7今の若者たちが、表層的な関係の友だちを信じられないほど多く持っているのは、まさにそういった関係のゆえだ。ここでは、コミュニケーションそのものがキャラになっているとも言えるのである。
8キャラ化はまた、お約束のコミュニケーション手法でもある。あらかじめ決められたキャラを前提に、フリとツッコミを繰り返し、笑いを作る。若者たちのコミュニケーションは、基本的にその繰り返しだ。これは、コミュニケーションを常に想定内に収めるための技術だと言ってもいい。
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