a 長文 4.1週 ra2
 学問は世の役に立つかと考えるとき、よく私が思い浮かべるおも う   のは、天動説がくつがえされ、地動説が確立されるまでのヨーロッパの学者たちの探究です。地動説の萌芽ほうがは、すでに十四世紀にノルマンディの学者、ニコラ・オーレムの書いたものにあったそうですが、十六世紀に入って科学的にこれを一歩進めたのは、ポーランドのコペルニクスで、けれどもキリスト教会の取り締まりと し  恐れおそ て、七十さいの死の数日前までその論文を発表しなかったといわれています。そしてドイツのケプラー、イタリアのガリレイなどがこの考えを継承けいしょうしてより実証に近づけますが、教会からは弾圧だんあつを受け続け、一六一六年には、教皇パウロ五世は地動説を聖書に反するという理由で、断罪しています。
 いうまでもなく、太陽が動くか地球が動くかは、私たちの日常生活にとって、まさにどうでもいいことです。今でも人類の圧倒的あっとうてき大部分は、お日様は東から昇っのぼ て西へ沈むしず と思っており、生活感覚としてそれはまったく正しい。天動説、つまり地球中心主義をくつがえすために、教会の弾圧だんあつ耐えた 、ずいぶんお金も使いながら、大勢の学者が執念深くしゅうねんぶか 追究してきたことは、直接にはまったく「世の役に立たない」ことです。
 けれども、地動説が確立されたことで、人間の世界に対する認識が根本的に改められ、宇宙科学をはじめとする科学や技術がどれだけ変わったか、その結果、地動説がどれだけ「人間の役に立っている」かは、改めていうまでもないでしょう。
 英語で学者のことをスカラー、学校のことをスクールというのはご存じの通りですが、これはギリシャ語の「スコレー」「ひま」という言葉に由来しています。つまり、学者というのは元来「閑人ひまじん」であり、学問は「閑人ひまじん」のすることなのです。
 小学校の就学率が一〇パーセントにも満たない、私が住み込みす こ 調査をしていたころの西アフリカ内陸社会の村では、家族にとって大事な労働力である子どもが、畑仕事の手伝いもしないで、毎日朝から夕方まで学校に行っているなどというのは、とんでもないことで、学校はまさに「スコレー」の場なのだということがよく分かりました。学校で教わることも、村の生活にとってすぐの役には立たない、公用語のフランス語の読み書きとか、それを使って習う、
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算数とか、歴史とか、地理です。日本でも、多くの人々の生活が貧しかったころには、事情は同じでした。それなら、家の仕事を手伝わずに「スコレー」の場である学校で、すぐ役に立たないことを勉強するのは無意味かといえば、決してそうではなく、そのことを理解して、家が貧しくても無理をして子どもを学校に行かせた親は、日本にもいたわけですし、アフリカの村にだっているのです。
 それに、何の腹の足しにもならない知的好奇こうき心を満たすという、まさに「スコレー」と結びついた人間の営みは、「ヒトという、この不思議な生物」の、ヒト筋なわでは片づかない本質をなすもので、それはアフリカの村の、生活に恵まれめぐ  ない人々にとっても同じです。
 ただ、だからといって、役に立たないことに甘んじあま  ていて良いとは、私はまったく考えません。たとえ役に立ち方が迂遠うえんだといっても、学者が現実の社会にいま起こっていることに常に生き生きとした関心をもち、人々が求めていることに共感するのは、現地調査による体験知を重要な拠り所よ どころとする人類学者にとって、不可欠のことです。とくに、人間社会の草の根に生きる人々と共感をもった交わりをもつこと、そのことを通して、たとえそれが極めて長い迂回うかいであっても、究極には役に立つことにつながる学問を、私たちはすることができるのだと思います。

(川田順造「人類の地平から」より)
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a 長文 4.2週 ra2
 私が今コインを投げようとする。そのとき裏がでるか表がでるかは半々だ(二分の一の確率だ)、ということは何を意味しているのだろうか。ここで大切なのは、今問題にしているのはこれから投げるというただ一回きりの事件についてである、ということである。これから何十回も投げてそのうち表と裏が大体半々にでる、というのではないのである。次のただ一回きりの投げが問題なのだ。そこで投げてみる。表がでた。そのことで裏表のチャンスは半々だと言ったことが当たったことになるだろうか。もちろん、なるまい。このとき、裏のでるチャンスは一〇分の九だと言ったとして同様である。それはなお表がでる可能性もある、と言っているのだから。つまり、裏と表がでる可能性が、ともにあることを言う確率的予言では、表がでれば裏のでる可能性を示す機会は失われ、裏がでれは表の可能性は永久に失われる。ちょうど、それを受けるも拒むこば も私の自由だと言っても、その一方をすれは他方をする自由を示す道が論理的に失われるのと同様である。しかも確率的予言はその両立不可能なニつの可能性を云々うんぬんするのである。
 要するに、一回きりの事件では前もってその確率を云々うんぬんしても、その予言の当たり外れを言うことは、意味をなさないのである。確率いくらいくらということが正しかったか誤っていたかを定める方法がないからである。だが、われわれの日常生活で確率を問題にしたいのは、大抵たいてい一回きりの事件の確率なのである。明日の天気、来月の株価、次の打者のヒット、来年の地震じしん、次のトランプのめくり札、商談での相手の次の出方、山をかけた試験問題の出様といった一回きりの事件の確率が当たった外れたということが意味をなさないようなものならば、一体われわれは何をしているのだろうか。
 数学者は、こう言うかもしれない。明日晴れる確率が一〇分の八だ、というのは実は、現在の気象状況じょうきょうに似たケースでは、これまでその一〇分の八が晴れであったということなのだ、と。なるほど、気象庁の予報官はその意味で天気予報をしているのだろう。
 しかし、われわれの方で今日問題にしているのは明日の天気であって過去の気象ではないのである。明日の天気が晴れる確率が一〇分の八だと言っているのである。過去の気象統計はその参考でしかないのである。自分が後何年生きられるだろうというとき、過去の日本人の(自分の年齢ねんれい層の)余命が平均何年だと聞かされてもそれはあくまで参考でしかないのと同じである。物理学者にとっても、ある放射性元素の半減期を知ることは個々の原子の放射性崩壊ほうかい
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については単なる参考にしかならない。
 では、一回きりの個別的事件の確率を云々うんぬんすることは何を意味しているのだろう。それは無意味であるはずがない。とにかくわれわれは「明日は多分雨だろう。」と言うことには十分な意味を感じているのだから。私はそれは単なる予測の命題ではなく、自分が生きる上での心構えの表現であると思う。雨かもしれない、という覚悟かくごをしながら晴れだとして生きることに賭けるか  、という心構えの表現だと。だから、「明日は八分通り雨だろう。」と言うことに真偽しんぎ云々うんぬんすべきでもなく、あれかこれかと言う場合のように当たり外れを云々うんぬんすべきでもない。云々うんぬんしようにもできないのである。繰り返すく かえ ことになるが、雨になった場合に、「明日は八分通り雨だ。」と言うことと「明日は七分通り雨だ。」と言うことのどちらがにせであるとか外れたとかいうことはできないからである。とにかくその二通りの言い方のどちらもが雨になることはあるだろうと言っているのだから。われわれに言えるのは、その心構えで明日を迎えるむか  場合の生き方のよしあしなのである。八分通りと七分通りの間になんらかの違いちが 含まふく せて言っている人には、翌日雨か降った場合八分通りの心構えの方が、よりうまく生きられるのである。お天気の場合は、その差は普通ふつう大きくはあるまい。しかし、賭博とばく師や株屋、将軍や病人の明日の状態にとってはその差は大枚の金や命であがなうことになる差なのである。(中略)
 人生に賭けるか  ということは単に予測するだけのことではない。文字通り自分の生活を賭けるか  ことなのである。単に未来を傍観ぼうかん者風に予測するのではなく、そのように予測された未来に立ち向かう心構えをすることなのである。その予測に付せられた確率はその構えの姿勢の表現であり覚悟かくごの程の表現なのである。九分通りこうゆくだろうと構えて手術をする外科医と、五分五分だと思いながらの外科医はその構えが違うちが のである。そしてその手術の結果がよい時にせよ悪い時にせよ、この二人の外科医は異なる安堵あんどや異なる弁明をするだろう。賭けか た人には否応なく賭けか の結果を負う以外にはないのだから。
 (大森荘もりしょう蔵『流れとよどみ』による)
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a 長文 4.3週 ra2
 人間が「物」を造るには、必ず「手」を使う。手によって物の形を変える。そこに、われわれの役に立つ物ができ上がる。ある場合には、でき上がった物自身を道具としてさらに別の物が造り出される。それがまた道具となる場合さえある。道具が複雑化すれば機械となる。そしてわれわれの手によって直接造り得る物とは比較ひかくにならぬほど大きなもの、精巧せいこうなものが機械によって容易に造り出されるのである。(中略)
 ところが、物の形を変えて新しい物を造るという仕事には、もう一つの不可欠の要素がある。それは言うまでもなく、物を動かすのに要する「力」である。手の指先の器用さと同時に、うでの筋肉の力が必要であったのである。それぞれの機械になんらかの形で動力が補給されねばならない。それはあるいは蒸気の膨脹ぼうちょうする力であり、ガスの爆発ばくはつの力であり、電気の力であった。しかしながら力自身は本来形のないものである。ただそれが形のある物に伴っともな ているが故に、われわれはこれを制御せいぎょし得たのである。高所から落ちてきた水自身が運動のエネルギーを持っていたが故に、それを電力に変えることが可能であった。電力そのものもまた、それが「針金」という固体の中を流れる電流という形において初めて人間の手で操り得たのである。空間を伝わる電波はアンテナによって捕らえと  られて初めて有用となるのである。
 このようにして人間がいろいろな形の力を利用して、さまざまな物を造り出すに当たって、直接相手としているのは、常に固体または固体の連結したものとしての機械であり器具である。しからばそれらを造り出す材料となっている物自身は、一体どこから得たのであるか。
 それはなんらかの形で初めからそこにあったのである。人間のいるといないとにかかわらず、自然物として存在していたのである。物を造るのに必要な動力はどこから出てきたのであろうか。それももちろん、自然が本来持っていた力以外の何物でもない。げんに自然自身がわれわれの存在すると否とにかかわらず、自分自身の中に包蔵する力によって、不断にその姿を変えつつあるのである。山上の土は絶えず雨水によって平地へ運ばれているのである。動物や植物が数限りなくできてはなくなっていくのである。この休止することを知らぬ自然自身は、一体だれが造ったものであるか。造り手の姿はどこにも見えないが、人間との類推によって造物者を
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想像することは勝手である。しかし造物者は人間のように「手」をもって物を造りはしないのである。特別な道具、特別な機械を使うのではないのである。文字通り自然に物の姿が変わり、物ができ上がっていくのである。人間自身の肉体もまた目標の所産として、道具を使わずして造られたものである。肉体の一部であるところの手自身は、けっして固体としての道具ではないのである。
 造物者が手を使わなかったとするならば、そのかわりに使った物は何であったか。人間との類推によって造物者の心を想像することも勝手である。その心はしかし人間よりもはるかに理性的なものである。自然は自分自身の規則を持っている。そしてそれから逸脱いつだつしたふるまいをすることはけっしてないのである。自然力の発現、自然の姿の変化は、すべて自然が自ら定めた規律に忠実である結果として生まれてきたものである。造物者は他を動かす「手」を持たない、造物者自らの「心」に従って自ら変化していくのである。
 しからば造物者の心は何によって知り得るであろうか。人間の心は果たしてなんらかの仕方でこれと共感し得るのであろうか。これに対して解答を与えるあた  ものは「科学」である。科学はげんに自然自身が遵奉じゅんぽうしているさまざまな規則を見つけ出しているのである。いかなる方法によってこれを見つけ出したのであるか。あたかも目に見える顔形を通じてその人の心を察し得るがごとく、目に見える自然の姿を通じて造物者の心を察し得たのである。物を造るのに「手」が必要であったのと同じ程度において、物を知るには「目」が必要であった。しかしながら目が単なる肉眼に止まっている間は自然の表層しか見ることができなかった。顕微鏡けんびきょうが発見され、エックス線発生装置が考案され、それによって肉眼が補強されて、初めて自然の本当の心を見抜くみぬ ことができたのである。ところがそれらはまた、すべて人間の手によって造り出された「機械」であった。ここでも機械が人間と自然とを結ぶほとんど唯一ゆいいつの通路として横たわっているのを見出だすのである。しかしそれはけっして孤立こりつしているのではない。形ある物としての機械の背後には目に見えない自然力があり、物も力も不動の自然法則に従って変化していくものであることを忘れてはならないのである。

 (湯川秀樹ひでき『目と手と心』による)
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a 長文 4.4週 ra2
 私たちにとって、学校教育はなぜ必要なのか。別の言い方をすれば、それぞれの実生活の経験の積み重ねに任せるのではなく、なぜ教育のための特別な場所が必要なのか。この問いかけに対しては、いくつかの理由が考えられます。
 第一に、世界はあまりにも広く、私たちがそのすべてを経験することはできないからです。しかも、私たちが世界と呼んでいるものの多くはすでに失われた過去であり、現実と呼んでいるものの半ば以上は現実には存在しません。歴史と呼ばれ、人類の記憶きおくの中にしかないものがほとんどでしょう。経験は記憶きおくによって濾過ろかされ、それと照合されて、初めて経験として完成されます。
 森鴎外おうがいの短編小説『サフラン』に、サフランをめぐる次のような思い出話が出てきます。この植物の名は本で早くから知っていたが、まだ実物を見たことがない。そこで医師であった父親に頼みたの 、薬たな抽斗ひきだしから乾燥かんそうしたサフランを出してもらう。「名を聞いて人を知らぬと云うい ことが随分ずいぶんある。人ばかりではない。すべての物にある。」といった感慨かんがい綴っつづ た作品ですが、考えてみれば、われわれがいうところの現実とは、半ば以上、森鴎外おうがいにおけるサフランのようなものではないでしょうか。
 第二に、私たちが何らかの現実行動をうまくなしとげるためには、行動をいったん棚上げたなあ し、目的を一時保留して行動しなければならないからです。言い換えれい か  ば、現実行動にあたって失敗を避けるさ  には、まずもって練習をしなければなりません。野球選手のバットの素振すぶりが好例でしょう。飛んで来てもいないボールを相手にバットを振りふ ます。そのことによって、かれはバッティングという行為こういのプロセスを意識し、身に付けようとしているわけです。
 私たちの行動能力は、単純な経験をいくら繰り返しく かえ ても、決して高まることはありません。現実行動は練習のうえで初めて成り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使くしするプロセスを絶えず見直し、身に付け直さなければならないのです。学校というものは、その意味で、現実行動からひとまず離れはな て、行動のプロセスを教える場といってもいいでしょう。つまり教室は行動の場ではなくて、練習の場なのです。
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 また、私たちが行動するためには型を持つ必要があります。武術一つを取り上げても明らかでしょう。刀をただ振り回しふ まわ ていれば強くなるというものではありません。面を打ち、籠手こてを打ち、突きつ を入れるという型をまず身に付け、それが、まるで無意識であるかのように流露りゅうろしてくるところに武術は成立します。型は、行為こういのプロセスを支えてくれるのです。
 日常の作法もまた同様でしょう。人間、悲しいときにはなりふりかまわず泣きたくなるものですが、そこに悲しみ方の型が入ってきたとき、初めて私たちは悲しみに耐えるた  能力も身に付けることができるのです。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけの短編小説『手巾ハンカチ』に、息子を亡くしたばかりの婦人が端然とたんぜん 客を迎えむか ながら、しかし、机の下では「ひざの上の手巾ハンカチを、両手で裂かさ ないばかりにかたく、握っにぎ ている。」という場面があります。つまり、「顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。」とあるように、彼女かのじょは「息子を亡くした母」という型を、あるいは役をその場で演じることによって、身も世もない悲しみに耐えるた  ことができたし、また醜態しゅうたいをさらさずに済んだわけです。
 教育が必要な理由の最後は、多くの知識が経験からは直接に学べないからです。
 現代の先進社会の人間ならば、だれでも地動説が正しいということを知っています。しかし、だれ一人として地球が太陽の周りを回っているのを見た人もいなければ、その動きを実感した人もいません。日常では、太陽が朝は東の空に上って、夕方は西の空へ沈みしず ます。昔の人も現代人もそれを経験上知っていますが、真実はそうではないということを、知識として身に付けているのが現代人でしょう。

山崎正和「文明としての教育」の文章による)
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a 長文 5.1週 ra2
 人間とはなにか、このぼくの問いにヒントを与えあた てくれたのは哲学てつがく者の梅本克己かつみだった。かれの『過渡期かときの意識』という本の冒頭ぼうとうに次のような短い一節があった。
 「人間そのものが一つの過渡かとである……」(『過渡期かときの意識』現代思潮社)
 この世界に、完成した人間などはいない。人はつねに未完成であり、過渡期かときの人間として生きている。ところが、僕たちぼく  は、自分が未完成であり、過渡期かときの人間だということを、しばしば忘れてしまう。もし自分が過渡期かときの人間であることを自覚していれば、僕たちぼく  は自分の知らないもっと素晴らしいものを探そうとするだろう。そうして世界のなりゆきに感動したり、怒っおこ たり、探していたものを発見したりすることができるだろう。(中略)
 考えてみれば、人間が過渡期かときの人間でしかないように、社会もまたつねに過渡期かときの社会なのだと思う。どんな社会であっても未完成なはずだ。とすればいまの自分に満足したり、いまの自分に居直ったり、いまの社会を肯定こうていしたり、いまの社会が永遠につづくと思ったりすることはできない。より素晴らしいものを探して、いまの自分のあり方やいまの社会を批判しつづける人間の方が、正しい生き方をしているはずだ。
 ところで人にとっての過渡期かときとは何なのだろう。楠本くすもとはこの本のなかでこういっているのだと思う。本当は人間は自分でも気付いていないような素晴らしい力をもち、もっと素晴らしい生き方ができるはずなのに、いまの社会ではそれができない。それなら本当の人間の力を、本当の人間の生き方を取り戻そと もど うではないか。もちろんそのためには社会も変革しなければいけないし、多くの困難も待ちかまえているだろう。だが人間にはそれだけのことをなしとげる力があるはずだ。つまり梅本克己かつみは、本当の人間の生き方を取り戻しと もど ていく人間として、現代の人たちは過渡期かときの人間だといっているのだと思う。
 『過渡期かときの意識』のなかには、次のような一節もある。「喪失そうしつせられたものを取り戻すと もど ……」。そう、いまの僕たちぼく  はいろいろなも
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のを失っているのだと思う。世界のなりゆきに驚嘆きょうたんする能力も、本当に感動したり、怒っおこ たり、より素晴らしい生き方を探していろいろなことに挑戦ちょうせんしていく精神も、僕たちぼく  が小さな俗事ぞくじにとらわれている間にいつのまにか失ってしまったような気がする。僕たちぼく  はそれらを取り戻さと もど なければいけないんだ。
 人間はつねに過渡期かときの人間であると梅本はいった。しかしこのことを自覚しつづけて生きることは大変なことだと思う。なぜならそれは失ったものを取り戻そと もど うとする行動とともにあるからだ。
 哲学てつがくは知識でも学問でもない。過渡期かときの人間が新しい一歩をふみだそうとする行動のなかにあるのだと思う。
 〈『哲学てつがくノート』五章 終わり〉
 
 「哲学てつがくノート五章」を書き終えたころぼくは自分が哲学てつがくの深みにはまっていくのを感じていた。哲学てつがくは知識ではないと痛切に思った。哲学てつがくはつねに未来に向かって開かれている。そういってしまえば簡単なのだけれど、哲学てつがくはこれからのぼくの生き方そのもののようだ。哲学てつがくを学ぶということは、自分自身を自己変革していくことだとぼくは思った。
 といっても三木清もいっているように、人間は環境かんきょうのなかの動物だ。自分自身を自己変革するためには、環境かんきょう、つまり社会を変革していかなければいけないことはしばしばあるだろう。自分を自己変革しながら社会をも変革する、また社会を変革しながら自分をも自己変革する、そうやって美しい人間の生き方と、美しく生きることのできる社会をつくっていこうとするとき、哲学てつがくはつくりだされるのだと思った。

 (内山節『哲学てつがく冒険ぼうけん』より)
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a 長文 5.2週 ra2
 今まで機能してきた日本社会のシステムが、機能不全に陥っおちい ている。いやそのシステムが機能していると見えたのはうわべだけで、うまくいっていると見えているうちから内部崩壊ほうかいはすでに進んでいた。それに気づかなかったのは、そのシステムが表層的に誇示こじする利得、すなわち右肩みぎかた上がりの経済成長があまりにも目覚ましく、その「豊かさ」が目くらましの効果を持っていたからだ。
 日本型システムが崩壊ほうかいさせていったのは、一言でいえばわれわれの「存在感」である。われわれはなぜ生きているのか。何を求めているのか。われわれとはそもそも何者か。これだけ「豊か」になったこの社会の中でわれわれはその問いに答えることができない。これだけ豊かになったのに、われわれは存在感の病いに悩んなや でいる。そしてこれだけ豊かになったのに、われわれはどこかで自分自身が根源的に自由でないと感じている。
 「豊かさ」と「存在感」が、ともに仲良く二人三脚ににんさんきゃくのように進んでいた時代はあった。われわれはかつてほんとうに貧乏びんぼうだった。ぼくの幼いころの日本にして、今の日本から比べれば明らかに貧しかった。昭和三十年代生まれのぼくでもそう感じるのだから、第二次世界大戦直接の日本を知っている世代にとっては、その実感はなおさらだろう。(中略)
 その時代において、「豊かさ」を獲得かくとくすることはわれわれの「存在感」の拡張でもあった。この世界はどんどん良くなる。どんどん豊かになる。そのイメージが時代を支配していた。それはイメージだけではなく、時代の実体そのものだった。だから、われわれはなぜ生きているのか、何を求めているのかと問われたならば、その問いの答えは比較的ひかくてき明確だった。われわれは豊かな明日のために生きている。今日の苦労が明日の豊かさとなって返ってくる。世界はわれわれを裏切らない。必ずわれわれは報われるのだ。われわれは、世界と私の自由な関係の中に生きていた。(中略)
 しかし、その豊かさを手に入れやっと余裕よゆうができたはずなのに、われわれは、今、ため息をつき、暗澹あんたんとした気分に陥っおちい ている。むしろ立ち止まって、自分自身の姿を鏡に映し出す余裕よゆうができたことが悲劇だ。そこに映し出されている自分自身の像は、あまり豊かそうな顔をしていないのだ。
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 日本が貧しかった時代を知っている人間はまだ幸福だ。鏡に映し出された頭があまり景気のいいものではなくても、その鏡に映し出された自分の背景に映し込まこ れた風景は、明らかにあの貧しさとは別物だ。だから、貧しさの風景と現在の風景を比べて、これまで生きてきた年月が、自分自身の人生の軌跡きせきが、まったくの無駄むだではなかったことを確認できる。それは過去へのまなざしであり、必ずしも未来への展望を切り開くものではないが、しかしそこでひとまずの安心を得ることができる。「豊かさ」を否定できる者がどこにいよう。その「豊かさ」をわれわれは獲得かくとくした。自分の人生は無駄むだではなかったのだ。
 しかし、だれもが余生を生きているわけではない。過去へのまなざしだけでは生きられないし、悪いことに平均寿命じゅみょうも延びてしまった。その長い時間をこれからどう生きるのか。その展望がわれわれには欠如けつじょしている。この社会がこれから経済的により豊かになると信じている者はあまりいない。だいたい地球全体の未来も、必ずしも明るくない。経済的な豊かさを求め、それを目くらましにして今の「存在感」を問うことなく、いやむしろその「存在感」を切り崩すき くず ことで機能してきたシステムのツケが、いま日本社会を機能不全におとしいれようとしているのである。
 そのシステムの歪みゆが が、いっそう深刻な形で現われているのが、若い世代である。貧しさを知っている世代はまだいい。貧しい「過去」を知らない世代、生まれたときから貧しさを知らず、すでにそこそこ豊かであった若者たちにとって、貧しい過去との対比で自己と世界を肯定こうていする回路は、あらかじめ閉ざされている。後ろ向きの視線で自己を肯定こうていする回路はそもそも存在せず、輝かしいかがや   未来のイメージも像を結ばない。後ろ向きにも前向きにも展望がないのだ。そして、われわれの「存在感」を切り崩すき くず ことによって機能してきたシステムの負の部分だけが、そこに浮かび上がっう  あ  てくる。彼らかれ にとって、システムは抑圧よくあつでしかないのである。

 (上田紀行著『日本型システムの終焉しゅうえん』)
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a 長文 5.3週 ra2
 「こいつ、よくもひとのことをぶったな!」子供たちが口喧嘩くちげんかをしているうちに、一人が相手につい手出しをしたときなど、ぶたれた方がこんな怒りいか の声をあげるのをよく聞く。ここでの「ひと」とは明らかに話者が自分のことを言っていると解釈かいしゃくできるが、しかし考えてみると不思議だ。
 どうして普通ふつうは自分以外の人間を指すときに使う「ひと」という言葉が、この場合は自分のことを指すのだろうか。
 同じような「ひと」の使い方は、「あなた、よくもひとを騙しだま たわね!」とか、「黙っだま てひとのものを使わないでよ!」などにも見られる。しかし何かを自分がしたいときに「課長、それは是非ぜひひとにやらせて下さい」などとは言えない。
 このように見てくると、現代の日本語には、「ひと」ということばを、状況じょうきょうにより自称じしょう詞として使うことを可能にする法則のようなものがあるらしい。それはいったいどんな性質のものだろうか。
 (中略)
 現代日本語において、話者が相手に対して自分のことを「ひと」と称するしょう  ことができるのは、「話者が相手に対して自分の権利や尊厳が侵害しんがいされたことに対する不満、焦燥しょうそう(いかり、拒否きょひといった心理的対立の状態にある場合に限られる」というのが私の結論である。
 そこで次に考えなければならないことは、いったいどうして普通ふつうは第三者を指して言うことばである「ひと」が、以上述べたような条件の下では、話者が自分自身を称するしょう  自称じしょう詞、つまり一人称いちにんしょう代名詞のように用いられるのかという、記号論的な問題である。
 私は既にすで これまでいろいろな論文や著書の中で、現代日本語に見られる言語的自己規定の問題を扱っあつか てきた。つまり日本人はどのような場合に、いかなる言葉を使って自分を表現しているのか、そしてその記号論的なしくみはどのようになっているかといった問題である。
 その次に私が一貫いっかんして強調してきたことは、日本語には相手依存いぞんの相対的自己規定の傾向けいこうがきわめて広く見られるということであった。平たく言えば、日本人は話の相手がだれでどのような人かに
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よって、自分を称するしょう  ことばを原則的に変えているということである。(中略)
 また英語を初めとするヨーロッパの諸言語は、言語的自己規定の点では、むしろ相手依存いぞん型の対陣たいじん、つまり絶対的自己規定を特徴とくちょうとするが、それでもよく見ると、親族用語を使って行なう相対的な自己規定が、特別な条件の下では可能である。
 しかしこのようなことを念頭においても、なおかつ日本語における相対的自己規定の徹底てっていぶりは、これを日本語の大きな特色の一つに挙げてもおかしくないほどである。
 たとえば、多くの家庭に見られる、父親が子供に対して自分のことを「お父さん」あるいは「パパ」と言う自称じしょうのしくみは、自分と相手をともに含むふく 親族関係という枠組みわくぐ をまず設定し、ついでその体系内の相手の立場、つまり相手の視点から自分自身の座標を逆に規定する相手依存いぞんの相対的自己規定である。(中略)
 自称じしょう詞としての「ひと」は、話者が自分を相手の立場から見るだけでなく、その上、普通ふつうには設定される自分と相手をともに含むふく 共通のいかなる枠組わくぐみをも否定して認めないとき、初めて使用が可能となる。この段階で話者は対話の相手にとって完全な他者、えんもゆかりもない他人、つまり「ひと」となるからだ。
 話者が「ひと」を自称じしょう詞として使うときの気持は、「おれはお前にとっては無関係の他人だ。つまりお前の力、権限、干渉かんしょう、関心の範囲はんい外の人間だぞ。つまらぬよけいなことを言うな」といったもので、それまで存在していた二人を包む共通のわくを、この一言で壊しこわ てしまうのである。
 そこで次のように言えると思う。「よくもひとをぶったな」や「ひとの気も知らないで何さ」のような文に見られる自称じしょう詞「ひと」は、対話中の話者が、相手から何かしらの被害ひがい、権利侵害しんがい蒙っこうむ たと感じ、相手に対して心理的な対立状態に入り、相手に向かって共感同調的なつながりを断つことを示す、相手依存いぞん型の言語的自己規定である、と。
 (鈴木すずき孝夫『教養としての言語学』)
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 地球上の二酸化炭素は、大気と陸地、海洋とのあいだを出入りしています。
 陸地の植物は、光合成による無機物からの有機物生産(総一次生産といいます)の結果、一年に炭素換算かんさんで一二〇〇億トンの二酸化炭素を大気からとりこんでいますが、同時に呼吸のために一一九六億トンを排出はいしゅつしています。森林破壊はかいなどの土地利用変化で一六億トンを排出はいしゅつしていますが、植林などをふくむ陸地での吸収で二六億トンの炭素を大気から固定しています。つまり陸地では、降水中の炭素量二億トンもふくめて一六億トンを大気からとりこんでいることになります。海洋は、さしひき一六億トンを大気から吸収しています。
 一方、石油、石炭など化石燃料の燃焼によって、六四億トンの二酸化炭素が排出はいしゅつされますが、吸収はありません。その結果、自然のバランスをこえて、さしひき三二億トンの炭素が排出はいしゅつされて大気中の二酸化炭素を増やしつづけ、これが地球温暖化をひきおこしているとみられます。
 バイオマスは、木を切って燃やして二酸化炭素を排出はいしゅつしても、植林をすれば、いずれはまた、大気中の二酸化炭素を光合成で固定します。このようにバイオマスは、大気の炭素量に影響えいきょうをあたえないことから、カーボン・ニュートラルであるとみなされています。バイオマスは、温室効果ガスの排出はいしゅつがないカーボン・ニュートラルなエネルギー源として、地球温暖化対策の重要な柱のひとつになっています。
 世界の多くの国々は、バイオマスのエネルギー利用で二酸化炭素の排出はいしゅつを減らす政策をすすめています。二〇〇二年の「持続可能な開発に関する世界首脳会議」では、今後の実施じっし計画のなかで、バイオマスをふくむ再生可能エネルギーの利用促進そくしんが合意されました。
 日本でも、同年に政府がバイオマス・ニッポン総合戦略を作成して、各地にバイオマスタウンをつくるなど、バイオマス利用をすすめています。
 バイオマスは太陽エネルギー、小水力、風力、地熱などとならんで日本では新エネルギーとよばれ、化石エネルギーや原子力に対して新しいエネルギー源とされていますが、もともとこれらのエネ
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ルギーは昔から使われてきたものを新しい技術でより効率よく、多様な形で利用しようとするものです。
 消費してもつぎつぎとまた生みだすことができる資源を、再生可能資源とよんでいます。再生可能エネルギー源は、バイオマスのほかに太陽光や風力、水力などいろいろな自然エネルギーがありますが、工業原料にもなるのはバイオマスだけなので、エネルギーと原料と二重に期待されているわけです。
 海外でも、バイオマスは化石エネルギーの消費を減らす重要な柱とみなされています。国際エネルギー機関(IEA)は、二〇二〇年の世界エネルギー需要じゅよう予測をしています。図のように、バイオマスと廃棄はいき物の割合は、世界のエネルギー需要じゅようの約一〇%になっています。図では、太陽エネルギー、風力などがその他の再生可能なエネルギーになっており、バイオマスも化石系のものをふくむ廃棄はいき物といっしょにしめされています。そして、再生可能エネルギー全体のなかでは、バイオマスが約七五%を占めるし  ことになると予測されています。
 バイオマスを生かすには、その特性をフルに利用することが大切です。物質としてくりかえし使えばそれだけ、生産に投入したエネルギーはより有効利用できますし、うまく組み合わせると全体としての経済性も高まります。
 バイオマスの強みを生かして、日本の資源を徹底的てっていてきに活用し、化石資源を節約して、地球環境かんきょうをよくしたいものです。

(木谷収『バイオマスは地球環境かんきょうを救えるか』による)
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 お金くらい、変なものはない。なぜなら、本来どうして交換こうかん可能かと思われるような対象が、お金を媒介ばいかいにすれば、平気で交換こうかんされてしまうからである。
 私が大学で働くと、ただいまのところ、一カ月に手取りで四十数万円下さる。ただし、その金額の算定根拠こんきょは、私にとっては不明である。おそらくだれにとっても不明であろう。なぜなら、働いても働かなくても、ほぼ同じくらいの額をかならず下さるからである。もっとも、それが、官庁の取り柄と えといえば取り柄と えである。
 そもそもお金は、なぜ交換こうかん媒体ばいたいになりうるのか。それは、ヒトの脳がそうできているからである。脳という臓器は、その内部で、もともとはとうてい交換こうかん不能なものを、強引に交換こうかんしてしまう。たとえば、目から入る刺激しげきは、物理学的にいえば電磁波だが、脳はそれを、音つまり空気の振動しんどうと等価交換こうかんする。それが、視覚言語と音声言語である。「あ」という形に発する、電磁波の信号が、「ア」という音と等価に交換こうかんされる根拠こんきょは、脳がそれを実際に等価交換こうかんしているはずだ、という事実以外にない。脳は、そのいずれをも、神経細胞さいぼうの信号に変換へんかんする。だから、音と光とではなく、信号と信号とで、交換こうかんが可能になる。お金はじつは、その信号が、いわば単に外界に出たものに過ぎない。ヒトは、自分の脳を、外部に「投射する」のである。(中略)
 現代はシミュレーション社会だとか、擬似ぎじ現実の社会だとかいうが、それは、現代社会が、身体というより、脳に似てきていることを示している。つまり、脳の中では、すべては擬似ぎじ現実であり、すべてはシミュレーションだからである。その象徴しょうちょうがお金であって、現代社会が、お金を中心に動くような気がするのは、倫理りんり観が変化したからではない。社会が脳に似てきたためである。
 現代社会は、要するに、より抽象ちゅうしょう度の高い世界である。いまの人間が、身体と頭のどっちを余計に使うかといったら、多くの人が、そうとは意識せずに、頭の方を昔より余分に使っているであろう。
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 テレビを見るという一見単純な行為こういですら、頭を使わなくては出来ない。手足を使って、テレビを見るわけには行かない。受験戦争が大変だというが、以前よりは頭を使わなくては、生きていけない社会を作ってしまったから、仕方がない。
 ボケの問題が深刻になるのも、頭の重要性が増したからである。昔は、カマドに火をつけた上で、その事実をすっかり忘れても、同時にたきぎを加えることも忘れてしまう以上、火が燃え続けることはなかった。しかし、いまではいったんガスに火をつけたら、消すという操作を加えるまでは、ガスが燃え続けることになる。だからボケが大変なのである。
 お金の問題とは、私からすれば、典型的な「信号問題」である。お金を現実と思っている人は、そうは思わないかもしれないが、それは、自分の手元、つまりお金の動きの末端まったんだけに注目するからである。それは脳の場合も同じであって、感覚だけに注目すれば、現に感じられる以上、すべては現実だということになる。しかし、感覚だって信号としていったん脳の中に入ってしまえば、あとは「八幡やはたやぶ知らず(入ると出口がわからなくなるやぶ)」である。
 信号の問題点は、その意味で、途中とちゅうから現実がどこかに飛んでしまうことである。お金がお金を生んだりするのは、脳の中で信号が増幅ぞうふくされるのと同じであろう。脳の中で極端きょくたんに信号が増幅ぞうふくされる病が癲癇てんかん(てんかん)である。現代社会における、お金の増幅ぞうふくは、ほとんど癲癇てんかん前駆症状ぜんくしょうじょうに似ている。ドストエフスキーを読めばわかるが、軽い癲癇てんかんは、天国にいるような恍惚こうこつ状態を感じさせることがある。株で賭けか たり、土地で儲けもう たりすれは、恍惚こうこつ状態になる人も多いのではないか。
 お金の動きそのものが脳の中の信号の動きによく似ているので、たかがお金の動きに関する議論が、ときどき哲学てつがくや神学の議論に近くなるのであろう。こうした学問は、「ことば」という脳内の信号間の関係を、その信号そのものを使って講論する。際限なくモメるのは、そのせいである。

 (養老孟司たけし涼しいすず  脳味噌のうみそ』より)
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 先日、ある文科系の先生から、次のような趣旨しゅしの質問をいただいた。「脳科学の研究者たちは、いつでも細かい神経生理の最新知見を上げ、『このようにひとつひとつ明らかにしてゆくことによっていずれは脳の生み出すさまざまな現象を解明できるだろう』といいますね。彼らかれ の言葉は決まって『いずれ』『だろう』です。しかし本当にそうなのでしょうか? 臨死体験が脳のきょ血の反応だというのは一見納得しやすい意見です。しかし問題はもっと根本的なところ、つまりなぜ臨死体験するのかというところにあるのではありませんか? 脳について考えるときは、還元かんげん論的な手法だけでなく、哲学てつがくのような包括ほうかつ的なアプローチを用いることも重要なのではありませんか?」
 このような意見はもっともであり、いわゆる「科学的手法」で生命現象を解明してゆくことの難しさを端的たんてきに表していると思う。
 いくら神経細胞さいぼうを観察し、記憶きおくの形成メカニズムを調べたところで、「なぜヒトに『心』が存在するのか」という問いに答えることはできない。同様に、DNAを詳細しょうさい解析かいせきしたとしても、「ヒトとは何か」という漠然とばくぜん した巨大きょだいな問いに明快な答えを出すことなど不可能だろう。だがこれをもって科学的手法の限界を説くのは誤りである。
 多くの人は、「科学」に対して過度な期待を持っているようである。科学者に対し、「全てを科学で説明してみろ。ほら、できないではないか。世の中には科学で説明できないものもあるのだ。科学は万能ではないのだ」というのは間違っまちが ている。このような言い方の裏には科学に対する妄信もうしん的な信奉しんぽうと、それへの嫉妬しっとがある。科学は信仰しんこうの対象ではない。
 しかしこれならわかりやすい。厄介やっかいなのは逆の方向から科学を狭めよせば  うとする動きが広まりつつあることだ。識者やマスコミはオウム真理教事件や擬似ぎじ科学本の流行などといったいまの状況じょうきょうをひとつにくくり、「科学的」なものの見方が弱まっていることを嘆きなげ 、科学者たちが脆弱ぜいじゃくになっているのではないかと憂いうれ ている。だがここで「識者」が口にする「科学的」という言葉は、感
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情を一切排しはい た厳密性に対する理想と憧れあこが 漠然とばくぜん 指しているに過ぎないような気がする。そして、不思議なのは、科学者たちまでもがそのわなにはまり、自らにかせをつけようとしていることだ。
 私が思うに、科学とは「信仰しんこう」という名の魔法まほうでもなければ「厳密性」といった堅苦しいかたくる  ものでもない。この世に存在する無数の「驚異きょうい」に対するひとつのアプローチの仕方なのである。特に生命科学は、目の前にある生命現象を「理解」したいという単純な欲求から始まっている。驚きおどろ 驚きおどろ として認めた後、その驚異きょういを理性的に考え、理解しようと努める姿勢こそが科学なのであり、その意味において人文社会系もいわゆる「理科系」の科学と等しく科学なのである。
 文学や哲学てつがく、宗教学は決して科学と相反しない。例えば「文学は人間を描くえが もの」とはよくいわれるフレーズだが、科学もまた人間や自然を対象にしていることを決して忘れてはならないと思う。生命科学の論文は、文学と等しく「人間を描いえが ている」はずであり、またそうでなければならないと私は考えるのだがどうだろうか。

 (瀬名せな秀明ひであきの文章から)
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 学習の遺伝的プログラムは、その動物の生きかたに応じて、じつに細かな配慮はいりょをもって周到しゅうとうに組みたてられている。
 人間はもともと集団をつくって生活する動物なので、多くのことを学習して行動を身につけていくようにプログラムされていると考えることができる。事実、人間には学習しないとできない行動がたくさんある。性行動すら何らかの形で学習する必要があるといわれている。そして人間は、教えればずいぶんいろいろなことを学習する。
 このようなことが近代における多くの誤解を生むことになった。
 たとえば、人間は遺伝子から自由で、多くのことを学習によって獲得かくとくし、進歩してゆくという誤解。
 遺伝(本能)によらず学習によって行動を形づくっていくということは、人間が動物より格段に進化した存在であることの証拠しょうこであるという誤解。
 そして、人間は幼いときからいろいろなことを教えこんで学習させれば、いくらでも多くのことができるようになるという誤解。
 このような誤解にもとづいて、近代はやたらと教育熱心な時代になった。とにかく学校をつくって教育しなくてはいけない。
 こうして、多くの「進んだ」国々は、人づくりに狂奔きょうほんすることになった。
 たしかに、何かをするには「人」が必要である。けれど、その「人」をつくるという発想自体を検討してみようなどという兆しはまったく見られない。
 利己的遺伝子の見方に立つと、「人づくり」という発想はいかにも奇妙きみょうで、現実ばなれしている。あえて、利己的遺伝子説を引き合いに出すまでもなく、現代の一般いっぱん的な生物学の認識から見ても奇妙きみょうである。
 個人が生まれてのち育っていくプロセスは、いわゆる発生学の問題である。今日の発生生物学の認識によれば、発生、発育のプロセスは、基本的にはすべて遺伝的にプログラムされており、問題はそのプログラムがどのように構成されているか、そのプログラムがちゃんと作動し、具体化されてゆくためにどのような条件が必要か、ということである。
 こういう新しい条件を与えあた たら、新しいプログラムができて、新しい発育のしかたをするとか、プログラムが改善されて、よりすばらしい個体ができあがる、とかいうものではない。といって、
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プログラムはすでにあるのだから、何もせずにほっておいても自然に何かができあがってゆくだろうと考えるのは、パソコンにプログラムだけを入れて、何の入力もしないでプリンターに何かでてくるのを待っているにひとしい。何か手を加えてやることが不可欠なのである。
 しかし今述べたとおり、手を加えたからといって新しいプログラムができるわけではない。すでにその個体がもっているプログラムが具体化してゆくような条件を満たしてやるだけである。学習とか練習とか教育とかいうものは、まさにこれなのだ。
 教育とは教え込むこ ことではなく、引き出すことである、という表現が昔からあった。これはかなり当っている。しかし、そこで想定されていたのは、その個人がもっている力、あるいは能力を引き出すということであったように、ぼくには思われる。現代われわれに必要なのは、教育とはその個人がもっている遺伝的プログラムをできるだけよく具体化することだという認識である。

 (日高敏隆としたかの文章による)
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 一体、人間の頭の良さの特徴とくちょうとは何か。多くの研究者が、人間の知能の本質はその社会性にあると考えている。養老孟司たけし先生は、「教養とは他人の心がわかることである」としばしば言われる。他人と心を通じ合わせ、協力して社会をつくり上げることが、人間の頭の良さの本質である。
 頭の良さが社会性と深く関わるということを、意外に感じる人もいるかもしれない。学校で勉強ができる子どもはなんとなくツンと澄ましす  ていて、あまりできない子のほうがかえって他人と温かく接することができる。一般いっぱんにはそのような思い込みおも こ があるかもしれないが、現代の脳科学では、頭の良さとはすなわち他人とうまくやっていけることであると考えるのだ。
 他人の心を読み取る能力を、専門用語では「心の理論」という。コンピュータは、いくら計算が速くできたとしても、心の理論を持たない。他人の心を読み取り、初めて会う人ともいきいきとしたやりとりができるといった「コミュニケーション」の能力においては、人間はコンピュータよりもまだまだかに優れているのである。
 人間の社会的知性を、他の動物に比べてみると、どうだろうか。人間以外にも、社会をつくる動物はいる。アリは高度に発達した分業体制を持つし、さるの群れの中には社会的地位のようなものがある。しかし、これらの動物に比べてみても、人間の社会的知性が特に優れていることは疑いない。
 現在までに得られている知見を総合すると、厳密な意味で他人の心を読み取ることができるのは、全ての動物の中で人間だけであるとされる。「惻隠そくいんの情」「あうんの呼吸」「本音と建前」といった言葉に表れているように、相手の考えが身振りみぶ や周囲の状況じょうきょうからは容易に判断できない場合でも、目には見えない相手の心を読み取る能力に大変優れている。
 そのような能力は、動物にもあると考える人もいるかもしれない。ペットを飼っている人は、うちのポチ、うちのミイちゃんは私の心がわかるのよ、と反論したくなるかもしれない。
 犬は、人間の行動から意図を察知する能力に長けている。飼い主が見た方向に自分も目を向けたり、手の動きが示すほうに走ったりといった行動は、知能が発達しているとされるチンパンジーよりもむしろ敏捷びんしょうで反応が良い。
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 どうして、犬は人間の意図を読み取れるようになったのか。人類の歴史の中で、犬がペットとして飼われるようになった経緯けいいは明確ではないが、犬と人間がお互い たが の存在を「許容」するようになったことが一つのかぎであったと考えられている。
 野生の動物は、お互い たが に対する警戒けいかい心に満ちている。異種の動物はもちろん、同種の仲間にさえ容易に警戒けいかいを解こうとはしない。目を合わせれば闘ったたか たり、逃げだしに   たりすることが普通ふつうである。そのような状況じょうきょうでは、相手の振る舞いふ ま に合わせて自分が協力したり、微妙びみょうなニュアンスを読み取ったりといった認知能力は発達しない。
 英語に「犬は人間の最良の友」という表現がある。ある時期から、犬と人間がお互い たが の存在を許容し、リラックスしたままで「一緒いっしょにいること」が可能になったことが、犬と人間の「社会的な関係性」が発達する上で大切なきっかけとなったと、科学者たちは考えているのだ。
 犬と人間だけではない。人間同士の社会的知性の進化においても、お互い たが の存在を受け入れ、共生することが本質的に重要であったとされる。
 異質な他者を受け入れ、共生することが「頭が良くなる」ことにつながる。最先端さいせんたんの科学の理論が描き出しえが だ たそのようなシナリオには、世知辛くせちがら なっていく現代を生きる人間が耳を傾けるかたむ  べきメッセージが潜んひそ でいる。
 一緒いっしょに仲良くいることで頭が良くなる。私たち人間は、そのようにして「万物の霊長れいちょう」になったのである。

茂木もぎ健一郎けんいちろう「それでも脳はたくらむ」)
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