1ある書物がよい書物であるか、そうでないかを判断するために、普通私たちがやっていることは誰でも類似している。自分が比較的得意な項目、自分が体験などを総合してよく考えたこと、あるいは切実に思い患っていること、などについて、その書物がどう書いているかを、拾って読んでみればよい。2よい書物であれば、きっとそういうことについて、よい記述がしてあるから、大体その箇所で、書物の全体を占ってもそれほど見当が外れることはない。
だが、自分の知識にも、体験にも、まったくかかわりのない書物に行きあたったときは、どう判断すればよいのだろうか。3それは、たぶん、書物に含まれている世界によって決められる。優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある。その世界は書き手の持っている世界の縮尺のようなものである。4この縮尺には書き手が通りすぎてきた「山」や「谷」や、宿泊した「土地」や、出会った人や思い患った痕跡などが、すべて豆粒のように小さくなって籠められている。どんな拡大鏡にかけてもこの「山」や「谷」や「土地」や「人」は目には見えないかもしれない。そう、事実それは見えない。見えない世界が含まれているかどうかを、どうやって知ることができるのだろうか。
5もしひとつの書物を読んで、読み手を引きずり、また休ませ、立ち止まって空想させ、また考え込ませ、要するにここは文字のひと続きのように見えても、実は広場みたいなところだなと感じさせるものがあったら、それは小さな世界だと考えてよいのではないか。6この小さな世界は、知識にも体験にも理念にもかかわりがない。書き手が幾度も反復して立ち止まり、また戻り、また歩き出し、そして思い患った場所なのだ。彼は、そういう小さな世界をつくり出すために、長い年月を棒にふった。7棒にふるだけの価値があるかどうかもわからずに、どうしようもなく棒にふってしまった。そこには書き手以外の人の影も、隣人もいなかった。また、どういう道もついていなかった。行きつ戻りつしたために、そこだけが踏み固められて広場のようになってしまった。8実際は広場というようなものではなく、ただの踏み溜りでしかないほど小さな場所で、そこから先に道がついているわけでもない。たぶん、書き手ひ
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