a 長文 1.1週 re2
 そもそも動物の記号は、語を組み合わせた文ではない。なるほど、「文」という概念がいねんを使って説明するなら、ミツバチの八の字飛行という記号は、「みつがここにある。」という文を省略した一語文であり、群れのはしにいる個体が発する天敵の警戒けいかい記号は「敵が接近中だ。」という一語文とみなすこともできる。しかし、動物のコミュニケーションで用いられる記号は、パーツを組み合わせて作られた文ではないし、また記号をさらに組み合わせて、新たな記号列が作られることもない。
 ところが人間の言語は、そうではない。なるほど、「テキ」という語は、敵を指示しはする。しかし、単に「テキ」と呟いつぶや ただけでは、いまだ確定した意味をもちえない。「いる/いない」、「来る/来ない」、「多い/少ない」という別の語(述語)と組み合わせられて文が形作られたとき、「テキ」という語は、初めて確定した意味をもつ。すなわち人間の言葉は、文というまとまりの中で、初めて確定的な意味をもつ。
 しかるに文というまとまりは、人間の言語においては、語を自由に組み合わせて、任意の文を作ることができる。その結果、実際には起きていないことを述べる文も、次々に作ることができる。いま一頭の小ぶりの天敵が近付いている、としよう。このとき、「テキ、いない。」、「テキ、多い。」、「テキ、大きい。」といった多くの文は、すべてとなる。これらの文は、目下の状況じょうきょうではである。しかし、私たちは、それらの文の意味を理解できる。それはほかでもない、それらの文が真となるような状況じょうきょうを考えることができるからである。このように私たち人間は、語を自由に組み合わせて、任意の文を作りうるがゆえに、実際には起きていないことについて考えることもできる。いや、考えざるをえないのである。「果実」という語と「木に生る」という語を組み合わせて、「果実が木に生る。」という文を作れば、これは、われわれの世界で真な文だが、「金」という語を組み合わせた「金が木に生る。」という文はである。しかし、「金が木に生る。」という文が意味をもつ限り、「金の生る木」という語も意味をもつ。
 このように、言語を用いた人間のコミュニケーションにあっては、言葉は、現にないものについてメッセージをつくるためにも用いられる。人間の言葉は、実際には存在しないものを、思考の対象として、言わば呼び出す、という意味で「非在の現前」である。人間の言語は、実際には存在しないものについての思考を可能に
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し、そうした思考の交換こうかんを可能にする。こうした言語によってコミュニケーションが進行することによって、人間の協業の仕方は、動物たちの協業とはまったく異なるあり方をしている。このことが、人間としての協業の根幹に、極めて固有の刻印を与えあた ている。

 (大庭健「いま、働くということ」による)
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a 長文 1.2週 re2
こどもたち

こどもたちの視るものはいつも断片
それだけではなんの意味もなさない断片
たとえ視られても
おとなたちは安心している
なんにもわかりはしないさ あれだけじゃ

しかし
それら一つ一つとの出会いは
すばらしく新鮮しんせんなので
こどもたちは永く記憶きおくにとどめている
よろこびであったもの 驚いおどろ たもの
神秘なもの 醜いみにく ものなどを

青春があらしのようにどっと襲っおそ てくると
こどもたちはなぎ倒さ  たお れながら
ふいにすべての記憶きおく紡ぎつむ はじめる
かれらはかれらのゴブラン織りをはじめる

その時に
父や母 教師や祖国などが
海蛇うみへびや毒草 こわれたかめ ゆがんだ顔の
イメージで ちいさくかたどられるとしたら
それはやはり哀しいかな  ことではないのか

おとなたちにとって
ゆめゆめ油断のならないのは
なによりもまず まわりを走るこどもたち
今はお菓子 かしばかりをねらいにかかっている
この栗鼠りすどもなのである

(『茨木いばらぎのり子詩集』より)
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a 長文 1.3週 re2
内部からくさるもも

単調なくらしに耐えるた  こと
雨だれのように単調な……

恋人こいびとどうしのキスを
こころして成熟させること
一生を賭けか ても食べ飽きあ ない
おいしい南の果物のように

禿鷹はげたか闘争とうそう心を見えないものに挑むいど こと
つねにつねにしりもちをつきながら

ひとびとは
怒りいか の火薬をしめらせてはならない
まことに自己の名において立つ日のために

ひとびとは盗まぬす なければならない
恒星こうせい恒星こうせいの間に光る友情の秘伝を

ひとびとは探索たんさくしなければならない
山師のように 執拗しつよう
埋没まいぼつされてあるもの」を
ひとりにだけふさわしく用意された
「生の意味」を

それらはたぶん
おそろしいものを含んふく でいるだろう
酩酊めいていじゅうを取るよりはるかに!

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耐えた きれず人は攫むつか 
贋金にせがねをつかむように
むなしく流通するものを攫むつか 

内部からいつもくさってくるもも 平和

日々に失格し
日々に脱落だつらくする悪たれによって
世界は
壊滅かいめつの夢にさらされてやまない

(『茨木いばらぎのり子詩集』より)
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a 長文 1.4週 re2
 高い動機づけが速い時間と関係するという研究がある。ロバート・クナップらは、アメリカの七十三人の男子大学生を対象に、達成動機の高さと時間の流れる速さの知覚の関係を調べた。すると、達成動機が高いひとほど、時間が速く流れると感じていた。
 また、アメリカの心理学者トーマス・コトルは、現在を瞬間しゅんかん化してしまう原因は、現代社会の未来指向的な文化にあるとした。未来指向的な文化とは、達成や社会的上昇じょうしょうを重視する価値観をいう。未来指向的な文化のなかでは、現在が未来に影響えいきょう与えるあた  のではなく、未来が現在に影響えいきょう与えるあた  ことになってしまうという。つまり、現在は未来の単なる手段となってしまう。目標の達成のために主体的に時間を再構成するという能動的な自我の働きが、現在を瞬間しゅんかんとしてしまうとした。このような思わぬ結果を招いてしまう現象を、コトルは時間と自我のねじれ現象と呼んだ。
 未来指向的な現代社会が、日々の生活や年々の計画のなかに多すぎる課題をもちこんでしまい、それらをやりきることができないために、「一日が速く過ぎる」「一年がいつのまにか終わった」と感じてしまうのかもしれない。
 ドイツ人の作家ミヒャエル・エンデの作品『モモ』は、「灰色の男と、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な話」である。灰色の男は、将来のよい暮らしのために時間を節約し、時間貯蓄ちょちく銀行に時間を預けるよう、おとなたちをそそのかす。こうして、おとなたちは人間として大切なものを失っていくという物語である。私たちは、将来の準備や効率に追われて、現在というものを豊かに生きることができなくなっている。
 小林 進氏は、『モモ』には二つの異なった時間が流れているという。
 ひとつは、線的な時間といってよいような機械的物理的時間であり、私たちを合理主義の名前で縛っしば ているもの、能率よく、無駄むだを省くことが善であるかのような幻想げんそうをいだかせる時間である。灰色の男が計算するように、人生七十年が二十二億七百五十二万秒という時計的外的直線的な時間で表されるものである。
 もうひとつは、過去・現在・未来を超越ちょうえつして人間が普遍ふへん的に体験しうるような、内的・主観的時間である。主人公のモモが、人々をイメージの世界に導き、時を忘れさせ、それでいて自己を発見させていくような、豊かな広がりをもった螺旋らせん的な、円環えんかんする時
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間である。物理的な時間に追われて灰色の男になりかけている私たちが、本当に生きることを考え、自己を再発見し、自己実現していくうえで、内的時間を体験すること、失われつつある時間をとりもどすことが必要だとしている。
 この小林氏の指摘してきをもとに考えるならば、私たちに求められるのは、時間を等質化してしまう直線的な時間にかえて、時間的展望という内的時間を体験することなのである。

 (白井しらい利明「「希望」の心理学――時間的展望をどうもつか」による)
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a 長文 2.1週 re2
もっと強く

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石のたいがたべたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちはいく種類ものジャムが
いつも食卓しょくたくにあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは朝日の射すあかるい台所が
ほしいと

すりきれたくつはあっさりとすて
キュッと鳴る新しいくつ感触かんしょく
もっとしばしば味いたいと

秋 旅に出たひとがあれば
ウィンクで送ってやればいいのだ

なぜだろう
萎縮いしゅくすることが生活なのだと
おもいこんでしまった村と町
家々のひさしは上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背ねこぜをのばし あなたは叫んさけ でいいのだ
今年もついに土用のうなぎと会わなかったと

おーい 小さなつり道具屋さん
あなたは叫んさけ でいいのだ
おれはまだ伊勢いせの海もみていないと

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女がほしければ奪ううば のもいいのだ
男がほしければ奪ううば のもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪どんらんにならないかぎり
なにごとも始りはしないのだ

(『茨木いばらぎのり子詩集』より)

(注)「味いたい」=「味わいたい」 「始り」=「始まり」
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a 長文 2.2週 re2
いちど視たもの
一九五五年八月十五日のために――

いちど視たものを忘れないでいよう

パリの女はくされていて
凱旋がいせん門をくぐったドイツの兵士に
ミモザの花 すみれの花を
雨とふらせたのです……
小学校の校庭で
わたしたちは習ったけれど
快晴の日に視たものは
強かったパリのたましい

いちど視たものを忘れないでいよう

はおおよそつまらない
教師は大胆だいたんに東洋史をまたいで過ぎた
霞むかす 大地 霞むかす 大河
ばかな民族がうごめいていると
海の異様にうねる日に
わたしたちの視たものは
廻りまわ 舞台ぶたい鮮やかあざ  さで
あらわれてきた中国の姿!

いちど視たものを忘れないでいよう

日本の女は梅のりりしさ
はじのためには舌をも噛むか 
ふたをあければ失せていた古墳こふんかんむり
ああ かつてそんなものもあったろうか
戦おわってある時
東北の農夫が英国の捕虜ほりょたちに
やさしかったことが ふっと
明るみに出たりした
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すべては動くものであり
すべては深いかげをもち
なにひとつ信じてしまってはならない
のであり
がらくたの中におそるべきカラットの
宝石が埋れうも 
歴史は視るに価するなにものかであった

夏草しげる焼跡やけあとにしゃがみ
若かったわたくしは
ひとつの眼球をひろった
遠近法の測定たしかな
つめたく さわやかな!

たったひとつの獲得かくとく
日とともに悟るさと 
この武器はすばらしく高価についた武器

舌なめずりして私は生きよう!

(『茨木いばらぎのり子詩集』より)

(注)「戦」=「戦い」
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a 長文 2.3週 re2
悪童たち

春休みの悪童たち
所在なしに
わが家のへいに石を投げる
石は
古びたへいをつきぬけ硝子がらす窓に命中する
思うに
キャッとばかり飛び出してゆく私の姿を
見ようがための悪戯あくぎ
桜の木から偵察ていさつ兵のちびが
するすると逃げに てゆくのを目撃もくげきした
泥棒どろぼうとか実を盗むぬす のならかわいいのだけれど

ある日
とうとう一味の三人をえた
   学校名を言いなさい! 何年生?
   だれがしたの?
   あなたたちの家 どこ?
   あなたたちのお母さんに
   言わなければならないことがある!
一味は頑としてがん   口を割らず
逃げに 首謀しゅぼう者を庇っかば ている
かれらにはかれらのおきてがあり
沈黙ちんもく抵抗ていこう運動の仲間のように完璧かんぺき
私の叫びさけ を不敵な笑いで眺めなが られると
ぎりぎりと拷問ごうもんしても
どろ吐かは せたいさざなみが立ってくる

アルジェリア!
腐臭ふしゅう薫風くんぷうにのってくる
わが青春の日に讃えたた たフランスのたましい
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十数年でさびを呼んでしまったのか!
   おまわりさんを呼んでくる
   という一言をぐっと押えおさ 
   割られた窓を繕いつくろ 
   私は顔をあからめてくびすを返す

次の日は戦法をかえる
へいに石の鳴る時刻
私はほんきでやさしい気持を作って出てゆく
   あなたたち そうしないでね
   自分の家のへいにそうされたら
   困るでしょう
   硝子がらすを割られると本当に困るのよ
ガラスはもはやガラスではなく
微妙びみょうであやしげな人間の権利そのもの
ふるえだ
子供たちはウンという
やさしい言葉で人を征服せいふくするのは
なんてむつかしく しんどい仕事だろう
悪童の顔ぶれは毎日違いちが 
私は毎日出てゆかねばならない
遠視の眼鏡をずりあげながら
シャボンのあわだらけになりながら
菜切包丁を持ったりしたままで
へいひとつむこう
夕暮などは
蚊柱かばしらのように群れている子供たちの広場へ

(『茨木いばらぎのり子詩集』より)
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a 長文 2.4週 re2
 私たちは生きていく中で私たち自身の「生きる意味」を変化させていく。人生地図の濃淡のうたんの具合が変わっていくのだ。例えば、小さいときはお母さんが世界の中心で、学校に行きだすと友達が大切になり、その後バンドにはまった青春期が続き、就職したら仕事がものすごく面白くなり、しかし「釣りつ 」と出会ってからはそれがもう一生の友……といったように、私たちはひとりひとり別々の「生きる意味」の遍歴へんれきを持っているものだ。そして、その「生きる意味」の歴史は積み重なり、人生経験となって私たちの生きる意味をさらに深めていく。私たちの人生とは、「生きる意味」の成長とともにあるのである。
 ところが、私は何の「内的成長」もなかったと自分自身を振り返るふ かえ 人もいる。
「私は結局ずっと人の目を気にして「いい子」をやってきたんだと思います。小さいときは親にとっての「いい子」そのものでした。クラスでもいつも優等生でしたが、それも先生や友達の前で「いい子」をやっていたのだと思います。それから「いい妻」になり「いい母」になりました。だから周りの人はみんな「よくできた人だね」って言うんですよ、私のこと。でも、このごろ気づいたんです。私って小さいときから成長してないって。いつも周りの人の目を気にして「いい子」をやり続けてきた。もしかしたら子どものままなんじゃないかって」。
 彼女かのじょは人生でたくさんのことをやってきたはずだ。学校では優等生だし、友達にもきっと優しかったことだろう。絵にいたような幸せな家庭を築いてきたのかもしれない。しかし、周囲からは幸せそのものと見えていても、本人が悩んなや でいるということはよくあることだ。私は何か不自由だ。自分自身が自分でないような気がする。そして、その不満に直面し、自分の人生を見つめ直したとき、自分はいろいろなことをやってきたけれども、「生きる意味」においては全く成長していなかったのではないか、常に「人の目を気にするいい子」を生きてきたのではないかと気づく。そしてそこから彼女かのじょの人生の転機が始まるのだ。
 人生の「創造性」、それは、私たちが常に新しい「生きる意味」に開かれて生きていることを意味している。私たちが「生きる意味」の創造者であり、人生の節目節目で「生きる意味」の再創造を行うことができること、それが人生の創造性なのだ。
 それは「あなたがこの社会で創造性を発揮すれば、その分、あ
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なたに報酬ほうしゅうが得られるような、創造的な社会にしましょう」といった、一見「創造的」に見えながら「閉ざされた意味」へと駆り立てか た ていくような、閉じた「創造性」とは違うちが 。小さいときから、最大限効率的に生きることをたたき込み   こ 、一生自分が効率的かどうかチェックしながら生きるような社会は、実は創造性を欠き、「内的成長」をもたらさない社会なのだ。
 私たちの社会はもはや物質的には十分豊かだ。いま真に求められているのは、生きることの創造性、「内的成長」の豊かさなのである。
 さて、そうした「内的成長」のきっかけとなるものは一体何だろうか。言い換えれい か  ば、私たちはどうやって私たちの「生きる意味」に気づくのだろうか。いま私が真に求めているものにどのように出会うのだろうか。
 それは私たちひとりひとりが、二つのものへの感性を研ぎすますことから始まる。それは、「ワクワクすること」と「苦悩くのう」の二つである。

 (上田紀行「生きる意味」による)
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a 長文 3.1週 re2
ぎらりと光るダイヤのような日

短い生涯しょうがい
とてもとても短い生涯しょうがい
六十年か七十年の

百姓ひゃくしょうはどれほど田植えをするのだろう
コックはパイをどれ位焼くのだろう
教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう

子供たちは地球の住人になるために
文法や算数や魚の生態なんかを
しこたまつめこまれる

それから品種の改良や
りふじんな権力との闘いたたか 
不正な裁判の攻撃こうげき
泣きたいような雑用や
ばかな戦争の後始末をして
研究や精進や結婚けっこんなどがあって
小さな赤ん坊あか ぼうが生まれたりすると
考えたりもっと違っちが た自分になりたい
欲望などはもはや贅沢ぜいたく品になってしまう

世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くおどろ だろう

指折り数えるほどしかない
その日々の中の一つには
恋人こいびととの最初の一瞥いちべつ
するどい閃光せんこうなどもまじっているだろう

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「本当に生きた日」は人によって
たしかに違うちが 
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺じゅうさつの朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ

(『茨木いばらぎのり子詩集』より)
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a 長文 3.2週 re2
友あり 近方よりきたる

友あり 近方よりきたる
まことに困ったことになった
ワインはすずめなみだほどしかないし
すてきなお菓子 かしもゆうべでおしまい
果物をもぎに走る果樹園もうしろに控えひか てはいず
多忙たぼうにて
この部屋もうっすらほこりがたまっている
まあ落ちついて 落ちついて
ひとの顔さえ見れば御馳走ごちそうの心配をする
なぞは田舎風というものだ
いえ 田舎風などと言ってはいけない
その日暮しの根の浅さを不意に襲わおそ れた
これは単なる狼狽ろうばいである
この時古風な絵のように
私の頭に浮かんう  できた戸棚とだなの中の桜桃おうとうの皿
ああ助った
あれは遠方の友より送られた
つややかな桜の木の実
一つ一つ含みふく ながら
せめて言葉のシャンペンを抜こぬ 
シャンペンとはどんなお酒か知らないが
勢のいいことはほぼたしか
明日までにどうしてもしなければならない
仕事なんて そんなに沢山たくさんあるもんじゃない
ほとほとと人の家のとびら叩きたた 
訪ねてきてくれたこころの方が大切だ
沸騰ふっとうするおしゃべりに酔っぱらいよ    
ざくざくと撒きま 散らそう宝石のように結晶けっしょうした話を
ひとの悪口は悪口らしく
凄惨せいさんに ずたずたに やってやれ
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女ともだちのふるえる怒りいか はマッチの火伝いに貰うもら ことにしよう
このひととき「光る話」を充満じゅうまんさせるために
飾りかざ をむしれ 飾りかざ をむしれ
わがたましいらしきものよ!
近方の友は
痛みとはじ隠さかく ぬことによって
斬新ざんしんなルポをさりげなく残してゆく
わたくしもまた
そしらぬ顔で ぺたりと貼りは たい 彼女かのじょの心に
忘れられない話を二つ三つ
今はもうあまりはやらない旅行かばんのラベルのように

(『茨木いばらぎのり子詩集』より)

(注)「助った」=「助かった」 「勢」=「勢い」
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a 長文 3.3週 re2
言いたくない言葉

心の底に 強い圧力をかけて
しまってある言葉
声に出せば
文字に記せば
たちまちに色褪せるいろあ  だろう

それによって
私が立つところのもの
それによって
私が生かしめられているところの思念

人に伝えようとすれば
あまりに平凡へいぼんすぎて
けっして伝わってはゆかないだろう
その人の気圧のなかでしか
生きられぬ言葉もある

一本の蝋燭ろうそくのように
熾烈しれつに燃えろ 燃えつきろ
自分勝手に
だれの眼にもふれずに

(『茨木いばらぎのり子詩集』より)
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a 長文 3.4週 re2
 現在の私たちは、生命というものを個体性によってとらえる。たとえば、私という生命がある。あなたという生命がある。このふたつの生命は無関係な位置にあるのかもしれないし、何らかの結びつきをもった関係にあるのかもしれない、というように、出発点にあるのは固体としての生命である。
 花ひとつひとつにも、木の一本一本にも、虫一ぴきぴきにも、もちろん動物や人間一人一人にも、それぞれ固有の生命があり、全体的世界を個体の生命の集合としてとらえる。
 しかしそれは、特に村においては、近代の産物だったのではないかと私には思えてくる。もちろんいつの時代においても、生命は一面では個体性をもっている。だから個人の誕生であり、個人の死である。だが伝統的な精神世界の中で生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もうひとつ、生命とは全体の結びつきの中で、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なりあって展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと私は思っている。
 この感覚は木と森の関係を見るとよくわかる。木はその一本一本が個体性をもった生命である。だから木の誕生もあるし、木の死もある。しかしその木は、もう一方において、森という全体の生命の中の木なのである。しかも森の木は、周囲の木を切られて一本にされてしまうと、多くの場合は個体的生命を維持いじすることもむずかしくなるし、たとえ維持いじできたとしても木の形が変わってしまうほどに、大きな苦労を強いられる。森という全体的な生命世界と一体になっていてこそ、一本一本の木という個体的生命も存在できるのである。この関係は他の虫や動物たちにおいても同じである。森があり、草原があり、川があるからこそ個体の生命も生きていけるように、生命的世界の一体性と個体性は矛盾むじゅんなく同一化される。
 伝統社会においては人間もまた、一面ではこの世界の中にいた。人間は個人として生まれ個人として死ぬにもかかわらず、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎えるむか  人間は結びあった生命世界の中にいる、それと切り離すき はな ことのできない個体であった。
 伝統的な共同体の生命とはそういうものである。ところがその人間は「自我」、「私」をもっているがゆえに、共同体的生命の世界からはずれた精神や行動をもとる。
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 だからこそ共同体の世界は、地域文化が、つまり地域の人々が共有する文化が必要であった。それが通過儀礼ぎれいや年中行事であり、それらをとおして人々は、自然とも、自然の神々とも、死者とも、村の人々とも結ばれることによって自分の個体の生命もあることを、再生産してきた。

 (内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」から)
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