a 長文 7.1週 ri
 机の横にコピーに使った紙が積んである。裏の白いところを生かしてメモ用紙にしているのだ。何か用事を思い出すと、さっとメモをとる。計算用紙のかわりにもなるし、作文の構成用紙のかわりにもなる。折りたたんで暗唱用紙のかわりにすることもできる。一枚の薄いうす 紙が、いろいろな形で役に立つ。この紙にひとまとまりの文字を載せるの  と、文章の書かれた紙となる。手紙やレポートは、だれかに自分の考えを伝える道具だ。その道具をいちばんの土台で支えているのが、この紙とペンである。私は、この紙のように、さまざまな情報を載せるの  ことのできる教養の大きな受け皿になりたい。
 そのためには第一に、白紙のように、何でも素直に受け入れる心を持つことだ。日本の昔話に「わらしべ長者」がある。一本のわらにアブをつけて持っていた男が、そのわらしべをミカンと交換こうかんする。やがて、そのミカンを反物と交換こうかんし、反物を馬と交換こうかんし、馬と交換こうかんに家をもらう、という話だ。自分自身の教養を高めるためには、このように何でも素直に受け入れる心が欠かせない。世の中には、相反する意見や情報も多い。それらを先入観なく受け止める心の広さが必要なのだ。
 第二の方法は、逆に、素直に受け入れたものの中から、自分に必要なものを選択せんたくする勇気だ。戦争は、日本の命運を決める戦争だったが、この戦争を遂行すいこうした日本のリーダーたちが共通して持っていたものは、困難な選択せんたく敢えてあ  する勇気だった。日本が立ち上がることによって初めて東アジアはロシアの支配をはねのけ自立することができた。また、日本の勝利は世界の有色人種の自覚を促しうなが 、その後の世界史の流れを変えた。何でも受け入れる素直な心は、選択せんたくし決断する勇気と組み合わされることによって初めて価値あるものとなる。
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 確かに、自分の得意な特定の専門分野を持つことも必要だ。それは、紙で言えば、自由に書き込めるか こ  白紙ではなく既にすで 印刷された紙だろう。情報が印刷された紙には、それなりの価値がある。しかし、それは、その特定の目的以外に使うことができない。新聞紙の場合は、印刷されていても、弁当の包み紙に使うこともできるが、それは本来の用途ようととは言えない。私たちに必要なのは、たくさんの古新聞ではなく、たくさんの白紙だ。机の横に積まれたメモ用紙を生かして、自分らしい広い教養を育てていきたい。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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a 長文 7.2週 ri
 生きることは学ぶことであり、学ぶことには喜びがある。生きることは、また何かを創造していくことであり、その創造には、学びの段階では味わえない、大きな喜びがある。このことはどんな人の人生にもあてはまるが、特に学問の世界では銘記めいきすべき事柄ことがらであろう。
 言葉をかえて表現しよう。学問の世界においては学ぶこと、創造することの喜びはとりもなおさず、考えることの喜びだと思う。どんな分野の学問でも何か新しいものを発見し、創っていくことに本来の意義がある。「発見」と「創造」にこそ、意味がある。単なる知識の受け売りは学問とはいえないし評価に値することもない。さまざまな知識は考えるための資料であり、読書は考えるためのきっかけを提供してくれるものである。
 そう思えば、知識を集めることも案外楽しいことだし、読書も苦にならない。耳で聴きき 、体で感じ、目で読んで考える。考えたあとでは聴いき たこと読んだことは忘れ去ってもよいわけだ。覚えていなければならない、忘れてはならないと思うと、学問する前に疲れつか てしまい、学ぶこと自体が億劫おっくうになってしまう。本来、学問はそんなに難しいことではなく、考えることの好きな人間ならだれでも学問することができるし、その喜びを味わうことができるものである。
 それにしても、そもそも創造を生み出す力はどこからやってくるのか。創造性の背景にある重要な条件とは何なのか。
 まず、こんな言葉がある。フランスの有名な数学者ポアンカレがいった、「創造とは、マッシュルームのようなものだ」という言葉である。
 マッシュルームは、キノコの一種である。キノコというと、日本人の私はすぐに松茸まつたけを連想してしまうのだが、すなわち、その松茸まつたけのようなものが創造だ、とポアンカレはいうのだ。
 松茸まつたけは、周知のように地表下にきん根と呼ばれる根をもっている。この根は、きわめていい条件が与えあた られると次第に円形に広がりながら発達していく。ところが、この好条件がいつまでも続くと、根だけが発達してキノコをつくらずに、ついには老化して死んでしまうのである。植物に詳しいくわ  知人の話によると、実に五百年にわたって根だけが発達し、枯死こしした松茸まつたけがあるらしい。
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 では、どうするか。発達してきた根に、ある時点で、根の成長を妨害ぼうがいする条件が与えあた られなければならないのである。その妨害ぼうがい条件は、例えば季節の変化による温度の上昇じょうしょうあるいは下降といった外界の条件であったり、また、松やにとか、酸性の物質とかの物質的条件であったりするようだ。このような条件が与えあた られると、その妨害ぼうがいにもめげずに生きるために、根は胞子ほうしという形で種子をつくって発達を続けようとする。そうして、やがて松茸まつたけとなるのである。(中略)
 仏教の「因縁いんねん」という言葉を創造性にあてはめて考えてみると、「因」とは、地表下で発達をとげた松茸まつたけの根のように、人が親から受け継いう つ だり、周囲の人間から学んだり、あるいは学校で勉強したりしながら自分の中に蓄積ちくせきしていったものではないかと私は思う。だが、この「因」だけがあれば、創造あるいは飛躍ひやくができるわけではない。「えん」となるものが必要なのである。ある時点で、松茸まつたけ与えあた られる妨害ぼうがい条件に相当するものが、人がものを創造する上でも必要なのである。蓄積ちくせきを表出させる条件が要るのである。それが「えん」である。ただし「えん」にも二種類ある。「順縁じゅんえん」と「逆縁ぎゃくえん」である。実生活では、しばしば「逆縁ぎゃくえん」が表出エネルギーとなる。「逆縁ぎゃくえん」という言葉を一般いっぱん的な言葉に置き換えるお か  と、「逆境」という言葉にあてはまるのではないだろうか。
 世の中で成功した人は、大抵たいてい、逆境を自分の人生にプラスに取り込んと こ でいく能力をそなえているように私には見える。創造にも、この逆境が深く関係している、といわなければならない。

広中平祐ひろなかへいすけ「生きること学ぶこと」による。)
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a 長文 7.3週 ri
 何といっても、現代技術を特徴とくちょうづけるのは豊富な工業製品の氾濫はんらんであろう。少なくとも先進工業国においては、高い生産性に裏づけられた安価で高品質の工業製品を容易に入手することができる。このことが豊かさの象徴しょうちょうである。そして途上とじょう国においても、そのような豊かさが目標として設定されている。
 現代技術は、とりあえず人間にとって有用でない自然資源を抽出ちゅうしゅつし精練し、そして加工して有用なものに変化させることをその中心としている。豊かさは、このような生産技術によって支えられる。
 ところが、このような技術の持つ問題が、最近しばしば話題になる。豊富な工業製品をつくり出すための条件としての資源エネルギーについては、その限界が指摘してきされてすでに久しい。しかも使用し終わった製品の廃棄はいきについては、安全問題などを引き起こしながら廃棄はいき場所の重大な不足を招いている。そしてもっと本質的なこととして、資源と廃棄はいきという、いわば工業製品の条件のみならず、製品そのものの使用の場面においてさえも、道路の容量に対して過剰かじょうな自動車とか、家の中に入り切らない家庭用機器などの問題が起きている。しかも道路の新設は少なくとも都会においてはもはや不可能であり、家の広大化は地価の高騰こうとうによって望むべくもない。
 とすれば、自然資源を有用な人工物に変換へんかんすることによって豊かさを達成するという、あたかも自明と考えてきた命題は、多くの矛盾むじゅんをはらむようになってきたと言わざるを得ない。これらは、人工化環境かんきょうにおける人工物充填じゅうてん率の限界であり、資源エネルギーの限界であり、廃棄はいき物処理能力の限界である。そしてこの限界は、局所的現象にとどまらずに、オゾン層破壊はかいに見られるように地球的規模にまで拡大している。
 依然としていぜん   工業製品の大量供給という図式に頼りたよ ながら、一方で私たちは別の視点を生み出しつつある。それは、工業製品を使用するのは、それに潜在せんざいする機能を発現させ享受きょうじゅすることが本当の目的であり、製品を所有することはそのための単なる手段にしか過
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ぎないという視点である。事実、レンタルなどの方式は次第に拡がりつつあり、そこには製品の機能を買うという形態が生まれつつある。
 考えてみれば、豊富な製品を所有しそれに囲まれて暮らすというのは、それ自体は目的でなく、それらから発現してくる豊富な機能を享受きょうじゅするのが目的であるのは当たり前のことであり、その所有とは、本来の機能享受きょうじゅの目的達成を可能にする一手段に過ぎない。とすれば、技術による豊かな社会の実現という視点においては、このような製品所有は必然的なものではない。むしろ機能の売買がより本質的である。
 我々が日常生活において、製品を買って所有するかレンタルで機能を買うかの選択せんたくは何気なく行うことが多いであろう。しかしこのことは一見その場面場面では偶発ぐうはつ的なことのようでありながら、結局は充填じゅうてん率の限界などの現代技術が持つ問題に本質的に影響えいきょう与えあた ていく重要な視点である。

 吉川よしかわ弘之ひろゆき「テクノロジーの行方」による。
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a 長文 7.4週 ri
 むかしぼくらは、学生で合宿していたころ、よく上野の動物園へ出かけていった。近かったし、ほかに遊びを持ってなかったし、二〜三枚の銀貨でみんなそろって遊べるので、よくいっしょにドヤドヤッと出かけていった。
 しかしぼくは、全体としての動物園をあまりすかなかった。第一、水禽すいきんのガアガアなきたてる声があまり愉快ゆかいでなかった。第二、広い動物園にいっぱいになってるケモノのにおいがたまらなかった。それがひどくからだを疲れつか させた。らくだなどことにひどかった。ぼくがみんなといっしょによく出かけたのは主として山猫やまねこを見ようためだった。
 山猫やまねこめは全身まっ黒の毛に包まれて金いろの目をしていた。かれのしっぽはからだよりも長く、イザというときにはこん棒のようになるにちがいない一種特別のふくらみを見せていた。ぼくの知るかぎりかれは、おりの奥行きおくゆ の半分より前へは一度も出てこなかった。いつもおくの方にすわって、けっして人になれることがなかった。ぼくはかれに「ごろつき」の名を与えあた た。かれはぼくに、ごろつき、ニヒリスト、かっぱらい、海賊かいぞく等のことばを思い出させた。
 くまはおりの金棒につかまって臆面おくめんもなく芸当をして見せていた。とらは金いろのしま目をきらめかしておりのなかを行き来していた。それは落ちぶれた貴族のようにものあわれであったが、同時に落ちぶれた貴族のように浅ましい媚びこ を感じさせた。獅子ししときては話にもならなかった。かれはすっかりくらふとって、むかしのこともすっかり忘れはててしまい、ここでいつかかれをつかまえた人間どもから比較的ひかくてきよく待遇たいぐうされてることにいい気になってしまい、その「あてがいぶち」に満足しきっていた。鈍感どんかんになってしまったかれは、ここの動物園のなかでさえ自分を王様と考えてるように見えた。それはぶたにも劣るおと ものだった。
 しかし山猫やまねこめにそんなことはなかった。
 かれはまっ黒の顔をしてその金いろの目をピカピカ光らせていた。おりの暗いおくの方でそれはりんのように燃えていた。かれはけっして人前で歩いて見せたりはしなかった。こんなところへ押し込めお こ 
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になっていてもいつもかれの国のことを考えていた。かるがると飛び、飛び越しと こ 、全力でかみ、思う存分血を流すかれの国でそれができないくらいなら、そんなところでたとえそれをすることから肉の一片ひときれを手に入れることができるとしても、そんなことのまねをする必要はないと考えていた。とら獅子しし大蛇だいじゃなぞがこんなばかものになってしまったとすれば、やつらがそんなに堕落だらくしてしまったというその一事のためにもがんばらなければならないと考えていた。かれは本能的に捨て身にかかっていた。それでかれのおりは一種のうすっ気味悪さで見る人に襲いかかっおそ    た。それで人びとはかれのおりの前にあまり長く立ちどまらず、なるべく黙殺もくさつする方針をとり、果ては知らず識らず黙殺もくさつして、とうとうそのことに平気になってしまっていた。

(中野重治『山猫やまねこその他』)
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a 長文 8.1週 ri
 生きもののようにほのおをあげ、やがて燃えつきて灰になっていくかつての火の姿には、霊的れいてきな生命を予感させる存在感があり、すべての人びとの心に、火の思い出にまつわるさまざまな感情を呼び起こしたものだったが、そんな火との対話さえ、最近では次第に忘れられていく。
 それに代わって、家庭の中には、電気がまや電子レンジが現れ、石油ストーブやセントラルヒーティングが普及ふきゅうし、かつてのランプのほのおのまわりに広がっていたやみのしじまは消え失せて、いたるところに真昼のような人工照明の空間が出現してしまったのである。
 考えてみれば、人類の歴史というのは、火の使用という驚くおどろ べき体験によって幕をあげたと同時に、じつは、いかにしてその原初の火を手なずけ、制御せいぎょ可能なものにするかという挑戦ちょうせんの歴史であったといえるのかもしれない。
 寒さにこごえ、飢えう と動物からの襲撃しゅうげきにさらされて、四六時中休まることのなかった人類が、はじめて火を手なずけることのできたときの感動は、想像にあまるものだったろうが、それと同時に、その火は油断をすればたちまち消えてしまうか、反対に自分たちを焼き滅ぼしほろ  てしまいかねない恐るべきおそ   存在であったのだ。いわば、神と悪魔あくま兼ねか そなえたような、そんな火を、いつでも好きなとき、好きな場所で、好きな目的のために使えるように制御せいぎょ可能なものにするために、人類は火と格闘かくとうし、火に学び、燃焼を制御せいぎょするさまざまな知恵ちえを発明してきたのだといえる。
 もともと火に備わっていた熱や光の属性を、それぞれ目的別、機能別に解体し、それに応じて燃焼の素材や方式を多様に分化させることで、原初の火のもつカリスマ性を骨抜きほねぬ にし、いまや人畜じんちく無害で、ポケットに入れて運べるミクロの「火」から、スイッチ一つで呼び出せる「アラジンのランプ」まで、無数の人工的な火の代替だいたい物をつくり出してしまったのである。
 皮肉なことに、かつての独裁者的な火の神は、いまではすっかりおとなしくなり、たくましくほのおをあげて燃える原初の火に
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触れるふ  機会は少なくなったかわりに、火の機能の代替だいたい物は、正体のはっきりしないブラックボックスとして、生活の隅々すみずみにまで侵入しんにゅうしはじめている。
 それはポケットの中のライターのような貧弱なものばかりではない。都市の中の住区から個々の住宅まで、ツリー構造でのびたパイプや針金のネットワークにそって流れる都市ガスや電気などの火の「素」で、その見えない火のネットワークは、かつての原初の火も及ばおよ ぬほどの強烈きょうれつ潜在せんざいエネルギーを秘めて、現代人の生活環境かんきょうを取り巻いてしまっているのである。
 かつての原初の火は、個人のレベルで向き合って対処することができたが、このように社会化されてしまった現在の火は、時に個人の知らぬところで暴発する。ネットワークの規模が大きくなるほどその供給源と末端まったんの間の階層的距離きょりは広がって、やがて個人の手に負えないものになる。こうして、いまや熱の機能としての現代の「火」は、一方では飼いならされた柔順じゅうじゅんなしもべであると同時に、他方ではいつどこで暴走するかしれない不気味なダモクレスのけんと化してしまっているのである。

坂根厳夫さかねいつお「科学と芸術の間」より。)
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a 長文 8.2週 ri
 最近、料理を趣味しゅみとする人が増えたが、初心者とプロとで一つ大きく違っちが ていることがある。初心者の場合は本や自分のレパートリーの中から、まず自分のつくりたいものを決め、必要な材料を買いにゆく。材料の中で一つでも手に入らないものがあれば、どこまでも探しにゆく。これに対してプロの料理人は、まず市場をのぞきにゆくという。そしてその日に入荷した材料の中から良くて豊富なしゅんのものを見つけると、それを中心にして活かす料理の設計がそれから始まる。
 初心者の場合は技術からの発想である。最初に手持ちの技術と設計があり、それに必要な資源を求める。これに対して、プロのほうは、資源からの発想というべきであろう。最終目標についての大まかなイメージはあろうが、設計が初めからきまっているわけではない。まず手に入れられる、資源を前提にして、それを活用するための技術がそれから決まるのである。
 資源からの発想が可能なためには、レパートリーが広く、しかも自由にそれを応用し得る能力が必要である。だが結果的にはその時期ごとに最も良い材料で安く良いものをつくることができる。
 これまでの近代産業技術は、つねに技術からの発想だったといえる。技術開発も、はじめに既存きそんの技術があり、それをいかに修正するかの問題であった。設計図が先にあり、それに必要な資源は世界中から運んできた。石炭の豊富なところで始まった技術が全く石炭のないところへ導入されることもしばしば見られることであった。地元に他の資源があってもそれが既存きそんの技術に合わなければ一切かえりみられず、ひたすら既存きそんの技術に適する資源を追いもとめてきたのである。
 その結果、石油やウランなど地域的に偏在へんざいのはげしい資源への過度の依存いぞんが起こり、それをめぐって各国がしのぎをけずり、国際的な政情の変化に一国の経済基盤きばん揺り動かさゆ うご  れるようになったことは、今のエネルギー問題が雄弁ゆうべんに物語っている。そして今、有力な代替だいたい資源が見当たらないまま、石油資源の枯渇こかつは目に見えはじめている。
 だが資源は本当にないのだろうか?
 エネルギー資源にせよ、鉱物資源にせよ、最近騒がしくさわ   いわれる
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水資源にせよ、よく考えてみると我々の身のまわりにはかなり豊富にある。ないのはそれを活用する技術であり、何よりもそこに目を向ける資源からの発想であった。
 近代文明は、技術からの発想に立ってこれまで目覚ましい発展をとげてきた。手引き書の通りやりさえすれば初めての人でも一応の製品がつくれるからである。日本はまさにその優等生であった。だがそれは所詮しょせん、初心者の料理にすぎなかったのではあるまいか? そして今、その基本的な材料の不足に音を上げている……。
 今日、人類が直面している危機を乗り越えの こ 、新しい文明への道を拓くひら ためには、発想を一八〇度転換てんかんして、技術からではなく、資源からの発想に切り換えき か 得るかどうかがかぎとなることであろう。
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a 長文 8.3週 ri
 文章を読んでいて、いっていることが全面的に肯定こうていされるのではない、また、当面必要なことでもないけれども、じっとしていられないような興奮を覚えることがあって、そういうとき、「刺激しげき的」という形容詞が使われる。刺激しげき的」とはどういうことか。
 かりに、本を円周のようなものだと考えてみる。読者はゆっくりその円に添っそ て走り出す。だんだん速度が加わってくると、はじめのように円に即しそく ているのが困難になり、カーヴでは外へ飛び出そうとするかもしれない。
 刺激しげき的」とは、そういうカーヴをたくさんもった本ということになろう。
 読者が予期するようなところへ展開するなら、快感はあっても、刺激しげきはすくない。逆に、読者の意表をつくようなことがつぎつぎあらわれると、読者はその都度、タンジェントの方向へ飛び出そうとして、そこに緊張きんちょうをかもし出す。それが刺激しげき的と感じられる。
 脱線だっせんしかけるときに創造のエネルギーが生まれる。直線レールの上を静かにおとなしく走っていれば脱線だっせんの危険もないかわり、軌道きどうの外へ出たくても出られない。無理なカーヴを大きなスピードで走り抜けよはし ぬ  うとすれば脱線だっせんするかもしれないが、そこに、新しい道のできるチャンスもある。安全な軌道きどうを選ぶか、危険なカーヴの多い道を選ぶかは好みにもよるが、発見に便利なのは脱線だっせんの可能性の大きなルートを走ることである。
 かりに大きなカーヴがあってもスピードがなければ脱線だっせんしない。安全運転だけを目標とするのなら、脱線だっせんしないのは喜ぶべきことだが、新しい道をつくるには、軌道きどうの上だけ走っていたのでは話にならない。無理なカーヴなら脱線だっせんして、より合理的な近道を発見することができるはずである。脱線だっせんするにはスピードを出している必要がある。これは自動車の運転とは違うちが 
 ころがって読んだときに、たいへんおもしろいと思ったから、
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ひとつ本腰ほんごしを入れて読んで何かまとめてみようか、などと考えて机に向かって読むとさっぱりおもしろくなくなってしまう。そういう経験はすくなくない。やはり、読む速度が関係しているように思われる。さっと読んだときは、適当に脱線だっせんして、勝手なことを想像しながら読む。ところどころで自分の考えを触発しょくはつされる。それが「おもしろい」という印象になっている。ていねいに読めばいっそうおもしろくなるように考えるのは誤解で、スピードにともなうスリルが消えると、さっぱり刺激しげき的でなくなってしまうのである。(中略)
 大きな木の下には草も育たない、という。大木はすばらしい。寄らば大樹のかげ、という言葉もあるくらいである。近づきたいと思うのは人情であろう。すぐれた本も大木のようなところがある。その下に立っては手も足も出ないで、ただ、大著名著であることを賛嘆さんたんするにとどまる。大木は遠くから仰ぎあお 見るべきものと思って、早くその根もとから離れるはな  必要がある。
 これは本だけではなく、すぐれた指導者についてもいいうる。すぐれた影響えいきょう力をもっている点にのみ着目していると、そのために個性を失った人間が育つ危険を見落しがちになる。亜流ありゅうになりたくなかったら、敬遠して影響えいきょうを受ける必要がある。それを勘違いかんちが して、すぐれた先生にはなるべく近づきたいという気持ちにひかれて、せっかくの師の薫陶くんとうを台なしにしてしまうことが、いかにしばしば起こっていることであろうか。すぐれた師匠ししょうの門下にかならずしも偉才いさい傑物けつぶつばかりが輩出はいしゅつするとは限らないのは、大木の枝の下で毒されて伸びるの  べきものまで伸びの ないでしまうからであろう。だいいち、門下という言葉からして感心しない。心ある門弟はあえて門外に立つ勇気がいる。
 圧倒あっとうされそうな影響えいきょうをもっているものには不用意に近づかないことである。近づいてもながく付き合いすぎてはいけない。

外山とやま滋比古しげひこ「知的創造のヒント」による。)
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a 長文 8.4週 ri
 島崎しまざき藤村とうそんの事を考えると、私の頭に先ず浮かんう  で来るのは、「夜明け前」の出版祝賀会の席上で、氏が諸家の祝賀の言葉に対して答えた挨拶あいさつを述べた態度である。
 人々のテーブルスピーチが終わると、藤村とうそん感慨かんがい耽りふけ 込んこ だような、そのために少しぼんやりしたような顔附かおつきで静かに立ち上がり、暫くしばら うつむき加減に黙っだま たたずんでいたが、やがて顔をもたげ、太いまゆをきりりと上げて、そしてゆっくりした口調でこういったのである。
「わたしは皆さんみな  がもっとほんとうの事をいって下さると思っていましたが、どなたもほんとうの事はいって下さらない……」
 そのまままた眼を伏せふ 暫くしばら 黙っだま てしまった。人々は粛然しゅくぜんと静まり返った。
 実際諸家の言葉は月並でない事はなかったが、由来こういう出版記念会などにいわれる言葉は、普通ふつう作者に対する祝賀の言葉かねぎらいの言葉かであるのが例なので、そういうものとして無神経に聴きき 流してしまえば、別段とがめ立てしなければならないものでもなかったように思われる。しかしそれをほんとうに聴きき 、その中から自分の努力に対する忌憚きたんなき批評をほんとうに探ろうという気になれば、諸家の言葉が余りに形式的である、月並なお世辞であったという事が、藤村とうそんの心を寂しくさび  したとしても、これまた無理ではないかも知れないという気がする。
 それは藤村とうそん流の静かないい方ではあったが、何処かにぴしりと人を打つような辛いつら ものを含んふく でいた。月並なお世辞に対する苦笑に充ちみ 抗議こうぎを持っていた。それだから突然とつぜん叱らしか れたといった感じが黙り込んだま こ だ人々の顔に現れたわけである。実際叱らしか れて見れば、もっともの話である。叱らしか れなかったら叱らしか れなくても好いようなことだけれども、叱らしか れて見るとその理由がない事はないので、急に人々はえり掻きか 合わせて坐りすわ 直さなければならなくなったと云っい た感じであった。
 藤村とうそん暫くしばら 黙っだま た後で、再び顔をもたげ、太いまゆを再びきりりと
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上げ沈んしず だ調子で言葉を継いつ だ。
「大体わたしという人間は、人に窮屈きゅうくつな感じを与えるあた  のですか、近づき難いような感じを与えるあた  のですか、だれもわたしに近づいてほんとうの事を云っい てはくれません……実は決してそうではなく、わたしは人に近づきたいのですけれど……」(中略)
 氏はそこで語調を変えて、人々の方を見まわし、こう結語としていった。
「今夜のように盛大にわたしのために皆さんみな  に集まって頂こうとは、わたしには全く思いがけない事でした。わたしはわたしのために皆さんみな  に集まって頂いた事がわたしの生涯しょうがいにもう一度ありました。それはわたしが洋行した時の事です。わたしは前の新橋の停車場から発って行きましたが、田山君や柳田やなぎだ君が途中とちゅうまで送ってくれるといって、一緒いっしょに汽車に乗り込んの こ で来ました。その時柳田やなぎだ君がわたしに向かってこんな事をいったのです。『人間がこうして自分のために沢山たくさんの人に集まって貰うもら のは、まあ洋行する時ぐらいのものだね。それともう一つある。それはその人間の葬式そうしきの時さ』と。……わたしは今夜皆さんみな  がこうして集まって下さった事を、わたしに対する文壇ぶんだんの告別式だと思っています」
 右の藤村とうそん挨拶あいさつは、その時も今も私の頭に相当強い印象を残している。私はたゆまずに一歩一歩と、意志的に自分をむちうちつつ、とうとう書きたいものをみんな書いてしまったという強い自信を持った人でなければ、そういう言葉はいわれないと思った。書きたいものをみんな書いてしまったと、静かに云いい 切れる作家を目の前に見たという事は、私には全く一個の驚異きょういであった。私はその事に深い感動を受け、暫くしばら はその感動のために、自分が圧迫あっぱくされるのを感じた程である。

広津ひろつ和郎かずお藤村とうそん覚え書き』)
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a 長文 9.1週 ri
 映画「地球交響曲ちきゅうこうきょうきょく」のシナリオハンティングのため、フィンランド北部ラップランドの森を歩いた。ラップランドはすでに北極圏ほっきょくけんに入っている地域で、冬は雪と氷と暗闇くらやみの世界になる。その分、夏は正反対の世界となり、ラップランドの森は、この夏のわずか数か月の間に、あらゆる草木が一気に芽吹きめぶ 、花開き、萌えるも  ような緑に包まれる。ラップランドの夏の森は、まさにすべての生命によって奏でられる地球交響曲ちきゅうこうきょうきょくのコンサート会場といった雰囲気ふんいきであった。しかし、ラップランドの森は、実は、エアコンの効いた都会のコンサートホールではなく、真の野性が保たれている大自然である。撮影さつえいを目的として大自然の中に踏み入るふ い 時、私はいつも二つの矛盾むじゅんした世界の上に立たされることになる。私は大自然の中でシンフォニーをともに奏でる演奏者のひとりとなるのか、それともそのシンフォニーに耳を傾けるかたむ  観客のひとりなのか。
 ラップランドの夏の森に一歩足を踏み入れるふ い  と、まず最初に出迎えでむか てくれるのは、美しい若葉の緑でもなく、色鮮やかあざ  な草花でもなく、実はおびただしい数のやブヨの大群なのだ。しかもその数としつこさは都会生活に慣れた私たちの想像を絶するものがある。写真で見た風景の美しさにひかれてこの森にやって来る都会からの旅人たちは、まずこの洗礼を受けることになる。
 だから森に入る旅人は長袖ながそで、長ズボン、そしてよけ帽子ぼうしをかぶるのが鉄則となる。ところが、私の立場はそうはいかない。まず第一に、よけ帽子ぼうしをかぶっていたのでは撮影さつえいができない。そして何よりも、このようないわばバリヤーを自分のからだの周囲に築いてしまうことは、森と対話する最も重要な回路を自ら閉じてしまうことになるからだ。
 森の本当の美しさは、嗅覚きゅうかく聴覚ちょうかく触覚しょっかくなど五感のすべてが解放されてこそ初めて見えてくる。五感のすべてを解放し、全身で森と対話した時、初めて森は私を受け入れてくれる。
 多様な木々、草花、虫たち、動物たち、風、匂いにお 、光などすべてが深く関わり合って一つの大きな生命体として生きている森。森のすべての生命がそれぞれの役割をにないながら、ともに一つの生
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命のシンフォニーを奏でている。そこには安全に隔離かくりされた観客席はない。もし森が奏でるシンフォニーを聴きき たいなら、どうしてもその森の一員として、隅っこすみ  にでも加えてもらわなければならない。
 ラップランドの森の夏は短い。たちはこの短い夏の間に、必死で生きて子孫を残そうとしている。夏の森に侵入しんにゅうしてきた私の肉体から血を吸いとろうとするのは森の自然の摂理せつりそのものなのだ。私が感じるかゆさもまた森が奏でるシンフォニーの楽音の一つなのかもしれない。そう思うと、刺ささ れた時のかゆさは変わらないにしても、そのことに心乱されることからは少し解放されるような気がした。風や匂いにお や音に感覚を研ぎすます余裕よゆうも生まれた。

龍村仁たつむらじん著「地球のささやき」による。)
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 トンボ王国は、いうなればトンボと親しむためのカタログです。自然保護の場である以上に、博物館やトンボ池を見て回ることで、トンボやトンボを取り巻く環境かんきょうに楽しく関わるための知識を身につける場所として、活用すべきだと考えています。ただ、すべての人びとが、トンボやその環境かんきょうを見るだけで、トンボたちの魅力みりょくすべてを知り尽くすつ  とも思えません。
 やはり、直接的な関わり、たとえば、子供たちにはズバリ、トンボ採りも体験させるべきだと考えています。その理由は、トンボそのものが、ある年齢ねんれいの子供たちにとって「かけがえのない美」の対象だと考えているからです。つまり、人が美しい絵に接した時、模造品でも所有したいと思い、あるいは美しい音楽に接すれば、そのCDがほしくなったり、演奏してみたくなったりするように、「美しいもの」を自分のモノにしたいということは、もっとも人間らしい欲望ともいえるのではないでしょうか。そして、子供の欲望は、大人たちのそれとは違っちが て、対象に稀少きしょう価値があるからというのでもないのです。
 ともかく、子供たちがそのような理由からトンボ採りを始めたとき、むげに禁止することは、楽しいはずの身近な自然を逆に、つまらない退屈たいくつなものと感じさせはしないかと案じてしまうのです。子供たちがトンボと同格の立場で勝負を競い、そして過ちとして殺生をしたとしても、周囲の大人たちのアフターケアさえよければ、りっぱな情操教育になると確信しています。
 確かに、今の子供たちに虫採りをさせてみると、やたら数ばかり競う傾向けいこうが認められます。しかし、これは、子供の遊びに関わる文化が退廃たいはいしているからにほかなりません。少なくとも、私たちが子供のころには、シオカラよりも赤トンボ(ショウジョウトンボ)、赤トンボよりもギンヤンマ、同じギンヤンマでも採集方法によって価値が異なるという、暗黙あんもくのルールがありました。
 とはいえ、現在の日本では、いかにルール(保護区内ではあみ振らふ ない、繁殖はんしょく期前のトンボは採らないなど)を守ったとしても、大勢の子供たちがトンボ採りに興じられるような環境かんきょうはほとんど残されていません。ただ、トンボ王国のまわり、四万十川しまんとがわ
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域にはまだそのような環境かんきょうが残っているのです。トンボ王国の夢、それは、池田谷のトンボ王国をかくとして、その周辺に広がるあたりまえの自然環境かんきょうのいくつかを、体験ゾーンとして整備し活用することです。そのなかで多くの人たち、特に将来のある子供たちに、トンボの住める環境かんきょうがほんとうにすばらしいものだと感じさせることができたなら、その子供たちが大人になった時、日本中に多くの子供たちがトンボ採りに興じられる水辺が再生されるに違いちが ありません。

杉村すぎむら光俊みつとし一井いちい弘行ひろゆき「トンボ王国へようこそ」より)
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 このところ日本では園芸が大はやりであるが、花木や草花の名称めいしょうが大変な勢いで外来語に置き換えお か られている。旧来の日本の花の名は美しく風雅ふうがなものがほとんどであるのに、たとえば彼岸花ひがんばなの類はリコリス、胡蝶こちょうらんはファレノリプシスといった具合に、年ごとに言い換えい か の数が増えていく。
 もともと気候風土の関係で、日本は植物の種類の豊富さにかけてはヨーロッパのどの国よりも恵まれめぐ  ていた。そのうえ、古くから古代中国の影響えいきょう本草学ほんそうがくが発達し、また江戸えど時代の園芸の興隆こうりゅう、茶道の普及ふきゅうなどのおかげで、日本の草花の名は英語などに比べると、それこそ比較ひかくにならぬぐらい、味のある巧妙こうみょうなものが多かった。
 これに反し、花木や草花が決定的に少なかった英国では、当然の結果として固有の植物名が乏しくとぼ  、したがって新たに植物に名をつけるときは、学問的なギリシャ語やラテン語に頼らたよ ざるを得ない。その難しい英語名を日本人が外来語として取り入れた結果、一度や二度聞いたのでは覚えることもできない、紛らわしくまぎ    言いにくい名前が、花屋の店頭やテレビ園芸の時間などに、次から次へと現れてくることになった。
 四季咲きしきざ と言えばだれでも分かるのにセンペルフロレンスとなると、ラテン語の知識のある人なら問題がないが、一般いっぱんの人、殊にこと 園芸愛好家の高齢こうれいの人には、何やら呪文じゅもんめいて正しく発音することも難しい。風車と言えば花の形をうまくとらえた巧妙こうみょうな名と感心できるし覚えやすくもあるのに、クレマチスでは何の見当もつかない。彼岸花ひがんばなならば、花の咲くさ 季節との関係でだれにでも分かりやすいのに、それをどうして呼び換えるか  必要があるのだろうか。
 このような現象の背後に、絶えず新しさを求め続ける日本人の積極性を認める人がいるかもしれない。私もその精神は評価すべきだと思うが、それにしても、このような意味不明のなぞめいた外来語で、ほとんど芸術的とさえ言える美しく巧みたく に工夫された従来の和名を置き換えお か て、いったいだれが得をすると言うのだろうか。
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新奇しんきさを求める心が一概にいちがい 悪いとは言えないが、この園芸の分野に見られるような、行き過ぎた外来語の流行はやめてほしいと思う。「バラの花はどんな名で呼ぼうと変わりなくにおう。」というシェイクスピアのロミオの言葉を、日本人は改めて思い起こす必要がある。

鈴木すずき孝夫「教養としての言語学」による)
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 近ごろは、ロンドンにいる、あるいはイギリスにいる日本人はかえって英語を使わなくなったのではないか。日本から同日に配達される日本経済新聞と朝日新聞を読み、衛星放送で日本のテレビを見る。そうすれば英語など使わなくていいのである。そういう考え方の人がふえているのではないだろうか。
 こういう生活をして、本人たちはたいへん気楽なつもりでいるが、イギリスの側からいわせると、こういう日本人はイギリスに来ていったい何をしているんだろう、となる。お金儲けかねもう 以外なにもしていないのではないか。イギリス人をわかろうともしないし、イギリス社会について知ろうともしないじゃないかと。
 こうして、イギリス人の胸の中にひそんでいる時間はしだいにふくらんでくることは間違いまちが ない。彼らかれ はこんなふうに思うのだ。――日本人はイギリスに来て、したい放題のことをしている。お金は使ってくれるし、企業きぎょうも進出してくれるかもしれないが、実際にやっていることはマナーもないし、イギリス人に敬意を払おはら うともしない。自分たちだけで好きなことをやって、ここがまるで自分たちの治外法権の場所みたいな顔をしている。いま若い日本人がますますそういう傾向けいこうになっていくとしたら、将来はかなり心配である。日英関係にかならず悪影響あくえいきょう及ぼすおよ  のではないか――。
 いうまでもないことだが、イギリスにいる日本人のすべて、日本のビジネスマンのすべてがそうだということではない。特に企業きぎょう人からも尊敬され、公の場所で意見もいうし、イギリス政府にたいしてアドバイスもする。
 こうした日本の企業きぎょう人とイギリス企業きぎょう人との大きな違いちが は、日本の企業きぎょうのトップは、ビジネスができるだけでなく、教養があるという点である。彼らかれ は文学や芸術のことも話せるし、実際、そういうことに興味をもっている。イギリスのビジネスマンは、サッチャーさんの高等教育拡大方針にもかかわらず、お金儲けかねもう はできるし、マネジメントの才もあるが、じつは教養や文化にかかわりのない人が多いのである。お金がたまったらそれを持って外国へ出ようとか、ホリデーをたっぷりとろうとかいうことばかり考えていて、自分の教養を深めるということはしないし、本を読むこともしない。
 そういうビジネスマンが多いイギリスで、日本のトップクラスのビジネスマンは、詩の本を読んでいるとか芸術のこともわかるとか、とてもすばらしいと思われている。もちろんイギリスにもそう
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いう人もいるが、マナーもすばらしいし、英語もきちんと話せる、いわば世界レベルの日本のビジネスマンがふえていることもまた確かなのである。
 そうしたトップクラスのビジネスマンと、日本からやってきたとたんに、日本にはお金があって、イギリスから習うものは何もないと、まるで植民地にでも来たように威張っいば てみせる若い人たちとの差がひじょうに拡大してきているのではないか。
 長いあいだイギリスにいて、日本企業きぎょうの地位を高めるのに努力してきた日本のトップクラスのビジネスマンの苦労は、日本が経済的に世界で大きな地位を占めるし  ようになってから生まれた若い人たちの軽はずみな言動やバカげた行為こういによって覆さくつがえ れてしまうのではないか――そんなことが危惧さきぐ れるようになってきたのが当節のイギリスなのである。

(マークス寿子ひさこ『大人の国イギリスと子どもの国日本』)
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