a 長文 4.1週 ta
「ああっ、これ、だれがやったの!」
 お母さんのさけび声が聞こえます。だれかって、犯人はんにんはぼくだとわかっているのにいつもそんなふうに言うのです。
「うわあ、こんなことするのは、シゲしかいない。」
 続いつづ て聞こえるお姉ちゃんの声もいつもどおりです。二人がキッチンでぼくのことを言っているのが聞こえます。ぼくは、ドラキュラのマスクをかぶって階段かいだんのかげにひそんでいて、いつ飛び出しと だ 驚かおどろ せようかと考えていたのですが、ちょっとひるんでしまいました。ついにお姉ちゃんが、
「こうなったら、お父さんに言いつけるしかない。」
と言い出しました。
 ぼくは、いたずらが大好きだいす です。学校でもうちでも、年がら年中、いたずらのネタを考えています。人がびっくりしたり、不思議ふしぎそうな顔をしたりするのを見ると、とてもうれしくなります。だから、先生や家族にどんなに叱らしか れても、また次のいたずらを思いついてしまうのです。
 昨日きのうは、トイレットペーパーの内側うちがわにゴムでできたトカゲをはさんで、ペーパーを引き出すとトカゲが落ちてくるようにしておきました。
 また、夜には、キッチンのしお砂糖さとうの入れ物のフタをとりかえておきました。しおが青で、砂糖さとうが赤のフタなのをぎゃくにしておいたのです。
 そして、今日のいたずらは、お姉ちゃんの問題集のカバーを全科目つけかえたのと、お母さんのショッピングバッグに小さい鉄アレイを隠しかく たことです。
 さて、お父さんが出張しゅっちょうから帰ってきました。お姉ちゃんは真っ先にぼくにされたいたずらを言いつけにいきます。
 お父さんは、笑いわら ながらそれを聞いていましたが、心配でのぞいていたぼくに気がつくと、
「おっ、いたずら小僧こぞうがいたぞ。」
と、ぼくに手招きてまね をしました。
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そして、
「シゲ、お前のいたずらはスケールが小さいなあ。やるんだったら、もっとでっかいいたずらをやれ。」
と、ぼくのおしりをたたきました。そして、
「それと、いたずらっていうのは、人を困らこま せるんじゃなくて、喜ばよろこ せるものじゃないとな。」
と言いました。
 おばあちゃんによると、お父さんも相当ないたずらっ子だったようです。ぼくは、うなずきながら、お父さんはどんないたずらをしたのかなと心の中で思いました。

(言葉の森長文ちょうぶん作成さくせい委員会 φ)
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a 長文 4.2週 ta
 地獄じごく沙汰さたも金しだい

 沙汰さた」とは、結果けっかとか取りきめのこと。地獄じごくでうけるえんま大王の裁判さいばん結果けっかでさえも、お金をだせば有利ゆうりになるという意味。そこから、世の中はお金さえあれば、なにごとも思うがままになる、というたとえだ。
 このように、世の中でお金がいちばん大切、と考える人はたくさんいる。たしかに人間が生きていくのに、お金は必要ひつようなものだ。けれど人には、お金よりもっと大切にしなくちゃいけないものが、あるんじゃないかな。たとえば、人と仲よくなか  平和にくらしていくこととか、まじめに働くはたら こととか、正しいと信じるしん  ことはつらぬくといったことなどだよ。大人になって、お金だけがすべて、という人間にはなってもらいたくないな。
 地獄じごくってどんなところか知ってる? 地下の牢獄ろうごくのことだ。この世でわるいことをした人間が、死んでからいく場所のこと。えんま大王は、地獄じごくでいちばんえらい主だ。死んで地獄じごくにきた人間の裁判さいばんをする。死者が生きていた時のおこないを裁いさば て、ばつをきめる。赤い血の色の衣装いしょうをまとって、かんむりをかぶり、目をいからせて、手には罪人つみびとをしばるなわをもっている。えんま大王が裁判さいばんをやる時、死んだ者がやったことをしらべるものを、えんま帳というんだ。そばには、命令めいれいをうけて罪人つみびとをこらしめるおにがひかえている。
 地獄じごくのえんま大王がでてくる熊本くまもと県のむかし話がある。
 ――むかし、千五郎せんごろうという役者がいた。芝居しばいがとても上手で、〈千両役者〉といわれたほどだ。ある時、千五郎せんごろうはきゅうな病でころっと死んでしまった。
 はだかにされた千五郎せんごろうは、くらいところをずんずん歩いていく。そして、地獄じごく極楽ごくらくのわかれ道にきた。えんま大王が、こわい顔をしてすわっていた。
「こらあ、お前は、しゃばではなにをしていたか。」
大王に聞かれ、千五郎せんごろうは役者をしていた、とこたえた。
「役者だったら、いまからこの前で、芝居しばいをやってみろ。」
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「こんなはだかじゃ、芝居しばいをやれません。」
 えんま大王が、どんな衣装いしょうでも貸しか てやるといったので、千五郎せんごろうは、大王の衣装いしょう借りか たいと申しでた。大王は、しぶしぶ貸しか てくれた。
 千五郎せんごろうは大王の衣装いしょうを着ると、こしからけんをひきぬき、大きな声でいった。
「おおい、赤おに、青おにぃ。こっちへきて、その男をつかまえろ。そして地獄じごくへ追いやるんだあ。」
 大王はちがうちがうとさけんだが、おにたちは大王をひっとらえて地獄じごくへ追いやってしまったんだ。そのあと地獄じごくの入り口では、千五郎せんごろうがずっとえんま大王をやっているそうな。

 「常識じょうしきのことわざ探偵たんていだん」(国松くにまつ俊英としひでちょ フォア文庫)より
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a 長文 4.3週 ta
 ミイラ取りがミイラになる

 ミイラを取りにいった人が、目的もくてきをはたせずに、自分もそこで死んでミイラになってしまうこと。そこから、帰ってこない人をつれもどしにいった人が、自分もそこにとどまってしまって、帰ってこないことをいうよ。また、相手を説得せっとくしようとした人が、かえって相手とおなじ考えになってしまう、という意味にもなる。
 「ミイラ」って知ってるよね。乾燥かんそうしたまま、長いあいだ元の形をたもった死体のことだ。死体の水分が、五〇パーセント以下いかになるとできる。高い温度で乾燥かんそうした場所とか風とおしのいい場所の死体は、ミイラになりやすいんだって。
 古代エジプトでは、人工てきにミイラを作った。王様などが死んで三千年たつと、その人の霊魂れいこんが肉体にもどってきて死んだ人は復活ふっかつすると信じしん られていたんだ。だから、死んだ王様はかならずミイラにした。死者が旅をしているあいだも、王様らしく生活するため、王族やけらいはもちろんのこと、愛犬あいけんまでミイラにしたんだよ。東アフリカのブガンダ王国(げんウガンダ共和きょうわ国)、オーストラリアの原住民げんじゅうみん、アメリカインディアンなども、死者のミイラ作りをやったよ。日本では、岩手県の中尊寺ちゅうそんじにある藤原清衡ふじわらのきよひらのミイラが有名だ。
 中世から十八世紀せいきのヨーロッパでは、このミイラが〈医薬品〉としてもてはやされた。ミイラをくだいてこなにしたものを、けがした人や病気の人にのませると、とてもききめがあるといわれた。ミイラ作りには、瀝青れきせい(アスファルト、石油、天然てんねんガスなどの炭化水素すいそ化合物をまとめていった言葉)など炭化水素すいその化合物が使われているので、万病にきく薬になるとされたんだ。
 そのうち、ききめは「死体自身」にあるといわれ、重罪じゅうざい人や自殺じさつ者の死体をとってきて、にせの「ミイラ」を作るようになった。でもね、ほんとは「ミイラ」には医薬品としてのききめはないんだって。医師いしたちがなんども警告けいこくしたけど、ミイラの貿易ぼうえきや薬の販売はんばいは十八世紀せいきまでつづけられたんだ。
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 日本には、十六世紀せいきに薬品〈ミルラ〉として輸入ゆにゅうされた。打ち身やきずに、この薬をのむととてもききめがあると、古い本にも書いてある。このミルラ(ポルトガル語)がなまって、ミイラという語になった。
 ミイラは高価こうかな薬品だ。見つけて手に入れると、たくさんお金がもうかる。そのため、ヨーロッパでも日本でも、危険きけんを知りながら「ミイラ取り」にいった人がたくさんいたらしい。たとえばエジプトでは、ピラミッドのおくまではいって、そのままもどれなかった人がたくさんいた。日本でも、はかの深いあなにはいりこんで、でられずに死んだ人が多かったという。ことわざは、そんなところからうまれたと思われるよ。

 「常識じょうしきのことわざ探偵たんていだん」(国松くにまつ俊英としひでちょ フォア文庫)より
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a 長文 4.4週 ta
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 連日れんじつ梅雨つゆ空です。いまも雨こそふってはいませんが、空は、むらなく、うすいグレー一色にぬりつぶされています。
「おーい、美奈代みなよ!」
 男の子の声がとんできました。
 運動場をまっすぐにつっきってかけてくるのは、となりのクラスの岩田いさむ。赤ゴリラというあだ名そのままの体形で、リンゴのような赤いほっぺたが近づいてきます。
 美奈代みなよ菊菜きくなは、べつにふりむきもせず校門にかかりました。
美奈代みなよ美奈代みなよ! おまえを呼んよ だんだぞ!」
 いさむは、息をはずませながら、
呼ばよ れたら、立ち、どまるとか――へ、返事を、する、とか、しろ。美奈代みなよ。」
「気やすく呼ばよ ないでね。」と、美奈代みなよは、そっけなく、「で、なんの用?」
「まず、こっちを、見なよ。」
と、(いさむは、ふざけました。
「相手にしない、しない。」
と、菊菜きくな美奈代みなよに注意しました。
三枝さえぐささん、そういういい方って失礼しつれいだと思いますよ。」いさむは、わざとじろりと菊菜きくなをにらんでから、「うちの先生が呼んよ でるよ、美奈代みなよ。うそじゃないから教室のほうを見なよ。」
 美奈代みなよ校舎こうしゃをふりむきました。すると二階から南野先生が、たしかに手まねきをしていました。
「な、そうだろ。」
「キク、待ってて。」
 美奈代みなよ菊菜きくなにいいのこして、運動場をかけもどりました。

福永ふくなが令三けいぞう「クレヨン王国の赤トンボ」
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 自然しぜんってどんな色?」と聞かれたら、何と答えるだろう? たいていの人は、緑色と答えるにちがいないし、実際じっさいみんなそう思っている。だから「水と緑の町づくり」などという標語ひょうごがそこらじゅうに掲げかか られているのである。
 目に入る「自然しぜん」が一望いちぼうすなである砂漠さばくの国でも、水と緑はオアシスの象徴しょうちょうであり、人々はそこに安らぎを感じる。だから水と緑は、人間という動物にもともとしっかり結びついむす   ているものであるらしい。
 たぶんそういう理由からだろう、かつてはずいぶんこっけいなこともおこなわれていた。道路を作るので、草木の緑におおわれたおかに切り通しを作る。新しい道の両側りょうがわは、赤茶けた土そのままのがけで、何ともうるおいがないし、荒れあ た感じがする。それにいつ土が崩れくず てくるかもわからないから、がっちりとコンクリートでおおってしまう。そうなると、ますます味気ない。そこで、とにかく緑にしようということで、コンクリートを緑色に塗っぬ たのである。
 確かたし に少し遠くからは緑にみえる。けれど、所詮しょせんはペンキで緑色に塗っぬ ただけである。人間の感覚かんかくはこんなことではだまされないはずだ。
 昔、モンシロチョウで実験じっけんしてみたことがある。ケージの地面にいろいろな色の大きな紙を敷きし 、チョウがどの色の紙の上をよく飛ぶと かを調べたのだ。やはり緑色の紙の上を、もっとも好んこの 飛ぶと ようであった。なるほど、チョウは緑色であれば紙でもいいのだな、とぼくは思った。
 けれどこれは、チョウチョにはたいへん失礼しつれいな思いちがいであった。ほんものの草を植えた植木鉢うえきばちをたくさん並べなら たら、チョウは緑色の紙など見向きもせず、ほんものの草の上ばかりを飛んと だのである。
 コンクリートを緑色に塗るぬ のはその後まもなくやめになった。やはりほんものの草でなければ、ということはだれにでもすぐにわかっ
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長文 4.4週 taのつづき
たからだろう。
 だが、それでどうなったか? 次の方法ほうほうは、道路わきの斜面しゃめん法面のりめん)に牧草ぼくそうのたねを播くま ことであった。こうして多くの高速道路の両側りょうがわが、外国産こくさん牧草ぼくそうでおおわれる始末しまつとなった。
 それは見るからにモダンな、最新さいしんのハイウェイという印象いんしょう与えあた たことはたしかだったが、人工の産物さんぶつであることも明らかであった。それはどことなくよそよそしい、疑似ぎじ自然しぜんなのだ。
 同じような擬似ぎじ自然しぜんは、どこにでも見ることができる。
 かつてアフリカのモンバサに行ったときもそうだった。いかにもモンバサらしい熱帯ねったい風景ふうけいの中で、ぼくはついに虫を一ぴきも見ることはできなかった。ホテルの人にたずねたら、たえず殺虫さっちゅうざい撒いま て、退治たいじしていますから、ということだった。
 これも作られた疑似ぎじ自然しぜんである。昼になれば時折ときおりどこからかチョウチョが飛んと でくるけれども、それも偶然ぐうぜんのことにすぎない。南の色濃いいろこ 植物たちがぼくらを包んつつ でいるけれども、それはあたかも観葉植物かんようしょくぶつ園の中にいるのとほとんど同じことだ。観光かんこう客たちはこういう場所にきて、熱帯ねったいの気分を満喫まんきつして帰る。もちろんそれはけっこうなことだけれど、なんだかへんである。
 水と緑のあるゆとりの町づくり、自然しぜんとのふれあい、自然しぜんとの共生きょうせい……ことばはさまざまにあるが、意味しているところは同じである。美しく管理かんりされ、不愉快ふゆかいな「雑草ざっそう」もなく、いやな虫もいない、疑似ぎじ自然しぜん。それをところどころにとり込んこ だ町。つまりそういう町を作ろうということである。
 そこにあるのは「美しい自然しぜん」「調和のある、やさしくてゆとりのある平和な緑」という幻想げんそうだけだ。日本人は昔から自然しぜん愛しあい た、などという誤っあやま 思い込みおも こ 陥らおちい ぬよう、もう少し醒めさ 認識にんしき必要ひつようなのではないか。
 (日高敏隆としたか『春の数えかた』)
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a 長文 5.1週 ta
「クロちゃん、どこ。」
「クロちゃあん。」
 わたしは、大きな声で名前を呼びよ ながら、脱走だっそうしたクロちゃんを探しさが ます。クロちゃんは、手のひらサイズのジャンガリアンハムスターです。毎朝、登校前のケージのそうじで、ちょっと気を許すゆる と、するっと外に出て全速力でどこかへ行ってしまうのです。ハムスターは、せまいところが大好きだいす で、家具の間などにどんどん入ってしまいます。出られなくなったら大変たいへんです。わたしは、そんなとき、クロちゃんの大好物こうぶつのひまわりのたねの入った紙袋かみぶくろを持ってカシャカシャと振りふ ます。すると、たねがもらえると思うのか、どこからかクロちゃんは出てきます。小さな足でちょこちょこ歩く姿すがたを見ると、脱走だっそうしたことを怒るおこ ことなどできません。
 わたしのお母さんも動物好きす で、子供こどものころはインコ、文鳥、柴犬しばいぬ、ニワトリ、金魚、カメなどを飼っか ていたそうです。わたしくらいのときは、毎朝欠かさか  ず五時に起きて、犬の散歩さんぽ、鳥小屋のそうじ、いろいろな生き物のえさやりをしていたと言います。
「自分で飼うか と決めたのだから、ちゃんと世話しないとね。だから一日も休まなかったよ。」
と、お母さんは言いました。
 クロちゃんは、わたし誕生たんじょう日にほしいと言って買ってもらったハムスターです。確かたし そのとき、
「ちゃんと自分で飼うか から。世話もきちんとするから。おねがい。」
と、わたしも言ったような気がします。
 クロちゃんは、体がとても小さいので、たぶん脳みそのう  も小さいと思います。けれども、わたしの気持ちをよくわかってくれるような気がします。わたし叱らしか れたり、友だちとけんかしたりして悲しい時、じっとこちらを見て、「大丈夫だいじょうぶ」と声をかけてくれているみたいです。
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 わたしは学校でも、クロちゃん、どうしているかなあ、さみしがっていないかなあといつも気にしています。時々、面倒めんどうになることもあるけれど、朝のクロちゃんの世話を苦労くろうだと思わずに、これからも続けつづ ていこうと思っています。

(言葉の森長文ちょうぶん作成さくせい委員会 φ)
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a 長文 5.2週 ta
 転んでもただでは起きぬ

 つまずいてころんでも、ころんだところにおちているものをひろってから起きあがる、という意味だ。そこから、たとえ失敗しっぱいしたとしても、その失敗しっぱいをむだにしないで役にたて、利益りえきをあげようとする。よくがふかくて、どんな時でも自分のとくになるようにすること。ぬけ目のない人をあざわらっていうことばだ。
 これは、古くからあったことわざらしい。「転んでも土」とか、「こけてもただでは起きぬ」、「こけてもすな」、「こけても馬のくそ」といったように、おなじ意味のことわざがいくつもある。むかしは、馬のくそも畑のいい肥料ひりょうになったから、ひろってもって帰ったんだね。「こけた所で火打ち石」は、ころんだら、そこにおちている石の中から、火打ち石になるようなかたい石をひろってからたちあがったという意味だ。ほんとに、ただでは起きないたくましさを感じることわざだ。
 むかし話に「わらしべ長者」というのがある。この話にでてくる男は、ころんでもただでは起きなかったことから、幸運がはじまるんだ。
 ――むかし、京の町にとても貧乏びんぼうでしようのない男がいた。大和やまとの国、長谷はせ観音かんのん様におまいりして、どうかお助けくださいとたのんでいた。すると、ある夜の明け方、観音かんのん様がゆめにあらわれていわれた。「都へ帰るとちゅう、どんなものでも手にはいったものを、大切に思ってもって帰りなさい。」
 男はお寺の門からでようとして、ころんでしまった。起きあがって気がつくと、一本のわらしべをひろってつかんでいた。男は、このわらしべが観音かんのん様のいわれたものだと思い、すてずに歩きはじめた。
 男は、飛んと できたアブを、そのわらでむすんでもっていた。すると、牛車ぎっしゃに乗ってきた高貴こうきな人の子が、すごくほしがった。アブのわらしべをあげると、みかん三つをくれた。少しいくと、のどがかわいて歩けなくなった女の人がいてみかんをあげるとよろこんで、三たんぬのをくれた。
 またいくと、たおれた馬の処分しょぶんにこまっている武士ぶしがいた。男
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は三反のぬのをあげて馬をもらった。もう動かないと思っていた馬は、しばらくすると息をふき返した。男は、その馬に乗って京の町へ帰ってきた。町の入口までくるとひっこしで大さわぎしている家がある。その家では、いい馬がほしいと思っていたので、馬を買ってくれた。代金は近くにある田だった。そして、その家にしばらく住んでほしいとたのまれた。その家主は何年たっても帰ってこず、とうとう大きな家まで男のものになった。ころんでつかんだ一本のわらしべが、その先で大きな家や田になることもあるんだよ。

 「常識じょうしきのことわざ探偵たんていだん」(国松くにまつ俊英としひでちょ フォア文庫)より
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a 長文 5.3週 ta
急がばまわれ

 いそぐ時には、少しくらい危険きけんがあっても、近道をとおりたくなる。けれどそれが失敗しっぱいする原因げんいんになる。だから、時間がかかってめんどうでも、安全な道やたしかな方法ほうほう選んえら だ方が、けっきょくはとくなことになるんだ。
 ことわざのもとになったのは、平安時代に源俊頼みなもとのとしよりが作ったこんな和歌だ。
 武士もののふ矢馳やばせの船ははやくとも急がばまわれ瀬田せたの長橋
 歌の意味は、大津おおつへいくのには、びわ湖の岸の矢馳やばせからでるふねに乗っていけばはやい。でもいそぐのならふねにのらず、湖岸の道をとおり瀬田川せたがわの橋を渡っわた りくの道をいった方がいいよ、というんだ。
 矢馳やばせというのは地名で、矢橋とも書く。滋賀しが草津くさつ市のびわ湖の岸のあたりのことだ。古くからここには、大津おおつまでの渡し舟わた ぶね便びんがあったんだ。りくの道をいくと、びわ湖の南岸をぐるっとまわり、瀬田川せたがわの長い橋を渡らわた なければならない。かなり時間がかかる。それにくらべ、湖上をいけば近道になる。むかいの大津おおつまで直線距離きょりでいくから、うんとはやかったんだ。
 しかし渡し舟わた ぶねでいくのは、いろいろ危険きけんがあった。ちょっと強い風が吹いふ たりすると、流されてなかなか大津おおつにつけない。また、このふねは小さなものだったから、大きな波にかんたんに転ぷくすることもあったんだ。いそぐのでふねに乗ったのに、大津おおつにつけずひき返したり、ふねがひっくりかえっておぼれ死んだり、こわい目にあう人がたくさんいた。
 この歌の中で「急がばまわれ」のことばだけがひろまっていき、ことわざとしていまものこっているんだ。これは、さいしょは道についていったんだけど、その後は生活のいろんなことについてもいわれるようになったんだ。
 だれでも、少しでもはやくしごとをすませたいから、ついはやくできる方法ほうほうをやろうとする。でもいそいでやろうとすれば、はや
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くやることばかりに気をとられて、一つ一つたしかめたり、ゆっくり考えたりしない。その結果けっか、やり方をまちがえたり、とんでもない失敗しっぱいをすることになるんだ。
 たとえば、テストがそうだね。ぼくは、学生の時に「急がばまわれ」のことわざをわすれていたので、なん度も失敗しっぱいしたよ。テストを時間内にはやくやろうといそぐあまり、問題をしっかり読まずに答えを書くことがあったんだ。はやくできて得意とくいになって提出ていしゅつしたのはいいけど、十問のうち正しい答えははんぶんもなかった。それなら、問題をていねいに読んで、よく考えてたしかな答えを書いていった方がよかったんだ。七問しか答えが書けなかったとしても、正解せいかいだったらその方がいいものね。

 「常識じょうしきのことわざ探偵たんていだん」(国松くにまつ俊英としひでちょ フォア文庫)より
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a 長文 5.4週 ta
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 ぼくの友だちにも、たいていおじさんがいる。おじさんというのは、つまり両親の兄弟ということで、ぼくたちは、そのおじさんのオイ、女だったらメイということなのだそうだ。
 話をきいてみると、友だちのおじさんは、けっこういいおじさんだという。どこからどこまでいいおじさんというわけにはいかないが、あるおじさんは宿題を教えてくれる。あるおじさんはいっしょに動物園へつれていってくれる。あるおじさんはお小遣いこづか をくれる。
 なかにはスポーツマンのおじさんがいて、そのおじさんは有名なスキーの選手せんしゅなのだそうだ。ジャンプの名手で、全日本大会とかいうと、そのおじさんは一等か、二等か、まかりまちがっても三等になる。一等のときは新聞に写真がでる。三等のときだって、ちゃんと名まえだけはでる。
 そういうおじさんを持った友だちは、ほんとうに幸福だとぼくは思う。いっしょにスキー場へ行けば、どんなにか得意とくいだろう。日本一か日本三の選手せんしゅに、手をとってスキーを教えてもらえるからだ。
 けれども、友だちにきくと、実際じっさいはそんなことはないそうだ。スキーを教えてくれるなんて、とんでもない。そのおじさんは自分の練習にいそがしくて、オイやメイのことなんかかまっていられないそうだ。

(北杜夫もりお「ぼくのおじさん」)
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 あらためてわが日本語をかえりみると、ただちに気付くきづ のが「わたし」という一人称いちにんしょうの多様さである。日本語ほど一人称いちにんしょう代名詞だいめいしに多くのバラエティを与えあた ている言葉はほかにないのではあるまいか。「わたくし」「わたし」に始まり、「ぼく」、「われ」、「おれ」、「自分」、「手前」、「うち」、「わし」、「それがし」、「吾がわ はい」、「当方」、「こちら」、「小生」、さらに「あっし」とか「あたい」とか、「わて」とか、「おいら」「こちとら」といったものまで加えれくわ  ば、その数、ゆうに二十を越えるこ  という。英語えいごやフランス語、ドイツ語などでは一人称いちにんしょう代名詞だいめいしはそれぞれ、I、Je、Ichたった一語である。それに対して、日本語には、なぜこんなにたくさん「自分」をあらわす言葉があるのか。それは日本人が他の民族みんぞくよりも、ひと一倍「自分」に注意を払いはら 、「自己じこ」に深い関心かんしんを持っていることを語っているのだろうか。
 端的たんてきにいえばそうである。しかし、だからといって日本人に自我じが意識いしきが強いとは必ずしもかなら   いえそうにない。いや、むしろ欧米おうべい人に対して日本人は「自分」を主張しゅちょうすることがずっとひかえめであり、日本では「個人こじん」という意識いしき、「われ」の自覚じかく西欧せいおう人にくらべてかなり遅れおく ているというのが「通説つうせつ」になっている。たしかに日本で個人こじん主義しゅぎ芽生えめば たのは、ようやく第二次大戦たいせん後といってもいい。そして現在げんざい至っいた ても「」の意識いしきはまだまだ希薄きはくで、日本の社会全体は画一主義しゅぎ貫かつらぬ れている。画一主義しゅぎとはぼつ個性こせいてきということであり、要するによう   」が「全体」に埋没まいぼつしてしまっている状況じょうきょうである。それなのに、日本人が他民族みんぞくよりも「自分」に注意を向け、つねに「自己じこ」を意識いしきしているといえるのだろうか。
 じつは日本人の自己じこ意識いしきは他民族みんぞく、たとえば欧米おうべい人のそれとは質的しつてき異なっこと  ているのである。ヨーロッパ人は自分というものを、実体てきにとらえようとする。自分というのは、それこそ、かけがえのない存在そんざいであり、独立どくりつした一人格じんかく信じしん ている。ヨーロッ
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長文 5.4週 taのつづき
パの哲学てつがくが古代ギリシアのむかしから一貫いっかんして求めもと てきたのは、ただひたすら「自分」というものの本質ほんしつであった。「なんじ自身を知れ!」というデルフォイの神託しんたく哲学てつがくの出発点としたソクラテス、「われ思う、ゆえにわれ在りあ 」を哲学てつがくの原点に据えす たデカルト、「人間とは自分の存在そんざい自覚じかくした存在そんざい者だ」とするキルケゴール……ヨーロッパの哲学てつがくは、「自分」という実体へ向かっての旅だったといってもよい。
 それに対して日本人は自分という一の人間を実体としてではなく、機能きのうとして考えてきた。個人こじんはけっして単独たんどく存在そんざいするのではない。つねに「世間」で他の多勢おおぜいの人たちとさまざまな人間関係かんけいのなかで生きるのだ――というのが日本人の人間かん前提ぜんていだった。げんに「人間」という言葉自体がそうした考え方を正直に語っている。この言葉はいうまでもなく中国から受け入れた漢語であるが、この漢語の意味はもともと人間の世界、すなわち「世間」ということなのである。ところがそれが日本ではいつの間にか「人」そのものをあらわす言葉になった。ということは、日本人にとって「世間」も「人」も同一のように思われていたからにちがいない。日本人は社会と個人こじんを一体化して考えてきたのである。
 日本人はヨーロッパ人のように自然しぜんと対決するのではなく、自然しぜんに親しみ、自然しぜんに同化することによって安らぎをてきた。それと同じことが社会についてもいえる。日本人は欧米おうべい人のように個人こじんを社会に対置たいちすることなく、世間と自分とをひとしなみに表象ひょうしょうしてきたのだ。「渡るわた 世間におにはない」ということわざがその一端いったんを語っている。日本の自然しぜん優しいやさ  山河さんがであるように、日本の世間も――他民族みんぞくの社会とくらべれば――結構けっこう、心安い社会だったからであろう。

 (森本哲郎てつろう『日本語 表とうら』)
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a 長文 6.1週 ta
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
「エリ、バドミントンやるぞ。降りお てこい。」
 今週も父の声が響きひび ます。毎週日曜日の朝、わたしは父とバドミントン、テニス、キャッチボールなどをします。家の前の広場でやるのですが、本当は少し恥ずかしいは    気もします。父は、声が大きいので近所中に聞こえるし、となりのおばあちゃんが必ずかなら まどから顔を出してこう言うのです。
「親子でなかがいいねえ。」
 父とのスポーツは、まるで特訓とっくんのようです。父は、テニス漫画まんがに出てくるおにコーチのようにわたしをしごきます。だから、冬でも汗だくあせ  になります。
 「エリ、これおいしいぞ。もっと食べろ。」
夕飯ゆうはんの時は、自分のお皿からわたしのお皿におかずを移しうつ ます。自分の好物こうぶつは、わたし好きす だろうと思い込んおも こ でいるのです。
 父は出張しゅっちょうに行くと、必ずかなら おみやげを買ってきます。それは、わたしから見ると大体へんなものです。その地方の名産めいさんお菓子 かしではなく、だいぶ前にはやった小物や、学校に持っていけないような変わっか  文房具ぶんぼうぐ、もう遊ばない小さい子用のおもちゃなどです。
 父は、会社でとてもむずかしい仕事をしている経理けいり専門せんもん家なのですが、うちにいるときは、とてもそんなふうには見えません。昨日きのう
「えっ、今夜はキムチなべ。そりゃ、きむちいい(気持ちいい)。」
などと受けないダジャレを言って、母にジロリとにらまれました。
 テレビのドラマで見るような格好いいかっこう  父親とは違うちが けれど、わたしはそんな父が大好きだいす です。いろいろ好きす 勝手にやっているように見えますが、本当は日曜日の特訓とっくんも、体育が苦手なわたしのためにやってくれているのです。
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 わたしは、今度の父の日に、秘密ひみつのプレゼントを用意しています。それは自然しぜん教室の陶芸とうげいコーナーで作った湯のみです。H・Eと父のイニシャルを入れ、大きなハートで囲みかこ ました。父がどんな顔をするかとても楽しみです。

(言葉の森長文ちょうぶん作成さくせい委員会 φ)
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長文 6.1週 taのつづき
かえるの子はかえる

 カエルのたまごがふ化すると、オタマジャクシになる。オタマジャクシの時は、があって、カエルの子どもとは思えない。ナマズの子みたいだ。それが大きくなるにつれ、がとれ足がはえて、けっきょくはカエルになる。そこから、なにごとも子は親に似るに ものだ、というんだ。体のことではなくて、人間のなかみとか、心が似るに という。あまりいい意味のことわざではなくて、わるい意味に使われるよ。
 たとえば、「あいつのお父さんはなまけ者で、ぐうたらしていたが、かえるの子はかえるだ。あいつもやっぱりぐうたらな人間だ」というように使われる。でもことわざの意味をとりちがえて、ほめことばとして使う人もいる。「息子さんは○○大学に入学されたんですか。さすがはあなたのお子さんだ。かえるの子はかえるですね」これは、けっしてほめたことにはなっていない。まちがった使い方だ。
 おなじような意味のことわざに、「うりのつるには茄子なすびはならぬ」がある。平凡へいぼんな親からは、すぐれた子どもはうまれない、という意味だよ。また、「まむしの子はまむし」というのがある。これは、親が悪人ならその子はやっぱり悪人だ、ということになる。
 このことわざでは、カエルをすぐれたものとしてはあつかっていない。けれどむかしの日本人は、カエルを神様の使いとしてうやまっていたんだ。群馬ぐんま県では「ヒキガエルは神様のお使いである」といい、千葉県では「オオガマガエルは天神さまのお使いだから、殺しころ てはならない」といったんだ。また福島県・東京都・福井ふくい県・和歌山県などでは、「アマガエルは神様のお使い」なので、つかまえてはいけないとか、殺しころ てはいけない、とされていた。熊本くまもと県玉名ぐんでは、「アマガエルはほとけ様を背負っせお ているので、殺しころ てはいけない」といわれ大切にされていたんだよ。これは、カエルたちは田んぼに多くすんでいるから、田の神の使いとされていたからだ。
 かえるつらに水」ということわざは、どんなことをされても平気なようす。また人からきつく忠告ちゅうこくされても、知らん顔して聞こ
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うとしないことをいうんだ。
 かえるも歌のなかま」というのもある。カエルはあまりいい声ではないが、さかんにカエルの歌をうたっている。鳥も虫も、歌をうたう。そのように、カエルから人間まで、生きものはみんな歌がすきである、という意味だ。ほんとにそうだよ。だから、小さな生きものとも仲よくなか  した方がいいんだ。ことわざの中にも、こんなすばらしいものもあるんだ。

 「常識じょうしきのことわざ探偵たんていだん」(国松くにまつ俊英としひでちょ フォア文庫)より
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a 長文 6.2週 ta
どんぐりのせい比べくら 

 どんぐりは、どれも形や大きさがおなじようで、一つ一つのちがいはよくわからない。そこから、人間をくらべる時に、みんなおなじようでとくにすぐれたものがいないことをいう。
 このことわざは、平凡へいぼんなものばかりをくらべる時に使い、すぐれたものをくらべる時には使わない。クラスの成績せいせきで、上位じょういのものは力がそろっていて、だれが一か二かわからないような時には、「どんぐりのせい比べくら 」とはいわない。どうしてことわざに「どんぐり」がでてきたんだろう?
 それは、どんぐりがとてもありふれた木の実だからだ。どんぐりは、特定とくていの木の実じゃない。ブナ科ナラぞくの木になる実は、みんなどんぐりだ。つまり、カシ、クヌギ、コナラ、ミズナラ、カシワ、といった木になる実はぜんぶ「どんぐり」とよぶんだ。木の種類しゅるいはちがい、みきや葉の形などはちがっても、その木にできたどんぐりをくらべてみると、みんなているように見える。そこから、このことわざがうまれたと思われるよ。
 ところで、宮沢みやざわ賢治けんじという人が書いた童話に「どんぐりと山猫やまねこ」というのがある。作品のなかみは、このことわざとつながるところがあるよ。
 ――ある日、一郎いちろうのところに、おかしなはがきがきた。それは山ねこからのもので、あした、めんどうな裁判さいばんをするからきてくれ、と書いてあった。
 つぎの日、一郎いちろうは、谷川にそって、くりの木、たき、きのこ、りすなどに道を聞きながら、どんどん山の中に入っていった。そしてかやの森への坂道をのぼると、ぽっかりと草地がひらけていて、そこに山ねこがあらわれた。
 そこへ、赤いズボンをはいたどんぐりが、いっぱい飛びだしと   てきた。どんぐりたちは、だれがいちばんえらいかをあらそっていて、山ねこに裁判さいばんしてもらっていたのだ。頭がとがったのがいちばんえらいとか、丸いのがえらいとか、大きいのがえらいとか、口ぐちにいいはる。もう三日も裁判さいばんをやってるのに、ちっともおさまらないのだった。
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 その日も、みんな自分がいちばんえらいといい、わけがわからなくなってしまった。山ねこはどうしたらいいかをたずね、一郎いちろうはこたえた。
「この中で、いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなってないようなのがいちばんえらい、といったらどうでしょう。」
 山ねこは、そのとおりどんぐりたちに申しわたした。すると、どんぐりたちはしいんとして、だれもなにもいわなくなった。裁判さいばんはおわった。山ねこは大よろこびで、お礼に金のどんぐりを一しょうくれたのだった。

 「常識じょうしきのことわざ探偵たんていだん」(国松くにまつ俊英としひでちょ フォア文庫)より
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a 長文 6.3週 ta
怪我けが功名こうみょう

 怪我けが」はきずのことなんだけど、ここでは、あやまちとか過失かしつの意味をさすんだ。「功名こうみょう」はてがらとかよい結果けっかのこと。つまり、失敗しっぱいをしたのにそれがかえってよい結果けっかになった、ということ。また、なんの気もなくやったことが、たまたまよい結果けっかになった、ことでもある。
 ――Oさんは、でかけようとして玄関げんかんをでた。バス停  ていの近くまでいったところで、財布さいふをわすれたことに気づいた。あわてて家にもどり、財布さいふをもってでてきたが、バスはいったあとだった。つぎのバスは、十五分たたないとこない。「だいじな約束やくそくなのに、これじゃ、おくれてしまう」
 Oさんは、わすれ物したことをぼやいていた。つぎのバスに乗って、交差点こうさてんまできた時だ。パトカーやら救急車きゅうきゅうしゃがきて、大さわぎだった。まどから見たOさんはびっくりした。乗りおくれたバスがダンプカーと衝突しょうとつしている。けが人もでたようだった。
 「いやあ、よかったあ。もしわすれ物をしていなければ、あのバスに乗って。いまごろ……。」Oさんは、ほーっと大きな息をついた。
 こんなできごとを「怪我けが功名こうみょう」というんだ。
 ドライ・クリーニングの方法ほうほうを世界ではじめて見つけたのも、さいしょは失敗しっぱいからだった。見つけた人は、フランス・パリの仕たて屋、ジョリー・ベランさんだ。ドライ・クリーニングとは、水を使わないで、物質ぶっしつをとかす液体えきたいを使ってせんたくする方法ほうほうだ。一八四八年のある日、ベランさんはテーブルのランプをひっくり返してしまった。ランプのオイルがテーブルにこぼれ、奥さんおく  がせんたくしたばかりのテーブルクロスを、ひどくよごしてしまった。
「まいったなあ。うちのやつが帰ってくるまでに、きれいにしておこう。」
 べランさんは、よごれたテーブルクロスを手にとった。見ると、オイルがこぼれた方がまっ白で、きれいになっている。これはどういうことか。べランさんの頭に、ひらめくものがあった。
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「きっと、ランプオイルには、ぬのをきれいにする力があるのだ。」
 それからべランさんは、実験じっけんをくり返し、クリーニングの方法ほうほうをマスターしたのだ。そして仕たて屋をやりながら、ドライ・クリーニングのしごともうけてやるようになった。
 テーブルクロスにオイルをこぼしたばかりに、ベランさんはとっても大きな発見をしたのだ。

 「常識じょうしきのことわざ探偵たんていだん」(国松くにまつ俊英としひでちょ フォア文庫)より
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a 長文 6.4週 ta
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 カバは、昼間はほとんど、水の中にいます。水の中で、昼寝ひるねをしたり、のんびりしたりして、じっとしていることが多いのです。
 それで、いつも水の中にいると思われるのですが、カバは、太陽がしずむころになると、水からでて、りくにあがります。そして夜中に、えさの草を食べ、朝になって太陽がのぼると、また、川の水の中に、はいります。
 カバの皮膚ひふは、ほかの動物よりも、うすくできているので、昼間、りくにいると、からだの中の水分がでていってしまいます。そのままほうっておくと、からだがかわいてしまって、死んでしまいますから、なるべく水の中にいるようにしているのです。
 また、カバは、体重が二千五百キロから四千キログラムもあるので、水の中のほうが、からだがかるくなり、らくなのです。
 カバの目や耳、鼻は、顔の上のほうにあります。そのため、水の中にいても、目や、耳、鼻のあなだけを、水面からだすことができます。
 ですから、水の中にいても鼻で呼吸こきゅうできますし、あやしいものが近づけば、そのけはいを感じることができます。きけんを感じると、カバは、さっともぐります。
 水の中にもぐるときは、鼻や耳のあなをとじます。

久道ひさみち健三けんぞう「科学なぜどうして」)
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 お茶わん一ぱいでお米は何つぶありますか? やく三〇〇〇つぶ(〇・五合)だそうです。わたし子供こどものころ、そのなかにときどきすこし黒い小さな斑点はんてんがついたつぶ混じっま  ていました。気がつくと気持ちが悪いので、はしでつまみ出したこともありましたが、たいていは気にしないで食べていました。親が「とりのぞかないと、おなかが痛くいた なるよ」と注意をしたことはなかったからです。いつのまにか、そんな黒い斑点はんてんりゅうはなくなり、真っ白のごはんになりました。
 斑点はんてんりゅう混じっま  ていると、見た目に悪いので、農薬を使って黒い斑点はんてんりゅうがでないようにしているのです。お茶わんに四つぶ(〇・一%以上いじょう)あると、二等米に格下げかくさ になり、が下がってしまうのです。農薬を使わざるをえません。
 お米にいたずらして斑点はんてんりゅうを作るのはカメムシです。ヘクサムシ、ヘコキムシとも呼ばよ れ、触れるふ  悪臭あくしゅうを出して身を守ろうとする、小さな平べったい五角形の虫です。
 夏がすぎいねを出すころ、カメムシは一部の田に飛んと できてちち吸うす ので、被害ひがいにあった一部の田んぼの一部のつぶ斑点はんてんりゅうになります。一〇アール(=一反)の田にはやく二三〇〇万つぶのモミがあるので、この〇・一%は二万三〇〇〇つぶになります。これ以下いかにするには、計算上カメムシを六〇ぴき未満みまんにする必要ひつようがあるので農薬がまかれるのです。
 害虫がいちゅうと聞くと、いねを病気にしたり、収穫しゅうかくりょう減らしへ  たりする「悪い虫」と思いがちです。しかしカメムシはそんなことはしません。収穫しゅうかくりょう減らさへ  ず、人間の健康けんこうをそこねない程度ていどのいたずらです。それさえ人間は許せゆる なくなり、カメムシを害虫がいちゅう仲間なかまに入れてしまったのです。
 いまから三〇年ほど前、都市住民じゅうみんは、カメムシのいたずらをも許せゆる ない自分になっていることに気づかぬまま、農薬のこわさに気づき、「反農薬」を訴えうった 、農薬を使う農業を否定ひていしました。
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長文 6.4週 taのつづき
百姓ひゃくしょうさんも使いたくて使っているわけではないので、農薬で作ってくれる人が、ごく少数ながらあらわれました。すると農薬を使っている多くのお百姓ひゃくしょうさんが、こんどは「悪い人」に見えてくるのです。農薬を使わざるをえない現実げんじつは知っていても、反農薬の世論せろん押さお れた農業関係かんけい者は、決められたとおりに農薬をまくことを省略しょうりゃくする「しょう農薬」や、濃度のうどをうすくすることを意味する「てい農薬」にしているので不安ふあんに思わなくてよいと反論はんろんしました。
中略ちゅうりゃく
 悪循環あくじゅんかん断ち切るた き ため、福岡ふくおか県農業改良かいりょう普及ふきゅう所に勤務きんむしていた宇根うねゆたかさんは「「虫見板むしみばん」を使い、田のなかにいる虫に改めてあらた  関心かんしんを持ってもらう試みこころ を開始しました。かぶをたたき、虫見板の上に落ちてくる虫を、害虫がいちゅう益虫えきちゅう、ただの虫に見分ける能力のうりょくをまずつけてもらいます。つぎに害虫がいちゅう繁殖はんしょくし、被害ひがいをあたえようとするタイミングを学んでもらい、そのときに農薬をまくように指導しどうしていったのです。それまでよりは時間はかかるけれど、田のなかの自然しぜん関心かんしんを持ち、つきあえる能力のうりょく養っやしな ていくのは楽しいものです。そのうえこわい農薬の使用りょう減りへ 健康けんこうにもよいし、経済けいざいてきにも助かります。防除ぼうじょれきにしたがうと一三回まくところが、二〜四回になった人もいます。これだけの効果こうかがあると、運動は大きくなり、福岡ふくおか県から佐賀さが県へも広がりました。

(森住明弘あきひろ環境かんきょうとつきあう50話』)
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