a 長文 4.1週 wa2
 田中美知太郎みちたろうさんがプラトンの事を書いていたのを、いつか読んで大変面白いと思った事がありますが、プラトンは書物というものをはっきり軽蔑けいべつしていたそうです。かれの考えによれば、書物を何度開けてみたって、同じ言葉が書いてある、一向面白くもないではないか、人間に向って質問すれば返事をするが、書物は絵に描いえが た馬の様に、いつも同じ顔をして黙っだま ている。人を見て法を説けという事があるが、書物は人を見るわけにはいかない。だからそれをいい事にして、馬鹿ばか者どもは、生齧りかじ の知識を振りふ 廻しまわ て得意にもなるのである。プラトンは、そういう考えを持っていたから、書くという事を重んじなかった。書く事は文士に任せて置けばよい。哲学てつがく者には、もっと大きな仕事がある。人生の大事とは、物事を辛抱強くしんぼうづよ 吟味ぎんみする人が、生活のうらに、忽然とこつぜん 悟るさと ていのものであるから、たやすく言葉には現せぬものだ、ましてこれを書き上げて書物という様な人に誤解されやすいものにして置くという様な事は、真っ平である。そういう意味の事を、かれは、その信ずべき書簡で言っているそうです。従ってかれによれば、ソクラテスがやった様に、生きた人間が出会って互いにたが  全人格を賭しと て問答をするという事が、真智しんちを得る道だったのです。そういう次第であってみれば、今日残っているかれの全集は、かれの余技だったという事になる。かれのアカデミアに於けお る本当の仕事は、みな消えてなくなってしまったという事になる。そこで、プラトン研究者の立場というものは、甚だはなは みょうな事になる、と田中氏は言うのです。プラトンは、書物で本心を明かさなかったのだから、かれ自ら哲学てつがくの第一義と考えていたものを、かれがどうでもいいと思っていたかれの著作の片言隻句せっくからスパイしなければならぬ事情にあると言うのです。今日の哲学てつがく者達は、哲学てつがくの第一義を書物によって現し(ママ)、スパイの来るのを待っている。プラトンは、書物は生きた人間のかげに過ぎないと考えていたが、今日の著作者達は、かげの工夫に生活を賭しと ている。習慣は変って来る。ただ、人生の大事には汲みく 尽せつく ないものがあるという事だけが変らないのかも知れませぬ。
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 文学者は、みな口語体でものを書く様になったので、書く事と喋るしゃべ 事との区別が曖昧あいまいになったが、曖昧あいまいになっただけです。両者が歩み寄って来た様に思うのも外見に過ぎない。あれが文学で、あれが文章なら、自分にも書けそうだという人が増えた、文学を志望する事がやさしくなった、それだけの話で、とるに足らぬ事だ。それよりもよく考えてみると、実は、文学者にとって喋るしゃべ 事と書く事とが、今日の様に離れ離れはな ばな になってしまった事はないという事実に注意すべきだと思います。昔、歌われるため、語られるための台本だった書物は、印刷され定価がつけられて、世間にばらまかれれば、これを書いた人間ももうどうしようもないという事になりました。今日の様な大散文時代は、印刷術の進歩と離しはな ては考えられない、と言う事は、ただ表面的な事ではなく、書く人も、印刷という言語伝達上の技術の変革とともに歩調を合わせて書かざるを得なくなったという意味です。昔は、名文と言えば朗々誦すしょう べきものだったが、印刷の進歩は、文章からリズムを奪いうば 、文章は沈黙ちんもくしてしまったと言えましょう。散文が詩を逃れるのが  と、詩もまた散文に近づいて来た。今日、電車の中で、岩波文庫版で金槐集きんかいしゅうを読む人の、考えながら感じている詩と、愛人の声は勿論もちろんその筆跡ひっせきまで感じて、喜び或いはある  悲しむ昔の人の詩とはなんという違いちが でしょう。散文は、人の感覚に直接訴えるうった  場合に生ずる不自由を捨てて、表現上の大きな自由を得ました。この言わば肉体を放棄ほうきした精神の自由が、甚だはなは 不安定なものである事は、散文が、自分を強制する事も、読者を強制する事も、自ら進んで捨てた以上仕方がない事でしょう。いい散文は、決して人の弱味につけ込み  こ はしないし、人をわせもしない。読者は覚めていれば覚めている程いいと言うでしょう。優れた散文に、もし感動があるとすれば、それは、認識や自覚のもたらす感動だと思います。

 (小林秀雄ひでお『考えるヒント』)
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a 長文 4.2週 wa2
 テレビの教養番組で、アメリカのロボット研究の現状を見た。映像による報告はさすがになまなましく、あらためて文明の行方について考えさせられた。科学者たちはじつに無邪気むじゃきに技術の夢を楽しみ、限りなくロボットを人間に近づけようとしているのである。
 研究の一つの方向は、ロボットの精神的な能力を拡張し、判断力や感情さえ持った機械を造ろうという試みである。外形も二足歩行の人体に似せ、顔の表情まで再現する技術が磨かみが れている。脳の働きをするコンピューターがさらに発達すれば、ロボットが人間と手をとって街を歩く日も遠くないという。
 もう一つの方向は、人間の身体の一部を機械で置き換えお か 、脳と機械を直結するサイボーグ造りの動きである。これはすでに身体障害者の補助器具として実現していて、かたの筋肉の指令を受けて動く精妙せいみょうな義手が発明されている。光を感受するチップで失われた視力を回復させたり、衰えおとろ た脳のなかに記憶きおく装置を埋め込むう こ 研究も行われている。この努力の究極の姿は、やがて人体から脳だけを残し、四肢ししや内蔵のすべてを機械で補強する、人間改造計画に行きつくことになるらしい。
 見ていてふしぎだったのは、現場の研究者も評論家も含めふく て、アメリカの知識人がこうした研究にきわめて楽天的だということである。クローン人間の研究にはあれほどの嫌悪けんおを示し、大統領の禁止勧告かんこくまで生んだこの国の反応とは対照的だというほかはない。クローン人間を忌避きひさせているのは、人間を神の造物と見るキリスト教の思想だろうが、その禁忌きんきが機械的な人間の製造、あるいは改造には及ばおよ ないことが、印象深いのである。(中略)
 まぎれもなく、サイボーグ肯定こうていの思想の背後にあるのは、近代の脳中心の人間観である。もっといえば、心と身体を二つに分け、心は脳に宿っていると考える先入観である。じつは二〇世紀後半の哲学てつがくはこれに疑問を投げかけ、心と身体の一体性、相互そうご作用を重視するようになった。しかし、科学者を含めふく て大多数の現代人はまだこの二元論を信じていて、身体をとりかえても心の同一性は守れると感じている。加えて心は脳の専有物だという、古い常識から逃れのが られないでいるのである。
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 そのうえに大きいのは、現代人が個人の福祉ふくしを絶対視し、現に生きている人の幸福を至上命令と考えていることである。障害者や高齢こうれい者に補助器具を提供し、身体能力を回復することは正義だという世論を、現代人は疑うことはできない。現にサイボーグはそういう善意から研究され始めているのであって、その限りこの研究を現代文明は非難することができない。まだ生まれていない生命、現に生きていない個人を生もうというクローン技術にはこの世論の追い風がないのである。
 だが困ったことに、身体能力の回復から改善までの道はほんの一歩しかない。だれしも自分の身体を十分だとは思っておらず、十分にしたいと願っているものの、何が十分であるかはだれも知らない。ただ人なみに生きたいというつつましい願いが、とかく人なみを超えるこ  競争を招くのであって、そのことは今日の消費生活を見れば明らかだろう。たぶんサイボーグは二十一世紀の「超人ちょうじん」を生むのだろうが、それはニーチェの反ぞく思想ではなく、平均的生活を求める庶民しょみんのいじらしい願望がもたらすことになりそうなのである。
 こんなことを考えながら、私はべつに警世の論を張っているつもりはない。いつの時代にも文明は変わるものであるし、それも合理的な「進歩」とは無関係に変化するものだろう。ただ面白いと思うのは、文明を変えるものが必ずしも冒険ぼうけん的な好奇こうき心ではなく、ある時代にもっとも常識的な社会の通念でありうるという逆説である。人びとが「危険」な好奇こうき心を警戒けいかいしているうちに、ひそかに安全な良識がそれ自体の足もとをくつがえしてしまう。それが人間の悲しさというべきか、それこそが尽きつ ない魅力みりょくの源泉だというべきだろうか。

 (山崎やまざき正和の文章による)
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a 長文 4.3週 wa2
 現代の「南」の人びとの大部分が貧困であることは事実だ。けれどもそれは、GNPが低いから貧困であるのではない。GNPを必要とするシステムの内に投げ込まな こ れてしまった上で、GNPが低いから貧困なのである。
 自分たちの生きるために必要なものを自分たちの手で作るということを禁止されたあのドミニカの農民たちは、こういう「南」の人たちすべての「貧困」の構造の赤裸々せきららに短縮された典型であるにすぎない。「南の貧困」をめぐる思考は、この第一次の引き離しひ はな 、GNPへの疎外そがい、原的な剥奪はくだつをまず視界に照準しなければならない。
 一九八八年のアメリカには、約三一〇〇万人の人びとが貧困ライン以下の生活をしていたという。この「貧困ライン」とは、四人世帯で年収一万二〇〇〇ドル強にみたない生活であるという。この線は、「南の貧困」を論じる時に世界銀行等が用いる、一人あたり年間三七〇ドルという線とは、ずいぶん開きがあるようにみえる。この「ダブル・スタンダード」は、「豊かな国」のぜいたくと偏見へんけんにみちた基準と考えることができるだろうか?
 ある部分までは、そういう「ぜいたくと偏見へんけん」が存在すると考えていいかもしれない。けれどもたとえば、アメリカ国勢調査局の記述によると、一九七二年には「少なくとも一〇〇〇万から一二〇〇万のアメリカ国民が、あまりにもわずかしか食費にまわせないために、空腹に苦しんでいるか、あるいは病気にかかっている。」
 これは収入の数字ではなく、実際に食物が手に入らないという数字である。巴馬瑶族ばまやおぞくの村人は四八〇〇円の年収で豊かに生きることができるが、ニューヨークや東京の住民はその一〇倍でも、ほとんど生きていくことができない。これは単なるぜいたくや偏見へんけんの問題ではない。
 アジアやアフリカの多くの村々でテレビのないことは少しも貧困ではないが、東京やパリやニューヨークでテレビのないことは貧困である。ロスアンジェルスで自動車のないことは、「ノーマルな市民」としての生活がほとんど出来ないということである。
 この新しい貧困の形を説明しようとする理論が一般いっぱんに用いる用語法は、「絶対的貧困」と「相対的貧困」というコンセプトである。「南」の貧困は絶対的な貧困であるが、「豊かな社会」の内部にも相対的な貧困がある、というわけである。
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「相対的」という言い方は、「豊かな社会」の内部の貧困を的確に把握はあくする仕方だろうか?
 すでに見たように、東京やニューヨークでは、巴馬瑶族ばまやおぞくの一〇倍の所得があってもじっさいに「生きていけない」。これは隣人りんじんとの比較ひかくや不平等一般いっぱんの問題ではなく、絶対的な必要を充足じゅうそくすることが出来ないということである。
 電話がなくても人間は生きることができるが、一九九〇年代の東京で電話がないという家族は、義務教育の公立学校の「連絡れんらくもう」からも脱落だつらくする(「特別な処置」ではじめて「救済」される)存在である。つまりその生きている社会の中で「ふつうに生きる」ことが出来ない。
 これらは「羨望せんぼう」とか「顕示けんじ」といった心理的な問題ではなく、この社会のシステムによって強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。
 「貧困」のコンセプトは二重の剥奪はくだつであるということを、「南の貧困」に即しそく て見てきた。貨幣かへいからの疎外そがいという目に見える規定の以前に、貨幣かへいへの疎外そがいという目に見えない規定があると。このコンセプトは、形態をまったく異にするようにみえる「北の貧困」にもそのまま当てはまる。第一次的な剥奪はくだつ巨大きょだいであることに応じて、「必要」のラインを定義する貨幣かへいの数量も巨大きょだいなものとなる。第一次的な剥奪はくだつの重層的であることに応じて、「必要」であることの根拠こんきょも重層的となっている。
 現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存いぞんすることを、この社会の「正常な」成員の条件として強いることをとおして、原的な必要の幾重にもいくえ  間接化された充足じゅうそくの様式の上に、「必要」の常に新しく更新こうしんされてゆく水準を設定してしまう。新しいしかし同様に切実な貧困の形を生成する。

 (見田宗介そうすけ「現代社会の理論」による)
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a 長文 4.4週 wa2
 言語と思考の関係は実は学問の世界でも同様である。言語には縁遠いえんどお と思われる数学でも、思考はイメージと言語の間の振り子ふ こ運動と言ってよい。ニュートンが解けなかった数学問題を私がいとも簡単に解いてしまうのは、数学的言語の量で私がニュートンを圧倒あっとうしているからである。知的活動とは語彙ごい獲得かくとくに他ならない。
 日本人にとって、語彙ごいを身につけるには、何はともあれ漢字の形と使い方を覚えることである。日本語の語彙ごいの半分以上は漢字だからである。これには小学生のころがもっとも適している。記憶きおく力が最高で、退屈たいくつな暗記に対する批判力が育っていないこの時期を逃さのが ず、叩き込またた こ なくてはならない。強制でいっこうに構わない。(中略)
 大局観は日常の処理判断にはさして有用でないが、これなくして長期的視野や国家戦略は得られない。日本の危機の一因は、選挙民たる国民、そしてとりわけ国のリーダーたちが大局観を失ったことではないか。それはとりもなおさず教養の衰退すいたいであり、その底には活字文化の衰退すいたいがある。国語力を向上させ、子供たちを読書に向かわせることができるかどうかに、日本の再生はかかっていると言えよう。
 アメリカの大学で教えていたころ、数学の力では日本人学生にはるかに劣るおと むこうの学生が、論理的思考については実によく訓練されているので驚かさおどろ  れた。大学生でありながら(−1)×(−1)もできない学生が、理路整然とものを言うのである。議論になるとその能力が際立つ。相手の論理的飛躍ひやく指摘してきする技術にかけては小憎らしいこにく   ほど熟練しているし、自らの考えを筋道立てて表現するのも上手だ。
 これは学生に限られたことでなく、暗算のうまくできない店員でも、話してみると驚くおどろ ほどしっかりした考えを持っているし、スポーツ選手、スター、政治家などのインタビューを聞いても、実に当を得たことを明快な論旨ろんしで語る。
 これと対照的に日本人は、数学では優れているのに論理的思考や表現には概してがい  弱い。日本人学生がアメリカ人学生との議論にな
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って、まるで太刀打ちできずにいる光景は、何度も目にしたことだった。語学的ハンデを差し引いても、なお余りある劣勢れっせいぶりであった。
 当時、欧米おうべい人が「不可解な日本人」という言葉をよく口にした。不可解なのは日本人の思想でも宗教でも文学でもなく(これらは彼等かれらによく理解されつつあった)、実は論理面の未熟さなのであった。少なくとも私はそう理解していた。科学技術で世界の一流国を作り上げた優秀ゆうしゅうな日本人が、論理的にものを考えたり表現する、というごく当たり前の知的作業をうまくなし得ないでいること。それが彼等かれらにはとても信じられないことだったのだろう。
 日本人が論理的思考や表現を苦手とすることは今日も変わらない。ボーダーレス社会が進むなか、阿吽あうんの呼吸とか腹芸は外国人に通じないから、どうしても「論理」を育てる必要がある。いつまでも「不可解」という婉曲えんきょくな非難に甘んじあま  ているわけにはいかないし、このままでは外交交渉こうしょうなどでは大きく国益を損うことにもなる。
 数学を学んでも「論理」が育たないのは、数学の論理が現実世界の論理と甚だしくはなは   違うちが からである。数学における論理は真(正当性一〇〇パーセント)か、(正当性〇パーセント)の二つしかない。真白か真黒かの世界である。現実世界には、絶対的な真も絶対的なも存在しない。すべては灰色である。殺人でさえ真黒ではない。死刑しけいがある。殺人は真黒に限りなく近い灰色である。
 そのうえ、数学には公理という万人共通の規約があり、そこからすべての議論は出発する。現実世界には公理はない。すべての人間がそれぞれの公理を用いていると言ってよい。
 現実世界の「論理」とは、普遍ふへん性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、というきわめて頼りたよ ないものである。そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である。すなわち、「論理」を育てるには、数学より筋道を立てて表現する技術の修得が大切ということになる。

 (藤原ふじわら正彦まさひこ『祖国とは国語』)
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a 長文 5.1週 wa2
 「死とは何であるか」、「死んだらどうなるか」ということは、じつは人間の理性では決して突き止めつ と られない問題です。いまのところ分からないというのではなくて、原理的にはっきりさせられない問題なのです。人間は文明発生以来たえず、この「死んだらどうなるか」という問題に何らかの答え(物語)を与えあた てきました。その理由は、昔は人間が蒙昧もうまいだったからではなく、人間が「自我」の生き物であり、これが分からなければ「自我」が安定しない本性をもっているため、「死んだらどうなるか」についての物語をどうしても必要としたからです。(中略)
 そのために、どんな文明、どんな時代でも、人間は死とは何かについての物語を作って、それを共同体のいちばん基本のルールにするわけです。先に言ったように、西洋では、死んだら天国(地獄じごく)に行くとか、また仏教では人間は輪廻りんね転生するといった物語が、これまでは死についての最大の物語(フィクション)でした。ただこの死の物語は、また必ず死の不安を(なだ)める「救済の物語」でもあったという点が大事です。
 死の救済の物語は、要するに、「死んだら何もない」という不安を打ち消す必要があるのです。というのは、もし「死んだら何もない」ということが本当なら、それは人間の生の「意味」をまったく無化するような「真理」だからです。この「真理」は、人間の「生の意味」というものをまったく「無」だと言い、そのことで、生活のさまざまな努力を「無意味」にするからです。この救済の物語は、まず第一に死の不安を打ち消し、第二に生を意味づけるようなものでなければならないのです。何といっても、この役割を最もよく果たしてきたのは宗教だったと言えます。(中略)
 ところが、近代以降、この救済の物語に厄介やっかいな問題が起こってきました。近代科学や合理精神が新しい世界像の基礎きそとなることによって、キリスト教などの世界像が、多くの人間にとって疑わしく、「信じられない」ものになってきたのです。
 自然科学における地動説や進化論は言うに及ばおよ ず、哲学てつがくにおいても、カントやへーゲルあたりから「神の存在」は自明のものではなくなり、やがてニーチェがキリスト教の世界像にとどめを刺すさ ことになります。かれは、キリスト教における「真理」に対する誠実な態度が、近代の徹底的てっていてきな無神論やニヒリズムを出現させたのだと言っていますが、まさしくその通りで、十九世紀に入ると「無神
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論」はもう人類全体にとって後戻りあともど の効かないものになります。今では、キリスト教国や仏教国でも、無神論を決定的に滅ぼすほろ  ことはできない。ときどきいろんな新興宗教がブームになったりするにもかかわらず、大きく見ると宗教的世界像は徐々にじょじょ 滅びほろ つつあるのです。
 しかし、そうであるからと言って、人間にとって死の救済の問題は必要欠くべからざるものです。そこで、宗教に代わって、近代哲学てつがくがさまざまな形で救済の物語を作り出す努力をしました。
 たとえばヘーゲルには、個の生命は死んでも大きく見れば生命循環じゅんかんするという考え方があります。つまり動物は死ぬと土に帰り、土は植物の養分になり、植物はまた動物に食べられてというように、生命体の大きな連鎖れんさがあるというわけです。これは、ある意味で近代的な輪廻りんね説だと言えます。マルクスは、人間は個として生まれてくるけれど、しかし死ぬときには「類」として死ぬと言います。つまり、人間は、死ぬときといえどもじつは決して孤独こどく孤立こりつした存在として死ぬのではない、社会や歴史や人類全体の一員として死ぬんだというわけです。
 これももちろん一つの物語です。この近代的な救済の物語としての人間の類的存在性、社会的存在性は、やはり近代社会での人間の生のゲームのありようを反映しています。つまり、近代社会では、人間は生まれ落ちるやその社会の中に投げ込まな こ れて、「社会的に」自己を実現する。そのことによって、社会や歴史の中に自分を参加させ、社会的存在、歴史的存在として自分を成就するということを目標にするのです。だから、人間は死んでも何か社会的な貢献こうけん、社会の進歩や発展に寄与きよするように生きれば、その「生の意味」が保証される(救われる)ことになる。
 この物語は、近代社会の中で人間のライフスタイルが社会的自己実現というゴールを持つようになったことと対応しているのです。

 (竹田青「自分」を生きるための思想入門」より)
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a 長文 5.2週 wa2
 「そうか、今度から質問は一つにしてみよう」仕事で知り合った会社の取締役とりしまりやく紳士しんしが、合点がてんしたという表情でおっしゃった。コトの発端ほったんは私の発言にある。インタビューの仕事をするにあたって、何を心がけているかと訊ねたず られた際、応えたのである。
 それはかつてテレビのアナウンサーに教えられた言葉であった。すなわち、インタビューをする前は、質問を一つだけ用意して出かけなさい。十項目こうもくも二十項目こうもくも準備して本番に臨むのはよくない、必ず失敗するよと。
 当時はそんなアドバイスをいただいたところで、とても怖くこわ てにわかに実行できなかった。ゲストを目の前にして、会話がプッツリ途切れとぎ たときのことを想像するからである。手に質問条項じょうこうを記したメモを持ち、一つずつ消化していくほうが安心だ。万全の体制を整えることが大事なのだと信じ込んしん こ でいた。
 ところが実際、メモに従ってインタビューを進めてみると、ゲストが喋りしゃべ 出したとたん、こちらは油断する。おお、応えが返ってきたぞ。これでひとまず安心だ。さて、次は何を聞くんだったっけ、と、相手の言葉に相槌あいづちを打ちつつ、頭のなかでは次の質問について考えている。当然、話を聞いていない。だから応えて下さった内容とはつながらない質問が、次に飛び出してしまうのである。「なんだ、コイツ、おれの話を聞いていないじゃないか」とゲストは気をそがれる。ならば適当に応えておけばいいだろうと熱意を失う。こうして対談の内容は、おざなりの、ほどほどのものになってしまう危険性が高い。
 「だから質問は一つ。そうしておけば、次の質問を探すために一生懸命いっしょうけんめい相手の話を聞くようになる。一生懸命いっしょうけんめい聞けば、おのずと次の質問は浮かんう  でくる。そしてしだいに聞き手と語る側の気持ちがつながって、会話がはずむようになるはずだ」
 先輩せんぱいアナウンサーの忠告を、なるほどそうだと実感したのは、その後十年近く経ってからのことである。そんな話をしたところ、くだん取締役とりしまりやく紳士しんしがおっしゃった。
 「よし、今度、新人社員の採用面接のときに実行してみるよ。こりゃおもしろそうだ」
 かれ日く、最近の面接は、だれもが要領を得ているせいか、質問する
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と、おそらくこんな答が返ってくるだろうと予測できる答しか返ってこない。突拍子とっぴょうしもない反応がないのだそうだ。
 「しかし考えてみれば、聞く側も、決まり切った質問しかしてないんだからな。なぜ、この会社を選んだのとか、入社したら何をやりたいのとか。たしかに聞き方にも問題がある」
 紳士しんしは深く納得し、きたるべき面接試験に意欲を燃やし始めた様子である。
 が、私は少々不安になり、訊ねたず てみた。
 「で、何の質問から始めるおつもりで?」
 「そうだな、たとえば、『君のネクタイ、いいねえ。それだれ趣味しゅみ?』なんて、どうかね」
 そりゃ、いいですけど、なにせ面接時間は短いに違いちが ない。はたしてそこから始まって、目当ての話題まで到達とうたつするだろうか。私とて、基本は質問一つだが、お相手や所要時間によって、さらに複雑な戦略がないわけではない。私の話を気に入ってくださったのは有り難いけれど、来年になって、その会社の新入社員の責任を取れと言われたらどうしよう。
 「優秀ゆうしゅうな人材が集まりますよう、お祈り いの しています」
 ニッコリ笑って、そそくさと退散した。
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a 長文 5.3週 wa2
 学者の仕事は芸術家のそれとまったく違っちが た運命のもとにおかれている。というのは、それはつねに進歩すべく運命づけられているのである。これに反して、芸術には進歩というものがない。すくなくとも学問でいうような意味の進歩はない。ある時代の芸術品が新しい技術上の手段や、またたとえば遠近法のようなものを用いているからといって、こうした手段や方法の知識を欠く作品にくらべてそれが芸術としてすぐれていると思うのは間違いまちが である。正しく材料を選び、正しい手法に従っているものでありさえすれば――いいかえればこうした手段や方法を用いてなくても、主題の選択せんたくと制作の手続きにおいて芸術の本道をいくものでありさえすれば――それは芸術としての価値において少しも劣るおと ものではないのである。これらの点で真に「達成(エルフュレン)」している芸術品は、けっして他に取ってかわられたり、時代遅れじだいおく になったりするものではない。もとより、作品の評価は人によってさまざまであろう。だが、真に芸術として「達成」している作品について、それが他の同様に「達成」している作品によって「凌駕りょうが」されたとは、だれもいうことはできない。
 ところが、学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れじだいおく になるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。たとえこれとおなじ運命が他の文化領域内にも指摘してきされうるとしても、学問はこれらのすべてと違っちが た仕方でこの運命に服従し、この運命に身を任せるのである。学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れじだいおく となることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじあま  なければならない。もとより、学問上の仕事がのちのちまで重んじられることもありうる、たとえばその芸術的性質のゆえに一種の「嗜好しこう品」として、あるいは学問上の仕事への訓練のための手段として。しかし、学問としての実質においては、それはつねに他の仕事によって取ってかわられるのである。このことは――くり返していうが――たんにわれわれに共通の運命ではなく、実にわれわれに共通の目的なのである。われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達とうたつ
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することを期待しないでは仕事をすることができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。かくて、われわれはここで学問の意義はどこにあるかという問題に当面する。というのは、このような運命のもとにおかれている学問というものが、いったい有意義なものであるかどうかは、けっして自明ではないからである。事実上終りというものをもたず、またもつことのできない事柄ことがらに、人はなぜ従事するのであろうか。

 (マックス・ウェーバー著、尾高おだか邦雄くにお訳「職業としての学問」より)
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a 長文 5.4週 wa2
 コミュニケーション・システムの場合も、少し以前の交通システムは多分にツリー型だった。だから交通ストがあると社会問題になったわけですが、最近はあまり問題にならない。スト慣れということもありますが、それだけではなく交通システム自体がだんだんネット状になり、代替だいたい経路が確保されるようになったということがあります。ツリー型のシステムでは、二つのセットのオーヴァーラップ、重なりあい、そこから生ずる両義性というものは本来許されない。しかし実際のリヴィング・システムでは、あとでのべますように、ツリー型のシステムがそのままであることは珍しくめずら  、裏のシステムや補完システムが非公式に形成されます。
 それにたいしてもう一つのシステム・モデルは網状もうじょう交叉こうさ図式です。(中略)たとえば3というメンバーは1、2、3を含むふく クラスに属すると同時に、3、4、5を含むふく クラスに属しているし、3、4、5、6を含むふく クラスにも属している。そういう点ではある意味での多義性がそこに生まれてくる。
 身の構造は、多分にこういう交叉こうさ網状もうじょう図式の構造をもっている。一般いっぱんに人工的なシステムはツリー的な性格をもつものが多いのにたいして、自然発生的なシステムはセミ・ラティス的あるいはむしろネットワーク的である。クリストファー・アレグザンダーという人は都市デザイナーですが、二〇世紀に考案されたル・コルビュジエからニーマイアー、丹下たんげ健三にいたるすべての都市計画は、全部ツリー型だということをはっきりさせた。それにたいして自然に形成されてきた都市、あるいは最初は計画都市であっても歴史のなかで自然都市に近くなってきた都市(たとえば京都)は、セミ・ラティス的な構造をもっているということを指摘してきしています。
 またさまざまな芸術作品が構成する間テキスト空間とか文化空間というようなものを考えてみると、その構造は多分に交叉こうさ型の網状もうじょう図式となっている。一般いっぱんに人間の生世界にかかわるリヴィング・システムは、たえずクラスが重合し多義的になる。グラフでいえばネットワーク状の形式をもつようになります。(中略)
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 組織図としては、こういう組織をとる会社はまだ少ないわけで、ほとんどの会社がツリー的な組織図をとっている。しかしよく考えてみますと、それでは成りたってゆかない。そこで無意識的にツリーを補完する非公式の制度として活用されているのが、たとえば広い意味での宴会えんかい政治である。つまり一時的に裏の組織がつくられて、宴会えんかいの席ではこの上下関係や業務のなわばりがある程度破られるわけですね。これを〈シャドー・システム〉と呼びたいと思います。組織を考える上で重要なのは、組織図に現われたメインのシステムだけではなく、実際のはたらきの上で補構造をなしているシャドー・システムを含めふく た組織全体のはたらきをとらえることです。
 宴会えんかい政治とまではゆかなくても、たとえば4のメンバーが6のメンバーの仕事と密接に関係することをやっていて、調整したいという場合、ふつうは上司を通して交渉こうしょうしなければいけないけれども、前もって、まあ一杯いっぱいやろうというわけで根回しをするというようなことが行われる。そういうツリー型のシステムの裏の補構造ともいうべきものが、タテ社会ではどうしても必要になってくるのではないか。
 それを意識的に表面化し、公式に制度化する試みが最近盛んになってきました。たとえばプロジェクト・チームというのは、いろんな部署から専門家を選び、元の部署での上下関係はあるていど解体して、そのプロジェクトにふさわしい組織を一時的につくるというアド・ホック・システムです。松戸市に「すぐやる課」というのがあります。あれはツリー型の組織の不備を補い、ネットワーク型のはたらきをもたせるための制度化されたゲリラ型組織ということができます。
 (市川ひろし『「身」の構造』)
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a 長文 6.1週 wa2
 消費者は、もはや特殊とくしゅな有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットとかかわることになる。洗濯せんたく機、冷蔵庫、食器洗い機等は、道具としてのそれぞれの意味とは別の意味をもっている。ショーウィンドウ、広告、企業きぎょう、そしてとりわけここで主役を演じる商標は、くさりのように切り離しき はな 難い全体としてのモノの一貫いっかんした集合的な姿を押しつけお   てくる。それらはもはや単なるひとつながりのモノではなくて、消費者をもっと多様な一連の動機へと誘うさそ 、より複雑なちょうモノとして互いにたが  互いたが を意味づけあっているが、この限りにおいてはモノはひとつながりの意味するものなのである。(中略)
 ある種の人々の見解からは、当惑とうわくが顔をのぞかせている。「欲求は、経済学が関与かんよするあらゆる未知の要素のなかでも、最もしつこく未知なるものである」(ナイト)。しかし、こうした当惑とうわくは、マルクスからガルブレイス、ロビンソン・クルーソーからションバール・ド・ローヴにいたる、人間学的学説の主張者たちが、欲求についての長ったらしいお説教をあきもせずに繰り返すく かえ ことをさまたげはしない。経済学者にとって、欲求とは「効用」のことである。それは消費を目的とした、すなわち財の効用を消滅しょうめつさせることを目的としたしかじかの特殊とくしゅな財への欲求ということだ。だから欲求は手に入る財によってそもそもの初めからすでに何らかの目標=終りにふり向けられており、選好もまた市場で供給される生産物の選び抜きぬ によって方向づけられているわけで、欲求とは結局支払いしはら 能力のある需要じゅよう「有効需要じゅよう」である。心理学者たちはもう少し複雑な理論を作りあげ、それほど「モノ志向」的ではなくそれ以上に本能志向的で、いわば生得的で不明確な必然的性格をもった動機を欲求だとする。最後に登場する社会学者と社会心理学者にとっては、欲求は「社会=文化的」性格をもっている。学者たちは、個人は欲求を授けられ本性に従って欲求の充足じゅうそく駆り立てか た られるものだという人間学的仮説や、消費者は自由で意識的であり自分が何を望んでいるか知っている存在だという見解を疑問視せずに(社会学者は深層心理的動機に疑問をもっている)、こうした観念論的仮定にもとづいて欲求の「社会的力学」の存在を認めようとし
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ている。その上で、集団内の関係から引き出された順応と競争のモデル(「ジョーンズ一家に負けるな」)や、社会と歴史全体に結びついた大がかりな「文化モデル」を登場させるのだ。
 彼らかれ のなかには、大雑把おおざっぱにいって三つの立場がある。
 マーシャルにとって、欲求は相互そうご依存いぞん的で合理的である。
 ガルブレイスにとって(かれについては後でまた触れるふ  ことにしよう)、選択せんたくは説得によって押しつけお   られる。
 ジェルヴァジ(およびその他の人びと)にとって、欲求は相互そうご依存いぞん的だが(合理的計算の結果である以上に)、見習い学習の結果である。
 ジェルヴァジはいう。「選択せんたく偶然ぐうぜんになされるのではなくて、社会的にコントロールされており、その内部で選択せんたくが行われる文化モデルを反映している。どんな財でもおかまいなしに生産されたり、消費されたりするわけではなく、財は価値の体系との関連において何らかの意味をもたなくてはならない。」この説は消費を社会統合の視点から見る立場へとわれわれを導く。「経済の目的は個人のために生産を最大にすることではなくて、社会の価値体系との関連において生産を最大にすることである」(パーソンズ)。同様に、デューゼンベリーも同じ意味あいで、ヒエラルキーにおける自分の位置に応じて財を選好することが結局唯一ゆいいつ選択せんたくであると述べるだろう。消費者の行動をわれわれが社会現象と見なすようになるのは、選択せんたくという行為こういがある社会と他の社会では異なっていて同じ社会の内部では類似しているという事実が存在するからである。これが経済学者の考え方と異なる点である。経済学者のいう「合理的」選択せんたくは、ここでは一様な選択せんたく、順応性の選択せんたくとなった。欲求はもはやモノではなくて価値をめざすようになり、欲求の充足じゅうそくはなによりもまずこれらの価値への密着を意味するようになっている。消費者の無意識的で自動的な基本的選択せんたくとは、ある特定の社会の生活スタイルを受け入れることなのである。

 (ジャン・ボードリヤール著『消費社会の神話と構造』より抜粋ばっすい編集)
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a 長文 6.2週 wa2
 「学力」という幻想げんそうは、現実には、貨幣かへいのように機能している。教育の日常的な経験が市場空間のただなかにあることを「学力」という概念がいねんほど端的たんてきに表現しているものは、ほかに例がないだろう。私たちは「学力」をまるで「財力」のように意識しているし、まるで貨幣かへいのように機能させている。「学力」は、現実の社会においてなにかを所有する「財力」として機能しており、なにかとなにかを交換こうかんする貨幣かへいのような媒体ばいたいとして機能している。「学力」は、文化的教育的な概念がいねんというよりも、むしろ市場経済の概念がいねんなのである。そのことをもっとリアルに認識するために、貨幣かへいのメタファー(隠喩いんゆ)で「学力」の特徴とくちょう描きだしえが   てみよう。
 まず第一に、「学力」は、貨幣かへいと同じように「評価基準」として作用している。貨幣かへいが、さまざまな生産物や資源やサービスをそれぞれの独自の性質を捨象して一つの尺度で価値づけるように、「学力」も、個性的で多様な経験の結果を特定の尺度で一元的に「値踏みねぶ 」して価値づける機能をはたしている。これまで「学力」についてさまざまな定義が試みられてきたが、どのような定義を与えあた たとしても、もっとも本質的で現実的な意味は、この「評価基準」としての意味に求められるだろう。「学力」は、たえず、一人ひとりの個別具体的な学びの経験を普遍ふへん的な数字で値踏みねぶ しようとするのである。
 第二に「学力」は、貨幣かへいと同様「交換こうかん手段」として意識され機能している。貨幣かへいはだれ一人として受け取ることを拒否きょひしない唯一ゆいいつの商品である。その特性によって、貨幣かへい交換こうかん手段とすれば、たとえ需要じゅようと供給の関係における欲望の対象が一致いっちしなくても、どんなものでも間接的に交換こうかんすることを可能にしている。物々交換ぶつぶつこうかんにおいては偶然ぐうぜんにしか成立しなかった交換こうかんの関係が、貨幣かへいの使用によって一挙に拡大し普遍ふへん化するのである。「学力」も、それと同じ作用を、労働力の市場や受験の市場においてはたしている。入試や雇用こようにおいて、採用する者の要求と志願する者の要求は、詳細しょうさいに検討すればかならずしも一致いっちしないのだが、「学力」を手段とすれ
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ば、合理的な交換こうかんを実現することができるのである。
 第三に「学力」は、やはり貨幣かへいと同じように蓄えるたくわ  ことができる「貯蔵手段」として機能している。貨幣かへいは、貯蔵それ自体が欲望となる唯一ゆいいつの商品である。この「貯蓄ちょちく」という欲望は、交換こうかんという経済活動をその場かぎりの欲望の充足じゅうそくとしてではなく、計画性と合理性を要請ようせいする活動へと導き、その経済活動に、空間的な広がりをもたらすだけでなく、時間的な連続性と持続性をもたらしている。それと同様、「学力」も「貯蓄ちょちく」それ自体が欲望となる唯一ゆいいつの教育の観念である。その幻想げんそうは、大半の子どもを呪縛じゅばくしており、ブラジルの教育改革者パウロ・フレイレが「抑圧よくあつ者の教育学」において「銀行預金型の教育」と名づけたように、いつかどこかで役立てるために、ひたすら「貯蓄ちょちく」する学びが展開されている。
 この「学力」の観念が、教育経験の一回性と鋭くするど 対立していることは明瞭めいりょうだろう。「学力」という幻想げんそうは、たえず、いつの日かのなにかの目的に備えて、学びの「結果」を計画的持続的に「貯蓄ちょちく」する努力へと、子どもたちを追いこんでいる。さらに、この「学力」を「貯蓄ちょちく」することへの欲望は、教育を将来への「投資」として位置づける人びとの欲望を醸成じょうせいする基盤きばんを形成していると言えよう。
 そして、第四に「学力」は、貨幣かへいと同じように、それ自体が「想像的表象」の産物であり、仮想現実の社会を構成している。そこでは、人とモノ、人と人、欲望と対象、欲望と欲望の関係が「貨幣かへい」(あるいは「学力」)を中心として宙づりの状態に置かれ、転倒てんとうして作用している。(中略)
 この貨幣かへいと同じことが「学力」においても作用している。それ自体としてはなんの意味もない一枚の紙切れのテストの得点や通知票や内申書などの数値が、「資本」のような幻想げんそうを生み出して、その価値以外のすべてを無意味で無価値なものと思わせている。

 (佐藤さとう学「学びの身体技法」による)
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a 長文 6.3週 wa2
 近代にいたって多くの人びとは自分と向かい合い、それぞれに自分の内側に孤独こどくな自我を発見しました。一部の知識人や有力者ばかりではなく、社会の広い層を占めるし  人が孤立こりつを強いられ、自分の存在に気づかざるをえない状況じょうきょうに置かれました。産業化とともに、人びとは都市に住むようになり、契約けいやくによって他人と結ばれ、自分の労働を売って生活するようになったからです。村や家系の関係から離れはな 、宗教的共同体のしがらみも緩んゆる で、人びとは自由になるとともに、もっぱら自分のなしえた業績を頼りたよ に生きることになりました。業績本位の社会では、人間は自己を拡張する機会に恵まれるめぐ   一方、たえず生存の危機に直面するわけで、いやでも自分が自分であることを痛感せざるをえない立場に置かれます。(中略)
 愛玩あいがん動物を飼う理由について、世間はとかく小さな動物たちの混じりけのない忠誠心を重視しがちです。このうそに満ちた利害社会のなかで、彼らかれ 偽りいつわ のない純粋じゅんすいな心が尊重にあたいするというわけです。しかし、たとえばねこを飼う多くの人が知るように、愛玩あいがん動物の魅力みりょくは必ずしも単純な忠誠心などではなさそうです。ときには、彼らかれ が人間にささやかにすねて見せたり、嫉妬しっと抱いいだ たり反抗はんこうを示したりすることが、かえって魅力みりょくとなるのだとはしばしば耳にするところです。
 けだし、動物愛好家は動物を擬人ぎじん化し、それに自分と同じ心の動きを見いだして喜ぶのですが、そのなかには明らかに、自分を見返してくる主体的な視線もはいっているはずです。人間が愛玩あいがん動物に求めるのは、二つの主体の交流の可能性であって、けっして相手を奴隷どれい化したり、「もの」を所有したりする喜びではありません。もちろん、世間には血統書付きの名犬を所有し、馬車馬を奴隷どれいあつかいして喜ぶ人もありはします。しかし、たとい一度でも捨てねこを拾って、それと目を見かわした人なら、これが本来の動物愛と無関係であるのは説明するまでもないでしょう。
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 いってみれば、愛玩あいがん動物を愛する人びとは、そこにある種の対等な自我関係のミニチュアを見いだし、現実社会のあの視線の相克そうこくのお芝居しばいを楽しんでいると考えざるをえません。それが楽しめるのは幸いなことに、動物はいかにこまやかな感情を持っていても、けっして人間と同一の社会に属してはいないからです。人と犬、人とねこの関係は、どこまでも一対一の閉ざされた関係であって、そこから生まれたどのような感情も、別の人間や別の動物のあいだに広がって、社会化するおそれはありません。現実社会で人が真に恐れるおそ  のは、ひとりの相手にどう見られるかということもあるが、それ以上に、その判断が第三者に広がり、世間の評価として定着することではないでしょうか。無言の動物と向かい合う場合には、その危険がないどころか、人は積極的に人間社会に背を向けて、つかのまの小さな愛の空間をつくることができます。それはどこか、忘我的でいささか反社会的な、人間どうしのこいの初期状態に似ているとさえいえるかもしれません。
 このように見ると、人間の情緒じょうちょ的な自然愛は、たぶん産業の維持いじのための自然保護以上に、近代という時代の特有の文化であったように思われます。それは人間中心主義や、その中核ちゅうかくをなす自我中心主義と矛盾むじゅんするものではなく、逆にそれの直接の副産物であり、それを補完するものと見たほうが、常識的に納得しやすいのです。

 (山崎やまざき正和「近代の擁護ようご」による)
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a 長文 6.4週 wa2
 翌日も朝から夕方までのおよそ七時間程度の発表を終え、そして再び、夕食後を迎えむか た。私は何か特定のテーマに沿って、学生達と討論することを考えなかったわけではなかったが、昨日の風景が脳裏から離れはな なかった。昨日のあの不思議な風景は教育者としての私よりも、実験心理学者としての私をはるかに刺激しげきしていた。昨日と同じような状況じょうきょう下で、二日目の夜を学生達がはたしてどのように過ごすのだろうかという疑問の誘惑ゆうわくに、私は、こうしきれないでいた。そこで再び昨日と同様の自由時間を彼らかれ 与えるあた  ことにした。そして、結果は再現された。昨日と同様に。二日目もゲームが深夜まで展開された。
 「今の彼らかれ にはゲームをするよりも、もっと大切なことはないのだろうか。例えば自分の関心のあることを人に聞いてもらったり、人の話を聞いてみたいとは思わないのだろうか」。この再現された不思議な風景を説明するためにいささかの考察を試みようとしたが、結局成功しないまま、私は浅い眠りねむ についた。そして私の愚問ぐもんは、何の解答をも見いだせないままに、初秋を迎えむか てしまっていた。
 ところが私は一つの解答らしきものへの指針を、合宿後しばらくして研究室を訪れた一人の学生との会話の一端いったんに、見いだした。その学生の言葉を要約すると「ある種のシリアスな話題を気軽に口にしてはいけない。それは相手に重荷を背負わせることになるかもしれないし、もし相手が話に乗ってこなかった場合には、自分だけが浮き上がっう あ  てしまうかもしれないから」。言葉を補っていえば、学生達はシリアスな話題で相手を困らせたくもないし、自分自身も困りたくはないのである。そして彼らかれ は他人も自分も傷付けたくはないのである。また今までに十分、不自由な思いをしてきたから、過去の不自由さを取り戻すと もど ために、今眼前のそれが何かわからないままに、とにかく今をこなすのに忙しいいそが  のである。シリアスな状況じょうきょうに関わって困るということは立ち止ることであり、立ち止るということは彼らかれ にとって、無条件に「いけないこと」なのである。少なくともゲームをしていれば、その世界で擬似ぎじ的にシリアス
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状況じょうきょう陥るおちい としても、現実の人間関係の世界でのわずらわしさに関与かんよする機会を回避かいひできるのかもしれない。
 結論を急げば、彼らかれ は限りなく優しいのである。ただ他人に対してだけではなく、自分に対しても。また彼らかれ は幼いのではなく、幼い時期にするべきことを十分にさせてもらえなかっただけなのかもしれない。私にとって不思議と思えた風景を私自身の大学時代の記憶きおくに求めたことが間違いまちが であって、その原風景を私は高校や中学時代の記憶きおくに求めるべきだったのである。
 学生達の行動に対するこうした私の拡大解釈かいしゃくは、しかし、私を次のような杞憂きゆうへと誘うさそ 。小学校の時代に、やりたかったけれどもできなかったことを、中学校の時期へと先延ばしし、中学校でやろうと思ってもできなかったことを、高校へと先延ばしにし、高校でできなかったことを、大学に、大学でのことは、大学院へと、あるいは社会生活へと、順次先延ばしにしているのではないだろうか。(中略)
 「幸せの姿はたった一つであるが、不幸の姿は数限りない」。しかし、現今の世情を眺めるなが  と、幸せの姿は曖昧あいまいすぎて記述できず、不幸の姿はまた多すぎて記述できない。とすれば、私達には「困って立ち止る」という贅沢ぜいたくは許されていないのであり、そのために逆説的な意味で、学生達は困らないための智恵ちえとしての擬似ぎじ実践じっせん力を身に付けてきたのではないだろうか。何故なら、男女として話すことも、個人的な重荷を語ることも聞くことも、それらいっさいの作業は、すべて状況じょうきょうをシリアスに捉えとら われかれとを抜き差しぬ さ ならない人間として認識することを前提として始まるからである。すなわち、そうした状況じょうきょう認識は畢竟ひっきょうわれかれも心身両面にわたって傷つくべき生身の生きものであるという認識の共有を求めているのである。

 (斉藤さいとう洋典『幸福の順延方程式』)
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