a 長文 1.1週 wape2
 陰謀いんぼう理論とは、社会的現象はそれをひきおこそうとたくらんだ個人もしくは集団の陰謀いんぼうから生じてくると主張する理論である。したがって、この理論にとっては陰謀いんぼう家を探し出すことが主たる課題となる。たとえば、戦争、不況ふきょう、失業といった社会的現象は大企業きぎょうとか帝国ていこく主義的戦争屋はたまたシオンの長老たちの陰謀いんぼうの結果であるという。悪の帝国ていこくによる世界制覇せいはの野望とそれに対して果敢かかん闘うたたか 主人公といった少年マンガのレベルにおいてのみならず、大の大人にとっても、CIAの謀略ぼうりゃくとかフリーメイスンの陰謀いんぼうといったことで複雑な出来事が簡単に絵解きされるのは、耳に心地よいらしい。
 陰謀いんぼう理論に対するポパーの批判はきわめて簡単である。つまり、われわれの社会において陰謀いんぼうがそのまま成功することはほとんどないという事実が陰謀いんぼう理論を反駁はんばくしているというのである。この点については少しばかり、説明が必要かもしれない。われわれの社会では、意図と結果が大きく相違そういするのはむしろ当然である。行為こういは意図されなかった帰結や反発を引き起こす。それらは、当初の意図に跳ね返りは かえ 、その修正を迫るせま ことになるだろう。とすれば、陰謀いんぼうがそのまま実現することはありそうにないことである。しかし、こうした理論的な説明をおこなうよりも、具体的な例を挙げた方がわかりやすいかもしれない。
 いま、ある人が家の購入こうにゅうを切望しているとしてみよう。かれはさまざまな住宅会社を訪ねたり、住宅フェアに顔をだしたりするであろう。加えて、かれはできるだけ安い価格で家を購入こうにゅうしたいと望んでいるにちがいない。しかしながら、かれ購入こうにゅう者として住宅市場に現れたという事実は、原理上、需要じゅようを高め、かれの意に反して価格を上昇じょうしょうさせる。ここにあるのは、まさに(資本主義)社会の特定のメカニズムである。他方で、需要じゅようの増大が価格の低落をもたらす場合があるとすれば、そこには大量生産といった別種の資本主義的メカニズムが働いている。
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 もうひとつ、例をあげてみよう。多くの人は競争を好まない――とくに友人同士の場合には――と仮定してもよいだろう。しかしながら、たとえばポストの数にはかぎりがあるといった状況じょうきょうが生じたならば、だれもが競争したくないと思っていても、競争が必然的に生じてこざるをえないだろう。この種の競争という状況じょうきょうを、各人の名誉めいよ心とか、闘争とうそう心といったものを原因として説明するのはまさに心理的主義であり、本末転倒ほんまつてんとうである。こうした場合、名誉めいよ心とか、闘争とうそう心といった心理はむしろ状況じょうきょうの産物である。われわれの社会は、意図であれ陰謀いんぼうであれ、それらを当初の企てくわだ どおりに実現させることはきわめてまれである。テロリストがテロ行為こういによって彼らかれ の(遠大な)目的を実現させることはまずできない。陰謀いんぼう理論は、たとえ常識の世界でどれほど受け入れられているにせよ、社会のメカニズムを考慮こうりょに入れていないという明白な欠陥けっかんをもっている。
 ポパーはこうした社会のメカニズムを制度という観点から分析ぶんせきすることを制度分析ぶんせきと呼んだ。社会の諸制度はそのなかで行為こういがおこなわれるもろもろの枠組みわくぐ である。それらは、大部分が意識的に設計されその通りに形成されたものではなく、意図されなかったものとして、あるいは意図に反して形成されたもの(副産物)である。ハイエクの言葉でいえば、社会の諸制度は自主的秩序ちつじょである。制度分析ぶんせきは、制度を支えているものとしての伝統や慣習――これらも広い意味での制度である――のみならず、制度がおのずからにしてもった目的や機能、また制度における人員配置の問題、さらには制度が引きおこす諸帰結などを分析ぶんせきする。
 制度分析ぶんせき概念がいねんにくらべると、状況じょうきょうの論理あるいは状況じょうきょう分析ぶんせき概念がいねんはより広い領域をカバーすることができるように思われる。それは、定義的にいえば、事態のもつ必然性の分析ぶんせきである。ポパーは、トルストイに言及げんきゅうしながら、ナポレオン戦争下ロシア軍が闘うたたか ことなくモスクワを明け渡しあ わた 糧食りょうしょくをみつけることのできる
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長文 1.1週 wape2のつづき
場所へ退却たいきゃくしていった事態を状況じょうきょうの論理(必然性)の一例としてあげ、トルストイの分析ぶんせきの基本的正しさを認めている。ポパーにとっては、状況じょうきょうの論理を再構成すること、あるいは状況じょうきょう徹底的てっていてき分析ぶんせきすることが、(記述的)社会科学や歴史学にとっての課題となる。ポパーのことばでいえば、それ(状況じょうきょう分析ぶんせき)は「行為こういが客観的に状況じょうきょうに適合したものであったことを認識することである。換言かんげんすれば、たとえば、欲求、動機、記憶きおく、連想などのはじめは心理的なものと思われた要素は、状況じょうきょうの要素に変わってしまうほどに状況じょうきょう徹底的てっていてき分析ぶんせきされる。……状況じょうきょう分析ぶんせきの方法は、たしかに個人主義的な方法ではあるが、心理学的なものではない。というのも、それは心理的な要素を原理的に排除はいじょし、客観的な状況じょうきょうの要素によって置き換えお か ているからである」。

(小河原誠『ポパー 批判的合理主義』による)
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a 長文 1.2週 wape2
 情報公開という言葉が近年しばしば言われるようになってきた。政府のもつ情報資料の公開、あるいは政府の審議しんぎ会や委員会の議事内容の公開が積極的にインターネット上におこなわれるようになって、多くの活動内容が一般いっぱん社会の人たちにも理解されるようになってきつつある。二〇〇一年四月には、情報公開法が施行しこうされることになり、個人のプライバシーにかかわらない、かなりの範囲はんいの国の情報が、請求せいきゅうによって開示されることになった。
 それでも、すべてのことが公開され、十分な監視かんしとチェックの下におかれることはできず、いろいろと思わぬ事故をおこしてきた。情報の公開とともに、どうすれば第三者的立場から十分なチェックをして、安全性を確保していけるかは、これからの大きな課題である。科学ジャーナリズムにおいても、よく検討すべき問題であろう。たとえば原子力のような複雑なものは、科学ジャーナリズムなどが適切に橋わたしをしなければ、一般いっぱんの人たちには、客観的な立場からのものの見方をすることは、たいへんむずかしいのである。
 あることがらに対する科学的説明は論理的で、その範囲はんい内においては反論の余地のないものであることがほとんどである。しかし、それでも社会の多くの人々を納得させることのできない場合があるのはなぜか、を考えることが必要だろう。
 それにはいろいろな理由があるだろう。一つは、その科学的説明の前提となっていることが、ほんとうに確信のもてることなのかどうかということである。もう一つは、論理的、科学的説明といっても、説明に用いられる推論規則は絶対確実なものではない。九九・九九九%まちがいないといわれても、〇・〇〇一%の確率でおこる可能性があるとすれば、それに対する心配がある。また理論がまったく予想しない条件が生じないともかぎらないという心配もある。原子力発電所の建設などに対する反対は、そういうところから生じていると考えられる。
 もう一つのタイプの心配は、体外受精の適用範囲はんいの拡大、脳死判定と臓器移植などにおける人間の倫理りんり観や文化に深く関係する問題である。この種の問題については、科学的内容の説明が、人間感情というまったく次元のちがう要素に対して効力を発揮することを期待することはできず、人々を納得させることはむずかしい。
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 もっと直接的に個人に関係するのは、インフォームド・コンセントであろう。自分の病気がどういうものであり、どういう手術をしたら、どのようになるか、手術の成功率・危険性はどのように判断したらよいか、といったことすべてについて、医者の説明を聞き、それを理解し、医者の助言によって自分が判断し、決定しなければならない。そのときに、完全に理解して明確に決定することができないという場合が多いだろう。しかし、自分の運命は自分が選択せんたくしなければならず、そのためには納得のいく説明を受け、十分な理解をする努力が必要になる。医者の側でも、患者かんじゃの病状だけでなく、その人の年齢ねんれい、家庭環境かんきょう、経済力、その人のもつ人生観・価値観についても考えに入れて、助言することが必要となるだろう。説明はあくまでも客観性を失ってはならないが、科学的側面だけでは決定できないのである。
 科学的な説明は論理的なものであり、そのようにして説明されたことはまちがいがないから、人はそれにしたがわねばならないと一般いっぱんに思われているかもしれない。しかし、論理的な理解のほかに身体的レベルにおける理解、心の底から納得できる状態というものがあって、これは必ずしも論理的なものかどうかはわからないが、個人にとってはむしろこの納得のほうがはるかに優位にある理解の状態といってよいだろう。客観的真理が絶対的なものでなく、それを超えこ た理解の状態の大切さということにもっと目を向けるべき時代にきているのではないだろうか。

長尾ながお真『「わかる」とは何か』に拠るよ 
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a 長文 1.3週 wape2
 寄物よせもの」という言葉を覚えたのは柳田やなぎだ国男の『海上の道』を読むことによってであった。はるかおきから吹きふ きたる風に名前を与えるあた  身振りみぶ から始まるあの美しい幻想げんそう小説。「アユは後世のアイノカゼも同様に、海岸に向かってまともに吹いふ てくる風、すなわち数々の渡海とかいの船を安らかに港入りさせ、または、くさぐさの(めずらかなる物を、なぎさに向かって吹きふ 寄せる風のことであった」。そうした風に乗ってわれわれの国に訪れる「くさぐさの(めずらかなる物」、それが「寄物」だ。そして、その代表として柳田やなぎだがまず第一に挙げたものは、周知の通り、三河の伊良湖いらこさきはまに打ち寄せられていたのをかれ目撃もくげきしたというあの神話的な椰子やしの実であった。
 島崎しまざき藤村とうそんはこの柳田やなぎだの見聞を材に採り、ただちに人口に膾炙かいしゃすることになったあの俗謡ぞくようの歌詞を作ったわけだが、『海上の道』の著者は島崎しまざき藤村とうそんの「椰子やしの実」に対してやや不満げな感想を洩らしも  ている。「そを取りて胸に当つれば/新たなり流離りゅうり愁いうれ /という章句などは、もとより私の挙動でも感嘆かんたんでもなかったうえに、海の日の沈むしず を見れば云々うんぬんの句をみても、或いはある  、詩人は今すこし西の方の、寂しいさび  いそばたに持って行きたいとおもわれたのかもしれないが……(後略)」。晴れやかな朝陽の中で珍しいめずら  「寄物」を発見するのは柳田やなぎだにとって喜ばしい出会い以外のものではなく、「流離りゅうり愁いうれ 」も寂しいさび  日没にちぼつも「詩人」の(けがれた筆が捏造ねつぞうした受け狙いねら の感傷にすぎない。「千曲川旅情の歌」にしてもそうだが、既成きせいの欲情に媚びるこ  ことをとして恥じは ない自称じしょう「詩人」のやからは今も昔も尽きるつ  ことがない。
 「海上の道」において、柳田やなぎだの想像力が透視とうししているのは、「日本人」もまたこうした幸運のアイノカゼに吹きふ 寄せられてきた「寄物」そのものだという独創的な命題である。「もしも漂着ひょうちゃくをもって最初の交通と見ることが許されるならば、日本人の故郷はそう
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遠方ではなかったことが先ずわかる。人は、際限もなく椰子やしの実のように、海上にただようては居られないのみならず、幸いに命活きて、この島住むに足るという印象を得たとすれば、一度は引き返して必要なる物種をととのえ、ことに妻むすめとものうて、永続の計を立てねばならぬ」。この「そう遠方でもない」場所とはいったいどこなのか、それを柳田やなぎだは、厳密な文化人類学の学術論文の装いからははるかに隔たっへだ  たこの文章の中で、具体的に明言しているわけではない(中略)。だが、そう遠方でもないというこの奇妙きみょうに生々しい限定が、柳田やなぎだの詩的な直観に異様な迫真はくしん性と説得力を賦与ふよしていることは否定できない。
 漂着ひょうちゃくをもって最初の交通と見る――しかしそれにしても、これは何と美しい言葉ではないか。この端的たんてきな断言を受けて、わたしはもう一歩進んでこう言ってみたい、漂着ひょうちゃくこそ唯一ゆいいつの交通ではないのかと。実際、漂着ひょうちゃくする以外のどんなやりかたでわたしたちは世界と結びつくことができるだろう。なるほど、あてどない「漂流ひょうりゅう」の時間の快楽というものはある。だが、単にそこにとどまるかぎり、たとえいかほどロマンティックな孤独こどく抒情じょじょうがそそられはしても、そこで人はあの「流離りゅうり愁いうれ 」の場合と同じく結局は単にひとりよがりの詩情の内部に閉ざされてあるほかない。「漂流ひょうりゅう」が意味を持つのは、それがどこかに、逢着ほうちゃくするかぎりにおいてのことだろう。
 詩は「投びん通信」でしかない、あるいはそうあるべきだといった言いかたがされることがときたまあるが、そうした命題がもし何らかの意味を持つとしたら、海上に放たれたびんがどこかの浜辺はまべ漂着ひょうちゃくし、それが拾い上げられる現場に想像力を働かせたうえのことではないか。良き風に吹きふ 寄せられ、未知のはまに打ち上げられた言葉を、拾い上げてくれる手があるということ。それこそ、ありうべき真のコミュニケーションの唯一ゆいいつの形態であるはずだ。
松浦まつうら寿ひさしてる漂着ひょうちゃくについて」)
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a 長文 1.4週 wape2
 物語とはなにか。
 物語を理性の言葉としての哲学てつがくや科学に対立させて、空想の語り、非合理的な語りとする見方があるが、それは正しい見方とはいえない。宗教学者の島田裕巳ひろみは物語を積極的に評価して、「世界の中に生起する現象の説明原理であり、筋立てを持つ説明の体系のこと」と定義する。それは独自の「体系化や分類の働きを」もち、「儀礼ぎれい象徴しょうちょうの背後に存在し」て、「人生に一定の方向性を与えるあた  」ものだという。
 どういうことか。
 たとえば有名なオイディプス伝説を考えてみよう。ソフォクレスの悲劇でよく知られるこの物語は、もともとテーバイ地方に伝わる神話・伝説であった。主人公オイディプスは、テーバイの王ライオスの長子として生まれるが、その生誕の直前に「成長すると、父を殺し、母と交わる」との神託しんたくが出たことによって、荒れ野あ のに捨てられる。そのかれをコリントスの王ポリュボスが見つけ、わが子として育てる。やがて成長したオイディプスは、自分の出生に疑いをいだくようになり、神託しんたくを求めたところ右の答えが得られたため、実父と信じるポリュボスを殺すことを恐れおそ て町を離れるはな  道を歩むかれは、偶然ぐうぜん、実父ライオスと出会い、争ってこれを殺す。ついでかれはテーバイを訪れ、災いをもたらしていた怪物かいぶつスフィンクスのなぞを解いてこれを退治し、その報奨ほうしょうとして女王イオカステと結婚けっこんし、子どもをもうける。しかしその後も町に災いは続いたため、知者を呼んだところ、神託しんたくに告げられていた真実を知らされる。自分の運命を知ったかれは、われとわが目をけん突いつ て、放浪ほうろうの旅に出るところで悲劇は終わる。
 この物語は、あらゆる物語がそうであるように、一つづきの行為こうい=出来事を時間の経過のなかで展開させたものである。それはオイディプスをはじめとする登場人物が、なにをし、なにを喋っしゃべ たかを述べるものであって、それ以上のものではない。殺されるはずであったオイディプスが、従者の情けによって荒れ野あ のに捨てられたこと。コリントスの王に拾われたかれが、その実子として大切に育
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てられたこと。成人したオイディプスが、「父を殺し、母と交わる」との神託しんたくの実現を恐れおそ て、町を離れはな たこと。やがてかれ偶然ぐうぜん、実の父であるライオスと出会い、争ってこれを殺したこと。テーバイの町を訪れたかれが、町に災いを与えあた ていたスフィンクスを退治して、その報奨ほうしょうとして実の母であるイオカステと結婚けっこんしたこと。
 これらの行為こういは、ひとつひとつが善意からなされたという以外にはいかなる共通性ももってはおらず、たがいに結びつけられるべき必然性はどこにもない。にもかかわらず、それが物語という一つの時間の流れのなかに置かれると、それらの行為こうい=出来事はたがいに結びつけられて、明確なメッセージを生むことになる。「人間はその運命を逃れるのが  ことはできない」というメッセージを、それは言外に表明しているのである。
 物語的認識の特徴とくちょうはまさにこうした点にある。それは現実の世界でも生じるような出来事の一続きを、時間的な流れのなかで語ったものにすぎない。しかしながら、現実の世界では偶然ぐうぜん事があいつぎ、出来事相互そうごの関係がかならずしも明晰めいせきではないのにたいし、物語のなかの出来事は緊密きんみつな必然性の糸によって結ばれている。そしてその結びつきがメッセージを、物語の意味を生みだしているのである。
 しかも物語は、そのように偶然ぐうぜん性を必然性に結びつけるだけでなく、個別性を普遍ふへん性に超克ちょうこくさせるものでもある。たとえば先のオイディプス伝説についていえば、テーバイやコリントスなど、特定の土地で生じた出来事を、特定の時間のなかで語ったものにすぎない。しかもその登場人物にしても、私たちとはまったく無縁むえんな、特定の名前と個性をもった存在でしかない。ところが物語は、そうした徹底てっていした個別性と具体性を連ねていくことによって、人間が人間であるかぎり逃れるのが  ことのできない、運命にたいするある種の見方を示している。その意味でそれは、具体的、個別的な行為こういと出来事の契機けいきを語りながら、人間存在の必然的、普遍ふへん的な認識を与えるあた  ものなのである。
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長文 1.4週 wape2のつづき
 物語の理論家であるミンクらが明らかにしているように、物語とは経験の流れを理解可能にするための認識の仕方であって、たんなるおとぎ話ではない。そしてそのとき、物語的認識の特徴とくちょうは、理論的・科学的な認識が一般いっぱん理論のなかに出来事を吸収するのにたいし、個別的な事実性、出来事性を残している点にある。

竹沢尚一郎『宗教という技法』による)
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a 長文 2.1週 wape2
 私はある時から、英文で論文を書くことをやめた。日本語で考え、日本語で暮らしている。そういう人間が英語で論文を書くとは、いったいそれはどういう作業か。それが論理的に理解できなかったからである。そのために、理科系の人間としては、業界から「干された」というしかない。
 『最後の授業』という物語を引くまでもない。日本の知的な世界は、日本社会の他のシステムと同様に、あらゆる根拠こんきょを失ったままに、さまざまなやり方を便宜べんぎ的に採用してきた。そうだからといって、闇雲やみくもに古い習慣に固執こしつすればいいというものでもない。われわれは、われわれに発する普遍ふへん性を説かなくてはならないのである。その基盤きばん明瞭めいりょうであろう。「人間」である。たとえば、言語を一般いっぱん的にヒトが持つ特質と見なせば、そこには明白な普遍ふへん性が認められる。国語・国文学を、そこに基礎きそづける。その作業は、脳生理学者に任せておけばいいというものではあるまい。小説家であろうと、車には乗るはずである。テレビも見れば、映画も鑑賞かんしょうするであろう。それなら国語の脳機能としての特質を考えて、なんの不思議もあるまい。
 日本語の脳の関係については、やはりすでに『考えるヒト』で述べたことがある。たとえば日本における漫画まんがの流行は、音訓読みという日本語の特性と切り離すき はな ことはできない。この場合、漫画まんがはアイコンであり、アイコンは古い形式の漢字と同じものである。アイコンとは、「もとのものの性質を一つでも残した」記号だからである。このアイコンにルビを振るふ 。そのルビが漫画まんがでは吹き出しふ だ に相当する。こうしたことを外国人に説明するのは至難である。かれらはそもそも音訓読みが理解できないからである。
 中国語が孤立こりつ語であったため、日本語はその文字を取り入れ、しかも音訓の両読みを開発することができた。それなら朝鮮ちょうせん語はなぜそれをしなかったか。そこに言語の歴史性がある。ヴェトナム語は訓読みを発明したかもしれないが、アルファベット表記に変わってすでに半世紀以上が過ぎてしまった。その意味でいうなら、日本語は世界でもきわめて特異なことばなのである。国語の先生は、そのことを理解し、生徒にそれを教えているだろうか。
 あるいは日本語は「読み」のために脳の二ヵ所かしょを利用する。
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ういうことばは、おそらくほかにない。だからこそ寺子屋では「読み書きソロバン」だったのである。プラトンを読めば、古代ギリシャでソフィストたちが教えたのは「弁論術」だとわかる。日本語はおしゃべりを教えてお金を取ることはしない。「読み書き」を教えるのである。だからこそまた、日本では文盲もんもう率がきわめて低い。日本語は視覚言語性が高いのである。
 日本語文法の形式もまた、十分には理解されていないらしい。日本語に定冠詞ていかんしはないというのは、英文法の授業でさんざん教わることである。それなら、「昔々おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山にしば刈りが に」という文章における、助詞「が」と「は」の使い分けはなんなのか。定冠詞ていかんしは語の前に来る。そういう形式的反論があるなら、ギリシャ語では定冠詞ていかんしの位置は語の前でも後でもいいといおう。文法は形式でもあり、機能でもある。助詞には冠詞かんし機能が認められるといってもよいであろう。
 脳から見た国語には、さまざまな主題が見つかりそうである。それを探求するのは、国語の専門家であって、いっこうにおかしくない。対象を限定することで「専門家」を育て、対象の分類によって学問を分類する時代は終わったと私は思う。学問とは方法である。国語を知るためには、いかなる方法を利用してもいいのである。情報化時代とは、じつはそれを意味している。

(養老孟司たけし「国語と脳」より)
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a 長文 2.2週 wape2
 大きな災害の直後の映像を思い返してみると、被災ひさい地にいた人たちの表情は(一部、茫然ぼうぜん自失状態の人を除いて)、いきいきとしていた。彼らかれ の表情は数日のうちに疲弊ひへいして生気のないものに変わっていったけれど、直後はいきいきとしていた。あのときのいきいきとした状態を、私は「生きがい」や「充実じゅうじつ感」と同じものだと考える。というよりもむしろ、「生きがい」や「充実じゅうじつ感」の典型的な状態だと考える。「充実じゅうじつ」という心の状態は、危機に直面したときに最も強く起こるものなのだ。
 スポーツやゲームで味わう「充実じゅうじつ感」は、危機に直面したときに起こる心の状態を、不快と感じる手前のところに調整した(つまり「緩和かんわした」)ものだと私は思う。この、危機に直面したときの心の状態は夢の中で感じる心の状態と同じものだ。比喩ひゆ的な意味で同じだというのではなくて、事実として同じということだ。私たちは危機に直面したときも夢の中でも、「結果」なんか考える余裕よゆうもないまま、ひたすら「プロセス」に没頭ぼっとうする。――リアリティということで言うなら、二つの場面で同じリアリティを感じている。
 神話が夢と同じように表面的には荒唐無稽こうとうむけいで、しかしその意味する内実を夢と同じように分析ぶんせきすることが可能である理由は、神話が夢に起源を持つからなのだが、スポーツやゲームの起源もまた夢なのだと私は思う。夢には必ず強い拘束こうそく感がある。その拘束こうそく感がスポーツやゲームで「ルール」に変形した。人間は自由であることばかりが楽しいわけではなくて、ルールという拘束こうそくの中で何かを達成することの方がずっと「充実じゅうじつ」することができる。神話は夢の解消や昇華しょうかではなくて、もっとずっと生な、夢の反復だ。スポーツやゲームもまた、覚醒かくせい時になされる夢の反復なのだ。
 フロイトは夢(夢で反復される無意識)を、現実の中で把握はあくしそびれた体験という観点から、体験を正しく定着させることで、現実の中に解消しようとしたけれど、人が夢を見るかぎり、夢は現実の中で起こる気持ちの原型として機能しつづける。
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 また、分析ぶんせきによって、過去の体験を把握はあくし直して過去に拘束こうそくされた夢を見なくなったとしても、人は生きているかぎり新しい体験を重ね、それが夢として反復される、という構造の外に出ることはできない。
 それにしても夢というのは、考えなければどうと言うことのないものだけれど、考えはじめるとキリがなく面白く感じられるという独特の性質を持っている。「外がない」と言えばいいのか、現実と夢との「入れ子構造になっている」と言えばいいのか、「ぬまのようだ」と言えばいいのか……。私はさっき、「スポーツやゲームで味わう『充実じゅうじつ感』は、危機に直面したときに起こる心の状態を、不快と感じる手前のところに調整したものだ。この、危機に直面したときの心の状態は、夢の中で感じる心の状態と同じものだ」と書いたけれど、ここまできて私は、「危機に直面したときの心の状態」さえも、「夢の中で感じる心の状態」に起源を持つものなのではないか、と感じはじめている。
 つまり、大人になってもなお真剣しんけんになることができるようなこととは、すべて夢の中で感じる心の状態が源泉として働いているのではないか、ということであり、人間にとってのリアリティの源泉とはすべて夢にあるのではないか、ということだ。リアリティという点から考えると、夢こそが「主」であって、現実はすべてが夢に従属している、ということになるのではないだろうか。

(保坂和志『世界を肯定こうていする哲学てつがく』による)
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a 長文 2.3週 wape2
 人間は、合理的にものを考える動物であると同時に、非合理な感情をそなえた動物でもある。言葉の意味にも、明示的な意味(デノテーション)と、含意がんい的な意味(コノテーション)がある。「感ずる」と「感じる」とでは、デノテーションはおなじだが、前者にはカミシモを着たような雰囲気ふんいきがあり、後者にはふだん着の雰囲気ふんいきがあって、コノテーションはずいぶんちがう。乱暴にいえばレトリックとはデノテーションではなくコノテーションに注目する姿勢のことである。
 シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)は一枚のコインの裏と表のようなもので、切りはなすことはできない。だから言葉では、贈りおく ものの中身と包装のようには、内容と表現を切りはなすことができない。言葉は(いん(ようにいつもレトリックをひきずっているわけで、レトリックが市民権をえた今日、――とくに、言葉をなりわいにする人たちのあいだでは――内容と表現を区別することは、時代遅れじだいおく もはなはだしい態度であり、「……はたんなるレトリックにすぎない」という発言などは、シーラカンスの合言葉とみなされる。
 「豊か」な消費社会では、サービスや気持ちが重視され、おしゃれであることが重要なポイントになる。おしゃれでないことは、「貧しさ」を連想させるからだ。コノテーションがデノテーションを圧倒あっとうする現象がふえてきた。ペン習字のお手本のような字より、変体少女文字のほうが、おしゃれでかわいい。
 中身と包装、内容と形式の二分はむなしいというのが、レトリック派の言い分である。けれども世の中は、言葉やイメージや気持ちだけで動いているわけではない。農業や製造業の就業者数がへったからといって、非製造業だけで暮らしがなりたつわけではない。かりに日本が完全な非製造業国になったとしても、世界のどこかには農業や製造業がなくてはならない。
 変体少女文字で書かれた文章も、ペン習字のお手本のような字で書かれた文章も、ワープロでおなじ活字に変換へんかんすれば、字体の雰囲気ふんいきなど問題にならなくなる。「感ずる」と「感じる」とでは、コノテーションはちがうかもしれないけれども、デノテーションはおなじだ。「感ずる」と書くか、「感じる」と書くかは、たんにレトリックの差にすぎない場合がある。しかも、言葉がもちいられるのは、やはりそのような場合が多いのではないだろうか。
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 残念ながら文学でも、内容と形式に二分できるような作品がゴロゴロしている。逆にいえば、内容と形式に二分できないような作品だけが、一流と呼ばれるのだ。きわめて抽象ちゅうしょう的なメディアである言葉は、もっともタチのわるい包装となることがある。
 マス・イメージで連呼される「おいしさ」や「おもしろさ」の中身は、どうなのだろう。クルマのコマーシャルの舞台ぶたいとなっている外国のように、交通事情はいいのだろうか。空気はきれいなのか。普通ふつうにはたらけば、ゆったりした家が買えるほど、土地は安いのだろうか。日本はほんとうに「豊か」なのだろうか。派手で豪華ごうか結婚式けっこんしきは、暮らしの貧しさやつまらなさを証明しているのではないだろうか。「豊か」な包装をちょっと破っただけで、中身の貧しさがすぐに見える。貧しいからこそ、必死になって豊かなイメージを追いかけているのかもしれない。
 そのむかし、三木清は「もう分析ぶんせきにはあきあきした。それよりいまはレトリックを必要とする時代だ」と言った。だが、現代のシーラカンスは、「……はレトリックにすぎない」という合言葉をつぶやきながら、三木清の言葉をひっくりかえす。もうレトリックにはあきあきした。それよりいまは分析ぶんせきを必要とする時代だ。

丘沢静也『からだの教養』による)
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a 長文 2.4週 wape2
 考えてみれば、発達成長の段階にある子供が大人よりかに活動的であることは当然である。子供が遊ぶ時には体や衣服が汚れるよご  のは自然なのだから、汚さよご れても困らない服を着せ、遊びにはつきものの多少の品物の損害やカスリ傷などは、子供の生育に必然的に伴うともな 当然の代償だいしょうとして一々小言を言わず、社会的な場面や本質的に矯正きょうせいを必要とする事柄ことがらに限って断乎だんこ叱るしか ようにすれば、家の子は言うことをきかなくて困りますというような結果には、まずならないものである。それをビラビラした飾りかざ のついた活動に不便な高価な服を着せ、ちょっと汚しよご たと言っては叱りしか 跳ねは 回ると危ないからよせと言い、物を毀せこわ ば、もう買ってあげませんよと威すおど といた具合に、禁止と規制の範囲はんいをやたらと拡げてしまう結果、子供としては叱らしか れることなど気にしていたら生きて行かれなくなる状態に置かれるから、親の小言はひとまず無視するくせがつくことになる。つまり、禁止の範囲はんいが不条理を含みふく 、本質的に山かけ的であるため、制止された場合はひとまずそれを無視して行動を続けるのが得策というパターンが身につくのである。
 このようにことばを使う方が、言ったことを本当に守らせるだけの見通しも裏付けもなく使うことの結果として、言語とその背後にある意志の間に大きなズレが生じ、ことばに対する信頼しんらいが失われ、ことばが無力化するのである。
 私の見るところでは日本人の日常のことばに対するこのような態度が法律や規制の面で一番よく表れているのが、道路交通法に基づく禁止条項じょうこうに対する一般人いっぱんじんの反応である。数限りなくある禁止の形骸けいがい化の実例からただ一つだけ駐車ちゅうしゃ禁止の問題を取り上げて見よう。
 例えば現在の東京では、環状かんじょう七号線の内側は特定する場所を除いて、一般いっぱん道路は全面駐車ちゅうしゃ禁止の対策がとられている。ところがだれもが知っているように、交番や警察署の目の前ですら、見渡すみわた 限り違反いはん駐車ちゅうしゃの列である。文字通り法律の規定通りに違反いはん駐車ちゅうしゃをしている車を、本当に違反いはん駐車ちゅうしゃとして判断し、処置するまでに
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は、いわく言い難きいく段階かのプロセスがあるのはだれでも知っている事実である。つまり駐車ちゅうしゃ禁止の標識とは母親が単に「いけませんよ」と言っている段階に相当するのであって、それは直ちに実力の裏付けと組み合わされているものではないのである。しかしだからと言っていつでも無視してよいものではないこともだれでも知っている。本当に叱らしか れた子供と同じく、罰金ばっきんをとられる運転者も、不条理性とか運が悪いといった気持で自己の違反いはんを受けとめるのであって、悪いことをしたのだから止むを得ないという割り切った気持にはなれないしくみになっているのだ。
 法のカバーする範囲はんい極端きょくたんに広くしておいて、懲罰ちょうばつと反則行為こういとの直接的対応を弱めてしまうことは、法の威信いしんの低下、禁止など無数の標識に対する無感覚の助長など無数のマイナスが指摘してき出来よう。標識関係の経費が全国では莫大ばくだいな金額にのぼっていることも忘れてはなるまい。むしろ絶対にゆずれない局限された場所と時間に禁止を限り、取締りとりしま の能力と連動した規制を行うという発想の転換てんかんが必要ではないだろうか。そのためには、私たち日本人がもっと、投入するコストと実効との関係、山かけ発想の危険性に今より敏感びんかんになり、明示的一義的に解釈かいしゃく可能な領域にては行為こういの意図よりも結果で物ごとを決定するような態度を育成する必要があるように思う。ニューヨーク州でマリファナ使用を合法と認めるかの議論があった時、強力な賛成意見の一つに現在の警察力では取締りとりしま 切れないからというのがあったが、これなど違反いはん行為こうい懲罰ちょうばつの直結性を重く見る考え方の一例として参考になるのではないだろうか。

鈴木すずき孝夫『ひとにはどれだけの物が必要か』による)
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a 長文 3.1週 wape2
 写真が物語化する装置だということは、肖像しょうぞう写真やスナップ写真のばあいでもいえる。かつてひとは自分というもののイメージを、内面の記憶きおくと鏡に映ったイメージとから得ていた。ところで、そもそも自分とはなにものかというアイデンティティーにかかわる自己像もまた、それ自体始まりも終わりももたない意識の持続のなかに把持はじされたそのつどバラバラの記憶きおくを、ひとつの全体性へと統合することで得られたイメージであり、つまりは記憶きおくの物語である。記憶きおくの物語においてはじめて「わたし」は、他の登場人物から区別された主人公として、そのくっきりとした輪郭りんかくをあらわす。
 写真発明以前に、ひとが記憶きおくにない幼年時代の自分のイメージをもつことはなかった。こんにちひとは自分というものを、記憶きおくにはない幼年期の自分をもふくめて、アルバムに残された多様なイメージの総体として理解している。とすれば、肖像しょうぞう写真やスナップ写真を介しかい てひとは、あたらしい自己了解りょうかいの様式、あたらしい自己像の物語をもつことになったのである。
 写真が可能にする「わたし」の記憶きおくによらない自己像は、いわば外から、他人の目から見た「わたし」の物語である。自分の写真が匿名とくめいの視線にさらされるとき、それは知らぬところで知らぬひとによって、「わたし」のもうひとつの物語が語られるという危険を、それゆえアイデンティティーの危機をもたらすだろう。
 写真を介しかい て、他者による物語が押しつけお   られるという状況じょうきょうは、まずは肖像しょうぞう写真とは似て非なるもの、つまり顔写真という、写真がつくりだしたあたらしいジャンルにおいてあらわになる。そこに刻印された囚人しゅうじんや病人や貧民たちは、もっぱら告発され、追跡ついせきされ、監視かんしされるものとしてのイメージをみずからに引き受けて生きるほかはない。ポルノ写真のモデルたちも、これを見る匿名とくめいの「男」がそこに投影とうえいする欲望のファンタジーを、みずからのジェンダーの物語として受けいれる。報道写真においても、飢饉ききんや戦争にあえぐひとびとは、これらの写真をお茶の間で見るものに
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は、ジャーナリズムの標榜ひょうぼうするヒューマニズムの物語の登場人物として受けとられるだろう。
 現代では、肖像しょうぞう写真と顔写真との境界はきわめてあいまいなものとなっている。学生証、パスポート、運転免許めんきょ証、身分証明書はもとより、卒業写真アルバムにならべられたクラスメートの写真や新聞でいつも目にする政治家たちの写真にしても、完全に顔写真のフォーマットにおさまっている。思い出のスナップ写真も、トリミングによって容易に手配写真に転じる。
 最近では、女子高生たちが友達どうし、インスタント・カメラでわけもなく写真を撮りと あうことがはやり、また「プリクラ」で撮っと た写真を街中にはったり、見知らぬひとと交換こうかんすることが流行している。いずれも、おたがいに直接にむきあうことのない希薄きはくな人間関係と、おおむね満たされてとりたてていうことのない日常のなかで、写真を撮ると ことによってこれをなんとかくっきりとしたひとつのできごととしてとらえようとし、あるいはイメージの交換こうかん・流通によって、ようやく他人とのコミュニケーションを確保しようとしているというべきだろう。そしてこれらの「物語ゲーム」もまた、現代における肖像しょうぞう写真と顔写真のあいだの視線の揺れゆ を反映しているだろう。

(西村清和の文章による)
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a 長文 3.2週 wape2
 おか潔先生のお考えはこうである――私たち日本民族には、人の喜びを自分の喜びとして、人の悲しみを自分の悲しみとして体得することができる心情があるという。門の物のあわれを感ずる心、思いやりの心、情(情緒じょうちょ)であって、仏教でいう、自他の対立のない非自非他の心境(真我、大我)にてっしさせる無差別(である。この知恵ちえが、私たち日本民族をかくも栄えさせているのだといわれる。
 トインビー博士のご意見はこうである――人間にとって、物質的な面よりも重要なのは、自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ることである。もともと、これは人間の天性にとって非常にむつかしいことである。個人の生涯しょうがいであれ、社会の歴史であれ、人間の悲劇はすべて、この面の倫理りんり的努力を人間がおこたったことから出発している。そして、この協力の心を教え、指導するのは宗教であるといわれる。ちなみに、英語の宗教religionということばの語源は、結びつけるという意味である。
 おか潔先生とトインビー博士の表現の違いちが は、培わつちか れた精神的風土の違いちが によるのであって、願う心は同じである。私は、おか潔先生やトインビー博士の願う心を受けいれるのに決してやぶさかではないどころか、私の心はそれにいたく共鳴している。
 しかし、そうはいっても、あの顔つきはいやだ、あの皮膚ひふの色は好かない、あの主義主張は気にくわないといわれてしまえばそれまでである。そうなると、私たちは、もっと掘りさげほ   て、文句なく理屈りくつぬきで、相手を認めることができる足場を探さねばならない。幸いにも、その足場を、私は、脳の仕組みのなかに求めることができたと信じている。
 それはいのちの座である脳幹・脊髄せきずい系である。脳幹・脊髄せきずい系は、人種の違いちが 、民族の違いちが 、ことばの違いちが 、イデオロギーの違いちが 、風習の違いちが 皮膚ひふの色の違いちが など、精神的、肉体的のすべての違いちが 超越ちょうえつして、ただ黙々ともくもく 私たちの身体の健康を保障してくれているいのちの座である。脳幹・脊髄せきずい系には、全く色がついていない。
 私たちは、前頭連合野の働きによって、自分のいのちに限りない執着しゅうちゃくをもっている。そんなに執着しゅうちゃくの心があるのなら、全く個
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性のない、共通の構造と働きをもっている他人の脳幹・脊髄せきずい系なら、無条件に認めることができ、そこに営まれるいのちだけは、理屈りくつぬきで愛惜あいせきすることができるのではなかろうか。
 私たち人間の死とは、個性をもった人格者の消滅しょうめつであることには異論はなかろう。そうであるなら、前頭連合野のすばらしく発達している新皮質系の機能の喪失そうしつしたときが、人間の死といえよう。しかし、私たち日本人は、西洋諸国の人々と違っちが て、脳幹・脊髄せきずい系だけで生きている「植物人間」に対しても、あらゆる努力を払っはら て生きながらえさせようとしている。「植物人間」から、移植用の心臓を切りだすことを許さない私たち日本人の心情、すなわち、生に対して限りなく「思いをかけ」、「思いをのこす」心根は、脳幹・脊髄せきずい系のいのちをお互い たが に認めあうという発想にたって、はじめて納得できるのではなかろうか。
 とかく空虚くうきょ響きひび として耳をかすめがちな「生命の尊重」ということば――その意味をここまで掘りさげほ   、心の奥深くおくふか 定着させ、それによって、日々の行動を規制してゆきたいものである。複雑に絡みから あう集団と個の対立、個と個の対決によって、ますます非合理的存在者として生きてゆかねばならないよう運命づけられている私たち人間は、「生命の尊重」の決意によってのみ、将来の人類の繁栄はんえいが期待できるのではないかと、私には思えてならない。
 これについて思いだされることは、先年亡くなったアフリカの聖者アルベルト・シュバイツァー博士の説く、「生への畏敬いけい」の精神であって、私の願いは、「われわれは、生きんとする生命にとりまかれた、生きんとする生命である。」という博士のきびしいことばに凝集ぎょうしゅうしている。
 そして、シュバイツァー博士のこの精神は、ダグ・ハマショールドの日記につづられた次のことばによって、よりいっそう高揚こうようされている。
 「われわれの生きようとする意思は、生が自分のものかひとのものかを意にかいせずに生きてゆこうと思うようになって、はじめて確固たるものになる。」 (時実利彦としひこ「人間であること」岩波新書)
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 多くの場合、病人を病院に送りこめば、とりあえず家族は一安心出来る。少なくともそこは、自宅とは比べようもないほど人的、物的な条件が整い、病人に必要な手当ての態勢が整えられているはずなのだから。
 したがって、重い病人を入院させるのは当然の行為こういであり、これを非難する謂れいわ は全くない。しかし一方、本人を病院の手に委ねた時、周囲の者がほっと一息つける心の底のどこかには、自分が苦しみを見詰めるみつ  直接の責任者の立場から半歩退くことが出来た、という哀しいかな  安心感が蠢いうごめ てはいないだろうか。眼を逸らせそ  た、というつもりはない。しかし、薄くうす 眼を閉じて視野を狭めるせば  ほどのことはしたのではないか。そしてこの止むを得ざる心の動きが、たたみの上で人の死ねなくなったという事態に、どこかで繋っかか ているような重い気分が振り払えふ はら ない。
 もちろん、たたみの上で死ねさえすればいいのではない。たたみの上での死の実現には、病院で迎えるむか  死の場合とは比較ひかくにならぬほどの苦しみが、病人とその家族に襲いかかるおそ    可能性が強い。だからこそ、老いた病者を病院に送り入れた時、家族は僅かわず に救われ、なにがしかの苦しみの軽減を手に入れる。その経緯けいいだれも責められはしない。
 考えてみれば世の中は、苦しみを少しでも軽いものとし、手を尽くしつ  てそれを弱める方向へと動いているようである。最期の近い病人に対しては、苦痛を取り除くことまでは無理としても、それを最小限に抑えるおさ  配慮はいりょ医療いりょう面でも払わはら れているのだろう。そしてその種の手当てが自宅では充分じゅうぶんに行えぬとしたら、病者は病院に入れられねばならない。この直接的な苦しみの排除はいじょと、苦しむ者を見詰めみつ 続けねばならぬ、いわば間接的な苦しみの回避かいひとが結びつき、人はたたみの上で死ぬ力を失ってしまったのではないだろうか。
 別の見方をすれば、たたみの上で死ぬことには自他ともに(すさまじいエネルギーが必要だったのだ。そして苦しみを遠ざけ、それを
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避けよさ  うとする正当な努力が、しかし苦しみを直視し、苦しみに向き合う力を、いつか人間から奪いうば 去る傾向けいこうを助長しつつある。
 その問題は、他の場所にも様々な形で顔をのぞかせているのではあるまいか。たとえば、子供の読む童話や民話の本から、残酷ざんこくな光景や死に関る部分が取り除かれたり、隠さかく れたりするのだとしたら、これは幼い心から予め苦しみを遠ざけることによって、苦しみとつき合う機会を奪ううば 結果となるだろう。小・中学校しょうちゅうがっこうの国語の教科書編纂へんさんに際し、動物の死を含むふく ような暗い内容の文章を採用しにくいため、教材の選択せんたくに苦労する、との話も聞く。これなども、苦しみや痛みに対する予防処置の一つといえるかもしれぬ。少しずつでも苦痛に触れふ させて慣らすことを考えるのではなく、その種の課題を最初から排除はいじょしてしまう。子供や生徒が嫌っきら たり拒んこば だりするからというより、教える側の大人が怯むひる のではないか。苦しみを教える苦しみからの逃避とうひの姿勢がそこに見られる、と考えるのは見当違いちが であろうか。
 世の中全体が、苦しみから身を(かわ)す術に長けて来た。見なければそこには存在しない、という信仰しんこうが広まりつつある。そして事実を置き去りにしたかかる信仰しんこうを支える装置とでもいったものが、大きな規模で生み出されて来た。その装置や仕組みのいずれもが、幸福とか、安心とか、平和とか、休らぎとかを目指している。つまり、信仰しんこうにはそれなりの正当性と物的保証がある。
 そして、人は苦しみの消滅しょうめつに出会う。たたみの上で死ぬことを望むのは、最早どこから見ても時代遅れじだいおく なのである。今やわれわれは、ろくにたたみの上で生きてもいないのだから――。

黒井くろい千次『老いの時間の密度』)
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 地のままの金から鋳造ちゅうぞうされた金貨へ、軽くなった金貨から兌換だかんを保証されている紙幣しへいへ、兌換だかん保証を失った紙幣しへいからエレクトロニック・マネーへと変遷へんせんしていく貨幣かへい系譜けいふ――それは、まさに、「本物」の貨幣かへいのたんなる「代わり」がその「本物」の貨幣かへいになり代わってそれ自体で「本物」の貨幣かへいとなってしまうという「奇跡きせき」のくりかえしにほかならない。もちろん、現実の歴史はこのような系譜けいふをそのまま順を追ってなぞってはくれない。飛び越しと こ もあるだろうし、後戻りあともど もある。だが、ここで重要なのは、どの時代においても、「本物」の貨幣かへいとはそのときどきの「代わり」にたいするそのときどきの「本物」にすぎず、「本物」の貨幣かへいの「代わり」とはそのときどきの「本物」にたいするそのときどきの「代わり」にすぎないということである。そして、このような「奇跡きせき」のくりかえしをとおして、貨幣かへい貨幣かへいとしての価値とモノとしての価値のあいだの乖離かいりが拡大していく傾向けいこうをもつ。
 今度は、逆に、貨幣かへい系譜けいふを現在から過去へとさかのぼってみよう。エレクトロニック・マネーから紙幣しへい紙幣しへいから金貨、金貨から……と順繰りじゅんぐ にたどっていくと、地のままの金へとたどりつく。しかし、金塊きんかいや砂金がこの世の最初の貨幣かへいであったわけではないだろう。燦然さんぜんとかがやく金といえども、それ以前に流通していた「本物」の貨幣かへいの「代わり」として流通のなかに登場してきたのにちがいない。たとえば、ポール・アインツィヒが著した原始貨幣かへいにかんする書物をひもといてみれば、そこには、金のほかに、銀、銅、青銅、鉄、なまり黒曜石、石の円版、ガラス玉、陶片とうへん、指輪、塩、矢、刀、おの鉄砲てっぽう、木材、樹皮、小麦、大麦、トウモロコシ、米、ココナッツ、ココア、アーモンド、ヤムいも、砂糖、茶、ラム酒、ジン、タバコ、笛、太鼓たいこ、毛布、麻布あさぬの、綿布、絹布、羽毛、毛皮、皮革、牛、羊、水牛、ぶた、トナカイ、干し魚、バター、子
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安貝、法螺貝ほらがい、カタツムリ貝、くじらの歯、犬の歯、ぶたの歯、蜜蝋みつろう、そして人間のドレイといったありとあらゆるものが、古今東西にわたって貨幣かへいとして流通していたことが書かれている。そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、貨幣かへい貨幣かへいであることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。なんらかの意味での耐久たいきゅう性さえもっていれば、どのようなモノでも貨幣かへいとして使われてきたのである。だが、ここで強調すべきことは、たとえそれが鉱物であったとしても、植物であったとしても、動物であったとしても、人間であったとしても、さらにまたそのいずれにも分類できない得体の知れないモノであったとしても、貨幣かへいがこの世にはじめて貨幣かへいとして登場したその瞬間しゅんかんに、それはモノとしての価値を上回る貨幣かへいとしての価値をもつことになったということである。そもそもその始原から、貨幣かへいとしての貨幣かへいとはモノとしての存在以上の存在であり、モノとしての貨幣かへいとは貨幣かへいとしての存在以下の存在である。カッコがつかない本物の貨幣かへい、いや本モノの貨幣かへいという言葉は、自家撞着じかどうちゃく以外のなにものでもない。
 貨幣かへい系譜けいふをさかのぼっていくと、それは「本物」の貨幣かへいの「代わり」がそれ自体で「本物」の貨幣かへいになってしまうという「奇跡きせき」によってくりかえしくりかえし寸断されているのがわかる。そして、その端緒たんしょにようやくたどりついてみても、そこで見いだすことができるのは、たんなるモノでしかないモノが「本物」の貨幣かへいへと跳躍ちょうやくしているさらに大きな断絶である。無から有が生まれていたのである。いや、貨幣かへいで「ない」ものの「代わり」が貨幣かへいで「ある」ものになったのだ、といいかえてもよい。貨幣かへいとは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。

岩井克人貨幣かへい論』による)
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