a 長文 10.1週 wapu
 「努力すれば報われる」と、私たちは教わって育ってきた。しかし、子供の学力と親の収入が相関しているなどという調査を見ると、努力する以前にスタートの地点が違っちが ているというケースも、世の中にはかなりあるのではないかと思えてくる。もし、そういう歪みゆが が社会にあるとすれば、それは世代を経るごとに再生産され、やがて生まれつき銀のスプーンをくわえた恵まれめぐ  た少数のグループと、単に指をくわえただけの多数のグループとに、社会ははっきりと色分けされるようになるだろう。私たちは、機会における均等を保証する社会を作らなければならない。
 そのための方法は、第一に、競争の条件をそのつど新たに決め直す仕組みを作ることだ。自由競争という言葉は響きひび がいいが、自由な競争はやがて、力の強いものがますます強く、力の弱いものがますます弱くなるような偏りかたよ を生み出す。そのため、自由競争は往々にして独占どくせんのもとでの不自由な競争となることがある。政治家の世襲せしゅうが日本では問題になっているが、これは、後援こうえん会という地盤じばん引き継ぐひ つ 自由を認めることが、他の候補者の参入を阻むはば 不自由な競争を生み出す結果につながることを示している。
 第二には、機会の均等を求めることが、結果の平等を要求するところにまでつながらないように、私たちが節度を守ることである。企業きぎょう家精神に溢れあふ た少数の人間と、そうでない多数の人間がいて、多数決で物事を決めようとすれば、社会は多数の利益を保障する方向へと流れがちだ。努力や工夫をする人と、努力も工夫もしない人が、同じ給料しかもらえないのであれば、働く基準は自然に低い方に合うようになる。このことは、かつての社会主義国の経済運営や、現代でもお役所仕事という形で既にすで 経験済みだ。
 確かに、安定した社会の条件として、個人の努力を要求する前に、最低限のセーフティーネットというものは必要だ。しかし、それはあくまでも老人や病人などという弱者に対しての安全もうであって、社会の中心はあくまでも自由な競争の上に成り立つものでなければならない。自由競争の中でだれもがチャンスを生かせるようになるためには、個人の意志とともに、社会がチャンスを均等に用意していることが必要だ。「努力すれば報われる」社会もまた、私たちの努力によって作られるのである。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 


 (言葉の森長文作成委員会 Σ)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 10.2週 wapu
 効力感は、ただ自分の努力によって好ましい変化をひきおこすことができた、というだけでは伸びの ていくものではない。これこそ自分のしたいことだと思える活動や達成を選び、そこでの自己向上が実感されて、はじめて真の効力感は獲得かくとくされるからだ。これに対して親は、いったいどんな手助けができるだろうか。じつはこれもそんなにむずかしいこととは思えない。ホワイトが正しく指摘してきしたように、高等動物は本来、環境かんきょうに能動的に働きかけ、みずからの有能さを伸ばその  うとする傾向けいこうをもつ。管理社会から自由で、また無気力に汚染おせんされていない子どもでは、この傾向けいこうはおおいにあてにできるからである。
 自然な生活のなかで、子どもはきわめて多くの望ましい特性を発達させていく。効力感を伸ばすの  というと、何か特別なことをしなければならないかのように思うかもしれないが、じつは子どもの生活のなかには効力感を伸ばすの  のにかっこうの題材がたえずころがっているのである。
 熟達を例にとってみよう。熟達をとおして子どもは自分の努力の意味を知り、そしてまた、その努力を自分にとって意味のある分野に向けることを学んでいくだろう。しかし、生活のなかでの熟達は決して訓練という形をとらない。子どもの側が興味をもって取り組みたがるさまざまな熟達の機会があるのだ。
 たとえば、子どもが、「自転車に乗りたい」といいだしたとしよう。親はまず、「三輪車にしなさい」というだろう。ところが、三輪車でしばらく満足していた子どもが、そのうちどうしても自転車にしたいといいだすようになる。「自転車でないとスピードがでない」「自転車でなければ友だちと一緒いっしょに走れない」などということもあるだろう。しかし、最大の理由は、三輪車は安全すぎ、やさしすぎるのでつまらない、ということである。自転車を要求する子どもに押さお れて、親は転倒てんとうすることをおそれながらも、補助輪をつけるという条件でしぶしぶこれを認める。子どもはしばらく補助輪をつけて自転車に乗っているが、そのうちに必ず補助輪をはずせといってくる。その理由は、ただみっともない、ということではない。むしろ、補助輪があったのでは、やさしすぎてつまらない、ということである。このように、子どもの技能が繰り返しく かえ によって進歩していくと、子どもは、いわば、内発的によりむずかしい課
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

題に興味をもつようになる。条件さえととのえれば、あとは放っておいても熟達するものだ、とさえいえるかもしれない。気をつけなければならないのは、親がむしろこれにブレーキをかける役をしてしまいがちなことだ。
 もうひとつ重要なのは、子どもの生活のなかには、さまざまな熟達のお手本があるということだ。二本足で歩くといった単純なことでさえ、お手本がなければ、やってみようとする気にもならなかったかもしれない。おおかみに育てられて大きくなった子どもが二本足で歩行しなかった、というのは有名な話である。
 お手本がなかったとしたら、親は子どもに教えること、訓練することで毎日を忙しくいそが  すごさざるをえないだろう。ところが、子どもが自然に暮らしているなかで、彼らかれ はさまざまな熟達のお手本に出会い、そのなかから自分の発達の水準と生活の必要性からいって適切と考えられる課題を、みずから選びとっていくのである。(中略)
 親が注意すべきことといえば、何よりもまず賞罰しょうばつによって子どもの行動をコントロールしすぎないということであろう。もちろん、効力感を伸ばすの  という以外の目的のために、賞罰しょうばつにたよらざるをえない場面があることは確かだ。しかし、そうだからといって、すべてのしつけや教育を賞罰しょうばつにたよって押しお とおそうとすると、効力感を伸ばすの  ことはまず無理になる。できるだけ子どもの探索たんさくや発見を奨励しょうれいし、子どもなりの知識の体系や価値観が形成され、さらにそれが自覚化されていくのを期待するようにすべきだろう。親の関わり方は、子どもが次にやるべきことを指示したり、賞めたり叱っしか たりといった形ではなく、むしろ子どもの活動や自己向上が促進そくしんされるように環境かんきょう条件をととのえてやるとともに、子どもの内部にある知識や価値基準を明瞭めいりょう化し、それが子どもの行動を導くものになるのを助けるという形で行なわれるべきだろう。

 (波多野余夫、稲垣佳世子「無気力の心理学――やりがいの条件」より一部改変)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 10.3週 wapu
 大人になって毎日同じようなことを繰り返しく かえ ていると、あまり「ふしぎ」なことはなくなってくる。何もかもわかったような気になると、今度は面白くなくなってきて、「ふしぎ」なことを提供してくれるテレビ番組や催しもよお ものなどを見る。これらは必ず「ふしぎ」なことが最後には心に収まるようになっているので、少しの間心をときめかして、後は安心、ということになる。
 子どもは「ふしぎ」と思う事に対して、大人から教えてもらうことによって知識を吸収していくが、時に自分なりに「ふしぎ」な事に対して自分なりの説明を考えつくときもある。子どもが「なぜ」ときいたとき、すぐに答えず、「なぜでしょうね」と問い返すと、面白い答えが子どもの側から出てくることもある。
 「お母さん、せみは、なぜミンミン鳴いてばかりいるの」と子どもがたずねる。「なぜ、鳴いているんでしょうね」と母親が応じると、「お母さん、お母さんと言って、せみが呼んでいるんだね」と子どもが答える。そして、自分の答えに満足して再度質問しない。これは、子どもが自分で「説明」を考えたのだろうか。
 それは単なる外的な「説明」だけではなく、何かあると「お母さん」と呼びたくなる自分の気持ちもそこに込めこ られているのではなかろうか。だからこそ、子どもは自分の答えに「納得」したのではなかろうか。そのときに、母親が「なぜって、せみはミンミンと鳴くものですよ」とか、「せみは鳴くのが仕事なのよ」とか、答えたとしても「納得」はしなかったであろう。たとい、せみの鳴き声はどうして出てくるかについて「正しい」知識を供給しても、同じことだったろう。そのときに、その子にとって納得のいく答えというものがある。
 「そのときに、その人にとって納得がいく」答えは、「物語」になるのではなかろうか。せみの声を聞いて、「せみがお母さん、お母さんと呼んでいる」というのは、すでに物語になっている。外的な現象と、子どもの心のなかに生じることがひとつになって、物語に結晶けっしょうしている。
 人類は言語を用いはじめた最初から物語ることをはじめたのではないだろうか。短い言語でも、それは人間の体験した「ふしぎ」、「おどろき」などを心に収めるために用いられたであろう。
 古代ギリシャの時代に、人々は太陽が熱をもった球体であることを知っていた。しかしそれと同時に、彼らかれ は太陽を四頭立ての金の馬車に乗った英雄えいゆうとして、それを語った。これはどうしてだろう。夜のやみを破って出現して来る太陽の姿を見たときの彼らかれ の体
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

験、その存在のなかに生じる感動、それらを表現するのには、太陽を黄金の馬車に乗った英雄えいゆうとして物語ることが、はるかにふさわしかったからである。
 かくて、各部族や民族は、「いかにしてわれわれはここに存在するのか」という、人間にとって根本的な「ふしぎ」に答えるものとしての物語、すなわち神話をもつようになった。それは単に「ふしぎ」を説明するなどというものではなく、存在全体にかかわるものとして、その存在を深め、豊かにする役割をもつものであった。
ところが、そのような「神話」を現象の「説明」として見るとどうなるだろう。確かに英雄えいゆうが夜毎に怪物かいぶつと戦い、それに勝利して朝になると立ち現われてくるという話は、ある程度、太陽についての「ふしぎ」を納得させてくれるが、そのすべての現象について説明するのには都合が悪いことも明らかになってきた。たとえば、せみの鳴くのを「お母さんと呼んでいる」として、しばらく納得できるにしても、しだいにそれでは都合の悪いことがでてくる。
 そこで、現象を「説明」するための話は、なるべく人間の内的世界をかかわらせない方が、正確になることに人間がだんだん気がつきはじめた。そして、その傾向けいこうの最たるものとして、「自然科学」が生まれてくる。「ふしぎ」な現象を説明するとき、その現象を人間から切り離しき はな たものとして観察し、そこに話をつくる。
 このような「自然科学」の方法は、ニュートンが試みたように、「ふしぎ」の説明として普遍ふへん的な話(つまり、物理学の法則)を生み出してくる。これがどれほど強力であるかは、周知のとおり現代のテクノロジーの発展がそれを示している。これがあまりに素晴らしいので、近代人は「神話」を嫌いきら 、自然科学によって世界を見ることに心をつくしすぎた。これは外的現象の理解に大いに役立つ。しかし、神話をまったく放棄ほうきすると、自分の心のなかのことや、自分と世界とのかかわりが無視されたことになる。

 (河合隼雄はやお「物語とふしぎ」による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 10.4週 wapu
 「差別」や「平等」という言い方は、一種の序列構造を前提にしている。自然数のように、大小の順番がつけられるという性質を「順序関係」と呼ぶが、「差別」の対義語として「平等」を措定そていする思想的態度は、順序関係という写像への信奉しんぽうによって非常に強く条件づけられている。
 「差異は上下という関係に写像される」という世界観の下では、できるだけその差異を隠蔽いんぺいして、均質なものとみなそうという動機づけが生まれる。そこに立ち現れるのは、世界がお互い たが 比較ひかくなどできない多様なものによって構成されているという豊潤ほうじゅんさへの感謝ではなく、むしろすべてを中央集権的に価値づけようという「神の視点」につながる野望である。(略)
 差別語とされる言葉をことさら使う人は品性下劣げれつであるが(とくに相手が嫌がるいや  場合には、あえてそのような言葉を使う必要はないと思う)、その一方で思想警察のごとき極端きょくたんな「差別語狩りか 」には、以前から違和感いわかんを持っていた。その根本的な理由は、以上述べたような、差別をことさらに隠蔽いんぺいしようとする思想の背後にある、画一的なメンタリティにある。
 世界には魑魅魍魎ちみもうりょうのごとき実に多彩たさいなものがあふれており、その間に単純なる順序関係(上下の序列)などつけることはできず、生肉を食べようが、目が細かろうが、はしでものをつまもうが、それは「個性」であって、「みんなちがって、みんないい」と称揚しょうようされるべき差異である。そのような「覚悟かくご」をもって世界を見渡せみわた ば、美人だろうがブスだろうが、ハゲだろうがオヤジだろうが、別にいいだろう、と思えるはずだ。しかし、それは案外かなりラジカルで、それを生きることの難しいスタンスなのかもしれないとも思う。
 もともと、近代科学自体に世界観としての原罪がある。周知のとおり、ニュートンによる微積分びせきぶんの手法の発明、「万有引力」という構想自体が、世界の中の差異を消去し、すべてに普遍ふへん的に成り立つ法則を見出そうとする動機づけに基づいていた。目の前のリンゴと、天上に輝くかがや 月の間には、ナイーブに考えれば乗り超えこ がたい差異がある。両者が同じ万有引力の法則に従って運動するという
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

衝撃しょうげき的な着想の中にこそ、近代の科学を発展させた起爆きばくざいはあった。しかし、それは同時に差異をどんどん無効化し、消去していく無限運動の始まりでもあった。
 それぞれ輝くかがや 個性をもって屹立きつりつしているかに見えた生物種の起源が「突然変異とつぜんへんいと自然選択せんたく」という一般いっぱん原理で説明され、子が親に似るという現象はDNAという単一の物質のバリエーションの問題に帰着し、そしていまや世界の森羅万象しんらばんしょうが等しくネットワーク上のデジタル情報の中に映し出される。男も女も、老いも若きもすべては差異の隠蔽いんぺいされた平等の楽園に取り込まと こ れていくという「政治的正しさ」のプログラムは、ニュートン以来の近代科学のすばらしき成果と思想的に明らかに連動しているのである。

 (茂木健一郎「『みんないい』という覚悟かくご」による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 11.1週 wapu
 例えば市町村で残酷ざんこくな仕打ちをしている地方警察の暴力行為こういのようなものから、IMF(国際通貨基金)やG7、世界銀行といった総合的な中枢ちゅうすう機構に至る、政治を操って、社会の基本的政策を決定する組織まで。まず大切なことはそういう組織が存在しているということを認識し、そしてそれらと戦うということさ。――レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン「機械に抗するこう  怒りいか 」とでも訳すことのできる、このロックバンドは、たかだかまだ二枚のアルバムをリリースしたにすぎない。だが、彼らかれ は文字通り、怒りいか を発し続けているバンドである。アメリカン・インディアンの男性で、FBIの捜査そうさ官を殺害した容疑で長期拘留こうりゅうされているレナード・ぺルティエや、元ブラック・パンサーのメンバーで黒人ジャーナリストのマミア・アブジャーマルの解放のために活動し、ネオナチ反対のコンサートを開いたり、あるいは、コンサート会場で売られる高すぎるTシャツに抗議こうぎし、検閲けんえつ制度にプロテストしたりもする。ただやみくもに抗議こうぎしているだけではないか、と言うのならば、その通りと答えなければならぬかもしれない。あらゆる権力、あらゆる制度に対して否定の行動を起こすことこそロックであるとする、書いていて思わず赤面するほどの古くさいロックの定義を今でも信じているバンドにすぎないのではないか、と言われれば、彼らかれ がある意味でストレートすぎるほどの政治的なメッセージを隠そかく うとしないハードロックバンドであることは認めなければならないだろう。
 だが彼らかれ にはアクチュアリティがある。
 アメリカやヨーロッパの社会が抱えるかか  諸問題のうち、主として若者層の病巣と考えられる幾ついく かの問題に対して、彼らかれ はその切迫せっぱくした事態を正確に感受している。そして事態に抗議こうぎする歌詞を書き、轟音ごうおんの中に挿入そうにゅうし、アルバムをリリースするという戦略を実践じっせんしているのである。事実、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンほど戦略的なバンドはいない。それはあらゆる文化は政治的であるというテーゼを、強く彼らかれ が信じているからである。「文化そのものが政治的だということを否定しないということは、とても重要なことだと思う」と彼らかれ は語っている自分たちの音楽それ自体
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

がすでに一個の政治であり、抗議こうぎする対象もまた政治である。ここで私たちが注目しなければならないのは、戦う相手である政治が、「機械」と名指されていることだ。バンド名は虚飾きょしょくではない。権力の末端まったんで起こる暴力から、権力の中枢ちゅうすう神経である総合的な組織化まで、すべてが「機械」と呼ばれているのである。ここでの「機械」は国家と等号で結ばれる存在ではない。そうした枠組みわくぐ では捉えとら られぬ、私たちの首をじわじわと締めつけるし    、ごく具体的であり、同時に、捉えとら どころのない途方とほうもない拡がりを待った存在こそが、「機械」と名づけられている。(中略)
 ちょうど百年前になる。ヴァレリーは一九世紀末、こんなことを書いている。「方法」が制覇せいはするのだ、と。方法は、個人の自由な裁量権の及ぶおよ 範囲はんい狭めせば てゆく。いや、その範囲はんいを限りなくゼロに近づけてゆくことこそが、「方法」の理想なのである。(中略)
 「方法」はだれにとっても反復可能なものであり、いかなる人間でもその「方法」さえ用いれば、同一の結果に到達とうたつする。このとき「方法」を用いる側の個体性も、破壊はかいされる。優秀ゆうしゅうな人間の施すほどこ 術が、優秀ゆうしゅうな結論を招来するという、神話が崩壊ほうかいするのである。英雄えいゆうと呼ぶに相応しい大文字の個人などいなくなり、均質化した個人だけがまるで砂漠さばくの砂のようにあらゆる領域を埋めう 尽くすつ  ような事態――。「模倣もほう可能なものだけ模倣もほうされれば凡庸ぼんよう後継こうけい者の手段を増やすだけ」のものが、方法としてそこにあり、次第に世界はこうした「方法」に制覇せいはされることになるだろう、とヴァレリーは予言していた。(中略)ここで語られる「方法」は、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが語っていた「機械」と同じである、と私は思う。あらゆる機構の細部にまで浸透しんとうし切った「機械」こそが、私たちから個体性を剥奪はくだつする「方法」にほかならない。

野後史「機械に憑かれつ  、そしてこうする」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 11.2週 wapu
 私は長いこと京都に住んで毎日のように道で僧侶そうりょと出会ったし、時には寺院をおとずれて、そこに住む僧職そうしょくの方と対面することも多かったが、どのお顔もなべて、迷いも悩みなや も知らぬ(と見える)平穏へいおん無事な、ふっくらとしたお顔ばかりであるのが、昔から不思議に思われてしかたがなかった。僧服そうふくをまとう身とあれば、日々これ仏法、「日々これ好日」、さればこそこのような満ち足りたお顔がそろうことになるのだろうか。
 しかし私からすると、そうという身分であることほど怖いこわ ことはない。臨済和尚おしょうは、「自分を救う者は自分のほかにはない」と言ったが、一個の人間が僧服そうふくをまとう身になることを決断するに当たっては、まず他者への救済者として自立できるより前に、それに先立つ自分自らの始末がつけられているはずである。あるいはそうとなることそのことによって、自らの在りかたに決着をつけようとする覚悟かくごあってのことであるはずだと思われる。それなのに、あののびやかな、時には堂々と俗臭ぞくしゅう漂わただよ せたお顔は、一体どういうことなのであろう。
 思うに、現代日本の僧侶そうりょは、ほとんど例外なく、宗教者・求道者たることを自らの天職として選び取ったという人びとではなく、いわば職業人として僧職そうしょくに就くことを他律的に条件づけられてそうなったという人びとが大半を占めるし  であろう。そして、ひとたび僧衣そういをまとい、そうの座に坐るすわ ことになると、そうたることのステータスそのものがその人を安住させ定着させることになって、自らを突き放しつ はな て見すえる眼も心も失われてゆく、という成りゆきになるのではなかろうか。まして、その人がる宗門や教団のなかで一つの職位に就くことにでもなれば、その地位自体がその人の護符ごふとなって、安定度はいよいよ高まり、その風格はいよいよ板につき、その説法もいよいよ堂に入った巧みたく さを加えるであろう。そして、それと反比例して、自らを一個の人間に戻しもど 、その裸身らしんを改めて見つめ直すという宗教者としての基本的な心構えは、きりのように消えてゆくであろう。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 このことのおそろしさを、私はかつて旧制中学の教師だった時に身に沁みし て体験した。赴任ふにんしてから一週間たって気がついたことは、教員室の空気の退廃たいはいであった。彼らかれ 教師たちの話題の下劣げれつさと、それに引きかえての高慢こうまんなエリート意識、そしてかげにこもった個人や派閥はばつの間の反目などなど……。これは大きなショックだった。そして、なぜこうなのだろうと考えてみた。ハタと思い当たったのは、教師たちが日ごろ相手にしているのが、自分たちよりも年齢ねんれいの低い生徒たちばかりであるという環境かんきょうそのものにその理由がありそうだということだった。そう思い当たって、私は背すじがぞっとする思いだった。幼い子を相手に同じことを教えてばかりいると、自分自身の勉強はおろそかになるばかりか、自分の今の在りようや生き方を省みるということもしなくなる。それをしなくても、教師という職業は結構つとまるからである。こんな怖いこわ ことはない。見回したところ、「背に負うた子に教えられる」といった初心を忘れずにいそうな教師は、一人も見当たらない。みんな教室での教え方は堂に入ったその道のベテラン教師ばかりである。しかし、その人たちの世間話のなんと低劣ていれつなことか。これでは、長く教師をつとめたら、人間の成長は止まってしまうこと必定ひつじょうだと、私は思い知った。そして三年で退職してしまった。
 およそ人間として成長するためには、絶えず現在の自分の生き方を恥じるは  ことが必要であろう。自らを恥じるは  とは、自らを客観視する別の眼をもち得ることである。現在の環境かんきょう埋没まいぼつすることなく、つまり現在の職業や地位にこし据えす てしまうことなしに、自分の新たな可能性を絶えず開拓かいたくしようとする気魄きはくをもち続けること、このことこそが、およそ道を求める者の――社会人たると宗教者たるとを問わず――もっとも基本的な要件であろう。まして人に向かって法を説き、ひとかどの救済者として自立するほどの人であれば、なおさら、自らをその道の完成者として完結させてしまってはならぬはずである。もし、いささかでも自己完成者としての意識が残っていたら、その人はすでに救済者たる資格はない。しかし、この痛切なディレンマを乗り越えるの こ  ための苦悩くのうを知らぬ説法者が、今は余りにも多い。 (入矢義高「人を救うということ」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 11.3週 wapu
 くじらや象は、人の「知性」とはまったく別種の「知性」を持っているのではないか? という疑問である。
 この疑問は、最初、水族館に捕らえと  られたオルカ(シャチ)やイルカに芸を教えようとする調教師や医者、心理学者、その手伝いをした音楽家、くじらの脳に興味を持つ大脳生理学者たちの実体験から生まれた。
 彼らかれ が異口同音に言う言葉がある。それは、オルカやイルカは決して、ただえさがほしいために本能的に芸をしているのではない、ということである。
 彼らかれ 捕らわれと   の身となった自分の状況じょうきょうを、はっきり認識している、という。そして、その状況じょうきょうを自ら受け入れると決意した時、初めて、自分とコミュニケーションしようとしている人間、さしあたっては調教師を喜ばせるために、そして、自分自身もその状況じょうきょうの下で、精一杯せいいっぱい生きることを楽しむために「芸」と呼ばれることを始めるのだ。(中略)
 たとえば、体長七メートルもある巨大きょだいなオルカが狭いせま プールでちっぽけな人間を背ビレにつかまらせたままもうスピードで泳ぎ、プールのはしにくると、手綱たづなの合図もなにもないのに自ら細心の注意を払っはら て人間が落ちないようにスピードを落としてそのまま人間をプールサイドに立たせてやる。(中略)こんなことが果たして、ムチとあめによる人間の強制だけでできるだろうか。ましてオルカは水中にいる七メートルの巨体きょたいの持ち主なのだ。
 そこには、人間の強制ではなく、明らかに、オルカ自身の意志と選択せんたくが働いている。
 狭いせま プールに閉じ込めと こ られ、本来持っているちょう高度な能力の何万分の一も使えない苛酷かこく状況じょうきょうに置かれながらも、自分が「友」として受け入れることを決意した人間を喜ばせ、そして自分も楽しむオルカの「心」があるからこそできることなのだ。
 また、こんな話もある。人間が彼らかれ に何かを教えようとすると、彼らかれ の理解能力は驚くおどろ べき速さだそうだけれども、同時に、彼らかれ もまた人間に何かを教えようとする、というのだ。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 フロリダの若い学者が、一頭のめすイルカに名前をつけ、それを発音させようと試みた。イルカと人間では声帯が大きく異なるので、なかなかうまくいかなかった。それでも、少しうまくいった時にはその学者は頭を上下にウンウンと振っふ た。二人(一人と一頭か)の間では、その仕草が互いにたが  了解りょうかいした、という合図だった。何度も繰り返しく かえ ているうちに、学者は、そのイルカが自分の名とは別のイルカ語のある音節を同時に繰り返しく かえ 発音するのに気がついた。しかしそれが何を意味するのかはわからなかった。そしてある時、ハタと気づいた。「彼女かのじょは私にイルカ語の名前をつけ、それを私に発音せよ、と言っているのではないか」、そう思ったかれは、必死でその発音を試みた。
 自分でも少しうまくいったかな、と思った時、なんとそのめすイルカはウンウンと頭を振りふ 、とても嬉しうれ そうにプール中をはしゃぎまわったというのだ。
 くじらや象が高度な「知性」を持っていることは、たぶん間違いまちが ない事実だ。
 しかし、その「知性」は、科学技術を進歩させてきた人間の「知性」とは大きく違うちが ものだ。人間の「知性」は、自分にとっての外界、大きく言えば自然をコントロールし、意のままに支配しようとする、いわば「攻撃こうげき性」の「知性」だ。この「攻撃こうげき性」の「知性」をあまりにも進歩させてきた結果として、人間は大量殺戮さつりく環境かんきょう破壊はかいを起こし、地球全体の生命を危機に陥れおとしい ている。
 これに対してくじらや象の持つ「知性」は、いわば「受容性」の知性とでも呼べるものだ。彼らかれ は、自然をコントロールしようなどとは一切思わず、その代わり、この自然の持つ無限に多様で複雑な営みを、できるだけ繊細せんさいに理解し、それに適応して生きるために、その高度な「知性」を使っている。
 だからこそ彼らかれ は、我々人類よりはるか以前から、あの大きなからだでこの地球に生きながらえてきたのだ。同じ地球に生まれながら、と私は思っている。
 (村仁「地球(ガイア)の知性」による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 11.4週 wapu
 ところが、突然とつぜん、ソ連が崩壊ほうかいして言語に対する統制も検閲けんえつもなくなり、西側の文明がどっと入ってきた。いま、モスクワの町中に氾濫はんらんする外来語の膨大ぼうだいさには、驚くおどろ ばかりだ。モスクワ一の大型書店「ドーム・クニーギ」に行っても、「インターネット」「マネジメント」「マーケティング」といったコーナーばかりで、これがトルストイやドストエフスキーを生んだ偉大いだいな文学の国のなれの果てか、と、ロシア文学びいきの日本人としては、ついなげかわしい気持ちにもなろうというものだ。
 しかし、その一方で、日本の都会ではとうに失われてしまった言葉の生々しさのようなものが、現代のロシアではいまだに保存されているということも見のがしてはならない。ロシア人たちは、ほんのちょっとしたことをきっかけに、たとえ見知らぬ他人どうしであっても、驚くおどろ ほど多くの言葉を費やして、自分の考えと感情を相手に直接ぶつける。それは情報伝達の行為こういというよりは、言葉を通じで互いたが の存在を認識しあう共同体の儀式ぎしきにも似ている。おそらく二一世紀の日本で今後、どんどん失われていくのは、まさに言葉のこういった機能ではないかと思う。
 コンピュータ技術が飛躍ひやく的に発達し、これから社会の「情報化」がますます進展していくことだろう。商取引から恋愛れんあいまで、すべてはインターネット上のヴァーチャルな体験に置き換えお か られ、一歩も自分の部屋を出なくとも生活が何不自由なくできるという時代が来るのも夢ではない。しかし、そうなったとき、決定的に失われる危険があるのは、個人的な接触せっしょくを可能にし、互いにたが  同じ人間なのだということを実感させてくれる言葉の機能である。こういった言葉の基本機能のことを、言語学者のヤコブソンは「交感機能」と呼んでいるが、これが失われたら、言葉は言葉でなくなってしまうと言っても過言ではないだろう。
 では、そのとき言葉は何になるのか。おそらく「言葉もどき」、オーウェルの表現を再び借りれば、新たな「ニュースピーク」ではないか。ニュースピークとはなにも、過ぎ去った過去の亡霊ぼうれいではない。それは、人間から個性も思考力も奪いうば 、社会を構成する者全員を画一化する新たな、より強力な全体主義の時代に、再び装いも新たに現れることだろう。
 なんだか見通しの暗い予報になってしまったみたいだが、正直な
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ところを言えば、そんなニュースピークの時代が本当に到来とうらいするなどとは考えたくはない。これはあくまでも一種の警告である。みょうなことを言うようだが、おそらく私たちは、言葉という不思議な生き物の未来については、人類の未来について以上に楽観的になってもいいのではないだろうか。
 というのも、言葉は人類のありとあらゆる惨事さんじ残虐ざんぎゃく愚かしおろ  さを目撃もくげきし、克明こくめいに記録しながらも絶望することなくしぶとく生き延び、時代の激変を通じてみずからもしなやかに変容しながら、それでいて言葉でありつづけることを止めないで今日まで来ているからだ。ぼくは人智じんち超えこ た神秘的な言霊ことだまなどのことを言っているわけではない。言葉は人間の作り出したものでありながら、人間以上の生命力を持ち、人間社会を逆に作っていく働きさえ備えている。コンピュータ程度の発明に簡単にやられはしないだろう。しかし、それは潜在せんざい的に恐ろしいおそ   力でもあり続ける。言葉を支配する者は、結局のところ、世界を支配することになるからだ。

 (沼野充義『W文学の世紀へ』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 12.1週 wapu
 音楽といえば、それはハニホヘトイロで育った私たちの世代に最も縁遠いえんどお ものの一つで、もの言う資格などなきに等しいのだが、それでも、私自身、ビートルズのことでめずらしい経験をしたことがある。十数年前、ビートルズが熱狂ねっきょう的に迎えむか られはじめたころ、元来が野次馬なものだから、それではひとつと片っぱしからレコードを買いこんで鳴らしてはみたものの、音楽評論家たちの力説する良さがいっこうに理解できない。それ以前にジャズやロックンロールなどに親しんでいたわけではないから、その音楽性のどこがどう革命的なのか、わかるはずもないし。それがある日、ホリリッジ・ストリングスの演奏するビートルズのイージー・リスニング・ナンバーのレコードを耳にしたとたん、なんときれいな曲なんだろうと思わずうっとりした。澄明ちょうめいにして華麗かれい巧緻こうちにして清新、わが耳を疑うとはこのことかといいたい体験だった。以来、私はビートルズのひそかなファンでありつづけている。
 ヴォーカル抜きぬ のイージー・リスニングだなんて、今だと頼りたよ なくて聞いていられないだろうけれど、少なくとも音楽音痴おんちの私にとって、この一枚のレコードは、世界のビートルズを私自身のビートルズに変えた、奇蹟きせき的なレコードだった。
 一瞬いっしゅん閃きひらめ 」による理解。それは、読書についても、もとより例外ではあり得ない。が、生まれついての天才は別として、この閃きひらめ を体験するためには、やはり相応の試行錯誤しこうさくご歳月さいげつが要る。さまざまなジャンルの、さまざまな作者の、さまざまな作品に当りながら、しかし、どの作品が上等で楽しく、どの作品がくだらなくて反古ほごにひとしいと、それがわかって読んでいるのか、疑ってかかる月日が要る。名ある評家の推輓すいばんや、世間になんとなく流布るふしている評判を自分自身の下した評価と勘違いかんちが して読んでいるだけのことではないかと気をもんですごす時日じじつが要る。
 もっとも、読書一般いっぱんについていう場合、水泳や数学や音楽などと違っちが て「一瞬いっしゅん閃きひらめ 」は大げさかもしれない。ある作品を読んでほかの本からはかつて受けたことのない一種新鮮しんせんな印象を得、この体験を基準として読んでいけばいいのだなと深くうなずく、そんなふうに考えたほうが実態に沿っているだろうか。が、いずれにせ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

よ、試行錯誤しこうさくごをくりかえすことをいとわず、疑ってかかる姿勢を失わずにいるかぎり、そういう瞬間しゅんかんはいつかやってくるということは十分に期待できる。もちろん、人によってその瞬間しゅんかんを感じることの強弱遅速ちそくはあるだろうが、それは仕方がない。人間の感受性というのはもともと不平等にできているのである。
 いったんこうした読書のコツを会得えとくした以上は、あとはもう一気呵成いっきかせい、読むに値する本が次から次へと見つかってきて、読書が楽しくてしようがなくなる。山本夏彦なつひこふうにいえば、くだらない本を読んでさえ、それを罵倒ばとうするという楽しみが加わる。見かけばかりご大層で内実はいたって貧しく退屈たいくつな本を、どんな義理があるのか知らないが、無責任に天下の名著と持ちあげる評論家を嘲笑ちょうしょうするという楽しみも。
 それだけではない、かつてやみくもに読み散らしてはくりかえした試行錯誤しこうさくご、これが思いがけず役に立つのである。系統発生図というか、ものの良し悪しを弁別する見取図のようなものが、読書のかなめをおさえたと知った瞬間しゅんかん脳裡のうりに成立し、今後の本の読み方についてのまたとないコンパスとなるからである。
 世間は広いから、たった一冊の本を読んだだけでチカッと閃くひらめ という人もいないとはかぎらない。が、それは、初めて本を読んですべてがわかったと思いこむ子供のようなもので、それ以前の蓄積ちくせきがゼロだから、本の世界についての正負さまざまの方向をもった地図を作りあげることができず、かえってその後の読書に難渋なんじゅうし、モームのいう「ひまつぶし」を楽しむ機会がより少ないということもまたありうる。なにごとにもプラスとマイナスがある。こと読書に関しては、神童や天才をうらやむにはあたらない。

 (向井敏贅沢ぜいたくな読書』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 12.2週 wapu
 人間以外の動物は普通ふつう「本能」の赴くおもむ ままに行動するとき、そこに迷いや不安はない。彼らかれ にとっては、世界は予め秩序ちつじょ与えあた られているのであって、自らがそれを創り出す必要がないからである。つまり、選択せんたくの余地がないのである。それに対して人間は、そのような「本能」の導きを失い、従って、混沌こんとんと化した世界に対して、素手で働きかけることができず、文化という装置を創り出すことによって、再び秩序ちつじょをとり戻しもど てきたのである。人間がしばしば、文化を持った生物と呼ばれる理由はそこにある。
 何故人間のみが、そのような特異な生物への「進化」の道を歩んだのかということは、それ自体非常に興味のある問題であるが、ここでは本題に外れるので触れふ ない。その代わりに、文化を持った生物となってしまった人間が、環境かんきょうの変化に対して、他の種のように何世代にもわたって徐々にじょじょ 自らを変えて、その変化に適応するということをせず、自らが創り出した文化という装置を操作することによって適応してきたということが、どのような意味を持つようになったかということを考えてゆきたい。
 今述べたように、あるがままの混沌こんとんの世界に対して、文化という装置によって秩序ちつじょを回復する試みが行なわれ、それによって、人間は世界を解釈かいしゃくすることができるようになるのであるが、その解釈かいしゃくが有効であるためには、集団の成員によるその承認を必要とする。つまり、文化が文化として機能するためには、社会制度化されなければならないのである。ところが、このような社会制度化された文化が、一旦いったん成立すると、今度はその文化そのものが、人間にとって、いわば第二の自然として、人間の行動を規制してくることになる。したがって、「文化」はもともと「自然」と対立する概念がいねんではあるが、人間は文化の枠内わくないでしか行動しえないものであってみれば、ある意味では文化=自然という関係が成立してくるとさえ言えるのである。
 (中略)
 人間は客観的世界にのみに生きているのでもないし、通常理解されているような社会的活動の世界にのみ生きているのでもなく、その社会の表現手段となっている特定の言語に強い影響えいきょうを受けているのである。本来言語を使わないで現実に適応できると考えたり、言語をコミュニケーションや、内省の特定の問題を解くため
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

偶然ぐうぜんの手段であると考えるのは全くの幻想げんそうにすぎない。事実は、「現実世界」というのは、かなりの程度まで、その言語使用者の集団の言語習慣の上に無意識に築かれているのである。どの二つの言語をとってみても、同じ社会的現実を表わしていると考えられる程似た言語はないのである。異なる社会が生きている世界は別の世界であり、単に異なるレッテルが付けられた同一の世界ではないのである。
 すなわち、われわれは全人類が例外なく持っている言語という文化装置(記号体系)を通してしか現実を構成することができないのであり、したがって、それぞれの言語という記号体系が異なれば、見えてくる世界も違っちが たものになってくるのである。このことは、あるものをそれとして認識できるのは、普通ふつう、それに名称めいしょう与えあた られている場合であることを考えても、容易に想像されるだろう。それまでは何気なく見過ごしてきた路傍ろぼうの花が、その名称めいしょうを知ることによって、急にいきいきとした存在感を持って知覚されてくることはだれでも経験したに違いちが ない。つまり、名称めいしょうという記号表現を与えあた られて初めて、その花はわれわれに意味を待った存在として現われてくるのである。繰り返しく かえ て言うと、文化という装置は、もともと自然の混沌こんとん秩序ちつじょ与えるあた  ために、人間が集団としてある意味では恣意しい的に創り出した記号体系であるが、一旦いったんできあがるとそれは自立性を獲得かくとくし、逆にその創造者を呪縛じゅばくするようになるのである。このようにして、人間はもはや文化という装置なしでは生きていけない存在になってしまったのである。
 文化をこのように、人間が集団として恣意しい的に創り出した記号体系として捉えるとら  ならば、各文化間の相違そういが現われてくるのは当然であるが、それのみでなく、その分節がある意味では恣意しい的でありうるが故に、文化の行なう秩序ちつじょ化(=分類)からはみ出してくる部分が出てくるのは想像に難くない。そのはみ出した部分をそのままにしておくことは、秩序ちつじょ破壊はかいにつながってくるため、文化にとっては危険な存在になる。そのため、文化は、そのはみ出した部分を、消極的には「見えないもの」(インビジブル)として、積極的には禁忌きんき(タブー)として抑圧よくあつする必要があるのである。
 (池上嘉彦・山中桂一教光「文化記号論」より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 12.3週 wapu
 誰かだれ がいつか、こんなことを言っていた。神経が苛立っいらだ 眠れねむ ない時があるが、これは神経の疲労ひろうが肉体の疲労ひろうとのバランスを欠いて、独自に進行してしまった結果である。従ってこうした場合は、縄跳びなわと を数回行って、肉体の疲労ひろうを神経のそれと同程度になるまで高めればいい。それぞれの疲労ひろうのバランスがとれれば、人は眠れるねむ  のである。
 いささか論理が明確に過ぎて、その分だけ何となく危うい気がしないでもないが、しかしこの論理の組み立て方には魅力みりょくがある。何よりも、神経の疲労ひろうそれ自体を静めようとするのではなく、肉体の疲労ひろうをそれに見合うべく高めようとする点が独特であり、そこに行動的であり、しかも積極的な姿勢がうかがわれるのである。そして事実私は、同様の症状しょうじょう陥るおちい たびにこの考え方を応用して実行し、もし私の錯覚さっかくでなければ、言われている通りの効果をあげることが出来た。
 かつて私は、ホンダの五〇CCのカブ・原動機付自転車を愛用していたが、これに長時間乗った場合、必ずこうした症状しょうじょう陥っおちい た。 原動機付自転車というのは、人間の筋力による走行速度を、ガソリン・エンジンに置き換えお か 促進そくしんするための最も原始的な装置であり、それとこれとの置き換えお か を実感するためには、最も効果的な道具なのだが、それだけに、こうした症状しょうじょう陥るおちい 事情も、論理的に説明しやすいということがある。
 もちろんこれもまた、論理が明確に過ぎて、自分自身ほとんどはにかまざるを得ないほどであるが、つまりこの場合、私の「肉体」はただ、震動しんどうする小さなガソリン・エンジンにしがみついているだけだが、「神経」の方は、その同じ距離きょりと時間を省略することなく体験しつくすのであり、従ってそのそれぞれの疲労ひろうのバランスは、大きく喰いく 違っちが てくるはずだ、というわけである。「神経」の疲労ひろうのみが独自に進行してしまって、私は苛立ちいらだ 眠れねむ なくなる。
 そこで私は、長時間原動機付自転車に乗った日は必ず、家に入る
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

前にその場で体操をしたり、家の周囲を暫くしばら 走ったりして、「肉体」を酷使こくしし、疲労ひろうのバランスをとるよう努めた。そうすることによって私は、その夜の「安眠あんみん」を、勝ちとってきたのである。(中略)
 私は、私自身が原動機付自転車に乗っていた当時の体験に即しそく て、ここまで考えてみた結果、冒頭ぼうとう掲げかか た考え方を、ほぼ「あり得ること」として、認めることにした。「神経」と「肉体」という言い方が、厳密に考えようとするとややあいまいであるが、かれがその言葉で、我々の内なる何を言い当てようとしつつあるかは、容易に想像がつくのである。つまりここでは、そのそれぞれのものが、乖離かいりして世界を体験し、従って乖離かいりしたままそれぞれ別レベルの疲労ひろうを課せられ、そのバランスが崩れくず つつある点に、問題があると言っているのだ。(中略)
 私はるジャーナリストが、ケネディ暗殺事件を報道するテレビ画像を見て、「ここには何も映し出されていない」と言ったのを覚えている。かれは、かれが実際にその場に居合せたことのある暗殺事件の現場を想起しながら、「そこには確かに、人々を恐怖きょうふさせ、吐き気は け催さもよお せる何ものかがあったのだが、ここには何もない」ということを言っているのだ。そしてこのことは、私が距離きょりを、歩いたり走ったりするのでなく原動機付自転車で通り抜けとお ぬ てしまったことにより抱かいだ ざるを得なかったことと、同様のものであったような気がする。
 この手応えのない世界への不安が我々の内に潜在せんざいし、その焦燥しょうそう感が、勢い手応えのあるものに向って、やみくもに発散されようとするのだ。

(別役実「イロニーとしての身体性」による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 12.4週 wapu
 「患者かんじゃが最後まで希望を持つことができるためにはどうしたらよいか」ということは、ことに重篤じゅうとく疾患しっかんにかかわる医療いりょう現場において切実な問いである。病気であることが知らされる―だんだん状態が悪くなることを知り、有効な対処法はないことも知る――自分の身体がだんだん悪くなり、できることがどんどん減って行く――死を間近に感じるようになる。
 このような状況じょうきょうで、「希望」とはしばしば、「治るかもしれない」という望みのことだと思われている。あるいは「自分の場合は通常よりもずっと進行が遅いおそ かもしれない」ということもあろう。いずれにしてもまさに「希望的」観測である。だが、希望とはこうした内容の予測のことなのだろうか。
 もしそうだとすると、それこそ確率からいって、そうした患者かんじゃの多数においては、はじめに立てた希望的観測が次々と覆さくつがえ れるという結果にならざるを得ない。それでは「最後まで望みをもって生きる」ということにはならないだろう。そもそも、「がん」と総称そうしょうされる疾患しっかん群をモデルとして、「告知」の正当性がキャンペーンされてきたのは、患者かんじゃが自分の置かれた状況じょうきょうを適切に把握はあくすることが今後の生き方を主体的に選択せんたくするために必須ひっすの前提であったからではなかったか。右に述べたような望みの見出し方は、非常に悪い情報であっても真実を把握はあくすることが人間にとってよいことだという考えとは調和しない。
 では「死は終わりではない、その先がある」といった考え方を採用して、希望を時間的な未来における幸福な生に託すたく というのはどうだろうか。だが、医療いりょう自らが、そのような公共的には根拠こんきょなき希望的観測に過ぎない信念を採用して、患者かんじゃの希望を保とうとするわけにはいかない。
 ところで、死は私たち全ての生がそこに向かっているところである。遅かれおそ  早かれ私の生もまた死によって終わりとなることは必至である。その私にとって希望とは何か――考えてみればこの問いは、重篤じゅうとく疾患しっかん罹っかか 患者かんじゃにとっての希望の可能性という問題と何らか連続的であろう。そして、多くの宗教は死後の私の存在の
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

持続を教えとして含みふく 、そこに希望を見出そうとしてきた。それは人間の生来の価値観を肯定こうていしつつ、提示される希望である。だが他方宗教的な思想には、死後の生に望みをおく考え方を拒否きょひする流れもある。その場合は、人間はもっとラディカルに自己の望みについて突き詰めるつ つ  のである――「死後も生き続けたいという思いがそもそも我欲なのである」とか、「自己の幸福を追求するところに問題がある」というように。それは生来の価値観を覆しくつがえ つつ提示される考えである。では、死が私の存在の終わりであることには何の不都合もないではないかとして、これを肯定こうていした場合に、希望はどこにあるか――どのような仕方であれ、「死へと向かう目下の生それ自体に」と応えるしかないであろう。
 終わりのある道行きを歩むこと、今私は歩んでいるのだということ――そのことを積極的に引き受ける時に、終わりに向かって歩んでいるという自覚が希望の根拠こんきょとなる。そうであれば「希望を最後まで持つ」とは、実は「現実への肯定こうてい的な姿勢を最後まで保つ」ということに他ならない。つまり、自己の生の肯定こうてい、「これでいいのだ」という肯定こうていである。「自己の生」といっても、生きてしまっている生(完了かんりょう形)としてみることと、生きつつある生(進行形)としてみることとの二重の視線がある。完了かんりょうしたものという生のアスペクトにおける肯定こうていは「これでよし」との満足である。他方、生きつつある生、つまり一瞬いっしゅん先へと一歩踏み出すふ だ 活動のアスペクトにおける、前方に向かっての肯定こうてい、前方に向かって自ら踏み出すふ だ 姿勢が、希望に他ならない。

 (清水哲郎『死に直面した状況じょうきょうにおいて希望はどこにあるか』より。一部省略)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534