1地球上の生物は、どの生物も、遺伝子的な仕組みは同じとされます。遺伝子的な仕組みは同じでも、生命活動のやり方は、たとえば植物と人間ではひどく異なります。実は、どの植物も、また人間を含むどの動物も、それぞれ独特のやり方をしているとも言えます。2人間も、コウモリと同様、地球上で何か特別な存在というのではありませんが、その生命活動のやり方は、光ではなくて音を使って外界を把握する独自のシステムを発達させたコウモリの場合と同様、実はひどく変わっていると言えるのではないでしょうか。
人間の場合の特殊性は、たとえば大脳皮質の可塑性がそれを象徴的に示していると思います。3人間の人間らしい、人間に特有の活動を可能にする能力とか可能性というのは、それがどういうものであるにせよ、大脳皮質のような身体的部位に、実現される可能性のすべてがあらかじめ書き込まれているというようなことはないと考えられます。4たとえば言語能力というものは、具体的には日本語を話したり理解したりする能力として、あるいは英語を話したり理解したりする能力として実現されますが、5最初からそういうものとしてあったということではなくて、最初は、言語能力一般として(というよりは、言語能力以外の能力をも可能にするもっと一般的な能力とか可能性として)あったと考えられます。6そのような能力のことを、ここでは、第一次的な可能性と呼ぶことにしたいと思います。それに対して、実際に実現された日本語の能力のようなものは、第二次的な能力ということになります。
7遺伝子的な仕組みによって最初に実現される、大脳皮質のような身体的組成というものは、人間の場合、第一次的な可能性ないし能力の、ある意味では、全体であると考えられます。8私たちの生きている身体そのものは、おおざっぱには、私たちの能力とか可能性の総体であると言うことができると思います。他方、日本語とか英語というようなものは、それ自体は文化的構築物であって、遺伝子的な仕組みの外にあるものです。9それは、直接的に身体組成の延長上にあるものとは言えないと思います。しかし、私たちはそれを内部に取り込んで、身体的能力の一部として実現するのだと思います。この「外部にある文化的な構築物を、第二次的な能力を実現する際に、内部に取り込む」というやり方、これが人間の場合には決定的な意味を持つのだと考えられます。
0感情についても、言語及び言語以外の文化的構築物(身体的動
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