a 長文 10.1週 wapu2
 地球上の生物は、どの生物も、遺伝子的な仕組みは同じとされます。遺伝子的な仕組みは同じでも、生命活動のやり方は、たとえば植物と人間ではひどく異なります。実は、どの植物も、また人間を含むふく どの動物も、それぞれ独特のやり方をしているとも言えます。人間も、コウモリと同様、地球上で何か特別な存在というのではありませんが、その生命活動のやり方は、光ではなくて音を使って外界を把握はあくする独自のシステムを発達させたコウモリの場合と同様、実はひどく変わっていると言えるのではないでしょうか。
 人間の場合の特殊とくしゅ性は、たとえば大脳皮質の可塑かそ性がそれを象徴しょうちょう的に示していると思います。人間の人間らしい、人間に特有の活動を可能にする能力とか可能性というのは、それがどういうものであるにせよ、大脳皮質のような身体的部位に、実現される可能性のすべてがあらかじめ書き込まか こ れているというようなことはないと考えられます。たとえば言語能力というものは、具体的には日本語を話したり理解したりする能力として、あるいは英語を話したり理解したりする能力として実現されますが、最初からそういうものとしてあったということではなくて、最初は、言語能力一般いっぱんとして(というよりは、言語能力以外の能力をも可能にするもっと一般いっぱん的な能力とか可能性として)あったと考えられます。そのような能力のことを、ここでは、第一次的な可能性と呼ぶことにしたいと思います。それに対して、実際に実現された日本語の能力のようなものは、第二次的な能力ということになります。
 遺伝子的な仕組みによって最初に実現される、大脳皮質のような身体的組成というものは、人間の場合、第一次的な可能性ないし能力の、ある意味では、全体であると考えられます。私たちの生きている身体そのものは、おおざっぱには、私たちの能力とか可能性の総体であると言うことができると思います。他方、日本語とか英語というようなものは、それ自体は文化的構築物であって、遺伝子的な仕組みの外にあるものです。それは、直接的に身体組成の延長上にあるものとは言えないと思います。しかし、私たちはそれを内部に取り込んと こ で、身体的能力の一部として実現するのだと思います。この「外部にある文化的な構築物を、第二次的な能力を実現する際に、内部に取り込むと こ 」というやり方、これが人間の場合には決定的な意味を持つのだと考えられます。
 感情についても、言語及びおよ 言語以外の文化的構築物(身体的動
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作とか表情)に依存いぞんする部分があると言える分だけ、言語能力の場合と同じように考えてよいと思われます。感情に関わる基本的な能力というものは、遺伝子的な仕組みによってヒト(注ホモ・サピエンス)としての私たちに備わっていると言えます。しかし、そのような能力は、何らか後天的に養育ないし教育されることによって文化的変容を遂げると  (そのようにして、外部にあるものを内部に取り込むと こ )ということがなければ、結局は、動物と同様の水準にある、原始的な「叫び声さけ ごえ」とか「唸りうな 声」として発現するような能力として止まり続ける以外にないと思われます。
 さて、ここからが問題です。自然種としてのヒトという生き物は、そういう意味では、ある仕方でそのあり方そのものが変わって別の存在になる、それが人間になるということである、そう考えるべきであるように思われます。私たちの正体は、もちろん、ヒトなのですが、何か「あり方の本質的な変化」とでも言うべきものが「ヒト」と「人間」の間にはあるということになるのだと思います。この変化は、私たち現生人類の歴史上、そう遠くない、ある時点で起こった出来事であると思うのですが、上で言ったことからすれば、実はそれは現代社会に生きる私たち一人ひとりに生じるものでもあると考えるべきでしょう。人間の場合の特殊とくしゅ性というのは、私たち一人ひとりの問題だからです。
(中略)
 言語能力は、直接的に身体組成の延長上にあるものとして考えることはできないと言いましたが、ある意味では、身体的能力を拡張することによって実現することができる一種の実践じっせん的能力として考えることができるものだと思います。最も単純に言えば、私たちの言語というのは、もともとは音声だからです。もちろん、音声ですと言って、それですむような、単純なものではありません。言語能力は、自転車に乗るとか泳ぐといった能力が形成される場合と同じように、間違いまちが なく、後天的に訓練を重ねて形成されることになる実践じっせん的能力ですが、これがどのような能力かということを理論的に説明するとなると、ひどく難しいことになります。ここでは、言語を使用する能力がどういうものかという話はしませんが、それは実践じっせん的能力の一つであるということをとにかく強調しておきたいと思います。(略)
 私たちがヒトから人間になるプロセスというのが、以上のような
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長文 10.1週 wapu2のつづき
言語習得に関する考え方をモデルとすることができるようなプロセスだとしますと、私たちがヒトから人間になる変容というのは、実に奇妙きみょうなものだということになります。あたかもそれは、進化のプロセスを継続けいぞくするために、身体的な組成を決定するものである、身体内部の遺伝子的な仕組みを利用するだけでは足りなくなって、身体外部の、文化的な記憶きおくの仕組みを利用しなければならなくなったかのようです。人間というのは、本当にそのような、奇妙きみょうな存在なのでしょうか。

岡部おかべ勉「合理的とはどういうことか」)
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a 長文 10.2週 wapu2
 なりふりかまわず生きているとき、人間はまだ文化を持っていない。生きるなりふりに心を配り、人にも見られることを意識し始めたとき、生活は文化になる。喫茶きっさのなりふりを気遣えきづか ば茶の湯が生まれ、立ち居ふるまいの形を意識すれば舞踊ぶようが誕生する。文化とは生活の様式だが、たんに惰性だせい的な習慣は様式とは呼べない。習慣が形として自覚され、外に向かって表現され、一つの規律として人びとに意識されたときに、文化は誕生する。
 ところで何かを意識し表現することの極致きょくちには、それを論じるという行為こういがある。舞踊ぶようが高度化すれば模範もはんが芽生え、規範きはんを意味づける主張が生まれ、やがてその延長上に舞踊ぶよう論が成立する。どんな生活習慣もおきてを生み、おきては法に高まって法理論を形成する。文化が生活の意識化の過程だとすれば、その最後の到着とうちゃく点には文化論がなければならない。文化論は文化についての後知恵ちえではなく、文化そのものが自己を完成した形態なのである。
 古代ギリシャに政治文化が目覚めたとき、プラトンの国家論が世に出た。ギリシャ悲劇が完成したとき、それを評価するアリストテレスの演劇論が生まれた。ルネサンスにも近代工業の黎明れいめい期にも、人間はそれぞれの同時代論を書き、それを書くかたちで自分を文化的存在として完結させてきた。
 そういう観点から見たとき、二十世紀は旺盛おうせいな時代でもあり不毛な時代でもあった。この百年ほど人間が自意識を強め、同時代論に関心を深めた世紀も珍しいめずら  。シュペングラーからジョージ・オーウェル、リースマンからダニエル・ベルと、世紀の前半にも後半にも優れた現代論が続出した。しかし反面、二十世紀はこの自意識の鬼子おにごともいうべき思潮、内容的には正反対の二つの思潮が猛威もういをふるい、文化論の深化を妨げさまた てもいたからである。
 一つはもちろんマルクス史観であって、これは経済の立場から歴史の法則なるものを設け、その法則を尺度に文化を善悪二つに分類した。進歩的と反動的に二分された文化は、その本来の多様性を認められる道を失った。もう一つの弊害へいがいはこの一元主義とは逆に、たこつぼ的な専門化の思潮から襲っおそ てきた。人間の問題を考えるのに総合的な人間像を忘れ、学問の方法ごとに部分だけを見る努力が
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重ねられた。ここでは文化は本来の有機的な脈絡みゃくらくを失い、生きることの意味づけ、時代批評としての文化論も道を狭めせば られた。
 当然、人間の生きる姿勢、文化活動そのものも二つの方向に歪めゆが られた。生き方は一方で粗雑そざつな政治主義に傾きかたむ 、他方では視野の狭いせま 「専門ばか」に堕しだ た。芸術のような意識性の強い文化活動はとくに象徴しょうちょう的であって、「人民に奉仕ほうしする芸術」と「芸術のための芸術」が対立した。皮肉なことに両者は共通して党派的であって、後者もそれぞれのジャンルの方法論、その純粋じゅんすい性を守るために戦闘せんとう的になった。非マルクス的な芸術が「前衛」を自称じしょうし、この百年つねに方法論のうえで「進歩的」であったのは、最大の皮肉だろう。
 だがそれとは別に、この文化的な自意識を根本から覆しくつがえ 、政治主義も「専門ばか」も無差別に押し流すお なが ような力が、世紀の初めからひそかに用意されていた。従来あまり関連を指摘してきされていないが、商業主義と文化相対主義の暗黙あんもく連携れんけいである。ラジオや映画やテレビの繁栄はんえい、そして文化に無記名の人気投票を行う大衆の台頭が背後にあった。それは自意識と規範きはんの弱い文化の興隆こうりゅうであり、いわば文化論抜きぬ の文化の圧倒的あっとうてき普及ふきゅうであった。
 文化相対主義は前世紀の人類学に始まり、民族文化の価値を平等視する思想として誕生した。やがて、これになぞらえて階層文化を平等視する主張が現れ、ハイ、ポピュラー、サブといった文化区分を相対化する思想が広まった。論者の主観的な意図とは別に、これが商業主義の席巻を助けたことは確実だろう。漫画まんがと文学、ファッションと美術の区別なく、売れるものが文化を支配することになった。同時に、つねに現在を重視する市場原理の結果として、ベストセラーがロングセラーの存在を難しくしてしまった。
 これに止めを刺すさ かたちで、前世紀末に芽生えたのが「デファクト・スタンダード」を容認する気風である。理由もなく、意識することさえなく、流行したものは正しいとする風潮である。国家よりも市場が、文化運動よりグローバルな消費動向が優越ゆうえつするなかで、明らかに時代を批評する現代論の傑作けっさく乏しくとぼ  なった。しかし機械
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長文 10.2週 wapu2のつづき
仕様の事実上の標準はやむをえないとしても、本来、意識化の産物である文化がこのままでよいはずはない。党派性や階層差別は乗り越えの こ ながら、個々の文化活動、自分が生きる時代を批評する精神を復活しなければならない。それぞれの「私」が生きるなりふりの表現として、自己の文化的な規範きはんを論じなければならない。人間にデファクト・スタンダードがあるとすれば、動物的な本能か、文化以前の惰性だせい的な習慣のほかにはないからである。

山崎やまざき正和「二十一世紀の視点」より)
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a 長文 10.3週 wapu2
 世紀末の今日まで、私たちが追い求めてきた豊かさとは、何だったのか。それは一〇〇年以上におよぶ、近代化、西洋化、そして工業化の道程であった。この前の大戦までは、軍国主義と植民地主義の道も加わっていた。戦争に負けたあとは、会社中心主義や経済成長主義の延長線上に、豊かな暮らしを夢見てきた。
 欧米おうべいに負けまいという明治の指導者たちの夢は、実現した。経済大国になりたいという戦後の指導者たちの夢も、ほぼ達成された。
 にもかかわらず、私たちの暮らしが、豊かになったとはいえない。どうやら、見る夢を間違えまちが ていたようである。古い夢を捨てて、新しい夢を見なければならない。
 時代の転換期てんかんきにさしかかった今日、私たちが求める豊かな暮らしの課題は、「循環じゅんかん性の永続」、「多様性の展開」および「関係性の創出」である。これが二一世紀の新しい夢である。循環じゅんかんの定常的な流れがあり、多様な暮らしがあり、人びとの繋がりつな  が深まる社会を築くことである。
 それゆえ、世界でもっとも豊かになったはずの私たちの社会を、あらためてとらえ直す方法が必要だ。古い方法では、まわりのアジア諸国が、日本より遅れおく た、貧しい社会と決めていたが、それでよいだろうか。
 私たちの祖先は、いね栽培さいばい方法から死後の火葬かそうの仕方まで、朝鮮半島ちょうせんはんとう、中国文化けん、インド亜大陸あたいりくなどの人びとから、じつに多くの文物を学んできた。
 しかし、明治以降の日本人には、欧米おうべい文化というお手本のほうが大切になってしまった。ヨーロッパやアメリカに追いつき、追い越すお こ ことが何よりも大切だった。そして、日本がアジアの一部分であるにもかかわらず、アジアは経済援助えんじょや技術指導の対象にすぎない、と思い込んおも こ でしまった。本当にそうだろうか。長い「脱亜入欧だつあにゅうおう」の道程で、多くの日本人は、あたかもアジアが日本の外部であるかのごとくみなしてきた。
 一九六五年からほとんど毎年のように、日本以外のアジア諸地域で暮らしたり、調査旅行を重ねてきた私には、「脱亜入欧だつあにゅうおう」とは違っちが たかたちで、時代の転換てんかんが見えてくる。二一世紀に向けて私
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たちの暮らしを再建するためには、アジア民衆の経験から学ぶことが、何よりも重要だと思われる。
 こう書くと、「インドネシア人やネパール人の暮らしから、いったい何を学ぶことができるのか」という疑問の声が、読者から聞こえてきそうである。私たちが学ぶのは、金儲けかねもう のためではない。出世するためでもない。みずからの生き方、地域社会の作り方、国際関係の結び方など、豊かな暮らしを追求するうえで、アジアの同朋どうほうと手をつなぐために学ぶのである。豊かさを求めてともに生きる道は、お互い たが の自由を認めるところからはじめなければならない。国籍こくせきや性別などによる差別をなくし、平等を達成しなければならない。
 しかし、それだけでは十分とはいえない。お互い たが に、対等な人間として協力し、助けあう場を築くことが大切である。そのような場をともに築く作業は、困難に満ちている。にもかかわらず、この困難に取り組む以外に、私たちが豊かになる道は、残されていない。困難ではあるが、豊かな共生への道をいっしょに歩みたいものである。

(中村尚司「人びとのアジア―民際学の視座から―」より)
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a 長文 10.4週 wapu2
 生命が大事だとか、基本的人権は尊重すべきだとか、平和は守らなければならないとか、国は保持しなければならないとか、人類は進歩しなければならないといった様々な価値観を君たちは抱いいだ ているだろうが、君たちが当り前だと思っている価値判断自体が、すべてある種のイデオロギーであり、また思想でもある。けれども、君たちはそれが思想であることを意識していない。意識せずにまるでそういう価値観を自分の頭で考えだしたように思い込みおも こ 思い込んおも こ だ上で信じこんでいる、のだ。これは知的というには程遠い状態ではないか? これまでの思想の体系なり、その論点を知ることは、自分が抱いいだ てしまっている価値観を相対化するとともに、その価値観が成立している論理の仕組みや、その価値が本質的にめざしているのは何なのか、という事が理解できるだろう。
 いかにも当世風な論法ではあるけれど、このような具合に諭しさと てやる事はできるだろうし、それは現在の大学教育においても通用する理屈りくつではあり、多少とも明敏めいびんな学生はその意味を理解するだろうが、この答えを組み立ててみても自分として納得しきれない部分があるのもまた事実であった。敏いさと 者は敏いさと 者なりに理解するだろうが、それはそれだけの事ではないか。あるいは今私の展開したような観点から、思想を語る事、知る事に魅力みりょくを感じ、そうした営みをはじめる人間もいるかもしれない。けれどもそれははたして思想なのか。巧みたく 売り込まう こ れた、処方箋しょほうせんじみたものにすぎないのではないか。
 そのように考えたのはその二、三日前に、若い人から送られてきた本の冒頭ぼうとうのエピソードが気になっていたからである。その話は著作の内容とはあまり関係がないのだが、大学で文学の研究職にある筆者が、若い官僚かんりょうに遺伝子操作なりちょう伝導なりといった技術に進歩をもたらすのが「研究」ということであって、文学の「研究」をいくらしても、文学の進歩に貢献こうけんをしないのならばそれは「研究」という名に値しないのではないか、と酒場で絡まから れたというのである(『モダンの近似値』阿部あべ公彦きみひこ)。若い役人の発言もまた、反知的であるという点については、私のキャンパスの学生の発言と同様である。と同時に学生の発言の背景にあるものを、ある程
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鮮やかあざ  に見せてくれている。現在の学問なり「研究」なりといった行為こういが持っている姿、イメージ、あるいはより正確にいえばダイナミズムというか生態といったものから見て、思想なり文学なりといったものが、どのようなものに見えるのか、ということだ。特許の申請しんせい数や、論文の引用数、企業きぎょうや財団からの資金導入の高や内外の学会での発表回数が学問の率直な尺度となったのは、もう既にすで かなり前のことである。こうした趨勢すうせい自体は、無害であるとはいえないまでも、まだ選択せんたく的なものであり、「思想」であろうと、「文学研究」であろうと、かくある尺度の中で競争をしてもよいし、あるいはそこから遠く身を退きつつ孤塁こるいを守ることは、多少の困難はともなっても不可能ではなかった。
 遺伝子とか、ちょう伝導にかかわるようなことが研究ではないか、という小役人の言葉は、これまでの趨勢すうせい越えこ た変化を示唆しさしている。国立・私立を問わぬ大学改革の趨勢すうせいは、算定され得る成果を教員や大学院生により強く求めるようになっており、超然とちょうぜん している事の困難はいや増しているが、本当の厄介やっかいさはそんなところにはない。大学の教員でいたいものは算定できるような成果をあげるように勤めればよいし、いやならばやめればいいだけの話だ。より本質的な変化は、大学という領域を大きく越えこ たところから到来とうらいしている。
 成果は世に氾濫はんらんしている。「成果」というのは、学会の発表数とか、資金導入実績などといった専門家の枠内わくないでの牧歌的な指標とはまったく無縁むえんの、もっと具体的であり、現実的であり、日常的な世界における「成果」である。役人の云うい 遺伝子とか、ちょう伝導といった目に見える、新聞の見出しになるような「成果」が次々に現れている。現在は科学技術の飛躍ひやく期間にあるらしく、多種多様な成果が毎日飛び込んと こ でくる。厄介やっかいというのは、というより興味深いのは、この成果が日常生活に還元かんげんされる速度が加速されていることだ。雑多な開発なり何なりが瞬時しゅんじに製品として現れる、その登場
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長文 10.4週 wapu2のつづき
が例えば遺伝子操作食品の是非ぜひというような形で社会的な波紋はもんを呼ぶ。この潮流においてもっとも身近なものを挙げれば携帯けいたい電話やノート・パソコンといった情報機器になるだろう。こうした機器が、進歩していく速度、いろいろな機能なり何なりを備えていく速さと広さは尋常じんじょうなものではない。もう、これ以上の機能はいらないだろう、と息をつく間もなく、新奇しんきな機能が発明をされて、しかも浸透しんとうしていくのだ。私たちの生活自体が、この進歩というか製品開発と即応そくおうするような形で発展していっており、生活の展望も、人生の設計も、日々の活計も開発のもたらす変化とは無縁むえんではいられない。とするならばこの開発のリズム、あるいはテンポが私たちの生活のみならず、知識、認識の基本になっているのではないか。役人の言葉の底流には、常に自らを追い越しお こ つづけることを宿命づけられてきた科学技術のますます加速すると同時に顕在けんざい的になっていくその現れ方が、私たちの意識を決定し、その宿命にあらゆる認識が奉仕ほうしするように強制されると共に義務づけられている現実が運動しているのだろう。
 思想は、何になるのか、という問いは、この蠢動しゅんどうの上で発せられた。情報機器にしろ、遺伝子工学にしろ、科学的な開発、研究がめざましい成果を日々あげていると伝えられ、伝えられているだけでなく実際に製品の普及ふきゅうという形で進歩あるいは変化として知識なり認識なりを体験しているその現実の中では、思想は何ものでもないか、あるいは携帯けいたい電話と同様の機能を備えたものになるかのどちらかしかあるまい。

(福田和也かずや『イデオロギーズ』による)
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a 長文 11.1週 wapu2
 テレビゲームが伝統的なおもちゃと決定的に異なっている点とは、「遊び相手」として機能することである。宇宙人のいないインベーダー、追いかけてくる敵がいないパックマンは成立しない。一人プレイのゲームでも、敵キャラがいないゲームでさえ、ゲームである限り、プレイヤーの行動はルールに照らし合わせてチェックされている。直接的な「相手」がいない場合でも、コンピュータは審判しんぱんのような形で遊びをサポートしている。つまり、テレビゲームとは、遊びに必要な三つの要素、遊び道具と遊び場、そして遊び相手が、すべて一体となったものなのだ。
 既存きそんのおもちゃや道具の中にも、たとえばバッティングセンターのように、メカニカルな仕組みがヒトの代替だいたいとして「相手をしてくれる」ものがないことはないが、対戦プレイの相手、あるいはチームの味方として「ヒトのようなふるまい」をすることはない。また、テレビや本といった伝統的なマスメディアは、情報の伝達が一方向であるがゆえに、「相手をしてくれる」状態にはならない。電話のような双方向そうほうこうメディアは、常に実際のヒトを必要としてきた。つまり、おもちゃであれメディアであれ、ヒト以外の存在が「ヒトのようにふるまい、相手をする」現象はこれまでなかった。
 機械に組み込まく こ れたソフトウェアが「遊び相手」をすること、そしてソフトウェアであるがゆえに複製、大量生産が非常に簡単だったこと。これこそが、メディアとしてのテレビゲームのユニークさなのである。
 テレビゲームが既存きそんのメディアとどう異なるのか、別の角度から明らかにするために、既存きそんメディアの性質を比較ひかくしてみたい。それぞれのメディアを、実際のヒトの行為こうい置き換えお か てみると、どのような状態といえるのだろうか。
 テレビ番組や映画の多くは、目の前で「演じているヒト」をメディアに載るの 形式にして複製したものである。音楽CDやラジオは「演奏するヒト」のメディア化であり、本、ラジオ、テレビは「演説」のメディア化ということができる。これらはすべて、舞台ぶたいの上から一方向的に演じられる形式のものだ。
 テレビゲームはどうだろう。映像も音楽もテキストも含まふく れているため、「演じられる」部分もあるが、決定的な違いちが は、自分自身も舞台ぶたいに立っていることだ。演じるのも演奏するのもゲームをす
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るのも、英語ではすべて「プレイ」である。しかし、既存きそんメディアの場合、プレイするのは「かれ彼女かのじょたち」である。主語が「自分」になるのは、テレビゲームだけなのである。
 そして、ゲームをヒトに置き換えるお か  とすれば、やはり「遊び相手」のメディア化というのがふさわしい。その「相手」は、遊び場と遊び道具を用意し、遊び方を教えてくれ、あるときは頼もしいたの   同志、ときには極悪非道の「敵キャラ」にもなる、変幻へんげん自在の遊び相手なのである。しかも、こちらがスイッチを切らないかぎり、何時間でもつきあってくれる。
 これは、産業革命が「労働」に与えあた 影響えいきょうと同質のものといえるのではないだろうか。産業革命の本質は、前期においてはハイパワー化、後期においては規格品の大量生産(フォーディズム)だと思われるが、ゲーム世界において、何にでも変身できるパワーを持った「遊び相手」が大量生産されたことは、遊戯ゆうぎに革命を起こしたといっても過言ではない。
 ここで、マクルーハンのメディア概念がいねんが有効になる。テレビや映画、ラジオ、本といった既存きそんメディアは、受け手から考えたとき「眼と耳の拡張」である。視覚、聴覚ちょうかくの情報を時間と空間を超えこ て届けてくれる。産業革命が起こした変化は「手足の拡張」ということができる。石炭掘削くっさく機も自動車も、ヒトの手足をハイパワー化したものなのだ。そして、遊び相手のメディア化であるテレビゲームとは、「脳の拡張」といっても差し支えないだろう。もちろん、コンピュータ技術自体が、もともと「計算するヒト」の機械化であり、筋肉や骨ではなく、脳の拡張としての要素を持っていたのだが、それを最初に大衆化したのがテレビゲームであるという事実の重要性が揺らぐゆ  ものではない。

「テレビゲーム文化論」より)
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a 長文 11.2週 wapu2
 価値相対主義に基づく文化相対主義は、普遍ふへん主義が陥るおちい 自己中心性を掘りほ 崩しくず 特殊とくしゅな諸価値の併存へいそんを可能にする。現に二十世紀以来、積み重ねられてきたヨーロッパ近代の普遍ふへん主義からの脱却だっきゃくは、多元論的文化相対主義なくしてはありえなかった。ヨーロッパ近代の合理主義やその亜流ありゅうとも考えられるマルクス主義など、ヨーロッパ中心の普遍ふへん主義が次々と相対化されていったのが、二十世紀であった。
 例えば、シュペングラーやトインビーは、二十世紀初頭まで支配した一元論的なヨーロッパ中心史観を切り崩しき くず 、多元論的な相対史観を提出した。彼らかれ は、ヨーロッパ人の自己中心主義を批判して、ヨーロッパ文明の他の文明に対する絶対的優位を否定した。ヨーロッパ文明も、他の文明と相対的な位置にしかないことを明らかにしたのである。
 また、レヴィ=ストロースも、未開社会の研究を通して、その未開社会の文化が、その構造において、ヨーロッパの文化に劣るおと ものではないということを実証した。かれは、このことによって、ヨーロッパ文化の普遍ふへん性を打ち破り、ヨーロッパ文化も他の文化と同じ一つの文化にすぎないことを明らかにしたのである。
 このように、ヨーロッパ文明の絶対的優越ゆうえつやその自民族中心主義が批判され、あらゆる普遍ふへん主義の相対性が明らかになったことは、二十世紀の功績であった。二十一世紀があらゆる文化の相互そうご承認と共存の時代になるとすれば、それは、二十世紀以来の文化相対主義によるほかはないであろう。
 しかし、文化相対主義に落とし穴がないわけではない。文化相対主義では、普遍ふへん主義も、自己の所属する文化も相対化されるから、これが極端きょくたん化すると、何を拠り所よ どころとして生きていけばよいのか分からなくなる。文化相対主義は、多様な価値を認める多元主義に基づかねばならないのだが、これは、ややもすると、自己自身の所属する文化の価値への自信を失う方向へと傾きかたむ がちである。
 宗教にしても、言語にしても、慣習にしても、文化というものはそれぞれに型をもっている。その文化的風土に生まれ育った人間は、その型の中で自己自身のアイデンティティを形成する。そのこ
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とによって、人は、社会の不安定性や不確実性に耐えるた  精神的支柱をもつことができる。
 ところが、多くの文化が混在し、文化相対主義が蔓延まんえんするところでは、人々は、自分が拠り所よ どころとする文化の型や支柱を失い、自己喪失そうしつ陥りおちい 、不安な状態に投げ出される。価値の相対性を主張することは、それなりに正しいことであるが、しかし、それがあまりにも行き過ぎると、人々はバックボーンを失い、信念をもてなくなる。あらゆる文化が地理的風土を離れはな て地球上を飛び交う二十一世紀は、文化の混在からくるアイデンティティの喪失そうしつの時代になりかねない。
 この悪しき相対主義が行き過ぎると、人は極端きょくたんな価値相対主義に陥っおちい てしまう。それは、あらゆる価値体系は相対的であって、いかなる真理も疑われてしかるべきであり、不変の善や美など何一つ存在しないと考える。これは一種のニヒリズムである。本来は、閉じた共同体の中で、切り崩さき くず れることのない価値や信念の中で生きることが望ましいが、価値相対主義は、伝統的な道徳規範きはんをも蝕みむしば 、何が善であるかという信念をも切り崩しき くず てしまうのである。
 このような価値の無政府状態のもとでは、価値観がアトム化し、互いたが の間に共通性がなくなる。特に、若者は、価値の無政府状態のもとで、秩序ちつじょもなければ必然性もない気ままな生活をしながら、その日暮らしをしていく。(中略)
 なるほど、価値体系が時と所によって多様で相対的であるということは、古代ギリシアの昔から認識されていたことである。しかし、ニーチェの言うように、現代の文化は、確固とした神聖な原住地をもたず、あらゆる文化によってかろうじて生命をまっとうするよう運命づけられている。なるほど、ニーチェ自身相対主義を唱え、価値の破壊はかいを試みたのだが、しかし、同時に、かれは、確固とした価値を定立する必要も主張していたのである。

(小林道憲「不安な時代、そして文明の衰退すいたい」より)
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a 長文 11.3週 wapu2
 私の住む島はずれの村々では、十人家族のうち二人に職があればいいほうだ。仕事のない多くの若者たちは、海辺で日がな一日サーフィンをして過ごしている。
 日本もまたポリネシアのように、家族のだれにでも、村のだれにでも、役割があった社会だった。これが、だれもが社会に欠かせぬ一員であるという、強い共同体意識と通じている。日本人にとって、社会の構成員はすべて家族の一員である。
 日本は、資本主義のもたらした「ビジネス」に対しても、共同体意識で臨んできた。そもそもビジネスとは、他者との間に成り立つべきものだ。それを共同体意識の内で行おうとしたところに無理がある。しかし、義理人情で繋がっつな  た取引、終身雇用こよう制などによって、その無理を通してきた。
 もちろん資本主義の導入は、失業者をも生みだす。しかし失業者は、共同体意識の中では存在してはならない事象だ。日本人は巧妙こうみょうに、この問題を避けさ てきた。失業者は社会のはじ、家のはじ、として、家族がかくまい、扶養ふようしてきたのだ。
 個人主義、競争意識の上に成立している欧米おうべい社会は、これとは基を異にする。失業は個人の問題。社会は失業者を「怠け者なま もの」とか「生活不能者」とかとみなす。そうみなされることによって、欧米おうべいの失業者は、個人として、社会の一端いったんに位置することができる。しかし、日本の失業者は幽霊ゆうれいのような存在だ。いるけど、いてはならない。見えるけど、見えない存在だった。だが、経済不況ふきょう見舞わみま れた現在、この幽霊ゆうれいが実体化してきた。失業者をかくまってきた両親もまた職を失う危機にさらされているのだから致し方いた かたない。ここにきて、日本は、否応なしに失業者問題と対峙たいじすることになる。
 しかし日本人は、失業者に対して、おまえが悪い、とはいえない。むしろ社会が悪いのだ、と考えてしまう。そしてこの社会のどこが悪いのだ、と自らを見つめ直した時、私たちの共同体意識が、ビジネスとは相容れないことに気づかされるのだ。
 現代日本は、社会とビジネスとの対立という根本的問題を突きつけつ   られている。この対立は、日本にとって死に至る病である。日本社会の中にも、日本人の精神性の内にも、この問題に対す
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処方箋しょほうせんはないからだ。そして失業者問題は、この病を日本という肉体に急激に広がらせる原動力となるだろう。
 タヒチ島では空き巣が横行している。パペーテで働いて家に戻るもど と、家財一切、盗まぬす れていたとか、二週間の間に、三回も盗みぬす に入られ、金銭はもとより、冷蔵庫や戸棚とだなの食品ごっそり盗まぬす れたとか、被害ひがい届けは後を絶たない。失業状態の若者たちの不満は、サーフィンでは解消できなくなっている。失業者にとって、切実なのは金だ。土地はふんだんにあり、食物がたわわに実っている島であっても、金を求めての犯罪が横行する。
 家も食物も、金がないと手に入らない社会となってしまった日本においては、状況じょうきょうはさらに過酷かこくになるだろう。失業者の不満と怒りいか は、幾多いくたの犯罪を生み出すことだろう。しかし、世界は資本主義の波にすっかり呑みの 尽くさつ  れている。この流れに逆行して、古き良き共同体社会に戻るもど ことはできない。死に至る病を得た日本は、社会もビジネスもなし崩し  くず になっていくだろう。その時、私たちはどうしたらいいのか。個人で考えなくてはならない時代に入ってしまっているのだ。

(坂東砂子「『楽園』の失業」より)
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a 長文 11.4週 wapu2
 少子という言葉が出てくるのは、一九九二年の『平成四年版国民生活白書』(経済企画庁けいざいきかくちょう編)であり、「少子社会の到来とうらい、その影響えいきょうと対応」というタイトルがつけられている。以降、高齢こうれい化と対になる形で、「子ども数や出生率の継続けいぞく的な減少傾向けいこう」という意味で、少子化という言葉が使われるようになった。なお、本書でも、少子化を「生まれてくる子ども数が継続けいぞく的に減少する事態」という意味で使うことにする。
 十五年経った現在の時点でこの白書を読み返してみると、現在言われている少子化の問題点の多くがすでに記述されていることに驚きおどろ を禁じ得ない。当時はバブル経済の末期であり、日本社会の将来見通しに関しては、まだ楽観的なものが多かった。その中で、このまま少子化が進行すれば、経済成長の鈍化どんかから現役世代の負担の増大まで、様々な社会問題が将来起こるであろうことを、きちんと指摘してきしているのだ。
 その上、女性労働力の活用や子どもをもつ女性が働きやすい環境かんきょうを整えるなど、現在言われている少子化対策の多くがそこに記されている。
 (中略)
 現実には、事態はむしろ悪化していったのである。バブル経済ははじけ、平成不況ふきょうに加えて、経済のグローバル化、IT化が進展した。一九九〇年代後半には、雇用こようの規制緩和かんわが進み、金融きんゆう危機が起こり、そのしわよせが、団塊だんかいジュニア以下の若年層、つまり、結婚けっこん、出産年齢ねんれい層に押しつけお   られた。経済の構造変動そのものは、政府の直接的責任ではないにしろ、大量のフリーターや派遣はけん社員など非正規雇用こようが増え、正社員も収入が上がらず、結果的に若者の経済状況じょうきょうが悪化するのを放置した。
 子どもをもつ女性が働きやすい環境かんきょうが整う前に、若者がまともな収入を稼いかせ で生活できる仕事自体が失われてしまったのだ。
 (中略)
 私は本書の中で、日本社会の少子化の主因を、(1)「若年男性の収入の不安定化」と(2)「パラサイト・シングル現象」の合わ
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せ技(専門用語だと交互こうご作用ということになる)だと結論づける。パラサイト・シングルとは、「学卒後も親に基本的生活を依存いぞんする独身者」のことである。そして、現在、韓国かんこく台湾たいわんなど東アジア諸国で急速に進む少子化もこの主因で説明できると考えている。
 もちろん、いくつかの条件が付く。その中には、「男女共同参画がなかなか進まない(女性の社会進出が不十分)」というものも含まふく れる。また、副次的な要因として「男女交際が自由化された」ことがある。
 しかし、あくまで、主因は、(1)と(2)、それも、二つが揃っそろ てはじめて起こるものである。なぜなら、それぞれ単独で作用しても、少子化は起こらないと考えられるからである。
A 若年男性の収入が不安定化しても、パラサイト・シングル現象がなければ、少子化は起こらない。
B パラサイト・シングル現象はあっても、若年男性の経済見通しがよければ、少子化は起こらない。
 そして、副次的要因とした「男女交際の自由化」も、それが、少子化と結びつくためには、(1)と(2)の要因で作られた状況じょうきょうが必要なのである。
 (中略)
 豊かな親の元で育ち、「結婚けっこん生活や子育てに期待する生活水準」が上昇じょうしょうする一方、低成長経済への転換てんかんにより、若年男性の収入の大きな伸びの が期待できなくなる。その結果、晩婚ばんこん化、そして、未婚みこん化が開始される。一九七五年から始まる少子化のロジックは、実に明確である。データを見ると、この時期から、交際を始めてから結婚けっこんするまでの期間の延びが始まる。結婚けっこん相手が決まっていたとしても、新しい生活を始めるのに必要な「資金」が貯まるまで、一方が、もしくは両方が親と同居して待つという選択せんたくがとられ始めたと解釈かいしゃくできる。
 しかし、単に、知り合ってから結婚けっこんまでの期間が延びただけではない。若年男性の収入見通しに格差がつきはじめ、結婚けっこん難に直面する層が現れたのである。大卒で大企業きぎょう勤務の若年男性なら、年功序列カーブが多少緩んゆる だにしろ、終身雇用こようで、安定した収入が得られ
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長文 11.4週 wapu2のつづき
る見通しが高いだろう。しかし、先程述べた業績が伸びの ない中小企業きぎょうの労働者や零細れいさい農家や自営業の跡継ぎあとつ の男性は、収入の伸びの が期待できない。その結果、結婚けっこん相手として選ばれにくく、結婚けっこん遅れおく 、また、未婚みこん状態に留まるものが出てくる。
 (中略)
 結婚けっこんには、好きな人とコミュニケーションをするという要素と、共同生活をするという要素が含まふく れている。そして、一緒いっしょに生活するには、お金がかかる。つまり、結婚けっこんとは、好きな人とコミュニケーションを深めるということでもあるし、お金を稼いかせ で生活費に充てあ 、家事分担を行うという経済問題が発生することでもある。
 (中略)
 だから、男女交際が活発化すると、「経済的要因」が前面に出てくる。
 (中略)
 恋愛れんあいに関する意識が変化して、「好きでも結婚けっこんする必要がない」状況じょうきょうが出現したのだ。好きでも結婚けっこんする必要がないので、「結果的に」、結婚けっこんは経済問題となる。

(山田昌弘まさひろ『少子社会日本―もうひとつの格差のゆくえ』による)
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a 長文 12.1週 wapu2
 人種や民族、国民といった特殊とくしゅな同一性は、歴史的に不安定な同一性であることを、まず、確認しておこう。そして、自由な競争が世界の人々に富をもたらすという新自由主義の掲げるかか  バラ色の未来像と同じように、国民擁護ようごのために地球化に反対するべきだといった発想も、私は非現実的であると考えている。
 なぜなら、狭義きょうぎの地球化による貧富の差の拡大と階層化とを促進そくしんする新自由主義的な論理と、国民主義・人種主義は、同時進行しているからである。国民主義擁護ようごではない地球化批判の作業にとって、国民国家と地球化の共犯関係の歴史的考察が欠かせないのはこのためである。
 地球化の最近の進展は職業労働を再編し、習慣や感性の在り方を革命的に変更へんこうし、これまで用いられてきた国民統合のための制度や政策を時代遅れじだいおく にしてしまった。
 例えば、国民教育という制度。「均質な国民」を作るための教育という考え方。そして「均質な国民」すべてが身につけることを期待された「国民文化」という理念。国民教育の頂点としての大学の自己正当化の基盤きばんにあったこの理念は、世界の各地で失効しつつある。大学や教育の根本的な見直しが叫ばさけ れているのは日本だけではない。
 といって、社会における学歴の重要性が失われたわけではない。個人の社会・経済的上昇じょうしょう可能性を予測する上で、階級的出自、人種、性別などの因子に比べて、学歴の占めるし  位置がますます大きくなってきている。学歴社会化は世界的な趨勢すうせいになっており、地球化の顕著けんちょ特徴とくちょうである。そこで、自己責任と実力主義という新自由主義的な修辞によって、学歴社会化が正当化されようとしている。
 しかし、高学歴を持たない労働者の市場は縮小しつつあり、雇用こようの危機に絶えず脅かさおびや  れる低学歴層の人々が大量に社会的に分離ぶんりされマイノリティー(少数派)化する危険のまえで「国民」文化の欺瞞ぎまん性がありありと見えてきたのである。
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 かつて国民国家は、均質な国民が共有する「国民文化」という未来に向けた理念と、不平等と抗争こうそうという現在の現実を古代から連続する民族的同一性という過去の虚構きょこうにおいて総合することによって、人々から進歩への膨大ぼうだいなエネルギーを喚起かんきする強力な社会的装置であった。
 しかし、差別と格差を絶えず産み出す地球化は国民の内と外を問わず進行する。ところが国民という範疇はんちゅうは社会的経済的格差を「外」と「内」の違いちが 置き換えお か 、人々に不安を与えるあた  複雑な社会的現実に国民の「内」と「外」の比喩ひゆによる単純で安直な因果的説明を与えるあた  のだ。
 地球化による分断・階層化への最もシニカルな対処は、国民の統合を強調し、国民の団結を語ることによって錯綜さくそうした問題を「外」から「内」へと転位することだろう。国歌や国旗といった国民統合の古びた技術に回帰しようとする動きがあるのも、国民の団結によって地球化のもたらす諸問題が解決するはずだという、思い込みおも こ が広がっているからだろう。あたかも「日本人が一丸となれは」問題が解消してしまうかのように。
 地球化への実効性のある批判の第一歩は、人種や国民という同一性への依拠いきょが地球化への対抗たいこうになるという感傷的な期待を絶つことである。そして、人々の境遇きょうぐうの地球的、歴史的独自性をあくまで尊重しつつ、地球化によって逆境に追い込まお こ れた人々との連携れんけい倫理りんり的にまた知的に、地球的に模索もさくすることである。

酒井さかい直樹の新聞論説より)
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a 長文 12.2週 wapu2
 文化とはその国の人々の行動の規範きはんの統合であり、人々に共有され、伝承されている有形無形の民族的財産である。その文化が、さまざまな外的環境かんきょう影響えいきょうを受けて変化していくことを「文化の変容」とよんでいる。
 文化の変容に大きな影響えいきょう及ぼすおよ  のは情報であり、かつてその担い手は新聞・書籍しょせきなどによる活字メディアという知の力であった。
 活字を媒介ばいかいとした知のメディアは、文化の交流や互いたが の文化を理解する上で、大きな力となる。そのため他国の文化の影響えいきょうを受け、自国の文化が変容していく、いわゆる文化の受容のもっとも大きな要因もやはり活字メディアの力なのである。情報が活字化され、一旦いったん印刷物となるや、そこに盛られた知識の伝達力は他のメディアのどれにも増して強力であり、正確な記録と知識のデータベースとして蓄積ちくせきされていく。
 つまり、過去の知識べースを土台に、修正されたりさらに新しい知識が加わったりしながら積層構造をもった知のデータベースがつくりあげられ、その国の知力となり、文化をつくりあげる、いわば知的環境かんきょうのインフラとなる。
 もちろん、文化の受容や変容は知識ベースに限らず、食や嗜好しこう品、流行などの面でも行われる。イギリス人のティー・セレモニーやティー・パーティーの習慣は、一七世紀中国から陶磁器とうじきと合わせてもたらされた茶の文化によるものである。日本人が喫煙きつえんする習慣は、一六世紀ポルトガル人が九州に渡来とらいし、日本中に広まった。そのタバコも、西インド諸島の先住民やネイティブ・アメリカンからヨーロッパに伝えられ、世界中に喫煙きつえんの文化が広まったものである。
 また文明開化の明治期、鹿鳴館ろくめいかんで開かれた上流階級の舞踏ぶとう会の女性の夜会服は、バッスル・スタイルとよばれる、腰部ようぶまくら状の詰めつ 物を入れてしり膨らまふく  せたすその長いスカートで、当時ヨーロッパで流行していたビクトリア朝風のファッションであった。これ
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はまさしく、欧米おうべい化を急ぐ明治政府の政策的な直輸入型文化の受容であったといえよう。
 人々の日常の中でもっとも比重の高い生活文化は宗教であろう。キリスト教文化けんやイスラム教文化けんといわれるように、宗教観がもたらす日常生活に根ざした戒律かいりつ・タブーや生活習慣は、極めて堅固けんごであるがゆえに、より広範こうはんな地域で文化が保持される。しかしそれすらも、長い時間をかけ、その地域の民族性や社会的事情に合わせて徐々にじょじょ 変容していく。日本の文化はその好例であろう。
 多くの神や仏を受け入れ、冠婚葬祭かんこんそうさいでは敬虔けいけんな仏教や神道の信者に、クリスマスには、にわかクリスチャンに変化する現代日本人の気質の中にも、それは明らかである(もっとも結婚式けっこんしきのスタイルはウェディングドレスと着物の和洋折衷わようせっちゅうであり、和魂洋才わこんようさいの成果ともいえるのか)。これらの文化の受容と変容は、為政者いせいしゃの政策的な意図が働く場合はともかく、長い時間を要して行われるのが一般いっぱん的な現象であった。
 だが、手書きメディアの時代から活字メディアの時代に移行して以降、格段に文化の交流は早まった。そのスピードはラジオやテレビジョンの電気メディアの時代となると、等比級数的に早まり、さらに現代のIT時代のデジタル・メディアの時代では、国を超えこ た情報の即時そくじ通信や検索けんさくが可能となった。さらに個人のだれもが、国家のような巨大きょだい組織とも対等にインタラクティブな情報交換こうかんをすることが、いつでもできるようになったのである。
 つまり情報のグローバル化によって、地球全体が、インターネットというひとつのサイバー・スペースの情報ネットワークで結ばれ、均質化された情報が蔓延まんえんすることになる。このことは、いままでそれぞれの国や地域の長い歴史の中で醸成じょうせいされてきた伝統的な独自の文化が個性を失い、均質化された無国籍こくせき風の様式になる危険性も、同時に併せあわ もつことになる。
 地球上どこの国へ出かけていっても、コカ・コーラ     やハンバーガーがあり、同じようなTシャツとジーンズをはいた風体の若者がケ
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長文 12.2週 wapu2のつづき
ータイを手に街を闊歩かっぽする様は、もう現実のものとなっている。何とも淋しいさび  光景ではないか。
 このような社会状況じょうきょうでは、互いたが の情報環境かんきょうさえ整えば、異文化間の交流がそのときの互いたが の精神的受容の許容度に応じて容易に行われることは明らかだ。
 つまり、現代のIT化時代は、社会的な情報環境かんきょうというインフラストラクチャからみると、ほぼ完璧かんぺきに文化の受容と変容に関する条件が整いつつある。しかしながら、優れた文化の継承けいしょうと保護という観点から考えると、必ずしも手ばなしで歓迎かんげいできる事態ではないことは確かだ。また、他国の情報が即座そくざに入手できるようになったが、知識として受容できても、文化のレベルでは拒否きょひ反応を起こすという例はいくらでもある。

三井みつい秀樹ひでき「メディアと芸術」より)
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a 長文 12.3週 wapu2
 絵画と音楽とが二〇世紀にたどっていった道と数学の歩みとは、もしかすると重なり合うことがあるかもしれない。現代数学の抽象ちゅうしょう性をキュービズムや無調音楽となぞらえて捉えとら たくなっても不思議ではない面が確かにある。数学的対象のもつある側面を取り出して強調すること、とくにひとつの対象のもつ種々の側面を現代数学の立場から説明することは、ひとつの対象をさまざまな角度から見たものをひとつのカンバスに描くえが ピカソの絵とどこか似かよっている。また、例えば個々の関数のもつ性質を一切無視してヒルベルト空間の元と捉えるとら  ところにしても、無調音楽に通じる無機的なものを感じることができよう。さらに、長い長い抽象ちゅうしょう的な議論を経て結論へたどり着くことの多い現代数学の議論は非人間的だと思いたくなることもあるだろう。そうした意味で、絵画や音楽に現れた時代の影響えいきょうを見て取ることができる。
 しかしながら数学と音楽・絵画とは決定的に違うちが 側面がある。それは数学のもつ普遍ふへん性である。数学の定理はひとたび証明されれば万人共通の真理となる。このことが過ぎると、カントの哲学てつがくのように数学の真理に対する誤った信頼しんらいさえ生じる。われわれの住む空間はユークリッド幾何きか学の成立する空間であると頭から信じて哲学てつがく基礎きそとしたカントの強い影響えいきょう力のもとで、非ユークリッド幾何きか学をガウスは用心深く隠すかく 必要を感じていた。数学者の無理解だけを恐れおそ たのではなかったようである。われわれの住む空間の幾何きか学は物理の実験によって確かめることができるというリーマンの主張は、今日では当然のことと思われるが、当時は極めて勇気のいる主張でもあった。
 こうした数学に対する信頼しんらいは今世紀に入って数学が抽象ちゅうしょう的になるにつれてなくなっていった。たとえばユークリッド幾何きか学に対する感覚的信頼しんらいと類似の感覚的信頼しんらいを現代数学に対して持つためにはそれなりの訓練が必要となる。ユークリッド幾何きか学にしても複雑な定理は決して感覚的に自明なわけではなく、こみいった証明が必要になる。そうした意味では同じ面もあるが、基礎きそ的な部分では
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間違いまちが なく理論を感覚的に信頼しんらいすることができる。もっとも、古代ギリシャ人の偉大いだいなところは感覚的な信頼しんらいを論理的な信頼しんらいに高めたところにある。ユークリッドの『原論』が長い間、学問の記述の手本とされたのもこうした点にある。しかしながら、論理的な信頼しんらいだけで最初から最後まで議論を押し通すお とお ことはかなりの忍耐にんたいを必要とし、通常は感覚的な助けが必要となる。
 今世紀に導入された数学上の基本的概念がいねんを最初に学ぶ際に理解しづらいのは、簡単には感覚的に捉えるとら  ことが難しいことにも一因があるように思われる。訓練することによって一種の感覚が生まれてくるのであるが、そこに至る道には個人差が大きい。時として苦行を強いられるように感じられることもある。いずれにせよ、数学を美しいと感じることができなくては本当に数学が分かったという気にはなりにくいであろう。そこに至る道が困難な道であり、少数の人しか到達とうたつできないとすると、十二音技法の上手さに感心する作曲家や技術的な困難を克服こくふくして演奏するようになった演奏家と数学者とは近い存在ということになる。事実、パリティ非保存の法則の発見でノーベル賞を受賞した物理学者のヤンは、かれの学生であったミルズとともに創始したヤン―ミルズの理論が数学でのファイバー束の接続の理論と関係していると数学者に指摘してきされ、この数学理論を勉強したときの感想を「現代数学者の言語は、物理学者にとってはあまりに冷たく抽象ちゅうしょう的だ。」と記している。
 こうした感想は現代数学を勉強した多くの人たちが共有するものであろう。こうした無機的なものを現代数学がもっていることは確かである。それを克服こくふくする道は、現代数学の基本的考え方を日常の言葉で表現する努力から始めるしかあるまい。それがどんなに困難であっても、数学が再び大きく飛躍ひやくするためには、避けさ て通れない道である。幸いにも現代数学は大きな内部運動をひとまず終了しゅうりょうし、いま諸科学との交流のもとで新たな発展を見せつつある。二一世紀の数学が、数学の美しさ、楽しさを身近に感じさせてくれる学問へと深まっていくことを期待したい。

(上野健爾けんじだれが数学嫌いぎら にしたのか」)
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a 長文 12.4週 wapu2
 ある中学生は今の受験勉強をめぐって次のような作文を書いている。
 現在の勉強と将来の関係といっても、今の日本の現状でいうと、勉強して成績が良ければ一流といわれる高校に行き、そこでも成績が良ければ一流といわれる大学に行き、一流といわれる企業きぎょうに入ると決まっている。で、一流の企業きぎょうへ入れば一般にいっぱん その人は幸せとされる。本当かどうかは知らない。この状態がいいのか悪いのかもわからない。しかしそれに従うしかない。従わなければ生活できないからである。
 私の接する今の大学生もそうである。外部欲望説に立てば受験競争はより有名な学校に進学して大企業きぎょうに入社したいという安定した生活への功利的欲求に根ざしているということになる。しかし、それは読みが逆立ちしている。というのは、自分はファッション関係に進みたいなどといっている学生が、就職シーズンになると、せっかく一流の○○大学生だから、やはり××銀行のような手堅くてがた 伝統のある企業きぎょうに就職することにしようとするからである。(中略)
 しかし、日本の傾斜けいしゃ選抜せんばつシステムも近年その仕掛けしか の力が揺らいゆ  できている。細かな学校ランキングによって競争に巻き込まま こ れることが従来よりは少なくなり始めた。ノン・エリートたちがそのわなにやすやすと陥らおちい なくなったからである。従来であれば、偏差へんさ値五十といわれた者はなんとか頑張っがんば て五十五の高校や大学への進学をめざそうとした。しかし、今では、それよりも、五十のランクの間の学校の中で自分に合う学校を選ぼうとする傾向けいこうが出てきている。選択せんたくの基準が制服や学校所在地やキャンパスの好みではあっても、細かな学校ランクによって競争に巻き込まま こ れることが従来よりは少なくなり始めた。
 受験産業も試験突破とっぱの「傾向けいこうと対策」を伝授するだけではない。「学部・学科徹底てってい研究」「職業別学部選び」などを特集し始めている。偏差へんさ値や学校ランクだけではない大学選択せんたくの兆しを反映した記事である。微細びさいな「記号」(偏差へんさ値や学校ランク)に踊らおど される悟りさと 、「実質」(何を学び、何になるか)への回帰が始ま
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ったともいえる。ヴィジョンなきただの競争人間がこれからの人材ではないこと。自分の意見を持ち、何をしたいかのはっきりした人でなければ、これからの時代はマズイし、アブナイと人々が思い始めたからではないだろうか。
 かつてアメリカの社会学者デビッド・リースマンは『孤独こどくな群衆』(一九六四)で、社会的性格つまり時代の適応人間類型を第一次産業から第二次産業へ、第二次産業から第三次産業への産業構造の変化との対応で論じたことがある。農業社会においては、「伝統」を墨守ぼくしゅする人間像が、初期工業社会では、新しい社会状況じょうきょうに満ちているから、剛直ごうちょくで個性がある「内部志向」人間が、第三次産業を中心とした時代には、物質問題ではなく他人が重要になるから、他者の動向に敏感びんかんなレーダーを持った「他者志向型」人間が社会的性格=適応人間となる、と。
 リースマンがこのような類型を描いえが てから三十年以上たった。今やマルチメディア化などによって職場環境かんきょうや組織構造が大きく変わりつつある。それに伴っともな て適応人間類型も変容している。専門的技能を持たず、同じ企業きぎょうにずっと勤め、人あたりの良さを資本に生きていく時代に陰りかげ が見え始めている。ハイパー資本主義時代にはすべてにマイペースであっても、仕事にのめりこむような奇人きじんや変人も満更まんざら捨てたものではない? これからは明るい「おたく」の時代ではなかろうか、とさえ思う。近年の受験をめぐる意識変化の兆しは小さなものではあるが、社会の構造変動に対応した人々の無意識の人材観と相関しているだけにしたたかな変化が始まったとはいえる。「偉くえら なりたい」の時代や「競争のための競争」の時代を通過して「何をしたいか」の時代への変化がゆっくりではあるが確実に始まったように見える。
 その意味でこれからは新しい立身出世の時代の開幕となってほしいと思う。というと唐突とうとつに聞こえるかもしれない。少し説明をして結びとしたい。
 最近、私は授業の中で、「チップス先生さようなら」(監督かんとくハーバート・ロス、主演ピーター・オトウル)のビデオを学生に見せた。そのあと感想文を書かせた。チップス先生の少し意固地だが、誠実な人柄ひとがらに多くの学生が好感を持った。しかし、チップス先生が
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長文 12.4週 wapu2のつづき
校長になることにこだわり、校長任命時に一喜一憂いっきいちゆうする場面に当惑とうわくを覚えたという感想があった。なるほど、戦後日本においては出世主義は悪である。教師や官僚かんりょう、会社員になる若者に将来、校長になりたいか、官僚かんりょうのトップになりたいか、社長になりたいかと聞くと、「そんなこと考えていません」ととりあえず答えるのが戦後日本人の正しい回答である。しかし、このような社会はどこか病んではいないだろうか。教師になる人が、あるいは官僚かんりょうになる人、会社員になる人が将来自分だったらこうしてみたいという気持があれば、校長になりこんなことをやってみたいとか、次官になってこうしてみたい、社長になってこうしてみたいと考え、胸を張っていう若者がいるのは当然であろう。戦前もそうだったように、立身出世を単なる欲望としてだけで見るべきではない。栄耀栄華えいようえいがでも脱落だつらく恐怖きょうふでもない、構想力という希望を背景にした新しいアンビションの時代の開幕を願うものである。

(竹内洋『立身出世主義』)
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