a 長文 4.1週 ya
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 寺田さんは有名な物理学者であるが、その研究の特徴とくちょうは、日常身辺にありふれた事柄ことがら、具体的現実として我々の周囲に手近に見られるような事実の中に、本当に研究すべき問題を見出した点にあるという。(中略)
 周知の通り、林檎りんごが樹から落ちるのを不思議に感じて問題としたことが、近代物理学への重大貢献こうけんとなった。あたり前の現象として人々が不思議がらない事柄ことがらのうちに不思議を見出すのが、法則発見の第一歩なのである。寺田さんは最も日常的な事柄ことがらのうちに無限に多くの不思議を見出した。我々は寺田さんの随筆ずいひつを読むことにより寺田さんの目をもって身辺を見廻すみまわ ことができる。そのとき我々の世界は実に不思議に充ちみ た世界になる。
 夏の夕暮れ、ややほの暗くなるころに、月見草や烏瓜からすうりの花がはらはらと花びらを開くのは、我々の見なれていることである。しかしそれがいかに不思議な現象であるかは気づかないでいる。寺田さんはそれをはっきりと教えてくれる。あるいはとんびが空を舞いま ながらえさを探している。我々はそのとんびがどうしてえさを探し得るかを疑問としたことがない。寺田さんはそこにも問題の在り場所を教え、その解き方を暗示してくれる。そういう仕方で目の錯覚さっかく物忌みものい 嗜虐しぎゃく性、喫煙きつえん欲というような事柄ことがらへも連れて行かれれば、また地図や映画や文芸などの深い意味をも教えられる。
我々はそれほどの不思議、それほどの意味を持ったものに日常触れふ ていながら、それを全然感得しないでいたのである。寺田さんはこの色盲しきもう、この不感症ふかんしょう療治りょうじしてくれる。この療治りょうじを受けたものにとっては、日常身辺の世界が全然新しい光をもって輝きかがや 出すであろう。
 この寺田さんから次のような言葉を聞くと、まことにもっともに思われるのである。
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「西洋の学者の掘りほ 散らしたあと遙々はるばる遅ればせおく   に鉱石のかけらを捜しさが に行くのもいいが、我々のあし元にもれてゐる宝を忘れてはならないと思ふ。」
 寺田さんはその「我々のあし元にもれてゐる宝」を幾ついく 掘り出しほ だ てくれた人である。

 (和辻わつじ哲郎てつろう
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長文 4.1週 yaのつづき
 そうしてみると、価値の多様化と画一化とは決して矛盾むじゅんしたことではなくて、同じ現象の両面のように思えてくる。その根本にはやはり、普遍ふへん的価値の崩壊ほうかいがある。普遍ふへん的価値が崩壊ほうかいしたのは崩壊ほうかいしただけの歴史的理由がある。ある一つの普遍ふへん的価値を信じた人たちが、それと矛盾むじゅんし、対立する価値を信じている人たちを排撃はいげきし、差別して残虐ざんぎゃく行為こうい繰り返しく かえ てきたということがあって、ある日ふと気づいてみると、そんなことをしてまで守らなければならないほどの絶対性はどのような「普遍ふへん的」価値にもないことがわかってきたのである。
 そこで、普遍ふへん的価値というものは存在しないのだということになった。すべては相対的であって、どのような価値を信じていようが間違っまちが ているとは言えず、それぞれが勝手に信じていればいいのだということになった。
 そこから、価値の多様化ということが出てくるわけであるが、悲しいかな、人間は何らかの価値を信じ、それを自我の支えにしなくては生きてゆけず、しかも自分の信じる価値はできるかぎり多くの人びとに信じられているものであることを望むので、勝手にどのような価値を信じてもいいと言われても、それほど自由のはばはないのである。そして、普遍ふへん的価値は崩壊ほうかいしているわけだから、何らかの価値を信じていても、それが普遍ふへん的だと思って信じていたときのような自信はもてず、ひょっとしてとんでもないことを信じてしまっているのではないかとの疑いを拭いぬぐ 切れない。そこで、他の人たちが信じているように見える価値を、自分は確信をもてないままに、一応今のところ信じておくといったことになる。他の人たちが信じているように見える価値を自分も信じるという人が多くなれば、必然的に、価値は画一化されるわけである。
 したがって、価値が多様化されたと言っても、個人が選択せんたくできる価値のはばが広く豊かになり、無限に多様な生き方の可能性が開かれているということではなくて、ある価値を信じることによって個人が得ることができるものはむしろ貧しくなっており、また、価値が画一化されたと言っても、多くの人が一つの共通の価値を信じて連帯するということにはならなくて、つまり、同じ価値を信じていることが人と人とを結びつけるわけではなくて、ばらばらに同じ価値を信じているといった具合になっている。
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 わたしは現代を「嫉妬しっととはしゃぎの時代」だと言っているが、普遍ふへん的価値が崩壊ほうかいすると、そこに自我の安定した基盤きばんを見出せないので、人びとははしゃいで目立つ以外に自分の存在を確認する方法がなくなり、また、同じ理由で他の人のことが絶えず気になり、嫉妬しっと狂わくる ざるを得ない。
 この嫉妬しっととはしゃぎということと、価値の多様化または画一化とはつながっている。目立つためには、他と異なっていなければならず、人びとは多様な価値をそれぞれに表現し、「個性」を打ち出して目立とうとする。しかし、他方では価値は画一化されているので、優劣ゆうれつ、成否を計る一本の尺度しかなく、すべての人が同じ尺度のもとで序列をつけられ、劣位れついにおかれた者は同じ尺度の上で上昇じょうしょうしないかぎり、いつまでもれつ者である。これでは、同じ尺度の上で優位にある者に嫉妬しっとし、かれを引きずりおろしたくなるのは避けさ がたい。
 これらのことは現代の時代精神とでも言うべきことであろう。こういう傾向けいこうはあらゆる面に現れている。たとえば、若者が親の反対を押し切りお き 、苦難を乗り越えの こ てついに結ばれるといったいわゆる大恋愛れんあいをしなくなった。これは、恋愛れんあいの永遠性、唯一ゆいいつ性、絶対性といったことが信じられなくなった以上、ある者が、おれは大恋愛れんあいをしてやろうとがんばったところで、どうにもなるものではない。職業選択せんたくにおいても、一つのことに一生を賭けるか  ということをしなくなった。

(岸田しゅうの文章による)
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a 長文 4.2週 ya
 「ふしぎ」と言えば、「私」という人間がこの世に存在しているということほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。自分が意志したわけでもない。願ったわけでもない。ともかく気がつくとこの世に存在していた。おまけに、名前、性、国籍こくせき、貧富の程度、その他、人生において重要と思われることの大半は、勝手に決められている。こんな馬鹿ばかなことはないと憤慨ふんがいしてみても、まったく仕方がない。その「私」を受けいれ、「私」としての生涯しょうがい生き抜くい ぬ ことに全力をつくさねばならない。(中略)
 「私」のふしぎを忘れたたましいのことを忘れて生きている人に、その「ふしぎ」をわからせる点で、児童文学は特に優れていると思う。私が児童文学を好きなのは、このためである。確かに「大人」として生きるのも大変なことだ。お金をもうけねばならない。地位も獲得かくとくしなくてはならない。他人とスムーズにつき合わねばならない。それらは大変な労力を必要とするし成功したときには、やったという達成感もある。しかし「いったいそれがナンボのことよ」と「たましい」は言う。その声をよく聴くき 耳を子どもは持っている。あるいは「たましい」の現実を見る目は子どもの方が持っている。そのような子どもの澄んす だ五感で捉えとら た世界が、児童文学のなかに語られている。だから、児童文学は、子どもにも大人にも読んでほしいと思う。
 たましいというのは、直接にちゃんと定義するなどということはできない。しかし、それは、死んだときにあちらに持っていけるものだ、などと考えてみることもできる。「マッチ売りの少女」があちらに持っていったものと、地位や名誉めいよや財産を沢山たくさん持っている人が、あちらに持っていくものと比較ひかくしたらどうなるだろう。もちろん後者のような人は、立派な戒名かいみょうを手に入れることが、最近では可能になった。その人が死んで閻魔えんまの前に立ち、立派な戒名かいみょうを名乗るとして、閻魔えんまさんの家来のおにが「ふん、それがナンボのものよ」などと言っているところを想像してみるのも面白いことではある。
 たましいなどほんとうにあるのかないのか、実のところはわからない。しかし、それがあると思ってみると、急に途方とほうもなく恐ろしくおそ   なったり、面白くなったり、人生を何倍か豊かに味わうこ
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とができることは事実である。もちろん、よいことばかりではなく、下手をすると普通ふつうの人生を維持いじできなくなるという危険もあることは知っておかねばならない。
 人生における「ふしぎ」と、それを心のなかに収めていく物語とが、いかに人間を支えているかについて述べてきた。昔はそのことは部族や民族などの集団で、神話を共有することによってなされてきた。このことは現在もある程度まで事実である。すべての宗教はその基盤きばんとなる物語をもっている。
 しかし、現在のように個人主義が進んできて、その生き方をある程度肯定こうていするものにとっては、個人にふさわしい物語をもつ、あるいはつくり出す必要があると思われる。と言っても、だれもがそのような物語をつくり出す才能があるわけではない。
 そのために、そのときどき自分にとって必要な物語、あるいはそれに類似のものを他人のつくったもののなかから見つけ出すことをしなくてはならない。それは、ひょっとして古い神話のときもあろう。あるいは、現代作家の書いた児童文学かもわからない。ただそれは自分に完全にピッタリというのはないであろう。自分もこの世のなかで唯一ゆいいつ固有の存在と考える限り、そんなことはありえない。しかし、それと共に自分が人間としていかにその存在を他と共有し合っているかを思うと、多くの人に共通の重要な物語があることも了解りょうかいできるであろう。
 このようにして自分の人生を生きるとき、死ぬときにあたって、自分の生涯しょうがいそのものが世界のなかで他にはない唯一ゆいいつの「物語」であったこと、「私」という存在のふしぎがひとつの物語のなかに収められていることに気づくことであろう。自分の人生を豊かで、意味あるものとするために、われわれはいろいろな「ふしぎ」についての物語を知っておくことが役立つのではなかろうか。
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a 長文 4.3週 ya
 ラレルは、四つの仕事を同時に受け持つ、じつによく働く勤勉な助動詞である。もとより、これを助動詞とは認めず、接尾せつび語とする説(時枝ときえだ文法)もあるが、それはとにかく、助動詞ラレルの四つの仕事とはこうである。
 一、「せっかく買った週刊文春を盗らと れた」というふうに、他からの動作や働きを受けることを表す。つまり受け身を表す。
 二、「社長が週刊文春を手に入って来られた」というふうに、動作をする人に対する敬意を表す。つまり尊敬を表す。
 三、「週刊文春はおもしろく感じられる」というふうに、しようと思わなくても自然にそうなるということを表す。つまり自発を表す。
 四、「この図書館では週刊文春が見られます」というふうに、あることができるということを表す。つまり可能を表す。
 抜きぬ 言葉は、四番目の「可能」において頻繁ひんぱんに現れる。なぜだろうか。第一の理由は、先にも述べたように助動詞ラレルがすこぶる付きの働き者で、右の四つの仕事を一手に引き受けているからである。これを逆に、使う側のわたしたちから見ると、ラレルは使い分けが複雑で面倒くさいめんどう   助動詞だということになる。だったらラレルの負担を少し軽くしてやったらどんなものか。わたしたちは、心の底でこんなふうに考えている。もっと言えば、ラレルの使い分けは七面倒しちめんどうすぎるから少し整理して簡便にしようというわけだ。こういう性向を言語経済化の原理と称するしょう  口は希代の怠け者なま もの、なにかというとすぐ手抜きてぬ したがるのである。
 同時に、日本語にはもう一つ、複雑で面倒めんどうなものがあって、それが敬語である。しかもそれはただ複雑でめんどうなものであるだけではなく、使い方を誤ると、人間関係が壊れこわ てしまうなど、それはもう大変なことになる。そこで「見られる」「来られる」「起きられる」など、正規のラレルに敬語(尊敬)の表現を任せることにした。その一方で、とりわけ可能の表現をラレルから独立させ、つまりラ抜きぬ のレルにして、「見れる」「来れる」「起きれる」という具合に表現することにした。日本人がどこかで大集会を開いてそう談合したわけではないが、自然にそういうことになったのではないか。……と、まあ、こういうことなのだろうと思われる。さらに付け加えるなら、ラレルよりレルの方が発音しやすく簡潔でもあるので、よく使う可能表現をレルにしてしまったということもある
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かもしれない。いずれにしても、ら抜きぬ 言葉を認めるかどうかは、二十世紀日本語の重大問題の一つにはちがいない。というのもだいぶ以前からこの是非ぜひについては議論があったからである。『実は、この言い方は、松下大三郎さぶろうという、日本語を深く研究した文法学者の『標準日本文法』という本(一九二四年出版)にすでに注意されています。「起キレル」「受ケレル」「来レル」という言い方は、「平易な説話にのみ用い、厳粛げんしゅくな説話には用いない」とその本にあります。』(大野すすむ
 国語学者の神田寿美子すみこさんによれば、川端かわばた康成の『雪国』(一九三五年)にも「遊びにこれないわ」という例があり、一九四三年(昭和十八年)には「日本語」という雑誌に、『「られる」といふべきところを「れる」といふ人が相当多く、しかも知識人の書いたものにまでしばしばこのやうな用法が現れる。例へば、「駈けか られる」を「駈けか れる」、「綴じと られる」を「綴じと れる」』と書くのは遺憾いかんであるという記事がでているそうだ。このように、ら抜きぬ 言葉は、永く批判の的になりながらも、しかし次第に多く使われるようになってきたのである。たしかに、ら抜きぬ 言葉は手抜きてぬ である。しかしそれには理由があった。では、日本語によって生きている者の一人として、君は、ら抜きぬ 言葉を、そうなった理由を認めるのか。こう問われるならば、答えは否。言語というものはその本質においてうんと保守的なものである。そこで、そう簡単には言語多数決の原理だの言語経済化の原理だのを受け入れれない。いや、受け入れられないのである。
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a 長文 4.4週 ya
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 私たちはこれまで、木は時代遅れじだいおく の原始的な素材だと思っていた。だからそれに新しい技術を加え、工業材料のレベルに近づけることが進歩だと考えた。その結果、改良木材と呼ばれるものが次々に生み出された。それらは従来の木の欠点を補い、大量の需要じゅように応じ、生活を豊かにするのに大きく役立ってきた。たしかに木材工業は発展したのである。
 だが一方、最近になって、一つの疑問が持たれはじめてきたように思う。それは木というものは自然の形のまま使ったときが一番よくて、手を加えれば加えるほど本来のよさが失われていくのではないか、という反省である。考えてみるとそれは当たり前のことだったかもしれない。木は何千万年もの長い時間をかけて、自然の摂理せつりに合うように、少しずつ体質を変えながらできあがってきた生き物だったはずである。木は自然の子で、そのままが最良なのである。
 だから木を構成する細胞さいぼうの一つ一つは、寒いところでは寒さに耐えるた  ように、雨の多いところでは湿気しっけに強いように、微妙びみょうな仕組みにつくられている。あの小さな細胞さいぼうの中には、人間の知恵ちえのはるかに及ばおよ ない神秘がひそんでいるとみるべきであろう。それを剥いは だり切ったり、くっつけたりするだけで、改良されると考えたこと自体、近代科学への過信だったかもしれない。
 木を取り扱っと あつか てしみじみ感ずることは、木はどんな用途ようとにもそのまま使える優れた材料であるが、その優秀ゆうしゅう性を数量的に証明することは困難だということである。なぜなら、強さとか、保湿性ほしつせいとか、遮音しゃおん性とかいった、どの物理的性能をとりあげてみても、木はほかの材料に比べて、最下位ではないにしても、最上位にはならない。どれをとっても、中位の成績である。だから優秀ゆうしゅう性を証明しにくい、というわけである。
 だがそれは、抽出ちゅうしゅつした項目こうもくについて、一番上位のものを最優秀さいゆうしゅうだとみなす、項目こうもく別のタテ割り評価法によったからである。いま見方を変えて、ヨコ割りの総合的な評価法をとれば、木はどの項目こうもくでも上下に偏りかたよ のない優れた材料の一つということになる。木綿も絹も同様で、タテ割り評価法でみていくと最優秀さいゆうしゅうにはならない。しか
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し「ふうあい」(繊維せんいの手ざわりや見た感じ)まで含めふく 繊維せんいの総合性で判断すると、これらが優れた繊維せんいであることは、実は専門家のだれもがはだで知っていることである。総じて生物系の材料というものは、そういう性質をもつもののようである。
 以上に述べたことは、人間の評価のむずかしさにも通ずるものがあろう。二、三のタテ割りの試験科目の点数だけで判断することは、危険だという意味である。たしかに今の社会は、タテ割りのじくで切った上位の人たちが、指導的役割を占めし ている。だが実際に世の中を動かしているのは、各じくごとの成績は中位でも、バランスのとれた名もなき人たちではないか。頭のいい人はたしかに大事だが、バランスのとれた人もまた、社会構成上欠くことのできない要素である。だが今までの評価法では、そういう人たちのよさは浮かんう  でこない。思うに生物はきわめて複雑な構造をもつものだから、タテ割りだけで評価することには無理があるのであろう。

小原二郎こはらじろう
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長文 4.4週 yaのつづき
 話を元に戻そもど う。以上述べてきたように、海牛類とクジラ類では鼻の位置がかくの如くごと 違うちが のだが、クジラのように鼻が頭のてっぺんにある哺乳類ほにゅうるいはほかにはいない(おそらくほかの動物群「こう」でもそうなのかもしれない)。とすれば、(現生の)クジラの定義として、
(一) 哺乳類ほにゅうるいである。
(二) 一生を水の中で過ごす。
の二条件に加えて、
(三) 鼻のあなが頭頂「頭のてっぺん」に位置する。とすれば、クジラ以外にこれに該当がいとうする生き物はいないことになる。さらにいえば、(三)は非常に有力なキーであるから、(二)の「一生を水の中で過ごす」という定義がなくても、無事にクジラ類にまで検索けんさくが行き着くのである。(中略)
 クジラの体型をクラシックにまとめると、「紡錘形ぼうすいけいにしてひれ状の前肢ぜんしを持ち、後肢こうしを欠くが部末線に半月状の尾びれお  が付属する。また、背部後半に背びれを有するものもいる」とでもなる。クジラ類の体型は多かれ少なかれこの字句で包括ほうかつできてしまうのだが、一方、「ちょっと待てよ、こりゃ、何もクジラだけの特徴とくちょうでもねーんじゃねえーか?」という疑問がわきおこる。いや、じつにそうなのである。ここでまとめたクジラの体の基本的な特徴とくちょうは、まさに海の先輩せんぱいである魚類にもあてはまることなのである。
 著名な進化学者であるハウエルによれば、ホオジロザメ(魚類代表)、イクチオザウルス(通称つうしょうりゅう爬虫類はちゅうるい代表)そしてバンドウイルカ・ナガスクジラ(クジラ類・哺乳類ほにゅうるい代表)はいずれも、基本体型が大変似通っている。これらは、進化系統的にはまったく赤の他人のようなものだが、共通しているのは、いずれも生活けんがまったく水の中にあること、とりわけ一生を水の中で過ごすことである。つまり、このような生活環境かんきょうの故にこの体つきになったということである。この四者の比較ひかくは、学術的には系統的に異なる生物が同一の環境かんきょう下で過ごすことによって体型が似てくる(生物
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学的)収斂しゅうれん現象の例としてしばしば取り上げられる。
 この収斂しゅうれん現象は、自然科学的にも人文科学的にも広範こうはんに真理をついているように思える。環境かんきょうを条件に見立てれば、空を飛ぶためには鳥とコウモリさらに飛行機の収斂しゅうれんになり、さらに形を文化にたとえれば、上りたいという条件は、互いにたが  交流がなくても東西の階段の形や使い方が似てくるという例に置き換えお か られる。
 言い換えれい か  ば、収斂しゅうれんとは「互いにたが  独立して努力しても、合理性を追求してゆくと、結果が類似してくる」ということなのである。
 クジラ類が、一体いつごろ水界に入ったかは依然としていぜん   なぞが多い。従来、最古のクジラであるムカシクジラ類パキセタスの化石が現れるのがおよそ五〇〇〇万年前といわれていたが、近年発見されたアンプロケタスの化石は、これを上回る五二〇〇万年前の地層から見いだされている。いずれにしても、ため息の出るような悠久ゆうきゅうの時を経ていることには変わりがない。この間には、幾多いくたのクジラの種類が現れては消えていったはずであるが、クジラ類というグループとしてはひたすらたゆまぬ努力を重ねて地球上のあらゆる水界に進出する一方、地球が生んだ最も高等な哺乳類ほにゅうるいという生物の一族でありながら、自らの記憶きおくすらない遠い遠い祖先「海の大先輩せんぱい」である魚類を凌ぐしの ほどに体を変えて水になじんだのである。私が前段でこだわった「鼻の位置」も、もちろんこの一環いっかんにすぎない。
 クジラ類とは、哺乳類ほにゅうるいでありながら、本来の生活の場から水界に生息場所を移し、そこでの生残りを果たしただけでなく、なおかつ合理性を追求している生き物であり、このような「クジラ的な生き物」はやはりクジラしかいない。

加藤かとう秀弘ひでひろ編著『ニタリクジラの自然誌』による)
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a 長文 5.1週 ya
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 住空間をきれいにするには、できるだけ空間から物をなくすことが肝要かんようではないだろうか。ものを所有することが豊かであると、僕らぼく はいつの間にか考えるようになった。
 高度成長のころの三種の神器は、テレビ、冷蔵庫、洗濯せんたく機、その次は自動車とルームクーラーとカラーテレビ。戦後の飢餓きが状態を経た日本人は、いつしか、ものを率先して所有することで豊かさや充足じゅうそく感を噛み締めるか し  ようになっていたのかもしれない。しかし、考えてみると、快適さとは、溢れあふ かえるほどのものに囲まれていることではない。むしろ、ものを最小限に始末した方が快適なのである。何もないという簡潔さこそ、高い精神性や豊かなイマジネーションを育む温床おんしょうであると、日本人はその歴史を通して、達観したはずである。
 慈照寺じしょうじの同仁斎じんさいにしても、かつら離宮りきゅうにしても、空っぽだから清々しいのであって、ごちゃごちゃと雑貨やら用度品やらで溢れあふ ているとしたなら、目も当てられない。洗練を経た居住空間は、簡素にしつらえられ、実際にこの空間に居る時も、ものを少なくすっきりと用いていたはずである。用のないものは、どんなに立派でも蔵や納戸に収納し、実際に使うときだけ取り出してくる。それが、日本的な暮らしの作法であったはずだ。
 ものにはそのひとつひとつに生産の過程があり、マーケティングのプロセスがある。石油や鉄鉱石のような資源の採掘さいくつに始まる遠大なものづくりの端緒たんしょ遡っさかのぼ て、ものは計画され、修正され、実施じっしされて世にかたちをなしてくる。さらに広告やプロモーションが流通の後押しあとお を受けて、それらは人々の暮らしのそれぞれの場所にたどり着く。そこにどれほどのエネルギーが消費されることだろう。その大半が、なくてもいいような、雑駁ざっぱくとした物品であるとしたらどうだろうか。資源も、創造も、輸送も、電波も、チラシも、コマーシャルも、それらの大半が、暮らしに濁りにご 与えるあた  だけの結果しかもたらしていないとするならば、これほど虚しいむな  ことはない。
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 無駄むだな物を捨てて暮らしを簡潔にするということは、家具や調度、生活用具を味わうための背景をつくるということである。芸術作品でなくとも、あらゆる道具には相応の美しさがある。何の変哲へんてつもないグラスでも、しかるべき氷を入れてウイスキーを注げば、めくるめく琥珀こはく色がそこに現れる。しもの付いたグラスを優雅ゆうが紙敷かみしきの上にぴしりと置ける片付いたテーブルがひとつあれば、グラスは途端とたん魅力みりょくを増す。逆に、漆器しっきつややかな漆黒しっこくをたたえて、陰影いんえいを礼賛する準備ができていたとしても、ものが溢れあふ かえっているダイニングではその風情を味わうことは難しい。
 持つよりもなくすこと。そこに住まいのかたちを作り直していくヒントがある。何もないテーブルの上に箸置きはしお を配する。そこにはしがぴしりと決まったら、暮らしは既にすで 豊かなのである。
 (原研「持たないという豊かさ」より)
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長文 5.1週 yaのつづき
 島国言語の特色のひとつは、相手に対する思いやりが行き届いていることである。ヨーロッパの言語では、われとなんじ、自と他の対立関係において言語活動が考えられるが、島国言語の日本語ではそういう対立関係はあまり発達しない。そのかわり第一人称だいいちにんしょうにいろいろな形態ができている。「私ども」とか「手前ども」のように、第一人称だいいちにんしょうの単数か複数かはっきりしないような用法があり、それが何とも言えない味わいをもって受けとられる。
 ヨーロッパの言語や文法の考えになれた人たちから見ると、いかにも不明瞭ふめいりょうである。もうすこしはっきりさせた方がいいのではないか。どうして、日本語の主語が不安定なのであろう。そういう感想がもたれ、それがやがて日本語は論理的ではないのではないかという疑いに結びついて行く。
 日本語の人称にんしょうをあらわす語は、きわめて多様で、第一人称だいいちにんしょうなど五つ六つがすぐ頭に浮かんう  でくる。日常使っている第一人称だいいちにんしょうでも、二つや三つは使い分けている。相手との心理的距離きょり、関係にしっくり合うような人称にんしょう語を使うことが必要だという意識がつよいからであろう。対人関係の調整の感覚が発達しているのだとも言える。(ここまで、島国言語という表現を何のことわりもなしに用いてきたが、大陸言語にくらべて劣っおと ているといった含蓄がんちくはまったくない。島国、大陸は地理的条件を示すものであって、島国的な母国根性といったものと結びつく形容詞ではないつもりである。以上、念のため。)
 島国言語のもうひとつの特質は、話の通じがたいへんよいということである。ツーといえばカーとくる。お互いに たが  野暮な人間はいない、あるいは、いないはずだという前提に立っている。通人同士のコミュニケイションだということである。通人というと何か古くさい感じがするが、伝達理解に必要な情報をもっている人間はすべて通人である。したがって、われわれはだれでもある場面では通人としての言語活動をしているのである。その典型は家族間の会話である。省略の多い、要点のみをおさえた言葉のやりとりをしていて、お互い たが に理解し合っている。通人同士だからである。
 家族の会話というのは、どんな大陸言語の性格のつよい社会でも通人的、したがって島国言語的なものである。ただ、日本語は、普通ふつうは家族の間で行われるような言語活動の様式が親密な集団の範囲はんいをこえて広く認められるのである。
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 それでは島国言語がなぜ通人社会になるのか。家族の会話が第三者にはまるで判じもののようなやりとりをしておりながらなぜ意思の疎通そつうができるのか。そういうことが問題になるであろう。
 言語には冗語じょうご性というものがある。ひと口にいうと言葉の中に含まふく れる必要な蛇足だそくである。どんな言語でも必要にして充分じゅうぶんなことだけしか表現していないことはあり得ない。百が必要量だとすると、表現は百五十も百八十もの情報をもっている。だから、受け手はその中から百だけを理解すればよい。残りの部分は蛇足だそくであるが、これがないと相手の言っていることが中途ちゅうとでわからなくなったりする危険がある。(中略)
 このように、時と場合によって、蛇足だそくの部分をふやしたり、減らしたりということをほとんど無意識に行っている。相手の耳に達するまでにロスが多いと思えば冗語じょうご性を高めるし、確実に伝わる自信をもっているときには、低音で話したり、省略の多い表現をとったりして冗語じょうご性をすくなくする。冗語じょうご性のすくない典型的なケースがすでにのべた家族間の話である。
 日本語は島国言語である。島国言語というのは極端きょくたんな言い方をすると、家族同士の会話を社会全体でもやっているような言語のことで、当然、冗語じょうご性はすくなくてよい。島国言語の社会で冗語じょうご性がすこし普通ふつうより高くなると、すぐ、くどいとかうるさいとか理屈っぽいりくつ   、野暮というような消極的反応を誘発ゆうはつする。通人の社会である。大人はなるべく冗語じょうご性のすくない言葉を用いるように知らず知らず傾いかたむ ている。
 大陸言語の社会では冗語じょうご性をあまりすくなくすると、ごく親密な関係の人との間ならともかく、相手に誤解されたり、了解りょうかい不能を訴えうった られたりするから、ていねいな表現をしなくてはならない。ヨーロッパ語の中でもドイツ語がいちばん冗語じょうご性が高いということであるが、われわれがドイツ語を論理的で何となく理屈っぽいりくつ   と感じているのはこの冗語じょうご性の高さと無関係ではないように思われる。
外山滋比古とやましげひこ「日本語の論理」より)
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a 長文 5.2週 ya
 こればかりは自分で体験するしかないが、方法はないわけではない。
 第一には旅をすることだ。地球上にはまだ浪費ろうひ文明に侵さおか れず昔ながらの素朴そぼくな生活を営んでいるところがいくつもある。アジア、アフリカのいわゆる第三世界に行けばいまだそれがふつうの暮らし方だし、またアイルランドやメキシコやニュージーランドにたっぷりとそういう暮らしぶりが残っている。わたしはそういう土地に行き、その生き方になじむことで、自分の生きている日本の大都会の生がいかに反自然な人工的なものかを知った。と同時に彼らかれ のその生のほうがいかに人間らしく、自然と調和しているかを味わった。そのほうが効率的生産を求めてあわただしい日本の今の生活よりずっと上等な生だと痛感したのだった。
 そこで何より思い知らされたのは、人間は生きていく上でなんとわずかの物で足りるかということだった。われわれが生活の必需ひつじゅ品のごとく思いなしているさまざまな文明の利器などなくても人間は生きていけるのである。むしろそんなものなしに身を自然の中に置いたほうが、どれほど今自分が生きてあることをしみじみと感じるかもしれないのであった。
 オーストラリアの原住民、アボリジニの一人が東京に来たときビルの入り口の自動ドアに驚きおどろ 、「なんでこんなものが必要なのか。ドアなど手であければいいではないか」と言ったという。われわれはそういう思いがけぬ指摘してきでふだんの生活がいかにムダなもので占めし られているかを思い知らされるのである。
 第二に、それよりもっと簡単な方法は、日本文化の伝統の中からそういうシンプル・ライフを実践じっせんした人を探し、その生とわが身の現在とを比較ひかくしてみることだ。
 西行、鴨長明かものちょうめい兼好けんこう法師、池大雅いけのたいが芭蕉ばしょう良寛りょうかん、等々、探すにも及ばおよ ぬくらいそういう生き方をした人物がわが国にはあって、むしろ彼らかれ こそがこの国の文化をつくり出したと思われるほどだ。
 その中の一人、前述した良寛りょうかんをとってみれば、かれはおそろしいほど無一物の生を送った。草庵そうあんに住み、食は、乞食こじきにより、衣は着ている黒衣一つという極限の単純さに生きた。が、かれの詩や歌、書を見れば、この最も貧しい生を選んだこの人物の心のうちが
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いかにゆったりと満ち足り、生きている一日また一日を感謝の思いで生きていたかがわかる。それを見ると、かれは何ももたなかったにもかかわらずなぜこんなにゆたかな気持ちで生きられたのだろうと、ふしぎな気がするくらいである。
 草のあんに足さしのべて小山田の
 山田のかはづ聞くがたのしさ
 むらぎもの心楽しも春の日に
 鳥のむらがり遊ぶを見れば
 ともに、ただ鳥が遊びかえるが無心に鳴くのを聞くというだけの歌だが、単純に充実じゅうじつし、良寛りょうかんの心が自然に向かってひらけ、鳥やかえるの声がその心の世界にこの上ない幸福感を与えあた ていることがわかる。良寛りょうかん恐るべきおそ   単純な生活をしながら、心はこれだけ充実じゅうじつしていたのだ。これを見ると、これほど徹底てっていしてすべてを捨てたシンプル・ライフだったからこそ、これだけ自由でゆたかな心になれたのかと思われるほどである。
 ――人は生きるためにいったい何を必要とし、何を必要としないか。(中略)
 そういう根源的な疑問の前に自分を立たせてみるとき、自分たちがいかに文明の提供する便利や快適の誘惑ゆうわくによって余計なものを多くもたされているか、それら物の過剰かじょうによって生そのものを見えなくしているかを知らされるのである。少なくともわたしは良寛りょうかんやそういう生き方をした昔の日本人の生と自分の現在とをくらべることによって、初めて自分の置かれている立場を知ることができたのであった。
 その結果わたしはクルマの所有と維持いじを止め、テレビを見ず、クーラーのない、むろん携帯けいたい電話だのワープロだのと無縁むえんな、物質文明社会の中であたうかぎりその恩恵おんけい拒否きょひするひねくれ者の暮らしを営むに至ったが、それで満足しているのである。
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a 長文 5.3週 ya
 父が父でなくなっている。父が父の役割を果たしていない。家族を統合し、理念を掲げかか 、文化を伝え、社会のルールを教えるという父の役割が消えかけている。その結果、家族はバラバラになっていわゆる「ホテル家族」となり、善悪の感覚のない人間が成長し、全体的視点のない利己的な人間や無気力な人間が増えている。
 父としての役割は、立派な父でないと果たすことができない。立派でない父が家族を統合しようとし、理念を掲げかか ても、家族から無視されるだけである。立派な父が必要とされているのに、しかしその立派な父が育ちにくいのが現代社会である。そもそも「立派」などというものが流行らない世の中なのだ。自らの欲望をコントロールし、全体の将来を考えてリーダーシップをとり、各成員の調停をして取りまとめ、ルールを教えるという「立派な」人格は、尊敬の対象にはなりにくい。「正直」だの「誠実」だのという抽象ちゅうしょう的な徳目とくもくを唱える父親は、子どもたちから煙たがらけむ   れる。あまり立派でない、むしろだらしのないくらいの父親のほうが親しまれることになる。「ありのまま」がよいとされ、「立派」なのは無理していると見られ、不自然だとみなされる。
 父でなくなった父の典型が「友だちのような父親」である。彼らかれ は上下の関係を意識的に捨ててしまった。価値観を押しつけるお    ことは絶対にしない。子どもの自主性を重んじて決して強制はしない。何をするのも自由放任である。しかしそういう父親の子どもは「自由な意志」を持つようにはなるが、「よい意志」を持つようにはならない。精神力がなく無気力になりがちなので簡単に不登校になったり、逆にわがままになると「いじめ」に走ったりする。
 いじめっ子の出来方は、わがまま犬の出来方によく似ている。飼い主の言うことをきかないわがまま犬は、飼い主が自由放任でルールを教えなかったために生まれるのである。犬の意志を尊重して、犬の要求を何でもきいてやっていると、犬は自分が主人だと思って自由意思を持ち、勝手に要求をして、やたらと吠えるほ  ようになる。飼い主が父として原則・理念と生活規則を教え、一定の我慢がまんをすることを教えないと、子どもでも犬でも同じようにわがままに育ってしまうのである。
 「友だちのような父親」は、じつは父ではない。父とは子どもに文化を伝える者である。伝えるとはある意味では価値観を押しつけるお    ことである。自分が真に価値あると思った文化を教え込むこ のが父の最も大切な役割である。上下の関係があり、権威けんいを持
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っていて初めてそれができる。しかし対等の関係では、文化を伝えることも、生活規則、社会規範きはんを教えることもできない。「もの分かりのいい父親」は父の役割を果たすことのできなくなった父と言うべきである。

(林道義「父性の復権」より)
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a 長文 5.4週 ya
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 春になると、隣家りんかの庭のはく木蓮もくれん一斉いっせいに花を開く。その姿は薄闇うすやみの中で眺めるなが  のがいちばん美しい。しかし、いま書きたいのは隣家りんかの木ではない。身近な花の美しさによって呼び出されたような、もう一本の木のことである。
 ある日の午後、階下の西向きの窓からぼんやり外を見ていた。そのころまだわが家の西側に建物はなく、空き地ぞいの道を隔てへだ てかなり遠くまでの景色が楽しめた。ふと気がつくと、道の向こうの家の庭木の間から一本の白い樹木が立ち上がっている。いや、満身に白い花を飾っかざ たけ高い木が目に飛びこんできたのだ。その家の庭にある木ではない。更にさら 遠くに立っているものが庭木ごしに望まれたのだ。おそらく、木は以前からそこにあったのだろう。ただ純白の花をまとうまで、こちらが気づかなかっただけに違いちが ない。白木蓮はくもくれんにしては、たけが少し高すぎる。しかし辛夷こぶしにしては、あまりに花が大ぶりで木の全体を包みすぎている。家の者に尋ねたず ても、その木を見るのは初めてであり、どのあたりに生えているのか見当がつかぬという。まるで突然とつぜんに出現したかのような、白く燃える美しい木だった。
 次の日も、次の次の日も、木は同じように立っていた。というより、更にさら 白い輝きかがや をまして西の窓外に目を誘っさそ た。ついにたまらなくなって家を出た。駅とは反対の方角なので、平素はあまり足を運ばないあたりである。歩き出すとすぐに相手は見えなくなった。道からでは近くの家の庭木がじゃまをするからだ。はじめは駅へと向かい、次に右折を二度重ねてもう一本先の道へと曲ってみた。わが家からの見え方からすれば、その道の左右いずれかにあるはずだ。最初の日、とうとう発見することはできなかった。帰って西側の窓辺に立つと、木はくっきりと曇り空くも ぞらを背景にたたずんでいるのだった。
 翌日、二度目の探索たんさくにおもむいた。そして前日と同じ道の右側に、二階家のかべ隠れるかく  ようにして花を咲かせさ  ている大きな白木蓮はくもくれんを見つけ出した。そしてひどくがっかりした。近くにそれらしい木はないので間違いまちが ないと思われるのに、見る角度が異なるためか、相手は窓から眺めなが たときのような気高い美しさをたたえてはいなか
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った。こんなことならさがし出さなければよかった、といたく後悔こうかいした。
 それから間もなく、空き地に家が建てられて西向きの窓からの眺めなが 奪っうば た。遠い白木蓮はくもくれんはわが家の視界から失われた。その木はいま、ぼくの中だけに一年中白い花を咲かせさ  てひっそりと立っている。

黒井千次くろいせんじ「五十代の落書き」)
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長文 5.4週 yaのつづき
 じっさい、ほかの国の言葉で日本語ほど多様な水の表現をもっている例はないといってもいいのではあるまいか。だから、さきの蕪村ぶそんの句を外国語に翻訳ほんやくするのは至難なのである。たとえば英語やドイツ語やフランス語で「のたりのたり」をどのように表現したらいいのだろう。私はさんざん苦労したあげく、ついにこの句を外国の知人に説明し得なかった。
 「のたりのたり」だけではない。水についてのオノマトペは、そのほとんどが翻訳ほんやく不可能である。たとえば、文部省唱歌の「春の小川はさらさら流る」の「さらさら」は、どう訳したらいいのか。お伽 とぎ話『桃太郎ももたろう』で語られているあの「ドンブラコッコ、スッコッコ」を何と表現したらいいのか。野口雨情の童謡どうよう「ドンと波 ドンと来て ドンと帰る」をどんなふうにいいかえたらいいのか。
 水で布などを洗う音は「ざぶざぶ」であり、なみだが流れる様子は「さめざめ」であり、水気をふくんださまは「しっとり」であり、それが外ににじむほどであれば「じっとり」であり、湿気しっけが過度であれば「じめじめ」であり、水が絶えず流れ出る状態は「じゃーじゃー」であり、水が揺れ動くゆ うご 様相は「じゃぶじゃぶ」であり、水滴すいてきが垂れる音は「ぽたぽた」であり、水が跳ねるは  有様は「ぴちゃぴちゃ」であり、水にひどく濡れるぬ  形容は「びしょびしょ」であり、水に何かが軽そうに浮かんう  でいるのは「ぷかぷか」、水に沈むしず さまは、「ぶくぶく」、雨が降り出すのは「ぽつぽつ」、水中からあわ浮かびう  あがるのは「ぼこぼこ」、水を一気に飲み干すさまは「がぶがぶ」、水が何かに吸い込ます こ れる音は「ごぼごぼ」、そして、大波は「とどろ」に打ち寄せ、たきは「ごうごう」と落ち、石は水中に「どぶん」と沈みしず 、水は「ばちゃっ」と跳ねかえりは    、夕立は「ざーっ」と襲いおそ 、梅雨は「しとしと」と降りつづく。
 ああ、なんと多彩たさいな水の表現であろうか!
 だが、こうした多彩たさいなオノマトペは、同質社会でこそ微妙びみょうな伝達の機能を発揮できるが、異質な風土、異質な文化のなかに住む人にはさっぱり通じない。なぜなら、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごというのは、あくまで感覚的な言語であって、言語の重要な性格である抽象ちゅうしょう性を
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もたないからだ。
 したがって、感覚的にわかるこれらの言葉の意味を説明するとなると――とたんに行きづまってしまう。オノマトペは、いわば音楽なのであり、その意味をつたえることのむずかしさは音楽の与えるあた  イメージを言語で解説する困難さとおなじだといってよい。この意味で擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごは言葉の本質ともいうべき抽象ちゅうしょう力を欠く低次の言葉だといえなくもない。しかし、言語がその抽象ちゅうしょう力をもって伝達し得る領域には限界がある。人間の言語は、しょせん万能ではないのだ。
 もし言語がこの世界のすべてを表現しつくせるものなら、言葉さえあれば何もかも理解できてしまうだろう。しかし、そうはいかない。そうはいかないからこそ、言葉ではいいあらわせない別の表現を人間は考え出してきたのだ。たとえば絵画であり音楽である。セザンヌの絵を、あるいはモーツアルトの音楽を言葉にそっくり置きかえるなどということができるであろうか。私はオノマトペを言語と音楽との接点として考える。それは人間の感性を音声そのものによって表現しようとする伝達の手段だからだ。したがって、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごはきわめて微妙びみょうな感性を表現し得るかわりに抽象ちゅうしょう性を欠き、普遍ふへん性を犠牲ぎせいにせざるを得ない。オノマトペはあくまで限られた言語、内輪の言葉という宿命をもつのである。

(森本哲郎てつろう『日本語 表と裏』の文章による)
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a 長文 6.1週 ya
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 単調で荒涼こうりょう砂漠さばくの国には一神教が生まれると言った人があった。日本のような多彩たさいにして変幻へんげんきわまりなき自然をもつ国で八百万やおよろずの神々が生まれ崇拝すうはいされ続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響えいきょうで住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守ちんじゅもりを建てさせた。これも日本の特色である。
 仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有がんゆうするいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明かものちょうめい方丈ほうじょう記を引用するまでもなく地震じしんや風水の災禍さいか頻繁ひんぱんでしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶きおくとなって五臓六腑ごぞうろっぷしみ渡っ  わた ているからである。
 日本において科学の発達がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べきたったような自然観の特異性に連関しているのではないかと思われる。雨のない砂漠さばくの国では天文学は発達しやすいが多雨の国ではそれが妨げさまた られたということも考えられる。前にも述べたように自然の恵みめぐ 乏しいとぼ  代わりに自然の暴威ぼういのゆるやかな国では自然を制御せいぎょしようとする欲望が起こりやすいということも考えられる。全く予測し難い地震じしん台風に鞭打たむちう れつづけている日本人はそれら現象の原因を探究するよりも、それらの災害を軽減し回避かいひする具体的方策の研究にその知恵ちえ傾けかたむ たもののように思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析ぶんせき的科学の生まれるためにはあまりに多彩たさいであまりに無常であったかもしれないのである。
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 現在の意味での科学は存在しなかったとしても祖先から日本人の日常における自然との交渉こうしょうは今の科学の目から見ても非常に合理的なものであるという事は、たとえば日本人の衣食住について前条で例示したようなものである。その合理性を「発見」し「証明」する役目が将来の科学者に残された仕事の分野ではないかという気もするのである。
 ともかくも日本で分析ぶんせき科学が発達しなかったのはやはり環境かんきょうの支配によるものであって、日本人の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。その証拠しょうこには日本古来の知恵ちえを無視した科学が大はじをかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。

 「日本人の自然観」(寺田寅彦とらひこ
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長文 6.1週 yaのつづき
 ノンフィクションの書き手は、在るものを映そうとし、フィクションの書き手は、在らしめるために創ろうとする。
 たとえば、先にあげた「『事実』の呪縛じゅばく超えるこ  もの」という座談会の中で、小説家である加賀乙彦おとひこは、実在の人物をモデルにした小説『いかりのない船』を書くという体験に即しそく て、次のように語っている。
 『……最初に収集した事実を一応ふまえて、それほど逸脱いつだつしたことは書けないけれども、登場人物の心理とか家族の関係とか死んだ様子とかってのは、全部事実と違うちが 完全なフィクションになってきたんですね。その方が実在の来栖くるす良さんという青年の真実に近いのだろうということなんです。(中略)昔、アンドレ・ジイドが「フィクションの方が真実で、ノンフィクションは真実から遠ざかるだけだ」と言ってますけど、ぼくも同じような考えで、フィクションが多ければ多いほど真実に近づいていくっていう経験を今度しましたね』
 ここには、フィクションの書き手の、創るということの絶大な自信と、あえていえば傲りおご が、驚くおどろ ほど率直に表明されている。確かに創るということを認めるなら話は簡単だ。他人というものはついに、理解することはできないのではないか、という苛立ちいらだ からもけ出せ、事実のかく到達とうたつできないのではないかという絶望からも解き放たれる。自分の身の丈み たけに合った「真実」とやらにも接近できるだろう。しかし、想像力による事実の改変や細部の補強という方法は、記録というものには限界があるのではないかという問いへの答にはなりえない。記録、ここではノンフィクションだが、それは創らぬという約束の上に成り立っているジャンルの文章なのだ。それをスポーツにおけるルールと考えてもよい。サッカーが手を使わないことによってラグビーと異なる緊張きんちょう感を生み出すように、ノンフィクションも恣意しい的に想像力を行使しないということで『在らしめる』という闘いたたか 免除めんじょされ、『在る』ということによって支えられている力を付与ふよされているのだ。
 ここまできて、ようやくノンフィクションには限界があるのではないかという問いにまとわりついているきりがうっすらとだが晴れ
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ていくように感じられる。つまり、限界があるのは当然ではないか、という地点に辿りたど つくのである。そこに一定のルールがある以上、可能なことには限りがある。全能の文章のスタイルといったものを求めることが無理なのだ。とすれば、最も大事なことは、ノンフィクションには何が可能で何が不可能かの境界を見極めることのはずである。
 ノンフィクションのライターにできることは、事実の断片を収集することでしかない。加賀乙彦おとひこのいう「真実」とやらに到達とうたつすることは不可能であり、事実のかくといったものを掘り出すほ だ こともできない。だが、それでどうしていけないことがあろう。断片と断片のあいだはついに埋まらう  ない。わかることもあり、わからないこともある。それをそのまま提出してどうしていけないか。いや、むしろその方が、『在る』ものとしての事実の質感や大きさをくっきりと伝えることになるのではないか。事実の断片を断片として提出する。しかし、その断片の選び方、提出の仕方に、書き手の「人間」が混じり合ってしまわないか、という問いかけがあった。それに対しても、その通りと認めることでしか答は見つからない。「人間」の混入は不可避ふかひである。それはこの世に万人が認める唯一ゆいいつ無二の絶対的な事実があるのではなく、個人にとっての事実しかないという立場を承認することでもある。つまり、ノンフィクションとは、事実の断片による、事実に関するひとつの仮説にすぎないのだ。

沢木さわき耕太郎こうたろうの文章による)
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a 長文 6.2週 ya
 百年以上家具を使ったという例は別にめずらしくはない。イギリスだけではなく、中国でも日本でも代々その家に伝わる家具というものがあった。使い方さえ間違えまちが なければ、家具にとって百年というのは、むしろ短い時間と言える。またかなり荒っぽくあら   使ってもそう簡単には壊れこわ はしない。最悪の場合でも、無垢むくの天然木を使っていれば、ほんの少し修理したらまた使える。東京の新宿に「ダグ」という喫茶店きっさてんがあるが、その中に使われている家具は三百年以上も前のがかなりある。そして、毎日毎日、いろいろなタイプの人が使いつづけているのに、今でもまったく問題がない。それどころか、永年使いつづけた味わいはますます深まっている。
 それに比べたら、車や家電製品はほとんどのものが十年以内の寿命じゅみょうである。そして、十年も使いつづけた後は、ほとんどの場合鉄くずの価値しかない。ところが、オーク・ヴィレッジの家具は、ほぼ車一台の値で、家に必要不可欠なものがそろう。そして、十年たってもまず価値が下がるということがない。いや、良い家具はむしろ十年ぐらい使い込んつか こ だ方がよくなる。こうしてみると、無垢むくの天然木を使った質の高い家具を百年使うとなれば、それは車や家電製品より何倍も安く、かつ生活を快適にするのに効果があるということが納得できる。
 経済面から考えた効果は、実のところ「百年使う家具」のもっとも重要な要素ではない。無垢むくの木でできた質の高い、テーブルやデスクや書棚しょだなを生活の中に入れてみると、人間の意識が変わるのだ。薄っぺらうす   合板ごうばん無垢むくの天然木は存在感が違うちが そして、単に迫力はくりょくがあるだけでなく自然素材特有の温かさと柔らかやわ  さで、私たちを受け入れてくれる。だから、うまくその家具に付き合うのはむつかしいことではない。例えば、良いテーブルの上では、自然に毎日の食事をより大切に味わうようになる。私たちの眼の前にある食物となっている自然の恵みめぐ に素直に感謝しながら食べられるのも、無垢むくの木のテーブルだからこその効果だ。会社の会議でも、せせこましいことで腹立てている人に、なるべく百年の木目からのメッセージをとどけるようにしてみよう。本物の木を使い、本物の造り方をした家具は、本物の人間を育てるようになる。百年の木目は、いまだ未熟な私たちを、控え目ひか めだが確実にしっかり応援おうえんしてく
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れるはずだ。そして、木の家具と対話しながらの日々は、ほんの少しずつだが、私たちの意識を変えていってくれる。
 本物の木の家具と永く付き合おうと思うと必然的に二十一世紀が問題となる。「子供や後輩こうはいをどう育てるか」が結局「二十一世紀をどう育てるか」に結びつく。二十一世紀を担う人間たちの基礎きそをどう造るかはきわめて大切な問題であり、かつきわめてむつかしい問題である。現在のところ、日本の公教育は、未だ時代錯誤さくごの「工業化時代の生産様式」でもって、応用力のないひよわなマニュアル人間を造りつづけている。人類の大変動期にあって、こんなことでは先が思いやられる。また、身の周りが、安っぽい工業製品であふれていたためか、若者の興味が安っぽく薄っぺらうす   なものばかりに集中している。このままでは、世界全体が刹那せつな主義に走るか、安直なカルトに走るかになってしまう。
 そんな不安を超えよこ  うとした時、そう簡単に特効薬は見つからない。即効そっこう性の薬を求めること自体が、ミイラ取りのミイラ現象なのだから。そこではやはりすぐには効果がなくても、ジワリジワリとそれでいて心の底深くに一自然の声がしみとおっていくような方法がよい。私は、ここでも「百年使える百年の木目をもった家具」こそ、無言だが、もっとも説得力がある対話相手のように思える。「無垢むくの木の学習机を子供に買ったら、子供の生活態度が変わった。」という報告も、何度も受けている。若い素直な感性があれば、百年以上もある木目から、二十一世紀末までも見すえた遠大で深遠なメッセージを、きっと読みとれるはずだ。
 なにしろ木というものは、種から発芽して数百年から数千年生きる生命力を基本的にはそなえている。そういう基本的な生命力を人間が木や年輪から感じ取るだけでも意味あることだ。しかし、さらに重要なことは、木はその生命を持続していた間、すなわち自らの体を少しずつ大きくするという生産活動をしている間、まわりの環境かんきょうを良化することはあっても、悪化することは全くないということだ。これは人間を筆頭とする動物には、絶対に見られないことであり、この木の生き方こそ、二十一世紀という環境かんきょうの世紀のためにもぜひとも我々人間はまなぶべきだろう。
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a 長文 6.3週 ya
 「科学における発想と論理」という話になると、いつも昔やったハバチの研究のことを思い出す。もう三十年ほど前のことだが、マツノキハバチ(松の黄葉はち)というハバチに興味をもった。
 欧州おうしゅうの研究者によると、このハバチは年によって大発生したり、ごくわずかな個体数しか現れなかったりする。冬があまり寒くないと、冬眠とうみん休眠きゅうみん)している幼虫の多くが休眠きゅうみんからさめられず、親になれないままもう一年冬を越しこ てしまう。年々、休眠きゅうみん幼虫がたまっていき、たまたま冬が寒かった年にそれが全部まとまって親バチになって大発生するからだというのである。
 日本にも同じ種とされているマツノキハバチが、高山のハイマツ帯にいるという。そこで中央アルプスに登り、高度二千五百メートル付近に生えているハイマツにいる幼虫をつかまえて来て、大学の研究室で飼育を始めた。飼育温度は、普通ふつう昆虫こんちゅうの実験で常識的に用いられる摂氏せっし二十五度とした。幼虫たちはハイマツの葉をもりもり食べて、元気そうだった。
 ところがである。二日目には半分近くの幼虫が死に、三日目には大半が、四日目には生き残っているものはいなくなっていた。こうしてこの年の実験はあえなく終わりになった。
 その翌年、また挑戦ちょうせんした。二十五度は少し高すぎたかと思ったので、十六度の「区」も設定した。けれど結果は前年と同じだった。十六度区は全滅ぜんめつが一日延びただけだった。
 そこで死んだ幼虫をもって昆虫こんちゅう病理学の先生を訪れた。「病気ではありませんね。単なる生理死です」。単なる生理死!
 いったいどういうことだ? 三年目は、また殺すために虫を採りに行くのかとアルプスへ出かけるのは気が重かった。
 出発のとき、ふとある発想がひらめいた。大学前のバス停に学生を待たせて、研究室にとって返した。そして、旧式の自記温度計(そのころはそのタイプのものしかなかった)をぶら下げて、バス停に戻っもど た。
 「そんなもの、どうするのですか」と、学生がいぶかしげに尋ねるたず  「まあ、いずれわかるよ」。そう答えてアルプスに向かった。
 ふと思いついたのは、「飼育温度は一定ではなく、高温・低温と振れふ なくてはいけないのではないか」ということであった。高山で
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は昼間は日がさして暑いくらいだが、夜から明け方には猛烈もうれつに寒くなる。高山のハバチはそういうところにすんでいるのだから、激しい温度の振れふ 耐えた られるのみでなく、そのような振れふ を必要としているかもしれない、ということに気づいたのだ。
 山から帰って来て、早速、昼は二十五度、夜はただの五度という条件で飼育を始めた。予想は的中した。幼虫たちはすくすく育ち、ほとんど死ぬことなく、まゆをつくった。
 さて、この結果を学会で発表する段になると、ある配慮はいりょが必要になった。二十五度一定、あるいは十六度一定という条件では全部死にました。そこまではよい。「それで、ふと思いつきまして……」とは絶対に言えない。
 どうしたかというと、「そこでこの虫の生息している場所の気温を測定してみました」といって、自記温度計で記録したデータを見せる。そして、「これをシミュレートした温度条件を設定して飼育したところ、幼虫はみごとに成長して、成虫(親バチ)になりました。このハバチの幼虫の成長には、一日のうちに高温・低温が交代する温度周期が必要なように思われます」と結んだのである。
 こうして、ふと思いついた発想には一言も触れふ ず、データに基づいた「論理的」推理を展開する形をとることによって、この研究も私自身も、「科学的」な体面を保つことになった。
 これが、今までの科学と、科学教育の落とし穴である。幸いにして近ごろは、多くの人がこのことに気づき始めた。しかし、コンピューターによるデータの処理・解析かいせき普通ふつうとなった今、振り子ふ こはまた以前の状態に戻るもど 可能性がある。といって、発想法の処方せんなど存在するはずはない。今大切なのは、科学も技術も、普通ふつう思われているのとは異なって、ずっと人間的なものなのだということを、深刻に意識することである。
(日高敏隆としたか「日本経済新聞」より)
 
 シミュレート…実験と同じように再現すること。
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a 長文 6.4週 ya
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 日本の人里の、何もきわだって美しいといえない風景の中にも、最近とくに知られるようになり、若い人たちが訪れる場所ができ始めた。京都の嵯峨野さがのなどは、そうした場所の一つに数えられるだろう。また大和の山のの道も、だんだん人気が出てきたようである。だが、これらの場所は、実は、完全な自然の風景ではなく、背後にひかえている歴史の重みが加わって、その価値を高めているのだ。風景を考えるとき、これは非常に重大な点である。
 その地の歴史を知ることにより、平凡へいぼんな風景、ありふれた小山が、見る人びとをたちまち深い感興を催すもよお 。きっかけは、歴史だけではない。芭蕉ばしょうの俳句に詠まよ れたいくつかの風景は、その地に行って、ゆかりの風物を見る現代人の心に深い感慨かんがいを呼び起こす。風景は、見る人の心によって変わる。風景の価値は、その現在の実体と、過去を思う観賞者の心の交渉こうしょうのうちに成立する。
 風景の要素には、歴史が大きくかかわるだけではない。自然に対する知識が、なかなか大きく作用する場合がある。名もない花が咲いさ ているのをただ見るだけでなく、その花の名が全部わかり、そのあるものがその土地にあることの意外性といったことがわかり、その育ちぐあいの良さ悪さまでわかったら、興ざめになるどころかかえっていっそう印象が深まるというものだろう。向こうの丘陵きゅうりょうの雑木林の中に、若葉をつけたコブシの木の群れを見いだし、二か月前の花のころの光景を想像に描くえが のは悪い趣味しゅみではない。まわりで鳴く小鳥の声を聞いて、その鳥の種類がわかるのも楽しい。ツキヒホシポイポイと形容されるサンコウチュウの鳴き声を、珍しくめずら  も人里近くで聞いた時のうれしさは、風景のよさと必ずしも異えんではない。
 日本の風景で、今まで人がほとんど注意を払わはら なかったものに生けがきがある。農村の住宅は生けがきで囲った家が多い。農村の生けがき用の樹種は、都会の住宅地より単調な場合が多いが、そのかわり年を経た貫禄かんろくのあるものが少なくない。生けがきというものは、手入れのぐあいで、実にさまざまな態様をしていて、見る人の心を刺激しげきするものである。
 人の住んでいる風景と関係するものには、もっと人間くさいもの
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がたくさんある。向こうのあの松の下の家のおばあちゃんは梅干を漬けるつ  のが上手で、そのとなりの家の息子は野球選手で甲子園こうしえんに出場したことがあるなどと知っていたら、その興の深さはどうだろう。そんなことは、風景とは関係ないと言う人がいるかもしれないが、私は何か関係があるという意見である。
 日本の、人の住む風景には、心温まる潤いうるお と豊かさをそなえたものが、いたるところにある。それは、いろいろな自然・人文の知識に裏打ちされいっそうの興趣きょうしゅを盛り上げる。自分もそこに住み込んす こ で、朝夕その中に溶け込みと こ たいような風景……いや、それよりも「風土」といったほうが適切な場所が、まだまだ、日本にたくさん残っているのである。

中尾なかお佐助さすけ「私たちの風景」)
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長文 6.4週 yaのつづき
 民主主義を一度も体験したことのない社会や世代は、民主主義をとにもかくにも「素晴らしいもの」と考え、そうした立場に立ってそれを描きえが 讃えよたた  うとします。しかし、長い間にわたって民主主義を実践じっせんし、体験し、その実情を目にすることが増えてくると、こうした議論はなかなか人々の賛成を得られなくなります。いろいろと「訳の分からない」ことや、いい加減なことが数多くあることを否定できなくなるからです。多くの人々は、先程例にあげたような民主主義批判が、あながち見当外れとばかり言えないことをはだで感じています。問題はその先です。「それでは他にどんな方法があるのか」ということへの回答がなければ、議論は先に進まないからです。
 二十世紀は「民主主義の世紀」と呼ばれたように、人類は実にたくさんの政治上の実験を行ってきました。整然とした政治の実現のための仕組みや、本当の意味での「人民のための政治」を実現するための試みも行われました。ファシズムや共産主義はその代表例だったと言えます。しかし、民主主義に対するさまざまな批判は、確かに鋭くするど 説得的に見えたにもかかわらず、それに代えて実行に移した代案をみると、その結果は決して芳しいかんば  ものではなく、民主主義以上に惨憺さんたんたるものでした。そこで再び民主主義へと舞い戻るま もど ことになったのです。二十世紀後半以降の歴史は精神的にはこの舞い戻りま もど の歴史であり、民主主義は初恋はつこいの相手のように胸躍るおど ものではなかったにせよ、どこかにどうしても捨てがたいものがあったということでしょう。
 日本も相当長い間にわたって民主主義を実践じっせんしてきました。こうした体験を重ねてくれば、民主主義の「素晴らしさ」を説く議論があるかと思えば、他方ではそれを先のように「けなす」議論をしていい気分になっているという向きもあります。しかし、それもそろそろ卒業すべきでしょう。日本の民主主義はまさに、こうした段階の真っただ中にいるのです。つまり、そろそろその欠陥けっかんや「訳の分からなさ」を見据えみす ながら、それを具体的に改善する方法を探らなければなりません。民主主義の「素晴らしさ」を讃えるたた  議論とそれを「冷やかす」「けなす」議論とのやりとりは、いわば空中戦というべきものです。しかし、本当に必要なのは、地道に一歩一歩何をどう変えていくかという地上戦なのです。
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 ここでは「あれか、これか」式の空中戦ではなく、「より良く」が合言葉になります。人生の多くの局面において大事なことは、「より良く」を心がけ、実行することです。「あれか、これか」に比べると、「より良く」を探求することは派手ではなく、あまり魅力みりょくのないもののように見えるかもしれません。しかし、人間の社会や個人の人生において大事なことは、ちょっとの違いちが が大きな違いちが につながるということです。継続けいぞく的な努力が必要なのはそのためです。五十歩百歩だからといって馬鹿ばかにしてはなりません。何も、欠陥けっかんがあるのは民主主義だけではないのです。われわれ個々人も社会などの組織も、欠陥けっかんのないものはありません。それを継続けいぞく的な努力によって「より良く」していくことが大切なのであり、民主主義も例外ではないはずです。もちろん、人生や組織を「壊すこわ こと」が目的でないならばですが……。

佐々木ささきたけし『民主主義という不思議な仕組み』より)
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