a 長文 7.1週 yabi2
 交換こうかんの起源はおそらく再分配にある。たとえば人類学者の山極寿一じゅいちは、類人猿るいじんえんと人間との違いちが 狩猟しゅりょう採集したものを巣に持ち帰って再分配するか否かにあると言う。その場で食べたいという欲望を抑えおさ 、他者が獲得かくとくしたものと合わせて、それらを分配し直すことをするか否かにあるというのだ。会食は人間にとっていまもきわめて意味の濃いこ 行為こういだが、会食すなわち再分配ができるようになるには、他者の気持ち、他者の欲望を理解できなければならない。というより、他者になってしまわなければならないのである。
 現生人類の飛躍ひやくかぎはここにあるように思える。クロマニヨン人はネアンデルタール人をはるかに凌駕りょうがして、他者になることができたのだ。他者に、すなわち自分自身に。
 言うまでもなく、自分を意識するとは他人の目で自分を見るということである。他人の立場に立たなければ、自分というものはありえない。自分になることと他人になることとは、一つのことであって二つのことではない。逆に言えば、自我とは、自分というひとりの他者を引き受けることにほかならないのである。ただ人間だけが名づけられ、その名を自己として引き受けるのだ。この授受にすでに交換こうかん潜んひそ でいる。
 人間とは他人になった動物である。だからこそ、人間は自分が自分であるという事実に驚愕きょうがくし、恐怖きょうふさえ覚えるのである。これこそ、人間が装身具に血道を上げるほかなくなった理由なのだ。装身具とは、自分が自分であることの恐怖きょうふ耐えるた  方法にほかならなかったと言うべきだろう。自分とは一つの空虚くうきょであり、この空虚くうきょこそが、名への、装身具への、交換こうかんへの、所有への欲望をもたらしたものなのである。この空虚くうきょを、むろんたましいと呼んでもいいが、しかし同時に、経済行為こうい萌芽ほうがと呼んでもいいだろう。
 クロマニヨン人とともにシャーマニズムが登場する。シャーマニズムが他者になるための洗練された技術である以上、これはまさに必然というべきだろう。ここでエリアーデをはじめとするシャーマニズムをめぐる煩瑣はんさな議論を紹介しょうかいするわけにはいかないが、シャーマニズムによって、どのような他者にでもなれる人間というものの仕組みが、一つの制度として目に見えるものになったのであ
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る。要するに、人間は、くまにでも、鹿しかにでも、木にでも、岩にでもなれる存在なのだ。自分自身になれるとはそういうことだ。同じように、王にも皇帝こうていにもなれるし、国家そのもの、共同体そのものにもなれるのである。あるいは奴隷どれいにも、市民にも、国民にも、国際人にも、なれる。アイデンティティを問うという病がこうして発生した。あるいは、社会という病がこうして発生したのである。
 繰り返すく かえ が、シャーマニズムは決してオーリニャック期のクロマニヨン人にのみ見られるものではない。いま現在、いたるところに見られるというべきだろう。人はいまなお、化粧けしょうによって、衣裳いしょうによって、所有物によって、社会的地位によって、自己を確認する。テレビ・ショッピングでも、インターネットによるカタログ販売はんばいでもいい。そこで売買される商品は、「黒海から七〇〇キロメートルも離れはな た中央ロシア平原の遺跡いせきまで交易もうを通じて運ばれていた」化石琥珀こはくと、何ら変わるところはないのである。四万年前とまったく同じように、ここでもまたメディアが欲望を生んでいるのだ。そしてその欲望は、空虚くうきょとしての自己のあらわれにほかならない。

三浦みうら雅士まさし「考える身体」による)
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a 長文 7.2週 yabi2
 人生において目標が設定されると、脳はそれを達成するための情報処理のしくみをつくっていく。大脳は、内外からの二つの目標が設定されなくては働かない。その第一は、その人の生涯しょうがいにわたっての生きがい感である。この生きがい感を何にするかによって、その人の人となりが形成される。大脳は、生きがい感としての長期の内部目標を最上位の目標としてすえ、それに基づき外部の状況じょうきょうと時間変化に対応する。そこでは、脳の外部世界の状況じょうきょうに対応するための外部目標を必要とする。これが、第二の目標である。この外部目標は、外部の状況じょうきょうに応じて瞬時しゅんじ瞬時しゅんじに設定される。こうして人は、生きがい感としての内部目標を達成するために外部目標を設定して、今を生きる。
 大きな生きがい感を内部目標として設定した人は、その夢の実現になかなか至らないので、それだけ大きな困難や苦労を背負って生きる。この苦難は、時として一生涯しょうがいにわたるかもしれない。どのような状況じょうきょうにあっても、夢の実現に向けて挑戦ちょうせんし続けることができるためには、それが自己設定したものでなくてはならない。本当にこの目標が好きなのかが問われるのである。しかし、好きと思った目標に取り組んでも、その実現への道は険しい。この苦難のただ中にあっても、この夢の実現に取り組んでいることに意味を見いだし、輝いかがや て生きることができるかどうかが問われるのである。
 エベレストの頂上をめざす夢をもったとしても、そのための準備として多くのステップが必要である。夢を大きく設定し、それを自分の生涯しょうがいの中で実現したいと願うのなら、まず当面の目標を設定することで、自分を段階的に引き上げていくことが重要であろう。日常のすべての努力が夢の実現へのステップとして意味づけでき、その方向に向けて努力し続けるならば、時として後退することがあったとしても、結果として夢は達成されるだろう。それでも、気象条件などの外的状況じょうきょうの不運や自分の欠けているところが大きく引き出されることもあって、頂上を究めることができないかもしれない。しかし、このような悔しくくや  つらい状況じょうきょうにあっても、この困難に立ち向かい輝いかがや て生きることで周囲の人にその喜びが伝わり、その意志は必ず伝達されて後継こうけい者に引き継がひ つ れよう。
 人の生きがい感をどのように設定するかは、その人の歩んでき
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た人生と、そこから将来の人生をどのように設計するかに依存いぞんする。日常の平凡へいぼんさを最も大切な生きがい感として設定し、日々の状況じょうきょうの中で最善に生きることで至福感を得る人もいるだろう。自分で自分の人生のかじ取りをして、それを貫いつらぬ て生きることでその人が輝いかがや て生きる時、本人のみならず周囲をも知らず知らずに引き上げることができるのである。

(松本 元の文章による)
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a 長文 7.3週 yabi2
 アサガオの研究家のこんな話を読みました。
 アサガオは夜明けに咲きさ ます。私たちは、アサガオは、朝の光を受けて咲くさ のだと考えています。
 しかし、事実はそうでありません。アサガオのつぼみに二十四時間、光を当てておきます。そうして朝の光に当てる。しかし咲かさ なかった。
 では、どうしてアサガオは朝咲くさ のでしょうか。
 アサガオには朝の光に当たる前、夜の冷気とやみにさらされている時間があります。これが不可欠なのだそうです。
 この話は実に感動的で、示唆しさに富んでいます。私たちは、朝の光を受けて鮮やかあざ  に花開くアサガオに目を奪わうば れがちで、アサガオには朝の光と温度が必要なのだと考えてしまいます。
 アサガオが、夜の冷たさと深い暗闇くらやみに包まれる時間があって、はじめて咲くさ ことができるのだ、ということに気づかないし、忘れています。
 このことは一人ひとりの人生にも、歴史にも、なぞらえることができます。
 今、自分がここにいます。私たちを取り囲む環境かんきょうがあり、状況じょうきょうがあり、それらを押しお くるむ空気があります。それらが今という時代を形作っています。
 しかし、手で触れふ 、目で見ることができるここだけを考えていても、何もわからないでしょう。それは朝の光を受けているアサガオだけを見るようなものです。
 その前に冷たく暗い夜があってアサガオは朝の光の中で咲いさ ているのだ、ということがわかりません。そして、アサガオを咲かせるさ   ために常に光を当て、温度を与えるあた  ような過ちを犯してしまうことになります。
 私が忘れ去られたもの、埋もれうず  たもの、見失われたものに関心を向けるのは、このこととつながってきます。今の自分を自分たらしめているものがそこにあると思うからです。それに気づいたと
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き、私たちの生き方もより確かなものになっていくのではないでしょうか。

(出典 五木寛之ひろゆき・福永光司「混沌こんとんからの出発」)
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a 長文 7.4週 yabi2
 科学技術は、人間にとっての環境かんきょう世界を大きく変えてきました。人間単独では見えない世界、できない世界を、見える世界、可能な世界に変えてきたわけです。
 もともと人間は、好奇こうき心が非常に旺盛おうせいな生き物です。今まで感じることのできなかった環境かんきょう世界を感知することができるようになれば、それだけでも大きな満足です。さらに、行けないところに行けるようになる、持ち上げられなかった物が持ち上げられるようになる、作れなかった物も作れるようになる、もうこうなってくると、好奇こうき心というよりも欲望と言った方がいいかもしれませんが、それを実現することを、科学技術は可能にしてくれたのです。
 当然これは、人間にとってはおもしろいしありがたいことですから、どんどん先へと進みます。科学技術は、ある意味、夢をかなえてくれる道具だったのです。科学技術の歴史は、人間がその夢をかなえ、欲望を満たすための道具を開発してきた歴史だと言ってもいいでしょう。
 さて、問題は、科学技術の発展が累積るいせき的だということです。自転車ができて速く遠くへ移動できるようになったら、次は、より速く、より大量に移動できるように改良したり、新しい道具を開発したりします。今、到達とうたつしているところが、次への出発点になるのですね。だから、全自動洗濯せんたく機がはじめて届いて感動していても、しばらく経つとそれが標準の状態になってしまって、さらなる便利さを求めていくわけです。
 この累積るいせき性というのは、科学技術に限らず人間の文化現象すべてに共通の特徴とくちょうです。文学作品だって美術作品だって、今までには表現されていないテーマや技法を求めて、作家たちは苦労しています。過去が蓄積ちくせきされていて、そこから出発しているわけです。科学技術も累積るいせき的に発展してきたからこそ、これだけ膨大ぼうだいな知識を集めることができ、強大な道具を作ることができるようになったわけです。
 ところが、これが両刃りょうばつるぎでした。単独の科学的知見や技術的成果であれば、その影響えいきょう力は人間の想像力の範囲はんい内です。しかし、どんどん累積るいせき的に発展してくると、あまりにも規模が大きく、
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強力になりすぎて、人間の想像力の限界を超えこ てしまいます。そうすると、予期せぬ副作用が生じたりして、事故につながったり、あるいはアスベストのように気づかないうちに人間の健康を蝕んむしば だりする場合が出てきます。現在の科学技術には、このような側面があります。
 そうなると、今までは夢をかなえ、希望を実現してくれる存在だった科学技術が、生活や健康を脅かすおびや  ものとしてクローズアップされてきます。公害問題などがあったとはいえ、一九六〇年代、七〇年代までは、まだ科学技術はバラ色でした。それがじわじわと副作用が気になりだし、地球環境かんきょう問題が国際的に取り上げられるようになると、一気にネガティブなイメージが噴出ふんしゅつします。これには、科学技術が実際にネガティブに作用することが増えてきたという面もたしかにありますが、メリットの方に対する感動がインフレを起こして、ありがたみが薄れうす てしまったという部分もあるように思います。

佐倉さくら統・古田ゆかり『おはようからおやすみまでの科学』による)
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a 長文 8.1週 yabi2
 私たちのごく日常的な経験として、小さい子どもといっしょにいると、子どもの言うことばが非常に詩的に聞こえるという経験をおそらくだれしもが多かれ少なかれしたことがあるのではないでしょうか。たとえば、子どもがサイダーを初めて飲んで、その時の印象を、「水がのどにかみついたよ。」と表現している──私たちが聞くと、何かとても詩的な感じでおもしろい。あるいは、庭に落ちている木の葉が風に吹かふ れて舞っま ているとき、「木の葉が踊っおど ているよ。」とか、風が吹いふ てきて本のぺージがパラパラとめくれるのを見て、「風が本を読んでいるよ。」というような言い方をする。
 子どものことばが詩のことばに似てくることがあるということ──これはいったいどうしたわけなのでしょうか。おそらく、伝統的な説明の仕方ですと、子どもというのは純真ですから、そういう純真な気持ちがたくまずして出てくる、それがそのまま詩になるのである――そういう形で説明するのではないかと思います。これはもちろん、まちがった説明ではありません。しかし、ここでは、その問題を少し違っちが た方向から──つまりことばの面から考えてみたいのです。
 大人の場合ですと日常的な生活に関する限りは、経験の範囲はんいと、ことばでもって表せる範囲はんいがだいたい一致いっちしていると考えてよいでしょう。ところが子どもの場合は、その経験の範囲はんいを表せるだけのことばの力がまだ十分発達していない。その一方では子どもにとっては毎日が新しい経験の連続です。自分がすでに身につけていることばだけではとても新しい経験を十分に表現することができない。そうしますと、どうしてもことばのわくを破るということが起こるでしょう。子どものことばは常に何かきまった範囲はんい内だけにとどまっているのではなくて、そのわくを破って広がっていくという傾向けいこうを示すわけです。
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 これはちょうど詩人の場合と同じことになるのではないでしょうか。私たちが、日常的な経験を日常的なことばで表現しているのに対して「詩人」と呼ばれるような人たちは、日常的な経験を超えるこ  経験をもつでしょう。そして、それを表そうとすると、もはや日常のことばの使い方では不十分なはずです。そこで、どうしても、日常のことばのわく超えるこ  ということが必要になってくるでしょう。このように考えますと、、詩人の場合と子どもの場合はある意味で非常によく似た状況じょうきょうにあるということになります。
 実用的なことならば日常のことばで足りるわけですから、実用を超えこ たことば遣いづか をするということは、ある意味で「遊び」であるということになります。しかし、「遊び」というのは考えてみますと、私たちにとっては非常に必要なものでもあります。「遊び」を通じて私たちは日常生活の惰性だせい抜け出しぬ だ て、そこに活性をもたらそうとします。日本では古くから、「遊び」ということばは、しばしば芸術や美といった創造的なものと結びついてきました。たとえば、管弦かんげんを奏でるのも一つの「遊び」でした。そういった意味で、日常の中に埋没まいぼつしていない子どものことばは、創造面が非常に強く出てくる場であると考えることができるのです。

(池上嘉彦よしひこ「ふしぎなことば ことばのふしぎ」による。)
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a 長文 8.2週 yabi2
 私が小学校六年生の時だった。ある日のこと、それまで外側から眺めなが てだけいた隣家りんかに入ることができた。となりの大学生のお兄さんが遊びに来いと言って、私に家の中をくまなく案内してくれたのである。ところが、私がいつも自分の家の庭や縁側えんがわから仰ぎあお 見ていた二階のお兄さんの部屋の窓から、はじめて自分の家と庭を見下ろした時、私はその何とも言えぬ不思議な眺めなが に、思わず声を立てて笑ってしまったのである。
 私の目の前にある家が、どう見ても長い間住みなれた自分の家であることは疑いないのだが、それでいて、頭の中で私がこれこそ自分の家だと熟知している家とは、どこからどこまで違うちが のだ。頭では同じ家だと分かっていながら、目に見えている家は、まるでおとぎの国の家のように、はじめて見る新鮮しんせんさと、ぞくぞくするような未知の神秘に包まれている。この時の戸惑いとまど と興奮は、五十年近くたった今でも忘れられない。
 また、私には次のような苦い経験もある。小さい時から小鳥が大好きだった私は、ひまさえあれば山野に出かけ、鳥を眺めなが ては楽しんでいた。日本の小鳥ならば姿は言うまでもなく、そのさえずりを聞いただけでも、たちどころにそれが何鳥であるかを言い当てられる自信があった。いや、さえずりどころか、短い地鳴きですら何鳥のものか分かるとさえ思っていたのである。
 ところが、だいぶ前から日本でも鳥の声を録音することがはやり出し、やがて国内の鳥はおろか、外国産の鳥の声まで、NHKなどが放送するようにもなってきた。私はこのような放送をたびたび聞いているうちに、確信をもって何鳥かを言えないことが、ままあることに気づいたのである。それも、録音が不自然だとか音質が悪いためではないのだから、がっかりしてしまった。
 自分で野山に出かけた時は、長い経験と知識で、ある時期に日本のどの辺には、どのような鳥が見られるかが、私にはよく分かっている。そのため、鳥の声を聞いた場合に、私はこの総合的な知識を無意識のうちに動員して、いま鳴いた鳥が何であるかの可能性の範囲はんい絞るしぼ ことで、鳥の種類を決めていたらしい。
 ところが、他人がとった録音や、放送される鳥の声の場合には、その鳥が何であるかを割り出すのに必要な情報が得られないため、可能性の範囲はんい狭めるせば  ことができない。そこで、不意に、解説もなしに声だけを録音で聞かされると、本当はよく知っているはず
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の鳥の声でさえ、自分でもおかしいほど自信がなくなってしまうのだ。
 私が日本の山野で特定の鳥を声だけで認識できるということは、実はその声をめぐる多くの情報の脈絡みゃくらくの中で、対象を相対的に決定していたのであって、常に声そのものが唯一ゆいいつ無二の決定的な手がかりを含んふく でいたわけではないことを悟らさと されたのである。
 このような話で私が示したかったことは、私たち人間の事物や対象の理解や認識というものは、意外にもかなり一面的でかたよりのあるものだということである。自分の住んでいる家や自分の部屋でさえ、実は極めて限られた角度、視点からだけ私たちはそれを把握はあくしているのであって、決してすべての点を網羅もうら的にとらえて理解しているわけではない。
 私たちは、実際問題として、いろいろな生活上の習慣や、物理的な固定条件のゆえに、特定の事物や対象についての視点を簡単には変えられない。そこで、自分が見ていること、知っている側面だけが、あたかも対象そのものであると思い込むおも こ のである。ただ、何かの偶然ぐうぜんでこの習慣的な接し方がこわされる時に、はじめて私たちは自分たちの認識の持つ一面性に気がつくのだ。

鈴木すずき孝夫「ことばの社会学」から。一部省略がある)
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a 長文 8.3週 yabi2
に働けば角が立つ。情にさおさせば流される。意地を通せば窮屈きゅうくつだ。兎角とかくに人の世は住みにくい」これは夏目漱石そうせきの作品『草枕くさまくら』の冒頭ぼうとうの一部であるが、人の世のありさまが見事に説明されている。知に頼ったよ て論理を押し通そお とお うとすれば確かに角が立つし、感情のおもむくままに動けば目的地にはなかなか到達とうたつしない。どこまでも自分の考えを通そうとすれば、気づまりな雰囲気ふんいきになる。世の中は簡単にはいかないものだというのが実感である。
 漱石そうせきは、その後で、「人の世を作ったものは神でもなければおにでもない。矢張り向う三軒さんげん隣りとな にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越すこ 国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」と言っている。やはり人の世で住んでいく以外に選択せんたくの余地はないのだ。
 向こう三けん隣りとな にいる人たちは、考え方や行動様式もさまざまである。好感の持てる人もいれば、できるだけ顔を合わせたり話をしたりしたくない人もいる。いやな人がいるからといって別の場所に越しこ て行っても、やはり気に触るさわ 人の何人かは必ずいる。どこへ行っても大同小異だ。
 自分が全く抵抗ていこうを感じない人たちだけに囲まれて生きていこうと考えても不可能なことは、物心がつく年頃としごろから分かっているはずである。自分が勝手に生きていきたいからといって、全く人と付き合わないで一人で暮らしていくほどの勇気や強さもない。そうであれば不平を言ってみても始まらない。この世は住みにくいと考えて否定的に生きていくか、人生は山あり谷ありの変化に富んだ面白いものだと考えていくかによって、局面は大きく変わってくる。
 同じ人生を生きるのであれば、悲しく生きるより楽しく生きた方がよいに決まっている。人の世に興味を持ち積極的に取り組んでいけば必ず道は開ける。積極的といっても、がむしゃらに人を押しのけお   突き進むつ すす ことではない。すべてを肯定こうてい的に考える努力をするという意味だ。肯定こうてい的に考える姿勢から余裕よゆうが生まれ、人の
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ことも考えられるようになる。
 大所高所から見れば、人間はお互いに たが  力を合わせて助け合っていく以外に平和に生きていく道はない点はだれの目にも明らかである。この簡単な道理を常に忘れないで、毎日の生活の場やビジネスの場にフレキシブルな態度で臨む必要がある。竹のように強くしなやかでありたい。
 人間同士で上手に生きていくコツは、角が立たないようにに働き、流されないように情にさおさし、窮屈きゅうくつにならないように意地を通していくバランス感覚にある。

山崎やまざき武也たけや「一流の人間学」より)
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a 長文 8.4週 yabi2
 「楽」という漢字には大きくいってふたつの意味がある。ひとつは楽しいとか快楽とかの「楽」。もうひとつは便利とか簡単を意味する「楽」。「楽しいこと」と「楽なこと」。
 このふたつを混同し、まるで同じことを意味しているかのように思いこむのは危険なことだ。少し考えればわかるように、楽なことが楽しいとは限らない。便利で楽なことがかえってぼくたちの楽しさをうばってしまうこともある。そして、楽しいことが、難しかったり、複雑だったり、面倒めんどうだったり、時間がかかったりすることはよくある。そればかりか、難しくて、複雑で、面倒めんどうで、時間がかかるからこそ、楽しい、ということも珍しくめずら  ない。
 だから、ぼくたちはやっぱり、「楽しいこと」を「楽なこと」から区別しておいたほうがいい。ファストな「楽」を手に入れるために、スローな楽しさや気持ちよさを犠牲ぎせいにしないようにしよう。そう考えるのがアウトドアという遊びだ。それは、楽で便利なことのかわりに不便で時間のかかるスローな楽しさをぼくたちに与えあた てくれる。
 アニメ映画の宮崎みやざき駿はやお監督かんとくがどこかで言っていたことを思い出す。元気のない今の幼い子どもたちに元気を出してもらうためには、まず保育園や幼稚園ようちえんの庭をデコボコにするのがいい、と。実際にそうした保育園があって、子どもが確かに生き生きと元気にかけ回っているという。しかしどうやらこれは幼い子どもばかりの問題ではなさそうだ。つまり、ぼくたちが生きる人工の世界は、どこもかしこもまっ平らで、ぼくたちはみんなデコボコという楽しさをとりあげられてしまったのではないだろうか。
 デコボコはたしかに不便だし、効率的ではない。便利さと効率性ばかりを追い求める経済中心の社会は、デコボコが好きではない。でもデコボコこそ自然界の特徴とくちょうだといえる。日本は、二十五倍もの広さをもつアメリカよりも多くのコンクリートを使って、世界一のペースで自然のデコボコを人工的で平らな平面に変えてきた国だ。単に一部の人々の経済的な利益のためというだけでは説明できない「反デコボコ」や「反自然」の力が社会全体に強く働いていたとしかぼくには思えない。もちろん、それは一方で経済成長の原動力となったわけだが、もう一方では、いたるところで自然環境かんきょうと地域の文化を破壊はかいして、楽しくない世の中をつくることにもなった。
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 そんな世の中にあって、アウトドアの遊びをとおして、ぼくたちは自然界のデコボコを――そしてデコボコの世界だけがもつ楽しさを――近代的な暮らしの中に呼び戻そよ もど うとしているのではないだろうか。アウトドアを楽しむときの大人たちは、「ままごと」をしている幼い子供たちにそっくりだ。たき火を囲んでは、まるで、自分たちも知らない遠い昔の人々の暮らしをなつかしむかのようでもある。またそれはすっかりよそよそしくなってしまった自然界との仲なおりのための儀式ぎしき。人間の世界だけではなく、自然界を含めふく た広い世界の一員としての自分の場所を再発見しようとしているようでもある。
 アウトドアという遊びに参加するきみは、日常の生活の中に流れる時間とはずいぶんちがう時間の中に入りこむ。食事のしたくをするときの時間、たき火を囲む時間、釣り糸つ いとの先の浮きう を見つめる時間、カヤックで水をすべる時間。山の尾根おね道を歩く時間、テントの中の時間、星空をあおぎ見る時間。一見、静かで地味なそれらの時間のそれぞれが、きみの「たましい」を揺さぶるゆ   
 しかもアウトドアは屋外にだけとどまるものではない。きみはあのアウトドアのデコボコの世界の断片や、楽しく美しく安らかな時間の余韻よいんを屋外から自分の家へともち帰るだろう。そしてそれらは、日常の中にまぎれこむ。あのデコボコな空間やスローな時間が流れ込んなが こ だきみの毎日の生活はもう、以前とは同じものではない。忙しいそが さやあわただしさの中に戻っもど ても、きみはもう以前とはちがうきみ。きみはたしかに前より生き生きと輝いかがや ているだろう。

つじ 信一「『ゆっくり』でいいんだよ」より)
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a 長文 9.1週 yabi2
 人間には、人それぞれの基本的な行動のパターンのようなものがあるようだ。たとえば、何か新しい場面に出合うと、はしゃいでしまって、ついしなくてもよいようなことまでやってしまうとか、逆に、どうしてもひっこみ思案になってしまうとか。しかし、このようなことに気がつくと、あんがいそれは変えられるもので、他人にもあまり気づかれないくらいにはなる。
 だが、自分もだいぶ変わったかな、などと思っていても、いざという場面──緊急きんきゅうのときとか思いがけないことが生じたとき──になると、知らぬ間に以前の型にかえってしまう、ということはよくある。それは突発とっぱつ的に起こり、自分でも気がつかないときさえあるが、傍らかたわ で見ている人には明瞭めいりょうに見えるものだ。このような人間の行動の「回帰現象」とでも言えるようなことがあるのを知っておくと、便利であると思われる。
 個人の行動の型だけでなく、ある程度は文化的な型もあると思われるが、ここでも同様のことが生じる。たとえば、日本人だと、すぐには自己主張をせずに、全体との関連を考えたり雰囲気ふんいきに合わせたりしながら、ゆっくりと間接的に自分の考えを表明してゆくが、欧米おうべいでは自分の意見を最初から明確に表現することが期待される。あるいは、日常的な例をあげると、贈り物おく ものをするときでも、日本人は「お気に入らないかと心配しています」というような表現をするが、欧米おうべいだと「お気に入っていただくと嬉しいうれ  です」という表現になる。
 こんなことがわかってくると、私などは欧米おうべいに行くと、必要に応じて『スイッチ』の切り替えき か をして、ある程度は欧米おうべい式でやってゆくようにしている。しかし、むしろ大切なときとか何か圧力を感じるときなど、知らぬ間にスイッチが切り替わっき か  て「回帰現象」を起こしているのに気づき愕然がくぜんとすることがある。このようなことは、相当ベテランの外交官やビジネスマンでも外国人相手の交渉こうしょうのときに経験するのではないだろうか。
 先日マンスフィールド・センターから招かれて話をしたとき、このような「回帰現象」についても少し触れよふ  うと思った。しかし、それほど一般いっぱん的なこととして言えるかどうか心配でもあったの
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で、栗山くりやま駐米ちゅうべい大使の招宴しょうえんの際に、前駐日ちゅうにち大使のマンスフィールドさんの横に座ったので、以上のことについてどう思われるかを、お聞きしてみた。「それは当然のことです」とかれは言われ、「私自身も経験しました」と静かにつけ加えられた。
 それ以上は言わなかったが、この短い言葉のなかにマンスフィールドさんが日米の間の架け橋か はしとして相当に苦労されたことが、私には強く感じられて、さすがは、と感心させられた。おそらく、日本式の考え方や感じ方もよくわかり、ときにはそれに合わせてゆこうとしつつ、知らぬ間に回帰現象を起こしている自分に気づいたり、アメリカ人と同様に話し合えると思っていた日本の外交官が、いざというときにまったく「日本的」に行動するのを見て驚いおどろ たりされたのではなかろうか。
 何しろ、この現象は、大切なときに生じる上に、それが生じていることを本人が気がつかない場合があるので、なかなか厄介やっかいなのである。このようなために、取りかえしのつかない失敗が起こることもある。
 しかし、野球の際の投手のけん制球が、不用意に盗塁とうるいされるのを防ぐように、自分の心のなかで、「回帰現象に注意」というけん制球を投げていると、これもだいぶ防げるようである。あるいは、回帰現象を起こしても、自分で気づいて、それについて相手に説明して了解りょうかいしてもらったり、自分の姿勢を立て直すなりすることによって、決定的な失敗を免れるまぬか  ことができるようにも思う。スポーツと同様、人間関係も訓練によって少しずつ上達するようである。

(河合隼雄はやお「おはなしおはなし」より)
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 クローン羊のドリーが誕生してしまった。これは画期的なことである。一個の受精卵を分割して、本来は一個の個体になるべきところを、一卵性十六児」や一卵性三十二児」を作る要領で作った動物はほかにもあるが、ドリーは違うちが ドリーは、体細胞さいぼう起源のクローンであり、乳腺にゅうせん細胞さいぼうという特別な働きをする細胞さいぼうに分化してしまったあとの、おとなの羊の細胞さいぼうから作られたのだ。
 このことは、発生学の従来の考え、つまり、いったん成熟して機能分化してしまった細胞さいぼうの遺伝子のスイッチを入れ直してまた始めからやり直させることはできない、という考えを覆すくつがえ ものである。細胞さいぼう生物のからだのすべての細胞さいぼうには、からだの全部を作る遺伝子が含まふく れているが、細胞さいぼうは、それぞれの機能に応じて、自分の役割に関する部分の遺伝子だけを活性化して使っている。
 しかし、そもそもの始まりは卵と精子であり、ここからすべての機能分化した細胞さいぼうが出現してくる。そこで、細胞さいぼう分裂ぶんれつしてぞれぞれの細胞さいぼうができてくるとき、活性化するべき遺伝子だけに次々と時系列にそってスイッチがはいっていって、機能が分化した細胞さいぼうが作られるので、そうやってできあがったものを、また、もとの未分化の状態に戻すもど ことはできないと考えられていたのである。
 「たまごっち」という奇妙きみょうなゲームが、一時、非常にはやっていた。これは、プレイヤーが疑似生物に対してさまざまな情報を入力していき、最終産物にまで育てるゲームだそうだが、時系列にそった情報入力がうまくないと、疑似生物がうまく育たない。そこで、どうも具合が悪くなると、「リセット」にして、また育て直すのだそうだ。
 現実の子育てには、「リセット」ボタンは存在しない。こんな子に育てるつもりはなかったのにと思っても、時間の経過は一方向だけである、細胞さいぼうの機能分化の過程も、同様に時間的に一方向性だと考えられてきたのが、ドリーの誕生で覆さくつがえ れた。「リセット」は可能だったのである。
(中略)
 科学という営みは、世界について知りたいという人間の好奇こうき心に基づいている。
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 するとここに、好奇こうき心とは別の人間の本性の一つである「欲望」が出てきて、欲望を満たす手段として科学技術が利用される。
 ところが、この説明の体系は、どういうわけか実世界と本当に対応しているらしく、この説明原理を応用すると、さまざまなものを実際に作り出すことができる。
 科学が明らかにするのは、世界はどのように作られているのかという説明の体系である。
 その結果として出現するのが、科学技術である。
 人間が欲望をコントロールするすべをしっかり身につけないかぎり、科学は両刃りょうばつるぎとなる。
 ミルクが欲しければミルクが異常に出る牛を作るのがよいのか、どうしても子どもが欲しいという個人の欲求の実現は、あくまでも尊重されるべき権利であるのか、生き延びたければヒヒを殺して肝臓かんぞうをとってもよいのか。「それをすることは可能ですよ」とささやくのは科学であるが、「では、やってくれ」と欲するのは人間である。
 優しい顔をしたドリーはすくすくと育っているが、彼女かのじょの存在は私たちに難問を突きつけつ   ている。

(長谷川眞理子まりこ『科学の目 科学のこころ』による)
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a 長文 9.3週 yabi2
 以前からわが国の若者には政治や社会に対する意見がとぼしく、これが諸外国の人々と議論する際にあいまいだとされる理由になることは、しばしば話題にのぼってきた。「日本の政府はどのようなヴィジョンを持っているのか」「日本における女性の地位はいかなるものか」「きみの信仰しんこうはどのあたりにあるか」「日本文化とは何か」、こうした矢つぎばやの質問に即答そくとうできる若者がまれであるのは、私自身、毎年の授業を担当していて痛感するところだし、さまざまな国の友人から、「日本の若者は…」と苦言を呈さてい れたことも一度や二度にとどまらない。だがしかし、こうしたオピニオン(主義・主張)の問題にはふれずともすでに日常的な会話の端々はしばしから、あいまいさは指摘してきされているようだ。
 ひとつには、こういうことがあるだろう。たとえば、私がパリの知人たちとおしゃべりする際、彼らかれ からの質問で、よく「あなたの生まれた高知というのは、東京からどのくらいの距離きょりのところにあるのか」とか、「その高知にはどれくらいの人が住んでいるのか」とか、具体的な数値をたずねられることが多いが、これは私たち日本人がもっとも苦手とする質問なのではあるまいか。私たちは、自国ではほとんどの場合、「かなり」とか「けっこう多くの」といった表現で間にあわせているのだが、それはそういった大ざっぱな表現に対する「暗黙あんもく了解りょうかい」を共有しているからである。「古池やかわずとびこむ水の音」という一句を聞いても、この池が一〇〇メートル四方もありはしないことや、巨大きょだいかわずが何びきもとびこむわけではないことが、私たちには当然のように了解りょうかいされているわけだ。
 なるほど、東京での「けっこう広い宅地」が五〇つぼであったりすることは、ビバリーヒルズ(ロサンゼルスの高級住宅地)の住人には予測しようもあるまいし、「かなりの混雑」が東京のラッシュ時の殺人的な電車のものであることなど、サハラの遊牧民にとっては想像を絶してもいるだろう。したがって、人種の坩堝るつぼであるパリでは、数値にたよるしかないのが当然であるということとともに、逆にまた、日本がいかに横並びの均質な社会となり、ビバリーヒルズをもサハラをも想像しえない所となってしまっているかということにも、私たちは気づかねばなるまい。つまり、私たちは、
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多くの場合、外国人には日本の実情を理解することなど不可能だと考えるため、外部の人々に対するあいまいさをかもし出しているのである。
 あるいはまた、もうひとつには、こういうこともあるのではないか。それは皆さんみな  もしばしば経験されるにちがいないし、テストの落とし穴としても頻繁ひんぱんに用いられている否定疑問文への答えが、欧米おうべいと日本とではまったく逆になるという事実に見られるようなことである。つまり「これこれのこと、ご存じないのですか」と聞かれて、日本語では、「ええ、知りません』あるいは「いいえ、知っています」とこたえるべきところ、欧米おうべいでは、「ノー、知りません」「イエス、知っています」になるという、あれである。
 結局のところ、日本語は、質問者の質問のしかたに即しそく 、その意図にそっていれば「ええ」とこたえ、反していれば「いいえ」とこたえるわけだが、欧米おうべいでは、肯定こうてい疑問であろうが否定疑問であろうがそんなことにはおかまいなく、返答する者が知っているか否かによってのみイエス・ノーが決められている。こうしてわが同胞どうほうは、外国に行って否定疑問文を浴びせかけられるたびに、どぎまぎしながら「はい、いやちがった、いいえ」「いいえ、いや、はい」などとやって、ますます「あいまいな日本人」という神話をはびこらせてしまいもするのだろう。
 このような否定疑問へのこたえ方にかいま見られるのは、自己中心的な欧米おうべい流の思考法と、外部指向的なわが国の思考法とのちがいにほかならない。そのうえ、そもそも私たちはきっぱりとは「ノーと言えぬ」やさしき日本人なのである。つまり、私たちのあいまいさは、多分に、他人への配慮はいりょからも生じているわけだ。
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 石の魅力みりょくは、その美しさだけでない。その魅力みりょくとは、石が伝えてくれるさまざまなメッセージにある。石は「地下からの手紙」といってもいいだろう。地球上には約三〇〇〇種の鉱物があり、それぞれの名前はその化学成分と結晶けっしょう構造、つまり、どういう元素がどのように配列しているかで決まる。そして岩石中にどんな鉱物が含まふく れるかは、その岩石がさらされた温度や圧力などの物理的要因と岩石の成分といった化学的要因とで決まる。
 たとえばダイヤモンドと石墨せきぼくという二つの鉱物がある。ダイヤモンドは地球上で最も硬くかた 、またその美しさは宝石のなかでも群を抜いぬ ている。一方、石墨せきぼくは黒色でひじょうに脆いもろ 鉱物で、鉛筆えんぴつしんに使われたりする。このまったく異なる二つの鉱物、じつはどちらも化学成分は同じで、炭素だけからなる。それなのに違いちが が生じるのは、両者のつくられた環境かんきょう違うちが からである。
 実験室で石墨せきぼくに高い圧力と温度を加えてやるとダイヤモンドに変化する。高い圧力では炭素原子がぎっしりと結合してひじょうに硬いかた ダイヤモンドになるのである。逆に圧力が下がるとダイヤモンドは石墨せきぼくになる。このことから少なくとも地下一五〇キロメートル程度より深くにしか、ダイヤモンドは存在し得ないとされる。
 ダイヤモンドはキンバーライトという一種の火山岩中に産する。地上には存在し得ないダイヤモンドを私たちが目にすることができるのは、キンバーライトのマグマが上昇じょうしょうするとき、地下深くにあったダイヤモンドを地表まで運んできたからである。そのときマグマがゆっくり上昇じょうしょうしていたら、ダイヤモンドは途中とちゅう石墨せきぼくに変わってしまう。このことから、その上昇じょうしょうする速度は石墨せきぼくに変化するひまがないくらいのもうスピードで、少なくとも時速一〇〇キロメートル以上と見積もられている。まさにキンバーライトは、ダイヤモンドという「手紙」を、地下から運んできた特急列車なのである。
 では、ダイヤモンドという「手紙」には何が書かれているのだろうか。近年、ダイヤモンドのつくられた年代が測定され、多くの興味深い事実が明らかになってきた。地球最古の岩石は約三九億年前とされているが、ある種のダイヤモンドが四五億年前というとん
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でもなく古い年代を示すのである。地球の年代は約四六億年であるから、このことは地球誕生の当初から地下に炭素が存在していて、それがダイヤモンドになったことを示している。
 地球は太陽系の他の惑星わくせいとともに、惑星わくせいが集合してつくられた。地球上に降り注ぐ石はその惑星わくせいのなれの果てであり、なかでも炭素質コンドライトと呼ばれる種類の石は、太陽系のもととなった物質に最も近いと考えられている。ある種のダイヤモンドをつくった炭素は、そのような石からもたらされたのである。このように、ダイヤモンドという一つの鉱物のなかには、じつにたくさんの情報が含まふく れている。あなたの持っているダイヤモンドは、ひょっとしたら太陽系をつくった物質のかけらなのかもしれないのである。
 そんなことを思って鉱物を見たら、多少は見る目が変わるのではないだろうか。ダイヤモンドに限らず、どんな鉱物もそのつくられてきた歴史を背負っている。そんな一つ一つの鉱物が持つ履歴りれきを積み重ねていくと、その鉱物を含んふく だ岩石の歩んだ歴史が浮かび上がっう  あ  てくるのである。それを伝えてくれる岩石や鉱物は「過去からの手紙」である。
 岩石のなかで、鉱物は自らが持つ本来の色と形をもってして、私たちに多くのことを語りかけてくれる。そんな「過去からの手紙」に書かれた文章を読み解くのが、鉱物や岩石に接する最大の魅力みりょくであろう。そしてそれを伝えてくれるところに、鉱物のほんとうの美しさがあるのではないだろうか。

(河合雅雄まさお編「ふしぎの博物誌」による)
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