a 長文 10.1週 yu
 流行という言葉の対義語は不易だ。時代の変化に合わせて変わるものがあると同様に、時代を通して変わらないものもある。
 流行を意識することは、社会生活を円滑えんかつに行うために欠かせない。例えば、遠く離れはな た場所に行くのに、今どき牛車ぎっしゃを使う人はいない。もちろん、人力車も使わない。現代なら自動車が普通ふつうだが、環境かんきょうへの負荷を考えて、今後は自転車になり、やがて科学の進歩によってタケコプターのような交通手段になるかもしれない。こういう外見の変化が流行だ。
 流行の大切さについては、言うまでもない。特に、現代のようにIT技術の進歩が速い時期には、流行に乗り流行を活用することは一層重要になる。
 例えば、今のIT技術の前線のひとつはソーシャルサービスだ。ネットによるコミュニケーションが日常化し、リアルな世界のコミュニケーションと同様に人間の社会生活を深く支えるものになっている。
 しかし、だから、その普及ふきゅう伴うともな 弊害へいがいも当然ある。イギリスでは、ソーシャルサービスの広がりによって中学生が本を読まなくなったと言う。テレビが初めて登場し普及ふきゅうしたときも、一億総白痴はくち化が叫ばさけ れた。テレビゲームのときも、携帯けいたい電話のときも、家庭の中で多くの葛藤かっとうがあったはずだ。
 しかし、そういう弊害へいがい乗り越えの こ なければ、新しい活用法は身につかない。流行の持つマイナス面に目を向けて過去にしがみつくのではなく、流行のプラス面を見て、その弊害へいがい知恵ちえと工夫によって克服こくふくしていくのが、最も現実的な対応と言えるだろう。
 不易とは、外見の変化にも関わらず、変わらない本質のことだ。例えば、牛車から自動車へ、自動車からタケコプターへという変化を考えたとき、変わらないものは、ある場所から他の場所への移動そのものであり、その移動に伴うともな 周囲への配慮はいりょなど、時代を超えこ て不変なものだ。
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 牛車ぎっしゃの時代に、狭いせま 道をすれ違う  ちが 牛車ぎっしゃどうしで譲り合いゆず あ があったように、タケコプターの時代にも譲り合いゆず あ はある。これが不易だ。
 このように考えると、流行と不易とは対立するものではなく、むしろ流行があるからこそ不易があり、不易に貫かつらぬ れているからこそ流行があるとも言える。
 そう考えれば、不易と流行は、物の側にあるのではなく、人の側にあることがわかる。変化する状況じょうきょうに合わせて自分らしくあること、これが不易と流行を結びつける要なのではないだろうか。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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a 長文 10.2週 yu
 何でもよく知っていて、次から次へと、どんな問題についても、よく話をする人がいる。じっと聞いていると、話している内容は、ほとんどが新聞や雑誌に出ていたこと、あるいはテレビで誰かだれ が話していたこと、つまり「情報」なのである。それを右から左へと流しているだけのことだ。話のある部分について、疑問点を確かめたいと思って詳しくくわ  聞くと、はっきりした「知識」を持っているわけではないから答えられない。しかも、「情報」をほとんど受け売りしているだけで、その中身を自分の考えによって吟味ぎんみしていないから、どんな話をしてもその人の人生経験に照らした上での「知恵ちえ」になっていない。わざわざ「情報」「知識」「知恵ちえ」という三つのことばにかぎカッコをつけたのには意味がある。人の話を聞く時、その内容を、この三つに分類しながら聞くと、なかなか面白いからだ。むろん情報を得たいと思って話を聞く時には、情報が的確に得られれば良いので、うまく情報を伝えてくれる人が好ましい。また知識についても同じことが言える。三番目の知恵ちえが、最も興味深い分野である。知恵ちえがあるかどうかは学歴などとはまったく関係がない。世の中には、情報には疎いうと かもしれないが、豊かな人生の知恵ちえを持った人がいる。そうかと思うと、情報にはやたら詳しいくわ  のに、まったく知恵ちえのことばを吐かは ない人がいる。そして、人間として魅力みりょくがあるのは、もちろん知恵ちえのある人である。取材していてもはっとさせられるのは知恵ちえのことばを聞く時である。普段ふだんは無口だが、口を開けば知恵ちえのことばを語るという人がいる。しっかりと生きてきた、その個人の存在を感じさせられる。対照的に情報ばかりをぐるぐるまわし続け、情報に踊らおど される人の人生とは何だろう、と思わされる。知恵ちえがあるかないかは、いつに、ものを自分の頭でじっくりと考えているかいないか、の違いちが ではないかと思う。
 T・S・エリオットという名の詩人がいる。この人の詩に、右の三つを読み込んよ こ だ、こういう文章がある。「私たちが、知識の中で失った知恵ちえはどこにある。私たちが、情報の中で失った知識はどこにある。」これは、長い詩の一部である。三つのものについてエリオットが考えていたこと、三者の関係をどうとらえていたかと
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いうことが、ここにうまく表現されている。(中略)
 最近の世相を評するのによく使われるのは、いわゆるマニュアル文化ということばである。ある時、作家の山田太一さんと話す機会があった。いろいろな話の中で、マニュアル文化の話が出た。そうしたら、かれがこういう実例をあげた。知り合いの有名な俳優が、芝居しばい稽古けいこの合間にファーストフードの店に行ったというのである。一座の人々の昼食を買うためで、ハンバーガーか何かを二十数個、買うつもりだった。注文したら、注文を受けたむすめさんが、それを復唱したあと、「ここでお召し上がりめ あ  になりますか。」と聞いた。俳優はあっけにとられた。「おい、よく見ろよ。ここにいるの、おれ一人じゃないか……。」むすめさんは、マニュアルに沿った応対をし、決められた順序で、決められた発言をしただけなのだろう。忠実なのはいいが、目の前の現実を見て考える、という自分の能力と自由とを忘れているとしか思えない。山田さんとしばらく笑ったあと、笑い事ではないですね、という話になった。
 新聞のコラムを執筆しっぴつしていて、考えるということについて大いに考えさせられた。いまの教育は、家庭でも学校でも、十分に考える訓練をしているだろうか、子どもは自分の頭でじっくり考えるためのゆとりを与えあた られているだろうか、という疑念が頭を離れはな ない。むろん、間題は子どもだけではない。フランスに、ジャン・ギットンという哲学てつがく者・神学者がいる。この人の本に、こういう一文がある。「学校とは一点から一点への最長距離ちょうきょりを教えることであると、私は言いたい。」思うに名言である。私は、このことばをよく思い起こす。ある人々は、最長距離ちょうきょりと聞いただけで、耐えた られない長さと想像するかもしれない。その最長距離ちょうきょりを、道草のように思う人もいるかもしれない。しかし、子どもは自分の頭で考えたり、感じたりしながら、長い長い距離きょりを歩き、それによって自分らしい成長をとげるのである。ギットンは何よりも、考えることの大切さを説いた。考える訓練をしなければならないのは子どもばかりではない。教師も大人も同様である。さきに述べた「情報」と「知識」と「知恵ちえ」の三つに即しそく て言えば、先生が教室の中で話したことの中で子どもが成人した後もいつまでも覚えているのは、たいてい「知恵ちえ」のことばである。 (白井健策「天声人語の七年」から)
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a 長文 10.3週 yu
 ある朝、私は一冊の本と、ひときれのパンをポケットに入れて家を出て、気の向くままに歩いて行った。少年時代にいつもそうしたように、私はまず家の裏の庭へ入った。そこにはまだ日が当たっていなかった。父が植えたモミの木立、私がまだほんの幼い、細い若木だったのを覚えているモミの木立ががっしりと高くそびえ、その下にはたん褐色かっしょくの針葉が積もっていた。そこには数年来ツルニチニチソウのほかは何も育とうとしなかった。が、そのかたわらの細長い縁どりふち  花壇かだんには、母の植えた宿根草が生えていて、豊かに、楽しげに花をつけていた。
 休日のくつろいだ気分で、私は花から花へと歩き、あちらこちらで芳香ほうこうを放つ散形花の匂いにお をかいだり、指先で注意深くひとつの花のがくを開いてのぞきこんで、神秘的な白っぽい色のうてなと、花弁の脈や、めしべや、やわらかい毛のあるおしべや、透きとおっす    た導管などの絶妙ぜつみょうな配列を観察したりした。そのあいだに私は雲の多い朝の空を眺めなが た。そこには、細い綿となってたなびくきりと、羊毛のようにふわふわした小さなうろこ雲が、奇妙きみょうに入り乱れて広がっていた……。
 不思議な、あるひそかな不安を感じながら、私は少年時代に喜びを味わった、なじみの場所を見まわした。小さな庭や、花で飾らかざ れたバルコニーや、湿っしめ た、日の当たらない、敷石しきいしこけで緑色になった中庭が私を見つめた。それらは、昔とは違っちが た顔をしていた。花たちさえもつきることのないその魅力みりょくをいくぶんか失っていた。庭のすみに古い水おけが水道のせんとともにひっそりとそっけなく立っていた。そこで昔、私は木の水車をとりつけ、半日ものあいだ水を出しっぱなしにして、父を悩ましなや  たものだった。路上にダムや運河を築いて、大洪水こうずいを起こしたのである。風雨にさらされたその水おけは、私にとって忠実なお気に入りで、気晴らしの相手であった。それを見つめていると、あの子どものころの喜びの余韻よいんさえパッと心に浮かんう  でくるのであった。が、それは悲しい味がした。その水おけはもう泉でもなく、大河でもなく、ナイアガラのたきでもなかった。
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 物思いにふけりながら、私は垣根かきねをよじ登って越えこ た。一輪の青いヒルガオの花が、私の顔にかるく触れふ た。私はそれを摘みつ とって口にくわえた。そのとき私は、散歩をして、山の上から町を見下ろしてみようと心に決めていた。散歩をするのも、本当に楽しい企てくわだ ではなかった。以前ならば、決して思いつくことなどなかっただろう。少年は散歩などしない。少年は、森へ行くなら盗賊とうぞくか、騎士きしになって行く。川へ行くならいかだ乗りか、漁師か、あるいは水車作りになって行く。草原へ走るのは、ちょうの採集かトカゲ捕りと に行くのだ。こうして私の散歩は、自分が何をしたらよいかわからない大人の、上品だが少々退屈たいくつ行為こういのように思われた。
 青いヒルガオはまもなくしぼんで投げ捨てられた。そして今度はもぎ取ったブナの小枝をかじった。苦い、香ばしいこう   味がした。高いエニシダの生えている鉄道の土手のところで一ひきのみどり色のトカゲが私の足もとを走って逃げに た。すると、また私の心に少年の気持ちがふっと目覚めた。私はじっとしていられず、走ったり、しのび寄ったり、待ちぶせしたりして、ついに日に当たって温かなおくびょうなトカゲを両手に捕らえと  た。私はその光沢こうたくのある、小さな宝石のような眼をのぞきこみ、少年のころの狩りか の楽しみの余韻よいんを味わいながら、そのしなやかで力強いからだと固い足が私の指のあいだで抵抗ていこうし、突っ張るつ ぱ のを感じた。だがそれからよろこびは消えてしまった。捕まえつか  た動物をどうしたらよいのかまったく分からなくなった。どうすることもできなかった。それを持っていてももう幸福感はなかった。私は地面にかがみこんで、手を開いた。トカゲは一瞬いっしゅんおどろいて、横腹をはげしく息づかせながらじっとしていたが、それからわき目もふらずに草の中へ姿を消した。汽車が輝くかがや 鉄路を走って来て、私のそばを通り過ぎた。それを見送った私は、一瞬いっしゅん非常にはっきりと、ここではもう私の本当のよろこびが花咲くさ ことはないと感じた。そしてあの列車に乗って世の中へ出て行きたいと、心の底から思った。

 (ヘルマン・ヘッセ作 フォルカー・ミヒェルス 編 岡田朝)
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a 長文 10.4週 yu
 都会にはむろんのこと、日本の町々には、ある大切な要素が欠けている。 
沈黙ちんもくである。静寂せいじゃくである。 
 (中略)
     わが屋戸やどのいささ群竹むらたけ吹くふ 風の 
          音のかそけきこの夕べかも 
 夕風にそよいで、かすかな葉ずれの音をたてている群竹。作者の大伴家持おおとものやかもちは、その静寂せいじゃくにじっと耳を傾けかたむ ている。このような、かそけき音にひかれる心の姿というものこそ日本人特有の姿だった。古池に飛び込むと こ かわずの音、ほかの国の人たちが聞いても、おそらくなんの感興かんきょうもおこさないであろうような、そのような音を、日本人が何世代にもわたって味わい続けてきたのは、それが「音」だったからではない。「静けさ」だったからなのだ。全山に降る蝉しぐれせみ   、岩にしみ入るようなそのせみの声に芭蕉ばしょうは耳をとられ、そして、その一句に「しずかさや」という適切な初語を置いた。 
 静かさというものは、音のない状態をいうのではない。音が音として、くっきり浮かび上がるう  あ  、そのような空間と時間をさすのである。音は「静寂せいじゃく」というカンバスに描かえが れて、初めて「音」になるのであり、同様に静かさというものは、そこに音がくっきりと浮かび上がるう  あ  ことによって「静寂せいじゃく」となる。 
 湯のたぎる音が茶室の静寂せいじゃくをささえ、懸樋かけひの水音が庭の閑寂かんじゃくをいっそう深いものにする。かぼそい虫の声が秋の夜の静けさを呼び、炭火のはじける音が冬の午後の沈黙ちんもくを生む。こうした「音」と「静寂せいじゃく」のこよなき調和の場こそ、日本人の愛した生活の空間であり、暮らしの時間だった。 
 だが、「文明」が進み、「文化」が発展するのと歩調を合わせて、静寂せいじゃくは私たちから、反対に遠ざかってしまった。日本の都会の、日本の町々のどこに、「群竹のかそけき音」を耳にしうる場所があろうか。ほんのわずかでも、ほんのいっときでも、静かに思いにふけることのできる空間や時間が、都会の、町々のどこに残されているというのか。 
 全く逆なのである。私たちの文明とは、静寂せいじゃく騒音そうおんに変えるこ
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とだったのであり、私たちの文化とは、「かそけき音」を拡声器でただやたらに増幅ぞうふくすることだったのだ。 
 日本の町々には、便利さのための、ありとあらゆる施設しせつが造られている。そして、これからも造られようとしている。たった一つ、「静寂せいじゃくの空間」を除いて。 
 現代の日本の文明は、静寂せいじゃくだけはつくりだすことができないのである。いや、つくりだせないのではなく、つくりだそうと思わないのだ。静寂せいじゃくな空間とは、空白な空間であり、むだな空間だと思っているからである。自然は真空をきらうというが、現代の日本人は沈黙ちんもくをきらう。きらうのではなくて、恐れおそ ているのだ。だから、少しでも、静寂せいじゃくの場所があれば、あわててそこを騒音そうおんでふさごうとする。 
 武器は拡声器である。駅でも、交差点でも、公園でも、横丁でも、喫茶店きっさてんでも、ホテルのロビーでも、大学の構内でも、寺院でさえ、今や騒音そうおんなしには存在しえない。岩にまでしみ込む  こ ほどの「しずかさ」の力を、日本の社会は、とうとう文明によって追放してしまった。そして、人々を沈黙ちんもく恐怖きょうふから救い出し、静寂せいじゃくの不安から連れ出した。 
 さあ、もう安心するがいい。どこにいても、騒音そうおん付き添っつ そ ている。どうだ、寂しくさび  ないだろう……。 
 こうして、人々は、騒音そうおんに取り巻かれ、その中で安心して憩いいこ 眠るねむ 。 
 しかし、これほど夢中になって音を製造したにもかかわらず、私たちは、実は何一つ「音」を聞いていないのである。聞こうにも、聞くことができないのだ。私たちのまわりに、いったい、生活のどんな音があるというのか。 
 折にふれ、人々は、夜明けとともに聞こえてきた納豆売りの声、夕べとともに響いひび 豆腐とうふ屋のラッパの音を懐かしむなつ   。だがそれは、実をいうと、物売りの声やラッパの音そのものを懐かしんなつ   でいるのはなく、そうした生活の音をしみじみと聞くことができた「静かさ」への郷愁きょうしゅうなのである。現に、それに代わる生活の音なら、今
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長文 10.4週 yuのつづき
だってまわりにたくさんあるではないか。けれど、私たちには、もうそれが聞こえない。なぜなら、音の一つ一つが、くっきりと浮かび上がっう  あ  てくるような静かな空間、沈黙ちんもくの時間を捨ててしまったからだ。そして、すべての音を、「文化」の名のもとに、単なる騒音そうおんにつくり変えてしまったからである。 
 島根県の山あい、津和野つわのの町で、私は久しぶりに忘れていた「音」を聞いた。それは、町のいたるところを流れる用水のささやきだった。 
この町には、九千人という人口の十倍ものこいが放されているのだ。 
 夜、八時、私は宿を出た。祇園ぎおん町を通り、新町通りを抜けぬ 殿町とのまちを過ぎ、大橋を渡っわた た。どこを歩いても、足もとに用水の鳴る音がついてきた。それはまさしく津和野つわのの町の音だった。 
 三百年来、この町の人たちはこいを飼ってきた。「食べない、捕らと ない、殺さない。」といって。だが、人々はただこいをだいじにしたのではない。こいをだいじにすることによって、この用水の音を大切にしてきたのだ。水の「声」に耳を傾けるかたむ  ことのできる静かさを。 
 大橋に立って、私は改めて思う。 
 日本の暮らしのなかで、どんな「かそけき」音でも聞くことができ、それに耳を傾けるかたむ  ことができる。そのような空間をつくること、そのような時間をもつこと、これこそが本当の文化、本当の生活なのではなかろうか、と。

(森本哲朗てつろう「日本のたたずまい」)
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a 長文 11.1週 yu
 交話機能というのは、簡単に言えば、ことばがもつ、人と人の気持ちを結びつける作用を指すものである。
 考えてみると、私たちがことばを用いるとき、別に何かを伝えたり、特にあることについて語るというわけでもなく、ただことばを発することそれ自体に、主たる狙いねら のある場合がある。
 例えば、町中で真夜中あたりに人かげのまったくない時、あるいは人里はるか離れはな た山道などで、見知らぬ人に出会ったとき、私たちは何となく不安な気持ちになり、緊張きんちょうすることがある。そんなとき、思いがけなく相手が一言「今晩は」とか「いい天気ですね」などと声を掛けか てくれると、急に気が楽になって思わず弾んはず だ声であいさつを返して行き過ぎる、といった経験をもつ人は多いと思う。このようなとき、もし何も言わずに擦れ違っす ちが たりすると、何となく後ろが気になるものである。
 このように人は他人に出会うと、必ず心の中に警戒けいかい、不安、恐れおそ などの気持ちが、多少なりとも生まれるもので、都会の人混みに慣れきっている現代人は、このことをあまり意識する機会がないが、いま述べたような状況じょうきょうの下ではその気持ちが表面化してくるのだ。
 人が出会いの際に経験するこの生物的な緊張きんちょうをほぐし和らげ、次の交流段階に支障なくつないでゆくきっかけ糸口を与えるあた  ことが、ぞくにあいさつと呼ばれる言語行動の主たる役目なのである。
 具体的な情報伝達を目的としない、したがって内容があまり重要でないタイプの言語活動は、あいさつのほかにも、たとえば雑談やおしゃべり、さらには井戸端いどばた会議などと称せしょう られる、一般いっぱんには無意味で無駄むだな時間つぶしと考えられているものに見られる。このような場合、ことばを交わし合うことそれ自体が、互いたが の心を通わせ、一体感を高める働きをするのである。
 多くの人が仕事の話や用件に入る前に、お天気の話や当たり障りのない短い会話を交わすのも、これがお互い たが 警戒けいかい心や敵意を弱め反対に安心感を高める効用があるからである。
 交話機能とはこのように、人々が本格的な対話関係に入るためのいわば地均じならし、心の波長(ダイヤル)合わせを行うものであり、
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対話者どうしの一体感や帰属意識を高める潤滑油じゅんかつゆとしての働きなのである。

 (「教養としての言語学」(鈴木孝夫)による。岐阜県)
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a 長文 11.2週 yu
 フィンランドの保健担当機関がある調査を実施じっししたという話を読んだ。食事の指導や健康管理の効果がどのようなものであるかを科学的に調べるためだったという。その結果が、実に興味深い。
 四十さいから四十五さいまでの人々を六百人選んで、Aグループとした。この人たちには、定期検診けんしんや栄養学的な調査などを受けてもらう。また、運動を毎日すること、タバコ、アルコール、砂糖などの摂取せっしゅ抑えるおさ  ことを約束してもらう。そして、そういう健康管理を十五年間続けた。ずいぶん息の長い調査である。この効果の比較ひかくのため、別の同一条件の人たちで構成される六百人のBグループを選んだ。この人たちには、いかなる健康管理も実施じっししなかった。
 十五年たって、AグループとBグループを比較ひかくすると、はっきりした違いちが が現れた。一方のグループでは、病気になった人の数が少なかった。それが健康管理の対象とならなかったBグループだったというのである。驚いおどろ た医師たち、保健担当機関の人たちが、なぜそのような事態が起きたのかという点について、さらにその原因に迫るせま 調査、研究を行った。その結果は、治療ちりょう上の過保護と管理が依存いぞん抵抗ていこう力の低下をもたらすという結論だった。この調査結果は、まことに意味深長である。私たちの生き方全般ぜんぱんについても、大いに考えさせるものを突きつけつ   ているように私には思える。
 自然界にいる動物は、医者がてはくれないから、自分で自分の体に気をつけて暮らさなければならない。いま、自分の体は食べ物を求めているか、水を必要としているかといったことについて、自分の本能が内部でささやいている声を聞きとっているのだ。ところが、そういう本能を聞き分ける感度が、私たちの場合、一般いっぱんに、恐ろしくおそ   鈍っにぶ てしまっている。Bグループの人々は、そういう鈍っにぶ ていた感覚を呼び起こし、磨きみが 始めたのではなかったろうか。
 フィンランドのこの調査結果は、そのまま子どもたちの育て方や教育のあり方にも通じる話である。過保護が依存いぞんを生む。そして、自律が自立につながるのだ。最近の子どもは、動物として活動する場や機会が少ないので、かわいそうだと思うことがある。
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本来、子どもは動物の子どもと同じで、成長するに従い、さまざまな状況じょうきょうにぶつかり、自分の本能と相談しながら行動の仕方を選択せんたくすることを覚えてゆく。そういう場がめっきり減ってしまった。「子どもというものはみんな、ある程度まで、世界をふたたび始めから生きる」と書いたのは、米国の思想家、へンリー・ソローである。
 大人に知られぬように穴などを探してもぐり込ん   こ だ体験はだれにでもあるだろう。ただおもしろい、秘密の行動にわくわくするということだけではあるまい。穴居の時代の記憶きおくからではなかろうか。石を大事に引き出しにしまったり、石けりなどに興じたりしたのは石器時代の名残かもしれぬ。木登り、昆虫こんちゅう採集、魚釣りさかなつ 、畑仕事、家畜かちくの世話、その他すべてが太古からの人間の営みの延長であり、狩猟しゅりょうや漁労や農耕や牧畜ぼくちくの復習だったのではないだろうか。子どもは、手や頭を使い、さらにさまざまな道具を作って使う、こういった遊びや手伝いをするなかで、人類の歴史的発展をもう一度たどっているような気がする。
 子ども一人ひとりが動物としての感覚を持ち続け、磨きみが ながら成長するために、そういうことをたっぷりと行うことが必要である。これを私は「人類全課程」と呼んでいるが、最近の子どもがこれを学習するのは、至難のようだ。日本が貧しかったころに育った世代は、それこそ石器時代から全課程をやってきた。いまの子どもは、生まれるとすぐ、電子機器、自動車、飽食ほうしょくの二十世紀に一足飛びなのである。火のおこし方も、あいさつの仕方も知らずに育つようなことになる。動物だって、それぞれ独特な方法であいさつするというのに。

 (白井健策「天声人語の七年」の文章による。福井県)
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a 長文 11.3週 yu
 このところ、ドストエフスキー、ファーブルなどと二十年以上も前に読んだものを、もう一度読み直して、なんとなくよい気分である。古典とは決して「古いもの」という意味ではない。永遠に新しいものを古典という。
 時代の流行を代表するような作品は次々にあらわれ、その時代にはたくさんの人に読まれるが、その多くは、いつの間にか消えていく。若いころ、たいそうおもしろく読んだ記憶きおくがあり、思い立って読み直してみると、つまらないものであったりする。同時代の作品は、目に映る風俗ふうぞくの親近感があるし、また古い作品でもなんとなくその時代によく受ける精神構造を持っていたりすると、一種の流行となることがあるが、時代が変わるとその多くは、あぶくのように消えてしまう。
 古典といえるものでも、ある時代には、なりをひそめているが、別の時代にはよみがえってもてはやされることがある。作家の気質が時代の気質によく合ったり、そぐわなかったりするからだ。育っていく子供に似て、時代には気質がむら気にあらわれるものだ。
 だが、いずれにしても人間とは矛盾むじゅんした感性を抱き合わせだ あ  に持っている複雑な生きものなので、一人の人間でも、ああも感じたり、こうも感じたり、破滅はめつを夢みたり、聖なる秩序ちつじょに情熱を傾けかたむ たりする。こういう人間の性質は、どうやら人間が生きのびる限り同じらしい。なぜなら、地上が災いも破壊はかいもない神の国となり、死というものが消えうせたとしたら、生まれいずるものもまたなくなり、それは人間の国ではなくなってしまうだろう。古典とはその最も人間的なものを、その時代の具体的な素材を用いて抽象ちゅうしょうの中に表現し得ているものである。
 古典に現代の生活では日常的でない素材が用いてあると、不思議なことなのだが、抽象ちゅうしょうの骨組がかえってはっきりと見えてくることがある。そして、それが、現在の日常性の中で混乱している思考をしゃっきりとさせてくれることがあるものだ。
 古典はわたしをいつもすがすがしい気分にする。そのすがすがしさを味わいたいばかりに、わたしは古典にふける。わたしはそれが古いという理由で古いものに特別興味があるわけではない。それが今も生きていて、生きているものがわたしに語りかけるから耳を傾けるかたむ  のだ。 (大庭みな子『大庭みな子全集第十巻』)
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a 長文 11.4週 yu
 カラーテレビは教育上よくない、白黒テレビのほうがよいという意見があることを聞いた。白黒テレビだと子どもたちは自分である程度まで着色したイメージをえがきうるし、それはさまざまでありうる。ところがカラーテレビだと子どもの想像力がはたらく余地がない。想像力は創造性の基本だから、つまり創造性の伸長しんちょうをさまたげる結果になるのだという。 
 白黒テレビが、見本なしのぬり絵のように、色についての子どもの想像力をかきたてるという効果はあるかもしれない。だがその場合、色にかんする想像力を裏づける、いわばそれに対応する、経験の蓄積ちくせきがなければならない。そうでないなら、白黒の画面を着色の画面に転化したイメージをもつことは困難だし、かりにそうしたことがなされたとしても、そこに成り立ったイメージは、きわめて単純でまずしいものでしかないだろう。子ども向けの怪人かいじん怪獣かいじゅうテレビを見ているとき、これはおとなでも同様だと思わざるをえないことがある。 
 ところで、われわれ人間に色彩しきさいの豊富さを教えるまず第一のものは、自然である。山も海も川も、一つ一つの植物も動物も、なんと複雑で微妙びみょう色彩しきさいに富み、陰影いんえいによるその変化を示すものであることか。私はガラパゴスの海で、空をあおいで熱帯鳥ねったいちょうが羽ばたきもせずにけっていくのを見たとき、その白と空の青とがともに単色であるように見えながら、繊細せんさい色彩しきさい交響こうきょうを心につたえてくるのにうたれた。 
 絵画は、どれほど自然に忠実であろうとしても、自然の色彩しきさいのことごとくをそのまま再現することはできない。そもそも、絵画はそのようなことを目標とはしないであろう。たとえば写実的な風景画であっても、それは自然からの抽象ちゅうしょうをもとにした創造あるいは再創造であるにちがいない。そして人間は、極度の抽象ちゅうしょうや単純化のなかに新たな美を発見する能力をそなえている。現代絵画にあらわれているくすんだ単色あるいはそれに近い色彩しきさいでの画面の構成は、色盲しきもう的な夜行動物の世界だといえなくはない。人間にとって、それもまた一つの美である。 
 色彩しきさいばかりではない。ものの形にかんしても同様である。抽象ちゅうしょう
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画における、ちょっと見れば単純な一本の曲線とか、交錯こうさくする数本の直線とかにも、その背後には画家に感受された豊富な外界があるはずである。外界の音響おんきょう、たとえば風のいぶきや鳥のさえずりと、音楽の創造とのあいだにも、同一の関係が指摘してきされるであろう。ある点では、音楽における抽象ちゅうしょうと構成ないし再構成とは、絵画の場合よりいっそう高度かもしれない。 
 さて、現代において人間の生活環境かんきょうから、自然は急速に追放されつつある。それにとってかわっているのは、人工の世界である。開発され都市化のいちじるしく進んだこの国土の風景を一見すれば、それは瞭然りょうぜんとしている。巨大きょだいなビル、新家屋、舗道ほどう、高速道路、そのほか目に映るすべてのものは、色彩しきさいも形状も、自然と対比すれば単純化され抽象ちゅうしょう化されている。だからといって美しくないというのではないが、その人工の美しさを裏づける自然の本来の多彩たさいさが失われてしまっていくのでは、やがては人工の美のまずしさを招来することになるであろう。 
 人間がどんな環境かんきょうでも生きられるという、その高度の順応性は、こうした問題をむずかしくしている。密林のなかで何十年もくらすことが不可能ではないし、団地のせまいアパートにひしめきあって生活することもできる。長い年月を牢獄ろうごくにとじこめられても、それだけですぐ死ぬというわけではない。そして、芸術などにはまったく背を向けて一生を送ったところでどうこういうことは起こらないし、実際に多くの人がそうしている。 
 もしも人間が、よりよく生き、よりよい社会をつくるという目標をもたないならば、この世界からの自然の消滅しょうめつ憂えるうれ  理由は何もない。問題の根本は、人間の生きかたについて理想や目標をもつかどうかにある。視野を大きく、また時間のはばを広くとってみるならば、自然の喪失そうしつは人間とその社会にいちじるしい影響えいきょうをおよぼすことになるにちがいない。われわれの周囲に自然をどう保存するか、どのように新たな自然を設計するかは、いうまでもなく、現代社会の重大な課題である。ことに成長期の子どものために豊かな自然を生活の場として与えるあた  ことは、なによりたいせつなことである。
八杉やすぎ龍一りゅういち「自然と言葉」)
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a 長文 12.1週 yu
 私たちは、「手を上げよう」と思えば手が上げられます。手を上げるためには、たくさんの筋肉の複雑な収縮が必要ですが、それについては、私たちはなにも知らないのに、手が上げられるのはなぜでしょうか。まず、実際に手を上げた経験があって、それと「手を上げる」ということばとが結びつきます。そうすると、「手を上げよう」と思うと、以前に手を上げたときの脳機能が無意識のうちにはたらいて、ひとりでに手が上がるのです。
 このような現象を随意ずいい運動といいますが、要するに、「手を上げよう」という目標に向かって脳がひとりでにはたらくのです。「手を上げよう」というのは意志ともいわれますが、意志さえ強ければなんでもできるというわけではありません。泳げない人が「絶対に泳いでみせる」と力んでも泳げません。つまり、泳いだという経験があって、それと「泳ぐ」ということばが結びついていなければなりません。
 スポーツなどの専門分野では、特別のことばがよく使われます。たとえば、スキーの「前」、踊りおど の「こしを入れる」などというものです。しかし、実際の体験をして、「これが前ということなのか」とか「これがこしを入れるということなのか」とわからないと、これらのことばに従って体を動かすことはできません。
 ところで、何をするにしろ、どうしたら失敗するか、ということを知っていて失敗することはめったにありません。どういうわけか失敗してしまうのです。そこで、次に同じことをするときに、「また、失敗するかもしれない」と思うと、ほんとうに失敗してしまいます。前よりもひどく失敗することもあります。これは、「失敗」ということばをきっかけに、以前に失敗したときの脳のはたらきが進行して失敗するのです。
 「失敗は成功の母」といわれるように、失敗を重ねることによって、次第に成功に近づいてゆくのが脳の自然のはたらきです。ところが、失敗を恐れるおそ  と、脳も人間も発展しません。
 従って、「失敗」ということばのために、以前以上に失敗するというのは、ことばを持っている人間の特徴とくちょうともいえます。こういう現象を自己暗示といいますが、「手を上げよう」と思って手が上げられる現象と、よく似ていることに気づくでしょう。つまり、自己暗示は特別に不思議な現象ではなく、私たちはたえず自己暗示によって行動しているともいえます。
 もちろん、「こんどは絶対に成功するぞ」と思い込んおも こ でも「失敗したらたいへんだ」ということばに負けてしまう場合があります。
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成功した経験がないと、「成功」ということばでは脳は成功に向かってはたらかないからです。これとは反対に、成功する人は成功を重ね「失敗する気がしない」と自信満々です。どうしたら成功するかは、本人にも自覚されていませんが、以前に成功した経験があると、そのときの脳のはたらきがひとりでに進行して、成功を重ねることになるのです。

 (千葉康則「ヒトはなぜ夢を見るのか」による。静岡県)
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a 長文 12.2週 yu
 外国人に日本語を教えているうちに一つの事実に気づきました。一般いっぱん欧米おうべい人は、質問に対して「いいえ」と言うときに、教師がビクッとするほど強い調子で答えることが多いのです。もしや、質問しそこなったのではないかと、こちらが不安になるほどに――。しかし、よく見ていると、「はい」も「いいえ」も、同じように強くはっきりと答えようとしているだけです。わたくしの耳は、その「いいえ」を強すぎると感じたのでした。
 それは、わたくしたちが、日ごろ「いいえ」をやや控え目ひか めに言う習慣が身についているためだと思います。肯定こうていの場合は調子よく「はい!」という人が、否定になると、内容にもよりますが、無意識に声を落としてしまいます。
 いつか米国人に英語を習っていた日本人が、弱々しく「ノー」と答えて、もっとハッキリ態度をあらわせと注意されていたのを思い出します。人格をもった一個の人間なら、責任ある態度をとれ、とその英語教師は言うのです。かれに言わせれば、事実そうでないことをあいまいにノーと言うのは、質問者に対して失礼ではないかと。
 この違いちが は、否定している対象の違いちが にもとづくようです。英語の場合には、おたがいが客観的に「事実」を見て、その「事実」について語ります。それが、イエスとノーに要約されているといえましょう。たとえば、「見ませんでしたか。」というような否定の質問には、日本語と英語とで答えが逆になることが一般いっぱんに知られています。見なかった場合に、日本語では「はい」と言い、英語では「ノー」と答えます。つまり日本語の場合、答え手は、まずその質問を受けた「聞き手」として、その質問文の「話し手」の視線に合わせて自分の行為こういを見、質問文と自分の行為こういとの間に一致いっち点を見いだして、「はい」と答えるわけです。逆に、事実を見た場合には「いいえ」と答えることになります。すなわち、日本語の否定は「質問」の文型あるいは質問者の意向に向けられていますが、英語の否定は質問を受ける側の、現実の行為こういの有無に向けられています。ですから英語では「ノー」とはっきり言うことができ、むしろ、事実を事実としてはっきりと否定することが、相手の尊重にもつながるわけです。
 しかし、日本語の返答では、否定が「質問」の方に向けられているために、微妙びみょうな心理がからんできます。きっぱり否定したりすると、「いいえ」が事実の否定をとびこえて、相手の考え方や感じ
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方の批判にまで及ばおよ ないとも限りません。そこで「いいえ」は自然に控え目ひか めになります。その控え目ひか めな態度によって、否定が事実だけに限定されることを、無意識のうちに示唆しさしているといえましょう。こうして声をおさえることが、客観性にふみとどまる一つの手立てともなるわけです。
 それさえも不安になると、「いいえ」のかわりに小声で「はい」という人さえあります。これをウソつきだときめつけることも一概にいちがい はできません。こういう場合は、声の調子とか表情とかを総合して判断することが必要です。それはもう意味をもつ言葉というよりも、困惑こんわくをあらわすため息のようなものとして受けとめるべきものかもしれません。日本人は、いつしか読心術のようなものを身につけ、ことばのみせかけにまどわされることはありませんが、外国人にとってはかいしがたいことが少なくないようです。

 (山下秀雄の文章による。京都府)
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a 長文 12.3週 yu
 一人一人の話が、みなそれぞれに違っちが ているからこそ面白いのだが、その一人一人の違うちが 話を聞いているうちに、「宇宙飛行士たちは、やはりみんな、宇宙で、ある共通の体験をしているな。」と私は確信するようになった。
 ただ、たぶんその共通体験は、ほとんど無意識のうちに、直観的になされるものだから、必ずしも彼らかれ 自身が認識しているとは限らない。地球に戻っもど てから宇宙体験の話をするとなると、どうしてもそこに、宇宙飛行士一人一人の、この地球での個人的な歴史や価値観、現在の環境かんきょうなどが関わってくる。だから、話の表面のディテールが違っちが てくる。しかし、その表面的な違いちが にとらわれず、その話のおくに秘めたものを注意深く探ってみると、そこに共通体験が見えてくるのだ。
 結論を先に言ってしまうなら、彼らかれ はみな、宇宙で『私』という個体意識が一気に取り払わと はら れるような体験をしている。
 この体験を最もわかりやすく話してくれたのは、アポロ9号の乗組員だったラッセル・シュワイカートだ。
 かれが、月面着陸船のテストを兼ねか て宇宙遊泳している時のことだった。
 かれの宇宙空間での仕事ぶりを宇宙船の中から撮影さつえいするはずだったカメラが突然とつぜん故障し、動かなくなった。撮影さつえい担当のマックデビッド飛行士は、シュワイカートに、そのまま何もせず五分間待つように言い残して宇宙船の中に消えた。
 シュワイカートに、突然とつぜんまったく予期しなかった静寂せいじゃくが訪れた。
 それまで、秒刻みでこなしていた任務が一切なくなってしまったのだ。
 地上からの交信も途絶えとだ た。
 そして、真空の宇宙での完全な静寂せいじゃく
 かれは、ゆっくりとあたりを見回した。
 眼下には、真青に輝くかがや 美しい地球が拡がっている。
 視界をさえぎるものは一切なく、無重力のため上下左右の感覚も
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ない。自分はまるで生まれたままの素裸すっぱだかで、たった一人でこの宇宙のやみの中に漂っただよ ている、そんな気がした。
 突然とつぜん、シュワイカートの胸の中に、なにか言葉では言い表すことのできない熱く激しい奔流ほんりゅうのようなものが一気に流れ込んなが こ できた。考えた、というのではなく、感じた、というのでもなく、その熱い何かが、一気にからだの隅々すみずみにまで満ちあふれたのだった。かれは、ヘルメットのガラス球の中で、わけもなく大粒おおつぶなみだを流した。この瞬間しゅんかんかれの心に、眼下に拡がる地球のすべての生命、そして地球そのものへの言い知れぬほどの深い連帯感が生まれた。
「今、ここにいるのは『私』であって『私』でなく、すべての生きとし生ける者としての『我々』なんだ。それも、今、この瞬間しゅんかんに、眼下に拡がる、青い地球に生きるすべての生命、過去に生きたすべての生命、そして、これから生まれてくるであろうすべての生命を含んふく だ『我々』なんだ。」
 こんな、静かだが、熱い確信がかれの心の中に生まれていた。
 シュワイカートが宇宙空間で体験したこの『私』という個体意識から『我々』という地球意識への脱皮だっぴは、今、この地球に住むすべての人々に求められている。

 (龍村仁たつむらじんの文章による。)
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a 長文 12.4週 yu
 「見どころ」、「聞きどころ」という言葉がある。「見どころ」は「見る価値のあるすぐれたところ」を、「聞きどころ」は「聞くねうちのある個所かしょ」を意味する言葉として、能、歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりをはじめ、それから派生してきた舞踊ぶよう歌謡かようなど、日本の伝統的芸能の世界でよく使われてきた。ところが、戦後になってから、いつのころからか、その世界では、この二つの言葉のかげ薄れうす て、「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉が優勢になった、とある放送関係の人が教えてくれた。「見どころ」、「聞きどころ」というのは、芸能を享受きょうじゅする側がそれを演ずる側の芸について言う言葉であるが、「見せどころ」、「聞かせどころ」は反対に演ずる側が言う言葉であろう。後者のような言葉が昔から芸能の世界にあったのかどうか私は知らないが、「見せ場」という言葉はあったらしい。辞書によれば、「みせば」は「芝居しばいなどでその役者が得意とする芸の見せどころ」のことである。(「見せどころ」は――「聞かせどころ」も――辞典には見当たらない)が、それは役者自身が使ったのか、観客たちが「見どころ」を役者に投影とうえいして使ったのか、辞書からはわからない。「見せどころ」、「聞かせどころ」も、芸能の演者自身が使っているのか、興行こうぎょうや放送番組のプロデューサーなどが使っているのか、私はよく知らないが、とにかく、この二つの言葉がいま電波や活字に乗って横行おうこうしているというのは、どういうことであろうか。 
 「見どころ」、「聞きどころ」というのは、芸能を享受きょうじゅする人たちが出し物や曲目からつよい感動をうける個所を指すが、その感動は、それを演ずる人の芸をはなれては生じないが、享受きょうじゅする側の鑑賞かんしょう力をはなれてもありえない。芸能は享受きょうじゅ鑑賞かんしょうする側と演ずる側とが対等であって、両者の交感が成立するときにはじめて十全なものになる。そして、「見どころ」、「聞きどころ」は、享受きょうじゅする側の批評意識においてこそ成立するはずである。「見どころ」がすきのない芸の全体をつうじてしか成立しないことを知っている本もの芸能人は、けっして、「見せどころ」、「聞かせどころ」などとは言わないにちがいない。「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉は、享受きょうじゅする側を無視して、演ずる側が自己を
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誇示こじしようとする態度を示すものであろう。その言葉には、演ずる側がその芸をセールス・ポイントにして享受きょうじゅする側におしつけようとするあつかましさ、「ここが見聞きする価値のあるところだ」というおしつけがましさが感じられる。少なくとも、そこには、芸能人または興行者(放送のプロデューサーや解説者を加えてもいい)が、観客や聴衆ちょうしゅうにいわば指導者として臨むという思い上がった姿勢が見られる。 
 だが、他方から見れば、多くの人びとが伝統芸能に対する教養と関心を失っていることもたしかである。かつて、歌舞伎かぶきの観客なり浄瑠璃じょうるり聴衆ちょうしゅうなりは、演じられる出し物や曲目についてよく知っており、演ずる者と共通の理解のうえに立っていたが、今日、その共通の地盤じばんは大きく崩れくず ている。伝統芸能は生活の根から切りはなされて、いわば保存の対象にされている。だから何とかして多くの人たちに伝統芸能のよさを認識させようと熱意と焦りあせ が、芸能関係者たちに啓蒙けいもう的指導者としての姿勢をとらせて、「見せどころ」、「聞かせどころ」などという言葉遣いことばづか を生みだしたのかもしれない。 
 いずれにせよ、「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉は、伝統芸能の危機の深さを端的たんてきに表現している。そして、そのような伝統芸能の危機が、日本の社会と日本人の生活意識とのすさまじいほどの急激な変化の一つの局面であることは、言うまでもあるまい。私は「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉のことを考えながら、言葉遣いことばづか の変化という些細ささいな現象がどんなに複雑な要因をその背後にもっているかに思いあたって、あらためて驚いおどろ た。こうした言葉の変化が日本語の混乱として現れているとすれば、それは日本の社会の変化というより、日本の社会と文化そのものの危機を表しているのではあるまいか。
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