a 長文 10.1週 yu2
 流氷の底には、植物プランクトンがはりついています。このプランクトンをアイス・アルジーといいます。アルジーとは藻類そうるいのことで、アイス・アルジーは海氷の底にはりつく藻類そうるいの仲間です。この藻類そうるいで、流氷の底の部分が茶褐色ちゃかっしょくになるほどです。氷の中や氷の底について冬をすごしたアイス・アルジーは、氷が溶けると  春に爆発ばくはつ的な大増殖ぞうしょくをおこないます。春になり太陽の高度も上がって、日ざしは日一日とつよくなっていきます。流氷が溶けと ていく一方、アイス・アルジーは海水中の豊富な栄養分(無機塩類)を得ながら、十分な日の光によって光合成をおこない、増殖ぞうしょくします。こうして、大増殖ぞうしょくする植物プランクトンは、海中の無機物を有機物に変えて生活し、ほかの生物のえさとなります。
 なぜ、このような大増殖ぞうしょくが、流氷の海でおこるのでしょうか。海の浅いところは、本来は栄養分が少ない場所なのです。太陽の光は、海の浅い部分にしかとどきません。浅い部分では、植物プランクトンは光合成をおこない、栄養を消費してしまいます。そのため栄養分は少ないのです。一方、深海には光がとどかず、光合成ができないため、栄養分は蓄積ちくせきされていきます。しかし、表層の植物プランクトンは、深海の栄養分を利用することができません。
 ところが、流氷の海のメカニズムは、深海にたまった栄養分を浅いところまで上げてくるのですから、驚きおどろ です。
 海水が凍るこお ときは、真水の部分だけが氷となって、濃いこ 塩水が海氷から海中にはきだされます。大部分の塩分ははきだされるのですが、一部は海氷の中に閉じこめられます。この閉じこめられた濃いこ 塩水は、ブラインとよばれます。知床しれとこ博物館の観察会で流氷を溶かしと  て飲んでみたら、薄いうす 塩味がしました。これは氷の中にブラインをふくんでいるからです。
 氷の中のブラインは、時間がたつとだんだん下に移動して、海水中に抜け落ちぬ お ていきます。流氷からはきだされたブラインや氷が溶けと た冷たい水は、表層の海水より重いので、海の底まで沈んしず でいきます。そして、入れかわりに、深層の海水が浮かび上がっう  あ  てくるのです。これを湧昇ゆうしょう流とよびます。
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 流氷があることで、海の水が大きく循環じゅんかんするのです。それによって、海の底にある栄養分が浅いところまで上がってきて、植物プランクトンがこの栄養分を利用できるようになるのです。湧昇ゆうしょう流のあるところでは、この栄養分と日光により植物プランクトンが増殖ぞうしょくし、これをえさにする動物プランクトンや魚類も集まります。そして海鳥も海の哺乳類ほにゅうるいも集まってくるのです。
 オホーツク海が豊かな海となっているもうひとつの理由は、シベリア大陸を流れてオホーツク海にそそぐアムール川にあります。アムール川はそれ自体が海氷をつくりだす役割をはたしているのですが、流域の湿原しつげんや森林から供給される栄養塩類や微量びりょう元素が、オホーツク海を豊かな海にしていることが、最近の研究でわかってきました。なかでも鉄は光合成には重要な元素で、春の植物プランクトンの大増殖ぞうしょくをささえています。また、アムール川から供給された栄養物質や河口付近の大陸棚たいりくだなの栄養分は、オホーツク海の中層を流れる海流によって、北海道近海まではこばれます。
 日本とヨーロッパをむすぶ航空路は、シベリア上空を通ります。日本を発った航空機は、日本海をぬけ、ロシア沿海地方のシホテーアリン山脈の大森林(ここも世界自然遺産です)上空を通って、アムール川流域を横断します。眼下には、大きく蛇行だこうして流れる大河アムール川と、流域の大湿原しつげん地帯をのぞむことができます。
 世界でも一〇本の指に入る大河アムール川がはぐくむオホーツク海。その南端なんたんに位置する知床しれとこの海は、シベリアの自然とも深くつながっているのです。

 (中川元「世界遺産・知床しれとこがわかる本」による)
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a 長文 10.2週 yu2
 最近、よく絵本を買う。自分で読みたいからだ。生きることや失うこと、喜びや悲しみ、なみだや笑いについて、簡潔な言葉と象徴しょうちょう的な絵で語りかけてくる絵本の深い味わいを、数年前にふとしたことから再発見した。絵本を開くと、都会を離れはな て山間の林を散策する時に似て、忘れていた大事な感覚が甦っよみがえ てくる。
 そんな日々のなかで、ふと思い出したのは、もう四半世紀も前に読んだ井上いのうえやすし氏のエッセイ集『わが一期一会』のなかの一文だった。「詩のノートから」という章のなかに、「あじさい」という短文がある。幼いころに心に刻まれた事象に潜むひそ 意味を、人生経験を経てからしゃくしなおし言語化している文章だ。
 井上いのうえ氏は幼いころ、なぜかあじさいの花に好きでないものを感じていた。その理由を、今ではこう表現できる。
 「雨をしっとりと吸って重たげでもあり、多少憂うつゆう  げでもあり、こうした時期(梅雨期)に咲かさ ねばならぬ花としての諦めあきら も持っている。」
 大事なことは、幼い者の感覚は、その時は言語化できなくても、非常に確かだという点だ。
 井上いのうえ氏は、こう断じる。
 「幼い者の世界には、大人の世界よりも、もっと重大な、しかも本質的意味を具えた事件がたくさん起こっている。」
 確かに、「幼いころ、外界の事象から心に受けとめているものは、そして心に深く刻み込まきざ こ れているものは、その事象の本質に繋がるつな  なかなか大切なもの」なのに、大人になるとその感性は失われてしまうのだ。
 それゆえに大人の目からは些細ささいなことに見えても、幼い者にとっては容易ならぬ事件であることが少なくない。そういう事件は心に深く刻みこまれ、情動反応の原型となる。
 井上いのうえ少年は庭のすみを流れる小川で顔を洗っている時、石けんを流してしまったことを鮮やかあざ  記憶きおくしている。それだけのことを生涯しょうがい忘れられないのは、決して取り戻すと もど ことのできない喪失そうしつ感のはじめての体験だったからだ。
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 田んぼでみんなでたこ揚げあ をした時、自分のたこだけがすぐに墜落ついらくしてどうしても揚がらあ  なかったことで受けた打撃だげき。それは人生で最初に味わった絶望感であり孤独こどくな思いだった。井上いのうえ氏は大人になってどんなに仕事がうまくゆかなくても、あの時ほどの絶望感は味わっていないという。
 よくわかる。私もそういう「はじまりの記憶きおく」がいくつも鮮明せんめい浮かんう  でくる。
 田舎町では自動車が珍しかっめずら   た終戦直後のことだ。小学校五年だった私は自転車で四ツ角を突っ切ろつ き うとした時、横から走ってきた車にはねられた。幸い足に打撲傷だぼくしょうを負っただけだったが、自転車の前輪はくの字形にひん曲がっていた。
 私は自転車を家の裏手に隠しかく て、家族には事故のことを告げずにてしまった。親に叱らしか れるのを恐れおそ たのではない。頭の中が混乱し収拾がつかなかったのだ。そのことを、今の私は、「事故の不条理さにたじろいだ最初の体験」と表現することができる。
 井上いのうえ氏は、幼い者は鋭いするど 感受性で物事の最も本質的な部分を感じ取っているので、幼児期の体験に表現を加えると、みな詩になると語る。
 そうなのだ。感性豊かな作家や画家によるすぐれた絵本は、詩と同じく物事の本質的で大切な部分を表現しているのだ。

柳田やなぎだ邦男くにお「言葉の力、生きる力」より)
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a 長文 10.3週 yu2
 日本語は乱れているのか、いないのか。その判断は案外難しい。日常的な感覚で言えば、「コンビニ」というような名詞や、「何気に」という副詞や、「お名前さまは?」などという不気味な質問や、「私って、朝、弱いじゃないですかあ。」というような話し方を耳にすると、「日本語は乱れている、世も末だ。」という気にどうしてもなる。
 一方、客観的に考えれば、言葉は生き物である。日本語と同じように、英語も古英語と現代英語とでは大きな違いちが がある。おそらく人間の話す言葉はいずれも同様であろう。どのような言語であっても、言葉は常に動いており、時代とともに変化していく。だからこそ言葉はおもしろいとも考えられる。
 それなら、なぜ私たちは言葉の変化に神経をとがらせ、「乱れている」と嘆くなげ のだろうか。言葉が「乱れている」と我々が表現する際の心持ちは、その変化が必ずしも好ましい方向に向かっていないと本能的に感じているか、あるいは、通常の変化の域を越えこ ていることへの不安感に基づくものなのではあるまいか。
 さらに、外国語からの借用語が入り込みはい こ 、日本語が急速に変貌へんぼう遂げと ていることも「乱れ」と感じる一つの大きな要因となっている。日本人は、日本語で同じ意味を表現できるにもかかわらず、半ば無意識に英語を取り入れてきた。その結果として、英語からの借用語がただならぬ量で日本語を侵食しんしょくしつつある。たとえば、「介護かいご」と言えばよいところを「ケア」と言う。自宅で食べれば単なる「ご飯」であるものが、レストランで出されると「ライス」となる不思議さ。ことは名詞にとどまらず、英語を日本語の動詞として借用する頻度ひんども増えている。「トラブる」はすでに日本語として定着していると言ってよい。
 しかし、私が懸念けねん抱くいだ のは、こういった外来語の増加そのものより、他の点にある。一つは、こういったカタカナ語のほとんどが「和製英語」であり、そのまま英語としては通用しないものである点。日本語として取り込んと こ だ以上、どのように使おうと自由であろうが、使用している側が、もとは英語であると思い込んおも こ でいることがかえって始末に悪い。日本に住む外国人がもっとも理解に苦労するのが和製英語だという現実も、国際化という観点から見れば残念なことである。
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 懸念けねんの第二点は、「乱れる」という以前に、日本人の言語に対する姿勢が、ますます消極的になっている感を受けることである。コミュニケーションがキーワードとなっているのは表面的な話であり、実のところ、日本人は若者も含めふく 、コミュニケーションに対するエネルギーを欠いたままである。その一つの表れとして、少しでも長い単語は短縮する傾向けいこうが強まっていること、特に若者にそれが顕著けんちょである点があげられる。「クリスマス・パーティー」が「クリパ」になり、「ラブ・ジエネレーション」という人気ドラマが「ラブ・ジェネ」となる。単語がこんな調子であるから、文章も短文と感動詞の組み合わせで十分成り立ち、筋道を追った議論を展開するよりは、「ウッソー、まじ?」で普段ふだんの対人コミュニケーションがすんでしまう。
 一つ一つの単語の次元を越えこ 、コミュニケーションというレベルで考えると、日本人は、言葉を探し、言葉によって自己表現し、他者との関係性を構築することに対して意欲的でないことが、むしろ気になる。この原因が何なのかは一概にいちがい は言えないが、「共同体としての緊密きんみつ性が言語表現への依存いぞん度を低くしている」というある学者の説が該当がいとうすると言えるのだろうか。一昔前までは確かにそうだったのだろう。しかし、現代の日本社会における言葉の軽さ、中身の伴わともな ない言語のありようを見ていると、個々人の言葉に寄せる信頼しんらい感や期待感がなし崩し  くず になってきたからだと思われる。言語に対する日本人のこのような態度から考えると、日本語は乱れているというより、むしろ力を失っていると言えないであろうか。

(鳥飼玖美子くみこ「日本語は意欲を失っている」より)
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a 長文 10.4週 yu2
 戦後の日本人に大いなる勇気を与えあた た出来事の一つとして、一九四九年に湯川秀樹ひでき博士に届いたノーベル物理学賞受賞の知らせが挙げられる。敗戦の精神的痛手から立ち直ろうと苦闘くとうしていた当時の日本人にとって、日本人初の栄誉えいよの知らせは、大いに自信を与えあた 、勇気づけられるニュースであったと伝え聞く。
 それまで、物質を構成する最小単位である素粒子そりゅうしは永遠不滅ふめつのものであると考えられていたが、湯川博士が、寿命じゅみょうを持ち消滅しょうめつしてしまう「中間子」の概念がいねんを初めて提出した。有限な命を持つ粒子りゅうしを考えなければ、物質の相互そうご作用は説明できないというのがかれの理論の核心かくしんである。
 湯川博士の業績は、理論物理学におけるそれである。理論物理というと、難解な数学を使うこともあり、きわめて専門的な分野という印象が強い。やはり、若い時に集中的に勉強して、早めに頭角を現さなければどうしようもないというイメージを持つ人が多いだろう。
 しかし、理論物理の天才を育成するためには「鉄は熱いうちに打て」を実行するのがよいかというと、事はそんなに単純ではなさそうだ。
 幼少期から数理系の専門的な訓練をするいわゆる「英才教育」を行った事例がよく知られているが、若くして大学に進むなどの成果はあるものの、その後伸び悩んの なや でしまうことが多い。なぜ、英才教育による「早熟の天才少年・天才少女」はその後、才能を伸ばせの  ないことが多いのか。湯川博士の生涯しょうがいに、この疑問に対する答えのヒントが隠さかく れているように思う。
 湯川博士のお父さんは本が好きで、蔵書で手狭てぜまになる度に「もっと広いところに移らなければダメだ」とばかりに引っ越しひ こ 繰り返すく かえ 、そんな家庭環境かんきょうだったという。湯川博士も、幼少期から『論語』や『史記』などの中国の古典を徹底的てっていてきに素読させられた。後年、湯川博士の物理学に留まらない幅広いはばひろ 教養は世間に知られることになるが、そのいしずえは子どものころに築かれたのである。
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 漢籍かんせきの素養は、理論物理学には直接関係ないように思われるかもしれない。確かに、幅広いはばひろ 教養だけでは、独創性を発揮できない。集中的に理論物理を勉強し、思索しさくするということがなければ、中間子理論もノーベル賞受賞もなかったであろう。
 その一方で、脳の仕組みから考えると、漢文の素読で培わつちか れたような総合的知性が、中間子理論の独創につながった可能性は高い。脳の中では、漢籍かんせきの教養と数理的な思考をそれぞれ担う部分は完全に独立しているわけではない。全ての要素はお互い たが につながり、関係し合っているのである。
 総合的な教養、知性という「裾野すその」があって、初めて鋭利えいりな専門的能力も立ち上がる。理論物理学をやろうという場合でも、直接の関連性が高い物理や数学の知識だけが必要なのではなく、一見関係がないようにも見える『論語』の素養が役に立つ。だからこそ、人間の知性は奥深くおくふか 、面白いのである。
 対象となる活動分野が、文学のように、最初から「酸いも甘いあま 噛み分けか わ た」人生経験を必要とするようなものだったら、総合的知性が作品に反映されるのも当然と思われるかもしれない。総合的知性が必ずしもその業績に直結せず、場合によっては邪魔じゃまするかにさえ見える理論物理学のような分野において、様々な素養が役に立つという視点が興味深いのである。
 人間としてのトータルな力がなければ、どんな専門性においても天才という名に相応しい仕事を残すことはできない。どうやら、それが真実であるようである。

 (茂木もぎ健一郎けんいちろう「それでも脳はたくらむ」による)
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a 長文 11.1週 yu2
 本には実に様々なものがある。強烈きょうれつな著者も揃っそろ ている。正反対の主張のものも店先では並んでいる。私は大学の授業では、学生に自主的なプレゼンテーションを一、二分でしてもらうことにしている。そのときに、毎回同じ著者の作品を発表する者がでてきてしまう。これは非常に狭いせま プレゼンテーションだ。そうした学生の特徴とくちょうは、妙にみょう 自分の(実は著者の)意見に確信を抱いいだ てしまっているということだ。充分じゅうぶんな教養もできていないのに、数冊読んだだけで絶対の自信をもってしまうのは、いかにも危険だ。
 多くの本を読めば、一つひとつは相対化される。落ち着いていろいろな思想や主張を吟味ぎんみすることができるようになる。好きな著者の本を読むだけでは、こうした「ためらう」心の技は、鍛えきた られない。すぐに著者に同一化して舞い上がるま あ  というのでは、自己形成とは言えない。
 自己形成は、進みつつも、ためらうことをプロセスとして含んふく でいるはずだ。人間は努力する限り迷うものだと言ったのは、ゲーテだ。冷静な客観的要約力をもって、いろいろな主張の本を読むことによって、世界観は練られていく。もちろん青年期には、何かに傾倒けいとうするということがあっても自然ではある。しかし、その傾倒けいとうが一つに限定されるのではなく、傾倒けいとうすればするほど外の世界に幅広くはばひろ 開かれていくというようであってほしい。一つの本を読めば済むというのではなくその本を読むと次々にいろいろな本が読みたくなる。そうした読書のスタイルが、自己をつくる読書には適している。
 ためらうというと、否定的な響きひび を持っているかもしれないが、ためらうことは力を溜めるた  ことでもある。一つに決めてしまえば気持ちは楽になるが、思考が停止してしまいがちだ。思考を停止させずに吟味ぎんみし続けるプロセスで、力を溜めるた  ことができる。本を読んでいると、著者に直接反論できるわけではない。少し自分とは意見や感性が違うちが なと思うことももちろんある。しかし、直接反論はできないので、その気持ちを心に溜めた ていく。はっきりとは言葉にして反論できなくとも、その溜めた たものは、やがて力になっていく。そして、別の著者の本を読んだときに、あのときに感じた
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違和感いわかんはこれだったのかと気づくこともある。自分自身でその違和感いわかんを持った本について人に話しているときに、違和感いわかんの正体に自分で気づくということもある。読書は、完全に自分と一致いっちした人の意見を聞くためのものというよりは、「摩擦まさつを力に変える」ことを練習するための行為こういだ。自分とは違うちが 意見も溜めた ておくことができる。そうした容量の大きさが身についてくると、ふところが深くパワーのある知性が鍛えきた られていく。
 ためらうことや溜めるた  ことを、効率が悪いこととして排除はいじょしようとする風潮が強まっている気がする。十代の後半などは、このためらい自体を雰囲気ふんいきとして味わうのがふさわしい時期であったのだが、現在は効率の良さを求めるあまり、ためらう=溜めるた  ことの意味が忘れられかけようとしている。本を読むという行為こういは、この「ためらう=溜めるた  」という心の動きを技として身につけるためには、最良の方法だと思う。

齋藤さいとう 孝「読書力」より。一部省略がある。)
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a 長文 11.2週 yu2
 私は大学で長年、機械設計について教えてきました。そこでの経験を通じて感じたのは、どんな場面でも応用できる知識を学生たちが身につけるには、自分自身で小さな失敗を経験したり、他人の失敗を知ったりすることが最も有効だということです。
 多くの学問がそうであるように、このときはこうすべきだという「うまくいく方法」を教える講義を行っていると、ねむそうな顔でつまらなそうにそれを聞いている学生がたいがい何人かいるものです。それが失敗の話を始めた途端とたんに、そのような学生たちまで一転して目を生き生きとさせ、熱心に話に聞き入るということがよくありました。この原因を私なりに考えてみたところ、「同じ失敗をしてはいけないと感じることで、学ぶ必要性の認識が生まれたからだ。」という答えにいたりました。失敗には、なにやら人を引きつける不思議な魅力みりょくがあるのはたしかです。その秘密に迫っせま てみようと、さまざまな失敗を注意深く観察し、体系的にまとめたのが、私が「失敗学」と呼んでいる考え方です。
 私は失敗とは、「人間が関わって行うひとつの行為こういが、はじめに定めた目的を達成できないこと」と定義しています。失敗には、いつも負のイメージがつきまといます。失敗を経験すると、人はだれでも悔しくや がったり、恥ずかしは   がったり、不愉快ふゆかいな思いをします。その一方で、人が新しいことに挑戦ちょうせんすれば、それこそはじめは失敗の連続なので困ってしまいます。そうした失敗を避けるさ  ために、過去の成功体験、成功事例に学んで必死に努力している人もいます。しかしどんなに準備をしたつもりでも、必ず予期せぬことが起こり、やっぱり失敗を経験することになります。
 失敗しないためのいちばんの方法は、何も新しいことにチャレンジしないことです。しかしそうした人は、失敗はしないかもしれませんが、その人には成功も喜びも訪れません。それどころか何もしなかったことで、結局じり貧という結末が待っているだけかもしれません。
 失敗はマイナス面にだけ目を向ければたしかにこれほどいやなものはありません。しかし反対にプラス面を見てみると、失敗が人類の進歩、社会の発展に大きく寄与きよしてきた事実があることも忘れてはならないように思います。昔から人間は失敗に学び、そこからさらに考えを深めてきました。人々の生活を快適にした画期的発明を振り返っふ かえ てみても、そのすべては「失敗は成功の母」「失敗は成
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功のもと」などの言葉に代表されるような、過去の失敗から多くのことを学んでこれを新たな創造の種にすることでなし得たものなのです。個人のことを考えても同じことがいえます。私たちが日常的に行っているすべての事柄ことがら、仕事でも家事でも、趣味しゅみでもなんでも、失敗なしに上達することは不可能です。人の行動には必ず失敗がつきまとうものですが、一方でそうした失敗なしに、人間が成長していくこともまたあり得ません。
 では、成長するために、なんでもかんでもとにかく失敗すればいいのかというと、そんなことはありません。失敗についてきちんと知り、過去の失敗を生かせるようにならなければ、失敗を「成功の母」や「成功のもと」にすることはできません。何も考えずにただ漫然とまんぜん 同じ失敗を繰り返しく かえ ているだけでは、失敗は成功の母どころか大きな失敗を生み出す「失敗の母」「失敗のもと」にしかならないのです。

(畑村洋太郎ようたろう「失敗を生かす仕事術」より)
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a 長文 11.3週 yu2
 情報という言葉が、時代ののぼりのようにつかわれるようになってずいぶんになります。情報について語られる言葉には特徴とくちょうがあって、それは、ほとんど未来形によって語られるということです。これからの時代になにより求められるのは開かれた情報である、というふうに。「これから」を語るために語られ、論じられてきたのが、情報です。
 反対に、読書をめぐる言葉は、どうかすると過去形によって語られ、「これまで」を語る言葉にとどまっています。今はもう読書の時代ではない、というふうに。けれども、そんなふうに、読書と情報を「これまで」から「これから」へという文脈で語ろうとすれば、誤ります。
 質されなければならないのは、情報のかたちや読書のかたちは、これからどうなってゆくか、ではありません。そうではなくて、いま、ここに、あらためて質されるべきことは、そもそも情報とは、読書とは何だろうかということです。
 いつだったか新聞の家庭らん載っの た、とてもきょうみある投書を読んだことがあります。
 結婚けっこんしている女性の投書でしたが、夫はたいへん本が好きである。何かというと、すぐに本を買ってくる。ただ、全然読まない。積んで置いておくだけなので、家中いまや本だらけだ。夫の買いもとめてきた本を、女性は読んだことがない。自分はたくさん本を読むと思うが、読むときは図書館から借りてきて読む。つまり、こういうことです。夫は本を買うが、読まない、自分は本を買わないが、読む。
 夫の仕事の都合で転勤がつづき、引っ越しひ こ 繰りかえさく    れるのですが、引っ越しひ こ でいちばん厄介やっかいな家具は、じつは本。ものすごくかさばって、ものすごく重いのです。どんな頑丈がんじょうな家具より、本そのもののほうがずっと重い。それでその女性は、引っ越しひ こ のたびに考え込むかんが こ そうです。読まない本も、どうして引っ越しひ こ 一緒いっしょにもってゆかないといけないか、と。
 読書についてのおもしろい問いかけが、この投書には隠れかく ています。この女性の夫のように、本を買ってきて読まないというのは、何のための本なのか。
 かつて「積ン読」という言いまわしがありました。読まずに本を積んだままにしておくうちに、なんとなく読んだような気分になる
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のが「積ン読」。本を買ってくるのは、気になって買ってくるのです。気になって本を買うのは、そこにあるだろう情報を手に入れたいから、情報としてその本を求める。しかし、情報の価値は情報を手に入れることにあるので、手に入れれば、とりあえず気持ちは落ち着く。というわけで、本を買ってくる。しかし、読まない。
 この投書の女性のほうは、あくまで読書のための読書を、本に求めている。ですから、べつに本を所有しなくともかまわないのです。
 読んで頭に、あるいは心にしまうという読み方ですから、場所はとらない。荷物にならない。二人で暮らしていて、一人は、本はあるが読まない。もう一人は、本はないが読んでいる。あたかも、一人が情報の文化を代表し、もう一人が読書の文化を代表しているかのようです。
 比喩ひゆで言うと、読書は、蜜柑みかんの木のようなもの。情報は、その蜜柑みかんの木になる実のようなものです。実は木からもぎとって、別の場所へもってゆくことができる。あるいは、読書が種蒔きま だとしたら、情報はその収穫しゅうかく物です。収穫しゅうかく物は、別の場所へ動かすことができる。しかし、動かずにそこにあるのは、木であり、畑です。そのように、ひとの心の風景のなかにある、実のなる木であり、種子を蒔くま 畑であるのが、読書です。
 今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把おおざっぱに言えば、モノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている、その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして、情報というのは物流・流通に似ています。
 生産・製造に似ているというのは、たとえば種を蒔くま こと、蜜柑みかんの木を育てることといったことには、どうしても必要なものがある。必要なものは、努力です。育てるということに十分に努力しなければ、穫りか 入れは期待できない。
 ところが、ひとがモノを手に入れるのは、それを享受きょうじゅするため、ということです。ですから、どれだけ自由に楽しむことができるか、享受きょうじゅすることができるか、という人びとの要求に、どんなふうにこたえられるかが、物流・流通の基本です。
 その対比を用いれば、読書のかくをなすのは、努力です。情報の
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長文 11.3週 yu2のつづき
かくをなすのは、享受きょうじゅです。読書は、個別的な時間をつくりだし、情報は、平等な時間を分け合える平等の機会をつくりだします。つまり、読書と情報は、一見とてもよく似ている。似ているけれども、おたがい似て非なるものです。読書は情報の道具ではないし、情報によって読書に代えるというわけにはゆかないからです。
 簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。

(長田 ひろし「読書からはじまる」より)*一部表記を改めたところがある。
 999897969594939291908988878685848382818079787776757473727170696867 


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a 長文 11.4週 yu2
 地球上に未踏みとうの地がなくなったといわれて久しい。地図をひらくと、すべての土地は線によって区切られ、あらゆる場所に名前が記載きさいされている。大陸があり、国があり、街があり、村がある。その外も内も、まるで既知きちの存在であるかのようにふるまわれている。衛星写真によって世界の隅々すみずみまで見渡せるみわた  ようになった現在、未知の場所はどこにもないのだろうか。
 ぼくはこれまで北極や南極、チョモランマといったいわゆる「辺境」を多く歩いてきた。近年は特に地球温暖化の影響えいきょうが著しい極北を中心に、アラスカやグリーンランドの小村を訪ね歩いている。果てしない氷海の上をひたすらスキーで歩いていてホッキョクギツネやシロクマの足跡あしあとに出会うと、生き物の痕跡こんせきにほっとする。目もあけられない吹雪ふぶきの中、小高いおかの雪面を歩くカリブーのシルエットが視界に浮かび上がっう  あ  たとき、わけもなくなみだが出そうになった。後ろを振り返るふ かえ と氷の水平線がどこまでも続いており、いま自分がここにいることが奇跡きせきのように思われた。
 北極というと厳しい荒野こうやが広がっている印象があるかもしれないが、都市に住む人々が辺境だと思っている場所にも動物や人間の営みは細々と、しかし脈々と受け継がう つ れている。の地に暮らす人々にとってみれば、辺境など存在せず、生きている人の数だけ「中心」があるということにほかならない。
 どんな場所のことも瞬時しゅんじにいろいろ調べられるようになった現代において、一般いっぱん的な観光旅行は、ガイドブックなどに紹介しょうかいされた場所をなぞる行為こういになっている。そこには実際に見たり触れふ たりする喜びはあるだろうが、あらかじめ知り得ていた情報を大きく逸脱いつだつすることはない。
 一方、そうした旅行から離れはな て、旅を続ける人がいることも事実である。ここでいう「旅」とは、決められたスケジュール通りに地名から地名へと移動することではなく、精神的な営みをも含んふく でいる。
 北極であろうがヒマラヤであろうが、そこへ行って何を体験するかが重要なのではない。大切なのは心を揺さぶるゆ   何かに向かいあ
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っているか否かということではないだろうか。
 例えば人を好きになること、新しい仕事を始めること、一つの研究に没頭ぼっとうすること、生まれ育った土地を離れるはな  こと、結婚けっこんしたり子育てをしたりすること、そうした営みはすべて旅の一部なのだ。多かれ少なかれ人はこうした旅を経験し、いま生きているという冒険ぼうけん途上とじょうにあるといえる。
 「自分探しの旅」という言葉を耳にするたびに、ぼくはむずがゆいような違和感いわかんを覚える。人はいつでも「世界と共にある」のに、この場合の目的地は外界ではなく、自分の内面へと向かっているからだ。本来の旅とは自分を変えるために行うものでも癒しいや のために行うものでもなく、自己と世界との関係を確かめ、身体を通して自分が生きている世界について知る方法ではなかったか。
 ナショナルな枠組みわくぐ や、言語、性など、旅の中で人は自分に付いてまわるあらゆるものを意識させられる。何にもとらわれない個としての自分という存在がありえないと認識する一方で、しかしすべてを抱え込みかか こ ながら「一人のわたし」として生きていけるかもしれないということを、ぼくは世界を旅する中で強く感じてきた。
 世界は自分との関係の中で存在し、自分は世界との関係の中で生きている。大切な人のことを思い、今まで過ごしてきた時間について繰り返しく かえ 問い続けながら、世界と共にあること。地理的な未踏みとうの地がなくなったとしても、自己と世界とのかかわりの中で「一人のわたし」はさまざまな境界線を飛び越えと こ 、無数の未知を発見する旅にでることはできる。旅のフィールドは、ここやあそこではなく、目の前に、今ここにあるのだ。

 (石川直樹の文章による)
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a 長文 12.1週 yu2
 日本の美術ということを考えてみると、時代によって、流派や技法によって、あるいは作者の個性によって、多種多様である。しかし、表現の違いちが 超えこ て、日本の美術を貫いつらぬ ている、美の日本的なとらえ方とでもいうべきものがあるのではないだろうか。
 ヨーロッパやアメリカと違っちが た、日本人が受け継いう つ できた美というものがあることは、私たちのだれもが知ってはいる。だが、それはどういうものかということになると、簡単には答えることができない。一つの、現象をとらえて、それは日本画と油絵の違いちが のようなもの、あるいは能とシェイクスピアの違いちが のようなものだと言っても、充分じゅうぶんな説得力をもたないだろう。日本画と油絵は、単に用いる絵の具や素材の違いちが にしかすぎないとも言えるし、違いちが だけで言うなら、能と歌舞伎かぶきを比べれば、能とシェイクスピアほどの違いちが があるとも言える。
 日本の美というものはまた、外国のものに染まらない純粋じゅんすいな、という意味でもない。日本は大陸と海を隔てへだ た島国ではあるが、歴史的にみれば、あらゆる時代に多かれ少なかれ大陸の影響えいきょうを受けていることは明らかである。
 従って、大事なことは、個々の表現での外国との違いちが ということではなく、油絵のように比較的ひかくてき新しく外国から入ってきた表現技法も含めふく て、日本人がいろいろな表現手段を用いて実現していこうとする美に、どういう特質が見られるかということだ。それはおそらく、美術だけでなく、文化全体、ひいては政治、経済、宗教といった分野にも共通する、日本人の精神構造にかかわる問題である。
 私は、美というものは、生きることそのものだと思っている。これは人間だけでなく、この世に存在するあらゆるものについて言えることである。その意味では、日本の美とかヨーロッパの美とかいう区別はない。ただ、日本的な美のあり方というものがあるとすれば、それは日本人がどのように生きてきたかということを考えてみなければならないだろう。
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 生きることが美であるということは、わかりやすく言えば、たとえば鳥が鳥として、花が花として生きよう、成長しようとしているときには、美しさを表す、ということである。生きようとすることは、生き残ろうとすることでもあり、非常に長い時間の中で考えれば、進化しようとしていることだ。この世に存在するあらゆるものが、生きようとする意志をもっている。人間や動植物だけでなく、私たちには見えないだけで、水や石のようなものにさえ、生きようとする意志があるかもしれない。少なくとも水にも石にもいのちがあり、そのよりよい状態に、私たちは美を感じることができる。
 いのちあるものは生きようとし、そこに美が生まれる。生きることに逆行する、衰退すいたい破壊はかい枯渇こかつといった状態には、美が表れることはない。
 それでは、日本人の美のとらえ方には、どういう特質があるのだろうか。
 結論を言うなら、私は、まさに日本人の美は、そういうこの世界の万物の、生きようとするところに表れる、いのちの美と一体であるところにあると考えている。この世のありとあらゆるものを、自然と、言い換えい か てもいい。長い歴史を通じて、自然とともに暮らしてきた日本人は、自然の恵みめぐ によって生きられることに感謝し、自然に学びながら文化を形成してきた。どんな小さないのちも、生命を与えあた られたものは生きようとして努力することを、日本人はよく知っており、そのこと自体に感動し、そこから生き方を学ぼうとする。これが日本人の文化の本質なのだ。

(平山郁夫いくお「生きて生かされて」より)
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a 長文 12.2週 yu2
 環境かんきょう問題は、身近な問題であり、人間の生存をも左右する根本的な問題です。しかし、その認識は、問題が深刻にならなければ深まらないというのも事実のようです。このような性格の環境かんきょう問題をうまくたとえたものに水草の話があります。
 地下水が豊富な熊本くまもと市に、江津湖えづこという湖があります。この湖で最近問題になっているのがウォーターレタスという外来の水草の増殖ぞうしょくです。湖一面、この水草で覆わおお れてしまい、ヒメバイカモなどの在来の貴重な水草が駆逐くちくされようとしています。
 水草がこれほど増えるまで問題にならなかったのは、環境かんきょう問題に対する、私たちのこのような意識のあり方と似たところがあったようです。つまり、一片の水草が一週間に二つに増える能力があるとしましょう。最初は、だれかが問題意識もなく、自宅の水槽すいそうの水草を捨てたのでしょう。一週間後、水草が二つに増えてもだれも気づきません。何週間か後、少し目につくようになり水草に気づく人もでてきましたが問題にする人はいません。まだ、広い湖でほんのわずかな部分にあるだけだからです。さらに月日が経ち、水草が湖面の八分の一ほどを覆うおお ようになると、人々が問題にしはじめました。「大変だ。このままでは水草が増えて湖が覆わおお れてしまう。」と。しかし、次の週には、湖面の四分の一に、その次の週には半分まで水草が覆いおお 、本格的な対策を打つ余裕よゆうもなく、人々が騒ぎ出しさわ だ てから、たった三週間目には、水草が湖一面を、占領せんりょうしてしまったのです。
 地球環境かんきょう問題も、この水草の問題と同じような性質をもっています。私たちの子どもたちが生きていく地球の環境かんきょうをよりよいものとするために、問題が現実となる前にしっかりと手を打っておかなければなりません。
 子どものころ、二十一世紀は夢の時代として遠い存在でした。しかし、今、現実となり、私たちの子どもたちがこの世紀を支えていくことになります。
 人間は地球上の他の動物と違っちが て、脳を極端きょくたんに発達させてきました。その結果、知能が発達し、道具を使い、火を利用し、機械をつくり豊かで便利な社会を築いてきました。その反面、私たちの生存の基盤きばんである地球を流れる時間の追随ついずいを許さないはるかに速いス
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ピードで私たちは地球に負荷を与えるあた  ようになってしまいました。私たちの欲望がそうさせたのです。
 今や、地球にとって、他の生物とは異なり、私たち人間の存在そのものが負担となっているのは間違いまちが ありません。私たち一人一人が謙虚けんきょにこのことを受けとめていかなければならないでしょう。
 また、よく都市と地方の対立の構図を見ることがあります。
 都会の人が、田舎の人に対し、環境かんきょう壊れるこわ  から、道をつくるなといってみたり、舗装ほそう道路は必要ないなどといってみたり、しかし、こういう意識は、正しいのでしょうか。このような環境かんきょう問題について声を大にする人々も、普段ふだん、自動車や鉄道を利用し、電気を使い、紙を消費しています。日常、森林の手入れに汗するあせ  こともありません。きっと地方の人々に比べ、一人当たりの地球への負荷量ははるかに大きいはずです。
 二十一世紀を生き抜くい ぬ ためには、このような現実をしっかりと理解し、謙虚けんきょさを失わないことが大切です。また、それが他人であったり、動物であったり、地球であったりもしますが、思いやりを持つことが基本となるでしょう。
 日本では、公徳心に欠ける光景を目にすることがよくあります。自然公園の中で、平気でゴミを捨てたり、木の幹に名前を彫るほ など枚挙にいとまがありません。このようなことをするのは、日常の生活でも、吸い殻す がらを投げ捨てたり、車から空き缶あ かんを投げ捨てたりしているからでしょう。これは自分さえよければ構わないという発想に根ざした行為こういです。だれでも多かれ少なかれ経験しているのではないでしょうか。この公徳心も結局、思いやりの心をもつことで生まれてくると思います。

(矢部三雄みつお「森の力」より)
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a 長文 12.3週 yu2
 アナウンサーの仕事で「聞く」といえばインタビュー。インタビュー番組は、動きの多い生中継ちゅうけいや、細かい編集を重ねた企画きかく番組などと比べると、一見地味に見えます。しかし、アナウンサーにとって、インタビューは最も緊張きんちょうする仕事。「聞く力」を持っていないと、薄っぺらうす   いものになってしまうからです。では、「聞く力」とは、どんな力なのでしょうか?
「この人は、私に関心を持っている」。話を聞く相手に、そのように信頼しんらいしてもらうことが、聞くための最初の一歩です。そのためにアナウンサーは、インタビューに先立って、話を聞く相手のもとに繰り返しく かえ 足を運ぶこともあります。たとえば、Aさんというお年寄りに、戦争体験についてインタビューをするとしましょう。事前にAさんの戦争体験を取材するのは基本ですが、それだけでなく、何度もお宅に通って、Aさんの生い立ちや、家族との関係、打ち込んう こ できた仕事や趣味しゅみについてなど、Aさんの人生年表が出来るくらい聞き込むき こ こともあります。そうしたプロセスの中で、聞き手のアナウンサーの中には、Aさんに対する深い関心が生まれます。そのことがAさんに伝わることで、Aさんも、「本当の気持ちを話してもいい」という信頼しんらい感を持ってくれるのです。
 こんな経験もあります。平成十二年、北海道の有珠山うすざん噴火ふんかした際、私はニュース番組のリポーターとして現地に入りました。地震じしん噴煙ふんえんにおびえながら避難ひなん所で不安な日々を送る被災ひさい者の声を伝えるのが私の役割でした。しかし、取材を始めたころは、なかなか思うように話を聞くことが出来ませんでした。それでも、毎朝七時前から夜九時ころまで避難ひなん所にいると、そのうち被災ひさい者の方が顔を覚えてくださり、声もかけてもらえるようになり、避難ひなん所の子どもたちとも遊ぶようになって、自然に話を聞くことが出来るようになりました。特別なことをしたわけではありませんでしたが、話を聞かせていただくための前提になる「信頼しんらい関係」のようなものが生まれるために、「そこにいる時間」が必要だったのだということを感じた出来事でした。
 インタビュー番組などで、素晴らしい聞き手といわれるベテラン・アナウンサーと著名人のゲストのトークに、若手のアナウンサーやタレントが加わっていることがあります。「ベテラン・アナウ
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ンサーだけで十分ではないか」と思われるかもしれません。しかし、若手のアナウンサーやタレントの「それ、分かりません!」という素朴そぼくな疑問が、ゲストの本音や印象深いエピソードを引き出すこともあるのです。
 ベテラン・アナウンサーは、ゲストとの信頼しんらい関係を築きながらインタビューを深めていきます。反面、ベテランになれば知識も経験も豊富な分、「それは分かりません」とは言いにくいときもあるものです。そんなとき、若手のアナウンサーやタレントが、人生経験の浅さを武器に、率直に「分からない」と疑問をぶつける。これによって、素朴そぼくな疑問を解消したり、新鮮しんせんな発見を盛り込んも こ だりしながら、インタビューを進めることが可能になる場合もあるのです。「相手のことを理解しよう」という姿勢で臨むのがインタビューの基本ですが、もの分かりが良すぎると、核心かくしん迫れせま ずに話が終わってしまうこともあります。簡単に分かったと思わずに、「本当に分かるまで問う」努力を続けることが、聞く力を高めるうえで大切です。(中略)
 こうしてみてくると、「聞く力」の基本は、「信頼しんらいと思いやりに基づく人間関係を築く力」だということが分かってきます。たとえば、息子の本音を聞きたいとしましょう。息子との信頼しんらい関係がない状態で、親の側が勝手に分かった気になって、緊張きんちょうさせるような雰囲気ふんいきで話を聞けば、当然、息子の本音は聞こえてきません。人間関係を築くプロセスなしに、いい話だけを聞こうと思っても、それは無理な相談なのです。

(山下稔哉としや「聞く力を高める」より)
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a 長文 12.4週 yu2
 ブナ林などの落葉広葉樹林では、初夏にいっせいに開葉が起こります。そして、この開葉とともに、葉っぱには大量のイモムシが現れます。彼らかれ 柔らかくやわ   て栄養に富んだ若葉を好んで食うのです。イモムシの量も中途半端ちゅうとはんぱではありませんので、これをめがけて多くの小鳥が集まってきます。冬の間は、幹や枝でそれぞれの得意な方法を駆使くししてえさをとっていた連中が、みな葉っぱに集中するのですが、このなかには、樹をつつくアカゲラなどのキツツキも含まふく れます。温帯において、なぜ鳥の繁殖はんしょく期が初夏なのかに関しては、この時期が森のイモムシに代表されるように、ヒナのえさがもっとも豊かな時期であり、これにあわせて繁殖はんしょくを開始するように鳥たちが進化してきたからだと考えられています。
 さて、樹木の葉っぱはイモムシに食われっぱなしであるかのように、私たちは考えがちですが、植物も食われないように防御ぼうぎょしているのだということが知られています。樹木の葉っぱは開葉後急速に堅くかた なっていきますが、これは水分量が減っていくためです。同じことは、庭木でも簡単に観察できますが、柔らかいやわ   のは本当にわずかの期間です。また、葉っぱは堅くかた なると同時に窒素ちっそ含有がんゆう量を減らしていきます。窒素ちっそは生物にとって重要な栄養源ですので、このことは葉っぱが昆虫こんちゅうえさとしての価値を急速に下げていくことを意味しています。そして、葉っぱはタンニンに代表される毒物をためるようになります。
 このように、植物が昆虫こんちゅうに食われないように防御ぼうぎょしていることは、生態学者には比較的ひかくてき知られた事実だったのですが、この十五年ほどの間に、もっと積極的に防衛していることが明らかになってきました。それは、植物が葉っぱを植食者にかじられると、植食者の天敵を呼んでいるという事実です。実験がおこなわれたのは、植物と、その大害虫であるナミハダニと、捕食ほしょく者のチリカブリダニの三者関係についてです。ダニにはいろいろなダニがいて、植物食のダニと肉食のダニもいるわけです。
 実験は、Y字型の試験管を用いておこなわれました。捕食ほしょく者であるチリカブリダニを試験管の一つのはしに位置させ、そのまま進むと
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分岐ぶんきにさしかかりどちらかの道(試験管)を選ばざるを得ないという設定です。第一の実験では、分岐ぶんきの一方からは空気、もう一方からはナミハダニのえさとなるリママメという植物の葉っぱの香りかお が流れてくるしくみに設定しました。すると、チリカブリダニは五十四対二十六の割合でリママメの香りかお のほうを選びました。これは、チリカブリダニからするとリママメのあるところ、えさのナミハダニがいるからだと解釈かいしゃくされます。
 第二の実験では、片方にはリママメのかじられていない葉っぱ、もう一方にはナミハダニにかじられたリママメの葉っぱが置かれました。するとチリカブリダニは、今度は五十一対十一の割合でかじられた葉っぱのほうを選んだのです。ここでは、いくつかの可能性が考えられます。そこで、かじられた葉っぱ、ナミハダニそのもの、ナミハダニのふんの三者について、さきと同じY字迷路の実験をおこなったところ、かじられた葉っぱそのものに誘因ゆういん性があることが明らかとなりました。つまりリママメは、ナミハダニにかじられるとチリカブリダニを誘引ゆういんする物質を出していると考えられます。
 以上のことは、「敵の敵は味方」の関係を植物が積極的に利用していることを意味します。植物はまさにだまって食べられているわけではありません。かじられると、植食者の天敵を積極的に呼んで敵を退治してもらっているというわけです。

 (江崎えざき保男著『生態系ってなに?』による。一部省略がある。)
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