題名:★吉川(きつかわ)のパスは(感)
【1】
吉川のパスは蹴った者の意思がのり移ってでもいるかのように、全力疾走中の
宗介の右足に吸い付いてきた。
宗介はただそのボールをエンドラインぎりぎりまで持ち込んでセンターリングを上げればよかった。【2】反対方向から走り込んできたフォワードの連中がへディングなりダイレクトなりでシュートを決めてくれるのだった。
(中略)
秋の都大会では決勝まで進み、延長戦でも決着がつかなかったのでペナルティーキック合戦にまでもつれこみ、結局準優勝に甘んじた。【3】大会中の目立った選手がベストイレブンに選ばれたのだが、やはり優勝チームから選出される者が多く、技術的には優勝チームの同じポジションの選手を上回っていた
吉川は選にもれた。
【4】冬に例年にない走り込みをして、今年こそは優勝を、と団結を強めていたのだが、三年の夏休みを前にした暑い午後、
宗介はコーチの浅野に退部を申し出た。【5】前日、夏休みの練習計画が浅野から発表されたのだが、毎日朝九時から夕方六時まで練習メニューが決められ、休日は一日もなかった。
吉川という天才的な選手を得て、都大会優勝は今年を逃しては当分無理だ、と読んだ浅野の決意の表われた計画表であった。
【6】
宗介の学業成績は、もう少し頑張れば進学校といわれる都立高校に手が届く程度のものだった。ドリブルしながらフェイントをかけるとき、どうにもならない
生来の体の硬さをよく知っていたので、サッカープレイヤーとして一人前になれないことは分かっていた。【7】夏の練習に参加すれば受験勉強ができなくなる。
「退部します。お世話になりました」
すでに練習が始まっている校庭の花壇の前で、トレーニングウエア姿の浅野に向かって
宗介は頭を下げた。
【8】「冗談はよせ」
浅野は首にかけたホイッスルをタバコでもすうように口にくわえた。よく
陽に焼けた狭い額の皺の中から大粒の汗が湧いていた。
「本気です。辞めさせて下さい」∵
【9】チームメイトたちが円陣キックをしながらこちらを注目していたので、
宗介は今度は頭を下げなかった。
「ああやって懸命に練習している仲間を裏切るのか」
【0】浅野は花壇のひまわりの茎をつかんだが、語尾の震えとともに折りとってしまった。
「自分の生き方を自分で決めただけです」
青く高い夏空の下で、中学三年の
宗介はためらうことなく言い切った。
浅野は手にした大輪のひまわりを乾いた地面に叩きつけ、円陣の方に歩み去った。黄色い花びらが
宗介のズボンの裾に散った。
右ウイングの自分が抜けても、実力にほとんど差のない二年生の補欠を補充すれば、チーム全体の力は落ちない。誰にも相談せずに退部を決めた
宗介があくまで個人的な問題なのだと自らを納得させていたのにはこんな状況判断があったからだった。しかし、事態は彼の予想しなかった方向に広がってしまった。
宗介が辞めたのを知った三年生のレギュラーたちが翌日から次々に退部を申し出るようになってしまった。
宗介よりもはるかに成績のよいゴールキーパーの菅井やハーフの堀田までもが受験勉強を理由に辞め、夏休みの前日になって残った三年生のレギュラーは
吉川一人になってしまった。
学校の花形クラブであるサッカー部の三年生の大量退部は職員会議の話題にもなったようだが、理由が受験勉強に専念したい、という
至極まっとうなものだったので、校長や教頭も口をつぐんだままだった。
一学期の終業式を終えて校門を出るところで、
宗介はユニフォーム姿の
吉川に呼び止められた。
吉川は照れたように目を細めながら自転車置場の方に手招きした。
「おれはさあ、頭もよくねえし、板前にでもなっておふくろの店手伝うしかねえんだけど、サッカーやりてえんだ」∵
スレート屋根の下の日陰はひんやりしていた。
吉川はスパイクの裏のアルミピンで柱を蹴りながら下を向いて話していた。
「都大会のベストイレブンになれたら、私立高校のサッカー部に特待生で入れるかと思ってな。おれはさあ、そう思ってサッカーやってきたんだ。板前になる前にサッカーで花咲かしてみたくてな。おれの、夢だな。あの小せえ店に入る前に、夢くらい見たっていいと思ってな」
吉川は下を向いたままいつの間にか泣いていた。乾いた砂の上に落ちる涙は夕立の雨つぶよりも大きかった。
「悪いな」
宗介はもっとこの場に適した言葉を見つけられない自分にいらだった。いっそ殴ってくれたら、このいらだちも解消するのに、と思った。
「いや、いいんだ。ただ、おれのグチも聞いてもらいたくてさ。気にすんな。おまえ、いいウイングだったよ」
吉川は顔を洗うように両手で涙を拭くと、そのまま走って行って新しいチームのシュート練習に加わった。
宗介は砂の上に残る
吉川の涙の跡をしばらく見つめていたが、やがて大きな深呼吸とともに靴で消し、校庭を振り返らずに校門を出た。
(
南木佳士の文章による)